時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

しばしのお休み(2): 旅の道連れ

2022年10月22日 | 午後のティールーム

 白老のウポポイや苫小牧などについては記したいことは多いのだが、旅の途上でもあり、あきらめて近くの登別温泉に向かう。秋の山々は美しいが、コロナ禍の影響で人影は少ない。タクシーの運転手さんが問わず語りにコロナ禍前後の町の変化を語ってくれた。一時はインバウンドの観光客目当てのコンビニ、ドラッグストアまで開店し、大変盛況だったようだが、今はほとんど廃業してしまったとのこと。ホテル、旅館が林立する有名温泉街も昔日の面影はなく、多くの店が入り口を閉めており、昔日の賑やかさは想像もし難いほどで寂寞感が漂っていた。直後の旅行制限の撤去がどれだけ改善効果を発揮するだろうか。

旅の徒然に
林芙美子と内田百閒
旅に出る時は、若い頃からの習慣で途中で読む本を持っていく。大体肩の凝らない随筆とか短編が多い。今回は刊行されたばかりの林芙美子(1903年〜1951年)『愉快なる地図』(中公文庫、2022年)と内田百閒(1889年〜1971年)『蓬莱島余談』(中公文庫、2022年)の2冊にした。戦後書籍の出版数が少なかった頃、林芙美子、内田百閒、獅子文六などの作品は両親、更には両親の友人の蔵書まで借りて読んだ。その記憶が残っており、長らく読むことがなかった著者の名前が懐かしく久しぶりに手に取った。戦後生まれの若い世代の人たちは、ほとんど手にとることのない著者であり、作品だろう。



今回読んだのはいずれも広く紀行文の内に入る作品といえる。この作品は、1930年から1936年にかけて、台湾、樺太、パリなどへの旅に関わるエッセイである。『女人芸術』、『改造』などに寄稿された短い印象記などが後に編集され、一冊となっている。代表作ではないが、林が文壇に登場した頃の飾り気のない人生の時期が記されており、波瀾万丈であったこの作家を理解する上で得難い作品である。

林は昭和3年「改造社」刊行の自伝的小説『放浪記』がベストセラーになり、一躍文壇に登場した。彼女自身が幼い頃から貧窮な生活を経験しているがゆえに、貧民街に泊まることなどを物怖じしない、率直で飾り気のない文体で記されている。今の時代の若い人たちも抵抗なく読めるのではないか。文庫版表紙のイメージは、着物と下駄で旅先を走っていた林芙美子の時代、人生とは違和感を覚える今風のものになってはいる。

樺太を除くと、ブログ筆者も訪れたことのある場所があり、懐かしい思いがした。台湾の旅は林にとって初めての海外旅行でもあり、婦人作家との団体旅行だった。帰国後、『放浪記』(改造社)が予想を上回り売れに売れて、女性の新人作家としては異例のベストセラーとなった。

彼女は『放浪記』の印税が思いがけず入ったことで、3百円の現金を腹巻に、パリに始まるヨーロッパ大陸への旅に出た。インド洋を経由する海路もあったが、月日も費用もかかることもあって陸路を選んだ。時は昭和6年満州事変の最中であった。スポンサーも出版社などのアテンドもあるわけではない、女ひとり、3等列車の旅の情景が描かれている。

ブログ筆者の時代には、ヨーロッパへの旅の主流は航空機に転換しつつあり、モスクワ経由でヨーロッパへ旅する経路が一般化していた。シベリア鉄道を利用するのは、安価な学生旅行など、例外的になっていた。その意味でも、林が経験した大戦直前の中国、ロシアの庶民の日常の光景がきわめて興味深い。次々と入れ替わる乗客たちの描写は、何の飾り気もない粗野で貧しい庶民の振る舞いそのままだが、旅を終わってみると、彼女にはロシア人が最も人間らしく好感が持てる存在として残る。ブログ筆者の友人にもロシア人(カナダへ移住)の親友があり、20代から今日まで交友を続けてきており、同感することが多々ある。ロシアのウクライナ侵攻が、ロシア人一般へのマイナス・イメージを作り出したことに深い悲しみを感じる。

パリでの生活では、貧困な日々ではあったが、フランス語習得に「アリアンス(AllianceFrançaise)に通ったり、努力を怠らない人であった。

林は旅行好きで前後8度中国大陸に渡航、その中に2度は従軍して戦線に向かった。しかし、その思想、言動の故にかなり嫌な体験もしたようだ。戦時中は『放浪記』などは風俗撹乱の恐れある小説として発禁になったこともあった。貧困に背中を押され、原稿依頼を断ることがなかったこともあってか、林芙美子の著作数はきわめて多い。実生活では毀誉褒貶ただならぬ人生であったが、林本人としては最後までひたすら走っていたのだろう。

人と人とのつながりも、いまはあまり魅力を感じなくなった。私は旅だけがたましいのいこいの場所となりつつあるのを感じている
(『私の紀行』序、新潮文庫、1939年7月)。

1951年(昭和26年)6月28日心臓麻痺で急逝した。享年47歳。

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內田 百閒(1889年- 1971)も、その軽妙洒脱な筆致で肩が凝らない作品が多く、『 百鬼園随筆』『阿房列車』など、かなりの作品を読んだ。

百閒が 陸軍・海軍関連の学校、法政大学などで教鞭をとった後、しばらく失職していたが、友人辰野隆の計らいで1939年(昭和14年)、 日本郵船嘱託(文書顧問 - 1945年)の職を得た。今回の『蓬莱島余談』は、その間の出来事を台湾旅行を中心に関連する旅行談、周遊記、交友談などをまとめたものだ。

嘱託といっても実に優雅な勤務で、午後2時から半日づつ、水曜か木曜は休み、月二百円の手当だった。公務員の初任給が月70円か80円くらいだったといわれるので、大変恵まれた仕事だった。郵船側も百間になにか特別な期待をしていたとも感じられない。良き時代の大会社郵船の「社会サーヴィス?」だったのだろうか。

時には郵船の大型船の船上に当時の著名文士や知名人を招き、社費で盛大な宴会を開催するなど、金繰りに奔走したなどと言いながらも、優雅な仕事?を楽しんでいたようだ。大型豪華客船の一等船室に泊まり、豪華な食事に好物の麦酒(ビール)を飲み、日常の些事はボイ(ボーイのこと)に頼んで旅を楽しむ光景は、どう考えても借金に苦しむ貧しい生活とは見えないのだが。

                 
 点描
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借金と錬金術
旧制岡山県立中学校在学当時から父の死により実家の造り酒屋が倒産し、以後金銭面での苦労が多かった。著作には借金や高利貸しとのやりとりを主題としたものも多く、後年は借金手段を「錬金術」と称し、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていた。「錬金帖」という借金ノートも現存している。

宮城道雄との縁
今回の『蓬莱島余談』にも、頻繁に登場してくるが、百間は岡山時代から箏曲の名手宮城道雄と親しく交流していた。逆に宮城道雄の著作については百閒が文章指南をしていた。百閒と宮城は、ロシア文学者の米川正夫や童謡作詞家の 葛原しげる らともに「桑原会」(そうげんかい)という文学者による琴の演奏会を催していたこともある。

1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城が大阪行夜行急行「銀河」から転落死した後、百閒は追悼の意を込めて遭難現場となった東海道本線刈谷駅を訪問し、随筆「東海道刈谷驛」を記している。

円本
1926(大正15)年末から、改造社が刊行し始めた『現代日本文学全集』を皮切りに、出版各社が次々に刊行し始めた、一冊一円の全集類のことだが、これによって出版業界に製本から販売までのマスプロ体制が確立されたといわれる。印税で円本成金になった文士たちが相次いで海外旅行などに出かけたようで、百間もその例に漏れなかった。

林芙美子さんとの出会いもあったようだ。新造船八幡丸に神戸から林さんが乗船されるとのことで、高名な巾幗(キンカク:女性の意)作家をご招待し、歓待しようとしたが、そっけない対面だった。どうも波長が合わなかったようだ。このくだりも百間は記しており、読んでみて面白い。林芙美子の側にはこの時については何も記述も残っていないようである。スポンサーに恵まれ、苦労もない贅沢文士にしか見えなかったのだろうか。

1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳
老衰で原稿が書けなくなっていたと伝えられる。



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​しばしのお休み:北方への旅

2022年10月09日 | 午後のティールーム


爽秋の1日、思い立って北に向かって旅をする。素晴らしい快晴に恵まれ、残り少なくなった人生の旅を楽しんだ。

旅のスナップショットから、いくつかお見せしよう。直ちにどこであるか分かった方は、特別かもしれない。この施設の開設は2020年7月12日であったが、コロナ禍で大きな影響を受けたようだ。筆者は以前にも2度ほど訪れたことがある地だが、あたりの光景は一変していた。







場所は北海道白老郡白老町。ウポポイと呼ばれる場所である。
この新しい施設が生まれる以前の白老を訪れた時の印象は、寂寞とした雰囲気が漂っていたが、明るい観光拠点になっていた。アイヌの貴重な文化遺産の継承という意味では、今後の拠点となりうるだろう。しかし、何か大切なものが失われたという思いが残った。

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ウポポイは、北海道白老郡白老町にある「民族共生象徴空間」の愛称とされる。主要施設として「国立アイヌ民族博物館」、「国立民族共生公園」、「慰霊施設」を整備しており、アイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点となるナショナルセンターとして開設された。「ウポポイ」とはアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味している。
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館内の展示から:織物の作例

アイヌ民族は、近世には北海道全域、東北北部、樺太、千島列島という広い地域に居住、暮らしてきた。交易民として本州や北東アジアと関わり、独自の言語や文化をもった海洋民であり、日本の先住民族でもあった。しかし、世界の多くの地域で先住民が移住者などにより抑圧され、迫害を受けたり、衰退した事実はアイヌの場合も例外ではなかった。

「アイヌ」という言葉は、アイヌ語で「人間」を意味する。この言葉は民族間の接触が増えてから広く使われるようになったといわれる。


その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました。

〜知里幸恵〜

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知里 幸恵(ちり ゆきえ、 [1903年~ 1922]は、 北海道 登別市出身のアイヌ女性)。19年という短い生涯ではあったが、その著書『 アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。
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北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の記念碑


トウレッポン:ウポポイのPRキャラクター
トウレプ(オオバコユリ)の年頃の女の子

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​額縁から作品を解き放つ(3) 

2022年10月03日 | 絵のある部屋

ドミニコ・ギルランダイオ
《ジオヴァンニ・トルナブオニの肖像》
Domenico Ghirlandaio
Portrait of Giovanna Tornabuoni, 1488
Tempera on panel, 76x50cm
Madrid, Museo  Thyssen-Bornemisza

このブログで「個人的覚え書き」として取り上げてきた17世紀ヨーロッパ美術の作品を見ても、それらが創り出された環境は我々の住む現代の社会・文化環境とは決定的に異なっている。ましてや15世紀イタリア美術の世界まで遡ると、その時代的隔絶はあまりに大きい。

画面に描かれた人物にしても、現代人とはあらゆる点で大きく異なる。美術館などで15世紀のルネサンス絵画作品の前に立って、我々はこれらの作品をどれだけ正しく観ているのだろうかと思うこともある。観客が現代を遠く離れて、15世紀イタリアの社会環境まで立ち戻り、仮想体験をすることがどれだけできるだろうか。

例えば、この時期に多い横顔の肖像画を観ていると、どこまでが様式化されているのだろうかという疑問も生まれる。現代人と比較して、どう見てもかなり離れている。不自然な感じは拭い難い。しかし、当時の人々には十分共感、理解できたはずだ。

ピエトロ・デラ・フランセスカ《フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ
 & バティスタ・ストルツア》肖像
Piero della Francesca
The Urbino Diptych(Portrait of Federico da Montefeltro and Battista Storza)
1465-72, Tempera on panel, 47 x 33cm(each panel)
Florence, Galleria degli Uffizi

バクサンドールは、この問いに「時代の眼」Perood’s Eyeという視点を導入し、対峙しようとする。

15世紀の眼を通して見る
バクサンドールの前掲書第II部「時代の眼」では、著者は「絵画のスタイルは社会史の適切な材料だ」(序文)と記している。言い換えると、絵画は歴史書と併せて、見方によっては当時の社会を推し測るに重要な原史料となりうることが強調されている。

バクサンドールのアプローチは、視覚文化史ともいうべき広域領域への美術史学の拡大とも言えるかもしれない。その一例として、第 I部「取引の条件」では「美術史において金(money)は非常に重要だ」という瞠目する一文を提示している。それまでの伝統的な美術史家にすれば、驚くべき指摘といえる。

15世紀イタリアの画家と観衆が、絵画や彫刻という「ヴィジュアルな経験に基づく芸術にいかに対したか」、そしてこの対面の質が、画家に作品を依頼する「パトロンとなっているクラス」の考えとして、取り入れられる(Baxandall, p.38)。パトロンの想定と認識のスキルがいかに制作に携わった画家に伝わったか。言い換えると、パトロンたちの認識と期待、そして願望が、画家が制作した作品にどのように伝わっているか(p.40)。

バクサンドールの答は、我々現代人は15世紀の絵画について同時代人が所持していた経験を保持していないということだ。なぜか。当時の画家、彫刻家などのアーティストたちは彼らの時代の人々が絵画に対し持っていたものを保持していたー彼らの経験、知識、スキルのセットをほぼ共有しー画家たちはそれらを意識して制作していた(p.48)。

現代人にとってはデフォルメされていると思われる肖像画は、15世紀イタリア人にとっては意図的にデフォルメして描かれていると受け取られた。パトロンはその橋渡しをしていたといえる。

画材の価値より画家の技量へ〜問われたパトロンの美術的素養


ドメニコ・ギルランダイオ《曽祖父と彼の曾孫の肖像》
Domenico Ghirlandaio, Portrait of a Grandfather and and His Grandson
ca. 1490
Tempera of panel, 62x46cm
Paris, Musee du Louvre

15世紀イタリアではパトロンは単に画家の使用する画材に注文をつけたばかりか、書き込まれる背景として、山、川、森など、かなり指定もあったようだ(例:上掲右上)。パトロンは画家の仕事をほぼ全て管理していた。使われるピグメント(顔料・絵の具)の種類や量の管理まで行っていた。現代の画家が享受する自立した制作環境とは大きく異なっていた。本ブログで取り上げている17世紀以降の画家の環境とは、決定的に異なるものがあった。

15世紀末に向けて、パトロンの考えにも変化が見られるようになる。ピグメントなどの価値よりも画家の技量が問われるようになる。肖像画などにも新たな胎動があり、容赦ないリアリズムが求められたりするようになった。ギルランダイオの曽祖父と曾孫の例に見られるような驚くほどのリアリズム、二人の画像の対比、年代の対比、同じ赤色の衣服が与える親密感、窓外の景色の導入など新たな試みが見られる。

例えば、1485年のギルランダイオGhirlandaioとジョヴァンニ・トルナブオニGiovanni Tornabuoniの間の契約には、背景には人物、建物、城、都市などを含むことなどの具体的指示が記されているという。

宗教的要素の浸透も大きい。15世紀イタリアの人々はキリスト教主体の時代に生きており、教会その他で絶えず説教を聞いており、制作にあたる画家も、人々の誰もがそうした聖書の話を知っているものとしてカンヴァスなどに向かっていた。さらに芝居で俳優たちが自らの演技後も舞台に残っていることなど、当時の人々なら誰もがすぐに分かることがあった。

バクサンダールは全掲書第III部:「絵画とカテゴリー」において、著書の最初に戻る。彼は「作品のフォルムズ(forms)やスタイルは社会的環境に対応することを強調すること」から始める。「そして等式を逆転することで終わる。絵画のフォルムやスタイルは我々の社会への認識を鋭利なものとする」(p.151)

バクサンダールは結論として「視覚的なセンスは経験の主要な器官」であるので絵画は「文書や教会の役割」と同様に見做されるべきだとする。「それらはクアトロチェントの人が知的かつ良識的にいかなるものであるかを知るに洞察力を与える」(p.152)

Quatrocento クアトロチェント イタリア語、1400の短縮形:15世紀、特にイタリアの芸術や文学に関連して用いる。

パトロンが抱いた作品への想い
このように見てくると、この時代の美術の性格を支えるものとしてパトロンの存在は、作品のイメージ形成を含めて重要な重みを持つ。彼らの抱いた時代感覚、美術への考えは、画家と並び、あるいはそれ以上に作品の性格を支配した。彼らが画家に託したものは一体何であったのだろうか。パトロンの立場もそれぞれ多様であり、要約することは極めて難しい。

パトロンが原動力となって生み出される美術作品によって最も恩恵を受けたのは教会であった。この時代、作品主題の多くは宗教的な含意を持っていた。さらに、パトロンは自らが継承あるいは蓄積した富の使途として、画家に作品を依頼し、作品は教会を飾り、家族、知人などの間でも鑑賞の対象となった。これらの作品も、彼らの間で話題となり、さらに世代を超えて継承されていった。

パトロンの抱く様々な意図を、いかなる形で具象化するか。パトロンと画家との間では、恐らく口頭での意思伝達がかなり図られたであろうことは想像に難くない。そして、最終的にはパトロンと画家の間に交わされた契約文書と書簡で骨子は確定された。画家とパトロン間の共生の結果と言えるかもしれない。

バクサンドールが指摘した15世紀イタリアにおけるパトロンの優位性、とりわけ作品に盛り込まれるべき内容、金などの画材の使用についての条件などについての問題、それらが画家とパトロンの間に交わされた書簡、契約に記載されていることへの注目は、この時代の作品を鑑賞、評価する上では、確かに重要な意味を持つ。

バクサンドールは、イタリア・ルネサンス期の絵画スタイルの発展を支えた主要な証拠は、上述のように画家とクライアント(パトロン)の間に交わされた契約に残されるという。そしてその内容はそれまで美術史家によって解明されたことはなかったと独自性を主張した。

メディチ家の特別な役割
バクサンドールが著書で設定している15世紀中頃から後半にかけてのフローレンスの支配階級はメディチ家であった。彼らは当時のパトロンと画家の関係を取り仕切った演出家ともいうべき存在だった。さらに彼らは典型的なパトロンではなく、ルネサンス期において多数の画家に影響力を及ぼした。メディチ家は教会など公的な芸術ばかりでなく、個人レヴェルでの美術にも関与していた。彼らはフローレンス社会の支配者として、教会を支えるために多額の資金を供与した。メディチ家にとっては美術は激動する政治的変化の波に対して、フローレンスの市民を彼らの側に引きとどめる手段でもあった。

この時期の芸術の主題や色彩がいかに限られた範囲に抑制されていたかを知るには、パトロン、画家、そして彼らを背後にあって支配したメディチ家の思想があったことを改めて考える必要がある。

しかし、パトロンの絵画観、画題や画材への注文は、当時の美術作品に反映されるべきイタリアあるいはフローレンス社会の美術感、絵画のスタイルに対する影響力という意味ではかなり限られたものであったことに、ブログ筆者は着目したい。パトロンは
あくまで富裕層であり、社会全体を代表する存在ではなかった。パトロンという限られた階層の考えと観察を通して具象化された作品であることの限界にも気づかざるを得ない。

バクサンドールの「時代の目」'Period Eye'の概念は、単純に表現すると、ある文化において視覚的形態を形作る社会的行動であり、文化的行為である。さらに、これらの経験はその文化によって形作られ、それを代表するものとなる。

我々21世紀の現代人が、遠く過ぎ去った15世紀のパトロンたちと同様のレンズで作品を見るに際して使われる道具 toolとして、バクサンドールの「時代の眼」は、美術の理解のための革新的な概念 であることは間違いない。パトロン(クライアント)と画家の取引を通して凝縮され、時代の美的感覚が絵画や彫刻という形で美的に具象化するという考えは秀逸な発想だ。ある文化の下でヴィジュアルなフォームを形作る社会的行動であり文化的な行為である。しかし、この発想を実際に有用なレンズとするには多くの欠陥があり、さらに補正が必要に思われる。

 
‘Period Eye’ in simple terms, is the social acts and cultural practices that shape visual forms within a given culture.
quoted from Michael Baxandall's Painting and Experience in 15th Century Italy

続く

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