時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

怪獣ビヒモスを追って(1): 工場制の盛衰

2018年04月28日 | 怪獣ヒモスを追って

 

Sir Thomas Lombe's Derby Silk Mill in 1835
Source: Freeman 2018, p.2 

イギリス産業革命のモデル的工場として建設されたダーヴィー絹工場(1835年)

 

産業革命以降の歴史の流れを辿ると、改めて述べるまでもなく工場が生産にかかわる領域は想像以上に拡大してきた。それまで手作りで加工されていたものが、いつの間にか工場生産になっている。

イギリス産業革命期を挟んだ時代に、同時代人が世の中をどう見ていたのかという観点で編まれた『パンディモニアム 』を繰っていると、記憶の底に沈んでいたさまざまなことがとめどなく思い浮かんでくる。現代の巨大な産業社会を生み出した先人たちの努力、そして彼らを背後で強く駆り立てていた「工場制」factroy system についての思いが脳裏を駆け巡る。その結果は「第4次産業革命」といわれる現代の産業社会にまでつながっている。

産業革命が生まれた頃、当時の社会はどんな状態だったのだろうか。そしてその後いかなる展開をたどったのだろうか。『パンディモニアム 』に収録された同時代人がさまざまに語っているが、イギリス産業革命の原動力として生まれた「工場制」factory system は、その後世界的範囲へ拡大しで瞠目すべき大発展を遂げた。

 

18世紀中頃、イギリスの田園地帯に次々と作られる工場のイメージ

The Cyclops Works. drawing, probably in pen and ink heightend with wash and bodycolour, c.1845-1850. Photolithographic reproduction frm Messers Charles Cammell and Co. Ltd. (Sheffield: privately published, n.d. ), opp.1. Sheffield City Libraries.(Barringer p.194)


18世紀初め、イギリス中部ダービーシャーDerbyshire に初めて作られた John and Ghomas Lombe’s Brothers による絹工場は、5階建ての煉瓦作りの近代的建物であり、その巨大さと斬新さで当時の人々の大きな関心の的となり、見学者が長い列をなした。ダニエル・デフォー、アレクシス・ド・トクヴィル、チャールズ・ディケンズ、クワメ・エンクルマなど内外の著名人がこぞって訪れた。多くの人たちはこうした革命的変化の原動力である工場制と資本主義の負の側面には気づくことなく、わずかに、マルクス、エンゲルスなどの一部の経済学者たちがビヒモスの本質と結果を見通していた。

同時代の力織機を使った製糸工場内部

J.W. Lowry after James Naysmith, Power Loom Factory of Thomas Robinson, Esquire, Stockport, 1835.   Engraving, published by Charles Knight, frontispiece to Andrew Ure, The Philosophy of Manufactures: An Exposition of the Scientific, Moral, and Commercial Economy of the Factory System of Great Britain (London:Charles Kinght, 1835, Yale University Press Library.

イングランドの緑溢れる田園地帯に突如として現れた巨大な工場は、力織機を中心にし一貫した生産体系で、動力は23 フートの巨大な水車が訪れる人の目を奪った。ここに産声をあげた「工場制」なるシステムは、蒸気機関の発達などと相まって、さらに資本主義という激流と重なり合い、その後2世紀近くの間に、あたかも巨大な力を備えた「怪獣ビヒモス」のごとく、ヨーロッパ全土、アメリカ、日本などを蹂躙し、急速に世界を席巻する潮流となる。

最近のBREXIT問題やロナルド・トランプの発言を巡る騒動は、アメリカやEUにおける工場の盛衰と必ず一体となって提起される。例えば、鉄鋼、アルミニウム、自動車などの工場の盛衰である。これまで競争力のある国の工場から別の国への移転、他の地での新生、再生とリンクしている。

ブログ筆者は、これまでかなりの数の事例を目にしてきたが、かつての巨大な溶鉱炉が火を落とし、煙を吹き上げていた煙突群も次々と破壊されてゆく光景は見るに忍びないところがある。それまで繁栄していた工場都市といわれた光景とそれと切り離し難い地域の人々の生活スタイルも大きく変わる。東北大震災被災地のような場合は、衰退の原因は異なるが、近似する部分が多い。かつての繁栄の象徴も産業の盛衰とともに大きく姿を変える。

工場制盛衰の膨大なアンソロジーを展開することがここでの目的ではない。それはとてつもない仕事であり、多くの蓄積がある。その中から薄れた記憶が蘇る限りで、印象に残るいくつかの点をシリーズで記してみたい。

「工場制」factory system という巨大怪獣「ビヒモス」はイギリスで生まれ育ち、ヨーロッパを経て、新大陸アメリカへも影響力を拡大する。最初にビヒモスが足を踏み入れた北東部ニューイングランドも自然に恵まれた田園地帯であった。最初に工業化のモデルとなった綿工業は、ローウエル(マサチューセッツ州)に代表されるようにパターナリスティックな経営であった。全寮制で就業後には農村から出てきた若い女子の独立した人間としての育成にも応分の配慮を加え、宿舎において、詩集、文学などの手ほどき、工場生活を終わった後の女性としての独立への準備などさまざまな教育が行われていた。「ローウエル文学」の名で後世にも知られる。

しかし、その後、こうした牧歌的な労働環境は、猛々しさを加えた「工場制」ビヒモスによって排除淘汰され、厳しい経営、労働環境へと移行して行った。綿興行の南部原綿産出地への地理的移動も産業の性格を大きく変容させた。

19世紀に入ると、鉄鋼、自動車などの分野で、アンドリュー・カーネギー、ヘンリー・フォードなどの優れた経営者が輩出し、「工場制」の実態も大きく変わり、その後のアメリカ産業の基盤につながる発展を遂げる。さらにビヒモスの足跡はさらに拡大し、そのフロンティアは中国やアフリカへ移り、強大な怪獣の容貌を見せている。

「工場制」はアンビヴァレントな(愛憎併せ持つ)特徴を持っている。とりわけ、産業革命初期には巨大な生産力を持った工場が生まれ、仕事を創り出すなどのプラス面を提示した反面、故郷を失った労働者を多数生み出し、同時にかつてない貧困な都市下層を作り出した。こうした階層の分裂は、所により姿を変え、今日にいたり「格差問題」など深刻な問題をグローバルに露呈している。


 

References
Joshua B. Freeman, BEHEMOTH: A History of the Factory and the
Making of the Modern World, New York: Norton, 2018.

「工場制」システムの今日にいたる歴史を概観するには、簡潔に描かれ、分かりやすい良書である。惜しむらくは画像、図版の印刷があまり良くない。

Tim Barringer, MEN AN WORK・Art and Labour in Victorian Brotain, Published for the Paul Mellon Centre for Studies in British Art by Yale University Press, New Heaven & London, 2005

本ブログ内シリーズ「L.S.ラウリーとその時代」は、産業革命発祥の地マンチェスター周辺における産業と地域、人々の生活を丹念に描写した稀有な画家の生涯と作品について記したものである。

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読み尽きることのない世界:パンディモニアム

2018年04月21日 | 書棚の片隅から

Philip Jamea deLoutherbourg, Coalbrookdale by Night, 1800, Oil on canvas, 26 3/4 x 42 1/8 in.
Science Museumu/Sciencens Socoety Picture Library, London

フィリップ・ジャメア・デルザーブルグ『夜の炭鉱町コールブルックデール』(アイアンブリッジで知られる地域) 

 

 

これまでの人生で手にしてきた書籍や書類の数はかなり多い。しかし、その中には様々な理由で最後のページまで読まなかったものもある。他方、いくら読んでも尽きることのない圧倒的な迫力を持つ本もある。といっても百科事典の類いではない。そのひとつの例を上げれば、下記のなんとも不思議な著作だ。入手して以降、断捨離で整理されることなく、書棚から消えたことがない。時々引っ張り出しては、辞書のように読んでいる。

Pandaemonium, 1660-1886: The Coming of the Machine as Seen by Contemporary Observers, By Humphrey Jennings, Edited by Mary—Lou Jennings and Charles Madge. New York :The Free Press, 1985, 376pp. (ハンフリー・ジェニングス(浜口稔訳)『パンディモニアム』パピルス、1998年 )

18世紀半ば、イギリスに起きた産業革命、その発生の過程、発展・衝撃について、当時の人々はそれぞれにどう感じ、何を考えていたのか。元来、詩人であり、”ドキュメンタリー・フィルム・メーカーであったハンフリー・ジェニングス Humphrey Jennings が、1937年から1950年の初めまで(この年ジェニングスは早逝した)のほぼ13年間に集めに集めた膨大な文書、資料などの集積が本書の源になっている。ジェニングス自身この世界においてもかなり変わった人物であった。

目的を果たす以前に世を去ったこの異才の死後、娘のマリー・ルー・ジェニングスおよび(ハンフリーの協力者)チャールズ・マッジがおよそ35年近くの年月を費やしてやっと一冊の書籍の体裁にまでまとめ上げた。なぜこれほど時間を要したのか。実は早逝したジェニングスには自ら本書を編纂・刊行する時間が与えられなかった。その意図を娘と友人が推し量り、一冊の本の体裁で出版するには想像を超える努力、試行錯誤があった。残された資料の編纂作業だけでも、それはあたかも「無数の異なった動物がお互いに争い、貪り食い合った結果」と形容されるほどの多難な仕事だったのだろう。


 

Humphrey Jennings

 

ジェニングスの死後に残されたものは20冊の綴じられた書類の束、その内容は産業革命を間に挟んだおよそ200年近い年月に生きたあらゆる領域の文人、学者、ジャーナリスト、科学技術者、政治家、社会観察者などの手になった作品やノートの部分の的確な引用、それらの手書き、タイプ印字、ジェニングスの覚書、注などの体裁をとっており、加えて1000枚を越える大量の複写資料であった。ジェニングスは当時としてもかなり変わった人物ではあった。何本かの映画は残したが、書籍は一冊もない。

新たなイメージによる産業革命史の組み直し
生前、精力的に集めたこれらの資料を使って、彼は何を創ろうとしていたのだろうか。あくまで近くにいた人々の推定にすぎないが、彼が常に頭ををめぐらしていたことは、”想像(イメージ)の世界における産業革命の歴史”を作品化しようという思いだった。その実現のための筋書き、そのための手がかりだけが残された。しかし、その作品の構成をいかにするかという点についてはほとんど何もジェニングスは具体案を残さなかった。しかし、ジェニングスの頭脳には、恐らくこれらの資料を使い、一連の想像上の膨大な歴史を、それまでにない斬新な形とアイディアで(その中には映画も含まれていたかもしれない)構成することだった。産業革命を挟んだ時期を、その時代に生きた人々の残したものから、新たなイメージで再構成しようとの試みだったと思われる。さらに編者の大変な努力の成果だが、読者が本書のどこの部分から入り込もうと、その緒と思われる口を手がかりに探索を深め、全体が見渡せるようなとてつもない次元の作品世界を構想していたかに見える。そのためには、本書には特別に極めて詳細な索引とともに、「主題系列」という工夫された作品系列が準備されている。その一つを選ぶことで、読者が自らの意図に応じて、新しいイメージの産業革命当時の世界観・世界像を築き上げることができると考えられたのだろう。

産業革命を動かしてきたもの
本書の題名はジョン・ミルトンの『失楽園』Paradise Lost (1660) の第1巻で描かれる Pandaemonium (世界のあらゆる悪が累積する地獄の宮殿、伏魔殿)からとられている。オーウエル(1903-50)はその名作『ウイガン波止場への道』で「通常、話題とされる社会主義は、機械的な進歩という考えと強く結びついていて、究極ではあたかも宗教のようになっている」と嘆いた。さらに「社会主義者は常に機械化、合理化、近代化に好意的だ。あるいは少なくもそうあるべきだと考えている」と述べている。現代は第四次産業革命の最中にあるといわれるが、この考えは今でも無意識のうちにもかなり受け継がれているのではないだろうか。

ジェニングスは、イギリスにおいて、毛織物業、綿織物業、製鉄業、蒸気機関の発達などを契機に展開した第一次「産業革命のイメージ上の歴史” imagenateive history of Industrial Revolution」として描くことを企図したようだ。産業革命を体験した同時代人contemporaries の詩人、小説家、化学者、美術家、社会観察者などの手によって書かれたさまざまなものを持って描き出そうという構想らしい。ブログ筆者も若い頃、産業革命期綿織物業の展開過程に関心を抱き、かなりのめり込んだ。今でも探索して見たいトピックスがいくつかある。産業革命のもたらした影響と衝撃については多数の評価がなされてきた。ジェニングスの試みは、できうるがきり多くのスナップショットのような材料の集積から新しいイメージを持った歴史像を創り出そうというものであったのかもしれない。

人々が選んだ道
産業革命が綿織物業などで生まれ、織物機械の音が響くようになり、”進歩”という名の車輪が動き出した。各地に工場が生まれ、資本家に雇われて働く以外に生きる道がない労働者が急増した。工場の煙、油や塵埃で汚れた工場地帯、スラム、ワークハウスなどの実態は、カーライル、ディケンズ、ナスミスなどが生き生きと描き出した。かつては美しい田園地帯も煤煙と油で汚れた殺風景な工場地帯へと変容して行った。莫大な「富」とともに多数の「貧困」が生まれ、それを救おうとする人々が現れた。

産業革命で生まれる新しい物質主義とモラルの衝突もある。ウエリントン公とサー・ロバート・ピールという古い貴族的体制の守護者が、産業革命の立役者のひとつ、新型の蒸気機関車の運行に際して、不慮の事故があったことに関わって、鉄道の起業家や資金提供者に蒸気機関車のお披露目行事の中止を求めたこと、それに対する反対の動きなども記されている。収録されたテキストやフレーズの含意はさまざまで容易に収斂しない。

目の前に起きていることへの執着
チャールズ・ラムはワーズワースとの会話で、快活に「彼が愛した汚いロンドンを出て行こうと思わないと話している。・・・山など見なくても構わない」。以前に取り上げた「ロウソクの科学」のマイケル・ファラディも大御所のデイヴィとともに時代の人であり、なんども登場している。例えば、1827年の10月6日の日記には、セント・パウル大寺院の方向に眺望された美しい夕空の光景が記されている。「その光景はたいへん美しかった。多くの人々は、暗闇の光は寺院の方から射していると思って信じて歩いて行った。時は8時頃だった。」(マイケル・ファラデーの日記から)。

失われるもの
さらに、チャールズ・ダーウイン Charles Darwin は「自らの生涯を科学の研究に費やしたため、審美的な感覚を失った」と嘆いている。あるいは大化学者ハンフリー・デイヴィ Humphrey Davyは、かつてアマチュアの詩人であったが、今はルーヴルの展示品でもアンティノオスの石膏作品については、”大変美しい鍾乳石”と賞賛するが、その他については惹かれなくなったと告白する。

産業革命という「進歩の車輪」は多くのものを作り出すとともに、破壊して行った。その時代はジェニングスが構想したように、時代の多くの著名な人々、ディケンズ、デフォー、ラスキン、バイロンなどばかりでなく、それほど著名ではなかった人々によって、さまざまに記され、描かれた。

ジェニングスは1950年に世を去る前に、自身はどのような考えを持っているかと問われた時、「機械の到来は人間の生活の何かを破壊しつつある」と考えていたようだ。


『パンディモニアム』という破天荒なイメージ世界の構想を抱いたジェニングスは社会主義者としても変わっていて、ウイリアム・モリス William Morris のロマンティックな伝統を継承している。そしてこの機械化が人間の生活に様々な悪い結果をもたらすという考えが本書に溢れている。Paradise Lost 「失楽園」の堕天使から始まって「伏魔殿」(あらゆる悪の宮殿)がいかにして世界に生まれるのか。人間は伏魔殿の築造に向かって進んできたのか。

最終的に、本書に収録されたテキストは372本、さらに数えきれないフレーズ、図などからなり、最初に設定されたジョン・ミルトンの「パンディモディアム」に絡みとられ、紡がれて、不思議な作品として提示される。「パンディモニアム 」についての著者の構想や説明は一切ない。答えは何も準備されていないのだ。しかし、このとてつもない作品に接する読者は、当時を生きた人々の様々な足跡から、産業革命期という特別の時代に生きた人々の考えや社会の空気にこれまで以上に緊迫感を持って接することができるだろう。

破壊と混迷の中にある第四次産業革命といわれる現代、その行方はほとんど何も見えていない。ジェニングスの本書から学ぶことは多い。

 

* 本ブログ連載の『L.S.ラウリーの世界」と一部重なる印象を抱かれる読者がおられるかもしれない。ラウリーは絵画という限定されたメディアではあるが、一般の画家が題材にしないような産業革命後のマンチェスター近傍の変化を克明に描いた。産業革命という変化が単に生産や技術の仕組みや工程での変化にととまらず、産業社会全体の性格、そこに暮らす人々の生活様式や思考、審美感まで変容させる変化であることの意味を、様々な観点から包括的に見ることの必要性を痛感する。

 

 

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ウインストン・チャーチルの実像を求めて

2018年04月15日 | 午後のティールーム

 

1945年2月ヤルタ会談における3巨頭(チャーチル、ローズヴェルト、スターリン)
Source: Public Domain 

 


「ハロー フランクリン!・・・」「ヤー ウインストン、ハウ・アウアーユー・・・」。60歳くらいか、男が今は見かけることのなくなった黒い卓上電話機を取り上げて、何かを頼んでいる。親しげなトーンだが、答えは思わしくなく、すぐに終わる。映画『ウインストン・チャーチル』の一場面である。電話をかけているのはチャーチル首相、相手はアメリカのフランクリン・D・ローズヴェルト大統領だ。チャーチルはドイツ軍に海岸線に追い詰められた英軍のために艦船での支援を依頼しているのだが、答えは素っ気ない。支援はできないというのだ。この電話ラインは世界最初の首脳間ホットラインと言われる。当時、どういう方法で機密が守られたのだろう。同盟国にもほとんど頼る術もなくなったチャーチルは、イギリス国民の愛国心に訴え、民間船舶をかき集め、英軍兵士をイギリス本土へ送り戻す策を取ることになる。

1940年5月20日月曜日

フランス第9軍の全滅によって、反撃の希望が全て消える

イギリス軍派遣軍は、沿岸の諸港まで退却して戦うことを試みるより他なく・・・・・・とくにダンケルクへ
チャーチルは、撤退することになれば、海軍に指令を出して民間船舶の大船隊を準備させ、フランスの港まで行かせようと考えている 

1940年5月29日水曜日

ダンケルクでの撤退速度は1時間に2000名で、すでに4万の兵が本土に無事上陸した。

(マクガーデン、181, 255ページ)


イギリスに暮らしてみて分かったことのひとつに、自叙伝、伝記が大変好きな国民であることを知った。大きな書店には必ずAutobiography のコーナーがある。自叙伝、回顧録には本人自らが筆をとったものと、伝記作家に依頼したものがある。筆者は取り立てて自叙伝を好んで読むことはないが、イギリス人との会話の話題ともなるので、かなりの数は読んできた。このブログでもマーガレット・サッチャーフランクリン・D・ローズヴェルトを含み、いくつか取り上げたことがある。

さて、チャーチルの映画も、その原作となった伝記も最近読んだ本の中ではきわめて印象的で素晴らしかった。惜しむらくは、この映画に取り上げられたチャーチルという偉大な政治家のその後の人生が描かれていないことである。大戦という圧力の下で、政治家としてチャーチルが最も活力に溢れていた頂点の時が描かれている。マーガレット・サッチャー首相の場合は、晩年の情景が描かれていた。毀誉褒貶はあったが、一つの時代を画した女性政治家の晩年が網膜に残る。

さらに、チャーチルは図らずも敵国となった日本という極東の国を真底どう思っていたのだろうか。子供心に断片的に残るイメージがある。多分、当時見た新聞記事ではなかったかと思う。
イギリス東洋艦隊の誇った最新戦艦プリンス・オブ・ウエールズ、巡洋戦艦レパルスが、老朽艦しか保有していなかった日本軍によって撃沈されるという出来事を、チャーチルはどう受け止めたのだろう。この大戦果に狂喜した日本と予期せぬ大損失を蒙ったイギリス。戦争は多かれ少なかれ、関係国の国民を狂気の世界に引きずりこむ。その後もチャーチル自身は日本に来たことはなかったが、極東の国日本には対ドイツほどの憎悪感を抱いていなかったのではないかと思うことがある。

シリアへのミサイル攻撃のニュースを見ながら、人間はなぜこれほど戦争が好きなのだろうと思う。30年戦争など、ヨーロッパで戦争がなかった年を見いだすことが困難だった17世紀(「危機の世紀」)以来、人類の歴史は何も学ばないと言えるほど絶えず戦火で溢れている。

 

 アンソニー・マクガーデン(染田屋茂・井上大剛共訳)『ウインストン・チャーチル;ヒトラーから世界を救った男』(角川文庫、2018年)
原作:Darkest Hour: How Churchill Brought Us Back from the Brink.

 

 

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壁は壁でも:トランプ政権下の移民政策

2018年04月12日 | 移民政策を追って

 

トランプ大統領という型破りの人物がアメリカの政権についてから、世界はかなり振り回されてきた感がある。しかし、次第にその手法が分かってきた。野球に例えると、制球力にはかなり難がある。しばしば暴投やビーンボールに近いボールまで投げ、直球一辺倒で押してくる。ストライク・ゾーンをかなり外れていても意に介さない。当面、後継のブルペン投手がいないから乱調でもしばらく彼に任すしかない。打者がのけ反るようなボールを投げてみて、反応を見るようなところがある。打者としては次にどんなボールがくるか分からないので、ちょっと怖い。このたびのシリアでのミサイル攻撃の可能性を示唆する動きもそのひとつだ。

軍隊による壁防備
移民問題についても同様だ。4月3日、トランプ大統領はアメリカ・メキシコ国境の不法入国者を取り締まる方針をさらに強化するとして、国境に軍隊 National Guardを派遣することを大統領令として発表した。これまで例がない対応だ。戦時を除き、法律の施行を軍事力で強制することは認められていない。こうした政策を議会を通すなど正規の経路を通すことなく、ツイッターなどの安易な方法で強行ことも常套手段となった。

テキサス、アリゾナなどが当面の対象となる。アリゾナのノガーレスでは国境パトロールに加えて 250人の州兵が警備に当たることになった。テキサス州でも450人が配置される。名目は、国境の壁の完成まで警備の任につくとされる。背景には国境で拘引される不法移民の数がトランプ大統領になってから顕著に減少していることがある。越境を試みる者は強化された国境コントロールで、拘束され失敗する可能性が高いことを察知しているので、越境自体をあきらめたり、先延ばしにしている。この状況をさらに厳しくして越境者に圧力をかけようとの考えのようだ。

”聖域”とも対決
さらに最近では、正規の滞在許可証を保持しない不法滞在者の3分の1近くが集住しているとされるシカゴ、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、カリフォルニアなどの”聖域”とも対決し、最高裁の判決が下りるまでは連邦予算の削減まで示唆して、強硬な対決を辞さない。彼らが多く居住する州は、ネヴァダ7.2%、テキサス6.1%、カリフルニア6.0%などが多い。

アメリカの総人口3億2千6百万人の中で、滞在許可証を持たない不法滞在者は11百万人と推定されている。さらに、これら不法滞在者の家族とともに居住している18歳以下の子供たち(アメリカ生まれで合法な市民)は590万人近いと考えられている。不法滞在者の母国はメキシコが56%、グアテマラ7%、エルサルバドル4%、残りはその他の国から来ている。

軽視される人道的観点
トランプ政権になってから、不法移民の逮捕、送還の施策が強化された。アメリカの移民政策は国境壁をあらゆる手段で強化する一方、国内に居住する不法滞在者については、従来人道的観点が重視されてきた方針を撤回し、家族を分割しても不法滞在者を強制送還するという方向が強化され、該当する家族の間に恐怖感を強めている。

オバマ時代とトランプ政権が成立してから今日まで、両者の考えの差異が次第に明らかになってきた。
トランプ政権になってからの強制送還数は,226,119人で、オバマ時代2016年の240, 255人より少ない。しかし、逮捕者数は143, 470人と比較してオバマ時代で110,104人より増加している。なかでもこれまで犯罪歴のない就労者の逮捕が多い。トランプ大統領になって、ICE( Immigration and Customs Enforcement )などの移民関連部門にオバマ時代より厳しい措置を取るよう指示した。

執行機関であるICEの平服の職員が市中などで不法滞在者を逮捕し、夫(不法滞在)とアメリカ国籍を保持する妻と子供の家族であっても、容赦なく引き離し、夫を本国へ送還するということも見られるようになっている。

一例を挙げると、滞在許可証などを保持しない夫Aは、かつて農業労働者としてメキシコから越境した。過去10年ほどの間、カリフォルニアのセントラル・ヴァレイでブドウ、ピスタチオ、オレンジを摘み取る仕事をしてきた。しかし、滞在許可期限も2006年に失効している。彼は”fugitive allien”(逃亡外国人)と見なされてきた。そして発見され次第本国送還されることになった。犯罪などでの逮捕歴はない。運転許可証も取得が難しいこともあって、交通違反歴もない。アメリカ国籍の妻と結婚し、子どもが二人いる。
2017年にはオバマ時代の倍の非犯罪者を本国送還している。同年の不法入国者数は46年ぶりの最低線へ低下した。トランプ大統領の強硬な政策を恐れて越境を控えた結果であることは想像できる。

問題は少なくも両親のいずれかが不法滞在者である18歳以下の子供が4百万人以上いること。そしておよそ6百万人が不法滞在者と合法的なアメリカ国民とが同居する「国籍混合の家族」mixed status householdsと呼ばれる状況にある。彼らの家族は逮捕、強制送還の可能性がある。さらに親が強制送還されたとき、子どもが孤児化する危険性も高い。

旧態依然の日本の視点
折しも日本政府は2019年4月にも外国人労働者分野で、新たな在留資格を導入するようだ。しかし、内容を見る限り、これまで国際的にも批判され問題となってきた外国人技能実習制度に屋上屋を重ねるような案としか思えない。政府は「単純労働者の受け入れを原則、認めていない」はすだが、現実は単純労働そのものだとの調査や批判は、長年にわたり見聞きしてきたことだ。劣悪労働や失踪などの発生は全く解消されていない。技能実習の5年間が相対的に低賃金な労働力となる可能性は避けがたい。新設される資格は、「特定技能(仮称)」と呼称されるようだ。日本人労働者がさらに一段と人手不足になり、賃金上昇も大きくなることが予想される状況で、こうした外国人が低賃金労働力として求められる可能性はこれまで以上に高い。さらに、制度が複雑化し、制度運用管理者の不足も加速し、外国人にとって透明度が十分ではないことから、事態のさらなる混迷は避けがたい。このままでは何も学ばない日本としか言いようがない。

 

References
‘Ripped Apart: The Cost of America’s Immigration Crackdown’ , TIME, March 19, 2018
「外国人、実習後に就労資格:最長5年本格受け入れ」『日本経済新聞』2018年4月12日

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ロウソクはなぜ燃えるのか

2018年04月06日 | 書棚の片隅から

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作品部分
Q. 作品名はなんでしょう? 
 

 

17世紀初めのフランスでは、燃えている薪などの焔は身体に悪いといわれていたらしい。アンリIV世の侍医であったデュレ医師は当代きっての名医と言われていたが、暖炉の残り火が燃えているとすぐに水をかけて消したといわれる。ロウソクを見ても、身震いしたほどだと伝えられる。火が燃えるという現象が分からず、説明できない恐怖や神秘的なものを感じていたらしい。確かに、闇の中で焔が揺らめいているのを見ると、神の存在などを思ったのかも知れない。

このくだりを読んで、すぐに頭に浮かんだのは、子供の頃読んだマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』だった。小学生の頃は理科好きで、6年生の学芸会で塩素酸カリウムと二酸化マンガン(触媒)を反応させ、酸素をつくる実験をしたことなどを思い出した。今でも化学反応式や装置を思い出すことはできる。『ロウソクの科学』を読んだのはその頃だろうと思い、調べてみたところ、日本語訳と年代から『ロウソクの科学』矢島祐利訳(岩波文庫、1933年)であったと考えられる。当時はかなり読まれたのではないかと思われる。ファラデーの名はよく知られ、実際、世界中で理科への入門書として使われていた。ただ、肝心の内容については、あまりよく覚えていない。「ロウソクの画家」ともいわれた「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」のことも思い出し、もう一度読んでみたいと思っていた。

素晴らしい新訳
過日、書店でたまたま新訳『ロウソクの科学』(竹内敬人訳、岩波文庫、2010年)が目に止まったので早速購入し、読んでみた。驚いたのは、懇切丁寧で目配りのきいた素晴らしいい一冊であることだった。なぜ、もっと早く読まなかったのだろうという思いがした。ファラデーの6講にわたる講演もさることながら、訳者の『ロウソクの科学』ができるまで〜訳者前書きに代えて〜、「ファラデー 人と生涯」、文献・資料、「訳者後書き」が実に充実しており、感激した。昨今、しばしば見られる粗雑な翻訳書とは明らかに一線を画する、それ自体ファラデーの研究書のごとき印象を受けた。読後、大きな充実感とともに、多大な努力を傾注された訳者に感謝の思いでいっぱいであった。

柱となる6つの講義は、ファラデーが行った青少年のためのクリスマス講演の講義録であった。その部分も大変わかりやすく、改めて若い世代への講演のお手本のような感を受けたが、ブログ筆者がとりわけ訳者に感謝の思いを抱いたのは、ファラデーの生涯についての詳細な解説・記述であった。少し、その概略を記してみる。

ファラデーこと、マイケル・ファラデー (Michael Faraday, 1791-1867)は、サリー州の村で生まれ、父親が鍛冶屋であった。出自は労働者階級といえる。ファラデーが生まれた頃に田舎からロンドンへ移住した。産業革命が展開し始めた頃であり、多くの人がロンドンなどの都市へ移住していた。

ファラデーが受けた学校教育とはせいぜい読み書きの手ほどき程度であり、13歳の時に書籍商で製本業も営むリボーという名の店に使い走りとして無給で雇われ、約1年後の1805年に製本工見習いとなり、約8年を過ごした。当時の徒弟制度ではごく当たり前の経路だった。この頃、仕事で目にした電気関係の書物に興味を惹かれ、化学と電磁気学に関心を持つようになっていた。大変仕事熱心だったので店主のリボーや顧客からも目をかけられていたらしい。

才能を見出した人
リボー の店の上得意で富裕な紳士であり名高い音楽教師であったダンスから、ある日、当時ロンドンの名物でもあった王立研究所教授のハンフリー・デイヴィー(Sir Humphry Davy, 1778-1829)の最終公開講演シリーズの入場券(4回分)をプレゼントされた。ダンス氏もファラデーの日頃の働きぶりを見ていたのだった。この講演は当時ロンドン社交界の名物行事となっており、入場券も徒弟見習いの身ではとても手が届かないものだった。ファラデーはこの好意が大変嬉しかったのだろう。克明にノートを取り、お得意の技術で立派に製本化した。

進学の道も閉ざされていた徒弟のファラデーは、製本のために送られてきた文献や大英百科事典(Encyclopaedia  Britannica)の記述を読んで独学で知識を蓄積していたようだ。余談だが、ブログ筆者も戦後出版物が十分なかった頃、平凡社と富山房の百科事典を楽しみに読んでいた。インターネットなき時代、これ以上の情報源は他に見当たらなかった。

科学の道への勉学の思いが絶ち難かったファラデーは、その後王立研究所の会長やデイヴィー教授に仕事の可能性を尋ねる書簡を送ったが、当時の階級社会ではほとんど実現されない、不可能な願いだった。その中で、デイヴィー教授はその熱心さに好感を抱いたようだが「科学の道は厳しい。自分の仕事(製本工)に専念するのが良い」との書簡を送っていた。

思わぬ幸運
しかし、まさに幸運というべきだろう。デイヴィー教授の助手が喧嘩が原因で解雇され、助手が必要になった。ファラデーは急遽採用され、週給25シリング、研究所内の居室と石炭、ロウソク込みで雇われることになった。1813年3月1日に正式辞令が交付された。デイヴィー教授の父親も労働者階級の木工であったことなども、ファラデー採用に影響していたかもしdれない。

王立研究所は財源確保のために、富裕な上流階級を対象に研究所の教授が最新の科学情報などについて講演をしており、デイヴィー教授はそのためにも大変めざましく活躍していた。広範な研究活動の成果の一つとしての坑夫用安全燈デイヴィー・ランプの発明でも知られている。

他方、ファラデーは研究所の下級職員ではあったが、人生を託する所を得て真摯に研究に励んだ。そこへ再び思わぬ幸運が舞い込む。大陸フランスで科学研究に大きな関心を寄せていたナポレオンは、仏英が交戦中であったにもかかわらず、デイヴィー教授に入国許可と様々な恩典を与え、フランスへ招聘する。ファラデーも一行に加えられ、形の上ではデイヴィー教授夫妻の従僕としてではあったが、当時としては莫大な資金を要するグランド・ツアーに随行することになった。正規の高等教育も、外国語教育も受けることができず、社会的活動の機会もなかったファラデーにとっては、このツアーはその後の活動に多大な財産となった。デイヴィー教授はこの旅行の途上、ファラデーにとって個人教師のような立場にあり、ファラデーにとってはまたとない機会となった。ファラデーにとっては名実ともに「グランド・ツアー」であった。

ファラデーはその後着々と業績を上げ、1824年にはイギリスの科学者にとって最高の名誉である王立協会会員に選ばれた。しかし、世俗的な栄誉や地位には恬淡としていた。ナイトの称号も、王立協会の会長職もすべて辞退して、「ただのマイケル・ファラデーでいたいのだよ」と知人に述懐したと伝えられる。ブログ筆者のごひいきの画家L.S.ラウリーの人生観に近いものを感じる。

ロウソクに火をつける人
ファラデーの生涯を振りかえると、階級の壁などの限界を乗り越えるための本人の絶えざる努力が大変印象的である。いかなる時でも諦めることなくたゆまぬ研鑽、努力を続けた。そして、その誠実な人柄、秘めたる能力、とりわけ、ファラデーの才能を見出し、その発揮のために支援の手を差し伸べた人々の存在が印象に残る。ファラデーはそうした恩人の好意に最大限の努力と成果で応えている。
なんとなく、パン屋の息子として育った画家ラトゥールの隠れた才能を見出し、さまざまに支援した教養人ランベルヴィエールを思い起こさせる。逆境にあっても努力を怠らない人の隠れた才能ともいうべき「ロウソク」を見出し、それが輝くように火をつけた人の存在と役割を十二分に感じる。現代に置き換えると、教師を軸とする教育の本来あるべき役割、奨学制度などの社会的意義も含めて多くのことを考えさせるファラデーの人生であった。

最後に、若いファラデーを科学史の上で今日に残る金字塔としたクリスマス講演、正式には「少年少女の聴衆のためのクリスマス講演」が今日まで当時と同じ形で6回の連続公演として、年末から年初にかけて行われているということに、イギリスという国の持つ大きなレガシーを感じる。減少著しい若い世代の活躍に未来をかける日本のことを考えると、教育の持つ重みと広がりにさまざまなことを考えさせられる。

 

* Pascal Quignard, Gerges de La Tour, Flohlic  Eitions, Paris, 1991, p.2

ファラデー著(竹内敬人訳)『ロウソクの科学』岩波文庫、2010年
本書には日本で出版されたファラデーに関する邦訳、関連文献、海外で刊行された主要な海外文献リストも掲載されており、若い世代を含めて教育関係者にとっても極めて有益である。




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逆行する世界:アメリカ関税引き上げ

2018年04月03日 | 特別トピックス

 

 

トランプ大統領が鉄鋼とアルミニウムの輸入について、高率関税を課すという動きに出た時、まず頭に浮かんだのは保護主義、時代錯誤という思いだった。かつてしばらくこれらの産業に自ら携わり、その盛衰を体験・観察してきた筆者にとって、こうした措置でアメリカの関連産業が活気を取り戻し、雇用が増加するとは到底思えない。世界経済全体が停滞する貿易戦争につながるばかりだ。

これらの産業は「ラスト・ベルト」*1 (Rust Belt: 錆びついた地帯)の中心的産業であった。この地域の鉄鋼、アルミニウム産業の実態については、やや執筆時点が古くなるが、本文下掲の調査、概観を参照してほしい。

*1 ラストベルト(英語: Rust Belt)とは、脱工業化が進んでいる地帯を表現する呼称である。この領域の南はアパラチア山脈の炭田地帯であり、北は五大湖で、カナダのオンタリオ州の工業地帯を含んでいる。

ラストベルトは、アメリカ経済の重工業と製造業の重要な部分を形成してきた。鉄鋼、アルミニウム、自動車などの製造業の多くがこの地域に立地し、発展してきた。しかし、このブログでも記しているように、これらの産業の多くは国際競争力を失い、老朽化が進み、衰亡の過程にある。映画「デトロイト」や「ヒルビリーエレジー」にも如実に描かれているように、地域の衰退の色は覆いがたい。確かtにかつては、US Steel, Alcoaなど鉄鋼、アルミニウム産業の本拠地であった。しかし、今やこれらの産業の中心は、中国や中東諸国など、エネルギーや労働コストで相対的にコストが安く、競争力のある地域へ重点移行している*2。例えば、アメリカがアルミニウム製品についての関税を10%引き上げたところで、エネルギーコストをはじめとする根本的な合理化がなされない限り、産業の再生は考えられない。

しかし、トランプ大統領を支持した白人労働者層はこの地域の衰退産業に長く雇用されてきた、時代を切り開く新産業に雇用されるための技能転換がきわめて難しいタイプの労働者である。彼らの支持を取りつけないかぎり、トランプ氏の政権存続は難しい。その点を背景に、この政策が構想されていることは明らかだ。トランプ大統領はすでに選挙運動の過程でこの関税引き上げ策を示唆してきたから、その意味では公約を実行に移したとはいえる。しかし、輸入関税の引き上げで一時的な「温室化」を図ったとしても、旧タイプの鉄鋼、アルミニウムなどの製造業をこの地で再生させ、雇用を増大することはほとんど困難だ。そのことは、実際に「錆びてしまった」工業(製造業)を訪れてみれば、直ちに明らかになる。

アメリカの産業政策が目指すべき方向は、この地域に芽生えつつあるアメリカの今後を支える可能性の高い新産業、液体水素燃料電池、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報技術および認識技術などへの転換を促進することにあるはずだ。この地域はエンジニアリング職の重要な供給源である。不幸にも衰退産業で働き、新産業への転換が難しい白人・非白人労働者には、彼らでも対応できるような中間的技能に基づく産業の支援、地域外の産業への自発的移動などを企画すべきだろう。

それではなぜトランプ大統領は、鉄鋼・アルミニウム製品への輸入関税引き上げという保護主義への逆行ともいえる後ろ向きの手段をとったのか。それは大統領選で支持基盤を維持するために、この地域の労働者に一見わかりやすい単純な方策を提示することで、中間選挙に向けて支持層をつなぎとめることでしかない。トランプ大統領の任期中にこの産業が再生し、雇用が復活する可能性はない。

 

*2 世界のアルミニウム(新地金)生産量についてみると、2017年の中国は31,870千トン、ロシア3,454千トン、カナダ3,209千トン、アラブ首長国連邦2,471千トン、インド1,909千トン,さらにオーストラリア、ノルウエー、バーレーン、アメリカ818千トン、ブラジルが続く。かつて世界のアルミニウム生産の最先端を走っていたアメリカだが、今は衰退の一方だ。ちなみに、日本はエネルギー・コストの上昇で、競争力を失い製錬業は完全に消滅している。
他方、アルミニウム消費量は、2017年時点で中国が31,645千トン近くで、第2位のアメリカの5,121千トンを大きく引き離している。さらに第3位のドイツ2,189千トン、第4位の日本1,742千トンと比較しても中国のシェアは突出して大きい。アメリカは原料のアルミニウム新地金のほとんどを輸入に依存する国になっている。これに対して高率関税をかければ、国内の製品価格は上昇せざるを得ず、消費者が負担を強いられることになる(World Metal Statistics)。

 

References
アメリカ鉄鋼業における再生の試みは、やや調査時点が古いが、下記の(奥田健二、故上智大学名誉教授)調査報告が詳しい。筆者も同教授夫妻と共に一部の実地調査に参加している(4-5章)。
http://db.jil.go.jp/db/seika/zenbun/E2000012614_ZEN.htm 

桑原靖夫「アルミニウム産業」『戦後日本産業史』所収(東洋経済新報社, 1995年

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開かれた終活:人生は最後まで新しく

2018年04月01日 | 午後のティールーム

 

しばらく書くことのなかったチューリップ通信である。今年は三寒四温とは言い難い、寒さと暑さが交錯した激しい気象変動の中で、果たして芽を出し、花が咲くだろうかと多少危惧していた。例年の通り、11月中旬くらいに植えた球根は、地中でどんな対応をしているのだろうかと考えていた。しかし、これは杞憂だった。

3月に入っての激しい気温の変動にもかかわらず、中旬にはしっかりと芽を出していた。あまり例のない雪の厳しさにも耐えぬいた。そしてこの数日の気温上昇で急速に伸び、しっかりと開花した。桜と同様、人間世界のように激変に振り回されることのない絶妙な自然の摂理にに感動する。しかし、開花が遅かった年と比較すると、今年は2週間くらい早まっている。地球温暖化は地底でも進行しているのだろうか。

桜とともに、春の訪れを告げて、冬の間停滞していた心身の活動にスイッチを入れる役割を果たすようだ。これらの花々は不安な時代に生きる人間の心の奥底に不思議な力を与えてくれる。

この国は世界でも際立って高齢化が進み「人生の終わり方」について、さまざまな議論がある。書店の棚を見ても、病気や高齢者の生活についての書物が目白押しだ。「終活」という他の国にはないであろう妙な言葉も流行している。自分の人生の終わり方について関心がないわけではないが、あまり深く考えたことはない。

それよりも、これまでの人生で探索してみたいことが山積していて、頭の中はかなり忙しく動いている。回転の速度は遅くなったが、知りたいことの範囲はむしろ拡大した。次々と探索したいことが生まれていて、瞬く間に時間がすぎてしまう。ひとつの疑問の解消には長い時間がかかる。

とは言っても、心身の老化は覆い難く、探索の結果をまとめることより、疑問がなんとか解消したことで満足してしまうことが多くなった。ブログにしても掲載間隔が長くなった。しかし、上り坂よりも下り坂の方が視界は広くなる。これまで過ごしてきた人生の蓄積が生きてくる。このまま開かれた形で人生を過ごすことができれば、それもひとつの終わり方ではないかと思っている。

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