時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

間違った方法で行われる正しいこと?

2014年11月24日 | 移民政策を追って

 

時は過ぎゆく
L'église Saint-Jacques, Luneville, France
Photo:YK

 



 今回のブログ・タイトル、何のことでしょう? 年末の総選挙? まずはお読みください。

 シニカルな論評で知られる The Economist 誌(Nov.22nd-28t 2014) が、先週発表されたオバマ大統領が移民制度改革を大統領権限で実施するとの発表についてのコメントです。同誌は「バラク・オバマ赤信号を突っ走る」 Barack Obama runs a red light. とタイトルをつけています。

 最近このブログにも記したばかりですが、年内に大統領としての提案をすると述べていた移民制度改革について、11月20日、オバマ大統領は、議会での法案審議を経るという通常の経路ではなく、大統領権限の行使という形で実施するとの演説を行いました。大統領として残りの任期も少なくなり、与党民主党は中間選挙も上下両院共に敗北し、過半数を共和党に譲り渡しました。オバマ大統領としては、当選以前からほぼ公約としてきた移民法改革ですが、共和党の反対で今日まで実現できずにきました。残された任期と政治状況をみて、この道しかないと思ったのでしょう。移民制度の改革案は、少し前に上院では超党派の法案も審議され、通過していたのですが、下院で共和党が反対し、廃案にしてしまいました。したがって、とりわけ大統領にとっては、暗礁に乗り上げてしまったような状況です。

 移民について国民の知識も関心も低い日本と比較して、アメリカはまさに移民で立国した国であり、移民制度改革は未来のアメリカを定める国民的最重要課題です。すでに議会では前政権から長年にわたり、議論が行われ、問題の所在はかなり明らかにされてきました。こうした事情がオバマ大統領に、議会を飛び越えた権限を行使すると決断させた背景にあります。移民制度改革についての議論は尽きているとの判断でしょう。しかし、人種的偏見を含め、多様な考えが存在するこの国では、論理だけでは整理しきれない問題もあります。

壊れている移民システム
 確かにこれまでの下院での共和党の反対戦術は、客観的に見て度を過ぎていました。あらゆる法案の審議を長引かせ、gridlock(進退窮まった状態) と呼ばれる交通渋滞のような身動きのとれない状態が続いてきました。大統領としては、これでは残った任期中に、とても実現できないと思ったのでしょう。

 アメリカ国民の全てに関わる重要問題だけに、TVで大統領の所信表明がなされ、11月21日、ラス・ヴェガスにおいて、大統領権限行使の署名が行われました。これについて、共和党のジョン・ベーナー議員などは、王か皇帝のようなやり方だと激しく反発しています。この大統領権限の存在は、アメリカ議会主義のひとつの特徴で、その行使と評価はかなり見解が分かれます。

 ただ、大統領が演説の冒頭で述べたように、アメリカの移民(受け入れ)システムは、何10年も壊れたままという事実は、共和党を含めて国民の誰もが認めることです。ブッシュ前政権も最後の段階で試みた移民法改革が実現できませんでした。人種的偏見などもあって、誰もが十分納得する移民改革案は構想しがたいともいえます。先述の上院での超党派案は、それをなんとかくぐり抜けて作り上げたものでしたが、保守派の多い下院はそれすら廃案にしてしまいました。オバマ大統領の改革案もこうした事情を考慮した上で、廃案になった上院での超党派案も取り入れ、かなり共和党に譲歩した内容になっています。

その骨子は次の通り:

1)国境における不法移民の取り締まりを強化する。
  ★国境パトロールの増員を含め、不法入国者防止の手段を強化する。 
  ★最近入国に必要な書類を保持することなく、国境を不法に越えて入国した者を強制送還する。

2)家族ではなく、犯罪者を送還する。
  ★ー懸命に働いているアメリカ市民の親たちではなく、犯罪者の発見・送還に国境管理パトロールの重点を置く。 

3)すでに国内に居住する400万人以上の入国必要書類不保持者に、アメリカの法律に従って活動できるよう責任を自覚してもらい、暫定の滞在を認める。
  ★アメリカ市民で入国に必要ば資料を保持していない親たち(最近は未登録移民ともいう)およびアメリカ国内に5年以上居住している合法定住者に、犯罪歴などの経歴調査を受けてもらい、租税公課を支払ってもらうことを条件に3年間の滞在を認める。 

 この最後の条項が改革案の中心であり、大統領は次のように述べています:

 「あなたが五年以上アメリカに居住しているならば; あるいはアメリカ市民の子供がいるか、合法な定住者ならば;登録をした上で、犯罪歴がないかチェックを受け、規定の租税公課を収めるならば、あなたは強制送還の怖れなく、暫定的にこの国に居住する申請をすることができます。いままでのような影に隠れた存在ではなく法に基づく権利を与えられるのです。」

 この内容は、ブログを継続してお読みいただいた方には自明なことですが、さらにくだいていえば、次のようなことです。大統領は数百万の不法滞在の外国人、それも多くは子供がアメリカ市民か合法的定住者である者の親たち(不法滞在者)に合法的な地位を与える。 アメリカは生地主義(父母の国籍のいかんを問わず、その出生地の国籍を取得する主義)なので、メキシコ国境を入国書類を持たずに越えた両親に、アメリカで子供が生まれると、その子供はアメリカ国籍を取得します。

解決の糸口は
  こうした大統領の提案に対して、野党の共和党は議会の審議を経ない乱暴な方法で、断固として許せないと反対する構えです。これまでの経緯をウオッチャーとして見ると、共和党は多数を占めていた下院で多くの法案をブロックしてきました。共和党の右派には1100万人といわれる不法移民は、すべて強制送還せよとの強硬派もいます。

 ただ、共和党にしてもかたくなに反対すると、オバマ大統領案で救済される比率が大きいヒスパニック系選挙民の反発を招きかねなません。党内は決して一枚岩ではありません。それでも上下両院で過半数を占めるにいたった共和党は、これまで以上に議事運営で民主党に強く当たるでしょう。共和党がその他の分野での譲歩をとりつけるために、大統領自らが前面に出た、この移民制度改革を「人質」にとるという手法は、これまで以上にエスカレートしそうです。

 オバマ大統領としては残された手段である大統領権限を行使し、それによって生じる政治的紛糾があっても、世論などの力を借りて、なんとか突破口を開き、法案を成立させようとの考えなのでしょう。議院運営はさらに厳しくなることは間違いないのですが、あえてその道を選んだのです。

改革案はアムネスティか
 今回大統領権限で提示された移民法改革案の骨子は、これまでの長い議論を考えると、まず妥当な改革案と考えられます。しかし、共和党、特に下院議員はこれはアムネスティ(大赦)だとして反対しています。しかし、対象となる不法(未登録)移民に無条件でアメリカ市民権を付与するわけではなく、滞在期限についても条件付きであり、通常のアムネスティとは異なっています。そして、無登録滞在者(不法移民)の個別的事情は想像以上に複雑で、実務上はかなり対応に時間がかかることは確実です。とてもオバマ大統領の任期中には片付きません。それでも大統領としては、移民法改革だけは形をつけたいと考えたのでしょう。政治家に残された時間は少ないのです。

 さもないと、あのブッシュ大統領の任期末にきわめて似た状況で終わることになりかねません。The Economist誌は、オバマ大統領がアメリカの議会民主制の中で認められたユニークな権限を行使するのは正しい。選挙民たちも政治的渋滞にうんざりしている。しかし、その中にはオバマ大統領の政治に飽きてしまった者もいると指摘しています。その点を大統領も認識して行動しないと道を誤りますよと警告しているのですが。

イギリスも赤ランプ寸前、そして日本は.......
 このたびの大統領権限の行使は現時点では評価が困難です。The Economist 誌のお膝元であるイギリスでも、キャメロン首相が(出入りの増減を差し引いた)ネットの移民受け入れ数を年間10万人以下に抑制すると約束したが、最近、メイ内相が達成は難しい、実際には243,000人くらいになりそうだと発言して議論を呼んでいます。キャメロン首相はEU内部からの移民のコントロールができないからだと主張していますが、域内の人の移動を制限することはEUの根幹を放棄することとして、他のEU諸国は認めません。保守党は、入国してくる移民への各種給付を制限することで対応するとも述べていますが、これも無理な話です。こうした案が生まれるのは、EU域内で相対的に水準の高い社会保障給付体系を持っているイギリスへ来て、仕事がなければ給付を受けて暮らしている外国人がいる といわれる事態
(benefit tourism)が報じられているためでもあります。キャメロン首相は認められなければ、EU離脱もありうるとしていますが、少しバランス感覚を失いかけている感じがします。


 労働力不足の進行で、被災地復興や看護・介護に当たる人材が不足し、このままではオリンピック事業まで、危ぶまれる日本はどうでしょう。移民受け入れ問題は、議論の俎上にはのりません。深刻な労働力不足が日本を襲うことはもはや避けがたいことです。国民的議論が渋滞する中、突っ走ろうとする政治家が出てくるのでしょうか。

 アメリカに目を移すと、いずれにせよオバマ大統領にとって、残りの任期は共和党との不毛なやりとりで、政治的にも難題が山積する非生産的な時間が待ち受けています。次の大統領が決まるまでの2年間は、共和党がよほどの協調的な対応に変身しないかぎり、アメリカの政治にとって大きな停滞期になることはほとんど確実でしょう。

 



 

 

 

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画家も動く・絵画も動く:美術史と移動・移転 migration

2014年11月23日 | 特別トピックス

 

 このブログで紹介したことのある、ティモシー・ブルック著『フェルメールの帽子』 *1も最近、邦訳が出版された。原著が刊行(2007年)されてからかなり時間は経過しているが、幸い好評なようだ。巧みなタイトルにつられて、フェルメールの作品についての著作と思った人もいるかもしれない。しかし、フェルメールの作品は表紙を除くと、ほとんど登場することはなく、拍子抜けした読者もおられよう。この著作のユニークな点は、時間軸を17世紀のフェルメール(1632-1675)の時代にほぼ固定しながら、同時代の空間、言い換えると、世界の他の地域へ視野を広げて、当時アメリカ新大陸、中国などを含めて展開したグローバル化の諸相を描いてみせたことにある。

 こうした同時代史的試みは、すでにいくつか公刊されてきたが*2、本書はフェルメールという良く知られた画家が描いた一枚の絵が発端になっている。すなわち画家が描いた、当時のオランダの若い女性と対面して話をしている若い兵士が、得意げに被っている帽子の由来から、話が始まる。ストーリー・テリングの巧みさが斬新だ。フェルメールの絵画自体は、当時のいわゆる風俗画ジャンルの作品で、美しく描かれてはいるが、それ以上ではない。しかし、そこに描きこまれた事物から別の物語が紡ぎだされる。

ラ・トゥールの謎解きの論理
 このような同時代における「地域(空間)」の持つ文化的差異は、そこで活動する画家たちの活動にも大きな影響を及ぼす。この時代、ローマはヨーロッパ世界のひとつの中心であった。多くの人たちが行ってみたいと憧憬の念を抱いていた。

 フェルメールとほぼ同時代の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールにとってもイタリアの存在は大きかったことは疑いない。しかし、ヨーロッパのすべての画家がイタリアへ行ったかというと、そういうわけでもなかった。レンブラントもフェルメールもイタリアへは行かなかった。

 ただ、ラ・トゥールの作品理解については、イタリアへ修業の旅をしたか否かという問題は、この画家の理解に格別の意味を持つ。しかし、それを裏付ける史料はいまだに見出されたことがなく、謎のままにとどまっている。(管理人は、いくつかの理由からラ・トゥールはイタリアへは行かなかった、仮に修業時代に訪れたとしても、きわめて短期間の旅行であったと考えている。この問題については、一部、ブログに記したので繰り返さない)。

 ラ・トゥールは美術史上では、しばしばカラヴァジェスキ(カラヴァッジョの画風の継承者)に分類されることが多い画家である。しかし、カラバッジョ(1571-1610}は、ラ・トゥール(1593-1652)より少し前に世を去っていたし、ラ・トゥールの時期にはすでに伝説的存在になっていた。ラ・トゥールがカラヴァッジョの影響を受けたことは事実だが、ラ・トゥールを無条件でカラヴァジェスキと断定することには、かなり留保をつけたい。それでは、ラ・トゥールはいかなる経路で、カラヴァッジョの影響を感じ取ったのだろう。

 ラ・トゥールがカラヴァッジョに会っていないとすれば、次にありそうなことは、どこかでカラヴァジェスキのだれかに会ったり、工房を訪ねたかという点ではないかと考えるのは自然だろう。この点については、すでにブログに概略を記したことがあり、いつもお読みいただいている方はすでにご存じのことだ。

 さらに、その次に考えられるのは、ラ・トゥールがカラヴァッジョあるいはカラヴッァジェスキの作品に接する機会があったかという点だろう。この点については、ナンシーに残るカラヴァッジョの作品を初めとして、画家が作品を見た可能性はいくつか考えられる。しかし、残された作品から画風を学び取るということは、間接的な方法であり、工房などで教えを乞うなどの方が直接的で効果が上がることは教育手段としてもはるかに効率的だ。工房など制作現場に自ら密着して学ぶ方法は、いわゆるOJT(On-the-Job-Training) であり、効率も良い。他方、わずかな数のモデルを見て模写などの形で学ぶことは有効ではあるが、学ぶ側に多大な努力が必要だ。これは絵画制作に限ったことではない。

 
美術の移転・普及
 ここで指摘したいのは、ある美術(当面絵画に限定するが)の作風・思想などが、別の画家あるいは作品に伝達、敬称される「普及・拡散・伝播」(diffuese, disperse) あるいは「移動・移転」(migrate, transfer)するという側面である。これについては、画家あるいは作品の地理的移動、移転という次元がクローズアップされる。賢明な読者諸氏は、「移民」migrantsと「美術」artという一見なんの関係もなさそうなトピックスが、同じブログで扱われている意味に気づかれたと思う。

 この問題について別の例をあげてみよう。管理人がかつて何度か訪れたシカゴ美術館 The Art Institute of Chicago について考えてみた。20世紀前半、この都市は全米で移民が多数押し寄せる地域のひとつとして知られていた。 ヨーロッパ、中南米、アジアなど世界各地からの移民が集まった。シカゴ市民の出身国別分布地図を見ると、驚くほど多様な分布をしていることが分かる。

 移民の中には当然、画家、彫刻家、音楽家など芸術家も含まれていた。移民の時期による違い、同化と離反、統合、分散などによって、多様な変化が生まれた。その混然とした状況の中から、彼らが新天地へ持ち寄った文化が、絵画、彫刻、音楽などの形態で、相互作用を発揮し、複雑多岐でありながら不思議な一体感につながる作品を創造した。シカゴ美術館はそのひとつの象徴的な存在だ。この美術館が所蔵する作品に接すると、この地へもたらされた多様な美術的作品あるいはこの地へ移住した画家によって制作された作品が混然一体となった過程、状況を体験しうる。


 美術の伝播の流れ、仕組みも17世紀と現代では大きく変化した。日本人の好きなフェルメールにしても、現代では、17世紀に画家が生まれ育ったオランダあるいはヨーロッパだけに現存する作品の視野を限定していたのでは、その全容を知ることはできない。作品の多くがアメリカに所蔵地点が移っていることもひとつの理由だ。これは、レンブラントやラ・トゥールにしても、アメリカや他国の美術館や所蔵者の協力がなければ、作品の大多数を見ることはできない状況にあることを意味している。特別企画展などで、世界中から集められた、作品を同一の展示場で見られる場合もあるが、貸出自体を認めない美術館などもある。そのため、作品に直接対面するという機会は、所蔵される現地まで赴かねばならないという状況が生まれている。


新しい枠組みへの期待 
 このような美術家あるいは作品自体の世界的な移動も背景にあって、最近では「芸術地理学」あるいは「美術の経済学」というような新たな分析枠組みの提示も行われるようになった。たとえば、「芸術地理学」 Geography of Art では、時間軸とクロスする「場所」の特異性や地域の性格を重要視する新たな専門領域の提案がある。たとえば、Kaufman *3の提案はその嚆矢かもしれない。現在の段階では、理論的枠組みがいまひとつ未整理な感じはする。しかし、その方向は、このブログで考えてきた「時間軸」と「空間」という次元と重なってくる。蛇足だが、「移民」や「外国人労働者」の移動 migration については、欧米の大学ではしばしば地理学部で教育や研究が行われている。

  17世紀イタリアの画家カラバッジョ(1571ー1610)にしても、日本で最初に本格的な展覧会が行われたのは、2001年東京都庭園美術館で開催されたものであった。しかし、当時はカラヴァッジョの名前を知る人の数は、今と比べてきわめて少なかった。画家の名声と比較して、出展された作品で真作と帰属されたものはきわめて少なかったと記憶している。その後、この画家への関心度は、世界的に高まり、各地で次々と展覧会が企画され、出版物なども対応にとまどうほどの数に上っている。その一因には、「国際カラバジェスク研究」ともいわれる潮流が形成されていることもある。カラバッジョに強い影響を受けたカラヴァジェスキと称される画家と作品についての包括的研究が始まった。そうした画家たちの活動は、カラヴァッジョが生まれ、活動したイタリアという地域の範囲をはるかに越えて、世界的な影響を及ぼしている。これは画家の創造した画風やそこに込められた思想への共鳴が、人や作品を介して、当初の狭い地域を越えて世界に広まったことによる。

 こうしたことを考えながら、作品を見ていると、「美術の移動・移転」 という、これまであまり正面から捉えられなかった新しい次元が見えてくる。作品自体の地理的移動に加えて、芸術家を含むヒトの移動 migration とともに、かれらが携えてくる創造性や芸術観、そして成果物たる作品が、移動によって新しい地にもたらす側面にもう少し光が当てられてもよいと思う。記すべきことはあまりに多いが、いうまでもなく、ブログなどで展開できることは限られており、詳細は別のメディアに委ねたい

Thomas DaCosta Kaufmann, Toward a GEOGRAPHY of Art, Chicago: University of Chicago Press, 2004 (cover) 

*1  たとえば、ジャック・アタリ(斉藤広信訳)『1492 西欧文明の世界支配』ちくま学芸文庫、2009年
*2  ティモシー・ブルック(本野英一訳)『フェルメールの帽子』岩波書店、2014年

References 

*3
Thomas DaCosta Kaufmann. Toward a Geography of Art. Chicago and London: University of Chicago Press, 2004.

小谷訓子 書評 越境する美術史:芸術地理学に向けたトーマス・ダコスタ・カウフマンの一石『西洋美術研究』No.14、2008年

 

 

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国家の変貌:困難さ増す移民政策

2014年11月12日 | 移民政策を追って

 

 

 アメリカ中間選挙での民主党敗退で、オバマ大統領の立場は著しく厳しくなった。上下院が野党過半数となって、一挙に氷の壁が立ちはだかったようだ。懸案の移民法改革が話題となっている。オバマ大統領としては、今よりはるかに有利な条件で移民法改革を実施する機会は何度もあった。しかし、ウクライナ、イスラム国などの対外問題にかかわっている間に、絶好のチャンスを逃してしまった。その間にメキシコ国境ばかりでなく、アメリカ・カナダ国境もオタワ議会でのテロ事件などの勃発で、問題は困難さを増し、新たな次元に入ってしまった。

高まったハードル
  これまでは、アメリカ・カナダ国境は、最低限のパトロールで両国ともにやってこられた。ここはテロリストや不法移民の通過点ではないという両国の間に暗黙の了解のようなものがあった。しかし、今回の事件などで、5,525マイル(8890km)という長大な国境線の管理をどうやって行くかという新しい問題が生まれている。

 9.11以降、アメリカにとって、南北国境は以前とは比較にならない厳しい障壁が必要となっている。先進国のカナダ側からは、不法就労者などの流入は当面少ないにしても、テロリズム問題はアメリカ、カナダ双方に対応が難しい問題を生みだした。共和党の移民法改革案は、国内に居住する1100万人といわれる不法滞在者に、一段と厳しい対応を求めるだろう。南のメキシコ国境線は南部諸州の問題もあって、連邦政府が介入をさらに強化することは間違いない。オバマ大統領は大統領特権で改革を実施するとも述べているが、そこまでたどりつけるか、環境はきわめて厳しい。

 テロリズムの頻発で、アメリカばかりでなく、多くの国が国境の壁の強化に乗り出している。グローバリズムの進行とともに、移民労働者の移動も拡大するから、受け入れも増加すべきだとの見解は、あまりにナイーヴで、いまやどの国も採用できない方向だ。「アラブの春」も、難民、庇護申請者の数を増しただけだった。ブログでもすでに触れたことだが、人の移動の増加は犯罪ばかりでなく、疫病などの拡大をもたらす。エボラ出血熱の大流行は、国境管理の困難さを世界に伝えた。

イギリスはEUに留まることができるだろうか
 壁はヨーロッパでも高くなっている。スコットランド、カタロニア、ベルギー地域などの独立への動きは、実現するにしてもしばらく先だが、それまでの政治的過程は問題山積だ。

 フランス、イギリスなどでは移民への拒否反応が急速に高まり、事態はかなり急迫している。イギリスのEUからの離別も深刻さを帯びてきた。移民問題がかなり切迫してきたことがひとつの背景だ。

 最近のある調査で「移民が多すぎる」あるいは「移民は問題であって機会ではない」と回答した比率が50%を越える国はイギリス、フランスなどであり、イタリア、アメリカ、ポルトガル、オランダ、スペインなどでは40%近い。ドイツ、スエーデンなどは比較的低く30%前後である

 フランスの国民戦線、イギリスのUKI党など、移民受け入れ反対を標榜するポピュリストも増加している。

 問題がかなり切迫してきたイギリスについてみると、多くの調査機関の研究結果は、移民はイギリス経済に良い結果を生んでいるとしていうようだが、国民もキャメロン首相もやや浮き足だった感じがする。
 
 イギリスの直面する重要な四つの経済問題、すなわち景況、失業、NHS(国民健康サーヴィス)、移民(受け入れ)についてのある世論調査の時系列推移をみると、移民問題は2000年に入ってから問題と回答する人の比率が増加し、2010年近傍でやや低下したが2013年頃から再び増加している。経済が好転すると移民、とりわけ不法移民 illegals への懸念が高まる傾向があるようだ。イギリスの「不法移民」はアメリカのような「入国に必要な書類を持たない」(undocumented)入国者よりは、滞在目的が異なる名目で入国し、定住してしまうタイプが問題とされている。イギリスを訪れると、確かに以前よりアングロサクソン系ではない外国人が増加したような印象を受けるが、移民に特有な地域的集中の問題もあって、簡単には判断が下せない。

Source;The Economist October 25-31, 2014. 

 ここで詳細に論じることはできないが、グローバル化の本質も、一般に流布しているほど単純ではない。さらに、国家自体が大きく変貌している。かつての国民国家に近い内実を備えた国は少なくなっている。国家が新たな分裂・再編に耐えられず、再び国境の扉が閉じられつつある。平静な国境管理に戻るには、かなりの時が必要だろう。

 最終的には国民が判断するしかない。The Economist誌は、立場上からか、イギリスの移民問題にはいつも"冷静" クールに、どちらかといえば受け入れに賛成の見解を提示してきたが、このところ問題がかなり入り組んで(messy)きて、その対策もやっかいな状況にあることを認めている。EU自体の存立が危うくなってきている。アイロニカルな表現が好きなThe Economist(October 25th-31st, 2014)は、EUカラーのオウムのような巨大な鳥が点滴を受けている傍らで、ドイツのメルケル首相が「休んでいるだけよ」It's only resting...とつぶやいている表紙を掲載しているが、ドイツだけががんばっても救えそうにない。

  ドイツ連邦政府はいわゆるベネフィット・ツーリズム(労働のためではなく社会保障給付金を得るための移民)の波に乗ってきたルーマニア人などの国外退去を実施するようだが、これはEU条約内での政策対応であり、客観的事実に裏付けられるかぎり、支持されよう。イギリスのEU離脱問題とは、一線が画される。
 

 そして、アジアも波乱含みとなってきた。台湾での学生の議場占拠、香港での対立激化など、アジアでも新しい問題が起きつつある。人口激減を迎えている日本では外国人労働者受け入れは、必須の検討課題だが、なぜかどの政党、メディアも正面切って取り上げることをしない。うかつに手を挙げて、痛い目にあうことを怖れているのだろうか。1980年代以降、短期的対応でその場を繕ってきた国だけに、これから支払わねばならない代償はきわめて大きい。 

 

 The Migration Observatory, Ipsos, MOEI,2013

References

"The melting pot" The Economist October 25th, 2014
”Undefeated no more” The Economist November 8th 2014


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仕事ってなんだろう:L.S.ラウリーの世界(15)

2014年11月08日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

Man Lying on a Wall, 1957
『壁の上に寝ている男』


 この絵を描いてから2年後、ラウリーは「これとまったく同じような服を着た人がこうしていたんだよ。ハスリングデン(ランカシャー地方の地名)で、バスの上から見たんだ。傘がちょうどこのように立てかけられていたので、目についたのさ。
でも誰も信じてくれなかった」と話した。画家は傍らのブリーフケースに自分のイニシャルを
描き込んだ。そして言った。「引退するときの私だよ。」 
ラウリーが引退するとは、絵筆をお(擱)くことを意味していた。
しかし、それはどういうわけか彼にはできなかった。
(Rhode, 211) 

 

  L.S.ラウリーは、ポウル・モル不動産会社に地代、家賃の集金掛として42年間勤めて働いていた。65歳になった時、いつものように会社の事務所へやって来たラウリーは、「明日は来ないよ」と淡々と言った。そして翌日から事務所へ来なかった。

  しかし、ラウリーは「仕事」をやめたわけではなかった。6、7歳の頃から始めた絵をその後も描き続けていた。88歳で世を去るまで絵筆を握っていた。ラウリーの作品は誰もが欲しがった。この画家はいとも簡単に作品を人にあげてしまうのだった。それを見ていて、画商などはかなりはらはらしたらしい。作品にはオークションなどで驚くほど高い値がついた。彼の作品はこれまでの伝統的な「アート」(美術)という枠には入らないところがあったが、人間としても枠にとらわれないところが多かった。生活はまったく困らないのに、欲がない人だった。マンチェスターで普通の家に質素に住んでいた。


 社会的栄誉の機会も次々とやってきた。しかし、ラウリーはすべて断っていた。イギリスでは最高の栄誉と思われているナイト(騎士)の称号贈呈のオッファーも断ってしまった。まったく関心がなかったのだ。「もう十分に感謝されましたよ。」「人が作品を買ってくれるだけで十分」と答えていた。

 人々が彼のことを「サー・ラウリー」Sir Lowry と呼ぶようになるのもいやだったのだろう。確かに・・・・・・。

 

続く

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「べにはこべ」を知る皆さんは:記憶テスト?

2014年11月03日 | 書棚の片隅から



 「べにはこべ」? この名を聞いて、あっと思われた方はどれだけおられるだろうか。最近なにげなく開いた出版目録で、バロネス・オルツィ(村岡花子訳)『べにはこべ』(河出文庫)の書名を見て、大変懐かしく思った。早速入手し、読み始めたところ、やはり他のことは目に入らなくなった。面白さに引き込まれ、その日のうちに読んでしまった。この文庫版「あとがき」に、訳者の村岡花子氏がやはり一晩で読了されたと記されているが、少年時代に母親の書棚にあった本書を読み、その後も二度、三度と読んだ記憶がよみがえってきた。どちらかといえば、男性向けの冒険、スリル1杯の作品だが、ラヴ・ロマンスも巧みに折込まれ,読者層は少年から大人までかなり幅広いと思われる。

知る人少ないこの花の名前 
 数人の若い世代に、「べに(紅)はこべ」(英:Scarlet Pimpernel,仏:Le Mouron Rouge)を知っていますかと尋ねたが、残念ながら、だれも知らなかった。中には「はこべ」は知っていますがという人もあったが、今の時代、「はこべ」がいかなるものであるかを知る人も少ないのだ。ちなみに「はこべ」繁縷はナデシコ科の越年草で、春の七草のひとつだ。例のごとく、多少のいたずら心も働いて、フランス語の先生に本書のタイトルをご存知か尋ねてみたが、オルッイが東欧系の名であることはすぐに分かったが、本書のことはご存じなかった。日本を含め、27カ国ともいわれる多数の国で出版されたのだが、フランス人には心の底に残るなにかがあるかもしれない。しかし、フランス語版も刊行され、かなりの人気を集めた。



 さて、イギリス人の秘密グループの名前は、この可憐な野の花「べにはこべ」からとられており、オルッイが細部にも心を配っていることが知られる。

謎のグループ「べにはこべ」
 話の舞台は、1792年、フランス革命のまっただ中のフランスとドーヴァー海峡を介在して対するイギリスだ。国内の革命に加えて、オーストリアとの戦争状態にもあったフランスでは、貴族や聖職者で、オーストリアに密通しているとの嫌疑だけで、毎日多くの人たちが捕らえられ、ギロチン(断頭台)へ送られていた。その中で義侠心に駆られたのか、捕らえられた貴族たちを救い出し、イギリスへ亡命させる「べにはこべ」の名で知られた謎の一団がいた。かれらはいったい何者なのか。

 大変良く考えられたプロットで読者をあきさせない。グローバル化が進み、両国を結ぶ列車まである今日でもフランス人とイギリス人の間には、微妙な対立感、競争心が残っているようだ。原題 The Scarlet Pimpernel  は、1905年、小説の刊行よりも舞台での上演が早かったようだが、世界的なベストセラーとなった。イギリスでの上演回数だけでも2000回を越えたとされ、記録的な興行成績を残した。後先になった出版は大成功を収め、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、日本など16以上の言語に翻訳された。日本でも村岡訳意外に数人の訳者による刊行がなされ、アメリカ、イギリスでの映画化、TVドラマ、ミュージカル化、2008年、2010年には宝塚歌劇団による上演もなされたようだ。 管理人はTVドラマを見たような記憶はあるが、ひたすら強く印象に残るのは、波瀾万丈の最初の小説『べにはこべ』だ。村岡花子訳であったことはほぼ間違いないのだが(朝のドラマ化で一躍有名になった村岡花子だが、『赤毛のアン』は私にはあまり面白くなかった)。

 著者バロネス・エンマ・オルッイ(1685ー1947)は,ハンガリー生まれだが、両親が農民戦争を怖れてブダペスト、ブラッセル、パリ、と転々とし、最終的にロンドンに落ち着いた。その間に蓄えた知識で本書を書き上げたのだが、作家としての才能があったことは、そのよく考えられたプロットからも伝わってくる。この『べにはこべ』は、その後シリーズとして書き続けられ、1940年に刊行された『マダム・ギロチン』まで続いた。管理人は大成功を収めた最初の作品しか読んだことはない。『べにはこべ』は、簡単にいえば、歴史小説風のメロドラマなのだが、ずっと以前からお互いに対抗心が強いイギリス人とフランス人の双方を巧みに登場させ、オルッイの好みである貴族の優越性とイギリスの帝国主義的底流を織り交ぜて描いている。フランスの貴族を救出するという筋立てで、フランス人の貴族意識も充足するというバランスがとられている。


 
フランス語版 Le Mouron Rouge 表紙

記憶の糸がほぐれて
 明らかにチャールズ・ディケンズの『二都物語』が意識されており、弱きを救うという点で、後年のゾロやバットマン などへの影響も考え得る展開だ。それとともに、私は時代は革命前に遡るが、17世紀のフランス宗教戦争のほぼ終結となった1628年のラ・ロシェル攻囲戦を思い出していた。ロシェルに本拠を置いた改革派信徒ユグノーを降伏に追い込み、イギリスからユグノーの援軍に来ていたバッキンガム公を追い返した。戦争の埠頭に立つリシュリュー枢機卿の赤い戦闘服が記憶に甦る。

 日本でも恐らく現在60歳代以上の方々なら、読まれていなくとも書名は記憶に残っているかもしれない。当時の表現でいえば、血も沸き肉躍り、ドーヴァー(英仏)海峡を越えたロマンスも色を添えた一大話題作であった。その後、複数の翻訳も刊行され、映画、宝塚歌劇団による上演まであったことを考えると、相当多数の方が、『べにはこべ』には、なんらかの親しみや記憶をとどめておられるはずと推測するのだが、その後周囲の反響をみると、多少心許なくなった。

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