時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

春の名残り:桜前線を追って

2007年04月28日 | 雑記帳の欄外


  今年は桜の開花の時期に国外にいたことなどもあって、あまり桜を見る機会がなかった。目の前に迫ったゴールデン・ウイーク、大混雑が始まる前に春の名残りを楽しみたいという思いが衝動的に高まった。ふと思いついたことは、すでにこの時期、日本列島のはるか北に行ってしまった桜前線を追いかけることだった。このブログ、追いかけることが多すぎる?

  幸い、天候に恵まれ、桜は七分咲き、さしたる交通混雑もなく見事な光景を楽しむことができた。M市の石割桜は地元TVが翌日の放映に備えて撮影中だった。予報を裏切る晴天で、花見時としてもベスト・タイミングだった。日頃、便利だが忙しくなるばかりで、新幹線なるものの恩恵を感じることはあまりないのだが、今回ばかりはその効用を感じることができた。


角館武家屋敷跡の桜

Photos: Y. Kuwahara
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高まる障壁・崩れる障壁

2007年04月26日 | 移民の情景


  グローバル化が進展しているといっても、国境は有形、無形、さまざまな障壁となって人々の前に立ちはだかっている。これらの障壁は決して一方的に低くなっているのではない。このブログがウオッチの対象としているように、国境の門扉は時によって開かれたり、閉められたりしている。このドアの開閉の程度が、いわば移民政策の有りようを示している。

  メキシコからのアメリカへの労働者流出は、年間50万人の規模になった。この流れ、とりわけ入国に必要な書類を持たなかったり、定められたドアを通らない、いわゆる不法移民の増加をいかに抑止し、コントロールするかは、国境線の長い大国アメリカにとってきわめて難しい政策課題となっている。ブッシュ政権の移民法改正は、未だに決着がつかないでいる。

急増した外貨送金
  注目される変化は、外貨送金の次元に起きている。合法・不法を問わず、アメリカ国内で働くメキシコ系労働者が働いて得た所得を、メキシコの家族などへ送金する流れが急速に拡大している。

  アメリカからメキシコへ流れる外貨送金は、メキシコ銀行の推定では、2006年におよそ230億ドルに達した。12年間で7倍という増加である。

  ところが、これまでこうした送金にはさまざまな問題があった。アメリカでは不法滞在者は銀行口座が開設できなかった。また、口座がある場合でも、送金手数料が高くついた。そのため、時々帰国する際に現金で携行する、友人に手渡す、地下の送金網に頼るなどの手段で、メキシコへ持ち込まれてきた。帰国者をねらう窃盗なども多発していた。しかし、最近、この送金をめぐる障壁が急速に崩れ、安全な送金のルートが拡大してきた。

  メキシコの銀行バンコメールによると、送金手数料は1999年の平均9.2%から2007年1月には3%にまで引き下げられた。平均の小切手送金額も、8年前の290ドルから350ドルへと増加している。さらに銀行経由送金の90%がインターネットを介して行われるようになった。この比率は、1995年時点では50%であった。

銀行口座のない人々
  しかし、アメリカへ出稼ぎにくる労働者の大多数は、農村出身者である。彼らにとっては、3%の手数料自体、かなりの負担となっている。こうした事情を考慮し,メキシコ銀行とアメリカの連邦準備委員会が協議し、Directo a Mexico(正式名は、FedACH International Mexico Service) という送金コスト削減策を検討、導入することになった。これによると、アメリカ・メキシコ間の当事者同士の送金業務が1日で完了するといわれる。

    システムが円滑に機能するよう、両国の中央銀行が媒介する。送金額のいかんにかかわらず、$0.67切り下げる。その結果、銀行によって異なるが、350ドルの送金について、2.50~5ドルの手数料となる。これで送金手数料は従来の半分以下となる。この方式は始まったばかりで、利用者は月に27,000件程度である。そのほとんどいえる26,000件は、実はアメリカ政府からメキシコにいる社会保障受給者への支払いである。かつて、アメリカで社会保障受給番号(いわゆる国民背番号)をもらって働いていた人たちである。

  メキシコ移民の出身地は圧倒的に農村であり、貧困で受け取り側が銀行口座を持っていない人が大変多い。この点をなんとか解決するため、メキシコ政府の銀行Bansefi が、アメリカで働くメキシコ人労働者が帰国することなく、口座を開くことができるシステムを考えている。

  移民自身がこうしたプランに乗るだろうか。これについて、メキシコ銀行は70%は開設するだろうと楽観している。その理由として、ヒスパニックの将来を見越して口座開設に意欲的なアメリカの銀行が、アメリカの入国管理 Border Control が要求する入国に必要な正式書類がなくても、メキシコ領事の身分証明だけで、口座開設を認めるようになっているからだ。移民の合法化が行われなくとも、送金は合法化されている。移民法改正について決定の遅い政府や議会をさしおいて、ビジネス化は将来を先取りして進行する。

  こうしたシステムがアメリカ・メキシコ両国の側で展開すると、メキシコ人の苦労の結果が、手数料や強盗によって掠め取られることもなく送られることになる。 ブッシュ政権の政策で国境の物理的障壁は高くなるが、送金を阻んでいた障壁は急速に低くなっている。


Source:
’Handled with care’. The Economist April 21st, 2007.

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中世の生活を偲ぶ

2007年04月22日 | 絵のある部屋

 


  

    今回の旅の途上、パリで宿泊したホテルは、サン=シュルピス広場の近くであった。部屋数も少なく、表通りから引っ込んでいて概観もまったくホテルらしくないところが気にいって、10数年前からここに決めていた。ところが、例の「ダビンチ・ブーム」が起きて、この辺りのホテルは星が増えるなど、グレードアップしたところが目立つようになった。競争も激しくなったのか、インターネット・サービスを始めとして設備や内装が改善されたのは喜ばしいが、宿泊料もかなり上がったので痛し痒しである。

  国立中世美術館(クリュニー館)Musée National du Moyen Age, Hôtel de Cluny が眼と鼻の先なので、久しぶりに出かけてみた。内外装ともかなり改装されて、全体に非常にきれいになり、一段と整備・充実した感じがする。

  この美術館をすっかり有名にした「一角獣を連れた貴婦人」のタビスリーも、展示室の表示や照明も新しくなって、10数人の子供たちが座って先生の説明を聞いていた。海外の美術館では良く見かける光景である。子供たちも自然に楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。 美術館が教育の中に溶け込んでいる。フランスの美術館では、小、中学校などのグループ鑑賞を積極的に歓迎しているところが多い。特別展で長い行列ができていたギメ美術館でも、別の入り口からかなりの数の小、中学生を受け入れていた。

  それでも、このクリュニー館の場合は、混んでいるという雰囲気には程遠い。ほとんど誰もいない展示室もある。外観同様に地味な美術館である。 この美術館、もともと外壁は石造りだが、内部には多数の木材が使われており、親しみやすい。ステンドグラスだけの部屋もある。各地の聖堂から集められた断片が展示されているが、聖堂で見るのと違って近くで楽しむことができる。

  この美術館の展示物は、タピスリー、彫刻、ステンドグラスだけでなく、当時の民具のようなものまで含んでいて幅が広いので、肩がこらず親しみやすい。なにげなく置かれている展示物にも、色々なことを考えさせられる。

  タピスリーの話は長くなるので、別の機会にするとして、小さな感想をひとつ。見ている人は少なかったが、このアダム像(1階ca.1260)、なかなか素晴らしいと思った。13世紀の作品で、かなり修復の手が加えられていると
思われるが、大変洗練された美しいフォルムである。すこし女性的でひ弱な?アダムだが、背景の壁とも良くマッチしていた。


 

  出口のところにある井戸も良く見ると、なかなか趣があった。ガーゴイルも時を経て風化を重ね、いい表情になっている。この井戸は、クリュニー修道院長の邸宅で使われていたのだろうか。たまたま届いたばかりの書籍「中世の都市の一日」*の中に、市民が井戸を使っている光景を描いた一枚がある。井戸は中世都市の公共設備の中でもきわめて重要度が高いものであった。この井戸はどのように使われていたのだろうか。時代のテープをまき戻して見たい気がする。ここは、サン・ジェルマン・デ・プレ界隈の賑わいから切り取られたような別世界である。


 
Photos : Y.Kuwahara

*
Chiara Frugoni, Arsenio Frugoni (Introduction), William McCuaig (Translator) A Day in a Medieval City. Chicago: University of Chicago Press, 2006.

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また引き離された姉と弟?:ゲインズバラの家

2007年04月18日 | 絵のある部屋

  2006年9月15日の記事で思い出した「ゲインズバラの家」サイトに掲載されていた「姉と弟」の復元予想図が、どういうわけか取り外されてしまっていた。しばらく前までは、確かにサイトの「教育」 Education の所に掲載されていたことは間違いないのだが。そして、この「姉」と「弟」の作品自体は、このGainsborough's House の目玉であり、現にポスターやパンフレットの表紙になっている。実際、わざわざ自分で田舎道を車を運転して見に行ったこともあるので作品の印象も鮮明に残っている。

  幸い保存しておいた画像は、この通りである。弟の方はご覧の通り全身像だが、姉の方は上半身像となっている。ゲインズバラの家は、画家の生家で美術館として運営され、保存や考証もしっかりしていると思われる。弟の像に一部残る姉の衣裳の跡などからも、画家が描いた原画はあらまし、このようなものであったと推定されている。弟の側に残されている部分をみても、原画が切断されたことはほぼ間違いない。実際、ゲインズバラの作品にはよく知られた「アンドリューズ夫妻」*など類似の構図も多い。

  折角、再会した「姉と弟」はどこへ行ってしまったのだろうか。「再会」の背景もミステリアスであったが、今回の突然の失踪も謎である。


*  Mr and Mrs Andrews, Oil on canvas, 70 x 119 cm, National Gallery, London 

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漂流する座標軸

2007年04月17日 | 雑記帳の欄外

    ブログの世界も多少は見えてきたし、そろそろ閉店の時かなという思いもある。ブログの持つ限界を感じるとともに、他の手段では得られない効用もあることも分かってきた。スタートした時は五里夢中。脳細胞の劣化防止にもなるかと、若い友人のお勧めに軽率に乗って、見よう見まねで始めてみた。しかし、中身は最初から自己流だったし、どんなことになるのかは皆目見当がつかなかった。

  他方、このブログを訪れてくださる人々の中に、方向がだんだん見えてきましたよと、好意的に評価してくださる方も出てきた。大変有り難いことではあるが、書いている本人には依然として行方定まらぬ旅をしているように思われる。

  当初はあまり意識してはいなかったが、どうも白紙の上に色のついた「まち針」(カラー・ポイント)を刺しているような作業に似ていると思うようになった。茫漠とした人生の記憶の中から、浮かび上がったものをそのかぎりで掬い取り、針で留めておくようなことをしているらしい。

  浮かび上がったテーマは、他よりは多少記憶が濃密なことが多く、関連して書き始めるとかなりの量にはなる。自分でもとりとめのないことを記していると思うのだが、針が集中して打たれている領域が少しずつ増えている。まったく白紙だったところに、濃淡のある領域が生まれている。脳神経細胞の活動の反映でもあるようにみえる。

  寄り道が多かったり、よけいなことがくどくどと書かれているのは、メモ代わりの意味もある。ペンでメモを作るという作業が、次第に面倒になってくるのを埋め合わせるように書いてしまうからでもある。

  今一番困惑する質問は、座標軸はなにかと聞かれることである。

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またお会いしましたね

2007年04月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

    今回のアルザス・ロレーヌの旅では、特別展などもあって、おなじみラ・トゥールの作品をかなり見ることができて幸運であった。もう何回も見ている作品で、「またお会いしましたね」というような感じでもある。この画家の作品は、本来所蔵されている場所とは異なった所で出会うことが多い。
  
  この女性の横顔、ご記憶の方もおられるかもしれない。東京にも来た作品である。この画家の描いた女性は、とにかく一度見たら忘れられないような顔が多い。

  1930年に発見され、ミュンヘンのフィッシュマンのコレクション、そして1945年に著名なピエール・ランドリーのコレクションに入った。そして、2004年、ヴィック=シュル=セイユの県立ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館の所蔵となった。これで、この小さな美術館はラ・トゥールの作品を2枚持つことになった。画家の名前を掲げる以上、複数の作品所蔵が望ましいと思ったのだろう。

  一人の女性の頭部だけの作品である。しかし、肖像画として描かれたものではないようだ。より大きな作品の断片であることが分かっている。せっかくの作品を切断してしまうというのは、なんとも残念という感じがするが、所有者には自分の審美観などから余分と思う部分を切り取ってしまいたいという考えもあったのかもしれない。切断される前の作品がどんなものであったのか、想像するのも興味深いことではある。「生誕」や「聖母の教育」「羊飼いの礼拝」のように、相対する人物が描かれていたのかもしれないという推測もある。

  テュイリエは、この画家は複数の人物を同一画面に描いた場合でも、それぞれの顔の部分が比較的独立しているので、こうしたことが比較的容易だったのかもしれないとの指摘している。ラ・トゥールの作品には光と闇のコントラストを持った作品が多く、しばしば周辺の闇を描いた部分が劣化し、ぼろぼろになってしまうので、切り落としたのかもしれないとの指摘もある(Thuillier 103)。いずれにしても、真の理由は不明である。作品が切断されてしまった別の作家の例については、以前にも記事に書いたことがあった。

  描かれているのは、ほぼ間違いなくロレーヌの女性である。モデルになったのはどんな人であったのだろうか。背景に想定される注文主のことなども含めてやや大胆に推測すれば、比較的裕福な中流の家庭の婦人といえるだろうか。女性の年齢は推定が難しい。顔立ちも穏やかで、帽子の赤も美しい。もっとも、作品が発見された当時の作品の写真では、この帽子には今は見えない独特の飾りのようなものが描かれていたらしい。かなり修復?の手が加えられ、損傷してしまった部分もあるようだ。

  今日残るこの画家の作品には、特にテーマ性を持つとは思われないこうした作品がいくつかある。注文主の要望に応じたものだろうか。見ていると、不思議と心が落ち着いてくるような作品である。


Musée Départmental Georges de La Tour - Vic-Sur-Seille
Collection des peintures Acquisitions 2004.
Tete de femme - fragment

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難航するアメリカ移民法改正

2007年04月13日 | 移民政策を追って
  アメリカの移民法改正が再び話題となっている。このブログでも「定点観測」の意味で、その変化を追ってきた。今日の段階でとりたてて大きな変化はないが、少し補間しておこう。

  中間選挙後、急速にレームダック化しつつあるブッシュ政権にとって、多少なりとも人気挽回の材料になるかと思われているのが移民法改正である。ブッシュ政権は「包括的移民プログラム」の名の下に、1)あらゆる手段で国境線警備を強化する一方で、2)アメリカ人が働きたがらない農業労働などにゲストワーカー・プログラムを導入し、3)1200万人ともいわれる不法滞在者を一定の基準で順序づけ、必要な罰金を課した上で一旦帰国させ、改めて合法的経路で受け入れるという方向を提示してきた。

  ブッシュ案は、共和党よりは民主党案の方に近いといわれてきた。そのため、民主党が優位に立った上下院では、比較的速やかに実現するのではないかとの観測もあったが、移民問題は政治的にもデリケートな駆け引きが必要であり、予期に反して長引き、今日にいたってしまっている。CBSの討論などを見ていると、民主党、共和党両党の間ばかりでなく、同じ党員の間でも考え方にかなりの差異がある。

  そうした中で、アメリカ・メキシコ国境に防壁を建設することを委託されたアメリカ企業が、作業員に不法移民を雇用していたという事態が発覚し、当該企業幹部が禁固刑の判決を受けた。不法移民を阻止する作業に、不法移民を雇うという滑稽ともいえる情景である。しばらく前には、移民受け入れ拡大に反対の議員が自分の家庭で不法移民のヘルパーを雇っていたという問題もあった。

  アメリカの移民政策は、次第に追い込まれている。時間が経つほど不法移民が増え、対応は難しくなるからだ。4月9日にアリゾナ州ユマを訪れたブッシュ大統領は、1)国境警備(フェンス、カメラ・センサー設置、車両による国境越えの阻止など)の強化、2)不法移民を対象とした「一時労働許可制度」、3)不法移民を雇ったアメリカ企業への罰則強化、4)不法移民に永住を認める枠組みの新設を柱とする包括的移民法案の実現を呼びかけた。大筋では昨年来の政策と同じだが、不法移民を対象とした新しい種類の就労ビザの発給や永住許可を認める道など、なんとか法案を成立させるために修正を考えているようだ。1200万人の不法移民に一度は国外撤去を求めるという考えは現実性に乏しいという批判も強い。

  ブッシュ政権側は、すでにアメリカ国内にいる不法移民への対策としてアムネスティは発動しないとしているが、議論は収束していない。論点はかなりしぼられているが、議員によって微妙な差異がある。

  その中でやはり、9.11のトラウマは根強く残っていることを感じる。最近ではメキシコ国境で拘束された不法入国者の中に、名前も変えてメキシコ人になりすましたテロリスト容疑者が増えているとの指摘もある。この点にこだわると、法案の保守性は強まる。ブッシュ案に近いと見られていた民主党だが、党内に複数の異論があり、採決に党議拘束をかけることは難しい状況であり、今年夏までの法案成立は流動的である。引き続き、ウオッチすることにしたい。


Reference
CBS 2007年4月10日
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さまざまな春

2007年04月10日 | ロレーヌ探訪

   
   
    ロレーヌ再訪の旅は、期待していた以上に充実感を与えてくれた
。 いつものせわしない旅とは違って、時間の束縛からできるだけ抜け出て、行きたい所、見たいものを優先し、余裕を持たせた旅だったからかもしれない。これまではよく見えなかったことが、かなり見えてきたのは予想外の驚きでもあった。記してみたいことはあまりに多いが、ここで一休みすることにしたい。

  インターネット時代、かなりの情報はネット上で得られるようになったとはいえ、現地、いわばオンサイトで体験するメリットは多い。自分をその場に置き、実物に肌で接している間に、さまざまな連鎖反応が生まれて、新たな可能性に気づいたりする。旅のひとつの目的であった17世紀の画家の世界に、現代の目でできるだけ近づいてみたいと思う願いはそれほど突飛なものではなかった。400年前の世界と現代とは離れすぎていると思われる方もいるかもしれない。しかし、その距離は思いのほか近かった。

  ロレーヌという地域がかつて経験したことを、現在でも経験している国々がある。外国の軍隊の自国への侵入と惨憺たる国土の荒廃など、人類は進歩しているとは考えがたい。その中でさまざまに生きる人々の生き様を推し量ってみたいと思った。

  ロレーヌの野には春の光が射し始めていたが、日本へ戻ったらこちらも春爛漫であった。春は心身に新たな生気を吹き込んでくれる。東京には、「イタリアの春」 PRIMAVELA ITALIANA も来ていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ初期の傑作「受胎告知」(ウフィツィ美術館蔵)が、イタリア政府の好意によって国立美術館で展示されている。この「受胎告知」は何度見ても素晴らしいが、一寸距離感がある。さまざまな取り決めをある程度理解していないと、作品の真意は伝わってこない。作品を読み解くための蓄積が見る側に要求されている。しかし、17世紀になると、そうした縛りが次第に解けてくる。別に知識がなくても、作品に無心で対するだけで自然と伝わってくるものがある。現代に通じる人の温かみのようなものが感じられる。「印象派の時代」とも少し違った「人間」がそこにはいた。


Photo Y.Kuwahara

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ロレーヌの春(15)

2007年04月07日 | ロレーヌ探訪

 

Caithness の作品例 Photo Y.Kuwahara

 「クリスタルグラス・ペーパーウエイト」というのものをご存知だろうか。要するに、クリスタル・ガラスで作った文鎮である。ただ、ガラスの文鎮といっても実は色々な種類があって、ガラスの中に美しい模様、花、虫などのデザインを埋め込んだり、ガラス自体を加工して、動物や微妙な文様などの形に成形したものなどきわめて多様なものがある。

 世の中に出回っている作品のほとんどは、大量生産の製品で価格も安い。しかし、数は少ないが絶妙な技能を持った職人の手仕事による、目を見張るような美しい作品がある。こうした作品はコレクターズ・アイテムとして、サザビーなどでオークションの対象にもなり、当然、価格も驚くほど高い。プロのコレクターの世界が出来上がっている。

バカラの拠点
 ナンシーからリュネヴィルへ行く道の少し先に、世界的なガラス装飾品メーカー・バカラ Baccarat の工場とガラス作品の博物館があることを偶然知った。めったにない機会なので、立ち寄ることにした。バカラのブランドは世界中に知られているが、工場、博物館がここにあったことは知らなかった。同社の製品は、装身具や照明、美術品などが多く、ペーパーウエイトは今はわずかしか作られていない。

 いつ頃からこうしたペーパーウエイトが作られるようになったかは、定かではない。1845年頃、フランスではナポレオン戦争の後、低迷していたガラス工房が、お土産用、装飾品などに作ったところ、当時の人々に受け入れられたといわれている。その後、フランス、イギリス、ボヘミア、イタリア、そして後にはアメリカなどでも制作されるようになった。確かに、当時の職人がどのようにして作ったのだろうかと思わせるきわめて美しい作品もある。日本ではなぜかあまり精緻なものは作られていない。

 こうした作品は、初期には大変な人気を博したらしいが、まもなく1860年代には衰退してしまう。それでも、一部の工房が細々と制作していたらしい。

新たなブーム
 その後、時代が変わって1950年代に、フランスのバカラとサン・ルイの工房(今はいずれもエルメスの傘下)が、エリザベス2世の戴冠式とアイゼンハウアー大統領の就任式記念品として作ったのが、再びブームを巻き起こすきっかけになったらしい。アンティーク、現代の作品を含めて投機対象となり、作品によっては、一部のコレクター以外にはとても手が出ない高値がつくようになった。

  ペーパーウエイト(PW)に関心を持つようになったのは、ちょっとしたきっかけであった。1980年代初めの頃、ガラスや銀細工、木工家具など、伝統職人の熟練とその伝承のあり方の調査をした時に、たまたま出会った作品が目に留まり、その製作工程に興味を抱いた。

 その後、縁あってガラス製品の世界的な企業、コーニング社のガラス博物館(PWの大きなコレクションを所蔵している)を見学し、工法についてもかなり詳細な説明を受けることができた。海外に滞在した折などに、いくつかのガラス工房を訪れて、インタビューをし、製作過程を見学させてもらった。Caithness (UK)、Whitefriers (UK、今はCaithness傘下)、 Kosta Boda(Sweden)、Corning Glass (USA) などが記憶に残っている。


 多くの作品は大変高価で、作品を所有することは初めからあきらめていたが、製造工程には大変興味を惹かれた。溶けた高熱のガラスを扱いながら、どうしてあれほど精緻なものが作れるのだろうか。いくつかの工房を見学することで、実は製作技術にもいくつかの方法があることが分かったのだが、いずれにしてもきわめて高度な熟練職人の技が生み出したものである。

高度な技能の維持・伝承
 コレクターの追い求める美しい製品は、加工技術も難しく、単品ないしは限定数の製造になっている。多くはアンティークの部類に入る。そして、サン・ルイやバカラの工房などでは、今日も職人のサインと日付入りの限定版として製造されている。サインや日付はしばしばガラスの製品の中に隠されたように記されているので、贋作は出る可能性は少ない。また、それほど高価でないものでは、作品数とその作品が何番目にあたるかを記した証明書がついているものもある。

 従来、作品の製作工程は、高熱で溶解したガラスの加工のため、職人が作業場の近くに絶えずいること、高度な熟練・技術の保持と外部への流出阻止などの理由で、工房に隣接して住居が設置されていた。しばしば、辺鄙な場所に工房が置かれていた。たとえば、サン・ルイの工房は、ボージュ山脈の山中に置かれている。また、バカラの工房もパリなどの都市に近い便利な場所に位置しているのではない。リュネヴィルの南東30キロほどの丘陵地帯である。併設の博物館は公開しているが、工房は見学できない。写真を撮らないことを条件に少しだけ覗かせてもらった。原料の選別、溶解、保持など、設備は大変近代化していたが、作品の制作は昔ながらの手仕事である。

 

Baccarat のアンティーク作品の例

  10年ほど前に、イギリス北部、キングス・リンの近くのケイスネス Caithness の工房を見に行ったこともあったが、設備は昔ながらであり、町工場のような印象であった。花瓶や水差しなど一般のガラス器製品の製造工程は公開していたが、クリスタル・ペーパーウエイトは、時々しか製作しないという理由で見せてもらえなかった。

  今回のロレーヌ、とりわけナンシーへの旅は、再び眠っていた記憶細胞を少し活性化してくれた。これまであまり関心のなかったエミール・ガレ、ナンシー派のおびただしい数の作品に出会って、ガラス工芸の絶妙、華麗な次元に魅了された。それらに込められた熟練の奥深さ、伝承のあり方などについて改めて考えさせらた。これについては改めて記す機会があるかもしれない。

  ガラス工芸品の製作は、原料を調合し、溶解炉の中に設置された大型の耐火粘土製の坩堝に入れて溶解する。坩堝には高温な材料が真っ赤に溶かされている。あの陶磁器窯やパン竈に燃えている焔の世界がそこにもあった。

 

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ロレーヌの春(14)

2007年04月06日 | ロレーヌ探訪


    ナンシーからリュネヴィルへ向かう途中、左側の丘の谷あいに華麗な教会の尖塔が見えてきた。二本の高い尖塔が、赤茶色の屋根の家々と、背景の緑の丘に映えて際立って美しい。大寺院ともみまがう大きな教会である。ミューズ川に沿った町のほぼ中心に建っている。明らかに、このあたりのランドマークともいえる人目をとらえる素晴らしい光景である。道路からは少し見下ろすような位置にある。

  その美しさに惹かれて予定を変更し、寄り道をすることにした。地図を見ると、サン・ニコラ・ポールSaint-Nicolas-du-Port であった。その地名で思い出した。ここはかつて、ロレーヌの商業活動の中心地であった。しかし、17世紀、30年戦争の間にリュネヴィルと同様に歴史に残る悲惨な経験をした。

略奪の場と化した町
  この美しい町は、1635年4月、ハンガリーとポーランド軍に略奪され、その翌日にはフランス軍が略奪を行った。さらに続いて、神聖ローマ皇帝のワイマール軍が入ってきた。彼らは、もはやなにも略奪する対象がないことを知ると、激昂して町民を殺害し、町に火をつけた。そして同年の11月11日、ロレーヌでは大変に有名であったこの教会堂まで徹底的に破壊してしまった。

  11世紀に建立された大変歴史のある教会であった。ロレーヌばかりかヨーロッパでもその名が知られた著名な巡礼地であった。1429年には、ジャンヌ・ダルクも礼拝に訪れたという。リュネヴィルとナンシーのほぼ中間であり、ラトゥールも幾度となく訪れたことだろう。

  人々の賛美の的であった教会の屋根はその後、長らく破壊されたままになっていた。なんとか修復されたのは、やっと1735年になってからのことだった(1950年になって、ローマ法王からバジリカと認められた。)ナンシーとリュネヴィルを結ぶ道はこの美しい谷間にある町を迂回し、見下ろすように通っており、巡礼者のみならず、この地を旅する者にとっては大きな感動を与えたであろう。その美しさは、際立っていた。ゴシックの高く聳え立つ尖塔が町の目印のように見える。ちなみに1940年にも空爆を受けて破壊され、大きな損傷を受けた。

  幸いなことに、この地に生まれ、その後アメリカに移民し、1980年に亡くなったフリードマン夫人 madame Camille Croue-Friedman が再建のために多額な寄付をしてくれた。中世以来、人々の目をひきつけてきた華麗な85メートルを超える尖塔も復元された。教会内陣やステンドグラスも復元され、目を見張るほど美しくなっていた。

災厄の時期
  17世紀フランス美術史、そしてラトゥールの著名な研究者であるテュイリエは、30年戦争当時のロレーヌ破壊のすさまじさは、今日のレバノンやユーゴスラヴィアが経験している実態と変わりないと述べている。この町にかぎらず、30年戦争当時、ロレーヌを侵略した占領軍の略奪、暴行のすさまじさは言語に尽くせないものだった。侵略した軍は、しばしば司令官からひとつの町や城を略奪の対象として与えられた。

  彼らは略奪、暴虐の限りを尽くした。そして、退去に際してしばしば町や城に火をつけた。新教国のスエーデン軍の行動が最も乱暴で、ヨーロッパ中で恐れられていた。彼らはカトリックの偶像や華麗な教会には反感さえ持っており、破壊になんら罪悪感を抱かなかったようだ(Thuillier, 100) 

  ロレーヌの住民は、外国軍の侵略に大きな恐怖を感じて生活していた。リュネヴィルも例外たりえなかった。リュネヴィルは1638年9月にフランス軍が侵攻し、全市に火をつけた。ロレーヌ公シャルルIV世とリシリューや王との激しい確執もあって、ルイ13世は町に何も残すなと命じたらしい。

悪疫の流行と食料不足
  ロレーヌの不幸・災厄は、戦争ばかりではなかった。この時期、ロレーヌには悪疫が流行した。病原菌は神聖ローマ帝国軍によって持ち込まれたらしい。1630年までにメッス、モイエンヴィック、ヴィックはチフスの一種ではないかと思われる「ハンガリアン」病に苦しんだ。厳しい防疫措置が講じられたが、衛生状態が悪く効果がなかった。

  リュネヴィルは、最初はなんとか感染地にならないですんだが、ロレーヌ公と家族は1630年には同地の城へ避難した。1631年夏が悪疫はしょうけつをきわめた。悪疫は6月に広がり、10月末まで続いた。町は外部との接触を完全に断ち切られ、人気がなくなった。悪疫は1633年に再び蔓延したが、前回ほどではなかった。しかし、ナンシーはひどい状態となった。悪疫の流行は、1636年4月に再び始まった。終息したのは12月だった。病気に感染した者の中で160人は回復したが、80人ほどは死んでしまった。

  加えて、厳しい食料不足が到来した。働き手は極端に不足したが、占領軍は町に依存し、苛政が続いた。農民ばかりか僧侶たちまでが鋤、鍬をとって働いた。収穫は少なく、しばしば実りの前に取られてしまった。食べ物に困り、犬、猫まで食べた。このロレーヌの惨状は、ジャック・カロがリアルに描いている。貧窮のどん底に追い込まれた農民たちの間には、カニヴァリスムまであったといわれる文字通り極限の状態が出現していた。

  幾多の戦争や悪疫という災厄を経験したロレーヌの町や村だが、早春の緑の中に何事もなかったかのように静かに点在していた。



Referenc
Jacques Tuillier(2002) Georges de La Tour. Paris: Flammarion

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ロレーヌの春(13)

2007年04月03日 | ロレーヌ探訪

アールヌーヴォーの宮殿装飾  

  およそ400年前、ジョルジュ・ド・ラトゥールという画家がどんな生涯を送っていたかを、今に残る作品、文書や史跡などの断片から想像することは、ミステリーを読み解くような楽しみがある。しかし、この画家はそのためのヒントをきわめてわずかしか残してくれなかった。今に残る作品は40点余り、それも世界中に散在している。日記や制作記録のようなものも残っていない。

    膨大な記録、スケッチ、デッサンなどを残したレオナルド・ダ・ヴィンチなどと比較すると、まったく異なる状況である。しかも、長い間忘れられていた。 しかし、この画家とその作品は不思議な魅力を持っており、いつの頃からかすっかり取り込まれてしまった。別の仕事もあったとはいえ、今やフランスの片田舎まで出かけるほどの重症(?)である。  

  今回訪れたフランス東北部ロレーヌのリュネヴィルは、ラトゥールがその生涯の最も重要な時期を過ごすため住居と工房を置き、活動していた土地である。しかし、大変残念なことに、この地には画家が活動していたことを示す積極的な手がかりがほとんど残っていない。作品を含めて文書などの記録は、度重なる略奪、戦火などで失われてしまった。しかし、研究が進展するにつれて、周辺からさまざまな事実が明らかになり、画家としての輪郭が少しずつ浮かんできている。それらの成果を踏まえながら、今までとは少し違った意識を抱いて、このロレーヌという土地を訪ねてみた。やはり現地を歩いてみないと分からないなあと思うことがかなりあった。それとともに、旅を通してさまざまに大きな充足感があった。

わずかに残る城壁跡 
  リュネヴィルは、今日残る17世紀前半の町の地図(下図:1638年頃の手書きの地図を基に19世紀に銅版画に作成された)を見てみると、河川を巧みに活用した城壁で囲まれていた。町の記録によると、確認できる最初の城壁は1340年頃に築造された。町を囲む城壁は4隅に塔が造られ、その間を石造りの壁が埋めていた。今日残るのはそのひとつで「ブランシェの塔」La Tour Blanche と呼ばれるもので、ブランシェと呼ばれた人物によって構築されたらしい。わずかに残る保塁を見ると、煉瓦くらいの大きさの雑多な形の石を多数積み重ね、間に土砂を入れて突き固めて作られていた。

 
  保塁の他に今日まで残る古い遺跡としては、「ロレーヌ通り12番地」 12 rue de Lorraine と呼ばれる住宅がある。これは17世紀に建てられた住宅の一部である。珍しく当時の特徴を伝えているといわれるが、木造の階段、かつては3人の歌い手の
姿が彫り込まれていたという3角形の切妻壁と金属の鋲が打たれた扉などが残っている。この地域の他の住宅とあまり大きな差異はなく、他にもありそうである。400年ほど前も、こうした所に住んでいたのかというイメージが生まれてくる。  

ラトゥールが住んでいた場所は 
    さて、ラトゥールとその家族は、リュネヴィルの町のどのあたりに住んでいたのだろうか。これについては、かなり研究が進められ、大体の場所は確認されているようだ。ラトゥールは、ヴィックからリュネヴィルへ移った最初の頃は、妻の両親と住んでいたが、まもなく独立の住居を購入する。その後、画家として成功を収め、人生の後半にはリュネヴィルの大地主になっていた。画家の持っていた工房、放牧地の場所など、準備してあった私のチェック・リストを見た観光案内所の女性が、最初は不思議そうな顔をしていたが、かなり丁寧に答えてくれた。  

  ラトゥールの時代の建物は破壊されてみるべきものは、ほとんど残っていない。今日、リュネヴィルにある建物などは、ほとんどがラトゥールの死後17世紀後半以降のものである。資料などから推定されるところでは、ラトゥールは、工房と邸宅を宮殿に近接した、現在のサン・ジャック教会 L'église Saint-Jacquesに近い町中の一等地に持っていたようだ。ちなみに、現存する教会の建物は、宮殿と並び観光の場所となっているが、ラトゥールの時代より後のものである。

魔女裁判があった時代
  ロレーヌが幾多の激動の時代を経験してきたことは、すでに記したとおりだが、特に1624年ロレーヌ公アンリII 世が死去した後に、悲劇的な時代を迎える。アンリII世 の死後、王位を継ぐ権利のある嫡出子は2人の王女、ニコルとクロードであった。ところが、ライヴァルが現れた。 とりわけ、アンリII世の甥にあたるシャルル(1604-75)は、ロレーヌ公国の命運を悲劇的なものにしてしまった。若いにもかかわらず、謀りごとが大好き、猜疑心が強く、約束、条約なども意に沿わないとすぐに破棄するなど、信義に厚いとはいえなかったようだ。

  フランス王国、神聖ローマ帝国など大国の狭間に生きる小国として、微妙な舵取りが必要なロレーヌ公国だったが、シャルルは反フランス、神聖ローマ帝国側に加担していた。外政、内政ともに、よくもこれだけと思うほど、次々と策謀を繰り出し、その過程で自らもロレーヌ公の地位を数回失った(この時期の変転の有様は、それだけでも実に興味深いが、ここでは省略)。  

  シャルルは在世中、アンリII世に執拗に迫り、娘ニコルを彼に嫁がせることに同意させ、結婚にこぎつける。しかし、その後シャルルはアンリII世の期待にこたえず、ロレーヌの地を謀略が渦巻く場へと変えてしまった。アンリII世の死後、彼はシャルルIV世としてロレーヌ公の地位を獲得する。  

  その後、自分の結婚に反対した者を追及し、復讐をはかった。ほとんどはアンリII世の側近で、シャルルの結婚に反対したものだった。ひとつの例としてアンドレ・ボルデを魔女裁判にかけ、公衆の前で火刑に処した。シャルルIV世は妻ニコルを愛していなかった。そして、自分の政治結婚を解消するためにも魔女裁判を持ち出した。 シャルルVI世はフランス王国に反感を抱いており、ことあるごとに反発した。1633年には、シャルルがルイXIII世の弟ガストン・オルレアン(リシリューとそりが合わない)を支持したことを契機に、フランス軍がロレーヌに侵攻した。  

  その結果、フランスに屈辱的な譲歩を強いられたシャルルIV世は1634年に退位し、弟にロレーヌ公の地位を譲って、リュクセンブルグへ亡命した。しかし、それでも自分はロレーヌ公であると称していたようだ。彼を支持するロレーヌ人もいたらしい。いずれにせよ、ロレーヌの人々の生活は不安に満ちたものとなっていった。

  そして30年戦争では、シャルルは神聖ローマ帝国の側についた。1641年と1644年に短期間、領地を取り戻したガ、1648年のウエストファーリア条約で追放された。フロンドの乱ではスペイン側に加担したが、フランス側とも通じ、結果としてスペインで幽閉された(1654-59年)。その後、1661年、ルイXIV世に大きな譲歩をして、シャルルIV世はロレーヌの地とバール公領を取り戻した。しかし、1670年にシャルルはフランス王によって再び追放された。その後、スペインと神聖ローマ帝国皇帝の同盟をそそのかし、第3回のフランス・オランダ戦争でオランダとの同盟に加担した(1675年、オーストリアの戦役において戦死)。    

  シャルルIV世の時代が、ロレーヌにいかに悲惨な結果をもたらしたか。彼が選んだ策謀に満ちた行動の幾分かは、ロレーヌのことを思ってのことだったかもしれない。しかし、この難しい状況に置かれていた小国の舵をとる君主としての資質に欠けていたことは、ほとんど確かであった。


Reference
Thuillier,Jacques 
(2002) Georges de La Tour. Paris: Flammarion, 320pp

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