時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

若者よ北を目指そう:新生日本・ニューディールへの道

2011年03月25日 | 特別記事

  
 
文字通り晴天の霹靂の大震災。身近に被災された方も出て、落ち着かない。考えてしまうのは、この国の近未来の姿だ。とりわけ、次の世代のことが気になる。

復興の主体
 「復興庁」設置の構想も出始めたようだが、復興のあり方、輪郭が今の段階ではきわめて読みがたい。とりわけ日を追って深刻化した原発問題の解決が焦眉の大問題だ。最大の不安の根源をまず抑え込まねばならない。

 目前の問題に対応しながらも、今後のことも考えねばならない。今回のような事態を、将来絶対に起こさないような安全な町作り、地域計画は誰もが望むところだ。しかし、現在の混乱した状況では、満足しうる内容で将来像の構築が行われるとは到底思えない。地震、津波、原発被災など、考えられる天災・人災から次の世代を守る構想・計画が直ちに出てくるとはおよそ考えられない。これまで出来ていなかったことが、急にできるとは思えないからだ。

 しかし、復興が過去の延長線の上に構想されることだけは、どうしても避けねばならない。この惨事を次の世代で、再び繰り返すようなことは、なんとしても避けねばならない。新しい発想が必要だ。中央と地方の活動の抜本的仕切り直しなど、こうした時しかできないこともある。日本の将来を見据えての決断の時でもある。

 とりあえず、地域の経験の尊重と専門家の提言のすりあわせが必要だろう。阪神淡路大震災の経験は十分に生かさねばならない。安全で健康な地域生活の構築に向けて、少なくとも政策基本軸の設定が必要だ。復興に向けた特別税導入など、財源の創出は欠かせない
。考えるべき対象は被災地にとどまらない。巨大化しすぎた東京都の機能分割、移転は、焦眉の急務だが、都知事候補たちの頭の中にはありそうもない。

 いずれにしても、いまや日本の再生とほとんど同義となった大震災の復興には、想像を絶する数の人々の参加が必要になっている。今こそ「日本・ニューディール計画」が、新たな条件の下で構築される必要がある。とはいっても、それが十全たる形で形成されるのを待っている時間的余裕はない。走りながら考え、軌道修正するのが現実的な姿だろう。
 

大恐慌期の経験に学ぶ
 こうしたなかで、ある記事に出会う*1。このブログでも、取り上げたことのある「
トライアングル・シャツ会社火災事件」である。
1911325日に起きたニューヨーク市のトライアングル・シャツ社の火災惨事をめぐる歴史的出来事である。今月は図らずも、事件発生後100年目に当たり、アメリカではさまざまな記念行事が行われている。 

 実は、この事件が契機となって、1930年代の世界大恐慌に対処するため、アメリカのローズヴェルト大統領が実施した一連の経済・社会政策、「ニューディール」政策が策定され、展開することになったといわれている。女性として初めて労働長官となった、フランセス・パーキンス女史が、後に1911325日を「ニューディール」が始まった年とした。

 
アメリカについてかなり詳しい人でもこの事件をご存じない人が多いのだが、アメリカ社会史においてはきわめて重要な出来事であり、今日でも新たな研究書を含めて多数の刊行物が世に出ている。災害の規模や時代背景は大きく異なっているが、今回の大震災の復興のあり方を考えるについて、いくつかの貴重な材料が含まれている。

 大きな社会改革は、しばしば甚大な被害をもたらした天災・人災などを契機として、発想され、展開することはよく知られている。このたびの「禍を転じて福とする」ことができるだろうか。
  
アメリカを変えた火災事件
 トライアングル・シャツ事件の概略は、上述の本ブログ記事などをご参照いただければよいのだが、これまでブログ読者その他からお問い合わせもあったので、この際一般向きではあるが、きわめて優れた実態報告でもある、デイヴィッド・フォン・ドレール『トライアングル:アメリカを変えた火災事件』*2を、改めて紹介しておきたい。 

 1911年3月25日、退社時に近い頃、ニューヨーク市グリニッチの「トライアングルシャツ社」ビルの作業場から出火した。従業員の中には、帰り支度をしていた人もいた。しかし、火災が発生した時、緊急避難口のドアの鍵がかけられていた。

 この度の福島原発事故での対応には、特別の高層ビル火災にピンポイントで対応できる消防車が使用されていたが、当時、ニューヨーク市の消防隊の高層ビル用はしごは、
6階までしか届かなかった。火災発生の階までわずか6メートル足りなかった。火災は、7階から上階へと燃え広がった。

 火災警報が響いてから30分後には、火災の大半は消火されていたのだが、146人という多数の人が命を落とした。そのうち123人は、若いユダヤ系あるいはイタリア系の移民の女性だった。50人以上は工場の床上に倒れて死んでいた。19人はエレベーターのシャフトに落ち、少なくも20人は脱出装置が重量過多で壊れて死亡、53人が窓から落ちたり、飛び降りて命を落とした。本書はドキュメンタリーな基調を維持しながら、犠牲となったひとりひとりの姓名や属性まで詳細に記している。

 この痛ましい事件の犠牲者の実態から明らかになったことは、彼女たちは、ほとんどがイスラエル、イタリアなどからの移民の子女であったことだ。彼女たちは、ニューヨークなどの古いビルなどにある縫製工場などで、低賃金・劣悪(苦汗)な労働条件で働いていた。

前兆はあった
 この悲惨な事件は、ニューヨークで前年に起きていた2万人以上の衣服縫製業労働者の争議とも関わっていた。争議は低賃金、劣悪な労働条件の改善を求めていた。トライアングル火災事件は、すでに広く浸透していた、こうした劣悪な労働実態が、「発火」したものだった。

 その後、事件は、労働組合、社会運動家なども関わり、労働組合結成、安全な労働環境、賃金改善、時間短縮など、広い領域における社会政策、社会改革への運動が展開する契機となった。
その後の数年間に、連邦と州は、36の新しい立法を導入し、1930年代のニューディールの基盤を設定した。労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権を保障し、使用者の不当労働の禁止を定めたワグナー法の名で知られる「全国労働関係法」の発案者R。F.ワグナー、そしてフランシス・パーキンスは、ローズベルト政権の最後まで残って働いた。アメリカが最も「前進した時代」といわれることがある

大きい若い力
 筆者(管理人)は若い頃、たまたまニューディールにさまざまな形で参加した人たちの体験を聞く機会があった。彼らは当時のアメリカの現実に大きな危機感を抱き、事態の改善のために多方面で働いた。多くは20-30代の若者であり、強い正義感を抱き、社会の改革・改善のためにそれぞれの分野で力を尽くそうと考えていた。

 今以上に先が見えない時代だった。情報も不足していた。ほとんどは、自分たちの目の前にある劣悪な現実を問題として、その改善に努力した。今と違って、情報の伝達も不十分であり、経営者や保守派の抵抗も強かったが、努力は次第に草の根から連邦レベルへと集約され、多くの重要な社会立法、制度の実現へつながっていった。彼らの多くは活動を通じて生まれた新しい仕事に就き、アメリカ社会の民主化に寄与した。
 

 明治以来の記録的大震災となったこのたびの地震・津波・原発事故を克服し、復興に向かうためには、気が遠くなるような時間とさまざまな資源が必要になる。この国難ともいうべき大震災を被災者、非被災者の別を問わず、国民それぞれが、自らのものとして共有し、努力しなければならないだろう。

 とりわけ、これからの日本を背負う世代となる若い人たちの積極的な参加が欠かせない。ともすれば、暗く陰鬱な空気が支配しかねない世の中に、光を導き入れるのは若い力だ。ボランティアが自由に活動するには、まだ多くの障壁があるが、それなしに日本の再生はありえない。

 二度と悲惨な災害を起こさない、安全で豊かな生活が営める町づくり
には、長い時間と想像を絶するエネルギーが必要となる。真の危機は、現在の緊急救援段階の後にくるかもしれない。救援疲れで復興が失速してしまうのだ。被災地域は高齢化が著しい。こうした地域の苦難を救うためには、多くの若い人たちの参加が不可欠だ。さまざまな活動を通して、高齢者の経験も知り、彼らも多くのことを学ぶはずだ。新しい仕事の機会も、きっとその中から生まれてこよう。

 

 

References

*1
”The birth of the New Deal.” The Economist  March 19th 2011.

*2
 David  von Drehile. Triangle: The Fire that Changed America. New York: Atlantic Arrow Press, 2003, pp.340.

大恐慌を経験した一般の人々を対象としたオーラルヒストリーとしては、今日下記の作品が比較的容易に入手できる。
Sruds Terkel. Hard Times: An Oral History of the Great Depression

 

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速やかな癒しを祈りつつ

2011年03月17日 | 絵のある部屋

 
Georges de La Tour. Saint Sebastian Tended by Saint Irene, Kimbell Museum

聖イレーヌは17世紀以来、疫病の守り神、看護婦の守護聖人とされてきた。



  明け方、余震でたびたび目が覚める。つとめて気にしないようにしているのだが、潜在意識が働き、神経が緊張しているのだろう。

 このところ、あたかも「地球最後の日」を見ているかのようだ。少し長く生きてきたばかりに、
かなりの悲惨・悲哀の現場にも出会ってきた。多少のことには動揺しないと思ってはいる。文字通り灰燼と帰したふるさとの戦後、何度かの天災、異国の地で図らずも遭遇した「大停電」から、予想もしない災厄にも見舞われ、とっさの判断で危うく難を逃れたこともあった。地下鉄サリン事件も電車一台の違いだった。9.11は映像で見たが、このたびの大震災のごとき自然の恐ろしさには比すべくもない。科学の進歩を過信し、17世紀の人たちが抱いていたような自然への畏怖の念が、薄れていたのだろうか。

  今回の事態は、これまでのいかなる経験とも異なる。あまりに冷酷・無残な衝撃だ。「
3.11」が今後人々の間にいかに受け継がれ、記憶されるかはまったく分からない。それどころか、震災は未だ終わったわけではない。現在も拡大・進行中である。いつ終息するのか、誰にも分からない。

 私自身も身辺に探し求めながら、いまだ生死が確認できない人がいる。連絡の道は閉ざされており、ついTV映像の中に目をこらしてしまう。被災地の惨状を目の前にして、羽根があれば、毛布一枚、水のボトル一本でも届けてあげたいとも思う。

 原子力発電所事故によって、あたかも自らホラー映画の主人公たちのようになってしまった人々の有りようにも言葉を失う。エゴイスティックになりがちな状況は分かる。しかし、「人の弱みにつけこむ」ほど、人間として軽蔑されるべき行為はない。為替投機についても同様だ。現実は苛酷だが、それ故に冷静な判断と暖かい対応が欠かせない。なによりも被災された人々への「人間愛」を大事にしたい。災害はいつ、誰にふりかかるのか分からない。

 
明らかに国難ともいうべき惨事だ。危機に立ち向かう国民の資質が問われている。戦後の苦難を克服してきたわれわれのどこかには、その資質が残っているはずだ。

 
今はひたすら壊れてしまった「パンドラの箱」を封じ込めることに全力を尽くそう。国民の叡智を集めれば、決して克服できないはずはない。

 

 

提案:

★「震災追悼日(週)」を設け、日本人のそれぞれがこの国や自らのあり方、行く末
を考えたらどうだろうか。適切に導入すれば、電力需要削減、被災地支援の効果も高まるだろう。日本人の誰もが、苦難を共有すべき時だ。

 

  



 

 

 

 

 

 



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フェルメールの帽子(1):すべての道は中国に

2011年03月10日 | フェルメールの本棚

 
 

   『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』(3月3日―5月22日、東京、渋谷 Bunkamura ザ・ミュージアム)が開催されている。

 またフェルメールですか(笑)という気がしないわけではないが、日本にはフェルメールが好きな人が多い。17世紀オランダ美術の企画展にはフェルメール、印象派の展覧会にはモネが入らないと観客数を稼げないともいわれている。

 『地理学者』1669年頃、53×46.6cm、油彩・画布、フランクフルト、シュテーデル美術館


 今回、出展されているフェルメール作品『地理学者』(上掲、1669年頃)は、室内の男性だけを描いた2点のうちの1点だ(もう1点は『天文学者』として知られる作品)。この『地理学者』も、これまで何度か見ているのだが、同じ画家の他のジャンルの作品に比して、どこか迫力に欠ける気がする。

 
なぜなのか、そのわけを考えてみた。ひとつの原因は、作品自体が比較的小さいことに加えて、描かれた男性の顔に陰影が少なく、単調に見えることだ。あるいはモデル自身が実際にこうした容貌だったのかもしれない。あまり日の当たらない部屋にこもって、研究していた学者のイメージだからだろうか(笑)。モデルとしては、フェルメールと同年にデルフトに生まれ、顕微鏡を発明したことで知られるアンソニー・ファン・レーウエンフックではないかとの説もあるが、レーウエンフックの肖像画は別の画家によって制作されてもいて、管理人は最初に見た時からトロニーではないかと思った(その理由は、長くなるので別の時に)。

 フェルメールの室内風俗画の作品の多くは、自宅工房の同じ部屋で描かれたものだが、左側の窓から射し込む光の明度の点からすると、他の作品よりも室内に広く光が射し込み、全体に明るく描かれている。新しい方向を模索する画家の意図があったのかもしれない。地理学者の身につけたガウンに代表される明暗の表現は、本作以降の作品に共通する最も大きな特徴のひとつであるとされている、また、地理学者の背後の棚に置かれているのは、おそらく『天文学者』に描かれる天球儀の作者と同じアムステルダムの地図製作者ヨドクス・ホンディウスの手による地球儀であると推測されている。画面右部には地図が配されている。後述するが、両作品を含めて地球儀や地図に示されている部分、そして品物の配置と含意はきわめて興味深い。 


 この『地理学者』と『天文学者』は、研究者間に異論もあるが、それまでの女性を中心に愛や恋をモチーフとして描いた風俗画ジャンルの作品と一線を画して、フェルメールが別の方向への転換を模索した結果ではないかとの解釈も提示されている。

世界史への展望
 それは、現在はオックスフォード大学の中国歴史学の教授であるティモシー・ブルック『フェルメールの帽子:17世紀グローバル世界の暁』で展開した世界でもある。この著作は2007年に刊行され、世界的に大きな話題を呼んだ。

 フェルメールに関する書籍はすでに数多いが、経済史家の観点からフェルメールの家庭、とりわけその財政基盤に深く接近したモンティアスの画期的な著作などを別にすれば、多くは美術史や美学の立場からの研究であり、やや行き詰まった感がすることを否めなかった。ブルックの著作はフェルメールに関する美術史的視点というよりは、専門の中国学をベースに、フェルメールの作品に描かれているものを手がかりとして、17世紀当時の世界史的意義を考察した著作である。その材料は別にフェルメールでなくとも良かったと、ブルック自身述べている。フェルメールの絵画論や美術史論と思って、本書を手にとられると、期待を裏切られるかもしれない。

フェルメールの帽子
 ひとつの例を紹介しておこう。フェルメールの作品『士官と笑う女』Officer and Laughing Girl (上掲書籍表紙)は、一人の半ば後ろ向きの男と若い女性が対面している光景である。さしずめ、若い男女のデートの光景を描いたとみられる。当時よく見られた光景のいわばスナップ写真のようなものだ。女性の明るい笑顔が印象的だ。他方、オランダの海軍士官と思われる若い男性は、横向きで表情はあまり分からない。ブルックは絵画的側面にはほとんど立ち入らず、男がかぶっている大きな毛皮の帽子に着目する。
 
この帽子はビーバーの毛皮をなめすことなくそのまま使った高価なもので、当時の流行であった。かぶっている男も恐らく得意なのだろう。帽子の原料であるビーバーは、17世紀当時未だ探検中であった新大陸カナダのセントローレンス川・5大湖地域を中心に、先住民インディアンとの交易を通して、ヨーロッパにもたらされたものであった。大量のビーバーや狐などの毛皮がヨーロッパへ持ち込まれた。
 
フランスのサミュエル・シャンプレーンを始めとする各国からの多くの探検者が、新大陸を目指していた。1534年にはジャック・カルティエがガスペ湾に十字架を立てている。セントローレンス川、ハドソン川流域の探検・開発については、このブログでも記したことがある。セントローレンス川に流れ込むサガニー川流域もビーバーの多く生息した所であり、多数の毛皮商人が入り込んだ地域だ。先住民族との接触などを通して、推測を含むさまざまな興味深い話が生まれた。

新大陸の先にみえる世界
 注目すべき点は、こうした探検家や冒険家の究極の目的は、北米の新大陸ではなく、さらにその先にある中国であった。ヨーロッパから西へ西へと向かえば、中国に到達することができると考えられていた。その考えは誤りではなかったが、道は遠かった。アフリカ喜望峰をまわる道の方が早く開かれることになった。ポルトガルは1517年に明との貿易を開始している。
ブルックが、フェルメールの作品に描かれた細々とした物品に着目しているのは、それらから推察できる、フェルメール(1632-1675)、レンブラント(1606-1669)、そしてオランダ・フランドル地方の画家たちが活躍した17世紀の世界史的意義をひもとくためである。まさにこの時代に、世界がひとつのものとして認識される「グローバル時代」の暁が訪れようとしていた。

 フェルメールが生涯を過ごしたデルフトも、その世界のひとつの拠点であった。ブルックは、フェルメールの作品「デルフトの眺望」を題材として著作を書き出している。かつて、オランダのティンベルヘン研究所に短期間招かれた折にデルフトも訪れたが、現代貿易の中心はすでにロッテルダムなどへ移り、フェルメールの時代とさほど変わりはないのではと思えるほど静かな町だった。

 
新大陸、そしてそのはるか彼方にある中国に着目していたのは、東インド会社に代表されるオランダばかりではなかった。ポルトガル、スペインなどヨーロッパの有力国は虎視眈々と東方への道を狙って、16世紀以来、航路開拓を続けてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)が、フランス王室付き画家であった時の宰相リシリューは、カナダ植民へ大きな野望を抱いていた。探検家ジャック・カルティエがガスペ湾を発見した1534年から、1763年のパリ条約締結までの期間、フランスは北米に大きな勢力圏「ヌーベル・フランス」を擁していた。
 
 フェルメールの作品の室内への光は、グローバル化を迎える新しい時代の曙の光だった。絵を見ることは、考えることだという思いが一段と強まる。


 

 トロニー(tronie)、オランダ語で「顔」の意味。17世紀オランダの画家が描いた、印象深い容貌や珍しい衣装の人物の顔や胸像。それ自体はモデルに基づくことが普通だが、肖像画として描かれたものではない。
 
Timothy Brook. Vermeer’s Hat: The Seventeenth Century and the Dawan of the Global World. New York, Berlin, London: Bloomsbury Press, 2007.pp.372.

ちなみに、著者のティモシィ・ブルックはカナダ人で、研究領域には中国明王朝の社会史、第二次大戦中の日本の中国占領、世界史における中国の歴史的位置などを含む。現在は Shaw Professor of Chinese at the University of Oxford and Principal of St. John College, University British Columbia.



このたびの東日本大震災で被災された皆様に、お見舞い申し上げると共に、不幸にして震災の犠牲になられた方々には、心からお悔やみ申し上げます。

 


 

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Never ending story: ラ・トゥールの帽子

2011年03月07日 | 午後のティールーム

終わりのない話;Never ending story

 

Georges de La Tour. Le Tricheur à l'as de carreau, details, Musée du Louvre, Paris,

 


  17世紀、画家が使える顔料、絵の具の種類は限られていた。今日のように化学的に合成された絵の具はほとんどなかった。しばしば絵の具の製法は、親方、工房の秘密だった。その中で黄色、とりわけ明るい黄色 Jaune Brillantは当時の画家たちが欲しがった色だった。金色を表現するに使ったり、光の効果を出すのに必要だった。

 
17世紀、イタリアでは画家は、主として鉛アンチモニー lead antimoniate から作られた黄色を使った。これはしばしばナポリの黄色 Joune de Naples, Naples Yellow と称された。最初、ヴェスビアス山の中腹で発見された鉱石から作られ、アンチモニー、明礬、鉛、海水塩などと混合された。その配合は画家によって異なり、徒弟にもなかなか伝授されなかった。

 
ラ・トゥールは,
黄色の顔料を『ダイヤのエースのいかさま師』の召使いの帽子に使っていて、「ラ・トゥールの黄色」ともいわれている。

           ~~~~~~~~~~

 

 ところで、このブログは、どこを目指しているのですかと聞かれることがある。書き手の管理人としてはテーマはかなり限定してきたつもりだが、それぞれの記事をみていると、拡散して非常に分かりにくいことと思う。元来、ブログ筆者のメモ書き(心覚え)をかなり意図して開設している。

 とりあげられているいくつかのテーマ、たとえばラ・トゥールやレンブラントの話については、これで終わりなのか、行く末、結論を尋ねられる。実はどれもまだ終わっていないどころか、これから果てしなく続きそうだ。

  時間さえ許せば、記事としてメモしておきたいことは限りなくある。多分、遠からずブログが閉じられるまでは際限なく、多くの読者にとってはよく分からないままに続くことだろう。いわば、色の異なった落ち葉が積み重なっていって、小さな山になるのを待つしかない。しかし、人生の時間も少なくなってきた。

 

 対面しての話ならば、かなりのことをお話しすることも可能だが、ブログというメディアはそうした目的にはあまり適していない。一回の記事は短く、思考は断片的になりがちであり、ひとつの脈絡や思想を背景とした話は難しい。ブログを離れる時が近づいている。

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断裂深まるアメリカ(7) 

2011年03月02日 | 移民政策を追って

西部国境異常あり 
 動乱や戦争は、平和時には隠れて見えなかった社会の暗部を白昼の下にさらけ出す。内戦に近い
すさまじい事態が展開しているリビアでは、150万人近い外国人労働者が、社会の底辺部門で働いているという事実が明らかにされた。アフリカや中東諸国あるいはフィリピン、中国など、アジア諸国から働きにきていながら、帰国の手段もない人々が問題になっている。

 BBCによると、リビアからチュニジア側へ避難する外国人労働者・難民が大きな危機に瀕してる。リビアの西部国境では、7万人近い避難民が国境近くで入国許可を待っているという。チュニジアは受け入れ能力がなくなり、入国管理も放棄しているようだ。国際移住機関IOMによると、リビアから逃れてきたエジプト人、バングラデッシュ人、ヴェトナム人などの出稼ぎ労働者が、戦火から難を逃れて国境近辺に集まっている。彼らの多くは母国へ帰るすべもなく、夜は道路に寝ているという。

 海外出稼ぎ労働者が多いフィリピンは、政府がリビア、バーレーンなどで働きたいという労働者の就労申請を凍結するとともに、これらの国で働く自国労働者を帰国させることにした。しかし、救援は実態に追いつけない。1990年の湾岸戦争の時に、外国人労働者や自国民の帰国支援のために、各国が多くの救援機を送ったことを思い出す方がおられるかもしれない。

高まる反移民の動きと国家の対応 
 こうした中、アメリカ、EU、そして日本でも外国人(移民)労働者受け入れへの反対が強まっている。アメリカではヒスパニック系移民、EU主要国では、フランス、オラン
ダ、ドイツなどで、主としてイスラーム系移民への反対が高まっている。日本では管内閣は「第三の開国」を標榜しながらも、労働力の本格的受け入れは避けて通っている。中国人観光客の購買力や富裕層のメディカル・ツーリズムなどには大きな期待をしながらも、労働者は受け入れないというのは、かなり矛盾した話だ。人はいらない、金だけ落としてくれというようなものだ。

 世界の移民の長期的な流れを観察すると、好不況の波を反映して、移民の数は波動を示しながらも、長期的な傾向としては着実に増加してきた。グローバル化が進行すれば、不可避的に移民労働者も増加する。たとえば観光査証で入国し、期限が失効後も帰国せず、居住してしまう「不法残留者」と呼ばれる人たちが増加することは避けがたい。

 多くの先進受け入れ国が、こうした不法残留者の増加を経験している。不法残留者はどこの国にもいるが、ある限度を越えると、国家の秩序維持上もさまざまな問題の種となる。強制送還という強硬策に訴える場合もある。他方、アムネスティ(恩赦)と呼ばれる対策で、一挙に国民に組み入れてしまう手段もあるが、次のアムネスティ発動を期待してかえって不法入国が増加することが懸念され、安易に発動はできない。日本がとっているようなケース・バイ・ケースの対応も、公平性の維持などの点で、透明さに欠ける、裁定をめぐる裁判なども増加し、社会的コストも大きい。

 アメリカの状況が示すように、「不法(不規則)残留者」から合法的立場へ移行を認める場合には、従来以上に公平な基準と社会的開示が求められるようになった。

保守化した世論
 最近目にしたアメリカでのある世論調査では、移民に対する国民の保守化傾向が目立つ。政府に求める施策で最も高いのは「国境管理の安全性の強化ならびに移民法の強力な施行」であり、回答者の35%近くになる。続いては、すでにアメリカ国内に居住している不法残留者に対して「合法的な地位を与える道を開く」ことで、回答の20%近くを占める。上記施策の二つとも「必要度は同じ」とする回答は、およそ42%である。注目すべき点は国境の障壁を強化する政策について、保守党支持者(賛成55%)、民主党支持者(賛成22%)と大きく対立していることだ。

 総体として、かつてのような「開かれたアメリカ」というイメージからは大きく後退、保守化している。その背景として、国内雇用の低迷、麻薬・銃砲などの密輸犯罪の増加、人種的対立などが深刻化していることを指摘できる。

 「不法滞在者」について一般的に指摘できることは、滞在時間(年数)が長期化するとともに、いかなる状況で入国したかという問題は、重要さが減少する。たとえば、1970年代のヨーロッパ諸国で採用された「ゲストワーカー」といわれる期間を限定した労働者受け入れ制度は、一定期間の労働の後に帰国を義務づけられた。しかし、石油危機後の混乱の過程を通して、帰国しない者が増加し、なし崩し的に定住者が増加した。

判定基準の具体化へ
 その後不法入国阻止のための障壁は高まり、管理体制は強化された。しかし、
国内で不法残留者として摘発された場合、定住者として認めるか否かの裁定で、入国時の事情は重要度を減じた。これまでのブログ記事でいくつかの事例を見たが、入国審査を受けないで(あるいは査証など必要書類不保持で)入国したことが後に発覚したからといって、直ちに送還ということでは必ずしもなくなってきた。言い換えると、不法残留者であっても現在働いている国で、どれだけ社会の構成メンバーとしてのコミットメントを深めているかという点に裁定の重点が移っている。

 アメリカの事例で見てきたように、入国時は必要な書類不保持で国境を越えているなどの事情があっても、15-20年間、現在いる国で犯罪などにかかわることなく働いてきたという事実があれば、定住を認めるようになっている。その結果、最近は10年ならばほとんど認められるが、1-2年ではまったく認められないというような事例の蓄積を通して、許容できる条件を求めて収斂が進んできた。

 こうした推論の政策的含意は、大規模なアムネスティ(恩赦)やケース・バイ・ケースの裁定は望ましくないが、5-7年くらいの期間、犯罪歴もなく、妥当と見られる雇用記録があれば、不法滞在者の状態から市民権付与など、合法的な定住を認める段階への移行を認めてもよいのではないかという考えだ。

 不法残留者の場合、その国で経過した時間自体が重要なのではなく、そこでの社会的関わり合い(コミットメント)の程度、結婚、雇用など人間的・社会的生活の形成の実態が重視されるようになってきた。しかし、多数の人たちが対象だから、複雑なアプローチは行政的な点からも効率的ではない。条件が複雑であるほど、裁定に時間を要し、恣意性も介入してくる。アメリカのように1100万人に近い不法残留者に、いかなる具体性を備えた基準をもって対応するかという問題が次の課題として浮上してくる。(続く)。

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