時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラトゥールを追いかけて(37)

2005年08月29日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

リュネヴィルで開花するラトゥールの才能  
  ラトゥールがリュネヴィルに移り住んでからのほぼ10年間、1620年代は、ロレーヌ地方にとって、おおむね繁栄を享受しえた時期であった。1624年7月末のアンリII世の死去と、その後のチャールズIV世の継承についての不安は住民の間にあったとは思われるが、その後の時期と比較すると明らかに平穏な時代であった。
  ラトゥールは、妻の故郷であるリュネヴィルで画家としての地位を確保し、その才能を十二分に発揮しえた。彼はリュネヴィルを本拠にロレーヌの画家としてたちまち頭角を現し、社会的にも名士として上流階級に迎えられていった。その過程で、彼の妻ディアンヌがどのくらい助けになったかは公的な資料しかなく、推定は難しい。それでも、ディアンヌは夫の名前と並び、しばしば記録に登場している。

多産多死の時代
  リュネヴィルという地方都市の規模と社交の範囲を考えれば、すでにディアンヌの父親は娘の結婚の翌年に世を去っていたが、ディアンヌは貴族の家系を継承して相応の社会的ステイタスを保っていたと思われる。

  ラトゥールとの結婚は、その当時の状況に照らして、概して幸福であったとみられる。1919-36年の間に5人の男児、5人の女児、合計10人の誕生が記録されている。15-17ヶ月の間隔で子供が生まれている。
  現代の人々は、ずいぶん多産と思うかもしれないが、幼児死亡率の高さなども考えると、当時のロレーヌでは良く見られた出産パターンであった。大体、40歳代で出産は終わる。1636年以降の出産があった可能性もないではないが、ディアンヌはそうであれば45歳になっていたはずで、リュネヴィルも波乱の時代に入っていた。1642年に生活が平静を取り戻した時には、ディアンヌは55歳になっていたはずである。当時の環境を考えると、この年齢で出産の可能性はきわめて少ない。
  夫妻の間に生まれた10人の子供のうちで、最初の5人の中でわずかに3人だけが両親とほぼ時代を生きている(6人目からの子供はすべて死亡)。わずかに画家となった息子エティエンヌの5歳下であったクリスティーヌだけが両親より後まで生きながらえている。死亡した者の記録は、ひとりを除き存在していない。おそらく1630年代の疫病期に死亡したとみられる。
  この実態を考えると、当時の人々がいかなる不安を抱き、救いの手がかりをなにに求めていたか、推測ができよう。

画家はどこに住んでいたか
  ラトゥール夫妻がリュネヴィルへ移住してきて、どこに住んだかも十分な記録がなく不明である。しかし、1620年8月31日に聖フランシス修道女会の修道女たちSisters of St Francisから224フランで購入した”meix”と呼ばれる土地つきの家に住んだとは考えられていない。

  この資産は1年前に義母のカトリーヌ・ラマンスが売却したものだった。ラトゥールはそれを買い戻したのだが、小さな土地で粗末な農夫の家があったにすぎない。羊小屋sheepfoldsといわれた土地で、価格からしてもラトゥール夫妻が一時的にも居住したとは思えない。おそらく、ラトゥール夫妻は当初ル・ネルフ家が所有していた家屋か、義母の家に移り住んだと思われる。
  しかし、1623年義母は息子のフランソワと住むことに決め、転地している。フランソワはその当時テノワTennois教区の司祭であった。ラトゥールは、義母の家を当時としては少なからぬ額である2500フランで購入している。そこには納屋とか、羊小屋とか牧草地もあった。そしてサンジャック教会への道に続いていた。この地の名士の家としてふさわしい場所であったと思われる(この光景は、7月4日の記事で紹介したデイヴィッド・ハドルの小説にも使われている。)。ラトゥールはそこへアトリエを建てて、その後の制作を行ったのだろう。
  リュネヴィルに落ち着いてからは年を経るごとに、ラトゥールの生活もかなり充実したと思われる。

徒弟の受け入れ
  画家としての職業も軌道に乗っていた。ラトゥールは1620年、最初の徒弟クロード・バカラを受け入れている。そして、彼に対して「誠実かつ熱心に・・・・・絵画の技を教示し、習得させるものとする。・・・・・・当該の技の徒弟修業を行うのに必要な絵具を彼に対して供給する」ことを約束している。   

  1626年には徒弟、シャルル・ロワネを受け入れている。この時は住居、まかない付きであった。工房や住居も拡大したのだろう。3年間の徒弟受け入れ費用は500フラン、当時のパリ並みの水準であった。

土地の名士としての活動
  ラトゥールはさまざまな機会に、妻ディアンヌ側の家族や親戚の支援を受けた。リュネヴィルではそうした機会が多数あったことが記録に残っている。逆にラトゥール自身も、洗礼の代父、名づけ親、さまざまな機会の保証人などとして登場している。妻側の親戚筋などのつながりも十二分に活用していたことが、記録文書から確認されている。
  ラトゥールは家の財政問題にも注意深く対処していた。1623年、義母の家屋・土地などを2500フランで購入するについて、資金手当てをしていたと思われる記録がある。彼は1618年の父親そして義父の死亡の時、そして1624年、母親の死亡の折もかなりの遺産相続をしているようだ。
  記録が十分でないだけに、研究者などの間でもさまざまな憶測、議論を生んできたが、リュネヴィルには家畜や相当の農地も所有していた。穀物倉には高い利益の得られるとうもろこしが搬入されていたようだ。しかし、これらの資産からの収入などについては、情報が少ない。はっきりしていることは、ラトゥールの収入のほとんどは、疑いもなく彼の制作した作品から生まれていたことである。
  しかし、残念ながら誰がラトゥールの作品の顧客であったかについてはほとんど不明である。  公式記録にあるのは公爵アンリII世がラトゥールの2枚の絵を購入し、1枚は123フラン(1623年7月12日付け)、もう1枚は画題の記録では、”image of St Peter” となっているが、150フランで1624年7月以前に支払ったことである。これらは当時の絵画作品の価格としては、きわめて高額であった。特に後者を現存する「聖ペテロの画像」とすると、とりわけそうである。この絵はロレーヌ公によってリュネヴィルのミニモ会修道院に捧げられている。ラトゥールに対する公爵の後ろ盾があったことか、画家の力量を誇示する価格なのかは不明である。

画家としてのジャンル選択  
  いずれにせよ、かなりはっきりしていることは、ラトゥールはこの時期に生涯で最も活発に制作活動をしていた。今後さらに検討すべき、やや不思議な点もある。
  この当時は一般に大きな祭壇画がもてはやされていた。しかし、こうした大作はラトゥールについては、いまだ見つかっていない。さらに、当時の環境からすると、ラトゥールは肖像画もかなり手がけたはずであった。肖像画は金を手に入れる手ごろな手段であり、土地の名士であるラトゥールには、その点での人脈もあり、依頼も多かったと思われる。彼の画才からすれば、肖像画家としても十分な力量もあったはずなのだが、肖像画を描いた形跡はない。 
  おそらく中流および高貴な階層の顧客が、家庭で鑑賞あるいは護符の意味も兼ねて保持していたいと思い、ラトゥールの作品を求めた事情などがあったのだろう。
  祭壇画や肖像画で、ナンシーの競争相手と同じ土俵で競うことを避けたのかもしれない。こうした制作態度は1630年以降、プッサンがローマで行っていたことであり、ラトゥールはリュネヴィルで同様な道を選択したものと推定される。
  いずれにしても、この時期においてラトゥールはかなりの資産家であり、裕福に暮らしていた。

References
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)
『Georges de La Tour.』東京国立西洋美術館「ジョルジュ・ド・ラトゥール展カタログ」2005年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカの大学生が選ぶ、就職したい企業

2005年08月28日 | 仕事の情景
アメリカでも「企業は人」
  秋学期開始も近くなると、キャンパスへ学生が戻り、大学は活気を帯びてくる。今、アメリカの主要大学ではそれに合わせて、優秀な学生を採用しようとするリクルーターが多数訪れているらしい。大学生の就職市場も好転の兆しがあるようだ。 優秀な学生といっても、いろいろな見方があるが、企業側は成績に限ると上位10%くらいを対象にしているようだ。株主主権のアメリカ企業といっても、つまるところ企業は、それを構成する人材の質に大きく規定されている。やはり「企業は人」なのだ。

定着したインターンシップと採用内定
  優秀な大卒人材を求める動きはこのところ活発になっていて、去年くらいまでは内定を3つくらいもらった学生ならば、今年は5つくらいに増えているらしい。そのために、夏に優れた学生にインターンシップを経験してもらい、本採用につなげたいという企業が多い。インターンシップはしばらく前までは、夏場など季節的調整のためのお手伝いと見られてきた。しかし、今ではフルタイム雇用の候補として採用する場合が多くなっているという。
  たとえば、2000人近くになるGEの大卒採用者の60%は、インターン経験者とのことである。こうして多数のインターン経験者は、卒業年の夏には採用内定の通知を手にして、キャンパスへ戻ってくるらしい。

好感度の高い企業とは
  企業は学生に好感度の高いという企業というイメージを植え込むのに力を入れている。そのため、1年中アメリカのキャンパスを訪ねては、学生や教員にコンタクトする専属のスタッフを置いている企業もある。たとえば、GEは戦略的にしぼりこんだ38大学に採用エネルギーを注いでいる。学生側としても、さまざまな形で能力を試されるので売り手市場というわけではない。
  上位にランクされた企業は、それなりに努力をしていることが感じられる。PricewaterhouseCoopers (PWC) は会計事務所だが、200大学に対象を設定している。そして、企業の上級管理者層にあたるパートナーに採用の責任感を持たせ、年間200時間くらいは「キャンパスで同社とのつながりを持たせるよう」指示している。こうした努力は効果があるようだ。  

  Universum という大学ブランド・コンサルタントの企業は約3万人のアメリカ人学生に、彼らが入社したいという会社名を挙げさせた。2005年の調査では、PWCは第2位(04年は4位)、第一位はなんとBMWであった。かつてはMicrosoftが「君臨」していた座をドイツ企業が獲得したのだ。その人気は製品が「クール」だということにあるらしい。日本でもかなり変化してきたが、外資系企業という受け取り方は、ほとんどないようだ。
  それにしても、しばらく前までは金融・投資関係の企業が上位に多数顔を出していたが、大分様子が変わってきた。

時流に乗っている企業
  日本でも同じだが、学生は就職先の選択において企業の製品やサービスの社会的な認知度、内容などに大きな影響を受けるらしい。典型例は昨年41位だったApple Computer が今年は13位に急浮上している。その背景に世界的なiPod人気があることはいうまでもない。

  とりわけ、アメリカらしいと思うのは、最近のTVや映画でFBI(Federal Bureau of Investigation)の活躍ぶりが人気を博し、138位から10位に急上昇したことである。CIAも同様である。アメリカの学生も、時の動きに大分左右されて就職先を選ぶようだ。 
  これも面白いと思われる現象は、EnronやArthur Andersenの社会的失墜も会計士分野には悪影響を及ぼしているわけではないという。会計士という仕事は、単に「数を数えている」だけの仕事ではなく、経営全般に采配が振るえるのだという印象が浸透して着実に応募者が増えているという。確かに、アメリカの4つの大会計事務所はすべて、今年の人気就職先に入っている。
 
重要となるウエッブ上のイメージづくり
  また、最近の大学生は、就職先の選定に際してウエッブ上の企業イメージにも大分影響を受けているようだ。PWC, Microsoft, Ernst & Young などの各社は、この点の評価で金・銀・銅という評価を得た。企業としては、ウエッブ上の好イメージづくりに一段と力をいれざるをえない。 
  
  しかし、伝統的に個人的な対面、インタビューを重視して、そのために上級の経営者をキャンパスに出向かせ、学生に会い、スピーチをすることの方が良質な学生を獲得できるという企業も多い。GEの役員などは頻繁にキャンパスを訪問しているという。人材重視といわれてきた日本企業だが、役員が絶えず大学を訪問して、優秀な人材確保に努めている企業はどこだろうか。

2005 年の人気企業
(アメリカの大学生が理想の働き先と考える企業、事務所)
( ) 内は2004年
BMW 1 (2)
PricewaterhouseCoopers 2 (4)
Ernst & Young 3 (6)
Boeing 4 (7)
Johnshon & Johnson 5 (17)
Deloitte 6 (8)
Coca-Cola 7 (5)
Microdoft 8 (1)
CIA 9 (14)
FBI 10 (138)
Merill Lynch 11 (12)
IBM 12 (11)
Apple Computer 13 (41)
KPMG 14 (16)
J.P. Morgan Chase 15 (18)

Source: Universum Communication

Reference “Undergraduate recruitment” The Economist August 20th 2005
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ジャマイカ 楽園の現実』の語るもの

2005年08月26日 | グローバル化の断面


「ジャマイカ:生活と負債」    輸出特区、衣服工場で働く労働者

ジャマイカのイメージは
  ジャマイカと聞いて思い浮かべるイメージはなんだろうか。カリブ海の楽園、美しい海岸と山々、レゲエ、ブルーマウンテン、ボーキサイトなど・・・・・。どれもそのとおりである。近年は日本からの旅行者も増え、新婚旅行の候補地に選ぶ人もいる。外側からみたジャマイカは実に美しい。確かに地上の楽園であるかに見える。しかし、この映画『ジャマイカ 楽園の真実』Life and Debtが描き出した現実は、そうしたイメージは、この国の一面でしかないことをわれわれの前に鋭く突きつける。
  経済的に自立するには、IMFなどの国際機関からの融資などに依存しなければやってゆけない国の現実、そしてそのために課せられる重荷がどれほど厳しい対応を人々に迫るものか。経済のグローバリゼーションがこの小国をいかに痛めつけているか。この映画は楽園の裏側をまざまざとわれわれの前に映し出す。そして、その現実は第三世界の国々の多くにみられる実態でもあるのだ。 

石油危機とIBAの成立
  ジャマイカは1962年にイギリスからの独立を果たした。そして、希望に満ちた未来に出発するはずであった。しかし、出発点から苦難の道であった。1980年代初め、前マンレイ首相(人民国家党)の政権時に、多国籍企業の研究に関連して、ジャマイカの政治経済に関する一連の調査に携わったことがあった。国際金融機関や多国籍企業の押しつける難題と闘いながら、自立を図ろうとする心意気に感動もした。今回のグローバリゼーションの影響がもたらしたものとは、少し違った意味で大きな衝撃を受けた。マンレイ首相は1987年に没したが、映画でも政権成立直後にIMFと融資契約をしたのは政治的人生で最大のトラウマであったと回顧している。

  第一次石油危機後のOPECの成立は、天然資源を唯一の頼りに自立発展を図りたいと考える第三世界の国々に希望を与える動きであった。外国企業に自国の天然資源の採掘権を与えたが、その結果としての利益は、ほとんど自国のものとはならないで、貧困のままに取り残される第3世界が自立を目指す初めての組織的戦略であった。ある調査団の一員として、成立したばかりのOPEC本部を訪れた時、それが街中の商業ビルの2階の一隅であったことに、ある種の感動を受けた。
  これに触発されて、1974年には世界のボーキサイト産出国が国際ボーキサイト協会(Internatiaonal Bauxite Association: IBA)を設立し、その本部はジャマイカに置かれた。とりわけ、当時はこの国唯一の競争力の源泉になりうるコーヒーやボーキサイトなどの天然資源を、欧米の多国籍企業に支配されることによって生きて行かざるをえない小国の実態が強く私の頭脳に焼きついていた。その制約から少しでも離脱しようと、マンレー首相は多国籍企業や先進国政府などを相手に精力的に活動した。

  その後しばらく、仕事での関心対象も変わり、ジャマイカについてさらに立ち入ることはなかった。しかし、この映画によって、再びジャマイカに代表される第三世界がかかえる深刻な課題に、以前に増して再び大きな衝撃をうけた。
  
  『ジャマイカ 楽園の真実』は、ジャメイカ・キンケイド*の多くの賞を受賞したノンフィクション、『小さな場所』(平凡社)のテキストを引用しながら、アメリカ及び欧米諸外国の経済政策によって、日々の生存のための手立てを限られてしまったジャマイカ人たちの状況に焦点を当て、その実態を迫真力をもって描き出している。 

アメリカ・国際機関に依存する現実
  映画は、旅行者たちが島に到着するところから始まる。美しい光景の前に流れるキンケイドのテキストの詩的な字幕は、次第にただならぬ切迫感を伝えてくる。絵のような美しさの裏面に隠されたこの国の植民地としての過去の遺産から、現在の経済的な困難までを見事に理解させる。たとえば、旅行者の食べるおいしい食事の素材は、ほとんどがマイアミから運ばれてきている現実など・・・。衝撃的事実が紹介される。食料まで、北米市場によって支配されているのだ。
  前首相のマイケル・マンレイが独立後のスピーチで、IMFを非難する記録映像が紹介される「ジャマイカ政府は、私たちが自分たちの国でなにをなすべきかを指図する誰をも、またなにをも受け入れないだろう。なにより、私たちは売り物ではないのだ。」

マンレイ首相の苦悩
  マイケル・マンレイは、IMFとは無関係に1976年に首相に選出された。1977年、ほかに現実的な経済的独立のための選択肢がなかったため、彼は最初の融資契約をIMFから取り付けざるを得なかった。マンレイは長期の融資返済を希望したが認められず、短期融資を強いられ、高金利と「構造調整政策」という厳しい足かせを課せられた。現在、ジャマイカは海外の融資機関の中でも、IMF、世界銀行、及び米州開発銀行(IDB)に、450億ドルもの負債を負っている。これらの負債は、かつては有意義な発展を約束するはずのものだった。しかし25年近い年月が経過した今日、現実には利子を支払うに見合うはずの外貨と、それに付随して課せられた構造調整政策は、とてつもなく大きな数のジャマイカ人にマイナスの影響を与えている。
  ジャマイカは、歳入よりも多くの増え続ける負債を支払い続けているのだ。そしてもしIMFなどの査定基準に達しなければ、再交渉の際に要求される構造調整政策はさらに厳しくなる。支払いとのバランスを取るため、通貨切り下げ(これは外貨のコストを上げる)、高金利(貸方のコストを上げる)、賃金のガイドライン(地元の労働賃金を見事に低下させる)が定められた。
  IMFは金利の引き上げと政府支出の削減が、財源を国内消費によるよりも個人投資によるものに変化させるだろうと想定した。それどころか、賃金を低く抑えることが、雇用の増大と生産の増加につながるだろうと考えたのだ。実態を十分理解していないIMFスタッフの得意げな話。しかし、現実に展開した失業の増加、汚職の蔓延、高文盲率、暴力の増加、食品価格の高騰、病院施設の荒廃、貧富の差の増大などは、今日の経済危機のほんの一面に過ぎない。 

グローバル化の中で
  自由貿易地域(フリーゾーン)では、法定最低賃金の週30U.S.ドル(1200―1500ジャマイカドル)で、週に6日アメリカ企業のために縫製をする労働者たちがいる(冒頭の画像)。キングストン港には、外資の衣料会社が安い賃貸料で借りられる厳重警備の工場が立ち並んでいる。こういった工場には、外資企業が素材の船荷を関税なしで運び込め、加工し、ただちに海外の市場に輸出できるという特典もつけられている。そして、1万人を超える女性たちが、外資企業のために標準以下の労働条件で働いている。
  ジャマイカ政府は雇用の確保のため、自由貿易地域では労働組合の結成ができないという条項に同意をした。かつて、賃金の引き上げと労働条件の改善のために立ち上がった女性たちは解雇され、その名をブラック・リストに記載されて、二度と働けなくなってしまった。 

バナナ業界の実態
  『ジャマイカ 楽園の真実』は、ロメ協定によってジャマイカがイギリスから特恵措置を受けていたバナナ業界についても触れる。協定では、年間10万5千トンまでの果物をイギリスが無税で輸入できるようになっていた。アメリカがWTOに提訴し、アメリカ政府はロメ協定の割り当てを廃止し、ジャマイカに対して中央アメリカや南アメリカの生産者、特に「チキータ」や「ドール」などのアメリカ資本の会社と競争することを要求してきた。

  中央アメリカは労働力が安いことが特徴で、栽培条件でこれほど効率よくバナナを大量生産できるところはない。ジャマイカのバナナの総生産量は、中央アメリカの一農場で生産できる量だ。バナナはジャマイカの総輸出品の8パーセントに当たる2,300万U.S.ドルをジャマイカにもたらす。しかし、ジャマイカのバナナ業界は、中央アメリカからのバナナの価格に対抗できないだろう。すでに、小規模だったジャマイカのバナナ生産者は、45,000人から3,000人までに縮小している。 

他に依存せざるを得ない国
  ジャマイカの人々が自分たちの生活に重大な影響を与える決定に参加できないことも明らかにされてゆく。IMFや世界銀行の提案は、市場規制の撤廃だ。このような政策は、第三世界経済をグローバル・マーケットに参入させることによって、恩恵を与えることができると考えられている。しかし実際には、北半球の商業銀行や多国籍企業が多大な利益を得ている。ジャマイカに象徴される国々の人々の生活には、改善される道が見えていない。

  『楽園の真実』は生き残りに賭ける人々の知恵とたくましさに捧げられたものであると同時に、なによりもアメリカや欧米の観客たちに、このような政策が与える影響を知らせることを目的として制作されたといわれる。この映画のサントラで流れる、レゲエの歌詞には、労働者達の嘆き、憤り、そして生きざまが込められている。 
  "貧困が貧しい者を破滅させる"
  "名声のために働くのはよせ"
  "革命の時が迫っている"、
  "運命は俺たちのものだ" 


  女性監督のステファニー・ブラックは、1990年長編ドキュメンタリー「H-2 Worker」(日本未公開)を製作。サンダンス映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。この映画は、H-2ビザ(米国での一定の期間内での仕事に従事するものの為の臨時労働者ビザ)を手に、フロリダで働くカリブ人を題材にしたものである。「IMFは赤十字みたいなものであるというのが、アメリカ人の典型的な考え方でした」と彼女はいう。

  全編に流れるナレーションは、作家ジャメイカ・キンケイドの著書『小さな場所』(平凡社)にもとづいている。カリブの小島アンティーガ出身の作家ジャメイカ・キンケイドが、アンティーガを舞台にしたこの作品を、ステファニー・ブラックは、ジャマイカを舞台に書き換えた。

  『ジャマイカ楽園の真実』は、グローバル経済そしてIMF、世界銀行などによって規制されている、ジャマイカの人々の生活を赤裸々に描いている。国際金融機関などが果たす役割についても、視線は厳しい。残念なことに、こうした映画はメジャーではない**。東京でもわずか10日ほどの上映でしかない。 

ジャメイカ・キンケイド Jamaica Kincaid 1949年、カリブ海の小島、旧英領アンティーガに生まれる。'65年からニューヨークへ出て、ウィリアム・ショーンに見出され、'76年より『ニューヨーカー』専属ライターになる。カリブの口語英語によるポスト・コロニアル小説の旗手として、アリス・ウォーカーらと並んで人気の黒人女性作家である。著書には、『アニー・ジョン』1985(風呂本惇子訳、學藝書林)、『小さな場所』1988 エッセイ(旦敬介訳、平凡社)、『ルーシー』1990(風呂本惇子訳、學藝書林)、『母の自伝』1996 など。

**渋谷「アップリングX」、「アップリング・ファクトリ」で上映中。

Reference
このブログ記事を作るに際して参考にしたこの映画の作品紹介は、大変簡潔かつ的確にその内容を伝えている。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6127

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

H.G. ウエルズへの関心:「時空を超えて」

2005年08月22日 | 午後のティールーム

H.G.ウエルズに魅せられて

  このブログのタイトルを「時空を超えて」とした理由を聞かれた。実はその時々に頭に浮かぶ記憶の断片を、自分の心覚えも兼ねて自由気ままに書き連ねてみようと思ったのが動機であり、あまり深く考えずにつけたものである。 いわば老化する脳細胞を補うメモ代わりを考えていた(開設のご挨拶「午後のティールーム」にも少し経緯を記した)。当時はブログとホームページの差異も十分理解しておらず、コメントしていただく皆様に申し訳ないと思いつつ、今でもトラックバックなど、度々失敗するので試みていない。このままでは、ビギナーブロガーのままで終わりそうである。

 「世界文化史大系」との出会い
  それはさておき、「時空を超えて」を思い浮かべたのには多少の背景がある。小学生の頃、父親の書斎にあったH.G.ウエルズ「世界文化史大系」を読んだことをきっかけにして、ウエルズにかなりのめりこんだ時期があった。偶然、手にしたこの「世界文化史大系」なるものが、不思議な魅力を持っていた。確か表紙にはインカ文明の奇妙な人の絵などが描かれていたと記憶している。全12冊の大著で、出版社は大鎧閣という当時としてもかなり時代がかった名前であった。

 戦後しばらく愛読書?は、「タイムマシーン」を始めとするウエルズの作品に加えて、『平凡社大百科事典』、『富山房国民百科事典』などであったことを思い出す。とりわけ、これらの百科事典は箱入りの大変立派なもので、特に平凡社の事典は充実しており、補遺もあり、飽きなかった。 最近の百科事典は色刷りでさまざまな工夫が凝らされているが、どういうわけか昔のように時間を忘れて事典を読みふけるという魅力が感じられなくなった。これはどうも私の脳細胞の劣化が原因らしい。

ウエゲナーの大陸移動説
  今回の記事を書くに際して、「世界文化史大系」の現物を探したがどこかに紛れ込み、いまだに見つからない。これまでかなり大量に書籍を古書店などに処分に出したのだが、この書籍にかぎり廃棄や売却などをした覚えはないから、家のどこかにあるはずなのだ。しかも、全12冊という大著である。図版、写真も入り、後年、新書で読んだ同じウエルズの『世界文化史概観』とは比較にならない面白さだった。

 あのアフリカと南アメリカがかつては一緒の大陸であったというアルフレッド=ウェゲナーの大陸移動説、エジプト文明とインカ文明との奇妙な類似点、第一次大戦の戦車(タンク、最初は水運搬車だった)の写真など、断片的だが鮮明に覚えている部分がかなりある。ウェゲナーの説は、後になって単なる思いつきなのかなと考えたりしたが、プレートテクトニクスの歴史には、必ず登場するらしい。 

北川三郎という名前
  さらに、子供心に強い印象を持ったのは、訳者の北川三郎という人物であった。これだけの大作品を翻訳したのだから、大変な博識、天才的な人物に違いないと感じたのである。だが、そればかりではなかった。北川三郎が富士山麓の精進湖近辺で情死をとげたということを、誰かに教えられたことである。「情死」という言葉の意味を当時は良く理解していなかった。というよりは、北川三郎が「情死」をしたということを誰かに問うことは、どうも良くないらしいということを子供心に感じたからであった。最近になって、再びこの人物のことが気になって、ウエッブ検索などをした結果、顛末がかなりはっきりした。

  「青葉の夢」と題して、北川三郎の情死にいたる実態が鮮明に描かれている立派なサイト(*)に出会うことができたからである。さらに、その後宮本百合子が「世代の価値―世界と日本の文化史の知識―」(**)の中で、かなり詳細に「世界文化史大系」に触れていることを発見するなど、色々副産物もあった。宮本百合子は「世界文化史大系」を圧縮した「世界文化史概観」(岩波新書)の方を勧めているが、私は北川訳の「大系」にはるかに魅力を感じた。  

  さらに、10年くらい前にケンブリッジに滞在していた時、たまたまS.W.ホーキング博士の講演を聞く機会があり、ウエルズを記憶の底から引き出すような話をされたこと、時々私が車を停めていた舗装も十分でないシジウイック・ロードを、博士が電動椅子で補助者もなく、お一人でカレッジの間を移動されているのを何度かお見かけしたことなども、ウエルズに再び興味をひかれる動機となった。暇にまかせて、昔読んだ作品を読み直したりした。その結果は、改めてさまざまなことを考えさせることになったが、今回はこのくらいでやめておこう.(2005年8月22日記)。

References
ウエルズ 「世界文化史体系」 全12冊 (ウエルズ著 北川三郎訳) 大鐙閣 昭2・3

(*)「青葉の夢」『誰か昭和を想わざる』 (本記事執筆時点)http://www.geocities.jp/showahistory/history1/03b.html

(**)宮本百合子「世代の価値―世界と日本の文化史―」『新女苑』、1940(昭和15)年12月号 

(***)ウェルズ著 ; 長谷部文雄訳『世界文化史概観』上、下、岩波書店、1950年

     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(36)

2005年08月20日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

盛時を偲ばせるリュネヴィルの宮殿(ただし、ラ・トゥールの時代より後に造営)



ヴィックからリュネヴィルへ

  ジョルジュとディアンヌの新夫妻は、おそらく当時の慣わしもあって、ヴィックのジョルジュの両親のところで、約3年一緒に暮らしたようだ。しかし、ジョルジュの父ジャンJean de La Tourとディアンヌの父親ジャンJean Le Nerfは、いずれも息子と娘の結婚で安心したのか、翌年の1618年に相次いで世を去った。

 他方、新夫妻の間には、1619年8月、最初の子供が生まれた。息子フィリップだが、その後まもなく死亡してしまう。夫妻の間には生涯に10人の子供が生まれているが、その最初の子供がフィリップだった。2番目が、後にしばしば登場するエティエンヌEtienneで1621年4月に誕生している。

 フィリップの名付け親は、ゴンベルヴォーの領主デミオン(Jean Philippe Demion), ディアンヌの叔母にあたるソールスロットの貴族ディアンヌ( Diane de Beaufort)だった。彼女は 1617年のラ・トゥールとディアンヌの結婚式に、引き出物として500フランを贈っている。この叔母はネールを大変可愛がっていたことが伝わってくる。これらの関係から、ラ・トゥールはヴィックばかりでなく、彼の妻の家族を通して、ロレーヌの貴族・上層階級のグループにつらなっていたことが推察できる。

リュネヴィル移住の背景
  さて、妻ディアンヌ・ネールにとって、夫を失い寡婦となった母親のいるリュネヴィルに住みたいと思うのは、母子双方の側からみて当然だったかもしれない。また、ジョルジュの芸術的願望との関係でも、おそらくその方が都合がよかったとみられる。それは、ヴィックの町では、ラ・トゥールが徒弟であった可能性も残るクロード・ドゴスClaude Dogozが、「絵画の市場」をほぼ独占していた。町の宗教的建造物の修復などでもドゴスは重きをなしていた。ヴィックにはラ・トゥールが工房を開設し、参入するだけの十分な仕事がなかったようだ。他方、ヴィックと比較すると、当時のリュネヴィルには著名な画家がいなかったため、ジョルジュには好都合だったとみられる。

  ラ・トゥールにとっては、妻の実家のあるリュネヴィルで実績をあげる方が、なにかと都合がよかったのだろう。リュネヴィルはロレーヌ公爵領の町でもあり、ロレーヌ公がしばしば滞在していた。ミューズ川沿いの城壁で囲まれた町であった。当時としては比較的安全な地と見られていた(この期待は後に裏切られる)。ヴィックからは南へ15マイルほど、ナンシーからは南東へ30マイルほどの距離だった。

ラ・トゥールの得た特権
  メッツの司教区のいわば飛び地領ヴィックの住人であったラ・トゥールは、リュネヴィルでの居住と仕事を始めるには、ロレーヌ公の許可を必要とした。そのことは、結婚とは別の取り決めごとであった。そのため、ラ・トゥールはリュネヴィルの市民になる申請と公爵アンリII世にかなりの特権(たとえば移動の自由、税金の免除など)を供与してほしい旨の請願をしている。加えて、リュネヴィルで名誉ある職業である画家として働くという申し出をしている。

 これらの請願内容は、今日の人々の目からみると、かなり厚かましいものにみえるし、美術史研究者の間での画家の人格をめぐる論点のひとつでもあった。しかし、17世紀初め、ロレーヌの厳しい時代環境を考えると、世俗の世界における生活手段と画家の活動とは距離を置いて見るべきなのかもしれない。


 ラ・トゥールは、この請願に含まれる特権供与と自由をほとんど認められた。リュネヴィル市民に課せられる租税の大部分を免除されるという特権である。ラ・トゥールの画家としての評判、妻の父親の貢献などが、アンリII世などの決定に影響したことは間違いない。こうした機会にラ・トゥールが公爵に絵画の寄贈をした可能性はきわめて大きい。

  他方、ロレーヌの文化の中心地であったナンシーでは、このころ宮廷画家の地位がクロード・デルエClaude Deruetに与えられていた。デルエはローマで名を遂げ、1619年秋にナンシーへ戻った。アンリ II世の覚えめでたく、彼は豪壮な邸宅を提供され、まもなく貴族に列せられた。このことは、1630-40年代にシモン・ヴーエ Simon Vouet がパリで享受したような特権であった。おそらく、ラ・トゥールも妻の生地リュネヴィルで、こうした地位を目指していたと思われる。

 

Sources
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)
Philip Conisbee ed. Georges de La Tour and His World, National Gallery of Arts, Washington, D.C. & Yale University Press, 1996

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(35)

2005年08月19日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

美しさをとどめるセイユ川の流れ

画家の誕生:ラ・トゥールの結婚
  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの修業時代については、未だ多くのことを書き残しているが、少し先に進むことにしよう。今日に残る記録で、この画家について出生(洗礼)記録の次に明瞭に確認されているのは、結婚契約書である。(1616年10月20日、ヴィックで洗礼の代父を務めた記録もある。)

  1617年7月2日、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、ディアンヌ・ル・ネールDiane Le Nerf と結婚している。画家としてのジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、美術史上に初めて姿を明らかにしたのはこの時であった。彼は結婚契約書に自らを「画家」paintre[sic]と記して登場したのである。結婚の立会人は、花婿のジョルジュ側を代表してヴィックの市長ジャン・マーティニJean Martinyが、そして花嫁の方は代官ラムベルヴイリエールLieutenant-general Rambervilliers とメッツ司教区財務官ジャン・ドハルトJean du Halt, treasurer-general of the bishop of Metzであった。彼ら3人は、いずれもこの地方の第一級の名士であった。
  とりわけ、代官ラムベルヴイリエールは、政治家であったが、美術、文学などの学芸に高い識見を持った時代を代表する知識人であった。美術品の収集家としても知られていた。そして、新婦ディアンヌのいとこのひとり Anne Raoulと結婚していた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、この結婚でロレーヌの最有力者ともいえるラムベルヴイリエ一ルの一族につらなることになる。

新婦の家柄
  新婦のネルフ家はリュネヴィルの町の富裕な新貴族であった。貴族としての歴史は短いが、ディアンヌの父ジャン・ル・ネーフJean Le Nerfは、公爵の財政顧問であった。1595年にはリュネヴィルの町に最も貢献した人物の一人として顕彰されている。このこともあって、ラ・トゥールは宮廷のサークルにも近づいたことになる。パン屋の息子ジョルジュは、いまや社会的にも父親より上方の階層移動にも成功した。そして、後年1670年には、ジョルジュの息子エティエンヌがチャールスIV世から貴族の称号を与えられるまでになった。しかし、このことはジョルジュ・ド・ラ・トゥールが驚くほどの立身出世をとげたということを必ずしも意味しない。当時においては、かなり社会的な流動性が存在していたと見るべきだろう。

認められていたラ・トゥールの才能
  特筆すべきは、ジョルジュが画家として、天賦の才能を発揮し、周囲の人々がその力量を認めていたということだろう。妻となったディアンヌも、そこに惹かれたに違いない。残念なことに、ジョルジュも妻となったディアンヌについても、そのイメージを思い浮かべる材料がない。もしかすると、ラ・トゥールの作品の中にディアンヌが登場しているかもしれない。しかし、これは研究者テュイリエも記しているように、まったくの想像にすぎない。

新婦の持参したもの
  当時の結婚では、新婦の側が持参金あるいはそれに類する財産を持って嫁ぐことが一般的であった。新婦の家柄からすれば、分与される財産も持参金かなり大きなものであっても不思議ではないが、記録上はきわめて穏当なものであったことが推察されている。持参金のたぐいは、多分ディアンヌを可愛がっていたと思われる叔母からの500フラン、2匹の牡牛と1匹の子牛、若干の衣類と家具であった。
  新郎の側も大きな支出をしたとも思われない。父親が結婚披露の負担をし、息子の衣類、必要な家具と相続手続きが完了するまでの手当の金を支払ったとみられる。かなりはっきりしているのは、この時までにジョルジュは画家としての社会的評価を確立し、画業で新生活を維持できるまでの基盤を持っていたということである。24歳の若者は、すでにその稀に見る才能を発揮していたのである。

 

Sources
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

Philip Conisbee ed. Georges de La Tour and His World, National Gallery of Arts, Washington, D.C. & Yale University Press, 1996

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名器アマティはいかにして創られたか

2005年08月17日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

18世紀初めのクレモナ

熟練・技能伝承の難しさ: 絵画とヴァイオリン 

継承されなかったラ・トゥールの画風
    中世以来の技能・熟練の伝承は、徒弟制度や工房・アトリエという経路を通したことが多い。しかし、職業によって伝承のあり方やその成否はかなり異なる。このサイトで取り上げているジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、誰の工房で修業をしたかは今のところ確認できていない。しかし、ジョルジュの息子エティエンヌは、父親の工房を継いだが、今日彼自身の作品と確認されるものは残っていない。途中で父親ほどの才能がないことをさとったのか、貴族の生活の方に魅力を感じたのか、画家として生きることをやめてしまったようである。
  結果として、ラ・トゥールの画風は、散発的にはともかくひとつの流れとしては継承されなかったといってよいだろう。とりわけ、絵画の世界では独創性や時代の求めるものへの対応も必要になってくる。この点を、ヴァイオリンの製作と対比させてみると面白い。

名器の誕生
  今年はヴァイオリンの製作史では記念すべき年といわれている。今から500年前(実際には1-2年の違いがあるかもしれないが、誰も正確な年次は分からない)、世界の最も知られたヴァイオリン工房の創設者アンドレア・アマティAndrea Amatiは、北イタリアの町クレモナに生まれた。ヴァイオリン自体は、アマティ以前から作られていた楽器であった。しかし、アマティは彼自身の独創ともいえる名器を創りだした。その後は優れた作品も生まれたが、誰もアマティのようには創れなかった。
  1577年にアンドレアは没したが、彼が設計し制作した楽器は作曲家や演奏家に力を与え、ヴァイオリン・アンサンブルを中心とする西欧音楽の流れを創り出した。

受け継がれたユニークさ
  次の200年間近く、アンドレアの灯した松明は、息子、孫、ひ孫に受け継がれた。さらに、彼の創造性はストラディヴァリ Antonio Stradivariとガルネリ Giuseppe Guarneriによっても継承された。しかし、18世紀半ばまでに、これら偉大な製作者たちの灯した光は次第に薄れていった。それにもかかわらず、この町を有名にした楽器は、時を超えて斬新さと豪華さをとどめ、演奏家や収集家によって追い求められてきた。

高額な商品と化したクレモナ・ヴァイオリン
  そして、クレモナのヴァイオリンは取引の対象としてきわめて高額なものとなった。1960年代まで、ストラディヴァリの作品は100,000ドル以下で取引されていた。1971年に、ロンドンのサザビーは名器として知られる“Lady Blunt”Stradを$200,000で売却した。2005年にはニューヨークのクリスティは “Lady Tennant”を2百万ドル以上で売却した。博物館、模造家、修復者、業者は、ストラディヴァリの価格が高騰することに大きな関心を抱いてきた。彼らは16-18世紀の間にイタリアで創られた名匠の手になる作品の価格を背後で操作もした。取引には信頼できる権威づけが必要なため、ヴァイオリンについての歴史的研究も進んだ。

次第に解明される名器の背景 
  1995年にはこうした努力が実を結んだ。ストラディヴァリの1729年の日付がついた遺書が発見されたのである。さらに、チエッサChiesaは、ミラノのヴァイオリン・メーカーで、作品の歴史的な再生に関心を持っていた。ローゼンガールドRosengardは、フィラデルフィア・オーケストラのバス奏者で、名匠の作品について歴史的関心を抱いていた。彼らの手になるモノグラフは私的にロンドンの業者ピーター・ビドルフPeter Biddulphによって印刷されたが、親方職人の投資、取引関係、家族内の関係などについて、大変優れた研究内容を含んでいた。それまでは、1902年に刊行されたHill Brothers, a legendary family of dealers が標準的な年譜とされてきた。

アメリカに生まれたヴァイオリンの博物館
  長年にわたり、ミネアポリスの楽器業者クレア・ギヴンズClaire Givensは、研究者とヴァイオリン、そして楽器に関心を持つ聴衆とを結びつける場所と機会を捜していた。その願いは、彼女がサウス・ダコタ, ヴァーミリオンの国立楽器博物館National Music Museum in Vermillion の理事に選任されたことでかなえられた。そして、ほぼアマティの生年と符号する500年後にあたる今年、記念事業として実現した。
  今年7月の独立記念日の時には、4日にわたる記念行事が行われた。行事のテーマは「偉大なクレモナのヴァイオリン製作者の作品、人生と秘密1505-1744年」であった。サウス・ダコタとクレモナの関係は偶然だが、この博物館が1980年代に入手したアマティス, ストラディヴァリウス、ガルネリの存在は、クレモナを語るにふさわしい場所とした。

名器を生んだクレモナ
  18世紀には、クレモナは富める国の富める町であった。主要な交易の通路にあたり、陸路、水路でアクセスが容易であった。そして高い品質の木材に恵まれていた。鋼鉄の道具とヴァラエティに富んだ熟練労働力もいた。そして、町の繁栄が音楽家に仕事をもたらした。それらに支えられて、アマティの工房での仕事ぶり、材料そして幾何学への関心が今日まで他をしのいできた。ロンドンのヴァイオリン製作者で歴史家でもあるジョン・ディルワースJohn Dilworthによると、アマティの考案した再利用可能なテンプレートが、当時の競争者をしのいだとのことである。
  クレモナのヴァイオリン製作は1747年に死去したストラディヴァリ、カルロ・ベルゴンジCarlo Bergonziなどの偉大な親方職人たちの作品を生き残らせた。その後も良い作品は作られているが、名器と呼ばれるものはまだない。

  こうしてみると、絵画や楽器についても、それが後世に評価される作品となるには、制作者の独創性、技能、それらを支える文化的風土など、さまざまな条件が必要であることが分かってくる。ラ・トゥールが人生の大半を過ごしたとみられるリュネヴィル、そしてロレーヌのその後の盛衰と、クレモナの歴史を重ね合わせると、いくつか考えさせるテーマが浮かんでくる。

*The Secrets, Lives and Violins of the Great Cremona Makers, 1505-1744

 Reference “Lords of the strings,”The Economist July 30th 2005

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ハードワーク」の世界を体験する

2005年08月16日 | 書棚の片隅から

 


ポリー・トインビー『ハードワーク:低賃金で働くということ』

椋田直子訳、東洋経済新報社、2005年

Polly Toynbee、Hard Work, Bloomsbury Publishing, 2003 (原著表紙の画像は、傾いていますが実物もこの通りです。)

日本の最低賃金がいくらかご存じですか
  グローバリゼーションという名の下に、世界を「市場資本主義」ともいうべき嵐が席巻している。そこでは、優勝劣敗の明暗が激しい。以前から、さまざまな理由で競争の過程から脱落しそうな人々に対して、いくつかのセフティ・ネットが準備されてきた。そのひとつが最低賃金制である。
  今回とりあげるイギリスでは、「ニュー・レーバー」の旗印をかかげたトニー・ブレア労働党首の政権の下で、1999年4月1日から全国一律最低賃金制度National Minimum Wageが導入された。時給4.10ポンド(約820円)である。中立の「最低賃金審議会」The Low Pay Commission の勧告通りに、それもわずか9ヶ月後のことであった。ブレア首相は、労働党政権が実現する以前から、、全国一律最低賃金の導入を、政権獲得後実施する政策の上位に掲げていた。
  2000年に公表された同審議会の第二次報告の冒頭には、この制度が予想を上回る成功裡に導入され、実施されてきたと誇らしげに記している。報告書の目的は、導入後いまだ日は浅い新制度の評価を行うことにあった。その結果、十分な評価にはさらに年月を要するとしつつも、とりわけ、男女性別賃金格差の縮減に寄与したこと、当初は別グループとされた21歳層の若年者も、すべて同一の賃率でカバーされるべきであるとの実証結果に基づく勧告が提示されている。
  審議会の公的見解は別として、新制度は「仕事の世界」にいかなる影響を与えたか。本書では、その実態の一部がひとりのジャーナリストの目で明らかにされている(ところで、みなさんご自身が働いている地域の最低賃金がいくらかご存じですか。)

ジャーナリスト魂の発露
  本著は『ガーディアン』紙の女性記者が、最低賃金で暮らすということは、いかなる実態に置かれることを意味するのかを、自ら体験したレポートである。もちろん、彼女の本職はジャーナリストであり、日常は高い報酬を手にして「別の世界」に生きている人である。しかし、この実体験努力は、これまで霧の中に包まれていた部分をかなりあからさまに示してくれた。
  「ハードワーク」というのは、単に大変な仕事という意味にとどまらない。人間としての尊厳を脅かされるような賃金の下で、懸命に働き、生きるということである。 『ガーディアン』紙の研究休暇を利用しての体験であり、結婚していて夫の収入や、専属ジャーナリストとしてのかなり高額な所得や資産に支えられていて、今回の取材上も制約があり、正確には最低賃金だけの収入で生活したというわけでは必ずしもない。しかし、できるだけ最低賃金生活者の世界に身を置き、体験をしてみようとのジャーナリスト魂が伝わってくる。日本のジャーナリストには戦後トヨタ自動車の季節工としての体験を記した鎌田慧『自動車絶望工場』講談社文庫、1983年など、類似の努力がないわけではないが、数は少ない。
  ちなみに、本書の原書は出版された当時2003年に読んだことがあったが、画像に対比して示したような簡素な装丁の出版物であり、日本語版の方がページ数もかなり多く、装丁も立派である。ちなみに、私がイギリスで購入した価格は、本体価格6ポンド99であった。今回の日本語版は1800円である。

同様な試み
  彼女ポリー・トインビーは、30年ほど前に肉体労働の世界について同様な体験を試みており、『労働者の暮らし』A Working Lifeを刊行している。こうした試みはイギリスばかりでなく、他の国々でも行われている。実は、アメリカではトインビーに先駆けて、ジャーナリストのバーバラ・エーレンライチがほぼ同様な実体験ルポルタージュを『ニッケル・アンド・ダイム』(*)として刊行している。ポリー・トインビーはこの英国版の序文を書いている。このエーレンランチの本は、かなり影響力を持ち、イギリスでもポリートインビー以外にも、同様な試みをジャーナリストにうながした(**)。

最低賃金の世界とは
  ポリーは、最初、病院の運搬係に始まり、給食のおばさん(dinner lady)、託児所、コールセンターの飛び込み電話セールス、早朝清掃係、ケーキ製造係、老人ホーム介護などいくつかの最低賃金職種を経験し、その実態を描き出している。たとえば、最初の病院での仕事は、30年前と比較して設備などの環境は改善されているが、給料と労働条件は悪化していることを示している。
  以前は雇用されれば、病院スタッフとして最初から安定した職に就けたのに、今では多くの仕事が「柔軟性」の名の下に「外部発注」outsourcing されている。使用者からみるかぎりでは、人件費の大きな削減となる。しかし、病院活動を支える下層部分の労働環境はかなり顕著に劣化しているようだ。 医者や病院スタッフからも、しばしば低くみられている。

驚くべき報酬格差
  この病院でのポーターの仕事と、彼女が本職のジャーナリストとして、ケネスクラークとBBCで30分対話をした報酬格差が、記されているが、チェルシー・アンド・ウエストミンスター病院で2週間、80時間の仕事をした時の手取りと、この30分の報酬とほぼ同じで、実に格差は160倍とのことである。イギリス社会における報酬格差が大きいことはよく知られているが、本書に出てくる比較的大きな介護ホーム会社の重役の給料は、年に16万2000ポンド(3240万円)に加えて、自社株38万7100株の配当が8万5162ポンド(1703万2400円)、年収は24万7162ポンド(4943万2400円)だが、これでも一般的な重役の収入としては下位ランクという。
  本書を読むと、イギリスの労働市場で、実際に求職活動を行い、仕事にありつけるためには、いかなる手続きを踏み、どんな努力をしなければならないかが具体的に迫力をもって伝わってくる。単に集計された統計を見ているかぎりでは分からない迫真力をもって、低賃金労働者の世界が描き出されている。

1970年代:英国民が最も平等であった時代
   70年代以降の労働党政策に代表される社会変革、「中流化」は、それまでの世代には想像できなかった中流大衆を出現させた。国民の持ち家比率は大きく増加し、大学に行けるなど思いもしなかった人たちの孫が、大学にあふれている。こうした積極的に評価すべき進歩の裏側で、その流れから取り残された3分の1の人々がいる。
  それが、本書が描き出した側面である。 1970年代は平等化の時代であった。イギリス国民にとって、平等化という視点からみると、1970年代は、それがある程度実現していた。その後、社会は大きく変わり、労働者階級は細分化し、政治離れが進み、大半は中流へと上昇した。仕事の世界は多様化し、ブレア首相がいうように「社会などというものは存在しない」という事態が生まれた。しかし、その流れについて行けなかった人々もいた。
  筆者ポリー・トインビーが記すように、労働組合は、ほとんど影響力を発揮できず、いまや市場に影響を与えられるのは政府だけという状況になっている。政府の責任はかつてなく重い。

「運」ではなく社会的救済を
  ポリーは本書の最後に「境界線の向こうの暮らしを知ることができたのは嬉しかったが、運良くこちら側に生まれた嬉しさはそれ以上だった」と記している***。しかし、この結論は私には大変哀しいものに思える。「運良く」こちら側に生まれる以外に、人間らしい生活を送れる道はないのか。「運がよけりゃ」With ALittle Bit of Luckでは、まさに「マイフェア・レディ」の世界になってしまう。政府や関係者の責任は、まさに社会的救済の制度を整備・充実し、競争から落ちこぼれてしまう人々に救いの手をさしのべることにあるのではないか。
  さらに、本書邦訳の帯には、「明日の日本の悲劇が、ここに描かれている」と記されている。しかし、明日どころかすでにはるか以前から、日本は「危険水域」に入っているというのが、私の実感である。


本書の構成
目次
第1章 事のはじまり
第2章 ホーム
第3章 職探し
第4章 買い物
第5章 初仕事 運搬係
第6章 職探し その2
第7章 給食のおばさん  いつも笑顔を絶やさずに
第8章 託児所
第9章 クラパムパーク団地のお隣さんたち
第10章  飛び込み電話セールス
第11章  早朝清掃
第12章  ケーキ製造所
第13章  老人ホーム
第14章  これしか道はないのか
第15章  あのころと、いま

* Nickel and Dimed: On (Not) Getting By in America, 2002
** Fran Abrams. Below the Breadline: Living on the Minimum Wage, London: Profile Books, 2002

***まさに蛇足ですが、原著のこの部分(下線は私)は次のような表現になっています。

I am glad I know more than I did about life on the other side, but gladder still, more than I can say, that I was born on the lucky side of life. I look at Clapham, my own home-territory, with other eyes now, seeing its underside everywhere, knowing more now of what lies behind a thin veneer (p.240).



Notes: 日本の最低賃金制度について
  本書を改めて読みながら、日本の最低賃金制度の問題点を改めて考えさせられた。現行制度は重大な欠陥があり、抜本的な改革が必要と思われる。新政権は、問題を十分認識し、適切な手段を講じる必要があろう。イギリス労働党にかぎらず、最低賃金制度は現代社会において、きわめて重要なセフティ・ネットなのである。今日の日本では、あまりに存在感がない。いうまでもなく、そこには多くの欠陥がある。
  ここではとりわけ、次の点だけを指摘しておこう。
1 制度が複雑化しすぎて透明度が低い。
  日本では都道府県別に最低賃金が設定されており、その決定の仕組みは専門家でも分かりにくいほど、複雑化している。たとえば、現実の労働市場は都道府県別に区分されているわけではない。しかし、実際には地域別最低賃金の名で、都道府県ごとに異なった賃率が設定されている。そこにいたる過程には多大な行政コストの浪費もある。こうした複雑な仕組みは当然ながら透明度がない。致命的なことは、制度自体への信頼がなくなることである。私自身が関わった調査でも、自分の地域の最低賃率を正しく答えられなかった使用者が圧倒的に多かった。イギリスやアメリカでは、制度に問題がないわけではないが、基本的に全国一律であり、その浸透力、透明度ははるかに高い。
  さらに、制度が複雑であることは、政策の効果測定が大変困難であり、これは致命的な欠陥である。戦後しばらくは、最低賃金制度のあり方は社会政策上の大きな焦点であった。しかし、制度の複雑化とともに、労使を含めて国民の関心度は急速に低下してしまった。制度としては、ほとんど「死に体」といってよい状況である。
  政策として積極的な影響力があるのか、あるいはただ現状を追認しているだけにすぎないのか、正しく確認することもできない。政策意図が不鮮明なため、その結果は、制度自体の存在感を薄れさせているといってよい。

2 水準の問題
  国際比較の面からみると、OECD諸国の中でもきわめて低い水準である(OECD. Employment Outlook, 2002)。購買力平価でみると、97年でスペインに次いで下位から2番目、オーストラリアの半分程度である。ボーナスを含む所得(メディアン)では最下位、フランスの半分程度である。
  日本でポリー・トインビーと同じような勇気あるジャーナリストが現れるとすれば、いかなる状況が描かれるだろうか。

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医療の「頭脳流出」は防げるか

2005年08月15日 | 移民政策を追って
シンガポール・ラッフルズ病院

人材流出の悲惨
  アフリカや東欧諸国、フィリピンなど開発途上国の一部では、医師、看護師、技術者など高い熟練・専門性を持った人材の海外流出が深刻な問題となっている。個人や国家が高額な教育投資をし、時間をかけて育成した人材が、報酬や労働条件が良い先進国へ逃げてしまうのだ。本来ならば、母国の発展のために最も貢献してほしい人材から海外へ流出してしまう。そして一度流出すると帰国しない人が多い。高い報酬が得られるところを目指し、できるかぎりそこに留まろうとするのは、個人の行動としては当然ともいえる。
  他方、受け入れる先進国側は、自国で教育に時間とコストをかけないで、良質の人材を得てしまう。これでは先進国・開発途上国間の格差は拡大するばかりである。この「頭脳流出」brain drain と呼ばれる現象については、短期的には有効な解決策がない。移民が母国に貢献してくれるまでになるには、時間やさまざまな環境が整備されねばならない。多くの場合、この間に人材流出は非可逆的に進行し、母国の医療・看護などの水準はむしろ劣化してしまい、対応はますます困難になる。

  アフリカの実態からいくつかの例を見てみよう。いま始まったことではないが、南アフリカ共和国(人口約4500万人)からの人材流出は、1994年に同国が民主制へ移行し、国際的孤立から解放された後、加速度的に増加した。89-92年の間に7万人の南アフリカ人が国を離れたと推測される。98-2001年には、この数は166千人に増加したとみられる。公式統計では、94-01年の間に16千人以上の高度な熟練・技能を持った人材が海外流出したことになっているが、実際にはこの3-4倍と推定されている。

海外へ「押し出される」人材
  問題は南アフリカ共和国にとどまらない。ジュネーブの国際移住機構IOM(International Organization for Migration)の推計では、世界の移民数は2000年に1億75百万人に達した。この数以上に、その背後に起きている実態に注目したい。アフリカ大陸は、世界で最も国境を越える移動者が多い。その多くは、国内の紛争や貧困によって国境の外へ「押し出された」人たちだ。
  南アフリカ共和国では医師、看護師の流出がすさまじい。British Medical Journalは毎年23千人が海外へ流出していると報じている。IOMによると、シカゴにいるエチオピア人医師は、本国の医師の数より多いという。アフリカ諸国の国立病院や診療所ではスタッフ不足が悪化の度を加えている。大都市でも医療スタッフの3分の2くらいが空席のままというのは珍しくない。
  国際性のある熟練を持っている者は賃金の高い、キャリアの見通しのよい、労働条件、ライフスタイルが好ましいと思う国へ移動してしまうのだ。

外国にいても援助はできるが
  もちろん、外国に居住していても、自国の支援ができないわけではない。外国に住むアフリカ出身のプロフェッショナルなどが母国の家族へ送金している。その額は公式には2002年で40億ドルだが、実際は一時帰国の際に自分で持ち込んだり、インフォーマルな経路で家族へ渡されているので、この額をかなり上回る。
  レソトのような小国では、海外からの送金はGDPの26%にも達している。しかし、その使途が個人の消費などに限られ、生産的な目的に使われないので、なかなか経済発展に結びつかない。南アフリカ共和国のように、周辺アフリカ諸国から大学生などの人材をある程度期待できる国はまだ良い。多くのアフリカ諸国は流出した、優れた人材が帰国してくるほどの魅力を持っていない。移民に支えられ、経済的自立を図る道はきわめて厳しい。

アジアと日本
  アフリカと比較すると、アジア諸国は自立的発展の基盤を維持している国が多いので救いがある。しかし、問題は日本のような国である。人口が急減する日本は、高度な能力を持った人材を計画的かつ積極的に受け入れないと、国の活力や民度も顕著に低下する恐れがある。日本の医療スタッフの不足は、今後一段と厳しくなろう。すでに、関東北部の諸県のように、医療スタッフの確保ができない病院が続出し、深刻な状況が生まれている。

  日本とフィリピンのFTA交渉では、フィリピン側から看護師の受け入れ要求が出された。日本政府は渋々受け入れたが、伝えられるところでは、年間100人くらいという度量のなさである。 日本が受け入れ数を制限する理由は、フィリピンの医師・看護師が海外へ流出している事態を憂慮してのことではない。まったくの偏狭な理由から受け入れを制限しているにすぎない。そこには、国際的視点が決定的に欠如している。政府の入管政策や日本経団連などの提案でも、「国際化」という表現は使われてはいるが、言葉の上だけであり、真の国際化の理解に達していない。

真の国際協力の方向は
  もし、開発途上国と先進国との間で、真に国際的観点から望ましい人材活用を図るのであれば、最終的には一定期間の後に海外出稼ぎが自然に休止し、母国のために貢献しうるような仕組みが構想、設定されねばならない。本来、自国の発展に資するべき人材から流出してしまうという事態は抑止されねばならない。医療・介護分野についてみれば、日本は一定数の看護師受け入れを続ける一方で、別の観点からより積極的な対応をする必要がある。   

  ひとつの案として、日本とフィリピンが協力して、フィリピン国内に「国際医療協力センター」(仮称)を設置し、日本から医療スタッフ、医療設備などを供与するプランなどが考えられる。そして、現地の人材養成を図りつつ、医療の水準向上に協力することである。医療サービスの内容に加えて、スタッフの労働条件など待遇面も高い水準を維持すれば、高度な人材を誘引し、海外流出を抑止できるばかりでなく、自国の医療水準の劣化を防ぐことができる。

  少し長期の視点でみれば、日本からこうした施設へ診療を受けに行く可能性も生まれる。現に、ある会議に参加したことがきっかけだが、最近タイやシンガポールの病院から、「国際水準の最新診断・治療設備とサービス」を提供できますという手紙が舞い込むようになった。これらの病院はCTスキャナー、MRI、ガンマーナイフなど最新設備を誇るだけではない。その医療水準の高さ、看護サービスの充実度で勝負しようとしているようだ。8月12日に「ITと医療」について書いたが、医療のグローバル化が急速に進展していることを感じさせる。「国際化」の意味を再考すべき時が来ている。



Reference
African migration: Home, sweet home – for some, The Economist August 13th 2005
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖国を奪われた人々

2005年08月13日 | 移民政策を追って

移民船として活躍した「ぶえのすあいれす丸」

中南米日系人強制連行の記録を見て

   旅行先などで、ふと見たTVや新聞で思いがけないことを知らされることがある。ふだんは、あまり集中して見ていないためかもしれない。8月12日のBS1ドキュメンタリー「祖国を奪われた人々:中南米日系人強制連行の記録」もそのひとつであった。

  戦後、しばらく私の机の上には世界一周客船として南米移民にも活躍した「ぶえのすあいれす丸」(大阪商船)*の小さなガラス製の文鎮が置かれていた。竣工式の時に記念として関係者などに贈られたものであろう。叔父が私にくれたものを大事にしていたのだが、引っ越しなどの時にどこかへ紛れ込んでしまった。しかし、中南米移民の歴史についての関心はいつの間にか、私の頭のどこかに刻まれて途絶えてはいなかった。労働分野の研究を続けてきた過程で、こうした中南米日系移民に関する資料も人並み以上に読んだつもりであった。それでも、このドキュメンタリーが見事に整理し、映像化した事実の詳細は不明を恥じるが知らなかった。

ペルーから強制移動させられた日系人
  第二次大戦勃発後、アメリカにおける日系人強制収容の歴史はかなり読んだ。その中には、ペルーなど中南米13カ国から2262人もの日系人がいた。彼らが西半球に対する脅威となるとのアメリカの無法な政治的意図によって、アメリカに強制的に移動させられた人々である。当時の映像をみるかぎり、まさに拉致といってよい状況である。日系人以外にも中南米に住んでいたドイツ系、イタリア系移民が連行されている。

  この背景では1942年当時のアメリカ、ルーズヴェルト大統領とペルーのプラド大統領の間で密約が交わされていた。アメリカは偏見としかいいようのない反人道的動機から、そしてペルーとしては武力調達資金をアメリカから得たいがために、日系人を交渉材料としたのだ。この人道上の許し難い行為について、当時のアメリカ領事館員J.K.エマーソン氏は、深い反省の記録を残していた。

  映像はこうした日系人が強制収容されたクリスタル・シティ(テキサス州)などの現状を伝えていた。記憶は時間と共に風化して行く。強制収容所の実態を研究しているアメリカ人研究者が述べたように、こうした歴史を記録し、保存することで、当時の関係者が生きていれば、それを見ることで、「(収容所の)壁自体が話し出すのだ」。

ゴアで交換された人々
   さらに驚くべき事実は、大戦中に日本軍に捕虜となったアメリカ人と交換されるために、はるばるインドのゴアまで連れてこられた日系人もいた。当時のアメリカ、ハル国務長官の発案であったようだ。そして、日本への帰途、スペイン語の能力を生かした方がよいとの日本軍の指示で、フィリピンのマニラで下船させられた人々もいた。残った人々をのせた船は1943年11月14日、横浜港に入港した。しかし、当時の日本人はこの人々にも冷たかったようだ。
  
   ペルーなどからアメリカに強制連行された日系人に、大戦後もアメリカは長らく「不法入国」という勝手な理由で市民権を与えなかった。1000人以上は日本へ送還されたが、帰国を望まず、アメリカにとどまった人々もいた。ペルーへ戻れたのは、ペルー人の配偶者などがいたわずか78人だった。

遅すぎた救済 
  1981年、ようやく日系アメリカ人調査委員会が設置され、戦時下の日系人に関する実態調査と補償の動きが始まった。 戦争や国家の政治対立は、人間を盲目にしてしまう。北朝鮮拉致事件も本質的に同じである。中南米日系人強制連行というこの暗い過去を、再び繰り返すことのないよう祈らずにはいられない(2005年8月11日記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医学にITはなじまないのか

2005年08月12日 | グローバル化の断面

  旅先でなんとなくABC TVを見ていて、40年近くキャスターをしていたピーター・ジェニングス氏が、8月9日肺がんで亡くなったことを知った。発見が遅れたそうで、見つかった時は余命4ヶ月だったとのこと。発見が早ければ、打つ手はあったとの医師見解が述べられた。こうした有名人でも、健康への対応がなかったのかと不思議に思う。以前に読んだITと医療の進歩に関する記事(*)を思い出した。

  今日の世界で、IT(情報関連技術)は、われわれの想像をはるかに超える速度と広がりをもって展開してきた。しかし、世界にはITへの取組の必要性が強く望まれながら、顕著に立ち後れている分野がある。そのひとつは、意外にも医療分野である。たとえば、アメリカでは医療産業は全収入の2%しかITに費やしていないという。他の情報共有に敏感な産業では、この数値は10%近い。ちなみに比率が高いのは金融、公共サービス、運輸通信、政府、製造業などである。教育や医療サービスがIT化に熱心でないのは、伝統的な「対面型 」face-to-face の接触を重視しているからだろうか。

X線画像をインドへ送る
  アメリカの経済諮問委員会委員長であったマンキュー教授(ハーヴァード大学)が、ITの発展とアメリカの医療コストの高さを組み合わせ、X線画像をITでインドのX線技師に送り、読影結果を送り戻してもらうことにすれば、大幅にコスト削減になると述べた。しかし、委員会の議員たちの反応はきわめて否定的であった。反対の理由は必ずしも整理されていないが、海外への関連する仕事の流出 Offshoring になると直感的に反発した対応が多かったといわれる。コストの高いアメリカの医療関係の仕事が海外へ移転してしまうというおなじみの議論ではある。しかし、それとは別の理由でも、世界の医療分野には重要な問題点が指摘されている。

難病に苦しむ人々を救うために
  それは、世界における医療水準の改善・向上を目指すためにITを活用することである。とりわけ、難病といわれる病気については、必要な情報が十分に行き渡っていない。そのためには、基本的方向として、世界に存在するさまざまな病気に関する情報と最新の対応を医療関係者が共有することである。それについては、すべての情報をながらく慣れ親しんできた紙に記載するというタイプのカルテから、電子データに移すことである。
  そして最も大事なことは、世界の医療関係者をITで相互にリンクさせ、医師が自分の診察している患者の病気について知りたい情報をいつ、どこでも検索できることが必要になる。それも、単にコンピュータを使うだけでなく、医師、病院、研究所、薬局、製薬関係者、被保険者の単位をシステムとしてリンクすることである。それは、ITのやや特殊な用語を使うと、医療の世界の基本単位を「相互に活用可能」interoperableとすることである。治療のあり方などについて、関係者が診断状況などの情報を交換できねばならない。

国ごとの大きな差異
  医療のIT化は、とりわけインターネットの発展を考えると、当然実現されるべき方向のようだが、現実は到達が大変実現、困難である。実態は、国ごとにも大きな差異がある。たとえば、イギリスではGP(general practitioners) の98%は、オフィスにコンピュータは持っているが、実際にカルテなどが電子化され、ペーパーレスなのは30%という。アメリカでは小さな開業医は、95%が依然としてペンと紙に頼っているとされる。日本ではかなり電子化がされているようだが、この点についての統計は未だ見たことがない。自分の周辺で、かかりつけの病院を考えてみた。かなり大きな病院だが、相変わらず紙のカルテをベースに診断している。IT時代における医療分野の最大の問題は、現在のITシステムでは「相互に活用可能」interoperableではないということにある。

医療における「デジタル・ディヴァイド」
  グローバルにみても、ITの恩恵にあずかっている部分と取り残されている部分の差異はきわめて大きく、格差は大きく広がっている。それに対して、医学の進歩は急速であり、先端分野は大きく変化している。ところが、病院などの医療関係者は、CAT-scan, MRI、ガンマーナイフなどの設備投資にはとびつくが、情報システム充実など「裏方の仕事」には関心が薄く、投資をしない。
  正しい医療知識が行き渡っていれば、薬剤の副作用、相互作用など、本来ならば予防可能なミスのために、アメリカだけで毎年44000―98000人が死亡しているとまでいわれる。医療情報の混乱による死亡者は、車の事故、肺がん、AIDsの死亡者を上回るとまでいわれている。

ITに関わる医療ミス
  もっとも、カルテの電子化などコンピュータ・システムの改良だけでは医療ミスを解消することはできない。しかし、大幅に減少しうる可能性があると予測されているアメリカだけでもITは、年間薬の副作用200万件、入院治療のミスなど19万件を除去できるとの推定もある。しかし、他方では、システムのデザインが悪いとミスを増加させるとする見方もある。(the Journal of the American Medical Association March 2005)ただ、だれもが良く設計されたITはヘルス・ケアの質を向上させるに必須という点で関係者は同意している。イギリス(とりわけイングランド)のNHS(国民医療サービス)やデンマークのシステムは、この方向で先駆的に進歩している国といわれる(私の乏しい経験では、にわかに賛同しがたいのだが)

アメリカは例外的な国
  さまざまな分野で世界の先端を目指してきたアメリカでは、この方向に沿って、医療情報技術の国家コーディネーターを任命し、10年間で「相互に活用可能」interoperableなシステムを目指すことにしてきた。しかし、アメリカのシステムは特別の複雑さを持っている。日本、ヨーロッパなど主要な国々は政府管掌などシステムが一貫化されているが、アメリカの場合はそれがなく、資金的にもインセンティブが分散している。個人的な経験だが、アメリカ滞在中に歯が痛くなり、結局抜歯することになったが、医師によって10倍くらいの差があるのでどうするかといわれ、驚いたことがある。

日本はどうするか
   国民の健康維持のためにプライヴァシー保護法上の差異も大きい。日本も郵政改革は必要なことは明らかだが、改革すべき重要分野は他にも多数残されている。少子高齢化に対して、健康・医療サービスの質はこのままでは低下を免れない。バブル崩壊後、すっかり未来への構想や展望を失ってしまった日本だが、選挙後、新政権によって、こうした分野でも新たな展望が開かれることを強く望みたい。

Reference “IT in the health-care industry” The Economist, April 30th, 2005/08/06

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「山の郵便配達」再訪

2005年08月11日 | 仕事の情景

ケータイ文化が得たもの・失ったもの  

  急な仕事で北海道まで出かける。機内誌「翼の王国」(8月号)の頁を繰ると、どこかで見たような写真が掲載されていた。「中国電影旅行」Traveling China with 10 Movies と題して、10の中国映画作品ゆかりの地を尋ねるという構成である。その最初が「山の郵便配達を捜して」というテーマであの懐かしい映画の故郷へ行くという話である。このサイトでも2月21日「働くことの重み」で話題にしている。原題「那山、那人、那狗」(「あの山、あの人、あの犬」の意、1999年、監督は霍建起 フォ・ジェンチィ)。

  郵便配達の仕事を描いているが、日本の郵政改革とは、まったく次元を異にした話である。日本の郵政改革は国民不在のままに、与野党の泥仕合の様相を呈して、今回の結末となった。いったい誰が責任を負うのか。腹立たしいかぎりである。

  それに反して、この映画はストーリーこそ単純だが、仕事の尊さ、厳しさを教える感動的な映画であった。環境が違うということを別にしても、日本ではもう制作できないような精神性の高い作品である。

  さて、雑誌の特集では、取材班は撮影のロケ現場を求めて、中国の奥地へと向かう。この映画のロケ地は湖南省綏寧であった。北京から桂林へ飛び、そこから車で綏寧まで入ったとのこと。苗(ミャオ)族が住む地域であるらしい。映画でも説明はなかったが、少数民族の村々であることは伝わってきた。そこには、今でも郵政代行所という小さな郵便局があり、1969年から36年勤続する于合松(ユィホォソン)という映画の俳優とは違うが、それを思わせるような54歳の郵便配達人が今でも村々をまわっていた。毎日30キロは山中を歩いているそうである。 映画では、主人公の父親と息子、そして犬が大活躍だったが、この地域では犬が大切にされてきたらしい。主人そしてその仕事の責任の重さを十分知って、縦横に働く犬の忠誠さが目に浮かぶ。

   ケータイの時代の到来は、通信の世界を大きく変えてしまった。利便性は改善されたかもしれないが、失ったものも計り知れない。人間の心の深層にまで影響している。電車に乗ったとたんに反射的にケータイを取り出し、画面に見入る大人・子供。ケータイをなくしたと全財産を失ったようにパニック状態になる人。これはもう病気であるとしか思えない。ちなみに私は、ケータイは持ってはいるが、使用するのは月に数回。画面はモノクロのままである。まわりをみても、誰も使っていない旧型モデルである。それで不便を感じたことはほとんどない。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(34)

2005年08月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

画家の修業時代を探る(III)
 
構想は直接カンヴァスへ
  ラ・トゥールは当時の画家の多くがそうであったように、直接カンヴァスの上で構想を描いていたようだ。これも、これまで行われてきた科学的機器を活用した調査で、ほぼ確認されている。X線などの科学的機器を活用しての検査を通して、下書き、修正、後世における加筆なども、明らかになる。ラ・トゥールは一度カンヴァスに向かうと、カラヴァッジョなどとは異なり、制作中の画面に大きな変更は加えないタイプの画家である。
  他方、カラヴァッジョは、制作中にもかなり大きな変更を行った跡が残されている。作品に修正の跡がない場合、ひとつの解釈上の可能性は制作前に十分に構想が煮詰められていたことが考えられる。また、同じような作品をすでに描いたことがある可能性も想定しうる。原作があって、それからの模写という可能性もある。ラ・トゥールの作品に描かれたイメージは当時、多くの人々が求めるものであった。

数少ない修正
    ラ・トゥールの作品で、修正の跡を発見出来るのは比較的少ない。たとえば、「大工の聖ヨゼフ」のイエス像はx線調査によると、顔の部分に修正の跡があり、最初の構想では、現存の作品よりも大人びた顔であったようだ。修正は当時ヨーロッパで広く使われていた鉛白など白色顔料によることが多い。

  また、「いかさま師」のキンベル美術館版はルーヴル美術館版より前に描かれた可能性が高いことも分かっている。これは、前者にはいくつかの点で修正がなされた跡が残っているためである。とりわけ、画面でワインを注ぐ召使いの女の顔にも、画家は苦労したようだ。非常にあやしげな目つきである。
    ナンシーの「聖アレクシスの遺体の発見」についても、作品下部の充填した跡は作品の下部が切断されたのではないことを示すものと考えられるようになった。構想当初から人物が膝までの姿で描かれていたのではないかという推定になる。ダブリンの作品は全身像だが、一時推定されていたような原作が存在し、それから模写されたものではなく、同じシリーズのサイズの異なる2枚の作品であることを示す可能性が高まった。
  こうした調査を通して、作品の作成年代順も次第に明らかにされてきた。この場合、「改悛する聖ペテロ」Saint peter Repentantのように、この画家に珍しく作成年譜が書き込まれていれば、いわば基準年次benchmarkの役を果たすことになる。

時代で変わった地塗り
  ラ・トゥールの活躍した時代には、カンヴァスでの地塗りの仕方が変わった。16-17世紀初頭のロワール以外の地方(すなわちパリ、フランドル、ロレーヌはここに入る)では、白亜を主成分とした白い地塗りがカンヴァスに施されていた。しかし、その後、イタリアからの影響で、多少なりとも濃い色のついた地塗りの方法が次第にヨーロッパ全域に広がっていく。これは新しい美の概念に伴った変化で、陰影自体がしっかりと配置されるようになる。 ラ・トゥールの若い頃の作品は、明るい色合いの地塗りの上に描かれている。地塗りに使われた素材の主成分は白亜であった。

年代指標となる地塗り
  詳細な調査・分析が行われたアルビの12使徒の研究では、複数の層の地塗りが行われていることが見出されている。また、いわゆる「昼の情景」シリーズと「夜の情景」シリーズでは地塗りの層が異なることも判明している。たとえば、「荒野の洗礼者聖ヨハネ」はラ・トゥール晩年の作品とみられ、後者に属するが、大部分は色のついた地塗りが特徴であり、褐色の土性顔料を主成分(少量の鉄化合物とごく少量のドロマイトを含む)としている。このように、地塗りは作品の年代確定に大きな意味を持っている。

  ラ・トゥールについては、ほとんどすべての作品について、顔料などの一部を採取しての成分研究も行われており、この謎に包まれた画家についての研究は大きく進歩した。 真贋論争もさまざまな副産物や成果を生んだ。

  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも息子のエティエンヌも、徒弟を採用する際の徒弟契約書には「同じ原則と方針」を伝授することが示されており、一貫した方針に基づいて徒弟の修業が行われていたことがうかがわれる。画家という社会的に確立された当時の職業の技能伝達のあり方がこうした点からもうかがわれ、興味深い。

Reference
Melanie Gifford, Claire Barry, Barbara Berrie, and Michael Palmer, Some observations on GLT’s Painting Practice, National Gallery of Art and the Kimbell Art Museum

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(33)

2005年08月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

画家の修業時代を探る (II)

パワーを与えるラピスラズリ
    仕事の帰路、東京駅近くの丸善「オアゾ」に立ち寄ったところ、片隅で「パワーストーン」展をやっていた。ある種の石にはそれを所有する人に、さまざまな
パワーを与えるものが含まれていると考えられているらしい。観ている人は女性が圧倒的に多い。小規模ながら鉱石の原石も展示されていたので覗いてみる。
  ラピスラズリはかなりの人気の対象であった。しかし、高価とみられる濃紺に近い石はさすがに少ない。前回に記したように、「イレーヌに看護される聖セバスティアヌス」のルーブル版(*)は、後列の侍女の髪を覆うショールにラピスラズリを原料としたウルトラマリンブルーが使われている。作品が完成した時はさぞかし美しかったに違いない。その後、劣化が進んだことは拡大してみると明らかだが、それでもさしたる褪色を見せず、美しさを今日まで保っている。他方、ベルリン版は黒色が使われており、対比してみると、やはり青色の美しさは際だっている(ベルリン版は別の魅力があることはすでに記した通りである)。
高松古墳の美人図にも、アフガニスタン産(**)とみられるラピスラズリが使われているらしい。パワーが与えられるか否かは別として、良質な石はそれ自体美しく魅力がある。

貴石としての存在
   ラピスラズリ lapis lazuli は瑠璃ともいわれ、天然ウルトラマリンブルーの原料鉱石である。鉱石としては天藍石・方解石・黄鉄鉱の混合物として、アフガニスタン、チベット、中国などで産出する。「オアゾ」で展示・販売されていた石は、チリ産と表示されているものが多かった。中世ヨーロッパにおいて半貴石として珍重されたものの多くは、現在のアフガニスタン東北部で産出したものが持ち込まれたらしい。同様な青色の顔料としては、アズライトという別の鉱石もある。中国などで使われたものは、こちらが多いらしい。

顔料としての製法
  中世以来、ヨーロッパにおける顔料としての製法は、基本的には蝋、松ヤニ、亜麻仁油、マスチックガムなどを混ぜてペースト状にしたものに、粉状の原石を混ぜ、弱いアク汁の中につけて揉み出すという手順で作られた。最初に出てくる方が美しく、高価とされてきた。こうした製法から推察できるように、その後19世紀初めには人の手で作られるようになった人工ウルトラマリンとは顕微鏡下で容易に判別ができる。天然のラピスラズリは粒子が粗く、しばしば破片状で角張っている。ラ・トゥールの工房の作品ではないかと推定されるルーブル版で、該当部分の拡大図を見ると肉眼でも顔料の粒子が粗いのが分かる。しかし、それが光線を反射して美しい青色として目に映るのだろう。中世には天然ウルトラマリンはきわめて高価であり、上流階級などが作品を依頼する時には、わざわざ契約書にその使用を記録したものもあるらしい。ルーブル版の作品来歴は必ずしも十分解明されていないが、明らかに身分の高い人が最初の所有者であったのだろう。画家はそれを意図して、高価なラピスラズリを使ったものとみられる。いずれにせよ、「イレーヌに看護される聖セバスティアヌス」は、現代人にとって原石以上に大きな心の癒しを与えることは疑いない(2005年8月5日記)。



*「ラ・トゥール」を追いかけて(18)に記したように、ルーブル、ベルリン版ともに、現在はラ・トゥールの真作ではなく、ラ・トゥールの工房での作品あるいは模作という評価になっている。田中英道『ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品世界』(1972年)の頃は、真作とされていた。

**たまたま8月5日放映NHK「新シルクロード」第5回は、「天山南路ラピスラズリの輝き」でした。

Image

Courtesy of: www.mokichi.net/mineral/

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(32)

2005年08月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

羊飼いの礼拝(ルーヴル美術館)

画家の修業時代を探る(I)


青色系の少ない絵画
  これまでにラ・トゥールの真作とみなされている作品群を見ていると、さまざまなことに気がつく。そのひとつは、使われた色彩について、青色系が大変少ないことである。青色が使われている作品として思い浮かぶのは、「松明のある聖セバスティアヌス」の侍女の有名なヴェール、「槍を持つ聖トマス」の外衣くらいである。前者についてはベルリン美術館所蔵のものを併せて2点あるが、ルーヴル美術館所蔵の作品にはラピス・ラズリとして知られる高価な顔料が使われている。注文主や寄贈の相手が、社会的に高位な人物であったのだろう。
  青色系に代わって、全体に濃淡さまざまな褐色系の土性顔料が大量に使われている。この点、「青色の画家」として著名な17世紀オランダのフェルメールの作品などと比較すると、際だって大きな差異である。この褐色系の多い画面は、大変落ち着いた印象を観る者に与える。しかし、それだけでは作品の印象は大変暗くなる。

「ヴァーミリオンの世界」
  ラ・トゥールは蝋燭などの光源によって、その点を補っているが、それとともに目立つのが、濃淡さまざまなヴァーミリオン(朱色)である。「聖ヒエロニムス」「聖アンデレ」などの使徒像、「妻に嘲笑されるヨブ」「女占い師」「いかさま師」、「生誕」など、ヴァーミリオンが画面を引き立てている作品はきわめて多い。ラ・トゥール絵画は「ヴァーミリオンの世界」といってもよいほど、ともすれば暗くなりがちな画面を朱色が引き立てている。中国の辰砂などに比較して、オレンジ・黄色系がやや強いだろうか。「蚤をとる女」の椅子の色などは、光線の関係もあってか、ややオリエンタルな感じがする。
  真贋問題も関係して、ラ・トゥールの作品については、幸い異例なほど科学的な分析・検討が行われ、当時使われた下地、顔料、画法などについて、多くのことが明らかにされている。ラ・トゥールの活動した17世紀前半までは、フランスでは絵画は職人の作る製品、手仕事の作品として、親方の工房(アトリエ)で制作がなされることが前提となっていた。その多くは、パトロンや寄贈先などが想定された注文生産に近いものであった。

制作の手順
  制作に当たって油彩画の場合、通常は角や隅を釘で留めた横木のついた木製の画枠に鋲やひもでカンヴァス張ったものに描かれている。カンヴァスは当時の織布技術の水準もあって、90センチほどの幅のかなり狭い織機で織られた麻布や亜麻布が使われており、必要に応じて継ぎ合わせて張られている。その上に目止めを塗り、それから絵の具が定着するに必要な層を地塗りとして、整える。そして、その上にさまざまな色彩の顔料を使用して対象を描くことになる。こうした作業やそれに必要な知識は、容易には習得できない。

徒弟制度の重要性
  18世紀以降は画家の育成は主としてアカデミーへ移行し、技術的な知識の伝達は衰え、作品までのいくつかの工程は、画材商の手で行われることになった。しかし、ラ・トゥールの時代は、いまだ工房が知識、技能の伝達の中心を成していた。ラ・トゥールがどこかの親方の工房で、制作に必要な技能、ノウハウなどを習得したことはこの意味で間違いない。残念ながら、誰に師事したか特定できないことは、前回記した通りである。
  制作に必要な顔料ひとつとっても、原料の調達、配合、使用法など、かなりの部分は知識の伝達を通して、工房間で技術が共有されていたとはいえ、工房がそれぞれ継承・蓄積してきた秘伝やノウハウがあったことも間違いない。親方が徒弟を受け入れる場合には、当時の職業的水準として必要な基本的熟練を伝達することは、徒弟制度がある職業については、親方・徒弟間での当然の了解であった。ラ・トゥールが受け入れた徒弟ジャン・ニコラ・ディドロとの契約書などにも、その旨が記載されている。

科学技術を駆使した研究成果
  ラ・トゥールの作品については、フランス博物館科学研究・修復センターや作品を所蔵する大美術館などが、熱心に科学的研究対象としてきた。Stereomicroscope, x-radiography, infrared reflectography, neutron autoradiography などの先端分析技術が使用され、今日ではほとんどすべての作品について顔料などの分析も行われている。たとえば、X線写真を撮ると、下地塗りに含まれる鉛白のような物質には吸収されるため、明るく写るが、土性顔料やグレーズなどは通過するため、あたかも人体のX線画像のように、多くの情報が得られる。地塗りは全体的な色合いに影響するが、白亜やさまざまな色の土性顔料が地塗りに使われ、いくらかの他の顔料、しばしば赤も含まれていたことが分かっている。筆洗に残っていた顔料が混入したものかもしれないと推定もされている。
  こうした顔料などは、大都市などでは薬種商などが画材向けに販売していたようだ。まったくの想像の世界だが、トレイシー・シュヴァリエの小説『真珠の耳飾りの少女』の中にも、デルフトでフェルメールと思われる画家のモデルの少女が、主人の画家から薬種商に顔料や亜麻仁油などの買い物を頼まれて、いそいそと出かける場面がありますね。

ヴァーミリオンの調達
  ヴァーミリオン(Vermillion)は、朱(Cinnabar シナバル、辰砂)とも呼ばれている赤色の硫化水銀HgSである。天然にも鉱石の辰砂として産出しており、それを破砕して、粉にしただけのものも有史以前から、顔料として使われてきた。また、水銀と硫黄を化合させて人工辰砂を作る技術も古くから知られてきた。15世紀頃から人工品が使われてきたらしい。すでにローマ時代に使用されていることが確認されているし、中国では印章の朱肉材料としても知られている。顔料としてヴァーミリオンは、耐久性の高いものであり、ラ・トゥールの作品でも、あまり褪色せずに原作の美しさを今日に伝えている。
  しかし、実際にヴァーミリオンを工房で作ることは原材料を粉にする作業からして、かなり大変なことであったらしい。中国から伝来した技術によって、オランダなどで製造された方法は乾式といわれる方法であった。17世紀には湿式という製法も考案されている。乾式法では鉄鍋の中に溶かしておいた硫黄に、水銀を加えて硫化水銀を作る。この結果の黒色の塊をさらに坩堝に入れて加熱、昇華させて、磁器か鉄筒に凝集させると、赤色の結晶体になる。 その後、遊離硫黄を除去するため、アルカリ処理し、水洗すると出来上がる。これに水を加えながら粉砕すると顔料となる。 
  製法としては、単純にみえるが、硫黄、水銀などの有毒物質を含むため、工程でもかなりの注意が必要なはずである。こうした知識なども徒弟制度の発展とともに伝承されてきたのだろう。徒弟の修業は多くの場合、教科書のようなものがあるわけではなく、OJT(On-the-Job Training)である。毎日の工房の仕事を通して、親方、兄弟子職人などから徒弟へと、多くの知識が伝達されてきた。徒弟の素質、能力などで、その後の職業生活が大きく規定されるのは、今日のOJTと通じるところでもある。


References
Melanie Gifford, Claire Barry, Barbara Berrie, and Michael Palmer, Some observations on GLT’s Painting Practice, Georges de La Tour and His World, National Gallery of Art and the Kimbell Art Museum , 1997

ザベト・マルタン「記憶の場としての絵画―ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品の科学的調査」『Georges de La Tour』国立西洋美術館展カタログ、読売新聞社、2005

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする