お知らせ
『黄金時代のフランス美術』のシリーズ記事、区切りの良い『黄金時代のフランス美術4』までを本年分としております。本年最後の記事12月22日分は、本来、新年に予定した部分を繰り上げ、掲載いたしました。
皆様に平和で素晴らしい新年が訪れますよう、お祈り申し上げます。
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『黄金時代のフランス美術』のシリーズ記事、区切りの良い『黄金時代のフランス美術4』までを本年分としております。本年最後の記事12月22日分は、本来、新年に予定した部分を繰り上げ、掲載いたしました。
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ニコラ・トゥルニエ 『リュートが弾かれる晩餐』
Nicholas Tournier (1590-1639), Banquet Scene with Lute Player, 120.5 x 165.5 cm, The St. Louis Art Museum
アメリカに移った17世紀フランス絵画の詳細を明らかにすることは、想像以上に大変なプロジェクトだ。広大なアメリカのどこにいかなる作品が所蔵されているかを探索し、確認することは、プロジェクトを構想、企画し、実施する人ばかりでなく、作品の所有者にも多大な負担を強いることになる。各地に所蔵されている有名、無名の画家の作品を見つけ出し、来歴その他を確認し、整理する。17世紀という時代や画壇についての深い知識も必要になる。美術史家や学芸員の力量が問われる。当然、多くの議論も生まれる。だが、この時代やそこに生きた画家の全容を知るには、欠かせない作業であることは間違いない。
ちょうど30年前の1982年、アメリカ、フランス両国で開催された特別展は、その主要部分を掌握しようとした最初のプロジェクトだった。しかし、実際にはアメリカに多い個人蔵の作品にまつわる問題、作品来歴の確認ができていない作品など難題は多く、実際にアメリカにどれだけ持ち込まれたかがすべて解明しきれたわけではない。それでも、この領域・主題に関心を抱く人々にとっては、きわめて貴重な資料だ。
膨大な作業を背景にした上で、アメリカでは多くの作品の中から、選び出された124点の作品が展示されたが、パリ、グラン・パレの展示は、当然アメリカでの展示内容とは異なるものだった。アメリカからフランスへお里帰りして展示された作品もあったが、すべてではなかった。パリでは、スタイル(カラヴァッジズム、パリジャン、アティシズム)、地方(プロヴァンス、ロレーヌ)などの区分で特別なパネルも設置された。
カラヴァッジョの影響
17世紀、ほぼ100年間に生み出された作品を、整理することは至難なことだが、口火を切ったのは、やはりカラヴァッジョの影響だった。カタログの構成もカラヴァッジョに影響を受けたフランス画家の作品から出発している。
イタリアで1609年にアンニバーレ カラッチが、1610年にカラヴァッジョが世を去ると、ローマは以前よりもヨーロッパ絵画世界の中心となった。この時期のフランスは経済的困難と政治的騒動の最中にあったとされた。しかし、その実態の評価は、かなり過大に誇張されていたところもあった。風評なども重なった結果として、フランスでは1590年から1600年生まれの世代の画家や建築家のかなり多数が、修業や遍歴のためにローマを目指した。そして、ほとんど例外なくできるならばローマに住むことを望んだ。
ローマでは若い美術家たちは、一様にラファエルとミケランジェロを学んだ。しかし、それ以上に彼らが新しさを感じて時代のモデルと考えたのは、カラッチとカラヴァッジョだった。この時期、とりわけ最初にローマへ来た画家たちが衝撃を得たのは、カラヴァッジョだった。ルネッサンス期の師匠たちの画風とはまったく異なり、しばしば残酷に、聖人たちの姿を描き、人間の生活をリアルに描いていたことに驚愕し、新たな魅力を感じた。カラヴァッジョは、長い間遠く離れていた聖書の世界を人間化し、普通の人間の尊厳を描いてみせたのだ。
カラヴァジョには、イタリア、フランスなど、ほとんどの画家が影響を受けたが、ここで話題としているフランスとの関係では、ヴーエ、ヴァランタン、ヴィニョン、トゥルニエなどが挙げられている。しかし、一部の力量ある優れた画家だけがこのアプローチを把握し、彼らの構想に採用することができた。いずれにせよ、1610-1620年頃にローマに住んだフランスの画家たちで、カラヴァッジョという希代な天才画家の魅力に逆らえるものはいなかった。
カラヴァジェスキに流れる「フランス的」なもの
議論があるところだが、カラヴァジェスキの国際的な流れの中に、イタリアのカラヴァジェスキとは異なる「フランス的」なものがあることをローザンベールは指摘している。それらは、抑制、悲嘆、悲しさ、エレガンスへの愛などである。それは継承され、たとえば、ヴァランタンのメランコリックなイメージは、後にル・ナン兄弟の作品に再現される。
上掲の作品はフランス生まれの画家トゥルニエによるとされるが、この画家は1619-26年頃、ローマへ行っている。ヴァランタン・ド・ブーローニュに師事したのではないかと推定されている。実際、一時この作品はヴァランタンの作品と考えられていた。マンフレディにも近い画風だが、カラヴァッジョのような激しさやドラマ性はほとんど感じられない。
フランス・カラヴァジェスキの流れに位置する画家で、最も著名なのはヴァランタンだが、フランスへ戻ることなく、ローマで死去した。他の画家たちは、画業を修業するとフランスへ戻った。ヴーエとヴィニョンはパリで成功した。パリはカラヴァジェスクの流れに大きな影響を受けなかった唯一の所だった。
上記のトゥルニエの作品を見ていると、そこにカラヴァッジョの激しさはない。むしろ落ち着いたヴァランタンの影響、そしてラ・トゥールの『いかさま師』などの構図にもつながる脈流のようなものが感じられる。時代を支配する画風がいかなる経路を経て、伝達・継承されるかというテーマは、きわめて興味深い。
新年に続く
ラ・イール,ローラン 『舞台の一幕』
La HYRE, Laurent de (1616 Paris-1656 Paris)Cyrus Announcing to Araspas that Panthea Has Obtained His Pardon
1631-34
Oil on canvas, 142 x 102 cm
Art Institute, Chicago Institute of Art
「17世紀フランス美術の研究だったら、アメリカにも行かねば!」というと、友人のフランス文学・美術の研究者は一瞬いぶかしげな表情をした。アマチュアの私がなにを言い出したのかという反応だった。アメリカなんて! フランスに行けばすべて分かると思っている専門家?を一寸からかったまでだが、かなり本気の話でもある。
このブログを読んでくださっている方は、その意味がおわかりでしょう。グローバル化が進んだ最近では、有名画家の貴重な作品でも、空を飛んで別の国の展覧会に出展されること多くなり、日本にいてもかなりの作品は真作を見ることができるようになった。それでも方針として作品の館外貸し出しをしない美術館、個人収集家などもあり、現地の美術館などを歴訪しないと、作品が見られないという事情は依然として存在する。たとえば、40点余りしか真作が存在しないジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合、3分の1を越える作品はアメリカにある。しかもそのいくつかは、館外貸し出しが行われていない。どうしても見たければ、アメリカに行かねばならない。実際に、管理人がラ・トゥールの作品に最初に出会ったのは、アメリカ、メトロポリタン美術館であった。事情はフェルメールなどについても同様だ。
この点を認識し、アメリカにあるフランス絵画の実態を確認したいと考えたピエール・ローザンベール氏(前ルーヴル美術館長)の構想は、さすがだった。同氏が1982年『黄金時代のフランス』展を企画するに際して、挙げている理由は次の通りだ。
第一は、アメリカに移った17世紀フランス美術の傑作あるいはそれほどでない作品でも、フランス国内にないがために、ともすれば当該画家の作品であることが忘れ去られてしまう。アメリカにある、そうした可能性がある作品を見出し、確認する。
第二に、17世紀フランスが初めてヨーロッパに最初の政治・経済大国として台頭した時代におけるフランスの美術作品を客観的な視点から見つけ出し、多くの人の目の前に提供する。
第三に、アメリカの美術館が保有する17世紀フランス絵画の所在を確認する、いわば棚卸しという美術愛好家にとって夢のような仕事を実施することである。
こうした考えに立って、実際に作品の探索、確認をするとなると、いくつか難問が発生する。そのひとつは、時間軸という枠組み設定が必要になる。どこから、どこまでの画家と作品を視野に入れるかという問題だ。これについて、1982年の展覧会では、出発点は1620-30年代のローマでスタートしたカラヴァジェスクなフランス人画家の作品とすることが設定された。
前回ブログに『黄金時代のフランス』のカタログ目次を掲載しておいたが、ピエール・ローザンベール氏は17世紀フランス絵画の時代を、フランスのカラヴァジェスクな画家たちの作品からスタートしている。ラ・トゥール、プッサンの項がそれに続いている。
最初に、カラヴァッジョの影響を受けた世代で、フランスで活動していた画家たちの作品が紹介されている。カラヴァッジョの影響をどれだけ受けているかは、画家それぞれに異なるが、前回のヴァランタンの場合は、きわめて忠実な追随者に近い。そのほか、トゥルニエ、サラチェーニ、ガイ・フランソワ、ニコラ・レニエ、シモン・ヴーエなど、フランス人にはかなりお馴染みの画家〔日本では少しもお馴染みではないですね)が取り上げられている。
この時代のひとつの特徴は、演劇、文学などとの関連で,制作した画家が多いことである。17世紀のひとつの例として、フランスでの演劇の興隆は、絵画にも多大な影響を及ぼした。たとえば、上に掲げたラ・イールの作品は当時著名であった劇作家トリスタン・レルミット Francois Tristan L'Hermite(1601-1655) の悲劇『パンセア』Pantheaの一場面を描いたものである。 ラ・イールは文学、演劇を絵画につなぐことに熱心であったようだ。この作品でもオリエンタルな雰囲気で、華やかな色彩の衣装の人物を登場させている。カラヴァッジェスキに特有のキアロスクーロ〔明暗法)のイメージは浮かんでこない。リアリティよりもイマジネーションに頼る一種の詩的逃避ともいえるが、こうした創造的な試みは、カラヴァッジョの影響を超えて、新たな時代へ繫がって行く。フランスの動向は直ちにロレーヌなどにも届いていた。
(続く)
ヴァランタン・ド・ブーローニュ『占い師』部分
Valentin, The Fortune Teller, 142.5 x 238.5cm.
The Toledo Museum of Art, Gift of Edward Drummond Library, detail
拡大は画面をクリックしてください。
本作はカラヴァッジョをしのぐのではと思わせる迫力だ。この作品ではラ・トゥールの同テーマの作品とは反対に、女占い師がカモにされている。占い師〔左側)が占いをしている間にジプシーの子供〔左下〕、後ろの男などが、金目のものをねらっている。写真と見まがうばかりのリアルさです。全体図は下の通り。
年末、軽率にも壮大なブログ・テーマを選んでしまい、後悔しきり。それでも、このテーマはかねてから大きな関心を持っていたことも事実で、輪郭の輪郭ぐらいはメモしておきたい。
フランス史で「黄金時代」Golden Age といえば、17世紀ブルボン王朝の絶対専制王政の時代といってよいだろう。前回から記しているアメリカに渡ったフランス絵画の実態を明らかにした美術展には、アメリカ、フランス両国にとってさまざまな思いがこもっていた。
当初は薄かった17世紀絵画への関心
アメリカの収集家たちがフランス美術に関心を抱き始めたのは、概して18世紀末からであった。それまではオランダ、イタリア、イギリスなどの美術品に人気は集中していた。しかし、時代と共に関心の対象は移り変わる。ベンジャミン・フランクリンとトーマス・ジェファーソンはパリを訪れ,当時のフランス絵画の素晴らしさに魅了された。そしてほぼ100年後には、ニューヨーク、ボストン、シカゴなどの収集家たちが、競ってフランス印象派のパトロンになったり、サロン時代の絵画を買い求めた。
一般に、アメリカの収集家は1700年以降のフランス絵画を好んだ。簡単にいえば、分かりやすかったのだろう。結果として、17世紀フランス絵画の収集は比較的手薄であった。たとえば、著名なフリック・コレクションを例に挙げると、1935年に初めて市民に公開された当時、17世紀絵画は1点もなかった。
やっと1948年になって、われらがジョルジュ・ド・ラ・トゥール(笑)の作品(その後コピーと鑑定された)を取得、続いて1960年にクロード・ロランの作品が購入された。言い換えると、ヘンリー・フリックは、ビュッヒャー、フラゴナール、パーテルなどの重要な18世紀絵画の収集に力を注いでいた。
メトロポリタン美術館にもモルガンなどの富豪たちは、一枚も重要な17世紀絵画を寄贈(遺贈)することはなかった。17世紀絵画は19世紀後半になってやっと、あのライツマン夫妻の所蔵していた作品が遺贈されることで脚光を浴びるようになった。状況はシカゴの美術館、The Art Institute of Chicago などでも同様だった。
遅れてやってきた17世紀への関心
驚いたことに、アメリカ人が17世紀フランス絵画に関心を抱くようになったのは、20世紀後半になってからのことだった。管理人も運良くその流れの初めに乗れたようだ。今回話題としている1982年の『黄金時代のフランス~アメリカのコレクションにある17世紀フランス絵画』展では、当時ルーヴルの絵画部門の責任者だったピエール・ローザンベール氏(現ルーヴル美術館名誉総裁・館長)が主導して、アメリカの50を超える主要美術館、個人の収集家たちの所蔵作品を精力的に見て歩き、124点を展覧会のために選び出した。このうち、1960年時点でアメリカにあった作品は、68点だけだった。もちろん、例外的にわずかな数の作品がこの時点以前にアメリカにあったようだ。
さて、このモニュメンタルな美術展は、1982年1月、パリ(グラン・パレ)に始まり、続いてアメリカに渡り、ニューヨーク(メトロポリタン美術館)、続いてシカゴ(The Art Institute)で開催され、大評判となった。
今年2012年から遡ること30年前のことであった。今、当時のカタログを眺めているが、素晴らしい出来である。編集はロザンベール氏だが、カラーとモノクロの写真を含めて、実に綿密な仕上がりになっている。有名画家でも、あっと思うような作品に出会い、驚くことも多い。
今回は、カタログの目次を紹介しておこう。このブログを今まで読んでくださった皆さんには、17世紀フランス絵画をより深く理解するキーワードを与えてくれるかもしれない。
拡大は画面をクリックしてください
この目次から推察できるように、1982年当時アメリカにあった17世紀フランス絵画の棚卸しのような感じがする重厚なカタログだ。ローザンベールを初めとする関係者が傾注した努力の程度が偲ばれる。
見どころは、まずMarc Fumaroli による展望論文だ。恐らく印刷コストの点で、収録図版にはカラー版が少ないのが残念だが、内容は素晴らしい。いづれ部分的にでも紹介することにしたい。
本カタログの圧巻は、なんといっても、ピエール・ローザンベールによる17世紀フランス絵画の解題である。1982年、今からちょうど30年前に書かれたものだが、迫力のある内容である。このテーマに関心を持つ人々には必読の論文だ。そして、同氏によるカタログおよびアメリカにおける収蔵の状況が説明されている。このあとの30年間に作品には多少の出入りはあるが、この間の時間の経過を感じさせない新鮮さがある。
ともすれば、フランスだけに視野が限定され、グローバルな視点に欠ける日本の研究者あるいはフランス美術に関心を持つ人々に、アメリカにあるフランス絵画という忘れがちな領域をしっかりと示してくれる。このカタログを見ていると、海外に流れた日本の美術品の全容はいったいどうなっているのだろうかと思わざるをえない。
続く
アントワーヌ・ル・ナン 『3人の楽師』(部分)
Antoine Le Nain, Three Young Musicians (detail)
Pierre Rosenberg, France in the Golden Age
Seventeenth-Century French Paintings
in American Collections (cover)
日本で開催される美術展も年々数が増え、充実した展示が多くなったことは喜ばしい。しかし、中には企画力が貧しく、一般受けする目玉作品を入れて、集客数確保だけが主目的であるような商業主義的な催しも依然多い。満員電車のような混雑の中で、作品を見せられても感動は湧かない。企画・内容が充実していて、結果として集客数が多かったという美術展は好感度が高く、望ましい。小規模でもよく準備された珠玉のような展示に出会うと、救われた感じがする。
美術展の歴史は古く、しばしば美術館の歴史とリンクしている。美術展と併せて、管理人が楽しみにしているのは、刊行されるカタログ(目録)だ。よく準備され、内容のあるカタログは、混雑した会場ではなかなか読み取れない来歴、説明などを補てんしてくれて、展覧会の滋味をゆっくりと味あわせてくれる。加えて、カタログ、とりわけ学術的内容を備えたカタログは、作品研究の最先端を知るうえで大変重要な意味を持っている。しかし、カタログについての考えは、美術館主催者(コミッショナー)、学芸員の水準などによって大きく異なる。ちなみにフランスにおける美術展カタログの草分けは、1673年のパリ・サロンのlivretsとされる。もちろん、内容は当時の時代環境におけるものであり、今日のカタログにとって直接的な意味での嚆矢というわけではない(Rosenberg、1984)。
偶然、こうした問題をめぐるひとつの論文に出会った。前ルーヴル美術館長ピエール・ロザンベールPierre Resenbergが、1984年にニューヨークのメトロポリタン美術館のジャーナル*に寄稿したものだ。その内容は2年前の1982年にアメリカ各地およびフランス(パリ、グラン・パレ)で開催された『アメリカのコレクションにおける17世紀フランス絵画』"La Peinture francaise du XVIIe siecle dans les collections americaine”*1と題した美術展のいわば補遺として寄せたものだ。ちなみに、この美術展はそれまでしばしば軽視され、十分に整理されていなかったアメリカに流出した17世紀フランス絵画のほぼ全容を明らかにし、多くの人々に提示するという意味で、大変意義あるものであった。
この美術展が開催されるまでは、アメリカにある17世紀フランス絵画はヨーロッパにある作品と比較すれば、その多くは画家の最重要作品ではないとさえ考えられてきたふしがあった。これには、自国の画家の作品をアメリカに流出させてしまったという悔しさのような感情もあったようだ。しかし、冷静に調査をしてみると、当該画家の最重要な作品もヨーロッパを離れていたことが判明してきた。たとえば、レンブラント、ラ・トゥール、フェルメールなどの作品を考えてみれば、すぐに分かることである。ラ・トゥール、フェルメールについてみれば、ほとんど半数近い作品がアメリカの美術館あるいは個人の所蔵するものになっている。特別な企画展などの場合でないかぎり、アメリカとヨーロッパの美術館の双方を訪れないと、作品を見ることができない場合もある。ロザンベール氏の著作のひとつの表題にあるように、まさに「アメリカにしかない」 Only in America フランス絵画の名品も多い。
ロザンベール氏の論文の標題は『黄金時代のフランス:ひとつの追記』となっているが、あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールの研究史で有名なシャルル・ステルランCharles Sterling が ポウル・ジャモ Paul Jamot と共に企画した『17世紀フランスの現実の画家たち』、”Les Peintres de La realite en France au XVIIe siecle"*2という大変著名な美術展を回顧して寄稿したものだ。とりわけ、この記念すべき美術展のカタログの大部分を制作したステルランに捧げられている。この美術展については、本ブログに経緯を記したこともある。時は1934年、場所はパリ、オランジェリー美術館であった。この美術展の際に刊行されたカタログは、現代的な観点からして最初の学術的作品と評される出来栄えとされる。解説部分はほとんどステルランが書き、出展作品のほとんどすべてが収録されている。
ORAMGERIE, 1934:
LES "PEINTRES DE LA REALITE"
1934年オランジェリーで開催された展覧会
『現実の画家たち』を、当時と同じ形で再現
する試みが2006年11月ー2007年3月に、同じ
オランジェリーで開催された時のカタログ表紙
展覧会の歴史の長さと比較すると、展覧会のカタログはきわめて歴史が浅いといわれている。当初のころは単に出展作品の基本的属性だけを記したパンフレットのようなものが多かった。しかし、今日では美術に関心の深い人にとって、カタログを読むのは大変楽しみなことだ。とりわけ、小規模でも良く企画された展覧会に出会うと期待は高まる。カタログもよくできていることが多いからだ。
カタログは展示されている画家の作品や経歴、そしてしばしばその最先端の研究状況を知らせてくれる。カタログの中には、単に海外の展覧会のカタログの該当部分を翻訳、転載したようなものも多いが、主催者側が力を入れて、新しい研究成果などを掲載しているものに出会うと大変うれしい。日本で開催される展覧会の場合、主催者側に展示される制作者や作品の研究者が加わっていると、当然ながら内容も充実していることが多い。
さて、ルーヴル美術館長をつとめたロザンベール氏が”黄金時代のフランス絵画”*3を、いかなる内容をもって構想していたかは、きわめて興味深いテーマだ。大変壮大なテーマでもある。ちなみに、この時の英語版カタログは397ページもある立派なものだ。
興味を抱かれる読者は下記の参考文献を読んでいただきたいのだが、師走で皆さんお忙しい折(?)、次回にその輪郭だけをご紹介することにしよう。フランスに傾きすぎ?の日本では、必ずしも知られていない話なのでご期待を。それにしても、大層なブログ・タイトルですね(笑)。
*1 'France in the Golden Age' Paris, Grand Palais, Jan. 29-Apr. 26, 1982; New York, MMA, May 26-Aug 22, 1982: Chicago, Art Institute, Sept.18-Nov.28, 1982.
Pierre Rosenberg, France in the Golden Age: Seventeenth-Century French Paintings in American Collections, The Metropolitan Museum of Art, New York, 1982. pp.397
French title of the exhibition, "La Peinture francaise du XVIIe siecle dans les collection americaines."
*2 Pierre Resenberg, "France in the Golden Age: A Postscript."Metropolitan Museum Journal 17, 1984.
*3 より正確にはロザンベール氏が述べているように、主としてアメリカにあるコレクションから見た黄金時代のフランス絵画、ということになる。展覧会はパリとニューヨーク、シカゴなどのアメリカの都市で開催された。当然ながら、パリの展示はアメリカでの内容とは異なったものとなった。
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17世紀初めのロレーヌ地方。緑色の部分がロレーヌ公国。その他はフランス王国などの領地。
3つの司教区も実際にはフランスが支配。
Source: Histoire de la Lorraine et des Lorrains, 2006
明日は今日よりは良くなるとは言えなくなった。明日はさらに悪くなる、あるいは何が起こるか分からないという世界になっている。日本も例外ではない。というより日本はその典型かもしれない。
政治は混迷を極めている。衆院選に名乗りを上げた政党は,主要なもので12を数え、中には公示1週間ほど前にあわただしく旗揚げした政党さえある。締め切り間際まで、節操のない離合集散があった。政治の混迷が続くほど、国力は疲弊する。国家としての基本政策が定まらないからだ。進路が定まらない国は、外交姿勢も不安定で、他国からもつけ込まれやすい。
原発問題、領土問題と緊迫した状況が続く中で、時々重なり合って思い浮かべることがある。このブログで再三記してきたロレーヌ公国という小国のたどった姿だ。現代の日本とはまったく関係がない17世紀ヨーロッパの話である。しかし、しばしば日本の今とイメージを重ねてしまう。
およそ400年前、ロレーヌは小国ではありながら、ヨーロッパ文化の中で、輝いていた。形の上では神聖ローマ帝国に属してはいたが、皇帝の直轄領ではなく、11世紀中頃からロレーヌ公爵家が治めていた。しかし、問題を複雑にしていたのは、公国内部に公爵の権力が及ばない領地が散在していた。これらはカトリック司教の直轄地、司教区であった。さらに状況を難しくしたのは、これらの司教区は16世紀半ばからフランスの実質的支配の下に置かれていた。この状況は、上掲の地図のようであり、ロレーヌ公国は、さまざまな勢力から浸蝕され、まるでロレーヌ〔地方)という海に浮かぶ島のようになっていた。要するに、国土を外国勢力によってじりじりと蚕食されてきた。この地図の西側はフランス王国、東側は神聖ローマ帝国である。
単純化してみると、西にフランス、東に神聖ローマという大国にサンドイッチのように挟まれた地域であった。「危機の時代」といわれた17世紀、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールがこの地で生まれ育ち,活動していた頃、この小国ロレーヌ公国は巧みな外交で、大国に押しつぶされることなく、なんとか生き残り、ヨーロッパ文化のひとつの拠点として栄えていた。公国の人々は、隣接する大国フランスの文化的影響を受けた生活を送りながらも、ロレーヌ公国を愛し、歴代ロレーヌ公に親しみと忠誠心を抱いていた。しかし、1630年代に入ると、この公国に決定的転機が訪れる。若い策略を好む公爵が無理矢理、公位を奪い、自分の力を過信したのか、フランスに叛意を見せる。彼には、当時のヨーロッパの勢力関係を、読み取る能力が欠けていたのだった。結果はほとんど最初から見えていた。
かねてからロレーヌを併合したいと考えていたフランスの策謀家リシュリュー枢機卿は、この時とばかりロレーヌ公の領地に進入し、1633年公都ナンシーを占領する。住民はフランス王ルイ13世への忠誠誓約書に署名を要求される。ロレーヌ公シャルル4世は国外に亡命し、公国の名は残ったが、1659年までフランスの総督によって治められることになる。
400年の時空を飛んで現代に戻る。日本の外交が、アメリカと中国という強大な勢力の間にあって、今後どれだけ国家として自主独立の路線を維持して行くことが可能なのか。あるいはすでにどれだけを失っているか。内政、外政のすべてについて長期を見据えた国家構想の確立と着実な政策の実行が欠かせない。この年末のせわしい中、国民はこの国の来し方、そのあり方、そして自らの行く末を、今度こそしっかりと考えねばならなくなっている。選挙日までわずかだが、今度こそ後悔しないよう、この国の明日を考えたい。