時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

美術の秋に: ふたつのオランダ美術展

2007年09月28日 | 絵のある部屋

Flora
Rembrandt van Rijn
(Dutch, 1606-1669)
probably ca.1654, oil on canvas

100 x 91.8 cm.
Metropolitan Musem of Art, New York

  

    熱暑も過ぎて、秋の気配。「美術の秋」らしく、いくつかの美術展などの案内が届く。このところ自分で時間を割り振る自由が生まれてきて、ほっとする時が増えた。「忘れていた」自分が戻ってきた感じさえする。いくつか見てみたい美術展などもあるのだが、あの混雑を思うと二の足を踏む。

  国立新美術館では『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』も始まったようだ。日本人は、フェルメール好きなのでさぞ混雑するだろう。サイトを見てみると、ただ今の混雑状況というのが分かるようになっている。親切な試みなのだが、これだけで、いささかへきえきしてしまう。人々の背中越しに見るフェルメールは、考えただけで足が遠のく感じ。

  折しも、ニューヨークのメトロポリタン美術館で9月18日に始まったばかりの『レンブラントの時代』The Age of Rembrandt: Dutch Paintings in The Metropolitan Museum of Art の案内が届く。さすがに、これはすごい。同館が所蔵するレンブラントばかりでなく、フェルメールの作品も勢揃いしている。「窓辺で水差しを持つ若い女」、「窓辺でリュートを弾く女」、「眠る女」、「カトリック信仰の寓意」、「少女」と所蔵全作品が出展されている。HP上での主任学芸員の話によると、このテーマの下で出展されているのは、同館所蔵の228点である。

  レンブラントの作品はこれまでかなりよく見てきたつもりだが、今回の展示品には、再度見てみたいものがある。前回、話題にしたばかりだが、別の「フローラ 」Floraも展示されている。ニューアムステルダムの残した遺産は、さすがに素晴らしい。そして、メトロポリタンの底力。この案内を見ると、国立新美術館の企画展もかすんでしまうようだ。

  それにしても、どうして同じ時期にほとんど同じような企画をするのだろうか。グローバル化の時代、美術館同士がお互いに情報交流し、企画展として独自性を出すようにすれば、作品の融通も楽になるだろうと思うのだが。なんとなく、美術館の力関係や舞台裏までが見えてしまう。

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画家と妻の持参金

2007年09月25日 | 絵のある部屋

Rembrandt van Rijn
Saskia as Flora (detail)
1634
Oil on canvas
The Hermitage, St. Petersburg
    

   
先日も話題とした西洋美術史家池上英洋氏による「剥き出しのヨーロッパ史十選」『日本経済新聞』の9月24日付記事では、結婚に際しての持参金にかかわる作品が取り上げられている。

  今回は、ルーカス・クラナハ(父)の『不釣合いなカップル』(1520年代、ウイーン美術史館蔵)という作品に象徴的に描かれているような夫と妻の年齢差が大変大きな場合、あるいは沢山の持参金を持った妻を娶った夫のイメージの背景が解説されている。 実はこれも面白いトピックスであり、かねてから多少注目していた。
 
  美術史の解説書などを読んでいて時々出会うのは、才能には恵まれているが貧乏な画家が、持参金を沢山持った女性にめぐり合い、その助けで後顧の憂いなく?天賦の才を開花させるというような話である。しかし、実際にはなかなか解釈が難しいケースも多いことが分かった。  

  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合、パン屋の息子であった画家ジョルジュと貴族の娘ネールとの結婚を、平民と貴族の結婚という「逆玉の輿」であったとする解説によく出会う。言い換えると、「女氏(うじ)無うて玉の輿に乗る」の逆のイメージである。確かにこの点だけに注目すると、ジョルジュの生家はパン屋であった。この結婚で、貴族階級の一端に連なることになる利得をジョルジュが考えなかったわけではないだろう。しかし、他の側面を見ると、この解釈にすぐには賛同できないところがある。

  結婚式が挙げられた1617年7月、ジョルジュは24歳(1593年3月生まれ)の画家であり、新婦ディアンヌ・ル・ネール(1591年10月生まれ)は25歳と1歳半ほど年上でもあった。当時のロレーヌ女性の結婚年齢としてはかなり晩い方であった。といって、新婦の側になにか問題があったとする記述はなにもない。むしろ、二人の間には10人の子供が生まれ、夫妻が世を去ったのもほとんど同時であった。


  確かに、当時の社会階級の観点からすれば、異なった階級間での結婚の例は少なかった。それだけに注目も集めただろう。そして、彼女が持参金(dowry)として、両親や親族などから継承し、新家庭に持ち込んだ財産は当時の社会の平均的イメージからすれば少なからざるものではあった。しかし、貴族としてはむしろ控えめなものであったとみられる。

  結婚証明書に記された内容によると、持参金の内容は、(両親ではなく)彼女を大変可愛がっていたと思われる資産家の叔母からの贈り物として500フラン、2頭の乳牛と1頭の若い雌牛、若干の衣類と家具類だった。新婦の両親には合計12人の子供が生まれており、ネールだけ特別扱いをすることもなかっただろう。

  他方、新郎ジョルジュの側もあまり持ち物がなかった。慣習に従って、父親が結婚式の費用と息子の衣類、基本的な家具と、相続手続きが完了するまで父親が負担するわずかな金ぐらいだった。そして、しばらく新郎側の両親と共に、あるいは近くに居住するという当時の慣行で、ヴィックに新家庭を持った。

  結婚式の参列者などは明らかに両家の社会的関係を反映していたが、ジョルジュが新婦の持参金や貴族という階級に期待して結婚したような形跡はなにもない。それよりもはっきりしていたのは、この時期にジョルジュは、ロレーヌで将来が期待される才能ある画家として注目されており、画業で身を立てて行くだけの実績をすでに残していたということである。それは画家としての自信にもつながっていただろう。

  もしかすると、ジョルジュが独身時代、画業修業をした工房かもしれないのだが、当時、ナンシーで活躍していた画家(油彩・銅板画)ジャック・ベランジュの場合は、別の意味で興味深い。この画家は1612年にナンシーの富裕な薬剤師ピエールの娘クロード・ベルジェロンと結婚している。画家は1575年頃の生まれと推定されているので、37歳近い。他方、新婦は17歳だった。彼女の持参金は6000フランを下らなかったと記録に残っている。さらに新婦の両親が亡くなった場合、新夫妻は両親の田舎の土地などを継承することになっていた。ネールの場合と比較すると、破格な持参金だが、商人の富裕さと貴族でも必ずしも富裕ではなかったことを示唆しているかもしれない。

  ベランジュ新夫妻はまもなく3人の息子に恵まれたが、3人目の息子が生まれて1年もたたないうちに当のジャック・ベランジュが世を去ってしまった。気の毒に21歳で寡婦となってしまったクロードは、その後1625年にナンシーの宮廷の召使として勤めている間にシャルルIV世のお手つきになり、さらに5人の子供を生んだことになっている。豪商の娘であっただけに、史料も残っていたらしい。

  このベランジュの結婚の背景も、想像してみると面白い。確かに、ベランジュの結婚相手はナンシーで知られた富裕な商人の娘であったが、ベランジュ自身すでにロレーヌでも著名な画家・銅板画家として名を成していた。しかし、夫妻の年齢差は20歳近く大変大きい。 不釣り合いなカップルのようだが、当時はさほど珍しくはなかったようだ。

  このブログでも時々登場しているレンブラントの場合も、さらに興味深い。この画家の生涯は波乱万丈で、それ自体興味が尽きない。よく知られているようにレンブラントは、あの『トゥルプ博士の解剖学講義』の制作で大成功を収め、一躍脚光を浴びた。そして美しい女性サスキアに出会い、結婚にこぎつける。彼女の父(生前はレーワルデン市市長)はすでに世を去っていたが、末娘のサスキアも4万グルデンという当時としては莫大な遺産を相続していた。もちろん、法律上はこの金はサスキアに帰属していた。17世紀半ばのアムステルダムでは、500グルデンで普通の家庭は1年を裕福に暮らせるといわれていた。

  レンブラント自身も画業は絶頂期を迎え、収入も多かった。ただ、この画家は制作のための資料収集もあったが、かなり浪費癖もあったようだ。晩年はそれが大きな暗転をもたらす。他方、サスキアは画家によって「花の女神フローラ」のモデルにもなっており、大変美しい人であったことがうかがわれる。そして、レンブラントも画家として心身ともに充実した時代であった。

  しかし、「禍福はあざなえる縄のごとし」。1642年サスキアは、30歳の若さで病を得て世を去った。遺言書によって遺産4万グルデンはレンブラントと息子のティトゥスに残された。ティトゥスが成人するか結婚するまでは、レンブラントは自由に使うことはできたが、レンブラントが再婚すればこの条項は適用されないことになっていた。

  その後の顛末は、この画家の後半生を大きく暗転させた。興味深く考えさせられることも数多く、記してみたいこともあるのだが、とても書き尽くせない。ただ、これら画家たちの事例をみるだけでも、人間の生涯の有為転変とそこに含まれるさまざまなドラマに驚くばかりである。

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暑さしのぎに? :ラ・トゥール作品カタログ

2007年09月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 このすごい存在感のある顔、残暑の厳しい折には少し暑苦しいかもしれませんね。いうまでもなく、ラ・トゥールの「昼の作品」シリーズの傑作「いかさま師」の主人公のアップである。(ちなみに、クラブのエースとダイヤのエースの2つの構図がある。この表紙は、キンベルのクラブの方である。)

  西洋絵画史の上でも一度見たら忘れられない顔のひとつといわれる。確かに、これだけクローズアップしてみると、モナリザとはまったく異なるが、重量級の存在感がある。 この女性を題材に小説が書けそうな気がするほどだ。

 それはさておき、今回はこの顔を表紙にとりあげたラ・トゥールの作品カタログをご紹介しよう。ボッシュ、ブリューゲル、カラヴァッジョ、ゴヤなどを含む Mâitres de l'Art シリーズの1冊で、著名なガリマール書店が発行元である。

  ラ・トゥールの作品カタログに相当するものは、他にもここで紹介したPaulette ChonéDominique Bréme その他があるが、exhibition catalogue や専門研究書以外では、これがお勧めの1冊である。フェルメールやレンブラントなどと比較して、日本語の紹介が少ないラ・トゥールであるが、日本語版も、2005年の東京、国立西洋美術館での特別展に合わせて刊行された。幸い、17世紀フランス美術史家として著名な大野芳材氏が翻訳の労をとられており、十分信頼しうる文献である。ちなみに特別展カタログのラ・トゥール解題「ロレーヌのラ・トゥールー画家を育んだ世界」も同氏が書かれている。

  この作品カタログ、表紙はフランス語版と日本語版は異なる。冒頭に掲げたのはフランス語版である。しかし、それ以外の内容は同じである。「まえがき」をラ・トゥール研究の大御所ピエール・ローゼンベールが書き、解説を「ブルーノ・フェルテが担当している。いずれも、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール研究では、知らない人はいない著名な専門家である。 

  カタログの作品解題は、比較的簡潔な叙述ではあるが、要点は十分尽くされており、ラ・トゥール愛好者にはお勧めである。 ガリマール版と日本語版を比較すると、作品の印刷品質はガリマール版に一日の長があるような印象を受けるが、手元において楽しい内容であることに変わりはない。作品の全体図と併せて随所にクローズアップが挿入されていて、鑑賞の手引きとしてふさわしい。

  この女性のイアリングの石はなにだろうか、ネックレスはなにか、衣裳のデザインは、などと考えているだけでも暑さしのぎ?になるかもしれない。

Sommaire
9 PREFECE
 Pierre Rosenberg
11 POUR UNE PRESENTATION GEORGES DE LA TOUR
 Bruno Ferté
 
117 CATALOGUE DES CEUVRES
131 BIOGRAPHIE
132 BIBLIOGRAAPHIE SOMMAIRE
134 EXPOSITIONS 



Pierre Rosenberg et Bruno Ferté GEORGES DE LA TOUR. PARIS: GALLIMARD, 1990, pp.135. 

Pierre Rosenberg et Bruno Ferté
(ピエール ローザンベール監修, ブルーノ フェルテ解説, 翻訳大野 芳材 ),『夜の画家 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 』(二玄社、2005年)

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ラ・トゥールならどう描いただろうか

2007年09月19日 | 絵のある部屋

リュネヴィルへの道 Photo:Y.Kuwahara  


  今日9月18日、『日本経済新聞』朝刊の美術欄で、気鋭の西洋美術史家池上英洋氏が「剥き出しのヨーロッパ史十選」と題したシリーズの第一回に、ニコラ・プッサン 「アシドドのペスト」 
 (1631、ルーヴル美術館蔵)を取り上げ、解説されている。

  
プッサン(1594-1665)は、このブログにも再三登場させたが、ラ・トゥール(1593-1652)とまったく同時代の画家である。もしかするとローマにいたプッサンがフランス王室から招かれ、仕事をせかされ、予想外の人間関係の軋轢なども加わり、嫌々ながらルーヴル宮で仕事をした当時(1640-42年)、王室画家として二人が出会った可能性はかなり高い。少なくもお互いの仕事は十分承知していたことは間違いない。新聞紙上で紹介されている作品はプッサンの比較的初期のものだ。

  プッサンが旧約聖書『サムエル記』の物語を主題に描いた悪疫ペストの蔓延は、14世紀以来繰り返しヨーロッパを襲った恐怖の疫病であった。黒死病(ブラック・デス)といわれ、戦争と並び恐れられた最たるものであった。1348年当時のフィレンツェでは、市民の二人にひとりがこの疫病で死んだとまで言われている。

  プッサンやラ・トゥールの生きた17世紀前半にも、ペストはしばしばヨーロッパを襲った。とりわけ、1620-30年代にかけて、ロレーヌでは再三ペストが蔓延した。ラ・トゥールの徒弟で甥の一人でもあったフランソワ・ルドワイヤンがこの病で急死したことは、ラ・トゥールの研究史でもよく知られている。

  記録が残っていないだけで、ラ・トゥールの身内でも犠牲になった者がいるかもしれない。たとえば、ペストではないが、1648年8月にはラ・トゥールの末娘マリーが12歳で天然痘で命を落としている。 疫病はその正体が見えないだけに、戦争よりも恐ろしかっただろう。そのため、さまざまな信仰、呪術、魔術に頼る人も多かった。ペストが流行すると、恐怖や不安に駆られ、さまざまな異常行動に走る人々がいた。(なにやら今日の世界に似たところもある。人間は本質的に変わりえないのだろうか。)

  
プッサンとラ・トゥールはこうした時代状況を共有していた。しかし、その生き方、制作環境などは大きく異なっていた。ある意味で対照的であったといって良いかもしれない。プッサンの作品は華麗で古典的であり、当時のヨーロッパを代表するイタリア絵画の主流を継承していた。まさにバロックの大きな流れに位置していた。

  他方、ラ・トゥールはバロックの時代にありながら、それとはかなり遠いところに位置していた。この画家は、制作の思想においてゴシックの流れを忠実に体現していたといえる。当時の主流であったイタリア美術の風を明らかに感じながらも、ラ・トゥールはそれとは異なる独自の道を選んだ。

  ラ・トゥールもプッサン同様に古典には通暁していた。この時代の芸術家にとって、古代ギリシャ、ローマの歴史、そして聖書は必須の教養であった。ラ・トゥールは画業に入る前から小学校でラテン語を習っていたようだ。この画家のいわば精神的後ろ盾でもあったロレーヌきっての教養人ランベルヴィリエールの影響もあって、多くの古典も読んでいたと考えられる。ラ・トゥールの作品主題の選択、断片的な文書などから、その一面をうかがい知ることができる。

  ラ・トゥールは長らく忘れられた画家であったが、プッサンはノルマンディに生まれながら、その生涯の重要な時期をローマで過ごし、時代の寵児でもあった。プッサンの作品は総じて華麗な中にも人文主義的教養に支えられた深い思考に基づく精神性が感じられ素晴らしい。ただ、ラ・トゥールやル・ナン兄弟など「忘れられていた」画家の作品と比較すると、プッサンのある時期の作品は、とりわけ現代人にとっては重い、あるいは過剰な感じ、時には衒学的ともいえる印象を与える。しかし、時代はプッサンを求めていた。

  現存するラ・トゥールの作品には、プッサンのここに例示された古典的主題に題材をとった悪疫流行の様相、あるいはより直接的にはカロのように、ロレーヌの経験した戦争や悪疫などの惨禍を推測させるものはない。制作したのかもしれないが、今日残っていない。しかし、時には悲惨きわまりない風土の中でも、しっかりと生きていた人々の姿を目の当たりにするような作品が、時を超えて現代人の共感を呼ぶのだろう。

  

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「アンクル・トムス・ケビン」の記憶

2007年09月17日 | 書棚の片隅から



最近、世界文学の古典的名作が多数、新訳で出版されるようになった。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』などあまりに多数の新訳が並んでいて、選択に迷うほどだ。なんとか原著で読める作品もあるが、原著の外国語自体を知らない、生半可な語学力ではとても歯が立たない、などの理由で邦訳が頼りになる作品は大変有り難い。

こうした古典的作品の中で、これまでの人生で強い影響を受けた本は数多い。だが、その中から1冊を選べという選択を迫られるとかなり困る。本はいわば頭脳の栄養源に相当するので、一冊の本だけが自分の考え方を形作ってきたとは思えない。他方、愛着のある作品はかなり多い。人生の各段階で大きな印象を受け、また読んでみたいと思う作品はいくつか思い当たる。

たまたま書棚の整理中に思い当たり今回とりあげる、ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムス・ケビン』もそのひとつである。 これを読んだのは、戦後の小学生の頃だった。当時は今日のように児童書として平易に書き直された邦訳もなく、大人向けの書籍であった。内容があまりに衝撃的であったので、何度も読み返した。家のどこかに原本が残っているはずなのだが、残念ながら見つからない。しかし、そのイメージはかなりはっきりと脳のどこかに刻み込まれていた。

検索の助けを借りて記憶をたどってみると、当時手にしたのは、ハリエット・ビーチャー・ストウ(和気律次郎訳)「アンクル・トムス・ケビン」(世界大衆文学全集、改造社、昭和3年、原作1852年)であったことはほぼ間違いない。一時東京で教師をしていた母親の書棚から勝手に取り出して読んだ。最近の翻訳ではストーとなっていることもあるが、著者名も正しくフルネームで覚えていた。この時期の出版であったにもかかわらず、タイトルに「ケビン」(小屋)と英語のままに残されていたことなど、なんとなく懐かしいところがある。B6版?の箱入りで表紙も赤褐色(小豆色)の布目装幀であったように思う。今度、図書館へ行った時にでも確かめてみたい。  

作品のいくつかの描写はずっと後まで脳裏に刻み込まれていた。1850年代当時、奴隷州であったケンタッキー州からの逃亡奴隷イライザ母子は、騎馬でやってくる追手から逃れようと、想像を絶する決心をする。厳冬のオハイオ河、流氷の上を危険を覚悟で徒歩で越え、対岸の自由州であるオハイオ側へと渡り、さらにカナダへと逃れるようとする。流氷の間に落ちたら、それで終わりである。必死の思いで河を渡り、寒さに凍えきって助けを求めた家がなんと、「逃亡奴隷を救助することを禁ずる法律」の制定に関わったジョン・バード上院議員の家であった。

まさに手に汗握る情景なのだが、今でもかなりはっきりと覚えている。原著と比較して、どれだけ正確な翻訳であったかなどの点については、まったく分からなかったが、戦後まだ書籍数も少ない時代、子供心にもただ夢中で読んでいた。

この翻訳作品が当時の日本でどのように受容されたのか。その後少し気になっていたのだが、全容はまだよく分からない。1904年、仙台医専にいた魯迅なども読んでいたようだ。改造社版の翻訳は和気律次郎氏が出版事情で急遽引き受けた仕事ともいわれ、その後今日まで10人以上の訳者による翻訳が出ている。日本でも読者が多く、注目の作品であったことは間違いない(ちなみに、今参照しているのは Penguin Classics の1986年版*1である)。 

いうまでもなく、アメリカではこの作品は名実ともに衝撃的な影響を社会に与えたのだが、その実態については後に私自身がアメリカへ行くことになり、人種問題のさまざまな現実と直面して改めて実感したことも多かった。ストウのこの作品は多数の読者を得たが、いくつかの問題をめぐり、毀誉褒貶の大きな渦に翻弄された。

奴隷制廃止以後の実態については、アメリカ滞在中にかなり想像と現実のギャップを埋めることができた。1960年代以降、AFL-CIOを中心とする労働運動の大きな戦略的目標であった南部の組織化キャンペーンが遅々として進まなかった背景への関心、研究課題としていた繊維産業の北部から南部への移転にかかわる調査などを通して、南部深奥部(ディープ・サウス)の実態の一端に触れたことなどで、この文字通り画期的な作品の世界とその意味を再び考えさせられた。その後も南部や中西部諸州における日系企業や鉄鋼ミニ・ミルの調査などの関連で、公民権法成立以降の変化の一端にも触れることができた。

今改めてこのテーマを考え出すと、とめどもなく回想の糸がほぐれて行く感じがする。最初に思い出したのは、指導教授の一人だったN教授夫妻が自宅でのディナーに、この分野の主導的な歴史学者であったD.B.デイヴィス教授夫妻と共に招いてくださったことである。デイヴィス教授は、1967年『西欧文化における奴隷制の問題』*2で、ピュリツァー賞(歴史・自伝部門)を受賞された。その直後にお会いしたことになる。

  この受賞作は、アメリカ独立戦争当時、奴隷貿易は13州植民地でも法的に根を下ろした制度であり、独立宣言の起草者自身が奴隷を所有していたという衝撃的な指摘を含めて、当時の宗教的・思想的風土を掘り下げた力作であった。1770年頃までの人々の奴隷制への対応の分析が周到な考証に基づいて展開されていた。西欧における奴隷制の受容と反奴隷制思想がいかなる風土から生成したかを詳細に分析した名著となった。デイヴィス教授はその後、奴隷制と反奴隷制思想を中心にアメリカ屈指の歴史学者として、現在もグローバルな視野で活発に活動されている。

デイヴィス教授とは専門領域もまったく異なっていたのだが、日本から来たひとりの学生のために、こうした機会を設けてくれた恩師とアメリカの寛容さにはただ感謝するばかりだった。せっかくアメリカに来ているのだから、日本との比較研究などせずに、アメリカでしかできないことに時間を割いたほうがよいとのアドヴァイスもいただいた。

デイヴィス教授も働き盛りだったが、温厚、誠実な学者でさまざまな助言をしてくれた。当時のアメリカはヴェトナム戦争にかかわっており、国内では公民権運動が興隆し、「自由」と「束縛」というテーマを切実に考えねばならない時期であった。キャンパスでも反戦フォークソングが響き、その外には徴兵制度が待っていた。このブログでも触れたフォークナーやスタイロンなど南部を対象とした文学者へ親近感を持つようになったも、こうしたことがきっかけになっている。  

その後、アメリカ社会は大きな転換をし、ある意味では閉鎖性も強まった。奴隷制度の背後にある人種問題も大きく変容した*3。私のアメリカについての見方、関心の対象、社会観もかなり変わった。しかし、『アンクル・トムス・ケビン』を読んだことから始まった一連の強い印象の数々は、スナップショットのように今日も消えることなく残っている。

 

 

 

*1
Harriet Beecher Stowe. Uncle Tom' Cabin or Life Among the Lowly. first published 1852, Reprinted  in Penguin Classics 1986.

*2
David Brion Davis. The Problem of Slavery in Western Culture. Ithaca: Cornell University Press, 1966. (画像はPelican Books edition)  
デイヴィス教授はその後1970年にイエール大学へ移られ、奴隷制度史研究の第一人者として、多くの栄誉ある賞なども受けられ、今日でも研究、著作活動を続けておられる。
Sterling Professor of History Emeritus and Director Emeritus, Gilder Lehrman Center, Yale University.

*3
高野フミ編『『アンクル・トムの小屋』を読む』(彩流社、2007年)は、この作品を小説、宗教、女性運動、ジャーナリズムなどの多角的観点から批評、論じている。記憶を確認する上でも大変有益だったが、『アンクル・トムの小屋』が刊行されてからすでにかなり長い年月が経過しており、現代の読者のために日本における受容の歴史についての言及が欲しい思いがした。


 

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アメリカにもあった「癒しの道」:アパラチアン・トレイル

2007年09月13日 | 回想のアメリカ

    このところ、著名な人物や政治的主導者にかかわる衝撃的な出来事が続く。横綱朝青龍の挫折に、身体の大きさと精神の強靭さの間には何の関係もないのだと気づかされる。土俵上でのふてぶてしいばかりの顔とその後は、あまりに対照的だ。続いて、昨日9月12日、安部首相の突然の辞任表明にまた驚く。

  社会的人気や名声の頂点を極めたような人を含め、いかなる人間にも苦悩の時や挫折の時がある。生まれた時からなんの憂いや悩みもなく、順風満帆といえる人生を過ごしてきた幸せな人もいるかもしれない。しかし、そうした人はむしろ稀なのかもしれない。サンジャック・デ・コンポステーラへの旅、熊野古道や四国霊場めぐりなど、世界にはさまざまな心の救いや癒しを求めての旅の場がある。今年巡ったアルザス・ロレーヌにも中世以来の巡礼の道が残っていた。

  たまたま安部首相辞任表明の前日に見たTVに、アメリカ東部アパラティアン山脈の山中を徒歩で旅する人々の姿が映し出されていた。*  登場した人々はそれぞれに人生の煩悩や苦悩を背負っていた。若い頃に犯罪を犯し、その罪を償う更生のために、集団で旅する若者も映されていたが、多くは一人旅であった。数は少ないが、女性も含まれていた。20キロを越えるザックを背負い、テントや避難小屋で夜を過ごす旅をしていた。鳥や鹿、栗鼠など心を和ませる触れ合いもあるが、熊やがらがら蛇も出てくるかなりの難路でもある。アメリカには「公認」された「癒しの道」や霊場のたぐいはないと、なんとなく思っていたので、認識を新たにした。


  旅に出た動機はそれぞれ個人的に異なったものだが、仕事上の挫折を含め人生の途上で直面した問題をそれぞれに考え直す時間を持つという点では共通していた。朝鮮戦争やヴェトナムそしてイラク戦争で受けた心の傷を癒そうとする人々、自分の代わりに戦死した同僚たちへの贖罪を求める人、企業社会での激しい競争に心身ともに疲れきった人々の姿が印象的だった。戦争やグローバリズムの苛酷な展開は、人々の心に容易には癒しがたい、深い傷を残している。幸い、映し出された人々はそれぞれに立ち直りや希望への道筋を見出しつつあるようだった。

   1960年代末、友人とこのトレイルの一部、ベア・マウンテンに登ったことがあった。ニューヨークから60キロくらいの所である。当時はヴェトナム戦争でアメリカの敗色が濃厚になりつつあった頃だったが、このトレイルがTVで伝えられたような癒しや社会復帰を求める場にまではなっていなかったように記憶している。山頂で会った人は数少なかったが、純粋のトレッキングを楽しんでいるように見えた。だが、本当のところは分からない。

  一時期、寄宿舎で部屋をシェアしていた友人が朝鮮戦争のヴェテラン(帰還兵)で、そのトラウマに悩まされていたこともあり、戦争の暗い影がアメリカ社会に深く影を落としていることには気づいていた。ヴェトナム戦争で戦死した卒業生の名前が学生ホールの壁に刻まれ、次第に増えていった。

  アパラチアン山脈については、山麓の繊維企業や炭鉱の調査に何度か訪れた。ここでも想像を超えた経験をした。さまざまな記憶がよみがえるが、ここで記すには長すぎるので、別の機会にしたい。

  しばらく忘れていた、あのはるかに霞んだような山並みが、ズームアップしたようにまぶたに浮かんできた。戦禍や競争社会に傷ついた人々を受け入れ、癒し、新たなきっかけを与える懐の深い自然な山がそこにあった。


* BS 9月11日 「アパラチアン山脈3500キロの旅:人生のロング・トレイル」

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「引き上げた」ではすまない最低賃金

2007年09月11日 | グローバル化の断面

 

 中国に工場を持って、カメラやデジタル機器などのケースを生産する経営者の話を聞く。1960年代頃までは日本国内に設備を持っていたが、労務費の上昇とともに経営難となり、国内工場を閉鎖し、台湾へ全面移転した。その後、台湾の賃金水準も上昇し、フィリピンへ移転、さらに今は中国南西部で生産している。中国国内の賃金格差も大きく、労働力の質と併せて中国国内での立地動向からも目が離せないという。彼の視野からは、日本国内での立地選択はとうの昔に消えている。髪の毛もすっかり白くなったが、現地経営に支障ないほどに中国語(上海語)も上達し、経営者としての苦労と努力のほどがひしひしと伝わってくる。

 9月7日、都道府県別の最低賃金の決定状況が発表された。形の上では労使が参加する中央最低賃金審議会の提示した引き上げ幅の目安に沿った形にはなった。改めて記すまでもないが、地域最低賃金は中央最低賃金審議会が目安を定め、これを手がかりに各都道府県の審議会が地域別の最低賃金額を決める仕組みになっている。

  最近、最低賃金制度についての関心がようやく高まってきたことは大変望ましいことだと思う。この
ブログでも記したことがある。しかし、議論のほとんどは、現在の制度を前提にしての議論に終始している。言い換えると、中央最低賃金審議会の提示する目安を前提に、都道府県の地方最低賃金審議会が地域最低賃金を設定するという、ほとんど儀式化し、マンネリ化してしまった現行制度の仕組みに、メディアを含めほとんど誰も疑問を呈していない。しかし、現行制度は「制度疲労」があまりにひどく、最低賃金制度という重要な政策の目的、実施、効果測定という面について、客観的評価がほとんどできなくなっている。

  最低賃金制度の政策効果の測定は、欧米諸国におけるかなり膨大な研究成果の蓄積にもかかわらず、その結論は必ずしも十分に収斂していない。若年者などの雇用にはマイナスという結果もある反面、雇用の増加に寄与しているとの相反する効果が提示されている。実証研究の成果が必ずしも一貫した結果をもたらさないのは、研究に使われる仮説の設定、標本データの質、変動要因のコントロールなどがきわめて困難であり、反復テストが難しい、別の標本データでは相反する効果が計測されるなどの難しさが介在しているためである。抽象的次元で議論される理論と複雑な現実の間が十分埋められていない。

 日本でも実証研究が行われているが、同じような問題が生まれている。研究者は利用できる標本データと現実とのギャップに十分眼が行き届いていない。そして、理論をモデル化し、計測結果が出ると、それで満足してしまい、その結果に支配されやすい。労使や行政の関係者は逆に目前の現実にとらわれすぎて、ともすれば全体像を見失い、個別の利害に左右されがちである。

 ひとつの例を挙げてみよう。今回の引き上げで東北地方諸県では、青森(619円)、岩手(619円)、宮城(639円)、秋田(618円)、山形(620円)、福島(629円)というように7-11円程度の時給の引き上げが行われた。他方、東京(739円)、神奈川(736円)、千葉(706円)、埼玉(702円)など15-20円の引き上げが行われ、700円台の都府県もある*

 都道府県別に一見「きめ細かい」決定が行われているような印象を与える。しかし、本当にそうだろうか。都道府県という行政区分が現実の労働市場の代替指標としてはきわめて不十分であることは、前に記したこともある。最低賃金における地域差とは突き詰めると、なにを意味するのか。水準が大幅に上がった県と小幅な県とでは、現実になにが異なり、どう変化するのか。

  そればかりではない。これだけ中央と地方の格差が問題になっているのに、地方最低賃金審議会の決定結果は、格差を追認あるいは拡大・固定化する一因になってしまっている。

  グローバル化で進む労働市場の流動化に伴い、労働者も高い賃金水準の地域、産業へと移動する。活性化している都市部などでは、深刻な人手不足が経営者の頭痛の種となっている。当然、賃金水準も上がる。他方、多くの地域で地元に働く場所がなく、東京、大阪、東海など都市圏や工業地帯へ労働力は流出する。北海道などでは、若い世代が学ぶはずの高校が次々と閉鎖されていく。

  国内で相対的に賃金水準が低い地域へ企業が立地を求めてくる例(たとえば、東京から北海道へ)もないわけではないが、グローバル化が急速に進展している今日では、国内の賃金水準の格差よりも、数倍あるいは数十倍も低コストな中国、ヴェトナムなどへ移ってしまうことも増えている。仕事の海外へのアウトソーシングが急速に進んでいる。といってすべての企業が海外移転できるわけでもない。

 こうして最低賃金引き上げでなにが変わるのかという疑問は深まることこそあれ、解消することはない。別に、直ちに全国一律最低賃金制度にせよとか、上げ幅をもっと大きくせよとか言っているのではない。そうした制度の透明性を増やす必要は、もちろん早急・必須な課題だが、ここで考えるべき問題はそれ以前のところにある。制度がその目指す最大の目的である国民の文化的生活を最低限保障するための政策として真に設定され、機能しているかが基本的に問われるべきことだ。

 各都道府県毎に多大な行政コストをかけて、この制度を維持している必要性がどれだけあるのだろうか。単に最低賃金を改定する作業をワンラウンド終わりましたといって、評価もあいまいなままに先送りするいう話ではない。[現状では妥当な水準」、「仕方がない」といった「評価」が毎年繰り返されてきた。

  最低賃金制度は国民にとって重要なセフティ・ネットの一部たりうる政策手段であるだけに、透明性があり納得できる制度と運用の姿を提示すべきだろう。憲法が定める「文化的な最低生活」を保障するためにあるべきセフティネットの構想の中に正しく位置づけ、組み立て直すことが行われねばならない。時代は大きく変化している。その変化に対応しうる制度改革が議論されるべきではないか。

 
* 新最低賃金額は全国平均で時間賃率687円、引き上げ額14円。

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グッゲンハイム追憶

2007年09月05日 | 回想のアメリカ


グッゲンハイム美術館内部

 
  届いたばかりの『芸術新潮』(2007年9月)が、ニューヨークの美術館の特集をしていた。数ある美術館の中から15の美術館が取り上げられている。そのうちのいくつかは関心の違いもあって、訪れたことがないが、ほとんどはよく知っている場所で大変懐かしい。

 なかでも強い印象が残っているのは、グッゲンハイム美術館である。メトロポリタンよりも先に、ニューヨークで最初に訪れた美術館であったこともあるが、なににもましてそのユニークな外観と内部の構造に衝撃を受けた。

  今でこそ世界にはさまざまな斬新な美術館が生まれているので多少のことには驚かないが、60年代当時は展示室が同じ階に並列的に並んでいて、次の階の展示へ行くには階段を上り下りするという構造が見慣れた美術館のイメージであっただけに、この時受けた印象は大変強かった。

  外観はなんと形容したらよいだろう。巨大な植木鉢のような、今ならば宇宙ステーションのようなといったらよいだろうか。周辺の建物を圧してきわめて斬新である。内部へ入るとまた驚かされた。中央に巨大な吹き抜けが天井部まであり、館内が大変明るい。柱がなく、建物を支える壁面部分に沿って緩やかなスロープが上方へ向かってらせん状に続いている。



  観客はこのスロープの壁面に展示された作品をゆっくりと移動しながら鑑賞する仕組みである。つなぎ目のない展示であり、伝統的な美術館とは大きな違いである。

  アメリカに行ったばかり、当時の日本ではなかなか接する機会がなかったカンディンスキー、シャガール、モディリアーニなどの作品が目の前にあり大変感動した。最初訪れた時、館内にはバックグラウンドでムソルグスキーの「展覧会の絵」がかなり大きく響いていた。もしかすると生のピアノ演奏だったかもしれない。そのこともあって、今でもこの曲を聴くと、グッゲンハイムのイメージが反射的に思い浮かぶほどだ。フランク・ロイド・ライトの名作ということも知って、かなり頻繁に訪れたお気に入りの場所となった。ニューヨークで書店巡りなどをする折に、度々立ち寄った。

  グッゲンハイムの開館は1959年10月とのこと。施主のグッゲンハイムも、設計者のフランク・ロイド・ライトも完成を見ることができなかったようだ。今は老朽化が進み、外壁は大改装工事が行われているが、来年には再びあのユニークな外観を楽しむことができるようだ。

  この時の印象は深く脳裏に刻まれており、後年開館したばかりの上海博物館(人民広場)を見たとき、すぐにこれはグッゲンハイムの影響を受けていると思ったほどだ。ちなみにこの博物館は外観は中国の祭器とされる鼎の形状を模しているが、内部はまったくグッゲンハイム型である。吹き抜けの部分にエスカレーターがあるが、内部の雰囲気はグッゲンハイムとほとんど同じイメージである。博物館の開館数日後に訪れたが、カンディンスキー特別展を開催していた。不思議な経験だった。


Solomon R. Guggenheim Museum  107 15th Avenue at 89 Street, New York, NY

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長い道程:アメリカ・メキシコ国境

2007年09月02日 | 移民政策を追って

 ブッシュ政権が期待していた「包括的入国管理法案」が見送りとなった後、アメリカの移民政策はどんな状況になっているのか。一口に言えば、先が見えない長い空白が生まれてしまった。少なくとも、新しい大統領が選ばれ、新たな政策が導入されるまでアメリカの入国管理政策は綻びを繕っているしかない。完全に手詰まり状態である。

 しかし、現実に国境を越える人々の流れは絶えない。国境近傍ではさまざまな変化が生まれている。CBSなど最近のメディアが伝える状況をウオッチしておこう。

 アメリカ国内に居住する1200万人近い不法滞在者への対応は、2009年の新大統領就任式後まで持ち越される。その後についてもどんな対策が打ち出されるか分からなくなっている。不法滞在者の合法化へのステップにしても、議員など関係者の間で見解の隔たりは大きく、現在の状況では手の打ちようがない。不法滞在者の数はさらに増え、対応は格段に難しくなるだろう。

 移民問題は大統領選の大きな論争点であることは間違いないが、政治的にはスタンスの取り方がきわめて難しくなった。増加したヒスパニック系などの選挙民の考えが読みきれず、どちらに向いて政策対応をしてよいかが判らなくなっている。動向を読みきれずに移民問題へ傾斜すると、マッケイン上院議員のように政治的に失速する可能性もある。

 かなりはっきりしたのは、一般に流布しているグローバル化、「国境の開放化」というイメージとは逆に、国境の物理的障壁が高まっていることだ。ひとつの例として、アメリカ・メキシコ国境サンディエゴの近く、スマッグラーズ・クラッチ(smugglers’ Culch「密輸者の谷」)というメキシコ側からの不法入国者が集中する地域の変化が伝えられている。ここでは高い鋼板の障壁が国境を分かち、日夜を問わず煌々とサーチライトが輝いている。多数のボーダーパトロールが配置され、ヘリコプター、地中の探査センサーなどを駆使して不法な進入を防いでいる。

 こうした障壁強化にもかかわらず、入国を試みる者が減少する兆しはないようだ。不法入国者と阻止する側とのいたちごっこの状態がずっと続いている。

 国境線は長いといっても、進入の難易度で特定の地域が選ばれる。最近ではカリフォルニア州南部サンディエゴ、ティフアナ地域からニューメキシコに近いササベ地域へ越境者の流れが移行している。これはサンディエゴ、エルパソ地域の取り締まり強化の結果であり、越境者はソノラ砂漠を通過する経路を選ぶようになった。アリゾナ州が大きな流入経路となりつつある。これらの地域では、炎天の砂漠を3日から4日かけて徒歩で越境する人が多い。酷熱の砂漠地帯のため多数の犠牲者が出ている。

  ブッシュ政権下では連邦法として国境全体の出入国を律する法律が成立しなかったため、国境周辺の地域はそれぞれの地域の事情に応じて、個別に対応するしかなくなった。

 ひとつの問題は、南部諸州などの農業分野で働く労働者をいかに確保するかということである。包括的移民法が成立していれば、こうした分野で働く一時的労働者を合法的に受け入れる仕組みが生まれていたかもしれない。しかし、法案不成立となったため、農業、土木分野などでは、入国に必要な手続きをせずにメキシコ国境を越えて入国した労働者が多数就労している。彼らが突如いなくなったらアメリカ人の生活を支える農産物供給は著しく脅かされる。

 不法移民でもアメリカ側に必要とする産業があるかぎり、その数が減少する可能性はない。そのために、都市や州レベルでアドホックな法律や対応を導入する動きがみられる。しかし、方向性はなく、地域でばらばらである。

 サンディエゴの近くのナショナル・シティではリベラルな施策が採用され、移民が滞在資格を問われることがない。しかし、他の多くの地域ではおそらく警官が執拗に滞在資格を尋ねるだろうとみられている。アリゾナでは州知事のジャネット・ナポリターノが不法滞在者を雇用した使用者を厳しく罰する法律に署名した。最初の違反では営業ライセンスを止められる。次に、違反するとビジネスができなくなる。しかし、知事自身が法律のカバーする範囲は広すぎ、実効性は期待薄と認めている。それでも彼女が法案に署名したのは、連邦が不法移民に十分対応できない以上州が個別に対応するしか方法がないからだという。

 移民問題研究機関のピュー・ヒスパニック・インスティテュート によれば、アリゾナ州では労働者の10人に1人は不法滞在者と推定されている。しかし法律が厳密に施行されると、州経済は破綻してしまうというディレンマを抱えている。

 南部の農場で働く農業労働者は時間賃率7ドル。日中の気温は摂氏47度、華氏117度にもなる。収穫の期間、農場の小屋などで過ごす。アメリカ人労働者は応募しなくなっている。

 こうした状況だが、アメリカに流入する不法労働者の数は、年間50万人の水準から特に減少することはないと見る専門家が多い。このことは、それだけの労働需要が存在することを示している。そして、この労働条件でも国境の南よりもかなり良いと考える労働者がいる。

 メキシコ側にも変化の兆しはある。フォックス前大統領は、ブッシュ大統領にアメリカがもっとメキシコ人労働者を合法的に受け入れることを要請していた。しかし、カルデロン新大統領は「雇用の大統領」を標榜し、メキシコ経済の成長を促進することを主張している。国内の産業を活性化させ、雇用機会を拡大するというこの考えはきわめて正当なのだが、メキシコの場合、そうした産業基盤がどれだけ準備されるかという点にある。国境に光が見えるまで道は長く遠い。

Sources
‘Illegal immigration:Nowhere to hide’, The Economist July 7th 2007

‘Death in the desert.’ The Economist August 25th 2007.

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