時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

カードゲーム・いかさま師物語(3):ギャンブラーとしてのリシュリュー(3)

2015年02月22日 | いかさま師物語



Michel Lasne (After Charles Le Brun)
Caen About 1589-Paris 1667
Thesis of Jean Ruzé d'Effiat, engraved by Michel Lane
and dedicated to Cardinal Richelieu (details)

1642
Egraving
123.9 x 72.6cm(three sheets joined)
Paris, Bibliothèque nationale de France 

イメージ拡大はクリック
リシュリューは大変肖像(画)を好んだようで、きわめて多数の作品が残っています。 

 


 リシュリューの生涯は57歳で終わりを告げました。そして彼が仕えたフランス王ルイ13世(実際はリシュリューに使われていた?)は41歳で没しています。今日の世界の寿命水準からみると、二人共に大変若くして亡くなっています。リシュリューの場合は、晩年胃潰瘍に苦しんでいたとの推測もあり、さもありなんと思わせる多忙、多難な生涯でした。強靱な意志を持った宰相のように思われますが、その内面は常に大きな課題に悩み抜く日々であったのでしょう。

 他方、ルイ13世については、正確な死因は不明ですが、不規則な食事による体調不安定、結核などが挙げられています。リシュリューが亡くなってからわずか5ヶ月後の1643年5月14日に世を去っています。あまりに短い人生でした。リシュリューとの関係は、前回に記した通りですが、それまで母親よりも信頼し続けてきた相談相手がいなくなってしまい、精神的にも負担が大きくなったことは推測できます。息子であるルイ14世(76歳で死去)と比較すると、この王については、必ずしも実態が知られていないのですが、Louis XIII, The Justと言われるようになったことからも、公正な判断ができる能力の持ち主と国民からは思われていたのでしょう。この王について記したいことはかなりあるのですが、その時間は残念ながらありません。

多難な時代の宰相
 いずれにせよ、リシュリューの活躍した17世紀前半は、今日の世界と似ていて、いたるところで紛争、戦争が絶えませんでした。フランスといえども、国家の枠組みは脆弱で、国境の周辺では戦争が次々と起こり、国内では絶え間なく起きる貴族たちの謀反、ユグノーや農民の反乱などで騒然としていました。この時代の歴史書を繰ると、フランスの貴族は謀反、反乱が大変好きだったことが、よく分かります。政権側も大変脆弱でした。

 こうした日々を過ごしたリシュリューにとって、その生涯は決して平穏、無事に宮廷人として華麗な生活を過ごしていたとは考えられません。信頼できる数少ない相談相手とともに、山積する難題に日夜取り組んでいたというのが、現実だったのでしょう。

 王政については、前回記した1630年11月11日の「欺かれし者の日」を転機に、国王ルイ13世のリシュリューへの支持は(内心の好き嫌いは別として)確たるものとなり、その後揺らぐことなく続いたようです。母后マリー・ド・メディシスと息子であるルイ13世の間の不信と確執は執拗に続いていましたが、この日は決定的な日となりました。母親であっても、冷酷に縁を切ってしまうという「母子戦争」のすさまじさは、小説の域をはるかに超えています。

 この歴史的な1日の後、母后と国王の関係を利用しようとした貴族たちの反乱も収束に向かいました。唯一大きな反乱は、1632年のモンモランシー公アンリ2世の反乱でした。リシュリューは反乱に加担した者たちを徹底的に弾圧し、モンモランシー公も捕らえられ、処刑されました。この11月11日を機に、王とリシュリューの執政上の信頼関係は一段と深まっていたと思われます。

現実的な思考
 リシュリューは、国益の維持のためには、かつての敵国側と同盟関係を結ぶなど、節操を問われるような動きも辞さずに行っています。その意味でもきわめて現実的な思考の持ち主だったと思われます。

  ただ、後世の人間の目でみると、リシュリューの政治思考と対応は、自らの政治生命を危うくする可能性を多分に含んでもいました。1618年には30年戦争が勃発しました。ヨーロッパ宗教戦争の最後の痙攣ともいうべきものでした。プロテスタント諸国とハプスブルク家側のカトリック同盟諸国が大陸を引き裂いて戦ったのです。カトリック国であるはずのフランスは、プロテスタント側として戦争に加わりました。リシュリューとルイ13世が最も配慮した点は、オーストリアとスペインのハプスブルグ家が、フランスを抜いてヨーロッパの最強勢力となることを防ぐことにありました。その点には国教を維持すること以上に重きがおかれていたのです。

 これらのことを含めて、リシュリューの晩年には、教皇ウルバヌス8世を含む多くの人々との不和も高まっていました。しかし、1641年には腹心のジュール・マザランを教皇が叙階したことで、多少の関係改善がなされました。ローマ・カトリック教会との紛争は絶えなかったのですが、リシュリューは教皇の権威をフランスから完全に排除せよとのガリカニスト(フランス教会至上主義)の主張には組みしませんでした。リシュリューには、現実主義者として、かなり強い政治的バランス感覚が備わっていたと思われます。そのために、リシュリューは国内外に強力な情報網を維持しており、貴族などの陰謀、謀反などの企みを的確に掌握していました。

評価されなかったリシュリューの政治姿勢
 今日まで多くの政治家や政治学者は、リシュリューの政治思想や方向を古典的としてあまり評価してきませんでした。さらに、リシュリューのような即事的な対応は、
現代世界の状況には合わないと考えてきました。政治家は大きな理想をもって、国家の将来を構想、設計し、その路線の上で政治的実務を行うべきであるという考えです。

 しかし、ルイ13世とリシュリューの時代をつぶさに見ると、その短い生涯の間によくこれだけの出来事に対応し、しかもかなりの大仕事をなしとげていることに感心させられます。政治、外交のみならず、文化の点においても、パリを中心にその後のフランス文化発展の礎石を築きました。

 フランスの長期の発展におけるリシュリューの役割は、史料記録の上では必ずしも明瞭ではありません。最大のライヴァルであったハプスブルグ、オーストリアとスペインに勝利しました。しかし、恐らく目指していた部分的な統合もできませんでした。地方長官を配置することで、税収入を大きく増やし、30年戦争に勝利することはできました。しかし、その過程で農民や地方の領主たちを圧迫し、一連の反乱を引き起こしてもいます。恒久的な新たな行政システムを構想、設計し、実施することはできませんでした。それでもリシュリュー最後の6年間、フランスはヨーロッパの主導的国家になっていました。

 その本格的な仕事は、次の君主であるルイ14世とジャン–バプティスト-コルベールに委ねられました。彼らはフランスの近代の国境の輪郭を定めることに成功しています。地方領主や貴族との関係を改善し、より多くの税収をあげています。リシュリューの時代の地方長官を中央政府が頼りとする行政の手としています。

現代の政治・外交につながる問題
 リシュリューの政治・外交が近年見直されているのは、現代の政治もミュンヘン協定、キューバ危機、そしてアフガニスタン侵攻、さらには今日のギリシャ、ウクライナ問題、IS組織への対応などを含めて、決して確たる将来展望の下に個々の対応がなされてきたわけではないという点にあります。リシュリューは当時の王政を支える人材などにおいても、現代とは異なり、きわめて限られた状況で、しばしば緊迫した政治・外交の判断、実行を行っていました。それは見ようによっては、のるかそるかのギャンブラー的行動ともいえます。しかし、この図抜けた政治家は、あたかもポーカー・ゲームの勝れたプレーヤーのように、短期的な視野と判断において大きな誤りをすることなく、次の世代が負うべき課題の布石を打ったといえるでしょう。


Reference

Porker Lessons From Richelieu: A Portrait of the Statesman as Gambler, by David A.Bell, FOREIGN AFFAIRS, March/April 2012





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カードゲームいかさま師物語(2):ギャンブラーとしてのリシュリュー(2)

2015年02月15日 | いかさま師物語

 

Jean Warin(1607-1672)
Bust of Richelieu
1641-1643
Paris, Bibliothèque Mazarin 



 リシュリューのような歴史上の大人物の評価は、歴史家にとっても大変難しいようです。こうした人物評価は、その多くが同時代人(contemporary:その人物と同じ時代に生きた人々)の印象に基づき、後世の人々に伝承された内容、さらに史料などの記録に基づいて形作られます。このように当該人物が活動していた時代と、後世、たとえば現代(contemprary)で、評価やイメージが変化してしまうことはよくあることです。


 現代に生きる人の評価がどれだけ、当該人物が実際に生きて活動していた時代の人々の評価やイメージと一致しているかは、必ずしも定かではありません。17世紀フランス史の専門家でもないのに、こうしたコラムをあえて書くのは、この時代について関連する書籍を渉猟する間に出来上がったリシュリューやブルボン王朝の主役たちのイメージが、それまでいつの間にか思い込んでいたものとは、かなり乖離していることに気づいたことが背景にあります。

 とりわけ、リシュリューについては、彼が生きていた時代から200年近い時が過ぎて書かれた大デュマの小説『三銃士』 によって創りあげられたイメージが大変強いため、事実と虚構 fictionの間にかなり大きなバイアスが生まれていると感じられました。簡単に言えば、小説ではダルタニアン、三銃士の敵役でもあり、他方でフランスを大きく発展させようとした政治家としてのイメージが抽象されて重なり合っています。この段階でのリシュリューのイメージが、かなり小説的虚構の産物であることに改めて気づかされます。デュマのこうしたリシュリュー像を友人・知人のフランス人に尋ねたところ、意外に考えが一致しました。しかし、ひとりひとりが抱いているリシュリュー像はかなり異なる気がしました。フランス人といえども、客観的評価はなかなか難しいようです。

 こうしたことは、リシュリューに限ったことではありません。TVの大河ドラマなどを見ていて、それまで思い描いていた歴史上の人物像とはかなり異なるイメージが提示されたりして、驚かされることも少なくありません。とりわけ、映画やTVなど映像が作り出した人物像からは、こうしたバイアスが生まれやすいとされています。もちろん、映画化などされる場合には、専門的な時代考証などがなされているようですが、現代人にアッピールするよう脚色されていることも少なくありません。このブログが暗黙のうちにも設定してきた視点は、時代・空間を自由に行き来して、できるかぎり当該人物が生きていた時代の真のイメージにできうるかぎり接近してみたいということにありました。

移り変わるイメージ
 当該人物についての新しい史料の発見、歴史観の再形成などで、それまで固定化していた人物像が変わることも珍しくありません。ここで取り上げるリシュリューについては、非常に多くの伝承、史料が存在するため、大きな乖離はないと思われますが、最近の新しい研究、伝記などを見ると、それでも相当評価が変化しているように思えます。

 たとえば、ブランシャール(前回文末)の手になる最近のリシリュー伝などを読むと、これまでとは少し違ったリシュリュー像が浮かんできます。史料が丁寧に読まれており、大筋ではあまり差異はないとはいえ、これまで知らなかった新しい側面に出会い、驚いたりします。

 ともすれば、最初からフランスの宰相あるいは枢機卿として運命づけられていたかのように見られる人物ですが、その生い立ちや政治家としての上昇経路をたどると、環境の影響もかなり大きいようです。

枢機卿・宰相への道は
 元来、フランス西部の下級貴族の三男として生まれたリシュリューは1607年リュソンの司教として叙階を受け、聖職者として人生をスタートします。彼が注目される契機となったのは、1614年の全国三部会でした。トリエント公会議の定めた教会改革を強く主張し、その雄弁で当時のルイ王太子の母后で摂政のマリー・ド・メディシスや寵臣コンチーノ・コンチーニの関心を惹いたのでした。そして、マリーやコンチーニに忠実に仕え、1616年には国務卿になりました。しかし、翌年コンチーニは暗殺されてしまいます。

 リシュリューがたどった政治的キャリアを取り囲んでいた環境は、最初から残酷で見通しがつきがたいものでした。たとえば、コンチーニの暗殺を描いた当時の版画などを見ると、手足を縄で縛られ、四頭の馬で引き裂かれるという残虐至極な光景が描かれています。ヴァシーの虐殺(1562)、聖バルテルミの虐殺(1572)、アンリ四世を殺害したラヴァイヤックの処刑(1610)など、どれをとっても驚愕します。最近のIS集団の人質殺害の残酷さも、IT上で放映するなど言語に絶するものですが、17世紀フランスにおいてもすさまじいものでした。

「母子戦争」の背景
 さらに、後のルイ13世と母后で摂政のマリー・ド・メディシスの間の確執、「母子戦争」もきわめて異様に感じます。マリーは想像しがたいほどの権力欲にとりつかれ、猜疑心も強い女性でした。他方、息子である王太子ルイも、精神的に不安定な若者であったようです。

 1618年の母子の争いの時は、ルイはリシュリューを信用せずに罷免し、アヴィニオンに蟄居させました。しかし、リシュリューはどこで身につけたのか、巧みな説得力で、母子の争いを仲介し、その後ルイ13世の最も重要な相談相手となります。1621年国王の信頼していたリュイヌ公が死去すると、リシュリューは王が最も頼りにする人物となり、翌年には王と教皇から枢機卿に任命、叙階されるまでになります。

 ルイ13世は、その性格はかなり頑固でありながら、移り気で、複雑な性格の持ち主であったようです。それは、ひとつには王といえども油断すれば暗殺されかねない危険な宮廷内部の環境、国内外のいたるところで勃発する反乱や戦争、そしてなによりも好んでいた狩に熱中しすぎて疲れ果てていたようです。そうした王を時には諫め、叱責できる人物として、リシュリューは存在しました。その過程でマリーは、かつては自ら取り立てたリシュリューと激しく対決するようになります。

「騙されし者の日」
 1630年11月11日、マリーは王の前で枢機卿にその怒りを爆発させました。そして、リシュリューに王の前でひれ伏し、絶対服従するように命じました。彼女のみならず、並み居る宮廷人たちもこれでリシュリューの時代は完全に終ったと思ったようです。王は一言も発せず、黙って立ち去ったと伝えられています。その夕べ、王はリシュリューをヴェルサイユの狩猟小屋に呼び、リシュリューは王の命じるところに従いました。いかなる話が両者の間にあったのか、興味津々ですが、概略の伝承があるようです。他方、マリーや反リシュリューの貴族たちは勝利を確信したのです。しかし、結果は彼らにとって「騙されし者の日」と呼ばれる予想外の屈辱・敗北の日となります。マリー・ド・メディシスは息子である王から追放され、コンピエーニュ城に軟禁されましたが、半年後に脱出、亡命先のブリュッセルに向かい、最後は1642年ケルンで死去するまでフランスの地を踏むことはありませんでした。


 王を介してフランスを統治したといわれるリシュリューでしたが、二人の関係は切れることなく続きました。しかし、その関係はこれまた微妙きわまりないものであったといわれます。リシュリューが病死した1642年になって、ルイ13世はリシュリューに「私はあなたを愛したことはなかった。ただ、別れるには長すぎるほど一緒にいた」という意味の手紙を書けるまでになったといわれています(実に意味深長な言葉です)。そしてルイ13世も、宰相の死後半年ほどして、1643年5月に没しています。この二人がお互いに抱いていた心の内は、もとより推測するしかありません。ただ、リシュリューがその死の直前、自らの後継者として推したマザランについて、ルイ13世が別の人物を選ばなかったことなどを考えると、王はリシュリューの能力について、ある信頼を置いていたこともほぼ確かではなかったかと思われます。

 最近の外交評論などで、リシュリューは、フランスを将来偉大な国家とする制度的な構想や具体策は持っていなかったとの論調が注目されるようになっています。しかし、それに代わって生まれている新たな評価も大変興味深いものがあります。

続く 






Reference

Jean-Vincent Blanchard, Eminence:Cardinal Richelieu and the Rise of France, New York: Walker & Company, 2012.

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カードゲーム・いかさま師物語(1):ギャンブラーとしてのリシュリュー(1)

2015年02月05日 | いかさま師物語

Philippe de Champaigne(1602-1674) and studio
1642?
Oil on canvas, 58.7x72.8cm
London, National Gallery 

画像はクリックで拡大


 

  前回お約束の通り、17世紀に飛ぶことにしました。このイメージ、誰かはすぐにお分かりでしょう。ブログにも度々登場しました。名前はアルマン・ジャン・ドゥ・プレシ-・ド・リシュリュー Armand-Jean du Plessis de Richelieu, 歴史上は、リシュリュー枢機卿および侯爵(1585-1642) として知られる有名人物のフルネームです。

 あのアレクサンドル・デュマがそれからおよそ200年後の1844年、剣豪小説『3銃士』 Les Trois Mousquetaires において、アトス、アラミス、ポルトスの三銃士と組んだダルタニアンとともに登場させました。リシュリューを三銃士に対する悪役に仕立てて書いたことで、その名をさらに世界に広めました。このリシュリュー枢機卿、17世紀の代表的政治家ですが、現代にあって再び、さまざまな点で話題になっています。リシュリュー枢機卿あるいは宰相リシュリューは、実際にはいかなる人物であったか。新たな史料の丁寧な読み込みなどもあって、これまで世の中で形作られてきた宰相リシュリューのイメージとは、かなり異なる人物像が浮かび上がってきました。

肖像画の重要さ
 写真がなかった時代、肖像画はその人物の性格をイメージするにきわめて大きな役割を果たしてくれます。リシュリューを描いた画家は、数多いのですが、この作品は枢機卿が最もごひいきの王室画家フィリップ・ド・シャンパーニュに、前面と左右側面から描かせた珍しい肖像画です。描く画家も、描かれる枢機卿も双方が自信を持っている作品といえるでしょう。どこから見ても、頭脳が冴えた抜け目なく、3方隙がない用意周到な政治家であり、しかも聖職者(枢機卿)でもあるという構図です。リシュリューが望んだように、肖像画はフランスの偉大さを生み出した重要な政治的プレーヤーの姿として画かれています。赤い枢機卿の衣装が白い襟に冴えわたって、美しく描かれています。

ラ・トゥールとリシュリュー
 リシュリューは1585年に生まれ、1622年にはカトリック教会の枢機卿となり、1631年に彼が仕えたルイ13世と国家への功績により、リシュリュー侯爵に任じられました。

 他方、これもこのブログに登場する主要人物である画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1595-1652)も、まさに同時代人です。権勢並ぶ者なき枢機卿に対比して、ロレーヌの小さな町のパン屋の息子から身を起こした画家ラ・トゥールは、リシュリュー枢機卿に作品『聖ヒエロニムス』を贈呈しています。あの砂漠で自らを縄打ち、苦行する聖ヒエロニムスの傍らに赤い枢機卿帽が画き込まれた作品です。ヨーロッパにその名を響かせた宰相リシュリューに献呈し、自らも画家として名を挙げたいという画家の思いがこもった作品です。

 この時代、リシュリューはフランス王を介して自らがフランスを支配していたといわれた一大政治家でした。ラ・トゥールにも覚えめでたく?フランス王の王室画家の肩書きが授けられました。リシュリューに贈呈された作品は、リシュリューの死後、枢機卿の衣装部屋の中から発見されています。生前、ラ・トゥールは王室が全費用を負担し、パリのルーブル宮に招かれており、リシュリューに謁見の機会があったことは間違いないでしょう。もしかすると、ルイ13世にも会っている可能性もあります。当代きっての文人といわれたリシュリューの知られなかった側面も、かなり明らかになってきました.

  リシュリューは宰相でもあり、フランスの歴史家たちは18世紀、19世紀の絶対王政の設計者として、リシュリューを賞賛してきました。現代きっての外交官のひとりヘンリー・キッシンジャーは、その著『外交』Diplomacyにおいて、リシュリューを「近代ヨーロッパ政府システムの父」と位置づけています。『三銃士』でリシュリューを悪役としたアレクサンドル・デュマのような文豪でも、フィリップ・ド・シャンパーニュの肖像画に描かれたような明晰で、熟達した手腕の持ち主であったリシュリューの臨機応変の才にしばしば賛辞を送らざるをえなかったのです。

変わってきたリシュリューの位置づけ
 しかし、リシュリューが実際にいかなる人物であったかについては、デュマの『三銃士』などのイメージが強く影響し、眞実のところは必ずしも明らかではありませんでした。リシュリューはフランス史上、実績、風格その他の点で時代を代表するひとりの重要な政治家のモデルと考えられてきました。最近、話題のブランシャールの伝記などは、この点を大方裏付けています。しかし、これまでリシュリューに与えられていたような理由からではありません。

 リシュリュー枢機卿は壮大な制度(たとえば近代的な行政府や合理的な国際秩序)を構想、建造するようなタイプの政治家ではなかったようです。また、キッシンジャーが考えたような存在意義 raison d'etat のある国際秩序を創設するというようなタイプでもなかったと考えられるようになりました。さらに、リシュリューは国益を道徳あるいは宗教的命令より上に位置づけたり、近代ヨーロッパの国家システムを国家権力をバランスさせながら維持するといった構想の持ち主でもなかったようです。こうした考えはリシュリュー没後6年ほどして締結にいたったウエストファリア条約によって、初めて形を表したと考えられます。他方、リシュリューは、のるかそるかの大きな賭ができる偉大な政治家のひとりと 考えられるようになりました。彼にとっては、なにをなしとげるかよりは、どう行ったかということが大事であったようです。

17世紀的テロリズム
 現在進行中の「イスラム国」およびイスラム過激派の残虐なテロリズムによって、フランスのオランド大統領は一時的にせよ、政治的窮地を免れ、ポイントを稼いだといわれています。確かにフランスばかりでなく、各国首脳はいまやテロリズムへの対応で、右往左往の時を過ごしています。実際、「イスラム国」やイスラム過激派が行ったテロリズムの実態は、あまりに非人道的、残酷の極みであり、到底許しがたいものであり、その対応で政治の空白が生まれたのも当然ではありました。

 17世紀フランスの宰相リシュリューが置かれた状況も、現代のわれわれがTV画面を通して知らされるような残虐、非道、目を背けるようなものでした。リシュリューは17世紀ヨーロッパにその名を知られた辣腕政治家のモデルでした。しかし、リシュリューの政治的キャリアを彩った状況は、華麗とはほど多く、しばしば残忍で予測し難い緊迫した政治的環境でした。

 リシュリューの人生で経験した最初の二人の王、アンリIII世(Henry III), アンリIV世(Henry IV)は、二人とも暗殺されています。リシュリューは1610年のアンリ4世の暗殺後、国民に知られる著名人物となっていきました。ルイ13世は権力志向のきわめて強い母親マリー・ド・メディシスとの対応で心理的に圧迫され、かなり鬱屈した日々を過ごしていたようです。それを知って、貴族たちは再三にわたり反乱を仕掛けました。ルイ自身が自らの母親マリー・ド・メディシスに対して謀反の行為を重ねていました。そのひとつがマリーがイタリアから同行させ、重用してきた寵臣コンチーニの暗殺でした。路上で射殺された死体をはポン=ヌフで八つ裂きにされたと伝えられています。リシュリューは馬車ではあったが、その現場に出くわしたようです。さらに、コンチーニの妻は、魔女として告発され、断首されました。

 当時の宮廷の事情は、こうした貴族の謀反や裏切りが頻繁に起きる、きわめて残酷きわまりないものでした。王を含めて大貴族たちは、絶えず刺客などの暗殺者に狙われており、リシュリュー自身、刺客に襲われるなど同様な危険に陥ったこともあり、身辺警護は厳重でした。馬車の下に爆弾を仕掛けられたこともあり、パリの町中に視察などに出る時は、マスケット銃隊、伝令などでまわりを固めていました。

ギャンブラーとしてのリシュリュー
 最近のリシュリューに関する研究が明らかにしたところでは、これまでに築かれてきたリシュリューの政治家としての高い評価にもかかわらず、実際には、リシュリューはフランスの将来に大きな構想を抱き、壮大な制度構築を目指していた指導者というイメージではなかったようです。

 現実のリシュリューは、その生涯において、互いに分裂し、しかし恩義もある、そして統治システムとしても機能不全をもたらした強大な諸勢力と戦い、自らの影響力をさまざまに行使して、生きてきたといわれています。

 当時のフランスの政治は乱れ、邪悪な意図を持ったものたちが百鬼夜行の状況でした。そのためリシュリューの統治は、実際は複雑きわまり、一時は麻痺状態にあったともいわれています。

 ここで、時空をひと飛びして、現代に戻り、もし彼が今日のアメリカ、ワシントンにいるとしたら、その力量が十分発揮できて大変居心地がいいのではないかという冗談かほんとの話。   (続く)

 

ギャンブラーとしてのリシュリュー(マンガ)

Source: Bell, Foreign affairs, March/April 2012




References
David A. Bell, 'Poker Lessons From Richelieu: A Portrait of the Statesman as Gambler' Roreign Affairs, March/April 2012

Jean-Vincent Blanchard, Eminence:Cardinal Richelieu and the Rise of France, New York: Walker & Company, 2012.

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