時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

年の終わりに:「人間は進歩しているか」

2009年12月31日 | 午後のティールーム

年の終わりに

  このところ年末になると、図らずもかなり哲学的なテーマが浮かんできて、しばし考えさせられる。ことさらに、自分でそうした課題を設定しているわけではない。色々なことがきっかけになって、考えさせられるだけのことである。

 一昨年と昨年は「幸福とはなにか」という課題について考えていた。比較的よく目にしているイギリスの雑誌 The Economist が、クリスマスの特別号に短い論文を掲載し、触発されたこともある。今年は「進歩についての現代の考えは、なぜこれほどまでに中身がなくなったのか」*1という論題だ。いずれも、ブログに取り上げるには難しすぎる。

 「進歩」
progress
という概念は、いつ頃歴史に登場し、その後いかなる経過をたどって、今日にいたったのか。「進歩」という概念自体、論者によってさまざまで到底一元的に整理はできない。しかし、漠然としてはいるが、人間がある望ましいと思われる一定の方向へ進んでいることを意味している。

 
こうした考えが生まれたのは、主にヨーロッパで人間の素晴らしさが開花したルネッサンスの土壌の上に、文化、技術、商業などの革命的変化が展開した17世紀以降、とりわけ啓蒙運動時代に遡るとされている。確かにこの頃から、地球上に生まれた富は、概していえば、さまざまに人間の世界を潤し、生活を豊かにした。その後、多くの起伏はあったが、20
世紀に入ると「進歩」の考えは次第に正面から問題として取り上げられることが少なくなった。そればかりか、議論自体が内容に乏しくなった。確かに、まだ学生であった頃、まさにこの問題を取り上げたバリーの古典的名著『進歩の概念』*2を読んだことがあった。その後、折に触れて考えることはあったが、本格的議論に出会ったことはなかった。

 「進歩」ということがまだ議論されていた頃の作品だが、今回、ひとつのたとえ話が取り上げられている。1861年に出版されたハンガリア人作家、イムレ・マダックの『人間の悲劇』Imre Madach. The Tragedy of ManAz ember tragédiája)と題した長詩だ。

 アダムとイヴが楽園を追われ、神から離れ、自らの力でエデンの園を再建しようとする。彼らは「私の神は自分だ」「私が取り戻したものは私のものだ。これこそが私のすべての力と誇りの源だ」と自負する。さて、どれだけのエデンを「取り戻す」か。二人は勇躍し、楽園を求める旅に出る。

 古代エジプトから出発するが、それが奴隷制の上に築かれていることを知り、次のギリシャに移るが、偉人を否定する民主制に飽きたらず、ローマの無害な世俗的享楽へと移行する。こうして時間とともに次々と11の歴史上の場を旅をするが、楽園は見いだせない。彼らの旅の最後は人間らしさが凍り付いたようなたそがれで終わる。人類の傲慢さに対する警告の物語だ。

 現代人の目から見ると、「進歩」はどう見えるだろうか。これほどの暗い閉ざされた光景ではないにせよ、諸手を挙げて人間は進歩しているとはなかなか言い切れない。宇宙基地ができる時代ではあるが、地球上に戦争は絶えず、環境悪化は進歩どころか、破滅につながりかねない。

 確かに人間の物質的生活は総じて豊かになった。それは17世紀とは比較にならない。しかし、天井知らずに豊かになった人たちの対極には、数世紀昔からほとんど変わらないような水準の生活を続けている人たちも少なくない。

 The Economist の論説は上記のマダックの旅の一場面を例示し、神が人間に求めることは、ひたすら進歩に向けて励むことだと結んでいる。楽園と堕落・退歩の両極のいずれかの選択ではないという。進歩は保証もされてはいないが、まったく希望がないわけでもない。すべて人間の意思と行動次第にかかっているという。至極妥当な結びといえば、その通りだ。しかし、個人的にはなにか物足りない。昨年の「幸福とはなにか」と同様、この課題も満足感にいたらず、思い半ばで新年以降に持ち越されそうだ。

 

どうぞ良いお年をお迎えください

 

References
*1
”Onwards and upwards: Why is the modern view of progress so impoverished?” The Economist December 19th 2009

 

*2
J.B. Bury. The Idea of Progress: An inquiry into its growth and origin, New York: Dover Publications, 1955, unabridged and unaltered republication of the 1932 edition, pp.357.

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再び力をもらう

2009年12月28日 | 午後のティールーム

 年末を目前に、さまざまなことが頭をよぎる。これまで漫然と見過ごしてきたものが、いつの間にか格段に興味深い対象に変わっている。思考の展開が早くなり、心覚えのメモすら間に合わないほどになってきた。なにがこうした変化をもたらしたかよく分からないが、自分の自由になる時間が急に増えてきたことがひとつの原因だと思う。しばらく前までは、こうした余裕が持てるか、多分に疑問であったために大変嬉しい。

 晩秋から年末にかけて、色々と考えさせられる出来事が続いた。そうした中からひとつ記したい。図らずもこのところ年末のブログに連続登場したカナダの友人の話だ。いつものように、今年の家族の出来事にかかわる話である。
 
 カナダ、オンタリオ州に住むこの友人N&WY夫妻は、花の栽培、とりわけ、つつじやしゃくなげの栽培に多大な関心を抱き、アメリカ、ヴァージニア州へつつじの展覧会を見に出かけた。とりわけ夫のNは庭園花壇の研究のために、車いすでひとりロンドンのキュー・ガーデンへ出かけるほどの植物好きだ。その分野では、世界でもかなり著名な研究者でもある。
 
 さて、オンタリオへの帰途、夫妻はワシントンDCで弁護士として働く長女を訪ねた。ところが、街中で夫のNは階段を踏み外し、運悪く背中の肋骨を二本折り、折れた骨が心臓近くに達するほどの重傷を負ってしまった。直ちに救急車でジョージワシントン大学付属病院へ搬送される。カナダ人である夫妻にとっては、初めてアメリカの医療システムを体験することになった。

 折しも、アメリカの医療システムは大変革の議論の最中にあり、保険の適用を始め、十分な治療が受けられるか、かなりの不安があったようだ。結果として、この病院の対応は素晴らしく、技術水準も高く丁寧で、カナダの大病院のそれと変わりはなかったという。病院診療の細部にわたる観察は、それ自体大変興味深いのだが、ここに記す時間がない。ただ、多くの批判にもかかわらず、アメリカの医療システムの基幹部分は確固たるものらしい。ちなみに、妻のWは退職しているが、長年にわたりカナダの大病院の看護・管理部長を務めていた。事故後の対応は、お手のものだった。不幸中の幸いといえよう。病院システムの観察も実に的確だった。  
 
 3週間ほどを要した応急治療の後、夫妻は車でカナダ、オンタリオの自宅へ戻った。妻のWが行程すべてを運転し、コルセットと緊急時の救命装置などを装着した夫は、後部座席でただ横になっていたという。この時ほど口数少なく、静かな夫を見たことはなかったとのこと(笑)。
 
 ところが、帰宅後、その後の治療を受けるようにと紹介されたマックマスター大学病院心臓外科で、急性の狭心症の疑いありとの診断で、7月にバイパス手術を受ける。手術は成功したが、脊椎などに持病もあって、その後のリハビリ過程は想像を超える厳しいものとなった。元看護部長の妻がそう言うだけに、壮絶なものだったらしい。幸い彼らが誇るオンタリオの病院の医療水準も素晴らしく、期待に十分応えた。しかし、「家は火事場のようだった」と妻のWYが回顧するほど、大変な状況が続いたようだ。なにしろ、病院へ通うといっても、生半可な距離ではない。

 この窮状を助けたのが、ワシントン、ロンドンなど遠隔の地に住む娘や息子たちだった。かねて、日本人にはなかなか見られないような強い個性と独立心に感心してきた家族である。彼らは休暇をとったり、週末を利用してオンタリオの自宅に戻り、両親の支援にまわった。これまでの彼らの行動には、安易に愚痴などこぼさない強靱さがある。この家族の愛情ときずなの強さに感動した。依然として先が見えてこない波乱含みの新年に向けて、この一家から年末にまた大きな力をもらった。

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SEASON'S GREETINGS

2009年12月27日 | 午後のティールーム

Georges de La Tour. St Sebastien Attended by St Irene c. 1649 Oil on canvas, 167 x 130 cm
Musée du Louvre, Paris
 

「どんな画家も、あのレンブラントでさえも、これほど驚くべき神秘に満ちた静寂を暗示した者はいない。ラ・トゥールのみが闇に潜む安らぎを表現することに成功した」
                                
                                 アンドレ・マルロー(1951)

                                                        
SEASON'S GREETINGS

 

 

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SEASON'S GREETINGS

2009年12月23日 | 午後のティールーム

SEASON'S GREETINGS

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最初の一枚・最後の一枚

2009年12月21日 | 午後のティールーム
 このブログで音楽について記したことはあまりない。絵画に比して、筆者の音楽についての表現能力が十分でないことがひとつの原因なのだが、関心がないわけではない。かなりのめりこんだ時期もあった。LP時代から始まっている。CD全盛時代を迎える少し前に、数度の転居や陋屋での保管場所の問題もあって、手持ちのLPをかなり整理したことがあった。今となってはかなり残念な思いがないわけではない。幸い、CDは一部を除きレイオフを免れて生き残った。

 LP時代からCD時代に移行してからも、仕事場で手元近くに置いて絶えず聞いている数十枚のCDがある。その中で、累積するとずば抜けて登場回数が多い一枚が、ディヌ・リパッティDinu Lipatti(1917-1950)の「ショパン・ワルツ集」だ。LPプレイヤーを自力で買い、最初にかけた一枚がこの演奏家だった。たちまち引き込まれた。その清流のような、そして凛とした演奏は、心が洗われるようで別格の感じだった。33歳という若さで世を去った天才への思いも多少は手伝ったかもしれない。写真でみる風貌も貴族的な感じがする。針音がかなり目立つが、飽きることなく聞いてきた。CD盤になってからは、音質がかなり劣化したような気がしている。LP盤のような格調の高さが失われているようだ。

 リパッティには、師のコルトーのような厚みや深みはなく、またその後の演奏家のような技巧にたけた所がない。しかし、何度聞いても飽きることがない純粋さがある。聴衆の期待に応えるがために、間もなく死に至る重い病をおして鍵盤に向かった最後のリサイタルについての逸話が語るように、演奏家としての強い責任感が胸を打つ。とりわけ、その後のドタキャンが多い演奏家などをみると、その精神力は一段と印象的だ。

 後にこのピアニストの母国、ルーマニアを訪れる機会があり、優れたピアニストを数多く生んだこの国の風土を思ったこともあった。あまりに若くして世を去っているため、もしより長い命に恵まれたら演奏家、そして作曲家としてどのくらいの高みへ上ったかは分からない。しかし、時代や国境を超えて評価の高いその演奏は、多くのことが錯綜し不安に満ちた今の世の中で聴くと、クリスタル・グラスの響きのようにも思える。 1950年12月、この希有なピアニストが世を去ってから、すでに半世紀を超える年月が経過したことに気づいた。
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残照:誰にも来る時

2009年12月18日 | 書棚の片隅から

 行きつけのある書店をうろついている時に偶然目にとまった。フランス文学の棚だった。『パリのおばあさんの物語』と題する40ページほどの小さな絵本だ。立派な想定の分厚い本の間に埋もれ、背表紙も数ミリ?程度、ほとんど見過ごしてしまうくらい小さな本だ。かわいそうな本と、思わず手にとって見ると、女優岸恵子さんの翻訳によるものだった。その後知ったところでは、静かな話題となっているらしい。

 パリのアパルトマンに住むひとりのユダヤ人おばあさんの話だ。80歳くらいだろうか。長年の苦労も重なって、心身ともにすっかり衰えている。買い物でもお金の計算はすぐにはできない。家の鍵も良く忘れる。自分の誕生日も忘れることがある。ハンサムでやさしかった夫はすでに世を去っている。息子もいるけれど時々電話をしてくるくらいだ。

 フランスへ初めて来たころ、言葉もよく話せず、つらい思いをしたことの追憶。第二次大戦中のユダヤ人狩りも経験している。夫はナチスによって捕らえられ、収容所へ送られてもいる。決して楽な人生ではなかった。それどころか、これほど苦難に充ちた人生はそうないのではないか。おばあさんは、いまその最後の道を歩いている。明日のことだけを考えて。

 いつの頃からか 周囲に高齢の人たちが増えたことに気づいていた。自分もいずれそうなることは知ってはいるが、まだ大丈夫かと思ったりしていた(笑)。しかし、確実に、そして誰にでも平等にその日はやってくる・・・・・・・・。人生の時間は有限なのだ!

 (ここで天の声?あり、「ブログなんてやめてしまえ」。そのとおりです・・・・・・・)

 この本を手にしてから数日後、夜更かしのつれづれに見たTVで、『残照 フランス・芸術家の家』なる映画に出会う。これも偶然の出会いだった。登場人物の平均年齢は80歳以上、俳優、画家、写真家、音楽家、作家など、それぞれに才能に恵まれ、栄光の日々を持った人々が、人生の最後の時間を過ごす家だ。ひとりひとりが強い個性をとどめている。

 パリ郊外に実際にこうした家があるそうだ。貴族の家を改装した立派なアパルトマンだ。画家のためにはアトリエもあり、ピアノのある立派なサロンもある。しかし、見舞いに来る家族や友人も少なくなって行く。時々、居住者であり、かつて令名をはせた女性ピアニストによるリサイタルも開かれる。入居者は楽しみにしているようだ。ピアニストの指は彼女の意思とは別にとても動かない。若いころは暗譜でひいていたのに。それでも、懸命な努力がしばし空間を充たす。そして、時は確実に過ぎて行く・・・・・・・・




* スージー・モルゲンステルス&セルジュ・ブロック(岸恵子訳)『パリのおばあさんの物語』(千倉書房、2008年)
‘UNE VIEILLE HISTOIRE’ texte par Susie MORGENSTEARN et illustré par Serge BLOCH

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顔は知っているが、はて

2009年12月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは改めていうまでもなく、多くの謎を秘めた画家だ。日本での知名度は著しく低い(それでも幸いファンは着実に増えている)。17世紀前半には、フランス王ルイ13世の王室画家になるほど、著名であった。しかし、その後急速に忘れ去られてしまった。記録の断絶なども加わって画家をめぐる謎はさらに深まった。

 
解明されていない問題のひとつに、この画家は肖像画を制作したかという謎がある。肖像画というジャンルは、記すときりがないが、簡単に言えばその時代に生きた個人の容貌や姿をモデルとしてではなく、個人の記録や記念のために描いたものだ。横向き、正面、半身、個人、集団など、肖像画の様式も時代の流行を反映し変化してきた。

 ラ・トゥールと同時代の画家たちの中には、ブログでも取り上げているニコラ・プッサンやレンブラントなどのように、自画像を残している画家もいる。一般に、肖像画はパトロンなどの依頼によることも多く、収入が不確かな画家にとっては安定した収入源となることもあってかなりの画家が試みている。ところが、現存する数少ない作品から推定するかぎり、ラ・トゥールは肖像画ばかりでなく歴史画や風景画などのジャンルにもほとんど手を染めなかったようだ。あるいは描いたとしても数少なく、逸失したりで残っていない可能性もある。

 この画家が肖像画を描く力量を備えていなかったわけではない。それどころか、今日に残る作品にみるかぎり、日常の市井の人々をモデルに描いたと思われる聖人像などは強いリアリティで満ち溢れている。描かれた人物はそれぞれ強い迫真性を持って、後世のわれわれにも迫ってくる。
 
 ロレーヌやパリの貴族社会を舞台に活躍したこの画家には、恐らく肖像画の依頼は数多くあったものと思われる。自負するくらい著名な画家であった。しかし、ラ・トゥールが進んで肖像画の制作を引き受けた痕跡は少ない。この画家は、自分の描きたいテーマを限定し、それをさまざまに描き分けることに意欲を燃やしていたようだ。パン屋の息子から身を起こし、名実共に富裕な画家となったラ・トゥールには、自ら肖像画を依頼する顧客を開拓する必要はなかったのだろう。多くの人が作品を欲しがる人気画家であり、『たばこを吸う若者』、『熾火を吹く子ども』のような小さな風俗画でも、かなりの高値がついた。

 しかし、それでも疑問は払拭されない。たとえば、ポートレートを主題とした美術書の表紙に、ラ・トゥールの描いた風俗画中の人物の一人が使われている。この『女占い師』の中心人物の容貌はあまりにもユニークで、一度見たら忘れられない顔だ。同様に知られているカードゲームの女性とともに、単に画家の想像で描かれた非実在の人物とは考えがたい。少なくとも当時の画家の生活範囲にこの容貌に近い女性が存在したか、多くの人が知っている市井のうわさ話や伝承などがあったに違いない。美術書などの表紙にお目見えした女性の代表的存在ではないか。顔は知っているが、画家の名前は知らないという人が多い。ラ・トゥールの謎は未だ解明されていない。


*
Norbert Schneider. The Art Of The Portrait, Rome: Taschen, 2002, pp.180

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もうひとつの「1688年」

2009年12月13日 | 書棚の片隅から



 先日のブログでジョン・ウイルズ『1688年:バロックの世界史像』について触れたが、実はもう一冊『1688年』がある。17世紀、そして1688年という年が歴史上いかに画期的な意味を持つものであったかを語っている。イエール大学の歴史家スティーブ・ピンカスの手になる後者の『1688年』は、イギリスの著名なジャーナル The Economist の執筆者たちが選んだ歴史部門「今年の一冊」Books of the Year になった。 今年は村上春樹の『1Q84』など年号が表題の本が話題に?

 ウイルズの著作は1688年近傍に起きた世界史的出来事をグローバルな次元で展望したものだが、ピンカスの著作は、1688年に起きたイギリスの「名誉革命」Glorious Revolution に焦点を当てている。この出来事については、ウイルズも当然ながら取り上げている。

 改めて説明するまでもない歴史的出来事だが、1789年のフランス革命などと比較してその世界史的意味は必ずしも正当に理解されてこなかったところがあるようだ。とりわけ日本の世界史教育は駆け足で時間軸上を走ってしまうので、深く考えることをあきらめさせ、興味を失わせてしまうことになりがちだ。歴史の真の面白さは「ゆっくりしか歩けない?年代」にならないと、分からないところがあるようだ。

 この年、カトリック復興をはかったイギリス王ジェームズ二世の専断に憤慨した議会の指導者たちが、新教徒プロテスタントの王女メアリーと夫であるオランダのオレンジ公ウイレムに助けを求めた。ジェームズ二世はトーリー党の国王寄りの感情を高く評価し、トーリー党員のほとんどが信奉している英国国教会を、ローマ・カトリック教会とあまり異なることがない、儀式張った権威主義的構造であると見なし、彼らの国教会主義と激しい反カトリック主義が共存・両立していることを理解できずにいた。

 こうした中で、もしジェームズ二世が王位を継承する息子がいないままに世を去れば、王位は娘であるオラニエ公ウイレムの妻メアリーが王位を継承することになっていた。当時ヨーロッパにおけるフランスの勢力に対抗するウイレムの戦略は、宗教上プロテスタントの反カトリック主義が支えることが多かった。オランダは、ホイッグ党急進派やユグノーの避難する所になっていた。 王や貴族たちがいとも簡単に処刑される時代であったから、事態の推移は当事者にとってきわめて緊張したものであった。結末にいたるまでの経緯も複雑であった。 結果として、翌1689年、メアリー二世およびウイリアム三世として王位についた。

 当初ホイッグ党急進派はウイリアムを国王と宣言するつもりだった。しかし、多くの人は単に選ばれた君主という考えにがまんできず、相続権もあるメアリーが王位につくことを望んだ。そのため王位はウイリアムとメアリーに授けられた。かくして、イングランドでは王位は選ばれるものとなり、君主制は崩壊した。

 そして「権利章典」Bill of Rightsが制定され、立憲政治の基礎が確立された。国王大権とされたものに数々の制約が加えられ、「古来の権利や特権」が包括的に改めて確認された。ジェームズ二世はアイルランドに逃亡し、とりたてて大きな混乱も流血の事態も起こらなかった。しかし、そのもたらした衝撃は深く大きかった。アイルランドにとっては将来を定める出来事となった。この名誉革命は、1789年のフランス革命、そして1917年のロシア革命と並んで世界史を画したものと評価され、世界史で最初の近代的革命としての位置づけが試みられている。

 ピンカスの新著は、単に1688年近辺の歴史的出来事を記述したものではない。現代とのつながりと含意の探索をさまざまに試みている。
とりわけ近代西欧リベラル国家の成立にかかわる興味深い歴史書となっている。イギリスがジェームズ二世を王座から放逐することになったこの革命が、その後の外交、軍事、経済、宗教などにいかなる変化をもたらすことになったが興味深く解明されている。17世紀の面白さを一段と深めてくれる一冊だ。

Britons Never Will be Slaves. Revolution Jubile, Nov. IV 1788.
「イギリス人は決して奴隷にならない」 名誉革命記念貨幣に刻まれた文字


Steve Pincus. 1688: The First Modern Revolution, Yale University Press, 2009, pp.664,

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ウエストポイントの彼方に見えるもの

2009年12月08日 | 雑記帳の欄外

  アフガニスタン増派についてのオバマ大統領演説を聞く。演説会場にハドソン川上流のウエストポイント陸軍士官学校を選ばれたことを知って、ある記憶がよみがえってきた。ヴェトナム戦争でアメリカの敗色が濃くなったある夏の日、ここを訪れたことがあった。ニューヨークから車で一時間くらいで到着した。ハドソン川を下方に望む風光明媚な高台の一角である。かつてハドソン川を支配する要塞が築かれた意味が説明を受けずともわかる。ハドソン川を航行する船舶の動きは、すべて掌握できる自然の要害だ。

 南北戦争のグラント、リー将軍、マッカーサー、アイゼンハウワーなど、歴史に名を残すアメリカの最高司令官たちが卒業した職業軍人養成の名門校である。陸軍士官学校といっても、卒業生は各界で活躍している。アメリカ国内に高まる厭戦気分にもかかわらず、広く美しい校庭では、白い制服をまとった士官候補生(カデット)たちが、整然と行進の練習をしていた。映画の一齣のようだった。実際に、ここを舞台とする映画が何本も制作されたようだ。

 オバマ大統領の演説は、アイゼンハウワーの名がつけられた講堂で行われた。かつて見物に訪れた時は女子学生は入学が認められていなかった(1976年許可)。しかし、今は女子学生の姿も見える。最前列には、クリントン国務長官の姿もあった。ワシントンからは車で五時間くらいの距離だが、ヘリコプターで飛んできたのだろうか。

 ウエストポイントが選ばれたのはいかなる配慮によるものだろうか。間もなくアメリカ陸軍を中心とする国家の最高戦略を担う士官候補生たちに派兵の意味を訴えて、アメリカの世界政治に果たす役割の重要性について共感を得たいと考えたのだろうか。

 サイゴン(現在のホーチミン市)陥落の映像が浮かんできた。アメリカがアフガニスタンの戦争に関わってから8年になる。来年夏までに3万人の増派を説明した大統領は「オバマのヴェトナム」にはならないと強調した。再来年7月に撤退は可能なのか。撤退とはいかなる状況がイメージされているのだろうか。来るべきその日のイメージはまったく見えない。大統領選挙戦の時にみられたあの国民的熱狂は、どこかに消え去ってしまった。アメリカは静かになっている。

 アフガニスタンでは、アメリカへの不信や怒りは広がっている。今回の増派で比較的短い期間に、アメリカが彼らの信頼を回復しうるとは思えない。この派兵に伴い、テロ活動などでアメリカ軍の犠牲者が増加することも不可避だ。力による制圧以外に平和実現の道はないのか。世論調査は、アメリカ国民の大勢は今回のオバマ大統領の増派決定を支持しているとしている。ヴェトナムの苦い経験は彼らの中に生きているのだろうか。

 筆者の脳裏ではヴェトナムとアフガニスタンのイメージはかなり以前から重なっている。アメリカ人ならずとも、あのサイゴン陥落のような光景は見たくない。ウエストポイント演説は重要な意味を持つ。オバマ大統領の目にはなにが映っているのだろうか。


* この大統領演説の後、案の定、さまざまな論評が怒濤のごとくメディアに流れている。ABCnews ではクリントン国務長官とゲーツ国防長官がインタービュに答えていた。ソ連のアフガニスタン侵攻とは異なると述べてはいたが、説得的ではない。さらに、アフガニスタン新戦略をめぐって円卓議論も行われていた。しかし、論者の見る角度は異なっても、誰もこの戦争の行き着く先は読めないのだ。9年目に入る戦争に関わっているアメリカでは、国民の間に次第に孤立(不干渉)主義が高まっている。アフガン介入を正当化させているのは、唯一、9.11がこの地で画策されたからということにすぎない。オバマ演説が支持を得たかに見えたのは、ひとえに彼の言葉の力だ。しかし、それも次第に空虚に響くようになってきた。ノーベル平和賞はやはり早過ぎたのでは。

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1688年の世界

2009年12月03日 | 書棚の片隅から

 瞬く間に時が過ぎ、また年末が近づいてきた。例の如く、仕事場に積み重なった書籍や書類の整理を試みる。といって、とりたてて身辺の風景が変わるわけでもない。一種の気休めにすぎない。しかし、以前にも記したことがあるが、少しばかり楽しみでもある。これまでの人生で、読みたいと思った本に出会った時は、できるだけ即座に入手するようにしてきた。そのため、ほとんど供給が需要?を上回っている状態が続いてきた。読書が主たる楽しみ、娯楽であった時代から続く職業病?だが、いまさら改めるつもりもない。

 いつの間にか書棚から流れ出て、床に山積みになっている書籍の中から、忘却の底深く沈んでしまったものを再発見することがある。いつか暇が出来たらと思っていたタイトルが見つかることが多い。今回もいくつか「掘り出し物」があった。

  そのひとつジョン・E・ウイルズ『1688: バロックの世界史像』という一冊を手にする。今から遠くさかのぼる1688年という年に、世界ではなにが起きていたか。いわば同時展開の歴史ドラマである。舞台は5大陸の各地にわたっている。17世紀という時代に格別な関心を持っていたので、いつか読もうと思って発行された年に入手はしていた。描かれているひとつひとつの出来事は、掘り下げ方が浅い感じは否めないが、こうしたアプローチでは仕方がない。直ちに引き込まれて読みふける。

 ひとつの興味深い出来事が記されている。第6章「島の世界」で取り上げられている実際にあった話である。「島の世界」とは、当時のオランダ東インド会社のアジアでの拠点であったジャワ、現在のインドネシアのことである。登場するのはコルネリア・ファン・ネイエンローデ Cornelia van Nijenroodeという名の58歳の女性である。彼女は、1630年に日本の平戸でオランダ人商人と芸者であった日本人女性との間に生まれた。そして、今、1688年に、生まれて初めてオランダを訪れている。目的は、東インド会社の上級社員であった最初の夫で亡くなったピーテル・クノルから相続した財産をすべて持ち去ろうとしている第二の夫ヨハン・ビターの企みに対して訴訟を起こすためだ。バタヴィアの上流社会に起きた事件の一齣である。当時は東インド会社でも、かなりの噂になったらしい。

 実はこの事件、その詳細は以前に読んだ別の本**ですでに知っていた。主人公の女性コルネリアは、幼い頃から「おてんば」(懐かしい響き!)として知られていた。最初の結婚は夫の事業も成功し、膨大な遺産を継承した。残念ながら夫の死後、彼女が再婚の相手に選んだオランダ人の売れない弁護士は、彼女より9歳年下ながら性格も良くなく、相性が悪かったらしい。彼女は前夫から相続した膨大な遺産を奪われそうになる。

 強欲で法律的手管にたけた夫との間に起きた相続事件は、その後15年近くを要する複雑な展開となる。オランダ高等裁判所は最終的に1691年7月にようやく判決を下し、コルネリアに夫と平和に暮らすように命じ、彼女の財産から得られる収入の半分の権利を夫に認める。8月の休廷の後でさらに審議が行われるはずであったが実現せず、コルネリアはその年に世を去ったらしい。他方、ビターはオランダで裕福に暮らし、1714年に死んだ。 

 1688年というと、このブログがしばしば取り上げているフランスやネーデルラントの画家たちが活動した時代にほど近い。ラ・トゥールの息子エティエンヌの晩年に当たる。そして、あのレンブラントの娘夫妻がバタヴィアへ移住した頃だ。交通。通信手段が発達した現代と比較すると、なににつけても不便な時代であった。コルネリアは律儀にも長年にわたり、バタヴィアから平戸にいた母親の親戚に定期的に手紙を書いていた。無事配達されるまでにはどれだけの時間がかかったのだろうか。

 17世紀は、経済のグローバル化がようやく進み出した世界で、人々がお互いの存在を手探りで確かめているような時代だった。厳しい環境風土のなかで、くじけることなく各地で展開されていた人生の営みに感動する。このウイルズの時間軸と地域の広がりの両軸を基準とする見方は、実は美術史などでも最近試みられているのだが、今日はこれでおしまいに。

 
 ジョン・E. ウイルズ、Jr.1688バロックの世界史像』別宮貞徳監訳、原書房、2004John E. Wills, Jr. 1688 A Global History, W.W. Norton

** Leonard Blusse (Diane Webb, Translator), Bitter Bonds: A Colonial Divorce Drama of the 17th Century,

白石広子『バタヴィアの貴婦人』新典社、2008
 本書には江戸時代、バテレン追放令で国外へ追われた人々が、異郷ジャカルタで過ごした人生のいくつかが描かれている。コルネリアについても、記されている

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前車の轍を踏むなかれ:外国人看護師・介護士受け入れ

2009年12月01日 | 移民政策を追って
 11月27日、「特報首都圏:インドネシア人看護師二年目の試練」なる番組を見た。日本とインドネシア間のEPA経済協力協定の下で、昨年、日本が受け入れたインドネシア人看護師のその後を報じるドキュメンタリー番組である。日本政府は、外国人看護師、介護士の受け入れは、人手不足対策ではないとしている。その点はここでは問わないとしても、事態はあまりにも混迷している。あの悪名高い外国人の研修・技能実習制度と同じような誤りと矛盾を抱え込んでいる。

 日本は新政権となり、政治は一見活性化したかに見えるが、医療、看護、介護いずれの分野についても、国民が将来に安心できる政策を確立できていない。そればかりか目前の事態についても、有効な対応ができていない。対策が遅れ、逡巡している間に事態は深刻化する一方だ。高齢化は容赦なく進行し、このままでは2014年には50万人の介護労働力が不足すると推定されている。その後に続く団塊世代の介護はどうなるだろうか。将来についてのさまざまな不安に充ちた今日の状況で、国民の健康にかかわる不安を取り除き、安心感を確立する意味はきわめて大きい。

 母国インドネシアでは看護師の正式な資格を取得し、職業経験もある人たちが、自国よりは高給が得られると聞いて日本へ出稼ぎに来ている。しかし、予想もしなかったさまざまな「壁」に遭遇し、自分の専門性もまったく発揮できないで煩悶の日を過ごしている。看護師として、本国ではやったことがない患者の「おむつ換え」など、彼らにしてみれば予想していなかった仕事をさせられている。日本語がよくできないがために、自己主張もできない。こうした仕事をしている間にスキルが劣化してしまうという不安もある。昨年104名受け入れた中で、母国出発前に聞いていたことと現実のギャップに耐えきれず、すでに帰国した者も出ている。 

 最も大きな「壁」は、彼らの日本語能力の不足なのだが、そればかりではない。来日以前の日本の実態や制度についての説明があまりにも不足している。前途に待ち受ける「日本語による国家試験」の高い障壁についても、実感が薄いようだ。半年間の日本語研修を含めて3年間働いていれば、さしたる苦労なく合格すると思っていたのだろうか。出国前に、日本での仕事や生活環境が十分説明されていれば、来日した彼らもこれほどの悲哀や絶望を感じないですんだはずだ。 

 他方、予想以上の負担が受け入れ側にも発生している。その内容は、宿泊施設の準備と補助、生活必需品の支給、健康保険・年金の負担、日本語教育の負担などさまざまだ。もし彼らが試験に合格してくれないと、大きな損失が生まれる。看護、介護は、最も人間性の機微に触れる仕事である。高齢者や病気や障害を持った人々に日々対して、看護・介護に関する知識と技能の保持・発揮が求められる特別な職業だ。日本の失業率が高く、多数の失業者がいるからといって、人手が不足している介護分野へ再訓練、配置転換することで数合わせができる話ではない。金銭的にも報われることが少ない仕事だ。労働条件も恵まれているとはほど遠い。病苦や高齢によるさまざまな苦難を抱える人々の日々を助け支えることに、より大きな価値を感じないとできない仕事だ。大きな人手不足が存在するにもかかわらず、離職率がきわめて高いのは、現実が厳しく定着する人が少ないことを示している。

 送り出し、受け入れ側の双方に、未解決な問題が山積している。なぜ、これほど欠陥だらけの制度を強行しているのか理解に苦しむほどだ。政策立案者の視野が狭く、実態を正しく掌握していないことが最大の原因といえる。役所の縦割りも制度を歪めている一因だ。あの技能研修制度と同じように、最初から矛盾を抱え込み、ただ形だけを整えたにすぎない。制度の計画時にもう少し配慮していれば、当事者の間にこれほどの失望、落胆、不満が生まれないですむはずだ。最初から欠陥のない制度設計をすることは難しいにしても、起こりうる問題のかなりは予想できるものだ。さらに悪いことには、ひとたび制度を作ってしまうと、必死にそれを守ろうとする。官僚制度の悪い点のひとつだ。

 鳴り物入りでスタートした国家戦略局も、存在感が薄い。日本が直面する重要問題を整理し、基本政策について確たる方向を示すべきではないか。医療・看護・介護政策は、国民の将来への不安を解消する上でも、きわめて重要な意味を持っている。政府が人手不足対策ではないとしても、看護師・介護士は元来、国際的な職業分野であり、人的資源の「グローバル・ソーシング」とも言うべき変化への視点が必要になっている。高度な能力を持った人材を相互に協力して養成し、関係国間で環流する仕組みを構築しなければならない。看護師・介護士を受け入れている国は、日本だけではない。国際医療・看護・介護などの領域で、新たな視点での国際医療・看護センター(仮称)などの構想も必要かもしれない。日本語教育は送り出し国で来日前に一定水準へ到達するまで実施する。日本の看護・介護の実情について、出発前に十分な説明を行う。難解な日本語の平易化など、試験問題の理解を助けるような改善を行う。受け入れ側の負担軽減策の導入など、改善のために直ちに行えることは多い。


References
出井康博『長寿大国の虚構:外国人介護士の現場を追う』新潮社、2009年
本書は、外国人介護士受け入れの現状とあり方について、鋭く問題を指摘した好著だ。

「アジア諸国の国際労働」Business Labor Trend, 2006.4
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