時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

トマトが引き出す記憶

2008年07月29日 | 雑記帳の欄外

  トマトとじりじりと焼けるような夏の太陽は、記憶の中では切り離せない気がしてきた。フロリダのトマト摘み労働者の記事を書いていると、思いがけないことが脳裏に浮かんできた。これまでに食べたトマトの味や香りがすこしずつよみがえってきたような気がする。

  子供の頃はトマトはあまり好きではなかった。果物のように魅力的に輝いた赤さを裏切るような、あの青臭い香りが遠ざけさせた。昔はトマトが嫌いだったという大人はかなりいるようだ。ところが、最近はあの青臭さかったトマトを懐かしがる人もいる。大人といっても、50代以上か。

  戦後しばらく、トマトと胡瓜は、野菜の中で苦手の最たるものだった。双方とも青臭かった。食糧難の時代、野菜はこればかり?かなり食べさせられた反発もあったようだ。不思議と、同様に沢山食べたはずの南瓜、茄子、根菜の類はさほど抵抗感がない。これはきっとかなり個人差がある問題だろう。

  気づいてみたら、いつの間にかトマト嫌いではなくなっていた。胡瓜も今は好んで食べている。どこで変わったのか、あまり記憶が鮮明ではない。トマトについて、少し振り返ってみると、どうも「ケチャップの洗礼」を受けたあたりから変わってきたようだ。あのデルモンテやハインツ、そしてカゴメのせいか? 

  戦後日本にまだハンバーガー・チェーンが出店していない頃、アメリカで食べたマクドナルドやケンタッキー・フライド・チキンは、別世界の食べ物のようだった。週末晴れた日など、仲間と出かけたピクニックには、フライド・チキンのボックスがしばしば付きものだった。そして付け合わせのフライド・ポテト、どれにも真っ赤なトマト・ケチャップがかけられた。

  ケチャップには青臭さがなく適度に甘からく、かなり好きになった。これも、アメリカの味なのだと思った。しかし、今はバーガー、フライドチキン、どれも敬して遠ざけている。

  遠い異国の地?から来たのだからと家族のように受け入れてくれた友人の家では、トマトはあまり食卓に登場した記憶がない。それよりも衝撃的だったのは、いつも夕食後デザートに出してくれたハーゲンダッツなどのアイスクリームの山、日本の数倍はあった。喜んで平らげたのは最初の1週間くらいか。翌週からはどうやって量を極小にしてもらうか、苦労が始まった。当時、アメリカ人女性が「ダイエット中よ」というと、デザートのアイスクリームをスキップすることも知った。

  帰国後、しばらくお仕えした経済学の泰斗N先生が、戦後日本に入ってきたマクドナルトの話になると、「ああ!ファーストフードね」といわれて、苦笑され、複雑な顔をされていたのを思い出す。地下鉄は品の悪い乗り物と敬遠したというシュンペーター教授のご友人だから、むべなるかな。アメリカ経済学全盛の時代。経済学に席巻されるのはともかく、あれは一寸という感じで少し愉快だった。N先生がマクドナルドのハンバーガーを試食されたか、うっかり聞き損ねた。

  アメリカ生活でのトマトにはさらに思い出がある。しばらくアパートをシェアしたC君は、イタリア移民の息子だった。ニューヨーク州北部のエンディコットに両親が住んでいて、長い休みになると孤独な留学生を一緒に家へ招いてくれた。決して豊かな家ではなかったが、純朴なマンマ・ミーアが朝からトマトを鍋一杯に煮ていて歓迎してくれた。パスタのソース作りも半日がかりなのだ。使うトマトは、もちろん調理用のイタリアン・トマトだ。ドライ・トマトも沢山食べた。太陽のエッセンスのような感じがした。アパートで食事当番をシェアした時も、C君からケチャップなんて買うなよと言われた。イタリア人は母系社会なのを思い知らされた。
  
  休み明けにアパートへ帰る時には、袋一杯のサラミやバニーニを持たせてくれた。幸せな時代だった。トマト・アレルギー?はすっかり消えていた。パスタのソースを作るために、果肉の少ないイタリアン・トマトを、C君がアパートで朝からぐつぐつと煮ていた時代を思い出す。瓶詰めや缶詰のパスタソースなど論外だった。イリノイ大学機械工学の教授となったが、一寸音信不通、どうしているだろう。

  その後、仕事で長滞在したフランスは、さすがに野菜類も自然の味があった。トマト・サラダが好きになったのは、この国のおかげだ。ただ、切って並べ、オリーブ油をかけただけで、十分美味しい。一時期、昼にはサラダ・ニソワーズばかり食べていた時もあった。

  その後、トマトがまた苦手になってくる。イギリスで暮らした時、TESCOやセインズベリーで買うトマトは、色は完熟のように赤いのだが、とにかく皮が固い。ナイフでかなり力を入れないと切れない。そして、味もいまひとつだ。また敬遠気味になった。少し価格は高めのオランダやスペイン産のトマトはまずまずの味なのだが。親しいイギリス人の友人に聞くと、イギリス人は食べ物にあまり関心を持たないからなあとの答だ。トマトは皮を剥き、ほうれん草は原型がなくなるまで煮て食べていた。

  トマトのイメージは次々と拡大して、とめどなくなりそうだ。日本のトマトについて一言。ずいぶん品種改良がなされて、大変食べやすくなった。外観も見目麗しく芸術品のようだ。しかし、なんとなく失われたものを感じる。子供の頃のトマトは、灼熱の炎天下、野性味を持った存在だった。最近、市場を席巻?しているらしい「桃太郎」は、もはや果物だ。化粧箱に整然と収められたトマトを見て、ドイツ人の友人が驚いていた。フルーツトマトの名もあるらしい。子供たちや若い人たちに人気のあるミニトマトは、ベリーのお化けのような感がしないでもない。炎天下の夏、冷たい井戸水に浮かぶトマトやスイカの世界が懐かしい。これも1980年代生まれの方には分からない話だ。

  

  

  

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あなたのトマトはどこから来たか

2008年07月26日 | 移民の情景

   
    深夜、地震のニュースを見るためにTVをつけた後、「アメリカ映画協会100年の名作100本」 AFI's 100 Years 100 Cheers なる番組を見るともなしに見てしまった。自分の人生の過程と重なっていて、なかなか興味深かった。人気映画の順位は、これまで見た同じような順位付けとはかなり異なるところもあり、往年の名優、監督などが選ぶ作品は、それなりに楽しめた。これについては、記憶細胞を刺激された部分もあり、いずれ改めて記すこともあるかもしれない。

  順位表の中で、第7位にスタインベック「怒りの葡萄」が入っていたので、少し驚いた。このブログ(下掲)にも何度か書いたこともあったが、先週、ある大学で話題にしたばかりだった。ほとんどの学生は作品を読んだこともないようだ。司会役の先生が、今の学生は「1980年代生まれなんですよね」と気の毒そうに付け加えてくれた。以前ならボディブローを打ち込まれたようなショックだが、今はこたえなくなった。

  それでも、スタインベックは今日でもアメリカ人の心に、しっかり根を下ろしているのだ。さまざまな折りにそれを感じることがある。スタインベックが描いた農業季節労働者の世界は、今もほとんど変わっていない。アメリカの農業労働は、低賃金、劣悪労働分野として知られ、国内労働者が働きたがらない。ほとんどはメキシコ、中米などからやってきた外国人労働者だ。

  最近、注目を集める動きがフロリダ州であった。農場経営者やファースト・フ-
ド・チェーンなどの大規模な顧客を相手どり、労働者側が賃金の引き上げに成功したのだ。農業季節労働者の組織である「イモカリー労働者連合」 Coalition of Immokalee Workers が、バーガー・キングから時間賃率の引き上げを勝ち取るという近年では珍しい動きがあった。

  マイアミに本社を置くバーガーキングは、農業労働者が採取するトマトの出来高給を1ポンド(450グラム)当り1セント引き上げ、宿舎、休息時間など関連する労働条件も改善することに同意した。

  フロリダはアメリカ国民の食卓に上るトマトのおよそ80%を供給する一大産地だ。トマト農場の労働者の労働条件の改善要求は、長年にわたる当事者段階の交渉にとどまらず、議会の公聴会の対象にもなり、その労働条件の劣悪さが注目を集めていた。 一部の企業は2005年の段階で、労働者側の要求する賃率引き上げを受け入れていた。マクドナルドのように、裁判で係争中の企業もある。しかし、フロリダの農場主の90%近くが加入している 「フロリダ・トマト栽培者取引所」Florida Tomato Growers Exchange は強硬路線を維持し、賃率アップに応じた農場主には10万ドルのペナルティを払わせると脅かしていた。

   1ポンド当り1セントの賃率引き上げは、実に過去30年間で始めてのものとなる。しかし、それでも労働者はフロリダ州の最低賃率の時間あたり6.79ドルを得るためには、炎天下で過酷な労働で、600キログラム以上のかごを一杯にしなければならない。

  今回の労働条件改善がなんとか成功したのは、連邦下院と教会筋の支援があったためだ。4月には85,000人の署名がバーガーキングに突きつけられた。さらに、同社の役員が農業労働者を「血を吸うやつら」「人間も程度が悪い方」というような差別発言をメディアでしていたことが判明、社会的批判を浴びることになった。どこの国でもそうだが、経営者がよほど失点をしないと、労働条件の改善がなされない。

  農業労働者を軸とする労働者の連携は他の産業へも広がりつつある。ウオール・マート、サンドウイッチ・チェーン、レストラン・チェーン、スーパーマーケットなどが当面の交渉目標になっている。バーガーにかけるトマト・ケチャップがどこで作られ、いくらにつくか考えたこともなかった人たちも、多少目が覚めたようだ。昨年、「あなたのTシャツはどこから来たのか?」というアメリカ経済学者の本が、話題を呼んだが、衣食住、時々その源へ思いを馳せることも必要だ。
Tシャツ原料、うなぎの「国籍」、住宅の耐震性など、材料に事欠かない。さて、日本のトマトは?


References
The Grapes of Wrath, 1940 Directed by John Ford
'The price of a tomato,' The Economist June 28th 2008
Pietra Rivoli. The Travels of a T-shirt in the Global Economy, 2005
ピエトラ・リボリ 雨宮寛+今井章子訳『あなたのTシャツはどこから来たのか?』東洋経済新報社、2007年

本ブログ関連記事
「怒りの葡萄今も」 2005年9月16日
「怒りの葡萄その後」 2007年11月5日

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フェルメールとアメリカ (2)

2008年07月23日 | 絵のある部屋

Johannes Vermeer
Lady with Her Maidservant Holding a Letter (detail) 
c. 1667 Oil on canvas Frick Collection, New York


  ANAの機内誌『翼の王国』に掲載されていた福岡伸一氏の「アメリカの夢 フェルメールの旅」の続きを読む。6,7,8月の3回連載の中編である。

  前回記したように 、アメリカに移ったフェルメールの作品をニューヨークに長らく居住した野口英世が見たかという仮説を、福岡氏がいかに検証するかという点に興味があった。   

  結論からいうと、拍子抜けという感を免れない。福岡氏の推理は、次のようなものだ。野口英世のニューヨーク在住年数は20数年と長く、自分の研究の場であったロックフェラー研究所の近くにあったフリック邸の存在を知らないわけはないはずだとする。ちなみに、フリック Henry Clay Frick (1849-1910)は、鉄鋼業で巨富を成した人物であり、このブログにも記したことがある。今日「フリック・コレクション」The Frick Collection として知られる絢爛たる美術作品を購入、所蔵していた。  

  この豪邸では、フリックがフェルメールの作品などを入手した折には、しばしばパーティなどを催し、著名人などを招待していた。当時すでにノーベル賞候補に名が上がるほどの著名人であった野口英世が、フリック邸に招待された可能性はかなり高い。おそらく、こうした機会に野口はフリック邸で、フェルメールを見たに違いないという推理だ。   

  野口英世は、1911年、結婚を機に新居を設け、同じアパートに住んでいた日本人画家(後年写真家)の堀市郎から筆や絵の具などをもらい、絵を描くことを唯一の趣味としていたようだ。他方、フリックの死後、娘が大邸宅を改装し、それまで収集してきた美術品が、美術館として一般公開されたのは、1935年であった。野口英世はこれに先立つ7年目、アフリカで黄熱病に感染し、世を去っていた。したがって、野口英世がフェルメールを見たとするならば、作品が未だフリックの私邸に飾られていた時期である。    

  ここまでの福岡氏の推論は、かなり思いつきの感を免れないが、可能性としてはありうることだ。しかし、仮説は推論、実証の詰めを欠いている。フリック・コレクションのアシスタント・キュレーターに会い、当時の招待者の名簿も現存していることを聞きながら、時間の関係か?確認されていない。これでは、まるで宝の山の前まで行きながら、手をこまねいて帰ってきたに等しい。科学者としては、仮説を立てたからには、結果のいかんを問わず、実証結果までたどりついてほしかった。福岡氏は、今後の可能性を残したと記しているが、読者としてははぐらかされたようで、満たされない思いだ。 

  もっとも、野口英世がフェルメールの作品を見たとしても、それによって野口英世観が変わるわけでもない。この時代、アメリカには野口英世以外にもかなりの数の日本人がいたし、その中には画家も含まれていた。フリック・コレクションに限らず、この時代に次々と公開されていった富豪の美術品を、彼らがどう見ていたかの方が知りたい。    

  野口英世の描いた作品の実物は揮毫以外に見たことはないので、憶測にすぎないが、絵画作品を写した写真などを見る限り、かなり自己流に近く、フェルメールなど特定の画家の影響を受けている可能性はきわめて少ないようだ。恐らく野口英世は、同じアパートに住んだ日本人画家・写真家で、将棋の相手でもあった堀市郎から絵画制作の手ほどきを受けたのではないか。  

  さて、フリック・コレクションは、これまで何度か訪れたことがある。ニューヨークへ行く機会があると、やはり見ないではいられない場所のひとつだ。その規模は実際に訪れてみると分かるが、1ブロックすべてを占めるほどの広大なものだ。大富豪の邸宅がいかなるものであったか、実際に訪れてみると、その壮大・華麗さに圧倒される。邸内には豪華な噴水、パイプオルガン、ロココ調の絢爛たる部屋などもあり、アメリカ資本主義黄金時代のひとつの象徴のような感じがする。フリックは、かつては志を共にし、鉄鋼会社を共同経営していたカーネギーとも袂を分かち、「カーネギーの家など炭坑夫の小屋」に見えるほどのものを造るのだといっていたらしい。 

  フリックは企業経営、株式投資などによって得たありあまる資金にまかせて、美術品の収集にのめりこんだ。しかし、彼が真に美術品を見る目があって、そうした行動をしたのか、疑問がないわけではない。初期に集めたバルビゾン派の作品などは、あっさりと売却されてもいる。

  実は、私が最初にフリックの名を知ったのは、この美術品コレクションのためではなかった。若い頃から「コークス王」といわれ、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの鉄鋼会社に共同経営者として迎えられた経営者としての側面からであった。そして、アメリカ労働運動史上、最も暴力的な争議のひとつとして記憶されている「ホームステッド大争議」 Homestead Lockout (1892年)などでの非情な経営者としての姿である。フリック自身、この争議の過程で暗殺者に襲われるが、一命を取り留めた。

  こうした非情な経営者としてのフリックと美術品収集に没頭したフリックのイメージは、最初はなかなか結びついてこなかった。この話、実はかなり興味深いのだが、長くなるので今日はこれでおしまいに。  


* 福岡伸一「アメリカの夢 フェルメールの旅 中編」『翼の王国』2008年7月

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コペンハーゲンの光

2008年07月18日 | 絵のある部屋

Vilhelm Hammershøi (1864-1916)
Interior. Young woman seen from Behind, c.1904
Oil on canvas, 61 x 50.5 cm
Randers Kunstsmuseum, Randers


    やはり、あの画家だったのか。ヴィルヘルム・ハンマースホイ Vilhelm Hammershoi (1864-1916)というデンマークの画家のことである。

  はるか以前に遡るが、1980年代、コペンハーゲンの美術館で偶然、この画家の作品を見た時、なにか強く惹かれるものがあった。しかし、当時は、この画家の名前は覚えがなく、展示されていた年譜などを見ただけだった。それ以前から魅せられていたラ・トゥールのようには、深く追いかけることもなく時が過ぎた。

  しかし、イメージは記憶細胞に生きていた。ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで、この画家の回顧展が開催されていることを知った。たちまち、記憶がよみがえった。「ヴィルヘルム・ハンマースホイ:静寂の詩」Vilhelm Hammershoi: The Poetry of Silence (終了後東京へ移動) という特別企画展だ。副題が適切にこの画家の特徴を伝えている。目前に霧に包まれたようなこの画家の作品が、ほうふつとして浮かんできた。


  
ハンマースホイは、風景、室内、人物などを描いているが、いずれをとっても、暗色系の抑えられた独特な色合いと静謐さが画面に満ちている。風景画も独特の美しさなのだが、このあまり知られていない画家の特徴が最も現れているのは、室内画ともいうべきジャンルだ。

  室内画といっても、フェルメールのように、画面一面に色がちりばめられているという印象ではまったくない。むしろ、その対極にあるといってもよいだろう。この画家のパレットには、赤とか黄色など明色系の絵の具はなかったのではないかと思ってしまう。コペンハーゲン育ちの画家なのだが、この画家の心象風景は、やはりオランダやベルギーの画家たちのそれとはかなり異なっている。どことなくメランコリックな、デンマークの光なのだ。しかし、北方の画家として、基調には多くの共通するものを感じる。これは作品を見ていると、すぐに伝わってくる。フェルメールがこの時代に生きていたら、もしかすると、こんな絵を描いたかもしれないと思わせるほどだ。ハンマースホイが、作品のイメージを、しばしばフェルメールやレンブラント、サーレンダムなど17世紀オランダ画家の作品から着想したことは明らかにされている。

  ロンドンでは、71点の作品が展示されているが、そのうち21点は画家の故郷コペンハーゲンから、15点は他のスカンディナヴィアの美術館などから、そして20点は個人の所蔵である。この絵に魅せられたら、いつも自分の近くで見ていたいと思うだろう。個人の所蔵の比率が高い。ネットで見た限り、日本にも数少ないが熱心なファンがいるようだ。

  室内を描いた作品は、どれも絶妙な光とそれが織り成す影が特徴になっている。カーテンの掛けられていない明るいガラス窓から差し込む日の光が、これもカーペットもない床や壁を映し出している光景だけしか描かれていない作品もある。しかし、画題にあるように、差し込んだ暖かな日の光に暖められ、空気に舞う塵までが描かれている。「人物のいないフェルメール」といえば、少しこの画家の特徴を言い表せるかもしれない。

  

Sunbeams or Sunshine, Dust Motes Dancing in the Sunbeams, 1900

  このように、なんの変哲もない光景と思うのだが、一瞬息を呑むほど素晴らしい。写真より現実に近いとも思える。写真では写しきれない日光の暖かみ、それにより空気中に踊っている塵の動きまで伝わってくる。

  この画家、少しあまのじゃくではと思うのだ。人物が描かれている作品もある。たとえば愛する妻イダを描きこんだ作品もいくつかあるが、しばしば後ろ姿しか描かれていない。この回顧展のポスターにも使われている作品のように、美しいうなじを見せている女性が、落ち着いた、沈んだような色調の中に描かれている(顔の見える作品もありますよ)


  風景画でも、ロンドンの大英博物館の近くの
光景を描いた作品など、スモッグが空を覆い、いつもどんよりとしていたかつてのロンドンを、見事に目前に彷彿とさせる。しかし、ここにも人物は登場しない。あの教会画のサーレンダムやド・ウイッテなどの作品と共有する所が多分にある。画家自身がモティーフを選ぶ動機は「イメージの建築的コンテクスト」だと述べているように、描かれた線が整然としており、実に美しい。



Street in London, 1906
Oil on canvas, 58.5 x 65.5 cm
NyCarlsberg Glyptotek, Copenhagen
 

  これらの作品の一枚でも手元にあったら、どんなに目も心も休まるだろうと思う静謐な美しさだ。この画家の名前も作品もあまり知られていない。フェルメールやレンブラント、あるいは印象派の画家のように人目につく華やかさがいっさいないからだろうか。

  このブログで取り上げているラ・トゥールもそうだが、どうして多くの人の目から隠されていたのだろうかと思うほどだ。きっと万人好みの画家ではないのだろう。実際、この画家の個々の作品については、批評家の論争が絶えず、アカデミーが主催する美術展でも度々選外に落ちていた。時代の好みではなかったのだ。画家はその後、アカデミーから離れた個別の流れに移行する。

  このあまり知られていない画家の作品展、実は9月30日から東京の国立西洋美術館へ旅してくる。出展作品数もRA展より増加するらしい。素晴らしい企画展になると思う。秋が待ち遠しい。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ展

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アイルランドのような田舎?

2008年07月16日 | グローバル化の断面

  アイルランドが、EUのリスボン条約に「ノー(否)」を突きつけて、「小国の反乱」として大きな話題となっている。チェコ、ポーランドなどの中規模国も同調するかもしれないと、フランス、ドイツなど大国首脳は苦い顔らしい。2005年のオランダのEU憲法条約否決が頭をよぎるのだろう。

  アイルランドと聞くとすぐに思い浮かぶ詩がある。
丸山薫
「汽車に乗って」という詩だ。

汽車に乗って     
あいるらんどのような田舎へ行こう     
ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし     
日が照りながら雨のふる     
あいるらんどのような田舎へゆこう (後略)

  この詩をどこで読んだかは定かではない。小学校の教科書かもしれない。しかし、不思議と全文、脳細胞に残っていた。「日が照りながら雨のふる・・・」という一節が大変印象的で、これは日本でいう「狐の嫁入り」という現象だということまで覚えていた。多分、先生の説明だったのだろう。しかし、なぜ、こうした現象が起きるのかまでは知らない。どこかの地方の言い伝えだったのかもしれないと思い、辞書を引いてみると、いくつか違った説明が出ている。

    これも子供の頃、日本人以上の日本語の達人といわれ、エッセイが国語教科書にも載っていたCandou神父のお話をうかがった折、バスクにも同じ現象がありますよといわれて、不思議に思ったこともあった。なにがきっかけでこの話になったかはまったく覚えていないのだが、多分その時、晴天なのに雨が降ったのだろう。Candou神父は、
フランスとスペインの国境にまたがるバスクから来られたのだった。バスク人と日本人は似ているところが多いというお話もあったような気がする。いつか調べてみようと思いながら、果たすことなく今日に至っている。

  ニューヨーク滞在の折に、今では日本でもかなり知られるようになったアイルランド系の人々の祭日、
セント・パトリックス・デー(3月17日)のパレードがあり、フィフス・アヴェニューを緑色の衣装や飾り物が覆い尽くす光景を見たことも、移民で形成された多民族国家アメリカへの興味を誘った。こんなことが重なって、アイルランドについて、少しずつ知識も増え、イギリス滞在の折に短期間ながら訪れるまでになった。気づいてみたら、かつて一時期、仕事でよく泊まったパリのホテルまでCELTICになっていた。



  アイルランドは移民史の上では、長年にわたりアメリカなどへの移民送り出し国として知られてきた。日本では人気はいまひとつだったが、フランク・マコートの
『アンジェラの灰』がその厳しかった移民事情を興味深く伝えている。それが、いまや受け入れ国になり、先端技術の導入などもあって大変活性化し、世界の注目の的になっている。ブログでも話題にしたことがあるが、 「アイルランド・モデル」の可能性まで語られている。一見地味だが、堅実で、国民性の際だっている国だ。この小国の反乱、どんなことになるのか、見守ってゆきたい。

     
ケルト語[族]の意味。ケルト Celtic 民族は、今日ではアイルランド、スコットランド、ウエールズ、ブルターニュなどに散在。あの中村俊輔が所属するスコットランドのサッカーティームもCELTIC
だ。

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イタリアの光・オランダの光(10)

2008年07月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Honthorst, Gerrit van. Christ before the High Priest, c.1617. Oil on canvas, 272 x 183 cm, National Gallery, London

 大祭司カイアファ(カヤパ)の前に呼び出され、教えについて問いただされているキリストを描いたこの作品、一本の蝋燭が映し出す緊迫した情景である。ホントホルストがローマ滞在時代、最重要なパトロンであった ギウスティニアーニ Marchese Vincenzo Giustiniani のために制作したとされている。ラ・トゥールの研究書にも比較考証のために、しばしば登場するおなじみの一枚だ。 
  
    ラトゥールが徒弟時代を含めて、いかなる修業時代を過ごし、誰から最も多くの影響を受けたかについては、ほとんど謎のままだ。徒弟修業をした工房すら記録はない。しかし、長らくこの画家の作品や生まれ育った風土を辿っていると見えてくるものがある。そのひとつは、キアロスキューロといわれる明暗画法だ。これを最もダイナミックに駆使した画家は、17世紀最初のヨーロッパ画壇に大きな影響を与えたカラヴァッジョである。レオナルド・ダ・ヴィンチが創始者といわれるが、時代環境から見て、ラトゥールがカラヴァッジョから何らかの影響を受けたことだけはほぼ間違いない。しかし、その伝達の経路は霧の中だ。

  ロレーヌのヴィックという小さな町のパン屋の息子に生まれ育ちながら、天賦の才に恵まれた一方、時代の流れにも敏感で、人気のあるジャンルを注意深く選んでいた。同じ主題をさまざまに描き分けたのもそのひとつの選択だった。ヨーロッパの画壇、とりわけイタリアと北方ネーデルラントの動向には敏感であったことが推測できる。ロレーヌという地域自体が両者の中間にあって、二つの文化を取り結ぶ場でもあった。
しかし、いかなる経路でカラヴァッジョなどの画法を学び、体得していったかは不透明だ。画家がイタリアへ行った記録はなにもない。

 17世紀初め、ロレーヌからローマへ行った画家はかなりいたようだが、決して安易な道ではなかった。旅費もかかり、さまざまなリスクも待ち受けていた。他方、北方ネーデルラントへの道は、距離的にはかなり近く、旅もしやすかったと思われる。

 ユトレヒト・カラヴァジェスティの中で、これまで取り上げたバビューレン、テル・ブリュッヘンと並んで数えられるのは、ホントホルストだ。この画家ヘラルト・ファン・ホントホルスト Gerrit van Honthorst (1590, Utrecht – 1656, Utrecht) は、3人の中ではその在世中に最も名声を得た画家であったかもしれない。

 テル・ブリュッヘンがそうであったように、ユトレヒトの歴史画家アブラハム・ブロマールトの工房で徒弟修業をした後、1616年頃、イタリアへ行っている。そして、イタリアに滞在している間に著名な画家として知られるようになった。イタリアではゲラールド・デッラ・ノッテ Gherardo della Notte( 「夜景」のゲラールド)という名で知られていた。カラヴァジェスティの一人として名をなしていた。そして4年ほどの滞在の後、1620年頃にユトレヒトへ戻ってきた。

 ユトレヒトでは、テル・ブルッヘンと共に画学校を始めた。1623年には、ユトレヒト画家組合の長になっている。今日ではラトゥールの作品とされているものの中には、ホントホルストの作品ではないかとされたものもあった。ホントホルストが描いた蝋燭の光の下に照らし出された迫真力ある上掲のような光景は、確かにラ・トゥールときわめて近いものを感じさせる。

 ホントホルストはパトロンには恵まれていたらしい。イングランド王チャールズ1世の姉で、プファルツ選帝侯妃エリーザベトは、領地をハプスブルク家に奪われ、オランダへ亡命した。そして、子供の絵の教師として依頼を受けたホントホルストは、宮廷に出入りするようになった。その後、チャールズ1世が評判を聞くところとなり、イングランドへ招聘される。帰国後もチャールズ1世夫妻、バッキンガム公、プファルツ選帝候などが庇護する画家として、多数の肖像画の制作に追われた。さらにオラニエ公妃アマリアの宮廷画家として、1637年にはハーグへ移り住んだ。



Gerrit van Honthorst Childhood of Christ 1620 Oil on canvas
The Hermitage, St. Petersburg

 この二人の画家の描いたイエスと大工ヨセフの夜の作業場の情景などは、もしかすると同一の画家が時間をおいて描いたのかもしれないと思わせるほどだ。二人は活動した場は異なったが、ほとんど同時代人である(生年はホントホルストが3年早い)。作品の深み、完成度という点から見ると、ラ・トゥールの大工ヨセフとイエスの方が、一日の長がある。しかし、主題の選択、人物の配置、色彩など多くの点で、この時代に共有されていたものが二つの作品に流れている気がする。ラトゥールは、オランダに吹くイタリアの風を感じたのではないか。



Georges de La Tour, Christ in the Carpenter's Shop, 1645
Oil on canvas, 137 x 101 cm
Musee du Louvre, Paris

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日本の移民政策はどこへ

2008年07月11日 | 移民政策を追って

  日本に限ったことではないが、移民(外国人労働者)についての世の中の関心は、時代の移り変わりと共に大きな波動を示してきた。送り出し、受け入れの双方について、決して一方的に移民歓迎あるいは移民反対という流れが貫徹していたわけではない。かなり頻繁にストップ・アンド・ゴーの局面を繰り返してきた。しかも、流れの方向が突然に変化することも少なくない。その象徴的例が、9.11同時多発テロの勃発であった。このひとつの出来事で、世界の主要国の移民政策は大きな衝撃を受け、顕著な方向修正を迫られた。

  移民で自国を形成してきた世界最大の国アメリカは、21世紀になってからも受け入れ移民の数と質の両面において複雑な問題を抱え、移民政策は重大な国民的課題となっていた。外交政策の失点は取り消しがたく、任期終了を目前としたブッシュ政権は、移民政策を最重要な政策課題と考え、破綻していた政策の立て直しを図った。しかし、「包括的移民政策」として大きな期待をかけてきた法案も結局任期中に成立は期待できなくなり、次の政権の課題として先送りになってしまった。

  この原案の主要推進者のひとりが、共和党員ながらリベラルなスタンスをとるマッケイン上院議員だった。しかし、仮にマッケインが大統領に選ばれたとしても、当初の原案のような形で成立するとは思えない状況になっている。 政策の空白期間に、現実は急速に変化している。連邦法レベルでの基本政策が不在な間、州や地域レベルでの個別的対応がさまざまに進んでいる。新政権が発足すると、その調整が大きな問題となるだろう。

  EUでもようやく統一的な移民政策、言い換えるとEU共通のルールが生まれつつある。2010年から、EU加盟国による退去命令を拒んだ不法移民を対象に、子供を含めて最長1年半の身柄拘束や5年間までの再入国禁止が各国に認められる。不法移民の摘発が大幅に強化され、スペインが2005年に多数の不法移民を合法化したような措置も認めない。EU砦の姿は一段とはっきりする。しかし、国境管理の重荷は拡大したEUの最前線が担うことになる。建造する側は逆だが、現代版「万里の長城」のような印象だ。 

  落日の色覆いがたい日本では、このところ移民(受け入れ)政策への関心が高まっているようだ。自民党議連などの新たな政治的動きも出て、2,3のメディアが取り上げている。その背景には、厳しい人口減少時代を迎えて女子と高齢者の労働市場参加促進だけでは、対応ができなくなってきたという事情もある。社会的には必要だが、日本人が就きたがらない仕事も増えてきた。現実には、多数の外国人労働者がこうした分野で働いている。他方、外国人の定住化が進み、縦割り行政の弊害も露呈、政策の手詰まり感も強まっている。結果として、漸く問題の重大さが認識されてきたようだ。

  政治領域では、自民党の外国人材交流推進議員連盟(以下、議連)の動きに注目が集まっている。その基本的視点は、移民(外国人)の力を借りて人口減少危機、そして労働力不足に対応しようという考えのようだ。外国人の定住を前提に、外国人に公的教育の機会を提供して熟練労働者に育てるほか、留学生も100万人に拡大して、日本での就職・定住を促し、今後50年間で人口の10%(約1000万人)を移民が占める「他民族共生国家」を目指す。そのために「移民庁」(仮称)を創設し、縦割りの外国人政策を一元化するなどの提案をしている。

  こうした展開を見ていると、これまでの乱立していた議論が政策項目として次第に整理されてきている印象はあるが、長らくこの問題に関わってきた者の一人としては、とりたてて新味は感じられない。課題の羅列に留まっている。さらに、改革の速度も緩慢だ。海外からは「奴隷労働」とまで酷評されている「外国人研修・技能実習制度」ひとつとっても、まともな形になるまで何年かかることやら。そればかりか、依然として視野狭窄としか思えない政策スタンスが相変わらず横行し、採用されている。


  問題点は枚挙にいとまがないのだが、ひとつは、「グローバル化」、「国際化」への対応という、いつもながらの枕詞が掲げられながら、自国の問題しか視野に入っていない。検討の対象が送り出し国や移民の側には、おざなりにしか向けられていない。移民を「入れてやる」出入国管理政策から、「来てもらう」政策へ転換すると、耳障りのいい表現に変えてみても、内容はこれまでの議論とほとんど変わりがない。(教育、地域、人権など筆者がながらく「社会的次元」と呼んできた領域の問題が政策課題へ組み入れられてきたことは評価できるのだが。)「循環的移民」circular imigration、「経済連携交渉」EPAと舞台装置を改めても、実質的対応面にほとんど変化が感じられない。

  今日の世界の先進国で、移民(受け入れ)で国を立て直そうと標榜している国はない。(送り出し国で移民立国を目指してきた国は、フィリピン、メキシコ
など、いくつかあるが、とても成功しているとはいえない。) こうした状況の中で日本がことさら「移民(受け入れ)国」となることを宣言するのはいかなる意味を持つのか。改めて国民的議論が必要だろう。

  人口減少や少子高齢化に伴う問題を、移民に頼ることで対応しようという発想は、2000年に国連人口部によって提示されたが、日本の識者の間でも「数合わせ」として評価されなかった「補充移民」のアイディアとさほど変わりがない。受け入れる移民対象を高度な質の労働力に限定しているというだけのことだ。

  移民あるいは国際労働力移動という現象は、送り出し国と(出稼ぎ)移民、そして受け入れ国とその国民という双方の次元を視野に入れて初めて正しく理解される。しかし、日本の議論はいつも自国の利益、それもしばしば特定のグループの利害が隠された「国益」の議論になりがちだ。

  移民という現象は、決して受け入れ国側の需要要因だけで定まっているいるわけではない。移民の労働の成果がいかなる形で、彼らの母国の発展へとつながるかが組み込まれない限り、真の意味での「総合的移民政策」とはなりえない。日比両国間で経済連携協定を締結しながらも、フィリピン上院で日本への看護師送り出し案が紛糾、頓挫しているのは、その点を危惧しているからだ。フィリピンも日本に貴重な人材を送り出しても、高い障壁を越えねばならず、結果として「使い捨て」にされるのではないかという懸念が高まっている。本来、こうした人材は、自国民の医療・看護サービスを担うためにその国が育成してきたのであり、海外出稼ぎは次善の策なのだから。

  受け入れ国が自国の問題への対応だけを考え、送り出し国の経済・厚生条件の改善が含まれない政策は、狭くなった地球では受け入れられない。関係国が共に利益を享受しうる政策視点が含まれることがどうしても必要だ*。

  さらに、移民の現実の動きも大きく変化している。IT技術の発見で、仕事自体がある国から別の国へと、オンラインで移動してしまう動きが急増している。東京のオフィスで一日の仕事が終わった時、残った仕事を地球の反対側の国へオンラインで送って、翌日までに作業して送り返してもらうというようなことは、いとも簡単にできるようになった。
いわば「見えない移民」「ヴァーチャル移民」の増加だ。しかも、その移動は瞬時に行われ、実態の確認も困難だ。どれだけの仕事量が移転しているのか、把握がきわめて難しい。伝統的な肉体を持った人間が国境を越えて移動するという移民の世界のイメージは大きく変容している。オフショアリングの一形態とみられるこうした変化も、急速に進んでいる。

  これらを視野に入れると、世界の移民市場(国際勞働市場)は、今日かなり大きな転換点にあるといえる。旧来の移民労働観に依存していたのでは、大きな流れを見失うことになりかねない。近年の新たな変化をバイアスのない目でフォローする必要があるだろう。

   

References 

「動き出す移民政策」『エコノミスト』(毎日新聞社)2008年6月17日
「労働開国」『エコノミスト』(毎日新聞社)2008年1月15日

『専門的・技術的労働者の国際勞働力移動~看護・介護分野とIT産業における主要課題』(JILPT資料シリーズ No.19

* こうした新たな変化を調査・分析した上記のような小さな調査報告でも、日本労働政策研究・研修機構(JILPT)、厚生労働省などの偏狭な判断で、平成17年度以降今日まで公開が差し止められてきた。このお役所、いまや満身創痍。日本の「移民政策」といってみても、とても簡単には生まれてこない。


 

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医師・看護師も国境を越える

2008年07月08日 | 移民の情景

  7月7日、洞爺湖サミットが始まった。アフリカなどの代表も参加するとはいえ、ともすると世界を大国の先進国が主導し、支配する?という構図が見え隠れする。 しかし、現実にここで今後の世界の方向を定める多くの重要路線が決まる以上、関心を抱かざるをえない。

  サミットの議題にはならないが、先進国は
移民(外国人)労働者の受け入れについても主導権を握っている。日本もそうだが、人口減や少子高齢化で、労働力減少に悩む国は、他国から人材を受け入れて対応しようとしている。

  たまたま今春から導入されたイギリスの新たな「選択的受け入れ」を基準とする入国管理制度(Selective Admission)が話題となっている。EU域外からの入国者にそれぞれポイントを付して、高い専門性や投資能力を持った者から優先的に入国を認めるという方針は、制度上の差異はあるとはいえ、アメリカ、EU諸国、そして日本もいずれ採用しようとする方向だ。先進国にとっては、かなり身勝手な方策でもある。

  他国が多大なコストと時間をかけて教育・育成した人材を、受け入れ側の先進国はコストをかけることなく、自国の目的のために利用できる。先進国はおおむね報酬水準も高いので、開発途上国側は不利な立場にある。高い報酬に惹かれて、人材が海外へ流出してしまう可能性が高いからだ。

  高度な専門性を持った人材というと、科学者、技術者、医師、看護師などさまざまな職業がある。そのひとつの例として、内科医についてのデータが目に止まった。自分の国の医学部や医科大学で教育、養成した医師(内科医)の中で、外国へ流出してしまう医師の比率を示したものである。上位を占めるのは圧倒的に開発途上国、それも流出比率の点では、どちらかというと小国が多い。

  絶対数で内科医の海外流出が多い国は、2000年時点で、次のような順位である:

インド(20.3千人)、イギリス(12.2)、フィリピン(9.8)、ドイツ(8.8)、イタリア(5.8)、メキシコ(5.6)、スペイン(5.0)、南アフリカ(4.4)、パキスタン(4.4)、イラン(4.4)、フランス(4.2)、ポーランド(4.0)、ドミニカ(3.6)、カナダ(3.4)、オランダ(3.3)、エジプト(3.0)、ギリシャ(2.8)、アイルランド(2.7)、ヴェトナム(2.4)、中国(2.4)、ルーマニア(2.3)、スリナム(2.3)、マレーシア(2.2)、ベルギー(2.0)、トルコ(2.0)、グレナダ(1.9)、ロシア(1.9)、アメリカ合衆国(1.9)、セルビア・モンテネグロ(1.8)、ハンガリー(1.8)

  インド、フィリピン、メキシコ、南アフリカ、パキスタン、イランなど開発途上の国からの流出が多いことは予想した通りだ。他方、EUの中心国がかなり上位に入っていることに気づく。その理由はもう少し調べてみないと正確には分からないが、域内移動が増加していることが推定できる。

  医師の海外流出の背景は色々と考えられる。医師自身にとっては外国でより高度な研鑽や経験を積みたいという思いもあるだろう。高い報酬水準が期待できることはいうまでもない。ほとんどが流出してしまう国などを見ると、後に取り残される国民の悲哀を感じる。現在の国際的な仕組みでは、こうした問題を適切に解決する方策はない。しかし、これからの時代の移民(外国人労働者)政策には、送り出し、受け入れ双方の適切なバランスにこれまで以上の配慮が必要だろう。

  個人的な経験だが、何度か外国に長期、短期の滞在をしてみて、医療看護の実態の一端にも接した。イギリスで診察を受けた内科医(GP)、歯科医はすべてインドやアフリカが母国の人たちだった。予備知識があったので、別に驚くこともなかったが、友人・知人の中にはなじめずにロンドンの日本人医師の所まで出かけていた人もいた。しかし、グローバル化とは、こうしたことも当然包含しているのだ。フィリピンやインドネシアからの看護師・介護福祉士にお世話していただく時代だ。近い将来は医師もお願いすることになるだろう。日本はここに示したひとつの統計数値からも明らかなように、国際的プレゼンスがきわめて低い。それが良いか悪いかは別にして、外の風に当たる機会が少ない。時代の変化への確たる心構えが必要になっている。

  国で教育・訓練を受けた内科医の中で、海外へ流出した内科医の比率(%、2000年):
グレナダ (97%)、ドミニカ (97) 、セント・ルシア (66) 、ケープ・ヴェルデ (54)、 フィジー (48) 、サオ・トーメ・プリンシペ (43)、リベリア (34)、パプア・ニューギニア (32) 、アイスランド (26)、 エティオピア (26)、 ソマリア (25) 、アイルランド (25)、ガーナ (22) 、ハイチ (22) 、セント・キッツ・ネヴィス (21) 、ルクセンブルグ (21)、 ウガンダ (19) 、ドミニカ (19) 、スリランカ (17) 、ジャマイカ (17) 、ティモールーレステ (16)、 ジンバブエ (16)、 ガンビア (14) 、アンゴラ (14)、 マラウイ (13) 、ニュージランド (13)、 南アフリカ (13) 、ボスニア・ヘルツエゴヴィナ (13)、 マレーシア (12)、 トーゴ (12)


Source:Docquier and Bhargava 2006 Quoted in The World Bank。Migration and Remittances Factbook, 2008

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イタリアの光・オランダの光(9)

2008年07月02日 | 絵のある部屋

Pieter Saenredam. Interior of the Church of St.Bavo in Haarlem, 1648. Oil on panel, 2x1.4m. National Gallery of Scotland, Edingburgh.


    一枚の絵とはいえ、つぶさに見ると、時代の変化の深部が垣間見えることがある。前回も取り上げた教会画という17世紀オランダ美術のジャンルもそのひとつだ。遠く過ぎ去った時代の息吹きを、改めて追体験、実感することもできそうだ。

  宗教改革という基本的には精神世界での大変革が、広く人々の生活様式を変え、さらに波及して美術のあり方にまでいかなる影響を及ぼしたか、興味は尽きない。宗教間の抗争は、キリスト教の宗教改革に限らず、しばしば激烈な対立となる。宗教改革におけるカトリックとプロテスタントの対立も、今日の想像を超えるすさまじい様相を呈した時もあった。

  オランダでプロテスタントの主流となったカルヴィニズムは、宗教世界における絵画、偶像の役割に否定的だった。しかし、それにもかかわらず、17世紀オランダ美術界は繁栄の時を迎えていた。なぜだろうか。

  この点を解明するには、この時代を支えた基軸的価値観の大転換の次元まで立ち入らねばならないようだ。そのことを見定めるひとつの場が教会である。 サーエンレダムなどの教会画が示すように、当時のプロテスタント教会内部には見通す限り、祭壇や聖像らしきものは、ほとんど見えなくなった。このハールレムの聖バーヴォ教会(上掲)も、1566年の偶像破壊運動 iconoclasm の嵐が襲う前は、63の祭壇、そして多数の聖像や装飾で堂内が覆い尽くされていたという。 (外観参照図

  カルヴァン派の場合、宗教的指導者であったカルヴァン自身が聖像や祭壇画などに対して、厳しい考えを持っていた。ルターと比較してもきわめて厳格であった。

  カトリック、プロテスタントの対立は、基本的には信仰の根源をどこに求めるかという点にあった。聖書は論争の中心的対象だった。ルターもカルヴァンも聖書に絶対的権威を見いだし、信仰の基点を置くことを主張してきた。そのために、分かりやすい言葉で、神の教えを説くことができる牧師と聖書の大衆への普及・拡大が強調された。とりわけカルヴァン派では、牧師はカトリックのように神と信者の間に立つ代理人や仲介者ではなく、信徒の間で最もよく聖書を学び、理解した人と位置づけられた。 

  カルヴァン派は、カルヴァンの説くところに従い、聖人の像、絵画などを排除することに努め、その動きはしばしば暴力的な「聖像破壊運動 」iconoclasm の形をとった。ネーデルラントではとりわけ1566年に町から町へと教会、修道院などで聖像の破壊が拡大していった。こうした異端排斥の実態は、カルヴァン派が市政などの主力を握ったジュネーヴの場合のように、きわめて苛酷で容赦ない対応となった。

  その後、新教側の教会が次第に勢力を拡大し、組織化が進むにつれて、暴力的破壊は次第に減衰をみせる。しかし、カトリックが支配的であった時代と比較すると、絵画や立像、装飾品への需要のあり方は大きく変容した。

  カルヴァンの『キリスト教綱要』(1536年)が発行されると、改革派教義の体系的理論書となった。カルヴァンの神学は、ルター、ツヴィングリ、プツァーらの思想を継承したものだが、『綱要』が判を重ねるごとに深化していったが、同時にルターやツヴィングリなどの考えとも離れていった。

  ほとんど聖人像や壁画など装飾の類を排除したカルヴァン派プロテスタント教会で大きな役割を占めたのは説教壇であった。牧師は説教壇から教会へ集まった人々へ教えを説いた。このハールレムの聖バーヴォ教会(上掲)は、カルヴァンが‘中立的な’教会の有り様として認めていたようだ。 カルヴァンがパイプオルガンなど楽器による音楽の位置づけをいかに考えていたのかは、明らかではない。絵画や偶像のように積極的な排除の対象とはされなかったようだ。イメージほど布教の障害とはならないと考えられたのだろうか。 この絵のように、オルガンが撤去されることなく置かれている情景などを見ると、否定されることなく黙認されていたのではないかと思われる。
  
  当時の教会画には、プロテスタンティズムによって刷新された教会の新たな価値観を印象づけるためか、人物などが描きこまれていない場合もある。描かれていても、上掲の作品のように、右隅に小さく描かれ、教会堂の規模がやや誇張されていることも多い。そして、全般にカトリック教会の重厚さ、華麗さなどを備えた旧来の宗教的雰囲気が薄れ、公会堂のような空気が漂っているのが感じられる。プロテスタントの教会では、カトリック教会に見られた宗教色に代わって、人々が集う場としての空気が醸成されていることを感じる。

  事実、当時のプロテスタント教会は、次第に人々の集まる公共の場としての役割も強めていたようだ。ウィッテが描いたデルフトの著名な教会堂の作品を見てみよう。あれ! この子供たち、そしてワンちゃんは神聖な場で、いったいなにをしているのでしょう (落書きは人間のさが?)。

  こうした作品が制作され、容認されたことは、教会が開かれた公共の場と変化し、新たな市民たちの教会イメージが生まれつつあることを如実に示しているようだ。そこは「イタリアの光」はもはや感じられず、明らかにオランダ、ネーデルラントの光が差し込む空間となっていた。教会画を含むオランダ美術については、「不毛な自然主義」という厳しい批判も提示されたが、この問題についてはいずれ改めて考えよう。




Emmanuel Witte. Interior of the Oude Kerk, Delft 150-52. Oil on panel, 48 x 35 cm, Metropolitan Museum of Art, New York.(detail)

Reference
Mariet Westermann. A Worldly Art: The Dutch Republic 1585-1718, Yale University Press, 1996.


 

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