時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

濃霧の中に射す一筋の光:トマ・ピケティ教授の新著

2014年07月30日 | 特別トピックス

 



 TVやインターネットの普及のおかげで思いがけないことを経験することがある。7月26日に放映されたNHKBS1番組『グローバル・ウイズドム:問われる資本主義~激論「21世紀の資本」~』を観ていると、海外から意見を述べる「賢者」(men of wisdom)の中に、ひとりだけ帽子を被って出演している人がいる。あれ、どこかで見た姿と思い、よく見るとやはりそうであった。ハーヴァード大学経済学部教授リチャード・フリーマン氏である。
 
 かつて同教授とJ.メドフ教授が若かりしころに著した”Two Faces of Unionism.” The Public Interest, vol.57, Fall 1979 (「労働組合の二つの顔」)なる論文を邦訳したことがあった。その縁で、同教授が来日した講演会の際に司会役を仰せつかったことがあった。その時も講演会を通して、帽子を被っておられた。以後、帽子は同教授のトレード・マークのようになり、学会などでもすぐに見つけることができた。同教授はいまやアメリカの労働経済学会の大御所ともいうべき存在である。今回のTV番組でも、きわめて適切なコメントをされていた。
 
 話題の経済学者トマ・ピケティの新著を中心にしての番組とのことだったが、全体の印象は番組制作のあり方が中途半端で拍子抜けした。ピケティ教授の新著のタイトルを番組表題に掲げるならば、少なくとも著者のピケティ氏にインタビューし、著作の目指した目標、今後の政策の実現可能性、出版後の反響への氏の考えなど、重要な諸点をしっかりと確かめておくのが著者に対しての礼儀であったと思う。それだけでも30分くらいは必要だろう。しかし、番組ではピケティ氏の新著が紹介されただけで、さまざまなコメントに対して、ピケ教授が応答される場は準備されていなかった。
 
 いくらアメリカでピケティ教授の著作が大変な人気とはいえ、日本でこの著作を読んだ人は未だ数少ないはずだ。海外から参加された知者と目される人たちは、当然ピケティ教授の著作を読まれている。しかし、番組編集者を含め、他の参加者があの仏文900ページ、英文700ページ近くの大著を消化されて、番組に臨んでいるとはにわかに信じがたい。管理人の場合でもフランス語版で読み始め、途中から英語版に切り替えて3ヶ月近くを要した。読後感はきわめて爽快である。
 
 ピケ教授の力量をもってすれば、本書のエッセンスは間違いなく100ページ以内に集約することができるだろう。しかし、同教授がこの大著を世に問われたのは、著者の骨太の主張と斬新な分析成果をできるかぎり多くの人に説得力をもって伝達するためであることは間違いない。この著作の素晴らしさはやはりこの大冊を読んでみないと正しく伝わってこない。バルザックの小説などを例に挙げながら、200年近くに及ぶ主要国の統計分析を初めとして、10年余を費やしたとされる研究成果を、平易に、そして見事な説得力をもって読者に伝えようとしている。そして、その目的は見事に達せられた。

 ピケ教授は資本主義の根底に流れる格差という大問題を真正面から取り上げ、その分析結果を大変分かりやすく提示して見せた。近来の経済学書としては珍しく明解に、歴史書のような感覚で読み通すことができる。10年に一度くらいしか見られない大輪の花のような力作である。経済学の初学者泣かせの難解な数式の羅列もなく、提示されるグラフもきわめて整理され、論旨もきわめて明解である。難解なことをもって良書?と考えかねないような近年の経済学専門書とは、大きく一線を画している。
 
 読後の爽快感・充足感は大変大きい。比較的こうした書籍を読み慣れている管理人も近来にない大きな感銘を受けた。同じような問題に多少関わってきた者として、諸手を挙げて推薦できる作品である。この点は番組以前にのブログでもお勧めしてきた。


 もちろん、この分野に多少なりと関わる人々なら疑問も生まれよう。むしろ疑問が生まれないことが不思議である。課題の設定、論理の展開と結論が明解だけに、切り落とされた部分をめぐって異論・反論は生まれるのは当然と思われる。所得や資産の格差を生みだす根源についても、詰めるべき議論は多い。しかし、それらは今後に残された課題だろう。今は濃霧で前方がほとんど見えなかった状況に、一筋の光が見えた思いがする。
 

 最大の論点はピケ氏の提示した格差の縮小、改善にかかわる政策の実行可能性にある。この点、海外からの参加者は誰もがその困難さを指摘していた。ピケティ氏の提示したグローバルな富裕税にとどまらず、複数の政策が総合的に立案、実施されることが必要だろう。世界が混迷しているだけに、前途は多難である。フリーマン教授がコメントした資本の所有者を資本家以外に広く開放することも、重要な政策となる*2。管理人もこの点はかなり早期から指摘してきたが、多少力をもらった思いがした。
 




J.メドフ/R.フリーマン(桑原靖夫訳)「労働組合の二つの顔」 『日本労働協会雑誌』 23(9), p25-37, 1981-09. 
*2
桑原靖夫「日本的経営論再考」他、一連の従業員管理に関する論考

 

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現代産業社会を描ききる:L.S. ラウリーの作品世界(2)

2014年07月27日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



Industrial Landscape
1955
Oil paint on canvass
114.3 x 152.4cm
「産業の光景」(拡大は画面クリック)



青い空のない世界
 ラウリーがその生涯に残した作品はいくつあるだろうか。実は作品数は非常に多く、未だ正確に確認できていないようだ。1970年代に、初めてこの画家の作品に出会って以来、折りに触れて、かなり多くの作品を見てきたつもりだが、IT上や書籍などで見ただけのものも数多い。現実に、この画家は創作欲が湧くと、手元の封筒やメニューの裏、紙の切れ端などに思い浮かんだイメージをスケッチして、同席している友人・知人などに渡していたらしい。これらも、いまやコレクターの垂涎の的だ。

 本ブログの管理人が、最初に見て感動した作品は、イングランド北西部の工業地帯を描いた作品 Industrial Landscapes 「産業の光景」 といわれる一連の作品である。画面全体に、多数の工場建屋、煙突、橋梁、船舶、汚れた河川、湖沼などが描かれている。工場には煙突が林立し、あたかも現代中国の工業地帯のように、ほとんど排煙規制をされないままに、空の色が変わるほど煙を立ち上らせている。実際にも管理人は、1960-70年代のイギリス北部の工業地帯で、こうした状況を彷彿させる情景を見た記憶がある。中国においても、ほぼ同様な光景を幾度となく目にしている。ラウリーの描いた光景は無くなっていないのだ。

 この画家の作品に初めて出会った人の中には、稚拙なアニメ調の画家ではないかと思ってしまう人もいるかもしれない。しかし、画家が描き出した産業社会のイメージは、実に多岐にわたり、それらを子細に見ていると、画家が生涯になにを思い、結果として産業革命がもたらした社会の変化のあらゆる面を描く創作活動に従事することを志し、それを貫いたことが、見る者に強く伝わってくる。
 
 描かれている画題は、画家が長らく住んだイングランド北西部の地に働く労働者やその家族などが圧倒的に多い。ロンドンなどのエスタブリッシュメント(既存体制派)の批評家の目には、北の無名の画家が稚拙な絵を描いているとしか映らなかったこともあった。しかし、この画家はそうした厳しい目にもかかわらず、一貫して産業革命以来、人間社会を変貌させてきた工業化とそのさまざまな面を描き続けてきた。伝統的な美術の対象にはふさわしくない画題も臆することなく制作の対象にしてきた。そして、年ごとに圧倒的な人気と名声を確保してきた。多くの人がラウリーの作品をこよなく愛してきた。

 イギリス美術界のエスタブリシュメントの代表とも考えられるテート・ブリテンは、ながらくこの画家を現代画壇の主流と見ることはなく、十数点の作品を購入しただけであった。そして、画家の死後、およそ37年を経過した2013年に、初めてロンドンの主要美術館として、この画家の特別展を企画・開催した。今は30余点の画家の作品を所有している。

美と醜さのバランス
 ラ
ウリーが残した多数の作品を見ていて気がついたひとつの点は、どの絵をみてもどんよりとした薄暗い空が描かれていることだ。台風一過の後に見られるような抜けるような青空など、どこを探しても見当たらない。イギリス北部特有のどんよりと曇ったような空、それに加えて、工場や都市の排煙がもたらした灰色の空ばかりだ。最近の工業デザイン的にも洗練された美しい工場とは異なり、長年にわたる煤煙などで薄汚れた工場の列、その間を縫って歩くマッチ棒のような姿をした労働者たちがこれでもかとばかりに描かれている。


 しかし、この画家の作品をよく見ていると、そこにはラウリーが影響を受けたといわれるフランス印象派の画家たちの絵とはおよそ異なった、形容しがたい美しさが見えてくる。立ち並ぶ工場の建屋もさまざまに異なる。繊維工場、鉄工場、炭鉱、発電所など、工業の世界を見慣れた人は画家の周到な目配りに感心する。立ち並ぶ煙突から出る煙の色、黒、灰色、赤みががった色、それぞれに描き分けられている。そして、それらの煙は空中高く舞い上がり、灰色の空に混じって行く。大気汚染に苦しむ現代社会の原風景ともいえる光景が描かれている。この画家の作品は美しいが、その美しさは、同時になにか薄汚れ、時にはみにくいものと並存している。しかし、そのバランスは巧みにとられている。ラウリーは抽象画の画家ではない。人間社会が生みだした汚れやみにくさから目を背けることなく、正面から対峙してきた。普通の画家たちが取り上げない、時には目を背けるような光景も、積極的に描いてきた。



Industrial Landscape, Wigan
1925
Oil paint on canvas
40.5 x 36.5cm 

「産業の光景:ウイガン」

 

 薄暗い画面に林立する工場の煙突と不気味な色をした煙。イングランド北西部グレーター・マンチェスターのタウン、ウイガン(ウイガン・アスレティック・FCの本拠地でもある)を描いた作品。中央部に黒煙に包まれたような赤色の工場が唯一目立つ存在だ。繊維工場だろうか。林立する煙突や電柱は、現代社会の墓標のようにすらみえる。ジョージ・オーウエルの名作 The Road to Wigan Pier(1937)  「ウイガン波止場への道」を思い起こさせる。そこにはいまや中間層からは失われてしまった生活様式、人間らしい生活が描かれている。
 
 この地に生まれ育った当時のイギリスを代表する音楽家でもあり、コメディアンでもあったジョージ・フォームビー(1875-1921)は、舞台で挨拶代わりに”Coughing Better Tonight?” 「今夜は咳の具合はいいかい?」とシニカルだが、呼吸器病に悩まされる労働者階級が多い観客に語りかけた。フォームビーはチャーリー・チャップリンに影響を与えたことでも知られているが、自ら結核の病に悩まされていた。

悲劇にも目を向けていた画家

 

Pit Tragedy
1919
Oil paint on canvas
39 x 49 cm 

「炭鉱の悲劇」

 産業革命は工場ばかりでなく、それを動かすエネルギー源、そして労働者の家庭で使われる石炭の採掘に従事する多数の炭鉱労働者を生みだした。炭鉱労働者が住む住宅の一角、日本でもかつてみられた光景である。しかし、この作品に描かれた光景は、日常の普通のものではない。炭鉱で爆発事故が起こり、犠牲になった炭鉱労働者と家族が不安な面持ちで状況を話し合っている。ただでさえ暗い風景が一段と黒ずんでいる。陰鬱な雰囲気が画面全体を包み込んでいる。炭鉱労働者の父や息子たちはどうしているのだろう。大きな不安にただ立ち止まる人々の容姿に、そのやり場のない悲しさが漂っている。

 イギリスに限ったことではないが、鉱山事故は工業化の過程で続発し、そのつど多くの犠牲者を伴った。この作品が制作された年にも、イギリスで二つの大事故が発生した。ラウリーが生まれ育ったランカシャー、マンチェスターの近傍にも多数の炭鉱があった。エネルギー革命の進展とともに、この地の鉱山も次々と閉山され、その途上でも多くの事故が発生した。
 

 画家としてのラウリーの目は、産業革命がもたらした工業化の一部分だけでなく、それとともに変容する社会のあらゆる面に向けられていった。

 

 

イギリスの炭鉱事故の記録はThe Coalmining History Resouce Centre で詳細に知ることが出来る。 

 

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現代産業社会を描ききる:L.S.ラウリーの作品世界(1)

2014年07月24日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

L.S. Lowry
Coming from the Mill
1930
Oil Painting on canvas
42 x 52cm
The Lowry Collection, Salford

L.S. ラウリー『工場から帰る人たち』 




 この絵は、誰がいつ頃なにを描いたものだろう。読者の中にはすでにご存知の方もおられよう。管理人にとっても長くごひいきの画家のひとりでもある。しかし、これまで、ほとんど言及することをためらってきた。書き出すと、もうひとつ、ふたつ新しいブログを始めねばならないと思っていたからだ。しかし、かなり長い間、人生の傍らにいてくれたような画家とその作品である。ある時期、身辺にはこの画家とその世界を思い出すもので溢れていた。人生の断片を記すからには、やはり欠かせないと思い、少しだけ記すことにした。その全容をお伝えすることはできないことは承知の上である。17世紀のラ・トゥールとは、またかなり離れた時空である。


 隠れサッカーファンとして、マンチェスター・ユナイテッドやシティの試合(マッチ)を見ると、必ずといってよいくらい思い出す画家である。画家の名は L.S. Lowry(1887-1976)、ローレンス・スティーヴン・ラウリー。イギリスで最も人気の高い現代画家のひとりである。しかし、長い間、ことさらに無視されてきたところもある。他方には熱狂的なファンもいる。いうまでもなく管理人は後者に入る。画家の最初の作品に出会ったのは、1970年代繊維や自動車工業の労働問題を調査していた頃に、この地の大学で教えていた友人の招きでの旅の途上であった。ラウリーはかなり作品数の多い画家であるが、一枚一枚を見ている間に、この画家が生涯、描いてきた産業社会なるものの実態が、絵画という作品を通して、文字や写真とは新たな次元で浮かび上がってくるのを感じた。


 少し画家の来歴も記さねばならない。ラウリーの評価は、長い時間をかけて、エスタブリシュメントの側の低い評価から多くの人々に愛される画家へと変化してきた。昨年テイト・ブリテンで開催されたこの画家の最初の企画展は、彼の死後初めて、ロンドンの主要な美術館で開催されたものとなった。この企画展には90点以上の作品が展示された。彼の作品の特徴のひとつであるイギリス北部の工場町における荒涼とした、時に暗鬱な光景とそこに働く労働者階級の姿の描写は多くの人々の注目を集めてきた。

画家の生い立ち 
 ラウリーは1887年(明治20年)ランカシャー・ストレットフォードに生まれた。父親はアイルランド系であった、両親の間でただひとりの子供だった。ラウリーの両親は、決してある規範を逸脱したような性格ではなかったが、後の画家の回想からはラウリーにとってはかなり抑圧的に感じられたようだ。地域の学校に通いながら、家庭教師のレッスンも受けた。そして1904年不動産会社の事務員となった。


 1905-1915年の間、彼は後のマンチェスター美術カレッジの前身で絵画を学んだ。その後1909年に両親とともにサルフォードのペンドルベリーへ移り住み、40年余りを過ごした。この地には紡績会社が多く、その工場町の空気は、その後の画家の生活、制作への基礎を形作った。ラウリーはサルフォード美術学校で学び、画題として当時発展し始めた都市と工業化してゆく景色を描くことに興味を抱いた。そして、この画家は一生を通して、工業化とそれに関係する出来事、風景を一貫して描き続けた。
 

資本主義社会はなにをもたらし、どこへ行くか
 われわれが生きる現代社会は、しばしば資本主義社会とも呼ばれてきた。この言葉が使われ始めたのは19世紀中頃のイギリスであった。産業革命の進展、18-19世紀にかけて定着した近代的な量産システムと、天災、飢饉、疾病、疫病などによらず、この新たなシステムが生みだした新たな貧困と所得や富の格差の拡大は、いまや世界の行方を支配しかねない重要課題だ。われわれがたどり着いた現在までの道、そして今後の世界はどうなって行くのだろうか。すでにさまざまなことがいわれているが、少し時間軸で範囲を限定すれば、われわれが住んでいる資本主義社会といわれる体制が生まれ、発展して、現在にいたり、そしてこれからどうなるのかという問いに尽きる。

 このブログで、サッカー・ワールドカップ後の世界は、きわめて難しい局面を迎えるだろうと記したことがある。ワールド・カップが開催されている間は、地球の人口のかなりの部分が、日常の生活の苦難や悩みを忘れたいと思っているかのように、熱狂していた。かなりの間そのユーフォリア(陶酔感)に浸れるだろうと思っていた日本は、見せ場もなく一次リーグで敗退し、しぼんだ風船のような状況だった。そして、ドイツが優勝、熱狂はさめ、待っていたかのように、イスラエル・パレスチナ、ウクライナ、東アジアなどで、いくつかの危機が世界を襲っている。ラウリーは町の人たちがサッカー(フットボール)に興じる光景も描いている。フットボールは娯楽が少ない労働者階級にとって、大きな楽しみのひとつであった。

画家の心象風景
 この作品、工場での1日の仕事が終わり、人々が工場から出て家路につく光景を描いている。背景には高い煙突が立ち並び、黒煙を立ち上らせている。空は煤煙に覆われ、薄暗く、青空の一片も見えない。前景には同じような衣服を身につけた多数の人々。が背を丸め、前屈みで忙しそうに歩いている。季節は恐らく冬であり、寒風に耐え、ひたすら工場を離れ家路を急いでいる。ロウリーの作品のひとつの特徴である「マッチ棒のような人たち」"Matchstick men" と呼ばれる労働者階級の人たちである。人物ひとりひとりの個性は感じられないが、全体としてひとつの強く訴える力が伝わってくる。これらの作品はロウリー独自の世界を醸し出すものであった。1960年代、そして1970年代のマンチェスター、そしてロンドンでもこうした風景は日常のものであった。1980年代初めでも、ロンドンはスモッグの日が多く、青空は見ることが少なかった。炭鉱労働者とサッチャー首相が闘っていた。ラウリーのこの作品は、ほとんど毎日眺める実際の工場を写実的に描いたものではない。画家の心象世界に残るイメージを具象化したものといえる。
 
 ラウリーはフランス、印象派のドガ、マネ、スーラなどの影響も受けていたと考えられる。それとともに、イギリス、ラファエロ前派の美術家ロセッティの作品を多数、集めており、自らの作品形成の霊感的源泉としていたようだ(これらの点には後日触れることがあるかもしれない)。 

  時代とともに、ロウリーの評価はエスタブリシュメントの側の低い評価から多くの人々に愛される画家へと変化してきた。昨年テイト・ブリテンで開催されたこの画家の企画展は、彼の死後初めて、ロンドンの主要な美術館で開催されたものとなった。この企画展には90点以上の作品が展示された。彼の作品の特徴のひとつである北の工場町における荒涼とした工業化する地域の光景とそこに働く労働者階級の姿の描写は多くの人々の注目を集めてきた。ラウリーの作品数がいったい何点になるのか、分からない。かなりの数になり、多数の公的、私的なコレクションに納められている。最大のコレクションは画家がながらく過ごしたサルフォードに2000年開設された画家を記念する総合的なアート The Lowry であり、約400点を所蔵している。

 数多い作品を、つぶさに見ていると、工業化社会、そして資本主義といわれる制度が人間の社会、生活をどれだけ変容させたかが、痛いように伝わってくる。それは、これからの時代を考えるに際して、大きな拠り所となる。ロウリーの作品は一点だけをみる限りでは、とりたててへんてつもない工場や労働者の光景であったり、当時勃興していた都市生活の一断面であったりする。しかし、しばらく見ていると、画家が生きた産業社会の空気、そこに生きる人々のイメージが次第に浮き上がって観る人に伝わってくる。 




  

L.S. Lowry(1887-1976)
 その後、ラウリーは1919年からマンチェスター美術アカデミー、パリ・サロンに出展するようになった。19世紀後期のフランスの画家たち、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ジョルジュ・スーラ、モーリス・ユトリロなどの作品から影響も受けた。1930年代初期にはロンドンのロイヤル・アカデミーにも出展した。1945年にはマンチェスター大学から名誉修士号を与えられた。1961年には文学博士号を授与された。翌年1962年にはロイヤル・アカデミー会員に選ばれた。1965年にはサルフォードの名誉市民になり、その後も多くの名誉に輝いた。そして1976年に世を去るまでモットランに住んだ。しかし、ラウリーは大英帝国勲位、ナイトの栄典など5度にわたって断っている。市民的名誉は受けても、国家から授与される栄誉は、自分にはそぐわないと思っていたのだろう。

 ラウリーは疑いの余地なく、最も名誉あるイギリス画家であり、工業化を続ける北部の文化と光景を比類無い形で描き出した。第二次大戦前後の北部の工業化し、都市化する光景を描くことに秀でていた。ラウリーは多数の空虚な印象を与える景色や海の風景も制作した。これらの作品はラウリー独自の世界を醸し出すものである。
 
 さらにこの画家は生涯に同時に多数の鉛筆画を残している。これらを含め、この画家の作品は、今日では熱心な愛好者の収集対象になっている。20世紀イギリスの主要な画家のひとりとしてのロウリーの位置は、下に掲げる ”Going to the Match ”『試合を見に行く』 と題された作品が、オークションで実に190萬ポンドという高額な値がついたことでさらに強まった。

 


Going to the Match 『試合を見に行く』
1953
Oil paint on canvas
71 x 91.5cm
Professional Footballers' Association (PFA) プロフェッショナル・サッカー選手協会が所有し、National Football Museum 暫定で 国立サッカー博物館に展示されている。

沢山の人たちが試合が行われるスタディアム(ボルトン)に向かって歩いている。中央に一部スタンドが見えるが、すでに多くの座席が埋まっている。右側には近くの工場群が見える。スタディアムへ向かう人々のほとんどは男性だが、女性も少し混じっているようだ。イギリスのサッカー文化の1面を伝える著名な作品。ちなみにラウリー自身はマンチェスター・ シティFCの熱心なサポーターであった。
当時、サッカー場は画家にとっても重要な制作の対象であった。このラウリーの作品より20年ほど前には Charles Ernest Cundall, Arsenal v. Sheffield, F.A. Cup Final, Wembley, 1936 と題された楕円形のスタディアム全景を遠望した作品が制作され、恐らくラウリーにも影響を与えたと思われる。


1993年、ロンドン、テート・ブリテンで、1976年の画家の死後、ロンドンの主要な美術会場では初めてのL.S.Lowryの回顧展が開催された。


Reference
T.J.Clark and Anne M. Wagner, LOWRY AND THE PAINTING OF MODERN LIFE,
London: TATE, 2013. 

 

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今後を考える道しるべ:トマ・ピケティの最新作

2014年07月13日 | 書棚の片隅から

 


Thomas Piketty, CAPITAL IN THE TWENTYーFIRST CENTURY
The Belknap Press of Harvard University Press, 2014


英語版表紙

  
 


  われわれが生きている世界はいったいどこへ向かって進んでいるのか。その将来はどうなるのか。最近の動向をみるかぎり、あまり明るい方向に進んでいるとは思いがたい。今世紀もまた紛争・戦争の世紀となることは、ほとんど確実になっている。人間はなぜかくも争いが好きなのか。イスラエルとパレスティナ(ガザへのイスラエル侵攻)、イラク、ウクライナ、そして日中韓をめぐる対立など、まもなく終幕となるワールド・カップ後の世界は、かなり心配なものがある。


 今後の世界を見通すための手がかり、羅針盤がほしい。そうした思いがつのる中、昨年来アメリカ、ヨーロッパなどで大きな話題を呼んできた
フランスの経済学者トマ・ピケティの労作については、ようやく日本でも一部の経済学者やメディアの間で注目を集めるようになった。このブログでも簡単な紹介を行ったことがある。

 当初、フランス語で900ページ近いこの作品を手にした時は、目次内容などから一見して読書欲をそそられたが、同時に読了にはかなりの覚悟が必要とも感じた。あの難解なマルクスの『資本論』を考えたからだった。しかしながら、フランス人 professeur particulier の助けを借りながら、意を決して読み始めてみると、論旨は実に明解で読みやすい。現代の世界が抱える課題を、「持てる者」と「持たざる者」の格差に集約し、その過去、現在、未来を統一した視点から見事に分析している。

  近年の経済学の専門書は論理は精密ではあるが、前提条件などの制約が多すぎ、数量化が暗黙の前提になっているため数式も多く、結果として迫力を欠き、読後感が薄いものが多かった。しかし、本書はテーマの設定、資料の選定、集計、推論、政策的課題など、専門書として手堅くステップを踏んで、結論に導く作業が見事で、きわめて成功している。『21世紀の資本』という壮大な表題からして、読者を一瞬ためらわせるが、読み始めてみると、歴史書の側面も含まれ、急速に引き込まれて行く。世界の主要国が注目する課題である所得格差の過去・現在・未来を、見事な分析と筆致で解き明かしている。

 主として米日独仏英の5カ国を対象に、時間軸では実に200年以上も遡り、所得階層などを基準に、近現代史を通した資産・所得の変遷が鋭利なメスで切り裂かれ、分かりやすく提示されている。バルザックのたとえ話なども随所に出てきて、経済の専門家でなくとも、容易に読めるよう巧みに工夫されている。ともすれば、仕掛けばかり複雑な現代経済学の専門書と比較して、政治経済学の伝統が継承され、同時に歴史書を読むような楽しさもある。挿入されているグラフなどについても、必要最小限で大変分かりやすい。さらに詳細な内容・背景を知りたい場合には、著者のHPに照会するなどの手段がある。インターネットが生みだしたきわめて利便性の高い手段が駆使されている。

 とりわけピケティの母国フランスは1789年のフランス革命直後から、国民の資産を「土地・建物と金融資産を併せて驚くほど現代的かつ総合的に記録」し続けてきたと書かれているが、こうした認識が著者をして、この壮大な作業に向かわせたようだ。まったく別の領域での関心から17世紀のフランスの史料のわずかな一端に接したことのある管理人も、各地の古文書館に思いもかけない記録が保存されていることに驚嘆した。とりわけ租税公課にかかわる史料は、今日からみるとまさに宝庫にふさわしい。税金は古来、領主や国家の財政基盤を支える最たる手段であるだけに、徴税に関連する史料は詳細で、しばしば付帯する情報も貴重なものがある。

 ピケティは共同研究者とともに、15年におよぶ歳月をかけて、膨大な資料の解析に切り込み、「資本(または資産)の収益率は常に経済成長率を上回る」という驚くほど簡単な論理に整理してみせた。有効な政策手段をとらずに放置すれば、格差は広がるばかりなのだ。これはアメリカ経済学会会長でノーベル経済学賞を授与されたサイモン・クズネッツ(1901-85)の「所得格差は経済が成長すれば自然に縮小していく」という命題に、正面から対決を迫るものである。至近な例では、日本のアベノミクスの成長戦略にも関わっている。さまざまな多国間貿易交渉が格差のあり方にいかなる影響をもたらすか、考える基準にもなる。

 経済のメカニズムはそれ自体複雑である上に、自然災害や戦争などによって歪められる。200年を越える資料を駆使して、時間軸の上で俯瞰することで、ピケティは自らの見出した一般的原則がいかなる場合に例外的結果を生むかを記している。たとえば、二度にわたる世界大戦や恐慌期には富裕層の資産が大きく目減りすることで、格差が縮小している。

 もちろん、これだけの大著に批判される点がないわけではない。欧米諸国では、すでにかなりの議論が白熱して行われている。総じて賞賛が多く、統計記録の整備だけでも優れた貢献であるとの評価もなされている。今後、本書の提示した衝撃的な結果をさらに掘り下げた議論が世界的に展開することは確実だが、現時点で管理人が見るかぎり、最大の難点は、過去・現在以上に将来についての推論であり、今後の世界を救うための政策的提案の妥当性にある。この点をめぐっては、さらに議論が必要だろう。しかし、次の世代にとって残された時間は多くはない。格差が破滅的な事態にいたらない前に、グローバルな政策対応に着手する必要がある。

 この大著を読み終えて、数々の問題を考えさせられた。ピケティの導き出した論理が、今後の世界経済にどれだけの妥当性を持つかという点が問題だが、ここではひとつだけ記しておこう。かつて、マンサー・オルソン(Mancur Olson、Jr., 1932-1998 )という優れた経済学者が第二次大戦後の時期における戦勝国であったイギリス、アメリカ経済の低成長、衰退と敗戦国である(西)ドイツ、日本の相対的に高度な経済的発展を、集団的行為の理論という彼独自の理論の延長線上で、説明してみせた。ドイツと日本は、敗戦で国土は壊滅状態となり、多くの国富を喪失したが、同時に専制的政府、財閥などの特別な利益集団の硬直的なネットワークも破壊された。戦前に存在した大きな社会的格差もかなり消滅した。しかし、復興とともに新たな桎梏の源が胚胎し、発展する。格差は再び拡大の道へ戻って行く。これらの国々の経済的盛衰を見てみると、さまざまなことを考えさせられた。所得や資産の格差がそこに存在する人間の行為にいかなる影響を及ぼすかという問題もそのひとつだ。

 いずれにせよ、ピケティの功績は、平等と結果をめぐる古くからの論争に大きな一石を投じ、ひとつの新鮮で注目すべき前進をもたらしたことは確かだろう。ピケティのこの斬新な分析と推論がすべての点で、問題なしとは言い切れない。すでにいくつかの欠陥や政策の実現可能性について指摘もなされている。重要なことは、政治家や政策立案に当たる者が、こうした分析をいかに考え、今後の政策のために生かすかにかかっている。今後の世界を生きる若い世代の人たちには、人生の指針となるかもしれない。仏英版ともにきわめて読みやすく、しかも多くのことを考えさせる注目の作品である。暑さ(厚さ)をいとわず、大著に挑戦する気概のある人たちには、今夏の読書にお勧めの一冊である。





References
Mancur Olson. The rise and Decline of Nations: economic Growth, Stagflation, and Social Rigidities, New Heaven and London, Yale University Press, 1982.(加藤寛監訳『国家興亡論ー『集合行為論」からみた盛衰の科学』PHP 研究所、1991年。

拙稿「国家の盛衰と労使関係ー80年代労使関係研究のための覚え書」 『日本労働協会雑誌』1984年4,5月合併号

 

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日本:信じがたいほど小さくなる国?

2014年07月06日 | 特別トピックス


人口構造の推移(拡大クリック)
厚生労働省・人口問題研究所

  


  英誌 The Economist の最近記事の見出しだが、一瞬私の目をとらえた。「信じがたいほど小さくなる国」 "The incredible shrinnking country"というタイトルだ。日本の急激な人口減少がもたらす国力の驚くほどの減衰を論じている。この雑誌、しばしばアイロニカルな論調で、鋭く世界を分析することで知られる。もっとも時々これはやり過ぎと思う風刺に出会うこともあるが*2、総じて目配りが確かで、的を射て外すことが少ない。

 日本の人口が危機的な減少過程に入っていることは、この小さなブログに限らず、いたるところで取り上げられてきた。管理人は政府が人口減少の持つ重要さを正当に評価することが遅れ、もっと早期に有効な政策を導入してこなかったことが今日の危機をもたらしたと思っている。遅まきながら提示されている政策には、女性の社会進出支援、育児・介護支援や家事支援、高齢者の雇用延長といった政策が含まれている。そのひとつひとつは、評価しても、全体として迫力に欠け、今後の日本が活力を取り戻し、人口も一億人の水準を維持するという政策上の実効性という点ではかなり疑問を感じてきた。

母親を待つ不安な子供たち
 いつも通る道に公的な託児所がある。朝は働きに出るお母さんたちがせわしげに子供を預け、それぞれの職場へ出かけていく。父親らしき男性も時々見かけるが数は少ない。前面がガラス張りで道路に面している。20人くらいの子供たちを3-4人の女性が面倒を見ているようだ。

 子供たちは朝は活発で、母親としばし離れるのをあまり気にしていないようだ。友達と遊べるのが楽しみなのだろう。しかし、時々、夕暮れに通ると、しばしば可哀想な光景に出会う。母親たちが次々と迎えに来てそれぞれ嬉々として
帰って行く。しかし、2,3人の子供が取り残され、立ち上がって、両手と顔をべったりとガラス戸に押しつけて、母親が来るのを待っている。皆とても不安げでほとんど泣き出しそうな顔をしている。

 きっと母親だって、仕事が遅くなったり、夕食の買い物をしたりで、子供たちが待っているのを知っているに違いない。恐らく全国いたるところで、こういう光景が見られるのだろう。働きながら子供を産み育てるということの重みは、計り知れない。

 こうした重圧を覚悟の上で、出産、育児を続けるには、家庭のことばかりではない。産まれてくる子供が健康に育ち、教育の機会を得て、ひとりの立派な社会人になるまでの見通しが多少なりともついていないと、踏み切れないだろう。女性が仕事と結婚のいずれを選ぶかという選択に苦しむのも、その両立を図ることがかなり困難な社会環境にあるためだ。

 人口は「ひのえうま」のような迷信でもなければ、短期には増減ができない。しかし、将来に明るさが感じられる長期的展望の下で、相互に連携のとれた有効な政策を導入することができれば、増加を期待することができる。最も重要なことは、子供を産んで育てたいという夫婦を支える家庭・社会の環境基盤を、どれだけ確保できるかにある。子供を育てたい、生まれてくる子供には平和で健康的な希望や未来があるはずだという人間的な要望が社会的に担保されないかぎり、安心して子供を産み育てるという環境は形成されない。

きわめて困難な1億人水準維持
 英誌が指摘する政府の人口予測では現在約1億2700万人の人口は、これから50年後には7割くらいに減少するとみられている。さらに、仮にそのままの状況が続くならば、2110年には4300万人の日本人しかいないという予測値もある。政府が試算している2060年において人口1億人の水準を維持するには、現在の出生率1.43を2030年までに、2.07にまで引き上げる必要がある。政府は出産・子育てを支援する予算を倍増するとしているが、これまでの人口推移を見るかぎり、きわめて困難と言わざるを得ない。

 人口減少がもたらす負担は想像を超えて大きい。高齢者の比率は増加し、数が少なくなる若い人たちが支える負担は増えるばかりだ。働き手は少なくなり、社会基盤の維持も難しくなる。高齢化した母親の介護のために60歳代で早期退職した知人の男性もいる。時々話しを聞くが、夕刻、年老いた母親のために、食事の材料を買い求め、調理をして、おそらくさしたる会話もなく、食事をしている風景を想像することはつらい。 

 次の時代を見る必要はない管理人だが、この国の来し方、行く末を多少は考えてしまう。個人的には、これからの時代、大国であることを競う必要はないと思う。小さな国になっても、国民が誇りを持ち、輝きを失わない国であってほしい。ワールド・カップのドラマを見ながら、さまざまなことを思った。大国であっても出場できずにいる国、小国であっても誇りを持ってプレーし、観る人を感動させる国もある。

 実際に半世紀あるいは一世紀後にどれだけの人口になるかは、誰にも正確には分からない。日本の人口は減少しても、世界全体としては(伸び率は減少しても)人口増加が進み、世界経済自体が破綻状態となるとの予測もある(可能性は高い)。その中で、日本の人口が大幅に減少することだけは、ほぼ間違いない。日本がこれからの時代をどう生きるかは、単に出産・育児支援、就労支援、高齢者活用などの個別の政策を超えた次元で考えねばならない。最重要の課題に対してどう対応するか。その試案はまだ出されていない。




 "The incredible shirinking country" The Economist May 31stk, 2014

*2 ”How to deal with a shrinking population” The Economist July 28th 2007 (減少する人口にどう対処するか」)なる特別記事で、表紙に泣きそうな顔の日本人の赤ちゃんが掲載されていた。その説明には「限定生産」 Limited Edition と記されていた。

How to deal with a shrinking population

 


7月9日追記:

7月3日S.K.先生の訃報を知る。先生のテニス仲間が管理人の恩師であったこともあり、17世紀ヨーロッパについて折に触れて、興味深いことを多数ご教示いただいた。世に知られたドイツ文学の大家であったが、同僚として接していただき、大変楽しい人生の一時を過ごした。謹んでご冥福をお祈り申し上げる。

 

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