アールヌーヴォーの宮殿装飾
およそ400年前、ジョルジュ・ド・ラトゥールという画家がどんな生涯を送っていたかを、今に残る作品、文書や史跡などの断片から想像することは、ミステリーを読み解くような楽しみがある。しかし、この画家はそのためのヒントをきわめてわずかしか残してくれなかった。今に残る作品は40点余り、それも世界中に散在している。日記や制作記録のようなものも残っていない。
膨大な記録、スケッチ、デッサンなどを残したレオナルド・ダ・ヴィンチなどと比較すると、まったく異なる状況である。しかも、長い間忘れられていた。 しかし、この画家とその作品は不思議な魅力を持っており、いつの頃からかすっかり取り込まれてしまった。別の仕事もあったとはいえ、今やフランスの片田舎まで出かけるほどの重症(?)である。
今回訪れたフランス東北部ロレーヌのリュネヴィルは、ラトゥールがその生涯の最も重要な時期を過ごすため住居と工房を置き、活動していた土地である。しかし、大変残念なことに、この地には画家が活動していたことを示す積極的な手がかりがほとんど残っていない。作品を含めて文書などの記録は、度重なる略奪、戦火などで失われてしまった。しかし、研究が進展するにつれて、周辺からさまざまな事実が明らかになり、画家としての輪郭が少しずつ浮かんできている。それらの成果を踏まえながら、今までとは少し違った意識を抱いて、このロレーヌという土地を訪ねてみた。やはり現地を歩いてみないと分からないなあと思うことがかなりあった。それとともに、旅を通してさまざまに大きな充足感があった。
わずかに残る城壁跡
リュネヴィルは、今日残る17世紀前半の町の地図(下図:1638年頃の手書きの地図を基に19世紀に銅版画に作成された)を見てみると、河川を巧みに活用した城壁で囲まれていた。町の記録によると、確認できる最初の城壁は1340年頃に築造された。町を囲む城壁は4隅に塔が造られ、その間を石造りの壁が埋めていた。今日残るのはそのひとつで「ブランシェの塔」La Tour Blanche と呼ばれるもので、ブランシェと呼ばれた人物によって構築されたらしい。わずかに残る保塁を見ると、煉瓦くらいの大きさの雑多な形の石を多数積み重ね、間に土砂を入れて突き固めて作られていた。
保塁の他に今日まで残る古い遺跡としては、「ロレーヌ通り12番地」 12 rue de Lorraine と呼ばれる住宅がある。これは17世紀に建てられた住宅の一部である。珍しく当時の特徴を伝えているといわれるが、木造の階段、かつては3人の歌い手の姿が彫り込まれていたという3角形の切妻壁と金属の鋲が打たれた扉などが残っている。この地域の他の住宅とあまり大きな差異はなく、他にもありそうである。400年ほど前も、こうした所に住んでいたのかというイメージが生まれてくる。
ラトゥールが住んでいた場所は
さて、ラトゥールとその家族は、リュネヴィルの町のどのあたりに住んでいたのだろうか。これについては、かなり研究が進められ、大体の場所は確認されているようだ。ラトゥールは、ヴィックからリュネヴィルへ移った最初の頃は、妻の両親と住んでいたが、まもなく独立の住居を購入する。その後、画家として成功を収め、人生の後半にはリュネヴィルの大地主になっていた。画家の持っていた工房、放牧地の場所など、準備してあった私のチェック・リストを見た観光案内所の女性が、最初は不思議そうな顔をしていたが、かなり丁寧に答えてくれた。
ラトゥールの時代の建物は破壊されてみるべきものは、ほとんど残っていない。今日、リュネヴィルにある建物などは、ほとんどがラトゥールの死後17世紀後半以降のものである。資料などから推定されるところでは、ラトゥールは、工房と邸宅を宮殿に近接した、現在のサン・ジャック教会 L'église Saint-Jacquesに近い町中の一等地に持っていたようだ。ちなみに、現存する教会の建物は、宮殿と並び観光の場所となっているが、ラトゥールの時代より後のものである。
魔女裁判があった時代
ロレーヌが幾多の激動の時代を経験してきたことは、すでに記したとおりだが、特に1624年ロレーヌ公アンリII 世が死去した後に、悲劇的な時代を迎える。アンリII世 の死後、王位を継ぐ権利のある嫡出子は2人の王女、ニコルとクロードであった。ところが、ライヴァルが現れた。 とりわけ、アンリII世の甥にあたるシャルル(1604-75)は、ロレーヌ公国の命運を悲劇的なものにしてしまった。若いにもかかわらず、謀りごとが大好き、猜疑心が強く、約束、条約なども意に沿わないとすぐに破棄するなど、信義に厚いとはいえなかったようだ。
フランス王国、神聖ローマ帝国など大国の狭間に生きる小国として、微妙な舵取りが必要なロレーヌ公国だったが、シャルルは反フランス、神聖ローマ帝国側に加担していた。外政、内政ともに、よくもこれだけと思うほど、次々と策謀を繰り出し、その過程で自らもロレーヌ公の地位を数回失った(この時期の変転の有様は、それだけでも実に興味深いが、ここでは省略)。
シャルルは在世中、アンリII世に執拗に迫り、娘ニコルを彼に嫁がせることに同意させ、結婚にこぎつける。しかし、その後シャルルはアンリII世の期待にこたえず、ロレーヌの地を謀略が渦巻く場へと変えてしまった。アンリII世の死後、彼はシャルルIV世としてロレーヌ公の地位を獲得する。
その後、自分の結婚に反対した者を追及し、復讐をはかった。ほとんどはアンリII世の側近で、シャルルの結婚に反対したものだった。ひとつの例としてアンドレ・ボルデを魔女裁判にかけ、公衆の前で火刑に処した。シャルルIV世は妻ニコルを愛していなかった。そして、自分の政治結婚を解消するためにも魔女裁判を持ち出した。 シャルルVI世はフランス王国に反感を抱いており、ことあるごとに反発した。1633年には、シャルルがルイXIII世の弟ガストン・オルレアン(リシリューとそりが合わない)を支持したことを契機に、フランス軍がロレーヌに侵攻した。
その結果、フランスに屈辱的な譲歩を強いられたシャルルIV世は1634年に退位し、弟にロレーヌ公の地位を譲って、リュクセンブルグへ亡命した。しかし、それでも自分はロレーヌ公であると称していたようだ。彼を支持するロレーヌ人もいたらしい。いずれにせよ、ロレーヌの人々の生活は不安に満ちたものとなっていった。
そして30年戦争では、シャルルは神聖ローマ帝国の側についた。1641年と1644年に短期間、領地を取り戻したガ、1648年のウエストファーリア条約で追放された。フロンドの乱ではスペイン側に加担したが、フランス側とも通じ、結果としてスペインで幽閉された(1654-59年)。その後、1661年、ルイXIV世に大きな譲歩をして、シャルルIV世はロレーヌの地とバール公領を取り戻した。しかし、1670年にシャルルはフランス王によって再び追放された。その後、スペインと神聖ローマ帝国皇帝の同盟をそそのかし、第3回のフランス・オランダ戦争でオランダとの同盟に加担した(1675年、オーストリアの戦役において戦死)。
シャルルIV世の時代が、ロレーヌにいかに悲惨な結果をもたらしたか。彼が選んだ策謀に満ちた行動の幾分かは、ロレーヌのことを思ってのことだったかもしれない。しかし、この難しい状況に置かれていた小国の舵をとる君主としての資質に欠けていたことは、ほとんど確かであった。
Reference
Thuillier,Jacques (2002) Georges de La Tour. Paris: Flammarion, 320pp