時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

16世紀銅版画家の世界:メッケネムの作品と活動

2016年09月25日 | 絵のある部屋

 

『メッケネムとドイツ初期銅版画』ポスター
国立西洋美術館 

 

 雨続きの合間を縫って、閉幕寸前の国立西洋美術館に駆けつけた。かねて見たいと思っていた『メッケネムとドイツ初期銅版画という企画展(7月9日ー9月19日:上掲ポスター)である。あまり一般受けしない、どちらかといえば地味な企画展ではある。

 銅版画であるから一部の展示品を除きモノトーンで、しかも作品の多くは大変小さい。視力の弱くなった筆者にはかなりきつい展示でもある。作品の正面からガラスに額をつけるようにしないと、見えないような小さな作品も多い。海外の同様な企画展を見た経験からすると、観客の視点から展示方法にも一工夫ほしいといつも思う。いつものようにルーペ(拡大鏡)眼鏡を携行した。このブログ記事のフォントもいつの間にか大きくなりました(笑)。

 メッケネムという銅版画家の作品はこれまでに見たことはあったが、企画展というまとまった展示ではなかった。しかし、いくつかの理由からもう少し作品をまとめてみてみたいという思いがどこかにあった。知りたい理由の最大のものは、この画家の技能の習得の場所と方法にあった。

 イスラエル・ファン・メッケネム(Israhel van Meckenem: c.1445-1503)は、15世紀後半から16世紀初めにかけて、ライン河下流の地域で活動したドイツの銅版画家だ。当時、人気の銅版画家にはショーンガウアー(c.1430 or 1450-1491)やデューラー(1471-1528)、H.ホルバイン(父:c.1465ー1524)などが知られていたが、メッケネムはこれらの作家の作品を大量にコピーする一方、自分でも新たな発想による作品を制作したり、大量に作品を制作販売するなどの戦略構想を持っていた。現存する作品数は500-600点余りといわれる。このブログで取り上げたジャック・ベランジェやカロが油彩画ではなく銅版画家になったのは、多分に作品の販路を拡大したいとのねらいがあったと思われる。実際、ベランジェの場合、油彩画はほとんど現存していないが、銅版画はかなりの数が継承されて今日見ることができる。

 メッケネムに関心を寄せたひとつの理由として、この初期の銅版画家がどこで修業したかということにあった。カタログに掲載された文献によると、ライン河上流ストラスブールにあった「E.S.の版画家」と言われる工房まで遍歴修業の旅をし、1460年代半ば頃までそこで修業したようだ。10代半ばから数年を工房で技能の習得に過ごしたのではないか。20歳代初めに親方職人の資格を得て、故郷ボッホルトに戻り、裕福な家の娘イダと結婚している(下掲図)。

 同時代の銅版画家デューラーの活動地はニュルンベルグ、ショーンガウアーの活動地はコルマール、ホルバインはアウグスブルグをそれぞれ活動拠点としていたらしい。ライン河領域には幅広く銅版画家の活動領域が展開し、画家たちはそれぞれのライヴァルの活動を熟知していたようだ。熟練、作風の伝播という観点からも、大変興味深い。ライン河流域に銅版画技法が生まれたのは1430年代とされるので、これらの画家たちはいわば黎明期に多大な貢献をしたことになる。



メッケネムはオランダに近い、ドイツ北西部の町ボッホルトを主たる活動地とした。
Source:国立西洋美術館企画展カタログ (2016), p.186 
クリックで拡大

  メッケネムの作品を見ようと思い立ったのは、直接的にはほとんど同時代のネーデルラントの画家ヒエロニムス・ボス(c.1450-1516)没後500年の壮大な研究プロジェクト報告である2冊の重量級カタログを見ている間に、この奇想な作品を生みだした大画家が残したかなりの数の素描に興味を惹かれたことによる。時代を飛び抜けたような奇怪で奇想天外とも思われる生物などを、画家がいかに発想し、具体化したのか、多少わかった感じがした。

 メッケネムはその修業の過程で金細工師に弟子入りしたり、銅版画家と兼ねていたことも興味深い点である。時代は下るが、本ブログでも取り上げているジャック・カロ(1592-1635)などもロレーヌ公の宮廷に仕えていた親の反対にも関わらず、銅版画家を志したが、親に多少妥協したのか、最初は画家の工房ではなくナンシーの著名金細工師の下で修業している。金銀細工はこの時代までの伝統技法であったが、新たに生まれた銅版画の技法が金細工の技法から影響を受けて発達したことがよく分かり、大変興味深い。金銀細工師と銅版画家は前後する隣接の職業であり、金銀細工に必要とされた精緻な作品、伝統技法などが銅版画に受け継がれる過程は、技術伝達の例として学ぶことが多い。

 今回展示された作品の中には、世俗画の範疇に入るが、カードゲームをする男女を描いた作品が含まれていて、これも興味深いものだった。カードゲーム自体はかなり以前から普及していたと思われるが、家庭内における風景として版画に描かれた作品は珍しい。今回の企画展にもいくつか出展されていたが、これはその中の一枚。下記の作品、男女のどちらがゲームに勝ったのでしょう?

イスラエル・ファン・メッケネム(c.1445-1503)
『カードゲームをするカップル』
ミュンヘン州立版画素描館 

 

イスラエル・ファン・メッケネム(c.1445-1503)
『イスラエル・ファン・メッケネムと妻イダの肖像

c.1490-1500, 大英博物館蔵

銅版画の歴史では現存する最も初期の作品とされている。裕福そうな身なりで描かれた妻と金細工師、銅版画家として社会的成功を収めた夫の容貌が印象的である。


図版出所
『聖なるもの、俗なるもの:メッケネムとドイツ初期版画』展カタログ
国立西洋美術館
 


 

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分裂に向かうEU:復活する国民国家(2)

2016年09月24日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

 

  今年の国連総会は難民問題がひとつの大きなテーマとなった。オバマ大統領主催で、難民サミットも開催された。しかし、その直前を狙ったかのように、ニューヨークのマンハッタンや対岸のニュージャージーで不特定多数を対象としたと思われる爆発事件が起きた。容疑者は今回もアフガニスタン生まれでアメリカ国籍は取得したが、イスラム過激派の影響を受けたと推定されている。論理の上では否定しながらも、移民・難民をテロリズムの温床のように考える社会的風潮が増幅されている。

 ほとんど同時期にいくつかの重大な出来事が起きている。ひとつは9月21日、地中海エジプト沖における移民・難民ボートの遭難事故で148名を越える多数の死者が出たことだ。こうした遭難事故はこのブログを始めた以前から継続して起きているが、事態は悪化するばかりだ。この問題領域にもいくつかの変化があり、別に取り上げたい。

 もうひとつ注目すべきは、シリア内戦の現状であり、終息するどころか、破滅的状況にある。ヒエロニムス・ボスの作品に描かれる地獄さながら、まさに「現世の地獄」だ。ウクライナ紛争にみられるように、失地回復に動くロシアの支援を受けたアサド政権は息を吹き返し、居丈高に反政府勢力、そしてアメリカを非難、攻撃している。国連もまったく無力化し、TVなどに見る惨状は目を覆うばかりだ。

 そして、ヨーロッパの存在感が急速に低下したことを感じる。とりわけ、9月18日のベルリン市議会選挙で「反移民」を掲げる「ドイツのための選択肢(AfD)」が躍進し、国政与党が大きく後退した結果、メルケル首相は「できるなら時計の針を何年も戻したい」との見解を発表した。これまでユーロ危機を初め、様々な試練にしたたかに対してきたこの練達した政治家をもってしても、今回は切り抜けられなかった。

 そして、アメリカ、EU、中国、ロシアという新たな覇権を争う勢力地図の中で、アメリカ、EUの政治的停滞、退行、中国、ロシアの覇権、領土拡大指向が目立ってきた。

 前回に続き、今回はBREXITという形で新たな局面を迎えたヨーロッパの姿をこれまでの観察の流れの中で見てみたい。筆者のメモ代わりとしてスタートしたブログであり、細部は省略、筋書き程度にとどまる。

危機は突然に 
 2015年から今年にかけて、突如として、百万人を超える難民、移民がシリア、アフガニスタンなどからヨーロッパへ流入した。それによって引き起こされた一連の変化は、おそらくEU(欧州連合)の誕生後最も大きなものだろう(その主要な経緯はこのブログでも記してきた)。人、資本、財、サービスが自由に移動する単一市場、そして政治的統合はEUが目指してきた目標だが、ヒトの移動が難民・移民という形でEUの存立基盤を揺るがすことになるとは、当事者を含めてほとんどの人が考えなかったことだろう。この意味でも、多数の難民・移民の発生経緯、ヨーロッパへの流入、移動の経路、各国、EUの対応過程を理解しておくことは今後のためにも重要と思われる

 こうした状況下、僅差でEUから離脱 exit することになったイギリスは、前回紹介したA.O. ハーシュマンの理論を手がかりにすれば、それまであったEUという共同体とのつながりはなくなり、競争原理の支配する世界で独立性は増すが、財やサービス市場の縮小、資本などのアクセス機会の制限などで、失うものも大きい。

 前回に記した通り、EUが真に地域統合体に近い実態であれば、イギリスの立場は準メンバーに近いものであった。その国がどれだけハーシュマンのいう「忠誠」loyalty をEUに感じていたかは分からない。最も強く忠誠心を抱く者でも離脱の可能性はあり、彼らにとって「離脱する」というブラフは統合体にとどまり、発言するに際しての強いカードになりうる。イギリスがこのカードをかなり使ってきた可能性はある。しかし、現実には国民投票僅差での離脱決定という微妙な結果となった。

 離脱後、今後EUとの交渉に当たるボリス・ジョンソン外相は、イギリスはドイツから車、イタリアからワインなどを大量に輸入しているから、EUは無視出来ないはずだと述べ、離脱後もこれまで得ていた特権の継続をEU側に求めるが、それには当然反発が強く交渉は難航するだろう

 ここに到る経緯からして、イギリスが新たな苦難に直面することは必至だ。構成国であるスコットランドや北アイルランドの動きも含めて、その前途について今の段階で楽観はできない。EU大陸側を含めドミノ現象が起きる可能性もなしとしない。メイ首相自身、その困難さを率直に述べている。ボリス・ジョンソン外相は新年早々に離脱の正式提案をし、2年以内に選択した離脱をなしとげると楽観的発言をしているが、まだいくつもの波乱が予想される。
 
問題はEU,大陸側に
 しかし、BREXITで注目すべき最大の問題は、イギリスに離脱を許してしまったEU、大陸側にあるといえよう。これまでイギリスはEUの加盟国でありながら、大陸側諸国との間に一線を画してきた。イギリスは、ドイツ連邦共和国に次ぐ経済大国であり、大陸側としては対応の難しい国ではありながら仲間に留めて起きたい存在だった。

 イギリスの離脱と並行して、大陸側諸国には結束力の緩みが生じていた。難民流入への対応過程で、加盟国間の対応の違いはさらに顕著になった。ブラッセルも官僚化が進み、加盟国との距離が拡大していた危機における指導力に欠け、加盟国を統率できなかった。昨年来の難民危機に際しても、実質的に目立ったのは、躊躇する各国の指導者を率先、牽引するアンゲラ・メルケル首相であり、傍目にもEU(ブラッセル)の存在感は薄かった

 さらに、最近ではEU上層部のスキャンダル、腐敗が露呈し、ブラッセルの信頼度は大きく損なわれた。いまやEU(ブラッセル)は高級官僚を中心に、加盟国の国民の関心とは遠く離れた、腐敗した組織と見られるまでになり、急速に信頼度が低下している。政治・行政上の官僚機構は生まれたが、European Union の目指す地域統合体とはかけ離れたいわば頭だけの存在になっている。こうした中で、選挙民の信頼をつなぎとめようと、各国の政治家たちは内向きになり、EUよりも自国の主権を確保しようと懸命になっている。


弛緩する統合のあり方
 結果として、加盟国間の統合への勢いは急速に失われ、自国民の利害を前面に出した国民国家への流れが増した。ロシアの領土拡大指向を抑止し、難民やテロリズムの危機に対応するには、ブラッセルに頼ってゆくよりは、自国がしっかりと対応する方が実が上がると考えるようになった。昨年、ハンガリーがレーザー有刺鉄線の障壁をクロアチア国境に設置した時、ドイツ連邦共和国のアンゲラ・メルケル首相は冷戦を思い出させると非難し、フランスの外相は「ヨーロッパの共通の価値を尊重していない」と批判した。

 ところが今年になるとこれらの指導者たちは、ヨーロッパの国々に難民受け入れを迫るとともに、これ以上の流入を阻止する対応を強めるよう求め始めた。さらに1月にはいくつかの国の政府はギリシャに難民の抑止を求め、不十分な場合にはシェンゲン協定からの除外まで口にした。しかし、ギリシャ一国で難民・移民の大きな流れを抑止することが不可能なことは歴然とし、メルケル首相の指導・交渉力によって、EU域外のトルコにその役割を委ねることになった。しかし、そのトルコもクーデターが起きるほどの内政不安が高まり、短期間のうちに期待を裏切ることになった。地域統合体としてEU加盟国を結束し、同一方向へ誘導する力量が今のEUブラッセルは、傍目にも欠如している。

 こうした中、フランス、ドイツ、オーストリアなど多くの加盟国で外国人受け入れ増加に反対することなどを主たるスローガンとする極右政党が次々と勢力を拡大、各国の政治は急速に内向き指向となっている。

逆転する歴史の歯車
 EUは目指す統合への理想とはほど遠く、国民国家の集合としてのヨーロッパへ向かっている。難民・移民を受け入れて文化の多様化に将来を賭けるのではなく、グローバル化の中で薄れてゆくとみられた伝統的国民国家が復活している。それを支えているものは、ナショナリズムというよりは、パトリオティズム(愛国心)なのかもしれない。それぞれの国民国家の政治的・文化的基盤は想像以上に堅固であり、難民・移民などの流入でその点が確認されたといえる。来年はヨーロッパ経済共同体(European Economic Community)設立を目指したローマ協定(Treaty of Rome、1957 )成立後、60年目になる。


9月24日開催された欧州10カ国の首脳会議は、EU(欧州連合)首脳会議は欧州連合の外周部の国境管理を厳しくすることで大筋合意した。会議ではEUの外周部にあたるブルガリアの国境警備にあたる人員を各国の応援のもとに増加するなどいわゆる「バルカンルート」と呼ばれる難民移動経路を完全に遮断することを目指している。しかし、これだけでは増加する難民・移民の大きな圧力に対応するには十分でなく、EU諸国は自国国境の警備管理を強化するなど、EUの分断はさらに進むだろう。(2014年9月25日加筆)。

Reference
John Peet and anton La Guardia. Unhappy Union: How the euro crisis - and Europe - can be fixed, The Economist, 2014. 

"Divided we fall." The Economist June 18th-24th 2016.

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分裂に向かうEU:復活する国民国家(1)

2016年09月17日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

 激動の世界、状況は刻々と変化する。EUの難民問題、そしてBREXITのような人々の目を奪うような変化の裏側に、来たるべき大変化の予兆が感じられる。ヨーロッパは、第二次大戦以降、最悪の政治的危機にあるといってよい。

このブログ・シリーズ「終わりの始まり」というフレーズは、昨年来、一貫して追いかけてきた変化のいわば抽象的表現である。より具体的にはEUというヨーロッパの
諸国家からなる地域連合体がさまざまな原因で破綻し、変質、分裂に向かいつつある過程の象徴的表現である。その後、このフレーズはいつの間にか、メディアなどでも使われるようになった。


EUの破綻が急速に目立ち始めたのは2009年のユーロ危機の頃からであり、その後昨年来のシリア難民の大量流入、域内諸国における極右・反移民政党の台頭、チェコ、ハンガリー、ポーランド、スロヴァキアなどでの国境の復活・強化、そしてイギリスのEU離脱まで、一連の大きな変化が続いている。EUそしてユーロの今後に懐疑的な動きは次第に勢力を増している。ヨーロッパの統合の理想へ向けての期待は、日に日に薄れている。EUはどこへ向かうのか。今回はメディアの報じる内容とは、少し異なった観点からその行方を見通してみたい。

イギリスの「離脱」の本質を考える手がかり
 EU設立以来の歴史において最も衝撃的な出来事は、本年2016年6月23日に国民選挙によって決定したイギリスのEUからの離脱であることは改めていうまでもない。最近ではBREXITなる言葉でも語られるようになったこの問題はかなり淵源は深い。

 BREEXITという言葉を聞いたとき、筆者の脳裏に浮かんだのは優れた経済学者アルバート・O・ハーシュマンの提示した「離脱、発言、忠誠」というきわめて斬新なアイディアであった。

 すでに原書刊行後半世紀近い年月を経過し、本ブログの読者の方々にはなじみのない内容だけに、2,3の例を挙げてみよう。あるブランドの商品を長年愛用、購入してきた消費者がいるとする。最近その商品の品質が明らかに劣化したので、考えたあげく、購入を止め、他の商品に乗り換える。この行為は exit「離脱」という。他方、従来の商品に愛着を感じていた消費者が当該商品の製造元に、不満な点を通知し、改善されること希望するという書簡を送ったとしよう。製造元がそれに対応し、品質改善を行えば、消費者は以前から愛用する商品を継続して購入する。この行為はvoice 「発言」といわれる。

 別の例として、企業などの組織の成員が、組織の衰退につながりかねない問題を見いだし、その改善のために内部で、自ら改善案の提示など組織内で努力をする、この行為は voice であり、他方こうした内部的改善に限界を感じ、組織を離れるなどの行為を選ぶならば、exit 「退出、離脱」となる。この場合の「組織」は企業に限らず、国家でも、なにかの団体組織でも差し支えない。

exit とvoice は相互に影響し合う。たとえば、企業に勤める労働者が現状に不満であっても、外の労働市場に仕事の機会が少ない、海外への移住が困難などの状況であれば、現在の仕事にとどまり、その改善を図ろうとする。組織内で自分の発言が受け入れられ、問題の改善がなされれば、労働者が組織にとどまる傾向が増えるかもしれない。

ハーシュマンが提示したこの考えは、経済面と政治・社会面の双方を結びつける可能性を提示しており、きわめて有効な概念だ。しばしば「離脱」は経済理論、「発言」は政治理論になじむとも考えられてきた。しかし、現実の問題に適用しようとすると、それほど簡単ではない。

Albert O. Hirschman, Exit, Voice and Loyalty:Responses to Decline in firms, Organizations, and States, Harvard University Press, 1970 (矢野修一訳『離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応』、ミネルヴァ書房、2005年、なお邦訳は先行して、三浦隆之訳『組織社会の論理構造―退出・告発・ロイヤルティ』ミネルヴァ書房がある)。筆者もこの斬新なアイディアと理論化に魅力を感じ、ハーシュマンの考えをきわめて早い時期に労働経済分野に応用したフリーマン&メドフ「労働組合の 二つの顔」(桑原靖夫訳『日本労働協会雑誌』270, 1971.9)に着目、翻訳紹介を行っている。 

イギリスとEUの関わり
 実はイギリス(連合王国)は、当初からEUに大陸諸国のような完全なコミットをすることを避け、ある距離を置いてきた。EUの歴史を顧みると、今日のEUの礎石となったといわれる1952年の欧州石炭共同体(ECSC)の創設メンバーにイギリスは入っていない。1973年になってデンマーク、アイルランドとともにECに加盟している。その後も、シェンゲン協定などにも加入することなく、EU(ブラッセル)にとってはかなり扱いがたい存在であったともいえる。

EU離脱問題が国民的関心事となったのは2013年キャメロン首相が、2015年の総選挙で政権を維持できれば、EU残留の是非を問う国民投票を17年末までに行うとの方針を表明してからだ。

2015年5月の総選挙では当然EU離脱が争点となったが、キャメロン首相の与党・保守党が単独過半数を獲得した。そして翌年2月にEU離脱の是非を問う国民投票を行うと発表した。その後6月23日国民投票で僅差で「離脱」決定までの経緯は、ご存じの通りである。政治スケジュールの上では、来年早い段階でイギリス政府が離脱の正式申し入れをし、その後2年間の協議を経て、離脱が決まることになっている。

 ドイツやフランスのような大陸諸国は、当初からEUの発展と運営に深くコミットしてきた。イギリスは大陸諸国とは常にある距離を置いてきた歴史的経緯を持つ国だが、「離脱」への道あるいは可能性は潜在的には準備されていたともいえる。この点、たとえばフランスが「離脱」するとなれば、イギリスのようにはとても進まない。まず国内に「大激震」が起きることはすでに指摘されている。

1990年にはERM(欧州為替相場メカニズム)に加入したが、翌年ポンド危機を契機に脱退している。1999年に欧州単一通貨ユーロが導入されたが、イギリスはこのシステムにも加入せず、自国通貨ポンドを維持し、今日まできた。ここで注目しておきたいのは、イギリスはEUの枠組みの維持・遵守に当初から熱心というわけではなかったことである。1999年の単一通貨ユーロも導入しなかった。同年にはアムステルダム条約が発効したが、イギリスとアイルランドは「シェンゲン協定」にも加入していない。シェンゲン協定はアムステルダム条約でEUの枠組みに組み入れられたが、アイルランドとイギリスはシェンゲン協定関連の規定の適用除外を受けている(当時はトニー・ブレア首相)。
 

偶然が左右したEU離脱
 6月23日の国民投票が僅差で「離脱」に決まったことは、その後の対応を困難にすることは以前に記した。Exit とほぼ同じくらいの確率で、voice が選択される可能性もあったからだ。実際、選挙前の下馬評では「残留」派優位とされてきた。このことは、「離脱」後 (After BREXIT) においても、国内に多数の不満を抱える国民が存在することを意味する。実際、ロンドンなどではEUへの「残留」を求める人々のデモが行われている。「離脱」派の人々は、EUからの移民・難民の受け入れを拒否する一方で、貿易面においては従来通りの市場アクセスを求めている。大陸側からすれば、きわめてご都合主義の要求であるとして、対応の硬化も感じられる。

 注目すべきは、若い世代の多くは「残留」を選択したという投票結果にある。Exit を選んだ年齢の高い世代は「古き良き(孤高の)イングランド」をどこかに夢見たのかもしれない。「離脱」派の49%が「英国についての決定は英国で行われるべきだから」との回答を選び、33%は「移民政策」をあげた(Lord Ashcroft Polls, 2016)。「残留」を支持した者は、概して上流階級、富裕層、大学卒など教育水準の高い者、「離脱」を支持した者は労働者階級、教育水準が中等教育終了以下の者が多いといわれる。前者の英国の国家権限についての感想には、後者の移民政策と重なる部分があるかもしれない。言い換えると、移民政策もEU(ブラッセル)の言いなりにはなりたくないと考える人々が当然いることだろう。    

国民国家の復活
 この問題について、筆者はかねてヨーロッパにおける国民国家 nation statesの復活という点に着目してきた。「国民国家」とはなにか。議論し始めると大変長くなってしまうが、簡単にいえば、ある地域、領域の住民、ほとんどは単一の民族を国民として統合することで主権国家として成立させた概念といえる。そして「国民国家」はグローバリゼーションと多文化主義の展開の下で、減衰してゆくと考えられてきた。

EUの成立と拡大の過程で、加盟国間の国境の壁は低くなり、人の移動に制限はなくなり、国家主権は次第にEU(ブラッセル)に集約されるとの構想だった。このいわばEU国家への政治的統合を通して、従来の国民国家は衰退、消滅の道をたどるとされてきた。しかし、EU域内の現実を見ると、統合は一筋縄では実現しない。それどころか、成功を収めることなく、かつての道を逆戻りする公算がきわめて高くなっている。

 すでにBREXITは誤った決定であったとの判断がヨーロッパを含め、世界の主要国の間でかなり一般化している。Ipsos Moriという世論調査機関が行ったイギリス(連合王国)との貿易とBREXITをめぐる理解についての結果をみると、興味深い傾向がみてとれる。

EU加盟国は当然ながらイギリスとの貿易依存度は他の地域の国よりも高いが、EU加盟国の間でのスペイン、ベルギー、スエーデン、ドイツなどはかなり高い比率でBREXITは誤った決定だったと評価している。イタリア、フランス、ポーランドなどはそれほど高くない。EU(ブラッセル)が図抜けて高いネガティブな評価をしていることは当然だろう。アメリカ、インド、オーストラリア、日本などの非加盟国はBREXITを比較的肯定的にみているが、日本、カナダなどは誤った決定とみる比率が比較的高い。

Source: "The start of the break-up," The Economist August 6th 2016

画面クリックで拡大

 イギリス政府はキャメロン首相の辞任により、メイ首相になったが、首相自身が「残留」派であり、「離脱」することなどまったく予想していなかったといわれる。そのため、議会の答弁においても今後いかなる方向へ進むか、ほとんど白紙状態であり、将来展望を持てないでいる。イギリスは混迷状態から抜け出るに多大な時間と労力を必要とするとみられる。

 EUは、今後いかなる道をたどるのだろうか。その前途は問題山積であり、27カ国となった大陸側諸国とイギリスの双方にとって、厳しい道のりとなった。もう少しその行方に目をこらしてみたい。


Reference
John Peet and Anton La Guardia, Unhappy Union: How the euro crisis- and Erucope- can be fixed, London: The Economist 2014. 

続く

 

 

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決断の時間:「ハドソン川の奇跡」その後

2016年09月06日 | 午後のティールーム

ハドソン川とニューヨーク市中心部
黒色線は航空機の想定飛行経路(筆者加筆)
始点はラガーディア空港
到達点はニューヨーク市ハドソン川フェリーターミナル付近


 

  先日は一冊4.5キログラムの書籍を話題としたが、今日は約70トンの航空機のお話。

 半年ほど前から本ブログに掲載しているアメリカ、ニューヨーク市のハドソン川についての記事に、雑誌社などから2,3の問い合わせがあったが、なぜ同じような質問がなされたのか分からずにいた。ハドソン川の問題については、上記の記事以外にも何度かブログに記しているが、筆者の関心はこのアメリカを代表する川の歴史的・自然環境的側面にあり、今回取り上げる航空機事故のその後の推移については考えたこともなかった。

 9月4日、新聞の折り込み広告を見て、なるほどと思った。2009年1月15日、酷寒のニューヨークで起きた「ハドソン川の奇跡」といわれる航空機事故に関連している。文字通り奇跡としか思えなかったハドソン川への航空機の不時着、そして155人の乗客全員が生存、帰還しえたという驚くべき出来事。ここまでは、当時日本でもかなり詳細に報道された。

 このいわば奇跡の表側の事実については、当時オン・サイトでスリルにあふれた出来事がメディアで報道され、率先して乗客の救済に当たった機長や乗務員、さらに当時現場付近を航行中であったフェリーや民間船舶の懸命な支援活動が報じられた。この出来事は、たとえてみると、東京の隅田川に大型の航空機が突如として下降、着水するような、通常では想像も出来ない光景だった。その内容から、アメリカの歴史に残り、長く語り継がれることは疑いなかった。
 
 広告は、この出来事の主役であった事故機の機長サレンバーガー氏の個人的問題を中心に、これまでほとんど報道されることのなかった奇跡的事件の後日談が映画化され、日本でも近く上映されることを告げていた。

 このブログでもたまたま、筆者の昔の個人的思い出などもあって、多少長く記したことがあった。この事件が起きる前には、同じ飛行経路を乗客としてノース・キャロライナまで、今はお亡くなりになったO先生(上智大)に同行、当時注目を集めていたミニ・ミルの調査に出かけたこともあった。

 この「ハドソン川の奇跡」の裏で、国民的英雄となったサレンバーガー機長をめぐる、もうひとつの事実の展開があったということは知らなかった。この出来事の表と裏をクリント・イーストウッド監督が映画化したのだった。全米のヒーローとなったサレンバーガー機長の役を演じるのは、「ダ・ヴィンチ・コード」などで2度のアカデミー賞主演男優賞に輝くトム・ハンクスという最高の配役だ。これはどうしても見てみたい。

  映画では、この想像を絶する環境で乗客全員を救った機長は、なぜ過失責任を問われることになったのかが語られるようだ。このブログでも、表の事実はかなり詳細に取り上げた。ハドソン川のこの地域は、事件が起きるまではあまり意識していなかったが、気づいてみると、これまでの自分の人生で格別の思い出があるところだった。

  改めて、マンハッタン島、ニュージャージ州に挟まれたハドソン川の事故機の着水地点を地図で見てみた。サレンバーガー機長操縦の航空機はニューヨークのラ・ガーディア La Guardia Airport を離陸した直後、二つのエンジンの双方に一羽2.5から8.2キロに近い大型の鳥カナダ・ガンが飛び込んでしまい、エンジンがまったく機能しなくなってしまった。いわゆる「バードストライク」という事故だ。機長としては、なんとか航空機が空中で操縦対応が出来る短い時間に不時着の場所を決定しなければならないという厳しい場面に追い込まれた。

   当時の航路を見ると、この航空機US1549便は、当日の午後3時25分ラガーディア空港を離陸した直後に事故に遭遇し、エンジンがすべて停止、機長は空港には戻ることができないと判断した。地図で見れば素人目には、少し前に離陸したばかりのラガーディア空港が距離的には最短に思われるが、おそらく急旋回などの危険な操縦は失速などを引き起こし、リスクが多いと思ったのだろう。機長が選んだのは、緩やかに旋回してハドソン川に下流に向かって不時着するという選択だった。筆者はかつてこの川の歴史に興味を抱き、友人と共に遡行した経験があった。ニューヨーク市の北方に多少川幅が広い地域があるが、概してはるか上流のシャンプレイン湖近くまでは、航空機の大きさと比較すると、川幅は狭い。今、地図上でみると、ロングアイランドの岸辺近くの方が安全のような印象も持った。しかし、機長は不時着して重い機体が水面に浮いている間に、乗客を安全に救出できる場所はどこかということまで考えていたようだ。後になって分かったが、機長に残された時間はわずか208秒だった。

 機長が選んだ地点はハドソン川の河口に近いオランド・トンネル Holland Tunnel(1927年完成)に近い場所だ。筆者は一時期、このトンネルを通って、マンハッタンとニュージャージ州のエセックス・フェルズにある友人の家に週末、滞在していたことがあり、ニューヨークに出た時は、帰途マンハッタンのバス停からこのトンネルを何度も通ったなつかしい所でもある。9.11同時多発テロで消滅してしまったワールド・トレード・センターにほど近い。その少し上流 Lower West Side と呼ばれる地域にはリンカン・トンネル(1937-52年完成)という4本の川底を通るトンネルがある。さらに上流のワシントン・ハイツ Washington Heights と呼ばれる地域には、対岸のフォート・リーFort Lee にかけて、巨大なジョージ・ワシントン・ブリッジが架けられている。この空中高くそびえる橋への激突などは絶対避けねばならない。この橋から下流は川底トンネルでニューヨークとニュージャージが結ばれていて障害となる橋はない。しかし、下流に行くほど大小の船舶の往来が激しくなる。

 サレンバーガー機長は地上の状況にも通じていた。旋回した航空機は巨大なジョージ・ワシントン・ブリッジを巧みに避け、かつてのヤンキーズ・スタディアムを左下方に見ながら、ハドソン川へと高度を低めてフィフス・アヴェニューに通じるフェリー乗り場の前に見事に着水した。実際にこのあたりをボートなどで通行してみると、河口に向かって多数のフェリーや各種の船が頻繁に往来している。それらに衝突でもしたら、航空機ばかりか当該船舶の乗客にも被害が及ぶことになる。その川面を数百メートルもバランスを失うことなくグランド・ゼロで滑走させ、救援の最も期待できるフェリー乗り場の前に着水停止させたという神業的な着水を成功させた。管制官にハドソン川に着水すると連絡したのは3時27分、3分後の3時30分には川面に着水、停止していた。35分ころから救援活動がはじまった。機長は上空から救援を手助けしてもらえそうなフェリーなどを期待しながら、障害物を避け、このきわめて難しい操縦をやってのけた。

 その後、期待したとおり、フェリーが乗客・乗務員の救出に当たったなど、アメリカらしい人道的な対応を多くの人たちが率先して支援したことで、歴史に残る感動的な出来事となった。

 機長は、刻々迫る最終期限の制約の下、文字通り沈着冷静に約79トンの航空機を時速240キロで見事に着水させ、ひとりの死傷者も出さなかった。切迫した時間に、機長は冷静沈着な判断力と長年培った高度な操縦技術でこの難事切り抜けた。しかし、世の中には前代未聞なことであっただけに、口数少ない機長の決断内容と対応に予期せぬ追求などがあり、過失責任を問われるまでにいたった。サレンバーガー機長は、こうした社会の理不尽になにを考えていたのだろうか。

 サレンバーガー機長について、これまで語られることのなかった奇跡の裏面を映画化しようと思い立ったイーストウッド監督の非凡さはいうまでもないが、なによりも知りたいのは急迫した環境で下した機長の決断にいたる過程を映画で追体験してみたい。


映画『ハドソン川の奇跡』の公式サイト:
 http://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/


 The Asahi Shimbun Globe, September 2016 No.185 

 

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