時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

危機の時代の不安と光:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『生誕』

2017年12月24日 | 特別トピックス


Geroges de La Tour(1593-1652)
Le nouveau-ne/The Newborn
Musee des Beau-Arts de Rennes, France
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
『生誕』

このブログでは、一つの柱として、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)という17世紀の画家の作品と生涯を追いかけてきました。今や17世紀フランスを代表する巨匠なのですが、日本ではレンブラント(1605-1669)やフェルメール(1632-1675)などの同時代ヨーロッパの画家と比較して、未だ知名度があまり高くありません。ブログの筆者としては、記してみたいことは未だ山ほどあるのですが、読者の方から要望もあり、この時期にふさわしい作品をテーマに、画家の生きた時代の輪郭を記してみることにしました。数年前にある雑誌の求めに応じて書いたエッセイに手を加えたものです。本ブログの関連記事をお読みいただく方にとって一つの手がかりなれば幸いです。 



一枚の絵から見えてくる世界
仕事場の壁にかかった「生誕」のポスターとは、もうかなり長い間、時間を共にしてきた。聖母マリアの手に抱かれ安らかに眠っている赤子の顔は、鼻の頭が光っていて、指で一寸で触ってみたいような衝動さえ起こさせる。母親の端正な面立ちとは違って丸い鼻のなんとも形容しがたい、可愛い寝顔である。聖アンナとみられる女性が掲げる蝋燭の光だけが映し出している静謐な光景である。

キリスト生誕という宗教テーマを扱いながらも、それを感じさせない静かさに満ちた静粛な空間がそこにある。日本人でもこの作品のイメージを見た人はかなりあるのではないだろうか。しかし、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの名を知る人は少ない。時代は遠く17世紀前半のヨーロッパへ飛ぶ。

戦火・悪疫・飢饉の時代に生きて
平和な暮らしを楽しんでいた町に、ある日突如として外国の軍隊が侵入してきて、砲撃、略奪、暴行、殺戮の限りを尽くす。牛や羊などの家畜にこれまでにない疫病が蔓延して、村人たちの貴重な財産が失われる。ペストなどの疾病が人々にも及び、多くの犠牲者が出る。異常気象がもたらした飢饉に苦しむ。農民などへの税金は増えるばかりで、苦難の日々が続く。災いの源を求めて、魔女狩り、異端審問が行われる。

こうした話を読んでいると、今日の中東、イスラエル、パレスチナなど、あるいは近未来のアジアのことかと錯覚しかねない。しかし、この話の舞台は17世紀前半、近代初期といわれたころのヨーロッパ、現在のフランスの東北部ロレーヌといわれる地域の現実である。当時、ここにロレーヌ公国という小さな国があった。ラ・トゥールという画家は、1653年この地に生まれ、画家としての活動の大部分をここで行った。

ロレーヌ公国は、フランスと神聖ローマ帝国という大国の間に挟まれ、大変難しい舵取りをしながらも、各国王家と結ぶ巧みな外交政策でその存在を維持していた。しかし、1930年代、策略を好む若い公爵が皇位を継承すると、フランス王ルイ13世へ叛旗を翻し、30年戦争と相まって一転、荒廃した戦乱の舞台となる。あの権謀術数にたけたフランスの宰相リシュリューの指揮する軍隊、そしてこの時とばかり侵入してくる神聖ローマ帝国側の外国軍などが入り乱れ、悲惨な戦場と化した。人々はいつ襲ってくるかもしれない災厄に不安を抱きながら、時には逃げ惑い、平穏な日々が少しでも続くことを神に願いつつ、先が見えない日々を過ごしていた。

作品との出会い
時代は3世紀半ほど下る。1972年、パリ、オランジェリー美術館でジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の現存する作品を集めた大規模な回顧特別展が開催された。謎の多いこの画家と作品について、初めてその全体像が示された。この画家の作品のいくつかは、これに先立つ1960年代末からニューヨークのメトロポリタン美術館などで見る機会があり、『鏡の前のマグダラのマリア』、『イレーネに介抱される聖セバスティアヌス』、『女占い師』、『クラブのエースを持ついかさま師』など、個n々の作品から強い印象を受けていた。この画家の並々ならぬ力量、とりわけ主題への深い思索が凝結したような画面に引き寄せられた。ラ・トゥールの手になる作品で、今に残るものは40点余りしかない。ほぼ同時代で寡作といわれるフェルメールと同じくらいだ。一枚の作品が見る人に与える精神的な思索の深さは、フェルメールをはるかに凌ぐと思うことがある。

その後、この画家への関心は一段と深まり、関連する特別展にはほとんど足を運んだ。そればかりでなく、在外研究などでヨーロッパ滞在中、画家の生まれ育ったロレーヌを幾度か訪れ、2007年には画家の生地ヴィック=シュル=セイユに完成した小さな美術館に出かけるまでになった。その間、2005年には日本でも国立西洋美術館での特別展が開催され、この画家の名を広めることに大きく貢献した。


美術史家でもないのになぜ、それほどまでに引かれるのか。自分でも必ずしも分からない部分もある。強いて言えば、謎の多い画家であり、その未だ知られざる部分に説明しがたい魅力を感じたからといえようか。さらにこの画家が起点になって、17世紀への関心も一段と深まった。

再発見された画家
今では17世紀フランス美術の巨匠として知られるラ・トゥールだが、1652 年の画家の死後、長い間忘れ去られていた。美術史家によって再発見されたのは20世紀初めになってからであった。ヴィック=シュル=セイユという小さな町のパン屋の次男として生まれ、修業、遍歴を経て、貴族の娘と結婚し、フランス王室付きの画家にまで栄達をとげた。当時は極めて名高い画家であった。しかし、画家の主たる活動の舞台がロレーヌという動乱の地であったこともあって、作品、記録の多くは散逸し、画家の生涯も概略を推定できるにすぎない。

作品への関心が深まると共に、この謎に包まれた画家の生涯や背景も少しずつ明らかになってきた。画家としての天賦の才に加えて、貴族の称号を付与され、領主に比せられるほどの大地主となった画家は、一部の農民などからはその強欲や横暴さを非難されていた。こうした人格と作品の間に横たわる断絶は深く、それがどの程度真実であったかについても、ほとんど深い闇に包まれている。

美術史家でもな者がこうした領域に立ち入ることで、思わぬ発見もある。例えば、ラ・トゥールとほぼ同時代人のフェルメールについての優れた研究者エール大学のジョン・モンティアスは、経済史家の観点から、作品だけを見ていては分からなかったフェルメール家の家計事情などを分析し、謎の多くを解き明かした。さらに、これらの画家を主題とする文学や映画化も試みられている。ラ・トゥールについても、最近では小説や詩集、さらにはマンガ(コミック)化までされている著名な画家になっている。

17世紀の世界を垣間見ることを通して、自分の専門とする経済学の領域でも、これまで知られなかった興味深い事実を発見することもあった。例えば、ラ・トゥールや銅版画で知られるジャック・カロなど、ロレーヌの芸術家たちの画業修業(熟練の獲得)、移動範囲、職業情報や文化情報の流通経路などが浮かび上がってきた。ラ・トゥールという謎の多い画家の生涯を辿ることで、17世紀という霧に包まれていた時代が、かなり見えてきた。「危機の世紀」とも呼ばれていた当時の世界を知ることは、混迷と不安に満ちた現代を理解する道しるべとなってくれるような気がする。実際、『生誕』、『大工ヨセフ』、『マグダラのマリア』などの作品は、静謐な闇の中、背景らしきものはなにも描かれていない。宗教画でありながら、キリスト教信者でない人々にも強く訴えるものがある。400年近い時空を超えて、ラ・トゥールの世界へ立ち戻り、そこから現代を見る時、それぞれの時代を生きた人々が抱えた問題があまりにも近似していることに驚かざるを得ない。


 

初出:『学際』2011年5月、No.2
今回ブログ掲載のために加筆してあります。

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色々物語(1):北斎の絵具

2017年12月15日 | 午後のティールーム

 

長野県小布施町雁田曹洞宗梅洞山岩松院
本堂大間天井絵「八方睨み鳳凰図」
本堂内の写真撮影は認められていないため、同院観光案内の複写。
画面クリックで拡大 



小布施という小さいが大変美しい町は「栗と北斎と花のまち」というキャッチフレーズで、珠玉のような見所が各所に散在している。いくつかの小さな美術館もあるが、この町でしばらく画業の時を過ごした北斎との関連で「北斎館」という小さいが、大変居心地がよく素晴らしい美術館がある。

町中には北斎が小布施に滞在している間に制作した作品が残されている。その一つが「岩松院」という寺(雁田山の自然に囲まれた寺院で、戦国の武将福島正則や葛飾北斎、俳人小林一茶ゆかりの古寺)の本堂天井に描かれた上掲の「鳳凰図」だ。鳳凰(ほうおう)とは、古来中国で、麒麟、亀、竜とともに四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥だ。

「形は前は騏驎、後は鹿、顎は蛇、尾は魚、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏に似、五色絢爛、声は五音にあたり、梧桐に宿り、竹実を食い、醴泉を飲むといわれ、聖徳の天子の兆として現れると伝えられる。雄は鳳、雌は凰と称される」(「広辞苑第6版」)。その通り、一見すると奇怪な印象を受けるが、画家はこの大きさに収めるために想像の力と長年の蓄積を駆使したのだろう。

葛飾北斎(1806-1883)最晩年の作品とされ、間口6.3m、奥行き6.5mの大きさで、通称21畳敷の天井絵である。制作は画面を12分割し、床に並べ彩色し、天井に取りつけたと伝えられている。鳳凰図は朱、鉛丹、石黄、岩緑青、べろ藍、藍などの顔料を膠水で溶いた絵具が使われている。周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね、金箔の砂子がまかれていて豪華な印象を創り出している。画面には絵皿の跡など制作時の痕跡が残っている。

大変興味深かった点のひとつは、デザインと共に、使用された絵具の色彩であった。北斎の作品で特に目立つ色は、筆者が見た限りでは、藍色、青色、赤(朱)ではないかと思う。とりわけ、『富嶽三十六景』に代表されるように、富士山と海がほとんど青色で描かれている作品もある。

『鳳凰図』は晩年の作品ということも反映してか、絵の具の顔料も多数に渡り、絢爛たる印象を与える。北斎は黒(墨)、赤、青、黄の顔料さえあれば、即座に必要な色を作り出したといわれる。

最近では美術館、鑑定家などが、作品の制作者、年代、下絵、修正などの鑑別にX線、画材の化学分析などの手段に頼ることも増加している。

例えば、ラ・トゥールのような17世紀画家の制作に関わる研究などを調べていると、使われた絵具の原料(顔料)が何であるかが、制作年代、制作手法などの推定に重要な意味を持つことが分かってくる。当時の画家の作品には主題も署名も記されていないものが多かった。今日では美術館、鑑定家などによってX線、化学分析などの手法が頻繁に使われるようになってしばしば新たな発見がある。

北斎の場合は、18-19世紀にかけて長年の画業生活を送ったため、制作時の環境、使用した絵具顔料もかなり多岐に渡り、詳細も明らかにされている。北斎晩年の頃には西洋画の画材なども輸入されていたようで、北斎という日本が生んだ世界的天才画家がいかなる嗜好を抱き、画材などの選択をしていたのか、考えてみると興味深いものがある。


 

岩松院山門(筆者撮影)

 

 水溶性で濃淡の出しやすい人口顔料「プルシャンブルー」の略とされる。この顔料が輸入される前は植物性の藍(インディゴ・ブルー)が使われていた。

2019年8月1日 BS3「偉人たちの健康診断選:天才絵師葛飾北斎の秘密」

 

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