時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールはイタリアへ行ったか(続)

2009年10月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

"The Sarrone Master." Christ and Virgin with Saint Joseph in his Workshop, Church of Santa Maria, Assunta, Serrone (Details)

  
 前回のブログで、ラ・トゥール作ではないかといわれる謎の絵画について、短い記事を書いた。早速コメントをくださった方もおられる。いつものことながら、老化防止?のための自己中心的覚え書きなので、多くの読者の方には、さぞ分かりにくいことと思っている。文脈も見えにくいだろう。しかし、このところかなり多くの反響をいただき、多少は共通基盤が生まれてきたことも感じている。

 この一枚の作品、17世紀美術史の研究者の間でもほとんど知られていない。ラ・トゥール研究者の間でわずかに話題になるくらいだ。画家も確定できず、作品としても謎の部分があることからそれも当然ではある。しかし、ラ・トゥール研究第一人者のテュイリエが注目するように、不思議な要素を数多く含んだ作品だ。なにしろ、ラ・トゥールの周辺に登場する画家たちのほとんどがイタリア行きを経験しており、多くの人の目が文化の中心であるローマへ集まっていたのだから、無理もない。イタリアの風は強かったのだ。ということで、少し追加を書いてみたい。

 この作品、実は見れば見るほど不思議に思われる。古今東西、画家の制作態度は千差万別だが、ラ・トゥールという画家に限ってみると、筆をとる前にきわめて深く考えるタイプだったようだ。そして、同じテーマを、さまざまに描いている。画題は決して多くないが、聖俗の世界について、かなり幅広く画筆を揮っていた。

 ラ・トゥールの手になったか否かは別として、この一枚、さまざまなことを考えさせる。17世紀初め、ロレーヌにも、イタリア、ウンブリアあるいはローマでも見られない雰囲気の作品だ。画家がどれだけ考えて制作にあたったのか。疑問が次々と湧いてくる。美術史家が迷うだけのことがある。その中からいくつかを記してみよう:

  登場する人物はそれぞれ類推がつくのだが、その描かれ方に驚かされrる。中央に位置する子供は、幼きイエスと思われる。しかし、その容貌がきわめてユニークだ。服装は17世紀当時の幼児の服装だが、ふっくらとし、謎めいた笑みを浮かべた容貌は、どう読むべきだろうか。さらに男子か女子か分からない顔立ちだ。少し人間離れしているといってもよい。そして視線はどこを見つめているのか。なにを考えているのだろうか。当時の人はどう受け取ったのだろうか。

 左側に描かれたマリアとみられる女性も謎めいている。きりっとした美しい顔立ちであり、刺繍の仕事の手を休め、一瞬なにかの思いにとりつかれたようにみえる。しかし、なんとなく現実離れした不思議な美しさだ。イエスの整然として衣装と比較して、きれいな衣装ではあるが、かなりカジュアルに描かれているのが注目点だ。足下の木靴の描き方も気になる点だ。

 そして、さらに第3の人物であるヨセフとみられる男性の姿と対比すると、また驚かされる。この老人は今日でもどこかで出会うことがあるかもしれない普通の人物イメージだ。かなり一徹な、仕事熱心な男のようにみえる。ラ・トゥールは、聖人を描くに、世俗の人々にモデルを求めた。『アルビの12使徒シリーズ』を思い出させる。日々の厳しい仕事の間に刻み込まれた顔の深いしわ、白くなった髪の毛など、ラ・トゥールだったら描いたかもしれない。そのリアリティは強い迫真力を持っている。カラヴァッジョの影響が感じられる。唯一、注目されるのは頭上にかすかに描かれた光輪(ハロー)だ。

 この時代、宗教改革、カトリック宗教改革、トリエント公会議などの動きの中で、画家たちはそれぞれに時代が求めるものを探っていた。人物の描写だけに限っても、疑問は尽きないのだが、画家は意識してこの一枚の画面でさまざまな実験を試みたのではないかという思いがしてくる。マニエリスム、リアリズム的要素の混在も、そうした試みの表れなのかとも思う。ここまでくると、この作品がラ・トゥールの手になるものかどうかという問題はかなり後退する。 

 

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ラ・トゥールはイタリアへ行ったか

2009年10月29日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

"The Sarrone Master." Christ and Virgin with Saint Joseph in his Workshop, Church of Santa Maria, Assunta, Serrone (Folligno)

ラ・トゥールのイタリア作品か

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、17世紀ロレーヌの画家たちの多くがそうであったように、イタリアへ行ったのだろうか。後世の美術史家の多大な努力にもかかわらず、これまでのところ、この画家のイタリア行きを証明するような記録は、なにひとつ発見されていない。そうした状況で、あくまで推論の範囲に留まるが、唯一検討の対象となりうる作品が挙げられてきた。

  30年ほど前、イタリア、ウンブリア Umbria
での体系的な調査の過程で、セローネ Serroneの教区の古い教会で一枚の興味深い作品が見つかった。発見された場所はローマからロレッタ LorettaとアンコナAnconaへ向かう途上から、少し横にそれた道にある村の教会であった。この油彩作品(263x183 cm)に、大工ヨセフの仕事場でのキリストとマリアが描かれている。教会翼廊のかなり大きな祭壇の上にかけられていた。

 作品には署名も記録も残っていない。この作品の発見については、1980年のイタリアの地方研究誌 Ricerche in Umbria (vol.2)に掲載された。それによると、カラヴァッジョの影響を受けたフレミッシュかフランスの画家の手によるものとされている。画面には不思議な詩情が漂い、卓越した色使いなど、比類がない出来栄えの作品だ。しかし、制作した画家は特定されず、暫定的にセローネの師匠、il Maestro di Serroneとされている。

 他方、ジャック・テュイリエやオリヴィエ・ボンフェのようなラ・トゥールの研究者によると、この作品を見ると、ラ・トゥール以外に思い浮かぶ画家がないという。年代としては
1612-20年くらいの時期に作成されたと推定される。仮に、ラ・トゥールとすると、画家が徒弟修業を終え、独自の創作活動のための画業遍歴をしていたと思われる20代の作品ではないかと思われる。いずれにせよ、かなり才能に恵まれた若い画家が作成したのではないかと推定されている。

 この時代を支配していたイタリア画壇の画風を前提にすると、この作品でのキリスト、マリア、ヨセフの描き方はきわめて斬新だ。作品の中心には未だ顔立ちも幼いキリストが描かれている。仮にラ・トゥールの手になるものとしても、『大工とキリスト』の幼いキリストともかなり異なった印象を与える。横に並んで描かれているマリアとともに、モダーンな印象を与える。リアルというよりは、かなり様式化されている。他方、ヨセフの容貌はかなり異なった印象を与える。カラヴァッジョ風にきわめてリアリスティックに描かれている。しかし、ヨセフの頭上には光輪が描かれている。今日ラ・トゥールの真作とされている作品には、光輪も天使の翼も描かれていない。

 幼いキリストが手にしている二枚の小さな板は、十字架を暗示するものだろう。マリアの刺繍箱からの糸で、板を結びつけようとしている。その笑みを浮かべた表情も、リアリスティックとは少し異なる微妙なものだ。そして、マリアはなにを考えているのだろうか。刺繍の仕事をしながら、一瞬それから離れて遠い先のことを考えているようでもある。そして、リアルに描かれているヨゼフもよく見ると目を半分閉じて、なにか瞑想しているようだ。

 子細に見ると、興味深い点が多々ある。室内に置かれたヨセフの作業台、工具などもかなり様式化されている。背景に描かれているゴシック風の窓が注目される。当時、イタリアで大きな影響力を持っていたカラヴァッジエスキの作品では、通常こうしたものを描いていない。さらに、ゴシック風窓の外に見える不思議な風景も気になる。なんとなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』の背景が思い浮かんだ。ラ・トゥールの作品を見たかぎり、背景らしきものはほとんど描かれていない。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な画家の作品、生涯に魅せられ、長らく関心を抱いてきた一人の愛好者としてみても、さまざまな点で不思議な印象を受ける作品だ。ラ・トゥールではなさそうな感じはするが、断定もできない。画家が若い頃に描いた習作かもしれない。人物の描き方など、さまざまなことを限られた画題で試したということも考えられないわけではない。この画家を知れば知るほど、分からなくなるのだ。あの光と闇の作品の双方を見事に描き分けた画家の力量は、にわかに測りがたい。底知れぬ深さを持った画家である。新たな連想の糸がつながるまで、頭の片隅に残しておく作品なのかもしれない。



Reference
Jacques Tuilier. George de La Tour. Paris:Flamarion, 1992.

 

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美女の運命やいかに

2009年10月28日 | 絵のある部屋

  ブログで話題にしたばかりのエジプト古代史を飾る王妃ネフェルティティの胸像だが、ドイツとエジプト政府の間では係争の対象になっている。車中でふと聞いたBBCによると、1907年から第一次大戦が勃発するまでの間に、彼女がエジプトのエル・アル・アマルナ砂漠の砂中から、ドイツ人考古学者ルードウイッヒ・ボルヒアルトのティームによって発掘、発見されてからおよそ100年が経過した。

 胸像自体は、古代エジプトの彫刻家で名前が確認されているトトメスが、3400年くらい昔に石灰岩の塊から制作した。発見されたのも工房跡だったようだ。この当時からエジプト政府は、自国の貴重な発掘遺産が国外に出ることに厳しい対応をしていた。王妃の胸像は「石灰岩の王妃の首」とのみ書類記載され、巧みにベルリンへ持ち出されたらしい。第二次大戦後、ベルリンのコレクションが連合国に接収された時も、この胸像だけは見つからなかった。このあたりはかなりミステリアスな話になっている。

 ネフェルティティは、今年ベルリン新美術館の屋根の下に移った。この美術館は、イギリスの建築家デイヴィッド・チッパーフィールドにより手がけられた新美術館 Neues Museumだが、完成まで10年近くを要した。

 ネフェルティティがしばらくいた美術館は第二次大戦でひどく破壊され、東西ドイツ統一時もひどい状態だった。美女の流浪・遍歴の旅は終わったわけではない。

 エジプトの古代遺物保存庁の事務総長ザヒ・ハワスは、ドイツのプレスに「私は確信しているが、彼女が合法的ではない形でエジプトを離れたのであれば、ドイツが彼女をエジプトに戻すように正式に要求する」と語った。実際、国際裁判所で係争中のようだ。ナチスが最後まで隠し通していた美女だけに、アフガンの
カーブル美術館から盗み出された至宝のようには、返してもらえないようだ。ネフェルティティは存命中も激動の日々だったようだが、今も国際政治に翻弄されている。絶世の美女の運命やいかに。

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グローバルな移民の動き

2009年10月27日 | 移民の情景

 

 この地球上を移動する移民(外国人労働者)の姿、様相は、きわめて多様であり、実態を理解するにはかなりの努力が必要だ。世界で自国の国境の外に出て、働いている人々の数だけみても約2億人近いとみられる。このブログでは気づいたかぎりで、トピックスを拾ってきた。ひとつひとつは小さな断片であっても、集積してくると、かなりのことが分かってくる。

 他方、大局的視点から大きな流れを把握することも、これに劣らず重要なことだ。移民は、その出身国(地域)と受け入れ国(地域)双方に影響する。 移民が増加した地域では、当然さまざまな変化が発生する。たとえば、地域における外国人の増加、住宅や教育問題、仕事の変化などである。

 他方、多数の移民を送り出した地域では、若い人々の減少、外貨送金の流入増加、貧富の拡大、遠く離れた地域との交信増加などの変化が生まれる。

 移民の多くは遠距離というよりは、同一の地域の中で移動している。たとえば、アフリカ内部での移動は多いが、アフリカを出て他の大陸へ移動、働く人はそれほど多くはない。しかし、航空機の発達で、以前では考えられなかった遠距離を移動して、出稼ぎに行く人々も増えた。

 移民に関連する出身国と受け入れ国の間を結ぶものは、ひとつは彼らが身につける新たな熟練であり、労働の成果としての外貨送金である。こうした成果がもたらす効果についても、明らかにされた部分、不明な部分が交錯している。

 これらの点は、前々回に記事に書いたばかりだが、タイミングよく、これらの現状を簡単にヴィジュアル化してくれる次の動画が提示された。

Economist.com/videographics


 

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電子書籍の近未来

2009年10月25日 | 雑記帳の欄外

  新聞が、米アマゾン・ドット・コムが前年同期比69%増益となったことを伝えていた。新製品の電子書籍「キンドル」も好成績の一因らしい。ふとしたことで、この端末を手にすることになった。書籍や論文の電子版などをネット上で購入したり、ディスプレイで読むことは、しばらく前から経験していたので、いずれこうした電子書籍リーダーが実用化されることは十分予想はしていたが、実物に接してみると、ある種の衝撃を禁じ得ない。

 「キンドル」は想像以上に良くできていると思った。使ってみて戸惑う点はいくつかある。紙の書籍のように立体感がない、印刷物としての全体像が直感的に把握しがたい、新聞など大きな印刷物は紙面全体が視野に入らない、そのこともあって記事のウエイトづけが把握できない、どこになにが書かれているのか、すぐには分からないなどの問題はあるが、ここまできたIT技術の進歩に素直に感動する。

 使い方に慣れてみると、思ったより操作性はよい。単語にカーソルを動かすと、辞書の説明が表記されるなど、紙の書籍では期待できないことも可能だ。紙の書籍だと、書き込みやマーキングすることはためらうが、電子書籍ではそれも簡単にできる。ワンクリックで瞬時に本や新聞が購入できてしまうというのは、衝撃的だ。本好きな人には、たまらないかもしれない。それでなくとも、なにか購入しないとただの空箱なので、たちまち何冊か購入してしまった(笑)。


 紙の書籍と電子書籍の間には、まだ大きな隔絶感がある。ふたつはまったく別の世界にあるようだ。同じ本を紙か電子版のどちらで買うかと聞かれれば、今の段階ではためらいなく紙の書籍を選ぶだろう。

 書店や図書館で実際の本を手に取る楽しみは、IT上のショッピングにはとても代え難い。紙の書籍の持つ独特の手触り、匂い、そしてなによりも慣れ親しんだ立体感は、電子書籍では得られない。それでも、電子辞書がいつの間にか紙の辞書を追い出して机の片隅を占拠したように、いずれ電子書籍が書棚の本のかなりを追い出すことは十分予想できる*。古書は、そして50年後の図書館はどうなっているだろうか。時空を超えて、その光景を予想してみようとは思わない。

 

* 偶然見たTV番組「日本全国俳句日和」(NHK衛星第二、10月25日)から:
「広辞苑 手首痛めり 秋の夜」(山本太郎)

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グローバル不況下の移民・外国人労働者

2009年10月24日 | 移民の情景

 深刻な不況に直面した場合、移民(外国人労働者)がいかなる行動をとるか。その態様は単純ではない。不況の範囲や深度、移民の置かれた立場によって、多様な対応が生まれる。それでも、金融危機に端を発した今回のグローバル不況は、その広がりも衝撃も過去に例がない深刻なものだけに、以前と比較して、かなりはっきりとした動きを指摘できる。

 アメリカ、EUなど移民の大口受け入れ国がほとんど例外なく制限的政策へと移行したこともあって、移民入国者数の減少、母国への帰国(送還)増加という予想される特徴が見られる。金融危機前は、国境開放論もかなり唱えられていたので、顕著な方向転換といえる。

 他方で、送り出し国では不況、雇用機会の減少に対応するため、海外出稼ぎを志す動きも強く、世界規模での労働供給圧力は大きい。しかし、ITなど情報伝達手段の発達で、出稼ぎ先の雇用状況も迅速に伝わるため、実際に出国する人たちにとってはブレーキになっている。

 こうした状況で、移民の活動を実質的に推測するひとつの尺度として注目されているのが、彼らの外貨送金である。移民の活動において、出稼ぎ先の国から母国の家族などへの送金が重要な意味を持つことは、かねてから注目されてきた。しかし、送金に際して彼らが利用する送金手段、経路、実際の使途と効果などについては、不明な部分も多く、実態がいまひとつ判然としないところがあった。しかし、最近では解明も少しずつ進んでいるようだ。

 2001911日の同時多発テロの勃発を契機に、関係国の政府・金融機関などを通して移民の送金の流れを精査する動きが強まった。送金の流れを追求することで、なんとかテロリストの動きが把握できないかとの目的があったようだ。しかし、テロリストに関する情報よりは、移民の海外送金の実態の方が明らかになった。

 世界を移動するおよそ2億人といわれる移民が母国へいかなる形で、どのくらいの送金をしているかが少しずつはっきりしてきた。家事手伝い、皿洗い、食肉加工、鉛管工などに従事する移民労働者の外貨送金は、先進国の開発途上国向け援助より額が大きくなった。世銀の調査では、昨年には3280億ドルが先進国から開発途上国へと送金された。この額はOECD諸国からの1200億ドルの政府援助よりはるかに大きい。たとえば、在外インド人からの送金が少ないと云われてきたインドだが、2008年には約520億ドルを海外のインド人同胞から受け取った。これは外国からのインドへの直接投資を上回っている。

 移民の絶対数は増加するが、世界人口の3%という現在の比率が大きく増える可能性はない。グローバル不況の影響は明らかで、世銀によると外貨送金のピークは2008年だったかもしれないと推定されている。6月のOECD 報告では、移民は先進国の景気後退のマイナス面を背負っているようだ。たとえば、ヨーロッパで失業率が高いスペインでは、本年六月時点で、全国平均の失業率18%に対して外国人は28%だ。EU諸国で働くポーランド人労働者のように帰国が増える場合もみられる。


 相変わらず不明な部分もある。外貨送金額は増加したが、これらが移民労働者の母国へもたらす影響については、依然はっきりしない。ポーランド、メキシコ、フィリピンなど中所得国からの出稼ぎ移民は多い。他方、より貧困なアフリカ諸国からの移民はそれほど大きくない。これらの国から海外出稼ぎに行くのは簡単ではない。ほとんどの移民は、海外へ出稼ぎに行くために、資金や教育という何らかの踏み台、ステップを必要とする。そのため、移民を送り出す家族は、ある程度の所得や貯えがあり、教育も受けていて、平均よりも豊かな家族だ。最も困窮している人たちは出稼ぎに出られない。家族が海外へ行かれるか否かで、貧富の格差が拡大する現象がみられる。

 最近では、移民の労働の成果である外貨送金は、それを必要とする人に効率的に届くようになった。これまでのような送金途上での手数料、金利などによる損失・浪費が少ない。携帯電話、送金手段などの発達で最も有利な時期に送金が可能となり、従来送金の過程にあったさまざまな損失・漏出を最小限に防いでいる。

 本国の家族へ届いた送金の一部が、消費財などに使われて無駄に“なっても、大部分は有効に活用されているようだ。教育や健康維持などの積極面にも使われるようになった。

 しかし、単なる現金送金という次元での効果を超えて、移民は人的面でのウエルフェア(厚生)を向上させるだろうか。10月5日発表された国連 Human Development Report によると、移民は労働の自由な移動というプラスの面を増加しているという。国境を越えることで、国内では限られている機会が拡大し、より豊かに、健康的になり、教育面でも改善が期待できるという。確かに海外へ出稼ぎに出られることは労働市場の拡大という意味では望ましい。しかし、移民に出ればそれで問題が解決するわけではない。

 基本的に重要なことは母国に雇用機会が創出されることだ。そのためには、政治的安定の確保も欠かせない。あまりに貧困なため、あるいは国内の悪政によって、経済的に窮迫、難民化する事態は深刻である。リビアやエリトリアなどにその例がみられる。

 移民には従来から指摘されている熟練労働者、医師などの「頭脳流出」というマイナス面も依然としてある。政策上の観点からは、母国の経済発展を図り、国内の雇用機会を増大することが、単に海外出稼ぎを推奨することよりも重要度は高い。この点は、1980年代から指摘されているが、十分定着したとはいえない。開発途上国の経済発展における移民(海外出稼ぎ)の役割と位置づけは、移民政策の根源につながる課題だが、未だ根付いていない。経済発展が軌道に乗るまでの間、海外出稼ぎに頼るとして、答を先延ばしにしている国が多い。

 

Reference
The aid workers who really helpThe Economist October 10th 2009




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サガニ(サグニ)王国はどこに

2009年10月20日 | 雑記帳の欄外

サガニ川河口付近


 「9月1日、われわれはその港からカナダへ向かって進んだ。そして、港から15リーグ(1リーグは約4.8km、およそ70キロ)ほど西南西へ航行した時、大河の真ん中に3つの島を見つけた。島の向こうに大変深く、流れの速い川があった。それがサガニー王国とその土地へ向かう水路であり、道だった。」 ジャック・カルティエ 『カナダ探検記』

 「サガニ(サグニ)王国」"Kingdom of Saguenay" (仏:Royaume du Saguenay)の名を知っている方は、かなりの北米通といえよう。セントローレンス川とハドソン川については、興味深いことが数多いのだが、とても簡単には書き尽くせない。小説家なら、長編小説、大河小説?が書けそうだ。

 ただ、ケベックについて断片を記した関連で、思い出したことを少しだけ書くことにしたい。「サガニ川」*は、セントローレンス川をケベックから少し下った左岸で合流する最大の支流である。合流点付近は、大洋を航海する船が航行できるほどの大きな川であり、氷河が残したフィーヨルドがある。水深も深い。謎の「サガニ王国」は、このサガニ川をはるか遡った奥地にあるといわれてきた。

 この王国の中心には、美しい湖水地帯があるといわれてきた。今日ではサン・ジャン湖 Lac Saint-Jeanと呼ばれる地域のようだ。長い間、そこへ到達するには、セントローレンス川との合流点タドウザックTadoussac からサガニー川を遡る以外に手段はなかった。タドウザックは1600年にフランスがこの地域で最初に植民拠点とした、カナダで最古の港だ。世界で30の最も美しい港のひとつに挙げられている。しかし、その名を知る人は少ない。

 「サガニ王国」の名が最初に歴史に現れるのは、フランス人でカナダの発見者だったジャック・カルティエ Jacques Cartier (1491―1557)が記した1535―36年の旅行日誌が初めてのことらしい。フランスそしてイギリスの王たちが、新大陸での利権を争っていた16-17世紀の頃は、かなり知られていたようだ。「王国」(Kingdom, Royaume) の名は、そうした遠い冒険時代の伝説的な響きを秘めている。

  元来、「サガニー王国」は、北米の先住民族アルゴンキン・インディアンの伝説から生まれたらしい。それによると、この地域の北方に金髪で金銀、毛皮で豊かに暮らす人々が住む地があると伝えられてきた。ちなみに「カナダ」というのもイロコイ族の使っていた地名だ。

 本格的な植民が始まる以前の時代、セントローレンス川自体が探検の対象であり、地理的にも謎めいた話が多い地域だった。フランスは、17世紀、あの敏腕・狡猾な宰相リシリューが新大陸に布石を打っていた時代でもある。このケベックからセントローレンス川の左岸の奥深く広がる広大な森林・湖沼地帯は、ヨーロッパでは金や銅などの資源、豊富な毛皮の産地として豊かだが、神秘的な土地として話題となっていた。 

  カルティエは最初の航海の時に、インディアンの部族長ドナコナ Donnacona の息子をフランスへ連れて帰り、この謎の王国の話を聞き出したともいわれている。その話がどれだけ真実性をもっていたのか、今となっては分からない。何らかの目的でつくり出された架空の話であったのかもしれないし、初期の探検家、山師などの姿から先住民が想像したのかもしれない。


 16世紀には数少ない探検家、山師、漁師、商人、宣教師などが、この幻の王国の伝説に誘われて、山奥深く分け入ったにすぎない。この王国の存在は、度重なる探検家などの探索でも確認されていない。利権争いの中で生まれた架空の、王無き王国であったのかもしれない。この地域に白人の定住者が入ったのは確認されるかぎりでは1838年のことであった。当初は毛皮貿易、農林業、そして19世紀になって電力、そしてアルミニウム、製紙などの産業が立地する地域になった。

 サガニ川はサガニ地溝帯を流れ、合流点タドウザックはベルーガ(白いるか)が多数見られ、ホエール・ウオッチングができることでも知られる景勝地だ。太古の昔、氷河が大地を深くえぐった跡が豊かな水の流れる大河となっている。水量も豊かで、初期の探検家たちが東洋への水路ではないかとして、さぞかし心を躍らせたのではないかと思う。この地域を旅すると、サミュエル・ド・シャンプラン、ジャック・カルティエ、あるいはリシリューなどの探検家、宣教師、政治家などの名前をつけた道や地名に出会う。リシリューの名にカナダで会うとは? 17世紀の世界の広がりは面白い。先住民でもあるインディアン部族の名前に由来する場所も多い。幻のサガニー王国は果たして存在したのだろうか。

 

白い部分のどこかに「サグニ(サガニー)王国」があった?

 




セントローレンス、ガテナウ付近の紅葉


* 
綴りはSaguenayだが、土地の人の発音は「サガニ」に近い。

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紅葉の世界一は?

2009年10月17日 | 午後のティールーム
Photo: 焼岳の紅葉、E.R.氏の好意により掲載    

  セントローレンス川流域のいわゆる「メープル街道」、モントリオール郊外のローレンシャンからアディロンダックにかけての紅葉は、世界有数の美しさであることはかなり知られている。最初にその光景に接した時は、地平線まで埋め尽くす広大な絶景に息を呑んだ。360度、視界のすべてが紅葉に埋もれていた。  

 これほどの規模でなくとも、紅葉の色の絶妙さという点では日本のいくつかの地域はそれに勝るとも劣らない。友人が送ってくれた焼岳の紅葉は、画像の上でも絶佳の美しさだ。今年の紅葉狩りはどこへ行こうか
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遙かにセントローレンスを望む

2009年10月14日 | 午後のティールーム

 『文藝春秋』11月号を手に取る。長年購読していながら、この頃は印象に残る記事が少なくなった。読む速度が遅くなったこともあるが、前月号をまだ全部読み終わらないうちに、次号が来るということも経験するようになった。時節柄、政治がらみの短期的視点からの論評が多く、大河の底深く流れる動きを示してくれるようなものは少ない。

 こんなことを考えていた時、たまたま目についた記事があった。記事というよりは、巻頭の部分のグラビア「世界遺産の宿(カナダ編)」に、ケベックシティが選ばれていた。北米でもきわめてユニークなこの都市とその周辺は、世界で最も好きな場所のひとつだ。北米に位置するにもかかわらず、フランス文化の色濃く、陰翳のある町だ。 

 この地域で印象に残る所はケベックシティばかりではない。北米第三位の長さといわれるセントローレンス(ST.LAURENCE, ST.LAURENT)という大河と、それが生み出した地域文化、自然の美しさに惹かれ、魅了されてきた。両岸に広がる落葉樹林、通称「メープル街道」の紅葉は確かに世界有数の華麗な絵巻物だが、それ以外の季節もそれぞれに美しい。さまざまな折りに、数多くの思い出が脳裏の底深く刻まれてきた。 

 少しだけ回想のページを繰る。初めてこの大河を目にしたのは、1967年、数えるとすでに40年余りの歳月が過ぎていた。この年、モントリオールでMan and His World  『人とその世界』 のテーマでEXPO67が開催された。EXPOは、セントローレンス川に築かれた人工島が会場となった。 

 これまでEXPOは世界各地で開催されてきたが、開催地の特徴が最も生かされ、楽しい雰囲気に充ちていたという意味では、Montreal EXPOは最も成功した例ではないかといわれている。この行事のために、同市では新しい地下鉄(the METRO)も造られた。

 夏休みの間、モントリオールに住んでいたカナダ人の友人夫妻のアパートに泊まり込んで見に行った。会期中のホテルは高いからと、二部屋しかないベッドルームのひとつを提供してくれた。お互い貧乏学生だった。今も交友が続いている。

 近代的なビルも目立つモントリオールと比較すると、ケベックシティは歴史的な城壁都市だ。クラシックな光景が目につく。新大陸における最初のフランス植民の地だった。フランス語が公用語だ。北米大陸でのフランス語圏としての特徴は、独立運動も介在し、かなり強固に存在する。北米大陸では最も歴史的な都市といえるだろう。多数の歴史的建造物、記念碑、城砦、戦場、そして素晴らしい眺望が楽しめる。ランドマークのような壮麗なホテル、シャトー・フロントナックの美しさはいうまでもない。逆に下町 から見上げる登山電車フニキュラーの光景も趣がある。

 ケベックQuébecの地名は、先住民族インディアンの「川が狭くなった所」kebec に由来するともいわれているが、確かにオンタリオ湖からケベックにかけての流域は、一部を除き、川幅が狭い。雪解け水の激流に目を奪われた。大西洋のガスペ湾から遡行してくると、とてもこの川が五大湖につながるとは想像できないだろう。ましてや、初期の探検家たちが考えた東洋への海路につながるという思いは、厳しい自然の姿を前にして絶たれたのだろう。彼らは何度も遡行の途中で引き返していた。 

 ヨーロッパからケベックに最初にやってきたのは、フランスのサン・マロからやってきたジャック・カルティエ Jacques Cartier だった。1535年のことだった。しかし、彼の植民集落は長続きせず、1608年、サミュエル・シャンプレイン Samuel Chanplainの毛皮交易を目的とした植民砦が取って代わった。

 五大湖から大西洋にいたるこの大河は、北米大陸の歴史の揺籃のような側面を持っている。先住民族と探検者の接触、対立、抗争、融和、交易など、さまざまな次元が展開する。この川の光景も激流あり、悠々たる流れ、淀みもあって、激動、平穏、繊細、広大と次々と変化する。本流に流れ込む支流もそれぞれの特徴を見せる。まるで人間の一生のような思いもする。日本で英語を教えていた、カナダの友人の娘さんを九州天草の半島めぐりに案内したことがあった。第一印象がまるでセントローレンス流域のようだという感想を聞いた。確かに大河の流域に広がる小さな町村の光景は、なんとなく天草の村落の風景に似ているところが多かった。

 この魅力に満ちた大河にまつわるさまざまな関心を引き出す原点となった「セントローレンス川をさかのぼる」の著者は誰だったか、まだ記憶の底に沈んだままでいる。

 


ケベック遠望

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戻ってきたアフガンの至宝

2009年10月10日 | 絵のある部屋


 ブログという奇妙なメディアにかかわってから、予想しなかった不思議な経験をしてきた。今回もそのひとつだ。アフガン文明の至宝の命運、盛衰にかかわる記事を書いた直後、BBC、Times、New York Timesなどのメディアが10月7-10日にかけて、一斉にある出来事を伝えていた。日本のメディアでは報じられていないようだ。

 アフガン戦争の過程で、国立カーブル美術館から持ち出され、行方不明となっていた所蔵品が、本来の所有者であるカーブル美術館へ返還され、その一部が公開されることになったというニュースだ。あまりのタイミングの一致に目を疑った。

 カーブル美術館は1920年代に設立され、1979年のソ連軍の侵攻までに10万点近い所蔵品を持つまでになった。ところが、その後のアフガン戦争の過程で、同美術館はアフガン戦士の防衛拠点ともなり、破壊と荒廃が進んだ。とりわけタリバンが支配した1992-95年の間に美術品の7割近くが彼らによって破壊されたり、国外流出などで失われてしまった。その後、館員の努力でわずかに救い出された逸品が、パリのギメ、ニューヨークのメトロポリタン美術館などの企画展として公開されてきた。

 今回、カーブルで展示された品々は、ロンドンのヒースロー空港で密輸品として摘発されたものが本年2月に返還されたものだ。同空港の入国管理当局による11日間の集中摘発で1500点近い密輸美術品が見つかり、押収された。その多くは、不法な発掘や窃盗行為でアフガニスタン国外へ持ち出されたものだ。一時は戦火によって消滅してしまったと考えられていた品物だった。こうした形で戻ってきたのは、幸運としかいいようがない。

 カーブル美術館に返還された旧所蔵品は、2001年にタリバンが崩壊した後、ノルウエーからもおよそ13,000点が、そしてデンマーク、アメリカなどからも返還されたようだ。日本へも持ち込まれていることは、ほぼ疑いない。もし、税関などで不法な持ち込みであることが確定できれば、同様な返還が行われることを切に期待したい。

 アフガンの戦火は未だ絶えないが、その合間にも学術的努力として考古学者による発掘なども進められているようだ。管理人の友人も参加している。他方、依然として不法な盗掘も絶えることなく続いている。アフガニスタンの文化省は、不法盗掘などを摘発するパトロールを実施しているようだが、追いつけないようだ。盗掘者たちは手榴弾、火器などで武装しているらしい。

 戦争による殺戮に加えて、人類の貴重な文化遺産までが失われることには言葉がない。今回、返還された品も、失われた全体からみるとわずかなものだ。しかし、こうした活動を通して、人類共通のかけがえのない財産として、次の世代へ継承することの重要さが少しでも共有されることを期待したい。



References

“Looted treasures return to Afghanistan” By Sarah Rainsford BBC News, Kabul
“Afghan story of recovery: Museum regains stolen artifacts” by Sabrina Tavernise, The International Herald Tribune, October 8, 2009
”Returned Artifacts Displayed in Kabul” The New York Times, Degital Edition, October 6, 2009


# 今回も、cestnormさんの貴重な情報、コメントが大変参考になった。感謝申し上げたい。

#2  折から日本の岡田外務大臣がカーブル訪問中である。たとえ不十分でも現実を見ることはきわめて大切なことだ。

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Yes, we can, but......

2009年10月09日 | 移民政策を追って

 
足が止まったアメリカ移民政策改革

  アメリカでは移民政策は、基本的に連邦法の管轄である。また、合法滞在者も不法滞在者も、公正に法の手続きを受けることが、合衆国憲法により保障されている。 さて、昨年の今頃大統領選で、あの熱狂的な支持を受けたオバマ大統領の「神通力」も、効き目が大分低下したようだ。さまざまな分野で、手詰まり、停滞が目立つようになった。

 そのひとつが移民政策構想だ。ブッシュ政権時代にはあれだけ議論がなされたにもかかわらず、オバマ政権になってからはほとんどまともな議論がない。移民に関する包括的な政策イメージが著しく後退し、短期的、切り貼り型対応になっている。オバマ大統領は医療改革、アフガニスタン問題など内外の重要課題に追われ、新たな検討はほとんど未着手の状態だ。

 移民問題に大きな影響力を持ったテッド・ケネディ上院議員が逝去したこともあって、かつてのような改革エネルギーが生まれていない。パートナーだったマケイン議員もかつての情熱はない。結果として、現状は共和党政権時代の路線を踏襲しているという状況だ。 とりわけ、国土安全保障省 The Department of Homeland Security (DHS) は、移民・国籍法 Immigration and Nationality Act(INA) の287(g)条項をもっと使うように各方面に圧力をかけている。移民管理と犯罪捜査の接点にあたる微妙な条項だ。

 Section 287(g)は、『不法移民改革・移民責任法』 Illegal Immigration Reform and Immigrant Responsibility Act (IIRIRA)のひとつの結果として1996年に制定された。Section 287(g) は、国家安全保障省が州やローカルの法執行機関に本来連邦法の管轄である移民法の実施の一部をゆだねることを認めている。とりわけ州およびローカルの関係部局がそれぞれの人員を、現行移民法の厳格な実施とそのための訓練にまわすようにという指示がなされているらしい。確かに、各州、ローカル共に、犯罪者とされる不法移民が自分たちの地域に流入してくることは好まない。国土安全保障省の長官ジャネット・ナポリターノは、287(g)条項はそうした事態の対応として有効な手段だと推奨している。しかし、この条項を拡大強化することは逆作用を引き起こしかねない。  

 連邦政府筋の最近の報告は、追加投入された州やローカルの要員が、交通違反者など軽い違反者の摘発に力を入れ、麻薬や銃砲取引、テロリストなど真に重大な犯罪者を逃していることを指摘している。オバマ政権は、この条項を廃止すると期待した向きもあったが、政権は受け入れてしまっている。 287(g)条項は恣意的に運用されやすく、刑罰的だとの評価がある。そのためもあってか、犯罪を犯した不法滞在者は、もし逮捕されると強制送還されると考えて目立たないように行動しているようだ。さらにこの条項は、人種差別などに恣意的に使われがちだ。たとえば、ローカルな住民感情などを反映して、ヒスパニック系などは不法移民として捕まる可能性が高くなる。

 移民問題は、人種問題が入り込む余地が大きいため政治家は及び腰になる。最近のカーター前大統領の発言は、明らかにフライイングを犯してしまった。

 こうした既存条項の拡大適用は、大統領の批判者が指摘するように、移民法の総合的改革とはほど遠い不満足なものだ。連邦法の意図と州やローカル地域の実態との差異が拡大している。オバマ政権は総じて”Yes we can”と 応対は調子がよいが、実態は But.....と歯切れが悪くなってきた。さて、日本の新政権は?

 

Reference 
“The continuing crackdown” The Economist September 19th 2009

# 10月9日、ノルウエーのノーベル賞委員会は、2009年のノーベル平和賞をアメリカのオバマ大統領に授与することを発表。ぜひ"can"(可能性)を "do"(実行)に移してほしい。

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漂泊のアフガン至宝

2009年10月05日 | 絵のある部屋

ベグラム発掘の聖杯
Vase sur pied
Trésor de Begram
Verre bleu
H. 9.0cm; o 6.5cm
Photo YK



  激しい戦火による破壊と略奪の中から勇気ある博物館員の手でかろうじて救い出され、アフガニスタン、カーブル宮殿の地下深く隠されていた秘宝は、その数は少ないが、輝かしい光と壮麗な美しさで人々の目を引き寄せ、大きな感動を与えた。パリのギメ美術館で一般公開された後、トリノ、アムステルダム、ワシントンD.C.、ヒューストン、サンフランシスコ、そして閉幕したばかりのニューヨーク(メトロポリタン)と、文字通り世界中を流転する旅をしてきたのだ。メトロポリタンの次の行き先は、カナダのオタワになっている。
 
  だが、こうした企画展の背後で人間が犯した暴虐と愚行のすさまじさについて、企画展を見た人々のどれだけが、思いを馳せただろうか。展示品が素晴らしい、感動的だという印象だけでは、到底片づけられない大きな問題が横たわっている。展示品のいくつかは、タリバンによって一度は完全に破壊された聖杯や象牙の彫刻のように、残った断片からかろうじて復元されたものだ。

 東西交易の十字路に位置した古代アフガニスタンの地は、中央アジアに燦然たる文明が輝いた栄光の場でもあった。歴史の流れの中で、この地に集積した文明の遺産の数々は、そこに生きる人々の大きな誇りだった。しかし、アフガン戦争の過程で、そのほとんどは略奪の対象となり、逸失、消滅してしまった。カーブルの美術館から持ち出され、外国に流出した所蔵品もある。もしかすると日本も荷担しているのかもしれない。バブル期の1980年代に、日本や中東のコレクターなどの手に渡ったともいわれている。真偽の程は分からないが、そうしたうわさは聞いたことがあった。

 終了したばかりのメトロポリタン美術館の企画展の後、これらの至宝がどこに落ち着くことになるのか、現在は全く当てがないといわれる。戦火で破壊されたカーブル美術館は、もはやその場所ではなくなっている。アフガンの戦火が治まった後、安住の地が定まるまで、展示品は世界中をさまよう以外に道はない。オーストラリア、日本などの美術館へ旅をする可能性も残されている
。落ち着き場所が定まるのはいつの日か、まったく分からない。こうした不安定な旅を続ける間に、コレクターなどに買い取られて、脱落してゆく至宝もある。

 カーブルの至宝は、アフガン民族の栄光と誇りの象徴だ。カーブルの安住の地に収まるまで何が起きるか分からない。アフガニスタン復興のために、真に日本が寄与でき、後世ににわたってアフガンの人々から感謝される仕事は、給油活動ではなく民政や文化の分野で多数残されている。



Medallion with a bust of a youth
Afghanistan, Begram
National Museum of Afghanistan, Kabul, 04.1.17
Photo: © Thierry Ollivier / Musée Guimet


  From October 23, 2009, to March 28, 2010, in Gatineau-Ottawa, Canada. Afghanistan’s Hidden Treasures,  Canadian Museum of Civilization From October 23, 2009 to March 28, 2010

 
この博物館はオタワ近郊、ガテノー公園の一角にある。かつて若い頃キャンピングカーを駆って、宿営した場所の近くだ。夏でも明け方は寒さに凍えた。テントの前を大きなムース(大鹿)が悠々と歩いて行ったことを思い出した。自分の将来も定まらない日々だったが、不安はなく、希望と自信に満ちていた時だった。

# この記事を書くについて、有益なコメントをお送りいただいたcestnorm, R.K.さんに感謝したい。

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ネフェルティティに魅せられて

2009年10月02日 | 絵のある部屋

Buűste der Kőnigin Nofretete
Neues Reich, 18 dynaste (Armana-Zeit) um 1340 v. Chr. Kalkstein
Staatliche Museen zu Berlin-Ä
gyptisches Museum



 9月号の『芸術新潮』の特集は「エジプト美術世界一周」だった。ヨーロッパ近世以降はともかく、はるか文明の創始につながるエジプト美術は特に関心を持って調べてきたわけではない。しかし、あのH.G.ウエルズの『世界文化史大系』にのめり込んだ頃から脳裏に刷り込まれてきたのか、いわばミーハー的関心は強く持っていた。

 とりわけ、ベルリンの国立エジプト博物館には魔力のようなものを感じ、ベルリンに行く機会があれば他の場所はさておき、ここだけは欠かさずに訪れてきた。したがって、「ネフェルティティ王妃」には東西冷戦の時代から、何度となくご対面してきた。ナチスが最後の最後まで隠匿していたという至宝だ。展示されるようになってからも、最初から防弾ガラスの箱の中にお過ごしのようだった。いうまでもなく、ネフェルティティは世界史を飾る絶世の美女であることは、ほとんど否定する人がいない。もしかすると、その時代を超えての怪しい魅力にたぐられているのかと今頃になって気づいた。

  ネフェルティティはエジプト史上最激変ともいわれるアマルナ王朝、アクエンアテンAkhenatenの第一王妃といわれる。時代はBC1334-1351頃だ。像をひと目見れば、
クレオパトラに匹敵する美貌であることは間違いない。片眼が入れられていないのは、像が未だ制作途上にあるからともいわれている。脱落したのかとも思って,文献をいくつか見てみたが、完成像ではないらしい。そうだとすると、なぜ片眼を最後まで未完成のままに残したのか。もしかすると、日本のだるまさんのように、願いがかなったら入れられたのかもしれない。「王家の谷」深く放棄されたように長らく埋葬されていたミイラは、アマルナ時代の女性のファラオだったといわれる。これがネフェルティティだったとすると、彼女の目はなにを見ようとしていたのだろうか。少し考えてみると、エジプト美術では、目に不思議な力を秘めた作品が多い。謎は深くあの世まで持ち越しそうだ。

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