時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

貴族の処世術(10);ロレーヌ公国の下層貴族(続く)

2012年03月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが洗礼を受けたサン・マリアン教会(ヴィック)銅版画
Emile auguin, Eglise Saint-Marien (Vic sur Seille), Gravure.
Source; Paulette Chone. Georges de La Tour

 

 

 

なにが、ジョルジュを貴族にさせたか

 画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品ならびに生涯については、美術史などの研究者の地道な努力によって、かなりのことが明らかになった。しかし、不明な部分の方がはるかに大きい。特に、少し立ち入って作品を鑑賞してみたいと思う側として、ぜひ知りたい中核の部分が明らかにされていない。たとえば、この画家が1593年3月14日、ロレーヌの小さな町ヴィック・シュル・セイユで洗礼を受けた後、16161020日、23歳で、同じ町の知り合いの子供の洗礼の代父として突如記録に登場するまで、公的な文書記録としてはなにも残っていない(1613年に同名の画家がパリにいたという謎の文書はあるが)。画家が最も重要な時期である画業の修業を、どこで受けたかという点についての情報がないのだ。これは、同時代のより知られていない画家については、ごく普通のことなのだが。 

  その後、画家の名が次第に公文書などの記録に残るようになってからも、不明な点は数多くある。そのひとつ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、ある時点からロレーヌ公国の貴族に列せられたことは確かなのだが、いつから、いかなる背景の下で貴族になったかという点は明らかでない。

 もちろん、ジョルジュが妻として娶ったディアヌス・ル・ネールの父親が貴族であったことは確実な記録として残っているが、貴族の娘を妻としたからといって、画家の夫が直ちに貴族に列せられることはまずない。そこには、さまざまな要因が働いたと考えられる。

 ラ・トゥールの才能を発掘したと思われるメッツ司教区ヴィックの代官ランベルヴィリエールなどの影響も十分ありうる。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの母親の家系は、貴族の血筋を引いていたかもしれないという研究もあるが、これが直接影響したとは考えられない。仮に幼いジョルジュが、その話を母親から聞いていたとしても、それがなんらかの結果に結びついた可能性はきわめて少ない。マウエ家の例のように、子孫が貴族であった先祖のことを持ち出して、復権・継承を請願するようなことはありえないだろう。もちろん、こうしたことが貴族への願望につながったことはあったとしても。

 1620年7月、画家が27歳までの間に、多くのロレーヌの画家のようにイタリアへ画業修業に赴いた可能性はきわめて低い。当時のローマなどイタリア文化礼賛の空気を考えれば、ローマに行っていれば、ロレーヌ公への請願書に記したことだろう。

 
画家についての謎は次々と浮かんでくる。あたかもクイズを解いていくような面白さがある。

 
今回、概略を紹介したロレーヌ公国の下級貴族マウエ家の記録文書は、ラ・トゥールと同時代を同じ地域で生きた貴族の生き様を伝えており、さまざまな点で参考になる。貴族となったジョルジュ・ド・ラ・トゥールの専横な振る舞いとされてきた点も、当時の下級貴族たちの生き方と多くの点で重なっており、とりわけラ・トゥールに固有な問題ではないと思われる。

  貴族に任ぜられた後のラ・トゥールの考えや行動にも、探索に値する多くの謎が多数残されている。画家本人に直接かかわる記録がなくても、同時代に生きた人々の記録などが、新しい理解につながる糸口となることは十分ありうる。

 

  もしかすると、今後もラ・トゥールに関する新たな文書あるいは作品が突然見出される可能性もないわけではない。作品の裏を読む興味が、長らくこの画家に惹かれてきたひとつの要因かもしれない。脳細胞が動いている間、もう少し探索の旅を続けてみたい。

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貴族の処世術(9):ロレーヌ公国の下層貴族(続く)

2012年02月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

落日のロレーヌ公国

 ロレーヌ公国の終幕の経緯について、備忘録代わりにもう少し記しておきたいことがある。この時代、この小国をめぐる動きは複雑なので、史実の輪郭を掌握しておく必要がある。

17世紀後半になると、口レースは、すでに無力で光彩を欠いた存在になっていた。レオポルド公(1690-1729)の時代に国家財政の負債は累積し、破綻の状態にあった。そのレオポルド公(レオポルドⅠ世)は1729327日に死去。公国の君主の座を継ぐ順位にあったフランソワⅢ世は、公都ナンシーを離れて、ヴィエナに身を置いていた。

フランソワⅢ世はロレーヌへ来ることに気が進まなかったのか、やっと1729年の年末近くになって、公国のリュネヴィル城宮殿へ向かった。そして、翌1730年になってはじめて、公都ナンシー入りをした。その後パリへおもむき、ルイ1 5世に忠誠を誓う。そして、ロレーヌ公国の経済問題の解消を引き受けることになる。

フランソワⅢ世は、この問題への実務的対応のために、あの肖像画の主であるシャルル・イグナス・ド・マウエを、バール・ドゥク Bar-le-Duc(バール公国首都、パリとストラスブルグの中間点)へ改革の執行担当者として送りこんだ。幸い、その努力は実って問題はなんとか解決の目途がついた。



 しかし、フランソワは口レースには執着せず、公国を明け渡すことになる。そして、ハンガリー帝国の総督に任命された後、結局口レーヌに戻ることはなかった。フランソワは、後に神聖ローマ帝国皇帝フランツⅠ世となる。


ロレーヌを余生の地として

フランソワⅢ世が継承しないことになったロレーヌ公国は、ブルボン朝フランスへ統合されるまで、しばしの間、フランス王ルイ15世の義父(王妃マリー・レクザンスカの父)にあたるスタニスワ・レシチニスキに与えられる。スタニスワ・レシチニスキは、ポーランドの王(スエーデンに支えられた傀儡の王)であり、一度退位し、その後王位請求をしたが果たせなかった貴族だった。娘がルイ15世の妃になったことを大変喜んでいたようだ。


 スタニスワ・レシチニスキは、王座や政治家には似合わなかったが、潔白な人物で哲学や科学にも深い関心を抱き、晩年にはリュネヴィルにアカデミー・ド・スタニスラスと名づけた研究所を設け、学術の研究に晩年を過ごした。彼がたどった生涯はきわめて興味深いのだが、他の機会に譲りたい。彼の名は、ナンシーにスタニスラス広場(世界遺産登録)として、残っている。

 

ナンシー、スタニスラス広場(世界遺産)

 ルイ15世は、ハプスブルグ家相続人として、マリア・テレジアとの結婚を認めることの補償として、ロレーヌ公フランソワ3世(神聖ローマ皇帝フランツ1世)から譲渡されたロレーヌ公国を、1代限りの条件付きでスタニスワに与えた。そして、スタニスワが世を去った段階で、ロレーヌ公国はブルホン朝へ移行する手はずが出来上がった。その結果、およそ2世紀にわたり、曲がりなりにも独立の国であり、独自の文化が栄えたロレーヌ公国は、1739年フランスに併合された。


マウエ家の決算
 
他方、ロレーヌ公国の短くも波乱多い歴史の中で、あのマウエ家の家系は、ジャック・マウエの貴族入り以来、ほぼ5世代にわたり、貴族階級としてのステイタスの維持に成功した。フランスへの併合後も、軍隊への協力などでステイタスの維持に成功した。

16世紀末、ジャック・マウエが貴族として得た領地を子孫たちは次第に拡大し、人的つながりにおいても、ロレーヌの政治的中心でもあるナンシーの宮廷世界へ近づいた。他方、婚姻政策で下層貴族の間でのつながりを強めた。

  ロレーヌが最も繁栄していた時、公国の政治権力はロレーヌ公および少数の公爵領の名門貴族層が握っていた。彼らは自分たちの権力や権威がマウエのような新貴族によって侵食されることを望まなかった。この小国では、名門貴族と下層貴族の間の溝は埋められなかった。そのため、下層貴族は彼らの間でその地位の維持を図っていた。

17世紀中頃、ロレーヌの政治が不安定化した頃から、ロレーヌの貴族たちは、上層・下層を問わず、ロレーヌ公とフランス王の間で板挟みとなり、しばしば矛盾する要求を充足させる困難に直面していた。この状況で、とりわけ下層貴族たちは自己防衛的に領地の獲得・拡大に執着し、他の貴族たちと子女の結婚をさせ、苦難の時を乗り越えようとしていた。

ロレーヌにもフランスにも

彼らが最も力を入れたことのひとつは、ロレーヌをめぐる抗争の両当事者側に、家族のメンバーを入れることだった。それによって、いずれの側がロレーヌの為政者の座についても、家系として大きな没落などの破綻を来さないよう安全弁の役割を持たせようとしていた。当時の出生数は1夫婦で10人近いことが多く、こうしたことも可能だった。しかし、死亡率も高く、10人の子供が生まれたと思われるラ・トゥール家の場合も、ほとんどが成人前に死亡し、わずかに残った次男エティエンヌが貴族となっている。しかし、その後は途絶えてしまった。その点、マウエ家の事例をみるかぎり、処世術はかなり功を奏したようだ。

 こうした処世の戦略が実って、18世紀初めの公国再建の期間に、マウエ家はロレーヌ貴族の頂点までに浮上した。レオポルド公は主君亡命中の奉仕など、マウエ家の忠誠を高く評価し、一族に多くの上級の地位や領地を与えた。しかしながら、これらの成功はひとえにロレーヌ公の恩恵によるものだった。しかし、レオポルド公のように主権を強く発揮した君主の場合は、それに従わない人物は逆境の憂き目を見た。

ロレーヌ公国の貴族たち

 ロレーヌ公国の貴族の総体的評価をすることはかなり難しい。とりわけ17世紀は、この小国は大きく揺れ動き、政治的にも無政府状態の混乱の中にあった。信頼しうる統計の類もあまりない。その中で貴族といわれる特権階級は、どのくらいいたのだろうか。このシリーズ記事で主要レフェレンスとしているLipp(2011, Appendix)によると、1360-1739年の期間に、累計で1,402人の貴族が任命されたという。1600年から1739年の公国併合まで、ほぼ10年ごとに区切ってみると、それぞれの10年間に0から数十人の貴族が生まれている。人口統計も定かでない時代だが、17世紀初頭のロレーヌの人口は約30万人、地域は東京都と10倍くらいかとの推定もあり、その社会的存在の重みはある程度類推できる。

興味深いのは、各10年間に0から数名の貴族や子孫から、その時点でも貴族の称号が授与されており、諸権利が継承されているかを確認する請求があったことである。言い換えると、この公国の貴族制度は、特定のロレーヌ公への忠誠とそれに対する君主からの特権付与という形で、個人的忠誠・奉仕ともいえる関係の上に成立していたことがうかがえる。したがって、君主との関係が途切れると、貴族の称号も一代かぎりで途切れてしまうことも多かった。そのため、貴族という称号にまつわるさまざまな封建的特権の継続の確認は、本人のみならず次の世代への継承という点でも大問題だった。

 現代社会で大きな問題となっている年金についても、当時はロレーヌ公などの君主が、貴族の忠誠や奉仕への報奨として与えるのが通常であった。一種の恩給であった。ジャック・ステラやジョルジュ・ド・ラ・トゥールが年金を授与されていたか否かの確認も、この点にかかわっている。ロレーヌ公国という小国における君主と貴族のあり方は、その他の点においてもさまざまな興味深い問題を提示している(続く)。

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貴族の処世術(8):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年02月19日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 



現在のナンシー、スタニスラス広場夜景

 

 

 

 なぜ、17世紀のヨーロッパの小国の、それも下級貴族の話などを延々と書いているのかと思われよう。だが、ここで記していることは、実はきわめてわずかな部分である。実は書き出したらきりがない話になってしまう。ロレーヌ公国という小さな世界に生きた画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの世界の一部を追体験・推理してみたいと思う管理人のメモ書きにすぎない。だが、少しでも細部にこだわると、深入りして出てこられなくなってしまう。細部に入るほどに面白くなるのだが、ブログでは到底持ちこたえられない。

 

これまで、シリーズで記してきたことは、この地域がロレーヌ公国(公爵領)という形を取り始めて100年余が経過した頃(1599年)、公国の下級貴族という地位にたどりついたマウエ家というひとつの家系が、その後公国がたどった盛衰の中で、いかに生き延びたかという処世術の筋書きのようなものである。それも、きわめて圧縮している。

その後、ロレーヌ公は、ニコラ・フランソワ(シャルルⅣ世の弟)、シャルルV世、レオポルドⅠ世、フランソワⅢ世と代替わりするが、いずれも亡命その他でほとんど公国の首都ナンシーの公座には就くことなく、時が経過し、ついに、ロレーヌ公国終焉の年、1737年がやってくる。

ポーランド継承戦争とロレーヌ公国の終焉

   この間、1733年、フランスと神聖ローマの間に、ポーランド継承戦争が勃発した。ロレーヌの独立性を保持したいと思う口レーヌ人は多かったが、ブルボン朝ルイ1 5世の強大な権力と軍事力のために実現しなかった。

 

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貴族の処世術(7):ロレーヌ公国の下層貴族(続く)

2012年02月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 


Elegance in the provinces: two nobles of Lorraine, ca. 1620
Jacques Callot,The Nobility of Lorraine, National Gallery of Art,
Washington, the Rudolf L. Baumfeld Collection, no. B-27,903 (lady above) and
B-27,904(gentleman below)

 
  少なくも17世紀の美術史では、ほとんど触れられていない側面に興味を抱かれるのでないかぎり、このブログを訪れてくださる皆さんの多くは、時代離れしたテーマに辟易されるだろう(それでも幸い、関心を持って読んでくださる方もかなり増えたことには感謝したい)。 

他方、ブログ管理人にとっては、17世紀と現代の間に存在する距離や断絶は、それほど大きなものに感じられない。偶然、このふたつの時代は、「危機の時代」となった。すでに前者はそうした評価を受けてきた。21世紀の現代もほぼ間違いなく、「危機の時代」である。その時代の現実に少しでも入り込むことなしに、作品を理解することはできないとまで思うようになった。

 

さらに、思考の次元を広げてしまえば、今や衰退の色濃いアメリカ、他方多くの問題を内包しながらも拡大発展を続ける中国との間に挟まれている日本の将来は、ある時期から自らの行方を見失ったロレーヌの小国のような感じがしないでもない。いったいこの国はどこへ向かうつもりなのか。あの鳴り物入りで喧伝された国家戦略なるものを耳にすることは、ほとんどなくなった。今はただ、この国がアフガニスタンやイラクとは違い、島国であることにわずかな「救い」?を感じている。

 

閑話休題

 

 
Jacques Callot. The Nobility of Lorraine, ca.1620.


前回に続き、再びしばらく時代を遡る。ロレーヌ公国における下層貴族の生き方を見たい。一枚の肖像画の背後に秘められた、ある家系の歴史がおもいがけず多くのことを語っている。

 

作品が秘める歴史の明暗

17世紀ロレーヌ公国のような小国では、貴族にとってその地位を維持し、子孫のことも考えて生きるためには、なににもまして君主ロレーヌ公への忠誠とそれに対して与えられる庇護の関係をしっかりと維持することにあった。こうしたつながりは、しばしば農民など領民の次元にまで連なるものだった。

 

ロレーヌ公国では、貴族として生きる道は、公国の行政などの領域における奉仕(サービス)で貴族の地位を保とうとするか、祖先の功績を継承し、現在の地位を汚さぬように努力するかのいずれかであった。その他は、軍備の任に当たるか、あるいは聖職者として貴族になっていた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのような出自の者が、貴族になるということはきわめて例外的なことであった。ジョルジュがいかなる理由で貴族に取り立てられたかは、記録もなく本当のところ分からない。確かにジョルジュは、リュネヴィルの貴族の娘ディアンヌ・ル・ネールと結婚したが、それで貴族になったわけではないと思われる。

 リュネヴィル移住時、画家は20歳代後半、ロレーヌですでに腕の立つ画家となっていた。その秀でた才能と業績が最大の要因だろう。加えて、ロレーヌ公アンリ世との関係が良好であったことが、公をして貴族の肩書きを授与せしめたと思われる。現に、ロレーヌ公は、ラ・トゥールの作品を少なくも2点、買い上げている。ちなみに、この小国は、周囲の大国に対抗しうる軍事力もなく、ひたすら文化的繁栄と各国王家を結ぶ婚姻の糸を外交政策として、大国の間を巧みにくぐり抜けて生きようとしていた。いわば小さな「文化国家」として生きる道を選んでいた。

 

公国が揺らいだ契機

この国の運命は、ほとんど公国運営の鍵を握るロレーヌ公の君主としてのの器量次第で、大きく揺れ動いた。それでも1620年代まではフランス、神聖ローマ帝国との関係においても、比較的バランスがとれ、安定した時代であった。しかし、アンリⅡ世の死後、1630年代から公国の政治・社会は急速に不安定さを増した。公位の継承者であるアンリの娘ニコルと公位を狙うシャルルⅣ世の争いが複雑な問題となり、大きな混乱をもたらした。

 

164311月、画家ラ・トゥール50歳の時、ルイ13世への忠誠宣言書に率先署名しており、この時点で画家は反フランスの政治的野望にかられたロレーヌ公シャルルⅣ世よりもフランス王ルイ13世への忠誠を明らかにしている。しかし、ロレーヌ公に忠誠を誓い、フランス王に反対したロレーヌ人も多かった。当然、ラ・トゥールの心の内は大きく揺れていたに違いない。シャルルⅣ世は、30年戦争およびネーデルラント継承戦争に神聖ローマ皇帝軍の一員として参戦し、軍務中に死去した。

 

マウエ家のその後

 さて、マウエ家の一族にも、思いがけない運命が待ち受けていた。1599年、ジャック・マウエの貴族取り立ての後、さまざまなことがあったが、省略して結末だけを記す。

ジャック・マウエから数えると3代目に当たるマルク・アントワーヌ(Marc Antoine(1643-1717)は、フランスとの争いに敗れ、ロレーヌ公国から亡命せざるをえなくなったシャルルⅣ世の王子(シャルルV世)に仕えていた。この不幸なプリンスは自らの公位(1675-90)の期間、一度もナンシー宮殿のロレーヌ公の座につくことなく、オーストリアなどで流転・亡命の人生を送った。

 

貴族の宿命:鬱々とした亡命生活

当時未だ若年であったマルク・アントワーヌは、この薄倖のプリンスと人生を共にする。シャルルV世への同行は、いわばロレーヌ家に忠誠を誓った貴族の家に生まれた者の家族的義務あるいは宿命ともいうべきものだった。自らの故郷を捨て、公位につくこともかなわなかったロレーヌ公に仕え、流浪の地で過ごさざるをえなかったマルクの暗澹、鬱々たる思いは、故郷の父親などに伝えられていた。

 

ロレーヌ公の亡命は、小国や政治力の弱かった君主たちが危機に瀕した際のひとつの逃げ道(選択)であった。たとえば、フランスなどでもリシリューが政争のために、一時パリから遠ざけられるなどの事態は頻繁に起きていた。

フランスがロレーヌの地を何年支配しても、ロレーヌのプリンスにとって、公国再建の可能性がまったく断たれたわけではなかった。しかし、このシャルルV世にはその機会は訪れなかった。

 

忠誠への報酬

主君に伴い、海外での亡命の生活を共にしたマルク・アントワーヌのシャルルⅣ世への献身的奉仕はその後、報われることになる。シャルルV世の息子であるレオポルド公は、マウエ家に多くの名誉を与え、とりわけ亡命時代の忠誠に応えた。マルク・アントワーヌはロレーヌ公国の国政最高顧問のひとりに任ぜられた。さらに弟のジャン・バプチストも公宮行政長官に登用された。すべて、マルク・アントワーヌのシャルルV世への忠誠に報いるものであった。マウエ家にとって、この時期はロレーヌ貴族として最も誇り高いものとなった。しかし、その栄光は、マルク・アントワーヌが自らの人生を、公位につくことのなかったロレーヌ公に捧げた大きな犠牲と献身によるものであった(続く)

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貴族の処世術:(6)ロレーヌ公国の下層貴族

2012年02月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

Autographe de Georges de La Tour, Archives départmentales de Moselle. Ces lignes, datés de 1618.
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの署名がある自筆文書(署名の見事さに注目)

 

下層貴族の生き方

 『危機の時代』といわれた17世紀におけるロレーヌの生活は、貴族といえども決して平穏・安泰なものではなかった。比較的平穏な日々が続いたのは、1620年代くらいまでであった。予告もなく、突如襲ってくる外国軍や、悪疫、飢饉などによって、生活は大きく乱され,破壊された。人口の大部分を占めた農民,平民はしばしば生命・財産を脅かされる状況に陥った。彼らは、ただひたすら逃げ惑うばかりであった。

 

 こうした状況にいたれば、貴族や教会などの特権階級もさほど変わることはなく苦難の渦中に投げ込まれる。彼らとしても戦火や悪疫を避けて、どこか遠隔の地に避難するくらいであった。しかし、平穏な時には領地拡大、蓄財に最大限努めた。とりわけ、下層貴族はほぼ共通して、その封建的特権を活用し、生き残りを図っていた。そのための方途は、ひとつには前回記したように、拝領した領地を分割、売買し、遊休地などを貸借して、有効活用を行うことであった。時には穀物、種子の買い上げ、備蓄などの手段もとられた。他方、上層の旧貴族たちは、概して先祖伝来の広大な領地、城砦・塔などを備えた荘園を保有しており、下層貴族ほどあくせくと利殖・蓄財に勉めなくてもすんだ。彼らは森林、鉱山などの自然資源も保有していた。

 

結婚政策:もうひとつの処世術

 領地などの封建的特権を最大限活用する傍ら、下層貴族たちが行ったことは、その地位の維持、次世代への継承だった。たとえば、ジャック・マウエは、この時代に多用された結婚政策に意図的に力を注いだ。自らとほぼ同等の家系と息子や娘たちの婚姻関係を設定し、家系・子孫の繁栄を図る政策だった。この方法は下層貴族のみならず、上層の貴族や公爵などの間でも見られた。たとえば、歴代ロレーヌ公は小国の君主として、婚姻政策には多大な努力を傾注し、ヨーロッパ全域にわたり、そのネットワークを広げていた。

 

たびたび例示しているマウエ家は幸運にも恵まれ、ジャック・マウエと妻の間には少なくも7人の子供、言い換えると4人の息子と3人の娘が生まれた。息子の2人は未婚のまま死亡したか、その後の消息は記録が無く不明である。1人残った息子は領主となった。息子の1人、マルク・マウエは、父親同様ロレーヌ公国の軍隊経歴を選び、最初のフランス軍侵入の際シャルル4世の軍務官をつとめた。ジャック・マウエが貴族となって30年ほど過ぎた時であった。娘たちも社会階層としてほぼ同等の家に嫁いだ。


 しかし、こうした形での世渡りがいつもうまく行くとは限らない。当時は出生率も高く、数人から10人の子女がいる家庭は普通であったが、死亡率も高く、成人として生きながらえる人数も少なかった。マウエ家の場合は、当主のジャックが1599年に貴族になって以来、貴族の地位を一族の間に継承したいという思いに支えられた処世術がうまく機能した例である。

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画家をあきらめ、貴族になったエティエンヌ

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合、ジョルジュが貴族階級に上方移動し、著名な画家としても成功をとげた後に、次男エティエンヌが父親ジョルジュとともに一時期、工房を営んでいたと思われる。しかし、エティエンヌには画家として父親の画業を継承するほどの資質も積極性にも欠けていたようだ。1652年、父親ジョルジュとその妻ディアヌの死後は、ひたすら貴族としての道を目指した。1656年ヴイツクでジャン・マリアン・ロワダを工房で5年間修業させる契約を結んではいるので、この時点までは画業を続けようとの考えもあったのだろう。

 
エティエンヌは1669年にメリルの領地がロレーヌ公によって、メニル・ラ・トゥール封地に昇格され、1670年にはシャルルⅣ世から爵位、城 La tourが描かれた紋章を授かった。エティエンヌの妻アンヌ・カトリーヌ・フリオは、1684年にリュネヴィルで急死したが、同年7月にメッスの貴族階級出身の女性アンヌ・グレー・ド・マルメディと結婚している。そして、1692年エティエンヌ自身も死亡した。その後、ラ・トゥール家の家系がたどった道筋を、マウエ家のようにかなり正確に追求できる史料は発見されていない。画家であり貴族という社会的栄達をとげたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの家系は、エティエンヌを最後にほぼ途絶えたとみられる。(続く)。

 

 

 

 

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貴族の処世術(5):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年02月06日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

 

 

Tassin, Carte de Lorraine, vers 1630

Gravure, 10 x 15. Nancy, inventaire de Lorraine.

 

 

 

画家は二重人格?

画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯を追っていると、画家でもあり、貴族でもあった世俗世界の人格が、現実にはいかなるものであったかに強い興味を惹かれる。とりわけ、貴族となった後の世俗的生活において、ラ・トゥールが獲得した封建的諸特権を大いに発揮し、領地の売買、資産の維持・拡大にかなり奔走していたかに思われる史料の記述、あるいは解釈がそのひとつである。ひとたび手にした特権を固守し、妥協しない、しばしば強欲さも感じさせる記述もある。

 しかし、それがどの程度、この画家本人あるいは当時の貴族のイメージや生活規範と重なっているのか、実像は明らかではない。そのため、この画家については人格の二面性、謎の画家など、多くの形容詞が付されてきた。言葉だけが飛び交い、やや一方的に過ぎる評価と感じさせる部分
もある。他方、この画家が工房で画想や制作にふけっている状況をイメージさせる記述は、ほとんどなにも示されていない。画家としての側面については、現存する作品以外に判断材料がきわめて少ない。

 

この間隙を埋めるために、当時の貴族や領主の実態がいかなるものであったか、より広い視野を確保し、出来る限り同時代人に近づいて考えてみたいと思ってきた。しかし、多少試みるうちに、小さなブログなどではおよそ対応できることではないこともよく分かってきた。しばらくは、次の発想が生まれるまでのキーワード程度を記しているにすぎない。

 

封建領地の重み

近世初期、ロレースでは領地の持つ重みは格段に重要だった。フランスなどでは、領地の重要度はかなり薄れていた。しかしロレーヌの貴族や農民は、封建領地そしてロレーヌ公の存在に強く依存していた。領地はロレーヌ公国が終幕を迎えるまで、領主、農民それぞれにとって、彼らの伝統的生活と権利を基本的に支えた存在だった。

 

ロレーヌ公国の領主は大別すると3種類あった。公国の公爵・領主たち、教会・修道院など、そして貴族である。1500年代半ばまでは、古い騎士層が領主以外の領地の最大の所有者だった。しかし16世紀末までに、ロレーヌ公による貴族勅許数の増加に伴って、土地所有における貴族の比率が高まった。その結果、限られた土地の配分に関わって、領主による領地の分割が行われ、領主権の一部売買なども頻繁に行われた。国や時代によっては、領地にとどまらず、貴族の称号、関連する封建的諸権利までが売買の対象になった。

 この短いトピックスで事例に挙げているジャック・マウエが、1599年、貴族に任じられた後、きわめて目立つことは比較的短時日の間に、近隣領主あるいは後世代の後継者の間で領地の分割・売買を頻繁に行っていることだ。当時は、領主の数の増加に伴い、領主権の村落単位での分割も目立った。これはロレーヌが小さな公国であり、公国内に大きな荘園が生まれなかったこともひとつの理由と考えられる。

 

1600327日、ジャック・マウエは早くも近隣の貴族などへ自らの領地を売却する。しかし、彼は領地所有をあきらめたわけではなかった。1612年1月までアンリ2世に、16256月まではシャルル4世に忠誠を誓っていた。むしろ、領地の有効利用を考えたのだろう。実際、彼の子孫は受け継いだ資産権利の拡大に努め、ロレーヌがフランスに統合されるまで公国内に多大な領地を取得し、なかには貴族の称号を与えられた者もいた。

 

ラ・トゥールの場合

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが貴族に任じられた正式の理由は明らかではない。確かに妻の一族の出生地であるリュネヴィルへ移住を求めて、ロレーヌ公に提出した特権請願書(1620年)には、当時の貴族に一般的に付与されていた租税免除や社会的特権付与を求めており、妻が貴族であること、自らの絵画の技自体が高貴な仕事であることなどを記してもいる。

 

これに対して、ロレーヌ公はラ・トゥールの請願を認めたようだが、それにかかわる勅許状の詳細、紋章などが授与されたかなどの点は、記録が不明なままである。ほぼ同時代に貴族に任じられたジャック・マウエの記録文書などによると、当時の状況はかなり明らかにされている。封建的特権を認める勅許状、紋章の授与など、いくつかの具体的裏付けがあったようだ。ただ、貴族に認められた特権の詳細は明記しなくとも、それらの内容はほぼ理解されていたようだ。

 

ラ・トゥールの場合は、貴族勅許の詳細などが判然としないが、この画家はリュネヴィルへ移住した後、かなり活発に不動産の売買・賃貸などに着手している。恐らく、当時の事情として、遊休地の活用などを含め、こうした行動、取引などは、苦難な時代を過ごす手段として、かなり一般化していたのだろう。現代をはるかに上回る不安と危機の時代であり、農民のみならず、貴族といえども決して安易に日を過ごせるわけではなかった。画業のみならず、世俗の才知にも富んでいたと思われるラ・トゥールは、恐らくその能力を十二分に発揮したのだろう(続く)。

 

 


Reference
Charles T. Lipp. Noble Strategies in an Early Modern Small State: The Mahuet of Lorraine. Rochester: The University of Rochester Press, 2011. 

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貴族の処世術(4): ロレーヌ公国の下層貴族

2012年02月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

Henri II(1563-1624), Duke of Lorrain



17世紀ロレーヌの下層貴族の生き方に関する、この一連の記事に接した方は、なぜこんな些細に見えることを記しているのだと思われるでしょう。実はその通りなのですが(笑)。しかし、本ブログの主要なトピックスのひとつであるジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な画家、あるいは彼らが生きた17世紀、近世初期といわれる時代の社会環境を少し立ち入って理解するには、かなり重要な問題と考えています。さらに踏み込めば、現代以上に人智を超えた「危機の時代」における、人間の生き方の根源に関わる問題を内在しているとも思えます。

  

日本では比較的知られているレンブラントやフェルメールが生きた社会環境とはきわめて異なった状況が、ほぼ同時代である17世紀ヨーロッパの中心部に存在したのです。そして、フランスや神聖ローマ帝国のような大国については比較的よく研究されてきたにもかかわらず、ロレーヌのような小国の実態には未解明な点がかなり残されています。美術作品の画面だけを眺めていても、伝わってこない時代の空気をできるかぎり「同時代人」 contemporains に近づいて知りたいというのが、ブログを支える考えでもあります。

 
「高貴」とはなにを意味するか
  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが結婚したのは、1617年、画家が24歳の時でした。新婦ディアンヌの生まれたル・ネール家はリュネヴィルの町のかなり富裕な貴族でした。父親ジャン・ル・ネールJean Le Nerf は、ロレーヌ公の財務官でしたが、それほど高い地位の貴族ではなかったようです。しかし、1595年には、リュネヴィルの町に最も貢献した人物の一人として顕彰もされています。娘の配偶者として、普通ならばほぼ同じ社会階層の中で、結婚相手を求めたと考えられます。当時のロレーヌでは高い地位の貴族層と低い地位の貴族層の間での結婚は少なかったとされており、下層の貴族は彼らなりの階層の間で社会関係を構成していました。

この時代のロレーヌ公国の社会環境として、平民の画家と貴族の娘の結婚はかなり好奇な目でみられたことは間違いありません。画家としてすでに実績を高く評価されるまでにいたっていたラ・トゥールでしたが、出自をたどればヴィックのパン屋の次男で、身分が大きく異なる結婚とされていました。

  こうした状況で、「貴さ、貴族性」 noble,
nobility という概念が、当時の社会でいかに形成され、イメージされていたかはきわめて興味深い問題です。貴族とはいかなる条件を備えるべきか。さらに、ラ・トゥールがリュネヴィル移住に際して、ロレーヌ公アンリII世に送った請願書に、画業がそれ自体「高貴」であることを記していることも思い浮かびます。

 

この時代、現実は大変複雑なのですが、社会階級をあえて大別すると、次の3つに分かれていました。第一身分は司教、司祭などの聖職者などから成る階層、第二身分は貴族ですが、宮廷貴族、法服貴族、地方貴族など複雑な区分がありました。この二つは概して、「特権階級」と称されていた階級です。第三身分は大多数を占める平民であり、商工業などを営む市民、農民などでした。これらの身分は、その内部においてもきわめて複雑な内容からなる階層を構成していました。この小さなブログで、こうした階級制度の詳細に立ち入るつもりはないのですが、管理人の興味を惹いたことは、ロレーヌ公国という小国(そして、当時のヨーロッパには多数の小国が存在していた)における下層貴族の出自や生き方でした。言い換えると、彼らの社会的移動の実態を知りたいと思ったのが、ここまで立ち入った背景です。

下層貴族の生きる道

ロレーヌ公国はフランスと神聖ローマ帝国というふたつの巨大勢力の間にあって、双方からの影響を受けていました。社会を構成する階級制度としては、フランス王国(ブルボン朝)に近かったが、ロレーヌ独自の特徴もありました。昔からの旧貴族と新貴族の間にはさまざまな障壁も残っていました。このブログでも紹介した『30年戦争史』研究で知られる Peter H. Wilson によると、封建領地が広大で、諸侯の領邦が多数存在していた神聖ローマ帝国では、異なった階層、領域もあり、社会的上昇を妨げる障壁は比較的低かったようです。他方、フランスには神聖ローマ帝国のような領邦乱立の状況に無かったこともあって、貴族にも地域差は少なかったとされます。さらに、フランスで問題とされた法服貴族と帯剣貴族の差異は、ロレーヌでは少なかったとみられます。ロレーヌの新貴族たちは、彼らの社会的地位にふさわしい形で行動していました。しかし、この小国には複線的な社会的上昇の道は、ほとんどなかったようです。そうした中で、宮廷貴族あるいはその候補たちが抱く処世術は、注目に値いします。

 

これまで記したように、貴族に任じられる際にはロレーヌ公からの勅許状 letter patentが下されるのが例でした。勅許状には貴族としてのさまざまな義務と特権が付帯していました。実は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールにいかなる条件の下で貴族に任じられたのかについては、確かな記録資料がほとんど存在しません。したがって、ロレーヌ公がラ・トゥールを貴族に任じた理由もジャック・マウエの場合ほど明らかではありません。


貴族は継承されるのか

ジャック・マウエの場合、幸いそうした理由・背景に関するかなり詳細な史料が保存・継承されていた。興味深いことのひとつは、こうした勅許の継続性にありました。貴族の称号に関わる特権は、いつまで継続するのか、必ずしも判然としていません。わずかに残るジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関わる史料において、ラ・トゥールはいくつかの身辺の出来事の度に、時には裁判にまで訴え、自らの特権を確認することを行っています。

 この事実は、貴族の免許がそれを付与した君主にかなり固有なものであり、次の君主の代になってもそうした特権・義務がそのままの形で継承されるとは保証されていないことにあります。さらに激動期には、論拠も不分明になりがちです。それを示す一つの例が、ジャック・マウエの息子のひとりが、父親がシャルルIII世から貴族の勅許状付与を受けた1599年から21年後に、家族の一員が旧貴族の勅許を受けていることを発見し、時のロレーヌ公アンリII世(1608-24)に改めて確認を要請し、1620年に認可されたという事実が記されています。

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯にみられる、貴族や王室付き画家などの肩書きや権利をめぐる一見執拗な要請や確認の行為は、こうした状況の下では当然の行動であったと考えられます。

 

さらに、これらの事実が示すことは、下層貴族たちは貴族層の中で限られた可能性をめぐって地位向上を図り、宮廷での政治力を高めるなどの戦術を展開していたことです。公国の中での領地の取得と拡大、同等の家系の間での結婚によるつながりの強化なども、重要な手段でした。

 

ラ・トゥールはこの結婚で、確かにロレーヌ宮廷の貴族サークルにも近づいたことになり、社会的にも父親より上方の階級移動にも成功します。そして、後年自らも貴族や王室付き画家などの肩書きを積極的に名乗ることになりました。さらに1670年には、息子であるエティエンヌが、ロレーヌ公シャルルIV世から貴族の称号を与えられるまでになります。

 

 ロレーヌ下層貴族の生き方から浮かんでくるのは、「危機の時代」といわれた17世紀を彼らなりに切り抜けようとした生き様のしたたかさです。ひとたび、貴族の地位を確保したからには、それをいかに自らの家族や子孫に継承してゆくかという戦術を彼らは常に考えていたように思われます。しかし、それがいかなる結果をもたらしたか。さらに考えるべきことは多いようです(続く)。

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貴族の処世術(3):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年01月30日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

 

Statute Représentant Charles III, Duc de Lorraine

1545-1608

Nancy, Musée lorrain

 

 

貴族になった条件
 近世初期17世紀、ヴィックのパン屋の次男から画家として名を成し、さらに貴族にまで栄達をとげたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯についての記述を読んでいると、さまざまな疑問が浮かび上がる。
ラ・トゥールはなにを評価されて貴族になったのだろうか。新妻ネールの父親がロレーヌ公に仕える貴族であることが、考慮の条件のひとつであったであろうことは推定できるが、貴族が一代で終わることはこの時代、珍しいことではなかった。当時の貴族に求められる人格要件などは、いかなるものだったのか

 

 他方、この画家をめぐる美術史などの記述には、貴族となった画家の金銭欲や粗暴な行動などが伝えられている。しかし、それらの根拠は、ほとんどが徴税吏などの第三者の記録であり、断片的なものに留まっている。これらの点を同時代の他の貴族たちと比較して、いかに理解すべきか、少なからず疑問を抱いてきた。

 この点を解明するひとつの糸口は、可能ならば同時代の同様な貴族との比較を試みることであると考えた。幸い近年の古文書研究と家系学の成果が、この謎をある程度解明してくれている。かならずしもこのテーマに限ったことではないが、近世初期のロレーヌに関する史料は、ナンシーの文書館あるいはパリの国立文書館にかなり良く保存されている。戦乱・騒乱などを幸いにもくぐり抜けて、今日まで継承されてきた貴重な資料だ。それらに基づいた研究がたまたま今回目に触れた。

ジャック・マウエの場合
 前回記した16世紀末、1599年にロレーヌ公から貴族に任じられたジャック・マウエは、ロレーヌ公国の政治の中心であるナンシーやメッスなどからは遠く離れた小村の地主に過ぎなかった。なぜ、ジャックは貴族にまでなりえたのだろうか。マウエ家の家系に関する詳細な研究によって、興味深い事実が浮かびあがってきた。

 ジャックの父親ニコラ・マウエは1500年代後半、北バロアBarrois の小村アタン Étain の村長だった。この小村はメッスへつながる要衝の地に位置していた。ニコラ・マウエは、村長として村人に対する公的サービスの提供などを行う資質は備えていたようだ。

 ジャックに貴族の称号を授与するに際して、ロレーヌ公シャルルIII世が判断基準とした要件がいくつか記録に残されている。そのひとつは、ジャック・マウエが「徳性、思慮深さ、慎重さ、勤勉など」を備えていることを称えている。特にこれらの要件は、ロレーヌのみならず、その他の土地でも同じように、同時代の人たちが貴族に必要な要件と認めていることが記されている。要するに貴族としての一般的要件をジャックも備えているとしている。ここで注目すべきひとつの点は、個人の人格について記しているが、家系には一切言及していないことにある。

重要な要衝としての認識
 注目されるのは、ロレーヌ公がジャックがマルス・ラ・トゥール Mars-la-tourの村に27年間居住していることに言及していることだ。この地は、ロレーヌの政治経済上の拠点であるメッスに隣接していて、ロレーヌ公国と司教区にとって、戦略上重要な意味を持っていた。

 さらに1590年代初期におけるロレーヌ公シャルルIII世とフランスのアンリIV世との戦いにおけるジャックの貢献を評価したようだ。シャルルIII世は敬虔なカトリック信奉者で、新教徒ユグノーの支援を受けたHenryIV世と対抗していた。アンリIV世が1589年にフランス王位に就くと、たちまちロレーヌ公爵領と司教区の間の前線で争いが始まり、平和協定が締結された1594年まで絶えなかった。マルス・ラ・トゥールは、ロレーヌ公国にとって、戦略上要衝の地と考えられていたようだ。ジャックが貴族に任じられた最大の理由は、こうした大国、小国入り乱れての領土争いにおけるロレーヌ公への貢献が評価されたためだった。

 中世以来、ヨーロッパの君主にとって、領土をめぐる戦い、そしてそれを支える財政的基盤の確保はなににもまして重要なものであった。戦いは大きな意味を持っていた。君主にとっては自らの領土の維持・拡大が彼らの存亡を定めることであり、そのための戦いは最大の関心事であった。当然ながら、戦略・戦術を含めて、軍隊の力が勝敗を定めた。そのために身を挺して武勲を挙げた者、戦略にたけた者が功労を評価されて、貴族にとりたてられることが常であった。何世紀にもわたって戦争の結果と領土の存亡とは表裏の関係にあった。その争いの中核的集団としての貴族にとって、戦争は常に中心的関心事であった。

 

 こうした戦乱の時代を生き抜くために、貴族たちは名誉や利得ばかりでなく、多くの負担も背負っていた。ロレーヌ公国では重要な決定は、旧騎士 ancienne chevalerieとして知られた建国以来の功労者として、いくつかの名家が握っていた。ロレーヌはフランスと神聖ローマ帝国の双方から影響を受けていたが、貴族制の実態についてはフランスに近いものだった。

 

 

 貴族に任じられるまではマウエ家は無名の家系であった。だが、マウエ家は、その後ほぼ5世代を通して貴族制の中で昇進を続けた。ロレーヌのような小国は、17世紀初頭の時代のヨーロッパではいたるところに見られた。王朝の盛衰は激しく、1代かぎりで消滅した貴族は多かった。しかし、この中にあってマウエ家は巧みに世の荒波を切り抜け、生き残った家系だった。それには巧みな処世術も必要だった(続く)。

 

 

 

同家の子孫は1900年代初期にナンシーの古文書館に家系に関わる重要書類を移管し、とりわけ初期の文書の滅失を免れていた。継承されている文書はかなり充実した形で残されているが、財政的史料、女性に関する史料はさまざまな理由で開示されないようだ。

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貴族の処世術(2);ロレーヌ公国の下層貴族

2012年01月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚



 

貴族になることは
 前回述べた通り、17
世紀近世初期のヨーロッパ小国の貴族とは、いかなる規範、信条あるいは人生観を持って生きていたのか。彼らはなにを基準として、君主から貴族に任じられたのだろうか。貴族になることはどんな意味を持っていたのだろうか。彼らに求められた条件、責務はなんであったのだろうか。これらは大変興味深い問題なのだが、問題の性質上、直接にその核心に迫ることは難しい。

 貴族制度全体あるいは著名な大貴族に関する研究は多数あるのだが、小国の下層貴族を対象にして、これらの問題に正面から取り組んだ仕事や作品は数少ない。しかし、さまざまな領域の研究者の努力で、今に残る断片的記録から、その輪郭を推測することはできそうである。ここでは、前回紹介したジョルジュ・ド・ラ・トゥールとほぼ同時代に、ロレーヌ公国の下級貴族であった一族の来歴についてのLippの研究を手がかりに、この問題の輪郭を考えてみたい。

 このブログで何度も記してきたように、17世紀ロレーヌ公国は西にフランス、東に神聖ローマ帝国という大国に挟まれた小さな国であった。この国の為政者はさまざまな手段で自国の独立・権益を守ることにあらゆる手立てを尽くした。他方、フランス、神聖ローマ帝国は、いわば緩衝地帯にあるこの小国を、なんとか利用あるいは自らの手中にと、多様な策略を弄してきた。他方、ロレーヌのような小国は、この時代のヨーロッパには多数存在し、それぞれに存亡をかけて、懸命に努力してきた。

 

 前回、肖像画で紹介した貴族シャルル・イグナス・ド・マウエ(1687-1732)は、17世紀末から18世紀前半、ロレーヌ公に使えた下級貴族である。彼が生きた時代は、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールよりは少し時代が下る。しかし、実はマウエ家は、ラ・トゥールよりもかなり前の代からロレーヌ公の下で貴族に任じられていた。話は、この家系でシャルルの祖先に当たるジャック・マウエが、貴族階級入りをした時期に遡る。16世紀末のことである。


貴族の誕生
 

 マウエ家の当主ジャック・マウエが貴族に任じられたのは1599年1月であった。彼はすでに70歳近い高齢で、メッス司教区、バロアに近い小さな村の地主だった。貴族への任命はいかなる理由で決定されたのだろうか。

 

 貴族になることは、君主であるロレーヌ公に対して、大きな忠誠と義務を負うことではあったが、名誉なことでもあった。貴族の勅許状 letters patentと共に、「紋章」coat of arms が授与された。紋章学 heraldry は、この時代の家柄、家系などを知るには、図像学 イコノグラフィとともに欠かせない学問なのだが、ここで詳細を記すことはできない。いずれにせよ、ジャック・マウエは、シャルルIII世の軍務官のひとりとしてロレーヌ公に仕えることになった。それと同時に、ひとたび戦争などがある場合には、軍費調達などの一端を担うことにもなっていた。ただ、シャルルIII世が勅許状でジャック・マウエに付与した内容は、単なる紋章以上のものであった。
 

 勅許状にはマウエ家が(他の貴族が付与されているのと同様に)、ロレーヌ公へのほとんどの租税公課の支払いから免除される特権が付与されることが記されていた。これらの特権は、当時すでに内容が関係者には共通に理解されていたものと思われ、一般的な表現で特権付与が記載されている。 

この租税免除の特権については、1620年ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生地ヴィック・シュル・セイユから、ロレーヌ公の領地である妻ネールの生地リュネヴィルに移住を申請した時に、ロレーヌ公アンリII世宛に特権供与の請願書を提出したことなどでご記憶の方もあるだろう。当時ジョルジュは27歳であった。この請願書には自分が貴族の娘と結婚したこと、画業は高貴な仕事であることなどが記されている。今日残る記録上で、ジョルジュが貴族の称号を肩書きに記しているのは、1634年フランス王ルイ13世への忠誠宣言書に署名した時である。画家は41歳と推定される。

 

  そればかりでなく、シャルルIII世はジャック・マウエと嫡子に、封建的な制度にまつわるさまざまな特権(たとえば、領民からの税の取り立て)、騎士への命令・指揮権、公国の領地、城砦、塔、領地などの使用、狩猟権、借地権、さまざまな司法的・行政的判断、貴族としてふさわしい権威の行使などを、直ちに認める権利を付与している。これらの特権の行使はジャック・マウエにとって、何にもまして大きな意味を持ったようだ。

 それを具体的に示すものとして、ひとつの例を挙げてみよう。勅許状が届けられて3ヶ月後の1599年4月28日には、ジャックは近隣のMars-la-Tourでいくつかの土地と村落を1300フランで購入している。さらに、7月には大量のブドウ酒や穀物の購入などを行っている。これらはすべて勅許状が一般的な表現で貴族に付与したとされるさまざまな特権の範囲に含まれるとされていた。いったい、どうしてこれほどの特権が、ロレーヌ公国の政治の中心から離れた地域の小村で、しかも高齢の一地主に付与されたのだろうか。謎は深まり、なにやらミステリーを解くような面白さが深まってくる(続く)。

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貴族の処世術(1):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年01月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

 
 

Anonymous. Portrait of Charles-Ignace de Mahuet, oil on canvas, 1700s, Musée Lorraine, Nancy, details.


 かつらのような長い髪と独特な髪型。ほとんど半円形のように描かれた眉毛。皮膚にたるみはみえるが、経済的には豊かな生活をしているようにみえる中年の人物。来ている衣装の材質、金釦の付いた上着など。 

 この画像の人物、いったいどんな人でしょう。名前を知る人はまずいないでしょう。少なくも現代人ではないですね。それではいつ頃、どこの国に生きた人でしょう。どんな職業についていたのでしょう。

  このブログでは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを含む主として17世紀の画家の作品と生涯について、断片的な感想、資料紹介などを続けてきた。とりわけ、ラ・トゥールの
作品とその生涯には、思いがけないことが重なり、かなり深入りしてきた。さまざまなことがあって、この画家とその時代に関わってきた。

素人の目で作品を見る

  これまで走り続けてきた人生で余裕が生まれたら、まったく新しいことを始めて見たいと思っていた。美術への関わりも、そのひとつの試みではある。他にも2,3あるのだが、ここに記すまでにいたっていない。別に「先憂後楽」、楽しみは後にと考えてきたわけではないが、幸い好奇心は絶えることがなく、多くのことが頭に浮かぶ。自制しないと、時間を忘れ、自分の専門以上に深みに入り込んで、止めどもなくのめりこんでしまう。 

 
専門として生きてきた世界ではしがらみもあり、いろいろな規制・自制も働き、それほど勝手なことはできない。しかし、まったく新しい領域では、素人の強みが発揮でき、物怖じせずに問題に対することができる。「めくら蛇に怖じず」の勇気も働いて、先人の苦労した点、取りこぼした点などにストレートに対することもできる。

 
これまで美術史を専門としたことはなく、一時期、修復学など中級講座程度を受講したことしかないが、機会には恵まれ、好きな作品を見る時間だけはかなり確保できた。思いがけないことが役立つことがある。専門家ではないだけに、しきたりや方法論にとらわれないで見てきた。 

 
仕事柄、かなり幅広い分野の人たちと交流があった。専門家といわれる人たちにもさまざまな人がおられる。中には自分のしていることが人生のすべてになり、普通の人から見ると恐ろしく偏狭な世界に生きておられるような方もいる。それはそれでよいと思う。この世の中で、それだけのめりこめる対象があることは素晴らしいことだ。ただ概して、優れた専門家は、自分の専門分野をかなり広い視野の中で位置づけられており、お話自体が大変興味深い。

 

閑話休題 

 このブログをお読みいただいている方は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという17世紀の画家が、ヴィック・シュル・セイユという小さな町のパン屋の次男から身を起こし、画家となり、ついにはロレーヌ公国の貴族、フランス王の画家に任ぜられるまでに栄達をとげたことをご存じだ。 

 
この画家の過ごした生涯については、乱世の時代に生きたこともあって、断片的な記録しかない。それも、本人の手になる記録文書のたぐいはほとんどなにもない。わずかに残るのは40点弱の作品だけだ。同じ17世紀でも少し時代が下り、社会生活も安定し、小市民的生活を享受しえたオランダのレンブラントやフェルメールとは比較にならない、厳しくも苛酷な環境に生きた。多くの謎に満ちた画家である。そこにこの画家と作品の魅力がある。

 画家をめぐる謎のひとつに、パン屋の息子がどうして貴族になれたのか。生地ヴィックからリュネヴィル移住に際して、ロレーヌ公に送った租税免除などの特権請願書になぜ、執拗なまでにこだわったのか。またひとたび得た租税免除などの特権を、他人からは傲慢にみえるほどかたくなに維持しようとしたのか。さまざまな場面で、貴族や王室付き画家の肩書きにこだわった。多くの疑問が解明されないままに残る。他の貴族たち、あるいは農民はどんな生活をしていたのか。ラ・トゥールの行動は例外だったのか。これまでの美術史研究書の多くは、これらの点に十分答え切れていない。今に残る短い文書記録などに則り、ほぼそのままに受け取っている。しかし、これらの記録は公的文書などの断片に留まり、それも他人が記したものである。本人がどう考えていたかは、まったく分からない。この画家の真実を知るには、残された作品や周辺状況から推察する以外にない。

下層貴族の世界
 
こうしたことを考えていると、17世紀当時のロレーヌ公国で貴族に任じられ、生きて行くためには、なにが必要であったのかという疑問が生まれる。貴族は「第二身分」とも呼ばれたが、専制君主の王や君主に仕え、農民、商人などの階級を支配した特権階級だった。しかし、貴族も階層分化していた。ラ・トゥールは、その出自からして平民から上方移動した下層貴族であった。

 
ロレーヌという小さな国の下層貴族たちは、いったいいかなる規範や考えの下に生きていたのか。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品、人生を考えながら、彼が生涯多くの時間を過ごしたロレーヌ公国の貴族の生活がいかなるものであったかを知りたいと思った。断片的なことはかなり分かってきたが、闇に閉ざされた部分の方が圧倒的に多かった。同時代に同じような環境に生きた人の情報はないだろうか。

 
思いがけない記録の発見
 探索の過程で一つの文献に出会った。それがこれから記す内容である。ラ・トゥール本人についての記録ではないが、ほとんど同時代に生き、同じロレーヌ公に貴族として使えた一下級貴族の記録が発見され、それらの解明によって、当時の貴族の生き方、処世術などがかなりの程度明らかになった。

 
ここで、冒頭のフレーズに戻る。かつてロレーヌ公国の公都であったナンシー(フランス東北部の都市)にあるロレーヌ美術館の2階に展示されている一枚の肖像画が上掲の人物である。この美術館、これまでに何度か訪れたのだが、残念ながらこの肖像画は記憶にない。他の作品に目を奪われていたのだ。

 
この人物シャルル・イグナス・ド・マウエ Charles-Ignas de Mahuetなる人物は、今日に残る記録によると、1559年に同じ家系の祖先である最初の人物が貴族に任じられた。「偉大なるシャルル」と呼ばれたロレーヌ公シャルル3世の治世で貴族となり、その18世紀初めまで、5代に渡って、貴族の称号を受け継いできた。そのほとんど最後に当たる人物である。時代は近世初期 early modern と言われる時代であり、ロレーヌという小国の下層貴族であった。ロレーヌ公国自体、戦乱、悪疫、飢饉など、大きな社会的変動を経験した時代にあって、マウエの家系はいかなる運命をたどったのか。ラ・トゥールの場合も、次男エティエンヌは途中で画家になることを断念し、親の七光りで得たものか、貴族のステイタスをなんとか維持しようとした。同時代の下層貴族の記録からなにが見えてくるか。少なからず、楽しみでもある(続く)。


 

 Charles T. Lipp. Noble strategies in an Ealrly Modern Small State; The Mahuet of Lorraine. University of Rochester Press, NY: Rochester, 2011, pp.249. 

 

追悼 

テオ・アンゲロプロス監督、1月26日、不慮の事故死を悼んで。「三文オペラ」を題材として映画を制作中だったとのこと、映画は完成するのだろうか。

 

 

 

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クラブが先かダイヤが先か

2011年11月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『ダイヤのエースを持ついかさま師』(部分)

Tricheur (à l'as de carreau)) 1635-1638年頃、106×146cm、 油彩・画布、ルーヴル美術館
1972年に同美術館で開催された美術史上最初のラ・トゥールのほぼ全作品を集めた企画展カタログ(裏表紙)。当時のカタログは表紙のみカラー、本文中の作品紹介はモノクロだった。印刷技術はその後飛躍的に進歩した。


 これまでほとんど立ち入ったことのない専門外の領域だが、ふとしたことから、関心を持つようになったジャンルがある。17世紀のヨーロッパ美術は趣味の範囲でそれなりに関心を抱いてきたが、「フランス・イギリス演劇」の世界という、これまでほとんど関わったことのない領域が浮上してきた。本業としてきた仕事の副産物(?)として多少の知識はあったが、ほとんど耳学問の部類であった。しかし、その後自分の自由となる時間が増えたことが幸いしてか(?)、いつの間にか予想外に深入りしてしまっていた。自分の専門とはおよそ関係ない分野だけに、好奇心も手伝って、興味が生まれた面もある。
 最近刊行されたこの領域の最良の手引きともいえるかなり分厚い事典のページを
繰っている間に、気づいたことがあった。事典の内容に惹かれて、いくつかの項目を読んでいる間に偶然ある小さな記事に惹かれた。

ルネイユの『ル・シッド』へのつながり
 
事典の監修者で、執筆者の一人でもある伊藤洋氏が書かれている『『ル・シッド』とトランプ』(pp38-39)と題された小さなコラムである。伊藤氏ご自身がラ・トゥールの作品を意識され、書かれている。
  このブログを訪れてくださる方は、17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについて、多少ご存じのことだろう。話はラ・トゥールの『いかさま師』と題する作品に関わる。この画家は、同じ主題を異なった視点から繰り返し描いたことでも知られている。そのため、しばしば真贋論争、あるいは複数の作品について制作年次の後先が、専門家の間で議論を生んできた。
 この作品にはフランスのルーブル美術館とアメリカの
キンベル美術館が、微妙に異なる作品(ダイヤのAとクラブのAが焦点)を各1点所蔵している。両者の差異は主題として描かれたいかさま師が隠し持つカードが、ダイヤのA(エース)か、クラブのAかの違いと、作品の微妙な構図と色彩にある。制作年についても1635-1638年頃とする説のほか、1632-35年頃とする説など研究者によって見解が異なっており、決着がついていない。ちなみに、『ル・シッド』の初演は1637年だった。




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『クラブのエースを持ったいかさま師』(部分)

キンベル美術館(フォトワース、アメリカ)
同美術館カタログ表紙

 

 さて、伊藤氏はほぼ半世紀前の同氏のフランス留学時代のエピソードを引きながら、トランプのハートとダイヤの問題が、17世紀フランスの古典劇の大作家コルネイユ(Pierre Corneille)の代表作、悲劇『ル・シッド』(1637年初演)の名台詞をパロディ化した小話を紹介されている。詳細は、出典をご覧いただきたいが、ドン・ゴメス伯爵から平手打ちで侮辱された年老いた父親が、息子ロドリーグに向けての「ハート(勇気)があるか」(Rodrigue,as-tu du coeur?)という問いに対して、劇中では息子はもちろん親の仇(実は自分が愛する女の父親)を討つ勇気は当然抱いていると応じる。これを、「(トランプの)ダイヤだけです」(Je n'ay que du carreau.)とはぐらかした答で、パロディにしたものだ。17世紀半ばのパリで大変受けていたジョークのようだ。パロディの作者は宰相リシュリューの秘書で作家でもあったボワロベールらしい(そのため、話はさらに面白くなるのだが、省略)。
 当時、パリのうわさ話は直ちにロレーヌにも伝わっていたから、ラ・トゥールもどこかで聞き知っていたに違いない。『いかさま師』の画題はカラヴァッジョの作品に源があると思われるが、ラ・トゥールは最初、「クラブのエース」で制作し、その後まもなく上述のパロディにヒントを得て、「ダイヤのエース」での作品を制作したのかもしれない。「ハートのエース」が現存していないことも、新たな想像を生む。ラ・トゥールという画家は、実にさまざまなことを考えさせる不思議な存在である。

   
* オディール・デュスッド/伊藤洋監修 エイコス;17世紀フランス演劇研究会編『フランス17世紀演劇事典』 中央公論新社、2011年、pp813。

  ちなみに、本書は17世紀のフランス演劇の領域にとどまらず、当時の社会・文化環境を想像するにきわめて有益な資料になっている。悲喜劇のそれぞれについて、行き届いた解説、年表などが、遠く離れた現代の読者の理解を深めてくれる。

 

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フランスのカラヴァジェスティ:ラ・トゥール、ル・ナン兄弟など

2010年10月06日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

Jean-Pierre Cuzin. figures de la RÉALITÉ: Caravagesques français, Georges de La Tour, les frères Le Nain...  HAZAN, 2010,  XXI+363pp

上に掲げた表紙は、Valentin de Boulogne. Concert au bas antique, Paris musèe du Louvre, départment des Peintures (Inv.8253) の一部分(全体は記事最下段)。

どことなく、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のコゼットを思わせるような少女を囲んで男たちが楽器を弾いたり、酒瓶からワインを飲んだりしている光景が描かれている。画面にはどことなく物憂げな雰囲気が漂っている。しかし、人物はそれぞれきわめてリアリスティックに描かれている。フランス中北部のクロミエCoulommiers-en-Brie で生まれたとされるヴァランタン・ド・ブーローニュ(1591-1632)の作品である。フランスのカラヴァッジョの忠実な後継者のひとりとみなされている。

 もしジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、その生涯にローマあるいはイタリアに赴いていなかったとすれば、画家を特徴づけるカラヴァッジョ風ともいわれる現実主義的な画法あるいはテネブリズムはいかにして体得されたものだろうか。また、一見するとセピア色の写真を思わせるような、そして時が静止したかにみえるル・ナン兄弟の農民家族を描いたといわれる作品は、どのような環境と意図を持って描かれたのだろうか。稀代の風雲児的な画家カラヴァッジョは、その波乱に充ちた短い生涯の間に多数の作品を残し、ヨーロッパ画壇に一陣の旋風を巻き起こした。カラヴァッジョの画風がいかに多くの画家の心をとらえ、どのように伝播していったかについては、その後研究が進み、多くのことが明らかになっている。 これは当時のヨーロッパにおける絵画の様式・スタイルの流行・伝播のあり方を知る上でもきわめて興味深い問題だ。

40年余前、ふとしたことから対面したジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の作品は、不思議な重みをもって脳裏に刻まれ、その後次第に拡大していった。自分の人生で本業?としてきた領域とは、遠く離れたトピックスなのだが、時の経過とともに重みを増し、次第に大きなウエイトを持った存在になっている。このブログに記しているのは、脳細胞のどこかに残っているそうした記憶の断片だ。なんとか寄せ集めてひとつの輪郭を描きたい。

ラ・トゥールやル・ナン兄弟、あるいはジャック・ベランジェ、ジャック・カロなど、今はすっかり忘れられているロレーヌ公国の画家たちの群像が次第に存在感を増してきた。そして関心の赴く次元は、彼らが日々を過ごした17世紀の世界へと次第に広がって行く。当時の村や町の生活のそこここに生きていた人々の容貌、容姿が圧倒的な迫真力を持って迫ってくる。

2006年末から2007年にかけて、パリ、オランジェリーで開催された
「現実の画家たち」ORANGERIE, 1934: LES "PEINTRES DE LA RÉALITÉ” 特別展を見た時、そこに登場した画家たちの姿は、その後の研究成果などを含めて、もっと充実した形で再現されるのではないかとふと思った。その予感は、最近刊行されたジャン・ピエール キュザンの見事な研究書『現実の絵画:フランスのカラヴァッジョ ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、ル・ナン兄弟・・・』でかなり充たされたように思われる。

この書はフランス17世紀絵画の研究で大きな業績を残したジャン・ピエール・キュザンが2009年7月に国立美術史研究所を退職するのを契機に、その功績を称えて、キュザンの30近い論稿を編集委員会が企画、整理の上、この分野の最新の成果を含めて編集、出版したものである。イタリア国内あるいは北方ネーデルラントへのカラヴァッジズム Caravaggismの伝播については、すでにさまざまな研究成果が専門書として刊行されてきたが、フランスにおけるこの視点からの実態、評価については包括的な研究が少なかった。このたびの出版は、その空間をかなり埋めてくれたように思える。souscripteurs としてこの編纂事業に貢献した専門家の人々の数も200人近くにわたり、大変読み応えのある素晴らしい研究書に仕上がっている。個々の論稿には、詳細な追記 Addendum が付されており、読者はこの分野の最先端での展開まで知ることができる。


 



Valentin de Boulogne. Concert au bas antique,
toile, 173x214
Paris musèe du Louvre, départment des Peintures (Inv.8253)

 

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17世紀、ロレーヌの響き

2009年09月29日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 最近のブログに記したオランダのカラヴァジェスキに関する企画展(フランクフルト・シュテーデル美術館、2009年)のカタログを見ていると、いくつか興味深いことに気づいた。この企画展のテーマは、ユトレヒトなどのオランダ・カラヴァジェスキ(17世紀、カラヴァッジョの画風の影響を受けた画家)によって、作品に描かれた「音楽の光景(歌唱、楽器)」の検討に置かれている。そのため、16-17世紀に使われていた楽器がいかなるものであったかを知ることができる。

 歌唱は別として、楽器としてはリュート、ヴァイオリン、パイプオルガン、フルート、リコーダー、ドラム、バグパイプなどが描かれている。リアリズムの画家としてのカラヴァッジョ、そしてその流れを汲む画家たちの特徴で、楽器も細部まで描かれている作品が多く、きわめて興味深い。いくつかの興味深い問題が浮かんでくる。だが、音楽・絵画史のテーマとして、のめり込むと、何年かかるか分からないと思う。あわてて逃げ出して、もっとお手軽なことに目を移した。  

 気がついたひとつの点は、17世紀にジャック・ベランジェ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールなどが題材として好んで描いたハーディ・ガーディ(ヴィエル)が登場していないことだ。ルネサンス期にはハーディ・ガーディは、バグパイプと並んで人気の高い楽器だった。しかし、17世紀末に、ヨーロッパの音楽界には変化が生まれたようだ。音楽についての人々の好みが代わり、ハーデイ・ガーディは人気がなくなり、楽器として下層の位置に低下したようだ。

 ベランジェやラ・トゥールなどのロレーヌの画家たちの作品から推測しうるように、この楽器は諸国の町や村を放浪、遍歴する楽士たちが主として携え、演奏したものであった。ハーディ・ガーディの楽士には目の不自由な人たちが多く、旅の道連れ、案内を求めてのためか、犬を連れている老人もいた。諸国を漂泊する旅の間に、多くの苦難もあったのだろう。疲れ果て、身なりもみすぼらしく、しばしば乞食と見分けがたいほどだった。しかし、彼らは強靱な精神を持ち、旅の苦しさにもじっと耐えていた。こうした社会の下層で、人生の苦難に立ち向かい、生きていた人たちに、これらの画家は強い関心を抱き、同じテーマを何度も描いたのか。画家の精神構造の深みを推測するに貴重な題材だ。

 ハーディ・がーディのような楽器を使った17世紀の音楽自体、なかなか聞くことはないが、少し努力をすればそうした機会に接することも不可能ではない。当時の古楽器を使ってのアンサンブルなどで、バロックの「音の世界」を聞くことも興味深い。ヨーロッパなどでは、時々ハーディ・がーディなども登場する古楽器の演奏会が開催されている。かつて、ケンブリッジのあるコレッジの音楽の夕べで聞いたことがあった。そうした折に、この楽器の音を聞き、人間は実に不思議なものを作りだすものだと思った。楽器の形態も弦楽器のように見えるが、鍵盤もついている。

 もっともハーディ・ガーディは、18世紀には宮廷に持ち込まれ、再び人気楽器として復活する。楽器としても6弦の「ヴィエル・ア・ル」vielle à roueとしてほぼ完成する。6弦のものは、二本の旋律弦と四本のドローン弦を持ち、ドローン弦を鳴らしたり、消したりすることで、異なった調に対応できるようになっている。
世界にはかなり愛好者がいるようだ。しかし、これだけの説明では楽器のイメージが湧きにくいかもしれない。実際に目にする機会は少なく、その音の響きも伝わりがたい。ご関心のある方は、下掲のYouTubeをご覧ください。かすかに、17世紀ロレーヌ*の響きが聞こえてくるかも。

 

 

 

 

<!-- hurdy-gurdy -->


*  17世紀から20世紀にかけて、ロレーヌはヨーロッパでもかなりユニークな地域だった。戦乱・災厄の多い地域であったにもかかわらず、ナンシー、メッツ、ヴェルダン、エピナルなどの古文書館には、かなりの資料も残っているようだ。

MUSIQUE EN LORRAINE, Contribution à l'histoire de la musique à Nancy XVIIe-XXe siècles. Colloque de Nancy, 6 et 7 octobre 1992. Textes recueillis par Yves FERRATON

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ネールはいずこに

2007年11月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

Georges de La Tour et les femmes par Claude Petry. Paris:Flammarion, 1997, pp.127. 

  40点余しか残っていないラ・トゥールの作品だが、見方を変えると意外なことも分かってくる。これまでの人生で、数としてはかなり多くの特別展なるものを見てきたが、その個人的印象では、展示される画家の作品によって観客の男女別分布も異なるように思われる。要するに男性と女性によってごひいきの画家が多少?異なるのではないか。

  このごろは特別展の観客動員数などは時々公表されるようになったが、さすがにその性別までは調査されていない(企画者側は調べているかもしれないが)。ということで、この感想は統計調査に基づいたものではなく、単に印象に過ぎない。観客の性別分布を決める要因は、考えてみるとかなり多くありそうで、展示される画家や作品ばかりでもないようだ。

  こういうわけで、はなはだ頼りない主観的感想にすぎないのだが、このブログで時々話題とする17世紀の画家について例を挙げると、フェルメール、シャンパーニュなどは女性ファンが多いような気がする。これに対して、カラヴァッジョ、レンブラントは男性の方が多いのでは。数年前、ロンドンでゲインズバラの特別展を見た時、週日であるにもかかわらず圧倒的に中高年男性の観客が多いので驚いたこともあった。偶然だったのかもしれないが、それぞれ大変熱心に観ていた。ちなみに、日本人らしき人はほとんど見あたらなかった。

  さて、ラ・トゥールはどうだろうかと思っていた時に、この一冊に出会った。ラ・トゥールが描いた作品に出てくる女性たちの美術史評論である。表題を見た時、少し意外な感じがした。しかし、改めて考えると、この画家が残したわずか40点ばかりの作品には、かなり多くの女性が描かれていることに気づく。それも、ひとりひとりが、かなり個性的、ユニークな容貌で描かれている。

  この書籍は美術関係出版で著名なフラマリオン社のシリーズの一冊である。すでにヴァトー、マネ、ブーシュ、クリムトなどが同じテーマで刊行されている。いずれも女性を美しく描いた画家である。その中でラ・トゥールは際だってユニークに思われる。40点余りにすぎない作品に描かれた女性の範囲が大変幅広いのだ。天使、聖女から農民、召使、修道女、娼婦、占い師、詐欺師など当時の社会のイメージを思い浮かべるに好個な素材になる。その中には画家が好んで描いたマドレーヌも含まれている。

  注目する点の中には、女占い師のような不思議な容貌をした女性も描かれていることだ。以前にも記したが、絵画史の上でも忘れがたい顔である。当時の人ならばきっとその生い立ち、背景などを知っている女性であるに違いない。残念なことに、ラ・トゥールが長らく忘れられていた画家であったこともあって、断片的な情報から推測するしかない。しかし、このミステリアスなところが好奇心、探求心をかきたてる源でもある。



  
    そして、もうひとつの関心。ラ・トゥールはどこかで配偶者であるディアーヌ・ル・ネール*をモデルにしているのではないかという推測である。貴族の娘と結婚したラ・トゥールだが、ネールは当然最も身近にいた女性であり、多くの画家がそうであったように、モデルとして描いた可能性はきわめて高い。

  ラ・トゥールは比較的若い頃に制作したと思われる「キリストとアルビの使徒」シリーズ以外には、レンブラントのように肖像画のジャンルに入る作品をほとんど残していない。当時すでに大変著名な画家であっただけに、パトロンなどの依頼に応じて肖像画を描いた可能性は十分にある。この画家の力量をもってすれば、迫真力のあるイメージで描かれたに違いない。「キリストと12使徒」シリーズを見れば、その点は疑いない。もしかすると、作品があったとしても、戦火の中に失われてしまったのかもしれない。

  レンブラントがサスキヤ、ヘンドリッキェなどを描いたように、明瞭に妻や愛人をモデルとしたという作品がラ・トゥールの場合は、見当たらない。今日、美術史の関連領域は心理学、医学、化学など、かつては予想もしなかった学問にまで広がっている。作品の時代確定や真贋鑑定にX線写像や顔料の化学分析が果たした役割はよく知られている。フェミニズムの観点からのアプローチも行われているほどだ。今後、なにか新しい発見もあるかもしれない。

  「ラ・トゥールと女性たち」の謎解きも、始まったばかりといえる。もしかすると、これがそうではないかとのイメージもないわけではない。さて、ネールはどこかにいるのでしょうか。


 
* ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、Dianne le Nerf (ディアンヌ・ル・ネール)と1617年ヴィック=シュル=セイユで結婚

 

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暑さしのぎに? :ラ・トゥール作品カタログ

2007年09月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 このすごい存在感のある顔、残暑の厳しい折には少し暑苦しいかもしれませんね。いうまでもなく、ラ・トゥールの「昼の作品」シリーズの傑作「いかさま師」の主人公のアップである。(ちなみに、クラブのエースとダイヤのエースの2つの構図がある。この表紙は、キンベルのクラブの方である。)

  西洋絵画史の上でも一度見たら忘れられない顔のひとつといわれる。確かに、これだけクローズアップしてみると、モナリザとはまったく異なるが、重量級の存在感がある。 この女性を題材に小説が書けそうな気がするほどだ。

 それはさておき、今回はこの顔を表紙にとりあげたラ・トゥールの作品カタログをご紹介しよう。ボッシュ、ブリューゲル、カラヴァッジョ、ゴヤなどを含む Mâitres de l'Art シリーズの1冊で、著名なガリマール書店が発行元である。

  ラ・トゥールの作品カタログに相当するものは、他にもここで紹介したPaulette ChonéDominique Bréme その他があるが、exhibition catalogue や専門研究書以外では、これがお勧めの1冊である。フェルメールやレンブラントなどと比較して、日本語の紹介が少ないラ・トゥールであるが、日本語版も、2005年の東京、国立西洋美術館での特別展に合わせて刊行された。幸い、17世紀フランス美術史家として著名な大野芳材氏が翻訳の労をとられており、十分信頼しうる文献である。ちなみに特別展カタログのラ・トゥール解題「ロレーヌのラ・トゥールー画家を育んだ世界」も同氏が書かれている。

  この作品カタログ、表紙はフランス語版と日本語版は異なる。冒頭に掲げたのはフランス語版である。しかし、それ以外の内容は同じである。「まえがき」をラ・トゥール研究の大御所ピエール・ローゼンベールが書き、解説を「ブルーノ・フェルテが担当している。いずれも、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール研究では、知らない人はいない著名な専門家である。 

  カタログの作品解題は、比較的簡潔な叙述ではあるが、要点は十分尽くされており、ラ・トゥール愛好者にはお勧めである。 ガリマール版と日本語版を比較すると、作品の印刷品質はガリマール版に一日の長があるような印象を受けるが、手元において楽しい内容であることに変わりはない。作品の全体図と併せて随所にクローズアップが挿入されていて、鑑賞の手引きとしてふさわしい。

  この女性のイアリングの石はなにだろうか、ネックレスはなにか、衣裳のデザインは、などと考えているだけでも暑さしのぎ?になるかもしれない。

Sommaire
9 PREFECE
 Pierre Rosenberg
11 POUR UNE PRESENTATION GEORGES DE LA TOUR
 Bruno Ferté
 
117 CATALOGUE DES CEUVRES
131 BIOGRAPHIE
132 BIBLIOGRAAPHIE SOMMAIRE
134 EXPOSITIONS 



Pierre Rosenberg et Bruno Ferté GEORGES DE LA TOUR. PARIS: GALLIMARD, 1990, pp.135. 

Pierre Rosenberg et Bruno Ferté
(ピエール ローザンベール監修, ブルーノ フェルテ解説, 翻訳大野 芳材 ),『夜の画家 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 』(二玄社、2005年)

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