Hendrick van der Burch. The Card Players, ca. 1660, Detroit Institute of Arts,(Gift of Mr. and Mrs. John S. Newberry).
やはり底が抜けていた原子炉圧力容器! 予想したとおり、福島原発廃炉の「埋葬」墳墓は汚染水の「掘り割」で囲まれることになってしまった。そして、校庭に残される持ってゆき場所のない汚染土の山。
東京電力、政府そして一部の専門家の話は、当初から楽観的でおかしいと思っていた。発表のつど、内容が深刻になってきた。なぜ、海外メディアの方が詳細で正確なのか。そう思いながら、(オサマ・ビン・ラディンもお好みだったという)BBCのワールド・ニュースを聞いている時、原発にはまったく関係ない別のニュース*に興味をひかれた。少し憂鬱な話題から離れたい。
報じられていたのは、カナダのケベック州のニュースだった。5月9日、ケベック州政府は、これまでほとんど未開発のままに残されてきた同州北部のさまざまな鉱物、森林などの天然資源、エネルギー源の大規模開発に乗り出すことになったと発表した。福島原発の事故の影響も考慮されたのか、発電所はすべて水力などの再生可能エネルギーで発電される。ちなみに、自然資源に恵まれるケベック州でも原発が1か所操業している。
このケベック州の新プロジェクトの対象となる地域は、16-17世紀にかけて、フランス、イギリスなどの毛皮商人、探検家などが活動した地域でもある。あのフェルメールの『士官と笑う女』あるいは上に掲げた同時代の別のオランダ画家の描いた作品『カードで遊ぶ男女』で、若い男が被っている毛皮の帽子の材料であるビーヴァーが多数捕えられた場所である。しかし、セントローレンス川からハドソン湾にいたる領域は、一部を除いてその後長らく大規模な開発から免れ、美しい自然を残してきた。
深まる北への関心
Plan Nord(北方計画)と呼ばれるこのプロジェクトは、ほぼ1200万平方キロメートルにわたる膨大な範囲の鉱物資源、再生可能エネルギーの開発を目指している。ケベック州北部は、これまで手つかずに世界に残された唯一の資源に恵まれた地域といわれる。ニッケル、コバルト、プラチナ、亜鉛、鉄鉱石、希少金属などを豊富に埋蔵している。Plan Nordは、11の鉱山採掘計画と水力発電などを含む再生可能エネルギーのプロジェクトを含んでいる。
こうしたプロジェクトを実施する上で、プランでは新たな道路、空港、さらに外海へつながる港湾の建設・整備など大規模な工事が予定されている。この「北方計画」の推進によって平均して年間2万人の雇用、140億カナダドルがケベック州にもたらすと期待されている。さらに、計画の実施については、環境保全、現地住民の生活環境保全に最大の配慮がなされると発表された。
こうした大規模計画の常として、環境保護グループや先住民族からの批判が予想されるが、現在の段階では当該地域の環境保全、厚生改善に貢献することが強調されている。いずれにせよ、計画規模や与えられた条件で異なるところは多いが、東北被災地復興・新生の参考にもなる点が含まれるプランだ。
*“Canada’s Quebec province opens up north for mining.” BBC NEWS, 10 May 2011
17世紀、5大湖、セントローレンス川地域の交易の道
Source: Thimothy Brooks, p.33
話は飛ぶが、この地域、筆者にとっては思い出多い地域でもある。その一端は、ブログに記したこともある。日本人でこの地を知る人は、今でもそれほど多くない。1960年代末から1980年代にかけて、何度か調査・見学などで訪れる機会があった。人影が稀な広大な森林が展開する地域である。遠い昔の宣教師が残した教会や先住民族の家々が散在している。そして、産業化の時代に、こうした自然に対して、巨大な発電所や製錬工場を建設した人間の能力に圧倒された。サガニー川流域のシップショー Shipshaw、ショーウンガン Schawinganなどの巨大水力発電所群であり、日本では見られない壮大な景観に目を見張った。
ヌーベル・フランスの世界
ニュースを聞きながら、かつて16世紀からこの地に構想された「ヌーベル・フランス」と呼ばれた壮大なプランを思い起こした。かつて、このケベック州の地は、16世紀前半から18世紀半ばまでフランスの領土となっていた。あの宰相リシリューは、この壮大な構想に大きな期待を寄せていた。
「ヌーベル・フランス」(またはニューフランス。仏: Nouvelle-France、英: New France)は、1534年にジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した時期から、1763年のパリ条約により、スペインとイギリスにヌーベル・フランスを移譲した時まで、フランスが北アメリカに植民を行った地域である。
植民活動が頂点にあった1712年(ユトレヒト条約の前)、「ヌーベル・フランス」と称されたこれらの領土は、東はニューファンドランド島から西のロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のメキシコ湾までに拡大した。この領土はカナダ、アカディア、ハドソン湾、ニューファンドランドおよびルイジアナの5植民地に分割され、それぞれに管理政体が置かれた。
ユトレヒト条約の結果、本土のアカディア、ハドソン湾およびニューファンドランド植民地に対するフランスの領有権が消え、アカディアの後継地としてイル・ロワイヤル(ケープ・ブレトン島)の植民地が設立された
帽子の材料とされたビーヴァー
フェルメールが描いたあの若者がかぶっていた帽子の材料となったビーヴァーは、ほとんどがこのヌーベル・フランスの領土で捕えられたものだった。その入手のために、当初は先住民族の力が必要だった。毛皮商人と先住民との間で、毛皮と武器などの交換という形の交易がおこなわれた。
ヨーロッパで争って求められたビーヴァー・ハットと呼ばれた毛皮の帽子は、アメリカ西部開拓者のデーヴィ・クロケットが被っていたアライグマの顔もしっぽも残るような素朴なものではない。イギリス紳士の山高帽が象徴するような高い熟練を持った帽子職人が、丹精込めたエレガントなものである。イギリスを始め、各国の紳士、伊達男たちは争って高価な帽子を求めた。帽子は社会的ステイタスを示す道具のひとつだった。人々は、帽子なしでは公衆の前には出られない時代だった。
ビーヴァーの毛皮の柔らかな部分をフエルト化し、丁寧にデザイン・整形し、制作された。そのためには洗練されたデザインと高度な加工技術が必要だった。そのため、最初はほとんどがフランスで製造され、ヨーロッパ各国へ輸出された。フランスの帽子職人のほとんどはユグノーと呼ばれたプロテスタントであった。そのため、彼らは1685年の「ナントの勅令」廃止により追放されてしまう。彼らはイギリス、オランダなどへ移住し、仕事をするようになる。かくして、フェルトを作る繊維産業、Hatter と呼ばれる帽子製造はイギリスの大きな産業となる。
帽子の主たる材料となったビーヴァーが、いかなる形、経路でヨーロッパへもたらされたか。その源をたどることは、それだけで、かなり長い旅路となる。憂鬱なことばかり多いこの頃、興味がおもむくままにゆっくりと歩くことにしよう(続く)。