時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

苦難の時代:対比モデルとしてのラ・トゥール(1)

2022年05月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


1972年「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展(パリ、オランジェリー)カタログ表紙
この頃のカタログは、258ページ中、カラー(色刷り)は5枚程度であった。
Photo:YK 

この小さなブログを訪れてくださる方の中には、ブログ筆者の17世紀のヨーロッパ世界、とりわけジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)という画家への関心が半世紀以上続くものであることをご存知である方もおられる。生来美術好きではあったが、この画家については、およそ50年前の1972年、パリのオランジェリーで開催された特別展を観たことが、今日まで続く関心のひとつの契機となっている。いつの間にか、身辺にブログを含め多数のメモや資料が累積することにもなった。美術史専攻の方でも知らないことが多いと言われ、セミナーなどでアドホックな話をする機会はかなりの回数になった。フリークの例に違わず記すべきことは山積しているが、ブログ終幕の時も近づいてきた。ブログを開設した頃は、かなり多忙で鉛筆書きの原稿を入力してもらったりしていたので、今読み返すと説明不足や入力ミスもある。しかし、ほとんどは入力当時のままに残してある。

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*1972年展カタログ及び説明資料
Georges de La Tour
ORANGERIE DES TUILERIES
15 mai -25 septembre 1972

CHRONIQUE DE LA CURIOSITE
L’EXPOSITION DE GEORGES DE LA TOUR
Extrait de la Revue du Maine, t.LII, n.107, 1972
このほか、Le Monde紙文芸欄などを含め、かなり多くの論評が残っている。
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前回取り上げたルーベンスと比較すると、ラ・トゥールの作品数は対極的ともいえるほどに少なく、今日に残る歴史的記録も限られている。同じ17世紀ヨーロッパといっても、北方フランドルとロレーヌとの地域格差は極めて大きく、なかでもその文化的格差は隔絶といってよいほどだった。

パン屋の息子から画家・貴族へ
ラ・トゥールは、ルーベンスと比較すると、出自が大きく異なっていた。パン屋の次男に生まれたジョルジュは、画家を志して修業し、1617年貴族の娘ディアヌ・ル・ネールと結婚、1620年にはロレーヌ公アンリII世に貴族的特権の請願を行い、認められている。しかし、ラ・トゥールが誰の工房で画業の修業をしたかは、推定の域を出ない。

1593年の誕生洗礼記録以降、確実な記録が発見されるのは1616年、ラ・トゥールがヴィックで代父を務めた事実である。23歳の時であった。そして翌年1617年、24歳の時にリュネヴィルの貴族(ロレーヌ公財務官)の娘ディアヌ・ル・ネールとの結婚契約書が残っている。

パン屋の次男が画家を志し、天賦の才を開花させ、貴族の娘との結婚で自ら貴族ともなり、特権を得て、さらにはフランス王、ロレーヌ公の画家にまでなるという「成功物語」、そして死後は忘却され、20世紀初頭に再発見されるというミステリーまがいのストーリーが一般化している。しかし、画家が残した作品はそうしたイメージとは遠く、リアリズムに徹し、深い精神性を秘めている。

画家をめぐる風説と作品の間に残る深い間隙は、時の経過と共に拡大し、多くのミステリーを生むことになった。画家が生存、活動していた頃は、これほど大きな隔絶は存在しなかったはずだ。同時代の識者や愛好家なら画家と作品のつながりをもっと冷静に把握できたろう。

最初の画業修業はどこ
単に狭い意味での史料に視野を限定している限り、間隙は狭まることはない。美術史家やコレクターなどが新たな史料や作品の発掘に努めてきたが、次第に大きな発見が生まれる可能性は少なくなっている。この時代の多くの画家は、作品の特定も難しく、生涯の記録史料もほとんど残っていない。

たとえば、ラ・トゥールに手ほどきをしたと思われるヴィックのドゴス親方(Claude Dogoz , 1570-1633)にしても、名前だけは残っていても、作品は発見されていない。工房は小さく一度に一人の徒弟しか受け入れできなかったことが判明しており、住み込み徒弟の名前もジョルジュではなかったことも史料上で確認できる。二桁の徒弟や職人がいたローマやアントワープのルーベンス工房とは大きな違いである。

それでも、ヴィックの町を訪れてみると、通い徒弟として手ほどきを受けることは十分可能であったと思われる。史料上の確認はできないが、当時の状況からラ・トゥールが最初の画業の修業をしたのはドゴス親方の下ではないかと考えられる蓋然性はきわめて高い。しかし、その後の遍歴時代はいまだに謎のままだ。ドゴス親方だけでは、ラ・トゥールの秘めたる才能を開花させるには十分ではなかったこともほぼ推定されている。

両親は反対だったか
ラ・トゥールの結婚にもミステリーは残る。ディアヌ・ル・ネールの両親は結婚に不本意だったのかもしれない。1617年の結婚証明書の記録には名前は見当たらず、さらに翌年にはジョルジュとネールの実父は死去している。


1617, 2 July:Georges marriage contract (Vic) Metz, Archives de la Mosselle, 3 E.8176. fol 238-239)。Jacques Thuillier, GEORGES DE LA TOUR, 1993, pp.245-246

花嫁の持参金(dowry)も、(両親ではなく)彼女を大変可愛がっていたと思われる資産家の叔母からの贈り物として500フラン、2頭の乳牛と1頭の若い雌牛、若干の衣類と家具類だった。両親には12人の子供があったので、ネールに特別なことはできなかったのかもしれない。それにしても、当時の慣行からするとかなり異例である。

画家という職人階層のジョルジュと貴族の娘との結婚というのは、当時でも稀ではあった。後年、ラ・トゥールの息子エティエンヌが親の名声にもあやかって貴族になった後、画家であることをやめたのは、貴族でいることの方が明らかに社会的に恵まれ、多くの点で優位に立つ階層であったことからほぼ明らかだ。エティエンヌも父親ほどの才能はなくとも、平均的な画家としての人生を送ることも可能であったはずなのに、父親の死後、画業を放棄したようだ。

この時代、さまざまな策略を図り貴族となり、その後その地位を次世代へ継承するよう陰に陽に動いた貴族の話は多い。

ラ・トゥールを歴史の闇から救い出し、存在と作品帰属を明らかにしたことは、史料発掘に多大な努力を傾注してきた「美術史家の勝利」であることは間違いない。しかし、画家が世を去って400年近い年月が経過すると、幸運に発見される断片的な史料、作品だけに依存することは、限界が見えてくる。

画家が生きた時代に立ち戻り、より広い社会的・文化的風土の中で理解を深める必要がある。このブログも第一義的には筆者の物忘れ防止のためたが、小さな覚書を意図してきた。

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ラ・トゥールの作品発見略史

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家に関する研究・発見史については、Cuzin, Jean-Pierre et Salmon, Dimitri,. de La Tour. Histoire d'une redecouverte, 1997、(ジャン=ピエール・キュザン、ディミトリ・サルモン、高橋明也監修・ 遠藤ゆかり訳、『ジョルジュ・ ド・ ラ・トゥール』2005年)が興味深く語っている。一見すると、小著であるが、内容は充実している。しかし、この後も新たな作品、史実の発見は細々としてはいるが絶えることなく続いている。

 美術史上では、この画家と作品の一部が初めて〈発見された〉のは、第一次大戦中の1915年であった。当時はフランスの敵国であったドイツの美術史家ヘルマン・フォス(Hermann Voss 1884~1969)が、ラ・ トゥール研究史上、画期的となったひとつの論文を( ARCHIV FUR KUNSTGESCHICHTE, 1915)に発表した。

 彼は、そこでナント(フランス西部の都市)の美術館にあった作品(《聖ペテロの否認》および《聖ヨセフの夢》(《若い娘に起こされる眠った老人》の2点と、レンヌにあった《生誕》のあわせて3点、そして版画《夜に集う女たち》を、画家の名は確定できないままに、関連づけていた。フォスはこの時点でこの画家がイタリア、カラヴァジョ派の画家やオランダの画家ホントホルスト一派の影響を受けている可能性まで示唆していた。名実共にラ・ トゥール再発見の画期的な成果だった(Tuillier 1993, p.9)。

 画家ラ・ トゥールは、1652年、現在のフランス北東部にあるリュネヴィルで死去しているが、その後2世紀半の間、名前も作品もほとんど完全に忘れ去られていた(実際には、1751年のベネディクト派修道士ドン・オーギュスタン・カルメの記載や他の画家への作品帰属の誤りなどがあり、完全に忘却されていたわけではない。)

しかし、美術史上の劇的な発見といわれるフォスの貢献によってライプチッヒ(フォスの論文刊行の地)でラ・トゥールは「再生」したとまでいわれている。それまでの間、画家と作品は美術史の闇に埋もれていたのだ。実際には、このフォスの論文もその情報が、当時のルーヴルの学芸員ルイ・ドモン(1882~1954)に伝わり、論文に登場したのは1922年のことであった。いずれにせよ、ジョルジュ・ド・ラ・ トゥールの発見史は、1915年から出発する。 

しかし、フォスの発見もそれに先立つ地道な記録発見に支えられていたことにも留意しておくべきだろう。1863年にリュネヴィルの建築家アレクサンドル・ジョリーが「画家ドゥ・メニール・ラ・トゥール』なる論文を発表した。ジョリーは、カルメ師以来、「クロード」とされてきたラ・トゥールの名前が正しくは「ジョルジュ」であると述べていた。さらにラ・トゥールの生地はリュネヴィルではないとし、生年も16世紀末頃と推定していた。ジョリーは、ラ・トゥールの息子エティエンヌの洗礼証書、ジョルジュと妻ディアヌの間に9人の子供がいたことを示す記録など、後年のラ・ トゥール研究にきわめて重要ないくつかの文書の存在を指摘していた。さらに、ラ・トゥールが生前に「有名な画家」と呼ばれていたことなども明らかにしていた(Cuzin et Salmon, 1997, Ch.1)。かくして、ヘルマン・ フォスの発見以来、かなり長い屈折した経緯の後、それまで闇に秘められていた作品が各地で次々と発見された。多くの美術史家たちの努力によって、画家の生涯に関わる古文書記録なども、断片的ながらも発見された。その過程は、あたかもミステリー小説を思わせるさまざまなエピソードに彩られている。

続く
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苦難の時代:対比モデルとしてのルーベンス(2)

2022年05月13日 | 絵のある部屋




Self-portrait in  Hut, 1623《帽子を被ったルーベンス自画像》ダンビー侯爵の依頼で、チャールス王(当時はプリンス・オブ・ウエールズ)へのプレゼントとするために制作。
油彩・板、85.7 x 62.2cm, Royal 
Collection, London,  UK
Commissioned by Henn Danvers, Earl of Danby(1573-1643) as a present for King Charles, when he was Prince of Wales

この自画像制作は、ルーベンスを大変驚かせたと伝えられている。ダンヴァース伯の求めとはいえ、未来の王に自画像を贈るというのは傲慢ではないかと感じたのだろう。伯爵は作品が助手が介在せず、ルーベンスが自ら筆をとり制作した作品であることを確実にする意味でも自画像を望んだといわれる。ルーベンスの作品といっても実態は工房の助手の制作に近いものであることが流布していたのかもしれない。その意味で、この作品はルーベンスの自画像制作の真の技量を計るにふさわしい作品といわれている。大変興味深い作品だ。



アントウェルペン時代(1609年ー1621年)
ルーベンスはイタリアに約8年滞在した。イタリアの魅力はこの画家にとっても非常に大きく、もっと長く留まりたかったようだ。しかし、母マリアが病に倒れたことを機に、1608年にはアントウエルペンへ戻った。画家が帰国した理由の一つには、当時ネーデルラント諸州とスペインの間で勃発していた80年戦争が、1609年の停戦協定によって12年間の休戦期に入ったことがあげられている。
     
1609年には、ルーベンスはスペイン領ネーデルラント君主のオースリア大公アルブレヒト7世と大公妃となったスペイン皇女イサベルの宮廷画家に迎えられた。ブリュッセルの宮殿ではなく、アントウエルペンに特別に工房を開設することが認められ、宮廷ばかりでなく多くの顧客からの注文を受けるようになった。かくして画家、外交官としての役割も重みを増し、1609年にはアントウエルペンの有力者の娘イザベラ・ブラントと結婚した。

1610年にはルーベンスは自らデザインした新居(現在は博物館)に移り住んだ。ここは画家の素晴らしい工房となり、ここで働いたアンソニー・ヴァン・ダイクやヤン・ブリューゲルなど多くの優れた芸術家を生み出した。大規模な工房で多くの職人、徒弟がおり、ルーベンスはしばしば素描だけを行い、職人たちに色彩などを指示し、最後に筆を加えるというタイプの作品がかなり多かったといわれる。工房には、後に著名となった職人たちが多数働いていた。



Rubens and Brueghel the Elder, The Feast of Achelous, ca.1615, oil on wood, 108 x 163.8cm, The Metropolitan Museum of Art, New York
ルーベンス&ヤン・ブリューゲル《アケロウスの祝宴》


この作品は、メトロポリタン美術館が所蔵する数少ないルーベンス作品(来日していない)の一点だが、神話上の想定、人物はルーベンス、風景は友人のヤン・ブリューゲルが描き、二人の親密な共同制作の成果として知られている。
画題はオウィディウス(43B.C-A.D.17?:  ローマの詩人、オウグスタス帝に追放され客死)の神話伝説集 Metamorphosesから選ばれた光景といわれる。
ルーベンスとブリューゲルの合作とは一見見えない一体感のある作品だ。



この時代、ルーベンスは同時代の他の画家が到底望み得ない恵まれた環境において、画業の充実・拡大を行なった。とりわけ、アントウエルペンの聖母マリア大聖堂の祭壇画《キリスト昇架》(1610年)、《キリスト降架》(1613-1614年)などの作品制作は、バロック期祭壇画の中心的作品として、ルーベンスがフランドルにおいても画家としての評価を決定づけることになった。


マリー・ド・メディシスの庇護と外交官としての活動(1621-1630年)
1621年にはフランス王太后となったマリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンっブール宮殿の装飾用にと、自身の生涯と1610年に死去した夫アンリ4世の生涯を記念する連作絵画をルーベンスに依頼している。しかし、マリーは、息子のフランス王ルイ13世によって追放され、1942年にケルンで死去した。

《マリー・ド・メディシスの生涯》は24点からなり、現在はルーヴル美術館が所蔵している。

1621年にネーデルラントとスペインの12年間の休戦期間が終わると、スペインのハプスブルグ家の君主はルーベンスを外交官としての任務に起用し始めた。1627年から1630年にかけて、ルーベンスはこの仕事に多くの時間を費やした。


Allegory of Peace and War or Minerva Protects Pax from Mars, 1629-30, oil on canvas, 203.5 x 298cm, The National Gallery, London
《平和と戦争の寓意》(1629-30年、ナショナル・ギャラリー蔵)
ルーベンスは1930年までロンドンに滞在。


晩年の活動(1630-1640年)
晩年の1630年から1640年にかけては、画家はアントウエルペンと近隣で過ごした。

最初の妻イザベラが思いがけず死去した後、1630年には53歳になったルーベンスは、16歳のエレーヌ・ルールマンと再婚している。その後、エレーヌは画家のモデルとして多くの作品に描かれるようになった。

ルーベンスの作品の中心は、歴史画や風景画までも含めて広い意味での神話画にあるといわれているが、ブログ筆者は以前からこの画家の肖像画の技量に惹かれてきた。画家の生涯において広く張り巡らされた人的関係のネットは、多くの顧客から肖像画の発注を生み出した。結果として肖像画家と言ってもよいほど多数の肖像画の作品を制作し、多くが今日まで継承されている。工房が関わった作品も多いと思われるが、妻や子供の肖像画はルーベンスが自ら全てを制作したと考えられ、画家の熱意が十分に注入された作品となっている。それぞれに人物の性格を的確に把握した作品となっているが、とりわけ幼い子供の描写は素晴らしく、このブログでも紹介したことがある。


Clara Serena, ca.1616, oil on canvas mounted on panel, 37 x 27cm, Liechtenstein Museum, Vienna, Austria
《クララ・セレナの肖像》
ルーベンスの最初の妻との間に生まれた5歳の娘、(下掲の)母親に非常に似ている。写真のように見る者に近接感を与える描写は当時の主流ではなかったが、画家の最初の子供としての愛情が反映したものだろう。頬の赤み、鼻の部分の光の当たり具合など生き生きとした描写であり、肖像画の傑作といえるだろう。



Portrait of Isabella Brant, ca. 1625, oil on panel, 86 x 62cm
Galleria degil Uffizi, Florence
《イサベラ・ブラントの肖像》
ルーベンスの最初の妻であり、画家として著名になっていた時期に描かれた肖像画である。イサベラはこの翌年に死去している。ルーベンスはイサベラの肖像画はほとんど描いていないが、夫妻が幸せな時期を過ごしていた頃の肖像として、信頼の表情が窺える良い肖像画である。



Portrait of Helene Fourment, 
ca.1630-32, oil on canvas, 97 x 69cm, Alte Pinakothek, Munich, Germany
《エレーヌ・フォウルマンの肖像》
ルーベンスの第二の妻であるエレーヌについても、画家はかなりの数の肖像を自らの手で全てを描いたと推定されるが、完成後は工房の助手や画家の愛好家などが模写の対象としたため、議論の対象となる作品もある。しかしながら、その中でこの作品はルーベンスが全てを描いたとされている。


ルーベンスの生涯における作品数は1200点余り(一説では1500点から2000点)と極めて多作だが、大部分は工房での作品と推定されている。画家はデッサン程度で、職人、徒弟に指示を与えて制作させ、最後に筆を加えたことが多かったといわれる。しかし、画家は自らの関与の程度に十分配慮し、作品価格などに反映させたようだ。

ラ・トゥールの現存する作品数が50点余であるのは、戦乱の地という過酷な環境で、多くの作品が逸失、滅失したと考えられる。それにしても、ルーベンスの旺盛な製作意欲には驚かされる。ルーベンスは祭壇画、神話画、肖像画、風景画などを含む歴史画を中心に様々なジャンルの絵画作品を残した。さらに、外交官、人文主義学者、美術品蒐集家など広範な領域で活発な活動をし、さまざまな成果を残した。

かくして、ルーベンスの生涯はきわめて恵まれ、多くの栄光に輝いたものとなった。この画家は天賦の才に加え、その出自、徒弟時代、イタリアへの旅と長い滞在、多数の庇護者と人脈、多彩な作品ジャンル、アントウエルペンでの大規模な工房運営、外交官としての活動と作品への顧客増加など、この時代の画家としては数少ない傑出した画家となった。

こうした画家としての輝かしい成果は、ルーベンス個人の画家としての天賦の才、努力に帰属するものであることはいうまでもないが、画家の生まれ育ち、活動した北方ネーデルラントの社会環境の成熟度が大きく寄与していることも指摘しておくべきだろう。ルーベンス、レンブラント、フェルメールなどの画業生活を支えた舞台は、他の地域では望み得ないものであった。

17世紀ヨーロッパ画家の作品評価の基軸をどこに置くべきか。考えるべき多くの課題が未だ残されているように思われる。



概略年表
1577年  ペーテル・パウル・ルーベンス 6月28日、ジーゲン(ウエストファーリア:現在はドイツ)に生まれる。
1587 年 家族はスペイン領オランダ(現在はベルギー)アントワープに移住。
1598年 アントワープの画家ギルドに入会を認められる。
1600年 イタリア、スペインに旅する。《キリスト昇架》《(マントヴ ァからの友人との)自画像》などを制作。
1605年 3年近くをジェノヴァ、ローマなどで過ごす。イタリアにはおよそ8年滞在した。
1608年 アントワープへ戻る。同地はフランドルでの対抗宗教改革の 拠点。
1609年 イザベラ・ブラントと結婚。《(イザベラと共に)自画像》、 《スイカズラの東屋》など。
1610年 《サムソンとデリラ》
1610-14年  《キリスト昇架》《キリスト降架》などでヨーロッパ有数 の画家としての評価確立。
1611年 最初の子供クララ誕生。
1614年 長女アルベルト誕生。
1618年 3番目の子供ニコラ誕生。
1622-25年 フランス王ルイXIIIのためタペストリー制作。フランス王家のための美術品制作。「王子・王女の画家」との評価広がる。
1623年 《帽子を被った自画像》
1624年 《東方3博士の礼拝》Adoration of Magi
1625年 ヤン・ブリューゲル死去。ルーベンスは遺児の保護者となる。
1626年 イザベラ・ブラント死去。ルーベンスは痛風に悩まされる。
1629年 ロンドン、ホワイトホールの天井画制作。
1629-30年 《戦争と平和の寓意》
1630年 エレーヌ・フォウルマンと再婚。夫妻は5人の子供を養育す る。最後の子供は画家の死後5ヶ月目に誕生。
1630-32年 《聖イルデフォンソ祭壇画》などの仕事を完成させる。
1635-40年 神話画制作
1640年 5月30日、心臓発作で死去。62歳。


References
‘RUBENS, SIR PETER PAUL’ The Oxford Companion to Western Art, 2004
Susie Hodge, RUBENS: HIS LIFE AND WORK IN 500 IMAGES, LORENZ BOOKS, 2017

クリスティン・ローゼ・ベルキン『リュベンス』高橋裕子訳、岩波書店、2003年
ヤーコブ・ブルクハルト『ルーベンス回想録』ちくまライブラリー、1993年



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​苦難の時代:対比モデルとしてのルーベンス (1)

2022年05月09日 | 絵のある部屋


ペーテル・パウル・ルーベンス《聖家族と聖フランチェスコ、聖アンナ、幼い洗礼者聖ヨハネ》1630年代初頭/中頃、油彩・カンヴァス、176.5x209.6cm, メトロポリタン美術館、ニューヨーク 出展番号18

現在『メトロポリタン美術館展』に展示されているルーベンス(オランダ語:リュベンス)の作品である。制作年代は1630年代初期から40年代中頃と推定されているこの作品は、聖家族、聖アンナが幼い洗礼者聖ヨハネを伴う聖母子、そして聖フランチェスコの幻視など、いくつかの伝統的主題をひとつの画面に描いているため、物語性は排除されている。しかし、画面からは穏やかな印象が伝わってくる。ルーベンスは、制作後も継ぎ足しや加筆をかなり行ったようだ。ルーベンスの作品の中では、決して中心的な位置を占めるものではないが、好感が持てる作品である。

メトロポリタン美術館 The METは、かつては足繁く通った時もあったが、この作品に出会った記憶はなかった。そういえば、1200点を越えるとも言われるルーベンスの作品だが、METが所蔵する作品は少ないようだ。ニューヨークとオランダとのつながりから見ても不思議な感じがする。日本の国立西洋美術館でも10点余を所蔵しているはずなのだが。



対比モデルとして:ラ・トゥールとルーベンス
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の探索を行う過程で、陰に陽にブログ筆者の脳裏に去来していたのは、ぺーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens: 1577-1640)であった。
ほぼ同時代の画家でありながら、画家としての出自、私的生活、制作活動などあらゆる点で、ロレーヌの画家ラ・トゥールとは、両極に近い対照を見せている。ルーベンスの作品数の多さからみても、ほぼ同時代人のラ・トゥールはこの画家の作品にはかなり馴染みがあるはずだった。しかし、その影響は余り感じられない。両者の作品制作に当たっての思想は極めて異なっている。

たまたま、ブログ筆者の友人が若い頃に住んでいた家がルーベンスの生地であったジーゲンであったことが、ルーベンスに関心を持つようになった端緒のひとつであった。自宅に泊めてもらい、ドイツ人の家庭の有り様も体験した。1960年代のことである。

ルーベンスの画家としての生涯、画風は簡単には尽くせないが、バロック期のフランドルの偉大な画家であり、外交官でもあった。作品のジャンルは、歴史画、神話画、祭壇画、肖像画、風景画など、極めて多岐にわたった。現存する作品から判断する限り、宗教画、世俗画など限られたジャンルの作品しか残っていないラ・トゥールとは対極に位置するかのようだ。さらには、ラ・トゥールが果たし得なかった版画、出版の分野にまで広範に手をのばしている。17世紀ヨーロッパ、バロック時代に屹立する有名画家のひとりである。「バロックの天才」と言っても過言ではない。他方、ほぼ同時代人のラ・トゥールは、しばしばバロックの流れに安易に位置付けられるが、その作風は明らかにゴシックの流れにあったと考えられる。

恵まれた画業生活
洗礼記録以外、誕生から画家としての修業過程もほとんど不明なままのラ・トゥールと比較すると、ルーベンスはアントウエルペンでの人文主義教育、聖ルカ・ギルドへの入会を始めとして、充実した画業修業を過した。1598年に修業を終え、21歳で親方画家として芸術家ギルドの一員の資格を認められている。画業習得の過程すら全く不明なラ・トゥールと違って、ルーベンスはあらゆる点で恵まれた環境にあった。ルーベンスの生涯についての記録は、この時代の画家としては例外とも言えるほど豊富に存在し、今日まで継承されている。

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N.B.

《スペイン戦争, The Spanish Fury》ダニエル・ファン・ハイル(Daniel van Heil, 1604-62)
アントウエルペン(アントワープ)の市街が戦火に包まれる光景は、現下のロシアによるウクライナ侵攻の有り様と図らずも重なって見える。

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N.B.
80年戦争(Tachtigjarige Oorlog)は、 1568年から 1648年にかけて( 1609年から 1621年までの12年間の休戦を挟む) ネーデルラント諸州が スペインに対して起こした反乱である。これをきっかけに後の オランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある 。この反乱の結果として、 ネーデルラント17州 の北部7州は ネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王 フェリペ2世の統治権を否認し、 1648年の ヴェストファーレン条約によって独立を承認された。
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アントウエルペンへの侵攻と占拠は80年戦争の間に起こり、その後この都市の衰退をもたらしたとされる。しかし、ルーベンスが過した当時、アントウエルペンは、戦火の中にあったが、16世紀末から17世紀初めにかけては、ヨーロッパでも有数の芸術的環境を維持していた。

イタリアへの旅と滞在(1600年ー1608年)
ルーベンスは、当時のヨーロッパの若い芸術家たちの憧れの地であったイタリアへの旅をヴェネツィアに始まるきわめて恵まれた形で行った。金銭的には手持ち資金も少なく豊かではなかったが、多くの著名人への紹介状を手に旅を続けることができた。後には憧れのローマも訪れ、イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの作品から多大な影響を受けた。カラヴァッジョの作品にも接している。後に、カラヴァッジョの作品購入の手助けなども行っている。ティツィアーノのから受けた影響も大きい。この時期には、マントヴァ公の金銭的援助も受けることができた。ルーベンスに求められた役割は、公の家族、親戚などの宮廷の美女たちを描くことにあった。画家が得た報酬は故郷に残った母親に送られていた。

ルーベンスの夥しい数の作品を見て気づいたことは、肖像画のジャンルにおける卓越した能力であった。作品の数も多い。多数の著名人の肖像を描くことを通して、天賦の才能は格段に磨き上げられたことだろう。そして、経済的にも豊かになった。

ラ・トゥールの場合を見ると、人物を描くという能力はルーベンスを凌ぐものさえ感じられる。しかし、この画家には肖像画の作品が残っていない。戦火や悪疫が襲うロレーヌの地では、顧客の数も少なかったことは想像に難くない。ラ・トゥールの力量からすれば、肖像画の依頼は多数あったかもしれないのだが、滅失、逸失などで今に残る作品がないのかもしれない。環境の違いが画家の生活を大きく左右するものであったことがよく分かる。

さらにルーベンスはマントヴァ公からスペイン王フェリペ3世(1578-1621)への特使としてスペイン王を訪れ、外交官としてのスタートを果たしてもいる。フェリペ2世の収集したラファエロとティツィアーノの膨大な作品にも接していた。1604年にはイタリアへ戻り、各地を転々としながら制作活動を続けることができた。ルーベンスは念願叶ってローマに滞在したが、当時の人口は11万人くらいで、ヴェネツィアよりも少なかった。しかし、画家にとってはギリシャ、ローマの膨大な遺産を学ぶと共に、当時活躍していた同時代の芸術家たちの活動を学ぶには宝庫のような場所であった。ローマが持っていた吸引力の大きさには改めて驚かされる。


続く

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