時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌの春(12)

2007年03月31日 | ロレーヌ探訪
  

  リュネヴィルという町が、訪れてみてなんとなく停滞しているのは、18世紀初めに造営された大宮殿が、2003年の火災による被害修復のために閉鎖されていることが大きな原因であることは前回記した。宮殿も外側からは見ることができ、大庭園も入ることはできるのだが、建物内部へ入ることはできない。宮殿の外壁も営繕が十分行き届かず見栄えがしない。観光客の姿もほとんど見かけない。地域活性化の中心がこの状態では、停滞もいたしかたないだろう。薄暮の時に宮殿の前を通ったが、広大な廃墟のように見えて「荒城の月」を思い出してしまった。  

  レオポルド公の時に建てられ、スタニスラス公の時代に拡大、充実したこの宮殿は、18世紀には栄華をきわめた。ヨーロッパ中の王侯、貴族、文人などが集まり、華やかな外交、社交の場であった。パリやナンシーのような都会の華麗さとは異なる静かな森と田園地帯の中に、忽然と現れる大宮殿、庭園は、彼らにとって別世界であったのだろう。庭園に引き込まれた運河には白鳥が遊んでいた。シャンデリアが輝く華麗な宮殿で繰り広げられた宴会、園遊会、舞踏会など、華やかな日々が記録に残っている。  

  リュネヴィルの宮殿については、フランスでも若い世代の人たちはあまり知らないようだ。日本で発行されているガイドブックなどでも、リュネヴィルに触れたものはほとんどない。ナンシーやストラスブルグまで行く人はいても、リュネヴィルまで足を伸ばす人は少ない。今回のリュネヴィル滞在中も、東洋人らしき人には一人も出会わなかった。  

  宮殿内にある旅行案内所も閑散として人気がない。ナンシーなどでは案内所自体が大変立派で、窓口も多く、順番待ちの行列ができていたのと比較すると、なんとも寂しい。もっとも、案内所の女性は大変親切に説明してくれて、ずいぶん得をした気分になった。  

  現在、火災で大被害を受けた宮殿を修復するための事業が行われているが、その一助の意味もあって、リュネヴィルの宮殿生活が栄華を極めた頃の豪華な写真、資料集が刊行されている。それを見ると、18世紀のレオポルド公に始まる栄耀栄華の時代がいかなるものであったかが詳細に記録されている。この忘れられたような宮廷の修復は、ロレーヌの文化遺産保護の観点からも、きわめて重要な事業であることが分かる。  

  しかし、リュネヴィルで聞いた話では資金難で、今のままではとても計画の10年をかけても、修復は出来ないという。火災が起きる前、宮殿には18世紀の素晴らしい内装と絵画、什器などがあった。しかし、火災でかなりのものを失ってしまったようだ。記録を見ると、詳細な設計図、所蔵していた絵画、家具、陶磁器などの写真は残っているが、それらの一部でも復元するのはかなり大変らしい。戦火や災害に耐えて、折角持ちこたえてきた文化財が失火のために失われてしまったのだ。  

  リュネヴィルを訪れて感じたのは、この地が経験したすさまじい苦難の傷跡である。今回の旅のひとつの目標である17世紀以前の町の状況を伝えるものがきわめて少ない。17世紀前半の戦乱と悪疫流行によって、建物、美術品など、当時を伝えるものがほとんどすべて破壊されてしまった。ラトゥールの時代を偲ぶには、わずかに残る遺跡のたぐいから当時の輪郭を推定するしかない。次回にそのいくつかを記してみたい。


 Jacques Charles-Gaffiot (2003). LUNÉVILLE: Fastes du Versailles lorrain. Paris: Éditions Didier CARPENTIER, pp.267
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カブールの燕たち

2007年03月28日 | 書棚の片隅から
 「ロレーヌ再訪の旅」はまだ続く。ここで一寸一休み(?)。表題に惹かれ、旅の途上で気楽にと思ったが、結果はいかに。


カスミナ・カドラ『カブールの燕たち』(香川由利子訳、早川書房、2007年)原著 Yasmina Khadra. Les Hirondelles de Kaboul (Éditions Julliard, 2002).

    打ちのめされるような衝撃。こうした読後感を得る本は、最近少なくなった。その意味で、この作品は久しぶりに大きな衝撃を伴った感動を与えてくれた。たまたま広告を見ていて、近く読んでみたいと思っていた。

  ギメ美術館で「アフガニスタン:発見された財宝」展を見たことも、この本に注目するひとつのきっかけとなった。タリバン圧政下の状況を描いた「カイト・ランナー」の読後感もどこかでつながっていた。 「カイト・ランナー」は、アメリカでは大きな評判になり映画化もされたが、日本ではあまり話題とならない。どうしてだろうかと思っていた。日本とアフガニスタンの距離は、アメリカとアフガニスタンよりも大きいようだ。「カブールの燕たち」は、こうしたことを考えながら近く読んでみようと思っていた時に、折よく日本語訳も出版され、手にすることになった。

  タリバンが支配するアフガニスタン、カブールの物質的、精神的に荒廃した風土の中に日々を送る人々を、二組の夫婦の厳しい生活を通して鋭く描いている。タリバンの下では、かつて市民の大きな憩いと楽しみであった凧揚げも神への冒涜として禁止されている。人々は公開処刑を鬱積した日々の気持ちのはけ口としている。時代の歯車がはるか昔へと逆転した感もある。

  一組の夫婦、夫のアティック・シャウカトは、公開処刑される女囚の拘置所の看守。その妻ムサラトは、今不治の病に冒されている。もう一組の夫婦の夫、モフセンはブルジョア出身の司法官、妻ズナイラ・ラマトは名家の出で同じく司法官で女性解放のために努力してきた。今は夫婦二人とも失職している。かつては、絵に描いたようなエリートだった。

  カブールは、人間社会として崩壊寸前の段階として描かれている。すさまじい荒涼たる光景だが、わずかにそれを救っているのは、二組の夫婦の精神を支えている一筋のヒューマニズムと個人的な選択の有りようだろうか。イスラム社会の精神風土は、多くの日本人にとっては、西欧社会よりもはるかに遠い存在であり、ほとんど理解されていない。

  カスミナ・カドラは、余計な粉飾を極限まで省いて現代のカブールを描いている。その試みは見事に成功を収めているといえよう。極限の中に生きる人々と、日々つのってゆく荒廃の姿が圧倒的な迫力をもって描かれている。第二次大戦の記憶は急速に風化しているが、かつてはわれわれも経験したものだ。

  アフガニスタンは、ソ連との長い戦争と内戦を通して物心共に崩壊の道を歩んできた。その後、タリバンの圧政下で市民としての普通の生活までも奪われてしまった。今やわずかな楽しみと思われる散歩や音楽を聴くことすらできない。モフセンとズマイラの夫婦の人生が暗転するきっかけも、そこにあった。荒涼たる瓦礫と砂塵の世界は、市民の心象世界でもある。著者ヤスミナ・カドラもこうした光景の一人物といえるかもしれない。

  著者はヤスミナという女性名で作品を発表していた。ところが、実は男性であり、アルジェリア軍の上級将校であった。その後、彼はフランスに亡命する。 ストーリーを記すことはあえて避ける。「燕たち」の意味も読んでみて始めて分かった。オルハン・パムクの「白い城」のカミュ的世界にもつながるものも感じる。

  イスラム世界の実像、精神的風土、そしてその中に生きる夫婦愛という多くの日本人には想像の域を超えると思われる世界を、著者は理解しうる表現で描き出している。しかし、それは壮絶ともいうべき心象風景である。次第に極限状態に追い込まれて行く人々にとって、残された選択の道はなになのか。われわれが住む日本とは、対極ともいうべき世界に生きる人々にとって、なにを示唆するものだろうか。 終局に近づくにつれて結末が予想されてしまうという作品上の問題はあるものの、これだけの大きなテーマを凝縮した形で描ききった著者の力量は、敬服以外のなにものでもない。
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ロレーヌの春(11)

2007年03月26日 | ロレーヌ探訪


「プチ・ヴェルサイユ」があるリュネヴィル  

  今回のロレーヌの旅で、リュネヴィルはヴィック=シュル=セイユとともに、時間をかけてみたいと思った場所のひとつだった。ラ・トゥールが画家として生涯の最も重要な時期を過ごした所である。妻であるディアヌ・ネールが生まれ育った土地でもある。  

  彼らがその生涯を過ごした17世紀、ロレーヌの政治地理的状況は、きわめて複雑であった。当時のロレーヌ公国の全域を海にたとえるならば、そこにメッス司教区、トゥール司教区、ヴェルダン司教区という異なった司教が管轄する政治地域が、あたかも島のように複雑に存在していた。ジョルジュが生まれ育ったヴィック=シュル=セイユはメッス司教区の「飛び地領」に、妻となったネ-ルの生まれ育ったリュネヴィルは、ロレーヌ公の政治管轄下にあった。  

  ヴィックとリュネヴィルが実際にどのくらい離れており、いかなる状況にあったのかを、現代の目で見てみたいと思った。驚いたことに両地間の距離は、直線では30キロメートルくらいしかない。大変近いのである。そして、ヴィック、リュネヴィル、ナンシーはいわば三角形の頂点のように、ほぼ等距離に位置している。

  ラトゥールは、結婚後の1620年から没年の1652年まで、パリなどへ一時移動していた時期を除くと、多くの時間をリュネヴィルの工房で過ごしたとみられる



           
 
  リュネヴィルの唯一最大の見所は、18世紀最初にロレーヌ公国のレオポルド公がジャーマイン・ボフランに委嘱し、ヴェルサイユを模して造営した宮殿である。レオポルド公はルイXIV世の大の信奉者であった。実は、リュネヴィルでは、これに先だって1612年頃に、アンリII世による城の構築が行われていたが、その後30年戦争の戦乱によって、跡形もなく破壊されてしまった。従って、今日残る大宮殿はレオポルド公が当初企図し、その後拡大されたものである。 

  宮殿は一見して、プチ・ヴェルサイユと分かる。町の宣伝文句も「ロレーヌのヴェルサイユ」である。レオポルド公は派手好みで、ダンス、ギャンブル、劇、狩猟などが好きだったこともあって、この宮殿は当時のロレーヌ公国貴族層の社交場となった。その後、公国最後の王スタニスラス公も好んで滞在し、宮殿の装飾、庭園の充実を行った。ヴォルテール、モンテスキュー、ヘルヴェチウスなども滞在したらしい。正面の銅像は、ロレーヌ公かと思ったら、ワグラムの闘いで戦死したラサール元帥の像だった。

            

  大変残念なことは、2003年の1月にこの宮殿で火災が発生し、折からの強風にあおられて宮殿が保有してきた貴重な収集品の多くを失ったことである。その後、最低でも10年はかかるといわれる修復作業を行っているが、今回訪れた時点では、これもヴェルサイユを模した教会堂部分がようやく修復が終わったところであった。写真でも分かるように、大火災の傷跡が痛々しく残る宮殿は、その背後に広大な庭園が展開しているが、やや荒れていて往時の華麗さが薄れているのが残念である。


          
            Photo Y.Kuwahara

  ジョルジュが生まれ育ったヴィック=シュル=セイユと比較すると、訪れてみた印象はあまり活気が感じられない。町の中心にある宮殿は壮大なのだが、修復中で人影がないこともひとつの原因のようだ。リュネヴィルの現在の人口は約2万人で、ヴィックよりはかなり大きい。ラ・トゥールの時代は、ヴィックの方が繁栄していたようだ。

  リュネヴィル市としては、10年計画で大火によって焼失、損傷した宮殿の修復工事を行っているが、資金難もあって遅々として進まない。ヴィック=シュル=セイユと同様にラ・トゥールを観光、活性化の目玉のひとつとしているが、頼みの作品や資料なども散逸しており、めぼしいものがない。リュネヴィルは17世紀、30年戦争などの主戦場となったこともあって、荒廃がすさまじかった。そのためもあって、ラ・トゥールの時代を偲ばせる跡がきわめて少ない。いくつかの周辺情報から往時を推察するしかない。この点、美術館を作ったヴィックの方が先を行っている。   

  今日残っている1630年代のリュネヴィルの市街図を見ると、河川と城郭でしっかりと守られた町であった。レオポルド公が造営し、現在に残る大宮殿ほどではないにせよ、かなり立派な宮殿があったものと思われる。今に残る宮殿生活の銅板画などを見ていると、盛時の栄華をしのぶことはできる。すっかり色あせて荒れ果てている宮殿を前に、しばしロレーヌ公国栄華盛衰の歴史をしのんだ。

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ロレーヌの春(10)

2007年03月23日 | ロレーヌ探訪

Photo Y.Kuwahara  

  ナンシーの奥深さと多様さを楽しんでいる時に、ひとつ面白いことに出会った。「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」の名前を校名として使っている立派な
中学・高等学校 Collège et Lycée George de La Tour がこの地に存在することを偶然に知った。週末のため学校自体はお休みであったが、大変立派な校舎だった。子供たちがサッカーの練習をしていた。

  さらに興味深いことに、メッスにも同様にラ・トゥールの名前を校名に使用している中学校があるとのこと。画家の名前がついた街路は、この地方には他にもあるらしい。ラ・トゥールという画家が、今日ではロレーヌの人々の心に深く浸透していることを改めて認識する。

  この学校に在学する生徒、教職員、父兄などの関係者は、郷土が生んだこの世界的な画家が校名である母校をきっと大きな誇りとしているに違いない。校舎の壁にもあのラ・トゥールの不思議な顔の人物像が大きく描かれている。ロレーヌの人々には、どこかで自分たちと血のつながっているなじみのある顔立ちなのだろう。

  教育改革論議が盛んな日本だが、「教育委員会を改革せよ」、「校長の権限を強化せよ」、「週休2日を見直せ」、などの提案はあっても、生徒や教職員、父兄などが揃って学校に自信と誇りを持てるような提案は少ない。教育の本質にかかわる問題は傍らに置かれてしまって、相変わらずの効率重視、形だけの改革論議が多い。この風土からは、ロレーヌにあるような発想は逆立ちしても出てこない。「葛飾北斎中等学区」、「横山大観中等学校」、
「宮沢賢治高等学校」を創るようなものだが、おそらく発想の素地がまったく異なっているのだろう。

  謎の多いラ・トゥールについてはっきりしていることは、17世紀の美術史に燦然と輝くこの画家が、生涯のほとんどの年月をロレーヌで過ごしたということである。今日ではフランスの一部となっているが、当時はフランス王国からは政治的に独立した「ロレーヌ公国」であった。

  同時代に活躍した多くの画家が、ローマやパリでの活動を通して自らの名声を高めたのと比較して、ラ・トゥールは生涯のほとんどを決して恵まれた環境とは言い切れないロレーヌで過ごした。ラ・トゥールがパリの王室画家として一時期を送ったことは確認されているが、若い修業時代には、イタリアあるいはオランダなどで過ごした可能性も否定できない。しかし、この希有な画家にとって、ロレーヌは特別の重みがあった。郷土がいかに戦火や疫病の舞台となろうとも、平穏さが戻るとリュネヴィルへ戻っていた。

  画家が、ヴィックやリュネヴィルで活動を行っていた間でも、ロレーヌの文化的中心地ナンシーやメッスの存在は大きかった。とりわけ、ロレーヌ公の宮殿が置かれたナンシーは、リュネヴィルにも大変近く、文化的にもさまざまな影響力を発揮したと思われる。道路事情などは今日のように整備されたものとは程遠い状態であったが、優れた馬の乗り手であったといわれるラ・トゥールには、ナンシーは遠い場所ではなかった。

  史料の上では十分確認はされていないのだが、もしかすると、彼はナンシーで自らの徒弟としての修業を行ったのかもしれない。リュネヴィルへ移る前にも、ナンシーで仕事をすることを考えた可能性もある。400年前、この画家はどこでなにをしていたのだろうか。歴史の闇の中に埋もれてしまったことだが、思いはさまざまなことに波及する。妄想に近いかもしれない。

  いずれにせよ、目前の現実の前に、ひとりの画家が与える文化的影響、社会的受け取り方の重みを改めて感じる。長い間忘れ去られた画家が20世紀の初めに再発見された後、こうした形で社会的評価がなされていることに驚かされる。芸術が人々の日常の中にしっかりと生きていることを。

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ロレーヌの春(9)

2007年03月20日 | ロレーヌ探訪


Photo Y.Kuwahara  

    ナンシーは踏み込んでみると、予想以上に濃淡・陰翳のある町であった。旧市街と新市街の全域にわたってさまざまな見所が散りばめられている。楽しんで見ていると、いくら時間があっても足りなくなる。大部分の観光客のお目当ては、エミール・ガレなど、アール・ヌーヴォーの作品をたずねることにあるようだが、それ以外にも魅力的な場所が多い。その中でかねて期待していた場所のひとつが、「ロレーヌ歴史博物館」Musee Historique Lorrain である。ここも日本人観光客はあまり見かけない。  

  スタニスラス広場を横切り、美しい並木道を通ってゆく。この並木道は樹齢を重ねた巨木が多く、素晴らしい景観を作っている。市民がさまざまに散策を楽しんでいる。子供たちや犬が芝生を駆け回っている。  歴史博物館はかつてのロレーヌ公の宮殿 Palais Ducalの一部である。

  壮大なゴシックの大聖堂などがひと目をひくメッスなどと比較して、ナンシーには15世紀以前の建物で目立つものは少ない。今に残る町づくりは、16世紀以降、ロレーヌ公の宮廷社会の繁栄に伴って進められてきたといえるだろう。  

  さらに、17世紀に入ると、ナンシーとその宮廷世界は、当時のヨーロッパでも最高レヴェルの文化的内容を誇るまでになった。いうまでもなく、ロレーヌにおける芸術活動の中心であった。カロ、ベランジェ、デルエ、ラトゥールなど、きら星のごとき芸術家をロレーヌは輩出した。その多くは、イタリア、パリなどを活動の本拠としたが、彼らのロレーヌ文化興隆への貢献の大きさは計り知れない。ラ・トゥールのように、ロレーヌで生涯のほとんどを過ごした画家が少ないが、彼らにとってはロレーヌの重みはきわめて大きかったはずである。  

  しかし、こうした芸術活動と政治的苦境・破壊とのコントラストも激しかった。ロレーヌ公国は、絶えずその主権を神聖ローマ帝国、フランス王国など、周辺の列強大国によって脅かされてきた。1618年から48年にかけては30年戦争の戦場となり、1635年から37年にかけては、ヨーロッパをおそったペストの流行に苦しみ、人口も減少した。1633年には、フランスがナンシーを占拠するにいたった。フランスは、1697年にはリスウイックの協定でそれを決定的なものとした。  

  こうした中で、ナンシーが再び光彩を取り戻すのは、18世紀に入ってのことであった。ロレーヌ公国最後の王であったスタニスラス・レスジンスキーの統治下である。公の娘がルイ15世の妃となり、1766年に公が没するとともにフランス王国に統合されていくまでの時代である。



  ロレーヌ公宮殿の原型となったのは、16世紀初めにアントワーヌ公の統治下に造営された建物である。当時の栄華の姿はさまざまに記録されている。その後1792年、宮殿は略奪、破壊の対象となったが、1852年にかなりの程度修復された。とりわけ、宮殿北側部分は大幅に修復された。

 
Jacques Callot. The Gardens of Ducal Palace in Nancy, c.1625, etching

  ファサードは華麗なゴシックとイタリアン・ルネッサンス・スタイルを併せたものとなっている。騎馬姿のアントワーヌ公のレリーフが修復され、ニッチェに収められた。1階には、3つのバルコニーが華麗な欄干とともに彫刻の美しい梁材で支えられている。1937年にロレーヌ歴史博物館として活用することが決まるまでは、さまざまなことがあったようだ。しかし、今はところを得て内容も素晴らしい博物館となっている。この建物、近くで見ても美しいが、少し離れて見る尖塔も素晴らしい。

         

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ロレーヌの春(8)

2007年03月18日 | ロレーヌ探訪


Photo Y.K.



  この絵にナンシー市立美術館の片隅で出会った時、一瞬目を疑った。作品の中の壁に掲げられているのは、あの「生誕」 である。見ている場所が他ならぬロレーヌの中心、ナンシーということもあって、しばらく考え込んでしまった。  

  ナンシーを訪れるのは、今回で2度目である。大変美しい魅力に溢れた都市である。しかし、前回訪れた時は、スタニスラス広場、エミール・ガレの作品など、その華麗さに目を奪われたこともあって、都市の歴史的背景などにはあまり興味を惹かれなかった。アール・ヌーボーの花開いた、この都市の絢爛、華美な側面に圧倒されたからかもしれない。

  今回は印象がかなり異なった。ナンシーのたどった歴史についての知識と理解が、格段に深まっていたことが大きな原因のようだ。興味を惹く対象があまりに多かった。この町を訪れる多くの人にとって、最大の目標であるアール・ヌーボー美術の印象については、ここに記すにはとても多すぎ、別の機会に触れることにしたい。

  たまたま宿泊したホテルは、スタニスラス広場に面し、かつてマリー・アントワネットがお興し入れの途中で宿泊したという。今話題となっている映画「マリー・アントワネット」のことと併せて、思わぬ因縁に不思議な気がした。スタニスラス広場に面したこのホテルは、建物自体が広場の一角を占め、1883年以来世界遺産の指定対象になっていた。ホテルはかなり老朽化しているが、当時の華麗さをしのばせるたたずまいをとどめている。内部設備は古くても十分整備されていて、問題はない。シーズンオフで宿泊客も少ないこともあって、スタッフの対応も行き届いている。なにより立地が素晴らしい。広場は夕方からイルミネーションが施され、昼とは違った美しさをみせる。それでいて、パリのホテルよりはるかに安い宿泊料であった。

 

 La Place Stanislas, Photo Y.Kuwahara

 ナンシーは現在人口約33万人の都市で、かつてはロレーヌ公国の首都であった。今日でも18世紀の都市のエレガントな雰囲気を伝えている。旧市街と新市街に分かれるが、見所が広い範囲に分散していて、計画的に歩かないとかなり疲れる。

  ロレーヌ公の宮殿は、フランス革命の折にかなり破壊され、当時の4分の1程度が残るのみである。現在は、その中心部が「ロレーヌ歴史博物館」 Muséee historique lorrain となっている。この博物館は16世紀から18世紀中頃までの美術品を中心に、タピストリーなどを含めて素晴らしい展示内容だった。東京展のポスターでおなじみの「蚤をとる女」など、ラトゥールの作品も展示されている。とりわけ、興味深かったのは中世から16世紀までのロレーヌの歴史に関する展示物であった。日本人観光客は、ほとんどエミール・ガレなどのアール・ヌーボーの作品が展示されている「ナンシー派美術館」などへ行ってしまうようである。広場の新装なった、これもなかなか素晴らしい「ナンシー市立美術館」と併せて、お勧めである。その日、館内で出会った観客はどちらも10人程度であった。

  ナンシーがたどった激動の歴史は、アルザス・ロレーヌのそれとともに、複雑きわまりないものだった。その残光ともいえるロレーヌ公国最後の王であったスタニスラス Stanislas Leszczynskiの名は、この華麗な広場の名として残っている。

* ポーランド継承戦争の戦後処理として、正確には1735年、ウイーン予備条約で領土再編が図られ、平和が回復した。スタニスラスはそれまでの王号は認められるが、以後ポーランド王位は放棄し、ロレーヌ公国とバール公国を与えられた。しかし、これらの領土はスタニスラス一代限りで、死後はフランス王に返還することになった。

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ロレーヌの春(7)

2007年03月15日 | ロレーヌ探訪

 スタニスラス広場 Photo Y.Kuwahara 


  アルザス・ロレーヌという地域は、立ち入ってみると不思議な魅力を持っている。今日ではフランスの領土になっているが、過去の歴史においては文字通り激動の渦中に置かれ、神聖ローマ帝国、フランス、ドイツなど大国の狭間で、しばしば領土争奪の対象となり、激戦の最前線となって、美しい町や村々が略奪、破壊の場と化すといった悲劇も繰り返し経験してきた。

  ラトゥールの研究者テュイリエが記しているように、ロレーヌの風土とそこに住む人々の心情を理解しないかぎり、この画家の作品を理解できないというのはその通りだと思う。ラトゥールの17世紀、このロレーヌ公国(1555-1766)に住んだ人たちは、フランス語を話しながらも、フランスではない「国」への意識を大変強く持っていた。ロレーヌ人として生きるという意識は、ロレーヌ公への忠誠心よりはるかに強かったといわれる。

  ロレーヌ人の複雑な精神状況は、この地の風土に固有な特徴と陰影を加えた。ロレーヌの中心的な都市であるメッスとナンシーを比較しても、距離にしてはさほど離れていないのに、大きな違いが見て取れる。   

  ロレーヌに生まれ、生涯のほとんどをこの地で過ごしたラトゥールの作品は、フランス絵画とは異なった風土の中から生まれた。とりわけ、この画家の晩年は30年戦争(1618-48年)の時期と重なる。戦争はハプスブルグ・ブルボン両家の国際的敵対とドイツ新旧両教徒諸侯間の反目を背景にして、皇帝の旧教化政策を起因としてボヘミアに勃発した。新教国デンマーク、スウエーデン、後には旧教国フランスも参戦し、ウエストファリア条約の締結で終了するまで続いた。当時の戦争は、今日とは違い軍需品・物量支援などの国力の問題もあって、開戦後絶え間なく戦火が交叉するという状況では必ずしもなかったが、戦場となった地域の荒廃と不安は住民にとって計り知れない大きなものであった。

  この当時、すでに画家として名声を確立していたラトゥールは、さまざまな情報にも通じ、1637-38年など記録がない時期には、ナンシーなどへ家族と避難していたのではないかと思われる。特に、フランス軍がリュネヴィルを攻撃し、火を放って略奪のかぎりを尽くした1938年などには、この地を離れ難を逃れていたことは間違いない。リュネヴィルとナンシーの間は、当時の道路事情などを考慮しても、騎馬などの助けを借りれば1日で避難できたのではないかと思われる。逃れる場所のない農民と違って、ラトゥールのような上流階層の人間にとっては、ナンシーにもさまざまな避難をする上での伝手があっただろう。

  ナンシーは、ロレーヌ公国の首都として、16世紀後半から新たな宮殿も造られ、新市内も整備された。宗教的にも重要な役割を担い、教会、修道院なども多数建設された。30年戦争は、その発展を著しく妨げ、荒廃も進めたが、平和が戻った後にはレオポルド公の下で復興、充実が進んだ。現在世界遺産として残るスタニスラス広場の華麗な建造物などは、18世紀に入り、スタニスラス王の統治下によるものが多い。
 

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ロレーヌの春(6)

2007年03月13日 | ロレーヌ探訪



    ロレーヌの北部は、見渡す限りなだらかな丘の起伏が続く。美しい並木が連なる間を、整備された自動車道路が抜けて行く。葡萄畑の中を小さな川が流れて行く。時々、少し雨が降るが、すぐに晴れて雲間から日が射し、森と平原を光と影に塗り分ける。葡萄畑はきれいに剪定されて、なだらかな起伏の丘に広がっている。

  今回の旅ではパリからメッス経由、ナンシーを起点に、ヴィック=シュル=セイユ、マルサル、ノメニー、ポン・タ・ムッソン、リュネヴィル、エピナル、シャテル、トゥールと、ロレーヌの中心部をめぐった。フランス人でもよく知らない小さな町や村が多い。広々とした草原、農耕地、森が連なり、時には数百年も昔から続くのではないかと思われる鬱蒼とした森がこうした小さな集落を守るように覆っている。人の手が入ったものとしては、自動車道路、高圧電線の鉄塔、時々見かける風力発電の風車などである。

  しかし、この地ほど幾度となく激しく戦火が交わされた地域も少ない。戦車、大砲、トーチカ、慰霊碑など、大戦の傷跡を残す村々も多い。ヴェルダンの近くのように、コンクリートで固めつくしたトーチカ、塹壕、砲台など、撤去することをあきらめたかのように、放置してある光景もかなり目につく。メッツの北東フォルト・カッソの要塞を訪れたことがあったが、戦争のためにはこんなものまで構築したのかというすさまじい要害であった。

  ナンシーやメスのように、観光客も多い町を除けば、ヴィック=シュル=セイユのように、レンガ色の屋根の古い家があっても、しんと静まりかえっている村や町もある。17世紀以来、あまり変わらないのではないかと思われる光景である。町の中を歩いていると、あの絵に出てくるような顔をしたロレーヌの人々が現れてくる。サン・マリアン教会ではパイプオルガンが鳴っていた。人々は毎日、淡々とその日の日課をこなしているかのようだ。絵と現実を錯覚しかねないような光景がそこにある。今年の夏にはTGVが開通し、現在では3時間近くを要するパリ・ナンシー間の鉄道も、半分くらいに短縮されるとのこと。この忘れ去られたような地方を訪れることもずいぶん楽になるだろう。

  ポン・タ・ムッソン Pont-à-Mousson も小さな町のひとつである。ここはラトゥールの時代、1572年に、カトリック宗教改革の拠点のひとつとして、ジェスイットの大学が設置された。プロテスタントからの攻勢に、理論的対抗を図るためであった。ラトゥールの理解のためには、17世紀のロレーヌにおける宗教的背景についての理解が欠かせないことは、多くの研究者によって強調されてきた。この地域も幾たびか戦火の下にあったが、破壊を免れた教会、修道院などが修復されて、残っている。

 

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パリ:行列のできる展覧会(2)

2007年03月11日 | 絵のある部屋



  オランジェリーの特別展は終了したが、パリにはもうひとつ長い行列ができる展覧会が開かれていた。国立アジア美術館(通称ギメ美術館)が開催している「アフガニスタン:再発見されたカブール国立博物館の秘宝」という特別展*である。2002年に開催され、高い評価を得た「アフガニスタン:1000年の物語」を受けての特別展示である。

  こちらは4月末までの会期だが、平日でもえんえん長蛇の列である。このギメ美術館は特別の思いがある場所だ。かつて、仕事でパリに長期に滞在していた頃、この美術館のあるイエナ広場、美術館と道を隔ててほとんど直前にあったホテルに、次の住居が決まるまでかなり長く滞在していた。いつもギメ美術館を見下ろして、催事の垂れ幕や案内を眺めていた。暇ができると道を渡って見に行っていた。1分で美術館という環境だった。特に入口を入ったところに設けられていたクメール美術の展示が抜群にすばらしかった。日本の仏像とも異なる穏やかな彫像を眺めていると、騒がしい俗界からはまったく別の世界にいるような感じを受けた。それまでほとんど知ることがなかったクメール美術への理解と、その文化を生みだした人たちへの尊敬の念が生まれ育っていた。このあたりの景観は今もほとんど変わっていないが、当のホテルはオフィスとアパートに変わってしまっている。

  今回のギメの特別展は、平日なのに入館するまで約1時間近い行列であった。ここは、日本人観光客はきわめて少ない。ルーヴル、オルセー、オランジェリーなどの西洋美術の展示へ行ってしまうからだろう。この長い待ち時間をじっと耐えて待つ人々の背後には、展示内容の素晴らしさがすでにさまざまに伝わっていることに加えて、アフガニスタンが今日直面しているきわめて困難な状況への思いがあることはいうまでもない。長い列に並んでいる間、このブログでも話題とした「カイト・ランナー」のカブールの情景が眼に浮かんできた。

  もうひとつ驚いたのは、入館後も参観者の数を厳しく制限していることであった。受付から最初の展示品を目にするまで30分近くかかっただろうか。その意味はすぐ分かった。

  展示の前半に素晴らしい出品のオンパレードがあった。そのかなりのものは、豪華絢爛たる金銀、ラピスラズリなど貴石を散りばめた装飾品である。文字通り目を奪われる品々が、ウインドウ内に展示されている。観客は吸いつけられたように動かなくなる。特に発掘された高貴な人々たちが身につけていたまばゆいばかりの装飾品の豪華さは想像を超えた。これらを前にすると、とりわけ女性は磁石にひきつけられたように動けなくなってしまうようだ。皆、待ち時間の長さを忘れて見入っている。すごい迫力を持った出土品の数々である。1メートル進むのに5分くらいかかった。

  出土品は、アフガニスタンの1000年の歴史を象徴するかのような光彩を放つ財宝の数々である。今回の展示品は、220点近くに及ぶといわれる。フロル Fulol, アイ・カノウム Aï-Khanoum, ティラ・テペ Tillia-Tepe ベグラム Begramの4ヵ所から発掘された品々である。出土品は想像していた以上に豪華で、われわれがあまりよく知らない中央アジアから北インドにわたるアフガニスタンの王朝の栄華の歴史を物語っている。青銅器時代からクシャン王朝 Kushan Empireまでの歴史をカヴァーしている。

    アフガニスタン文化は多様な文化の影響を受けてきた。イラン、中近東、インド、中国、そしてヘレニスティックな文化を取り入れてきた。そのために、東西文明を取り結ぶような強い力がある。出品された品々をひと目みるだけで、この地が東西文明を広く取り入れ、その十字路にあったことが直ちに分かる。

  カブール国立博物館がフランス、日本などの協力を得て発掘、収集してきた貴重な出土品だが、そのありようが安泰とはほど遠いものであることを歴史は物語ってきた。今回の展示品の中には、度重なる戦火の中で、焼失、略奪などでほとんどが失われたといわれたカブール国立博物館の所蔵品のいわば精華とも言うべきわずかな品々が、博物館員などの良心と努力で、密かに隠匿されてきたものが、含まれている。アフガニスタンの現状に鑑みると、その将来は決して楽観できない。そのためにも、この貴重な人類の財産を確実に次の世代へと継承して行く上で、こうした特別展は大きな意味を持つと痛感した。

 

*
Afghanistan, rediscovered treasures, Collections from the national museum of Kabul 6th December 2006 – 30th April 2007

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ロレーヌの春(5)

2007年03月09日 | ロレーヌ探訪
  ヴィックからメッスへ向かって北上して行くと、次第に見たような光景が眼前に広がってきた。かつて訪れた土地の記憶の断片がここでもよみがえってくる。この時期、ロレーヌの天候は大変変わりやすいという。確かに30分くらいの間隔で晴れたり、曇ったりしている。しかし、視野は広大で爽やかな感じがする。とりわけ、雲間から射してくる日の光は美しい。今年は野猪や鹿が自動車道路に出てくることが多いとのこと。途中で狩りをしている光景にも出会った。この地の人々にとっては、美味な食材であって楽しみでもあるようだ。




  ヴィックの近くのマルサール Marsalには、セイユ川の渓谷地帯の岩塩坑(池)での採掘状態を展示する小さな博物館もある。ここはあの築城家ヴォーバンが設計した城郭地帯の一角である。あたりには深い森に囲まれた美しい自然公園が広がっている。



  ロレーヌの自動車道路はよく整備されているが、みわたすかぎり自然が残されている。脈々と続く丘のいたるところに、ほとんど人の手が入っていないような深い森が残されている。



  メッスはナンシーと並び、ロレーヌの重要な拠点都市である。現在の人口は20万人近い。ブルボン王朝が支配したフランスとは異なり、地理的にドイツに近く、北方文化の影響を強く受けている。これはドイツの都市だということは、かつて訪れた時の第一印象であった。郊外のレストランで友人がウエイトレスにドイツ語で注文しているのを聞きながら、ドイツ語文化圏なのだという認識が残っている。メスには司教座が置かれていた。今に残る教会などを見ると、ゲルマン的ゴシックの伝統が脈々と流れていることを強く感じる。






  一時期はパリの王室画家などで過ごしたとはいえ、ラ・トゥールは、その生涯のほとんどをこのロレーヌの地で過ごした。その精神的基底にはゲルマン的、ゴシック的なものがしっかりと根付いている。ロレーヌという地域の文化的・精神的状況を理解するには、深い洞察力が必要なことを認識させられる。



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パリ:行列のできる展覧会

2007年03月06日 | 絵のある部屋


  パリにはいくつの美術館があるのか正確には知らないが、平日でも行列のできる所は稀である。世界中から観光客が押し寄せるあのルーヴル、オルセー美術館でも、よほどの特別展でもないかぎり、平日の入館に30分以上も並ぶということはない。

  この2月から3月にかけて、1時間近い入館待ちだった二つの美術展がある。ひとつはこのブログでも話題としてきた「オランジェリー、1934年:現実の画家たち」であり、本日で閉幕である。もうひとつは東洋美術の国立ギメ美術館で開催されている「アフガニスタン秘宝展」 Afghanistan: les trésors retrouuvés である。それぞれ期待にたがわぬ素晴らしい展示であった。後者については改めて書くことにする。

  「オランジェリー」展は30分から1時間待ちであった。春とはいえ、寒風が吹きすさぶ屋外に延々長蛇の列が見られた。この美術館は内部はすっかり改装され、モネの「睡蓮」の大展示室の完成もあって、モネ好きの日本人に大変人気の場所である。しかし、ほとんどの日本人観光客はモネがお目当てであり、特別展が長い行列の原因であることを知らないようだった。「モネって人気があるのね」という会話が頻繁に聞かれた。

  しかし、会期の間、パリ市内にはいたるところに、ジョルジュ・ド・ラトゥールの「天使と聖ヨゼフ」とレネ・マグリッテのローソクとトルソをテーマとした「オランジェリー、1934年:現実の画家たち」特別展のポスターが掲げられていた。サンジェルマン・デプレ界隈の著名書店でも、分厚いカタログが平積みになって関心を集めていた。

  フランスの美術館は、フラッシュを使わないことと、他の観覧者の鑑賞を妨げないかぎり、館内の撮影も認めるという寛容な所が多いが、この特別展は撮影禁止である。 特別展の入り口を入った所に、1934年の展示を3D再現した映像が上映されていた。1934年展示当時の再現をかなり強く意識した今回の特別展である。その反対側には、34年展の際の企画のプロセス、募金、コメントなどを示す多数の書簡や資料まで展示されていて興味深かった。しかし、この特別展の設定意義、前評判を知って来館していた人たちがどれだけいただろうか。この導入部を興味深く見ていたのは、フランス人でも全般に年齢の高い層の人々であった。多くの入館者は、すぐに作品の方に流れていたのは、「1934年展」の再評価にテーマ設定を行った主催者にとっては残念なことだったろう。

  しかし、展示作品はさすがに素晴らしい第一級品が並んでいた。ジョルジュ・ド・ラトゥールやル・ナン兄弟の「発見」の契機となったといわれる「1934年展」の再生の意図は十分に達成されていた。ラトゥールの作品は何度となく対面しているが、とりわけエピナルの「妻に嘲笑されるヨブ」Job raillé par sa femme、ストックホルムの「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」Saint Jerôme pénitent など、比較的訪れる機会の少ない美術館からの出展は有り難かった。しかも十分に細部まで見ることが出来て、大変充足感は高かった。ニコラ・プッサンの「自画像」Portrait de l'artiste などが、部屋の出口にさりげなく掲げられていたりして、主催者の心配りを感じた。

  ル・ナン兄弟の作品も、その後の研究の成果も付け加えられ、大変興味深い。この画家には、ラトゥールとは別の関心を抱いて注目してきたので、楽しんで見ることができた。「農民画家」と言われてきた彼らが、作品に意図したものはなんであったのか。誰が注文主であり、なにを描こうとしたものか。「労働」、「市民」という観点からみると、この画家には新たな興味が生まれる。

  この「2006-07」年展については、今後さまざまな論評もなされるだろう。多くのことを考えさせる素晴らしい展示であったと思う。それらの点については、いずれ記すこともあるだろう。今はただこの歴史的な展示に接し得た幸運の余韻を味わいたい。


Photo: Y.Kuwahara

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ロレーヌの春(4)

2007年03月05日 | ロレーヌ探訪
ヴィック=シュル=セイユには、17世紀当時の町並みを偲ばせる部分が多く残されている。



ラ・トゥール美術館の完成などで、町は整備されてかなり活性化した。以前訪れた時より格段にきれいになっていた。




ジョルジュが洗礼を受けたサン・マリアン教会(12-15世紀建造)も、ほとんど当時のままに残っている。


壁面の美しいレリーフ(tympanum)、教会にゆかりの隠者サン・マリアンの
伝説。1308年



Photo: Y.Kuwahara
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ロレーヌの春(3)

2007年03月03日 | ロレーヌ探訪

Hôtel (Maison) de la Monnaie (1456), Vic-sur-Seille.
Photo: Y.Kuwahara


    ラトゥールの生まれ育ったロレーヌ地方、ヴィック=シュル=セイユの町は、現在のフランス北東部、モーゼル県に位置するが、13-17世紀にかけては、メス司教区(Bishopric)の下にあり、実際の統治行政に当たる出先機関が置かれていた。今日でも中世以来の町並みが残っている人口1570人くらいの小さな静かな町である。盛期には、人口もこの数倍はあったのだろう。メス、ナンシー、ストラスブール、ザールブルッケンなどにも十分、一日内に騎馬で行ける距離にある。

  ヴィックは13世紀ころから発展を続け、17世紀前半に文化的にも最盛期を迎えた。司教区にあっては、重要な防衛上の拠点のひとつでもあった。当時の繁栄を支えていたのは、この地域に多い岩塩鉱とワイン生産であった。近くに岩塩生産の歴史を語る展示館が残されている。また、ワインについては、一時期すっかり衰退してしまったが、過去15年くらいの間に、復活してきた。そして、いまや天才画家ジョルジュ・ド・ラトゥールの生まれ育った町として知られるようになった。この画家は1593年3月にこの町に生まれた。町としても繁栄の盛りであった。しかし、その後は画家と作品が長らく歴史の中に忘れ去られたように、この町も静かな小さな町にとどまってきた。町中を歩いてみても、人影も少ない。

  町はなだらかな丘陵の合間に位置しており、町をセイユ川が横切って流れている。春の雪解けで増水し、溢れるばかりであった。丘の高みからみると、教会の高い尖塔が目立つ。17世紀頃もほとんど同様な景観であったろうと思われる。13世紀頃から城郭が町を囲んでおり、今でもメスの司教区のために建てられた城壁の一部分が残っている。東西南北、それぞれ600メートルから1キロほどの小さな町なので、どこでも容易に見に行けるのだが、ちょうど修復中で足場がかかっていた。パリなどの大都市からも遠く離れ、現代世界の主流からは取り残されたような小さな町ではあるが、歴史的遺産の修復・継承などの仕事も着実に進められている。

  美術館のあるジャンヌ・ダルク広場は、町の中心に位置しており、そのすぐ近くにツーリスト・史跡保全オフィスが置かれている。15世紀には貨幣鋳造場Maison de la Monnaieが置かれていたゴシック風の趣きのある3階建ての建物であった。町を歩いてみると、いたるところに、16-17世紀の趣きを今日に伝える館や町並みが保全されている。ジョルジュ・ド・ラトゥールも洗礼を受けたと思われる13世紀頃に建てられた教会と洗礼盤も残っている。ちなみに、ジョルジュの洗礼記録も、ジョルジュ・ド・ラトゥール美術館に展示されていた。教会も当時の美しさを維持している。17世紀以来のカルメル会修道会の跡も残っている。

  ヴィックの近くにはロレーヌの地域自然公園もあり、16-17世紀の頃を偲ばせるような美しい森林、河川、湖沼などが緑豊かに残されている。この町を有名にした画家は、「ジョルジュ・ド・ラトゥール通り」 La rue Georges-de-La-Tour として、その名をとどめている。

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