時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(18)

2005年04月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Unknown (after La Tour), St. Sebastian Tended by Irene, Staatliche Museum, Berlin


真贋論争を超えて  

  前回、(横長の)「聖セバスティアヌス」をとりあげたからには、(縦長の)「聖セバスティアン」を見逃すわけには行かない。いずれ劣らぬ素晴らしい作品である。しかし、専門家からはいずれもラ・トゥール本人の真作とは認められていない。ラ・トゥールは、本人の責任ではないとはいえ、実に真贋論争の渦中に取り込まれることの多い画家である。それほど、模作・コピー・贋作が多いということは、この画家の作品が時代を超えて人々に訴えるものを持っているからだろう。真作でなくても、身近かに置きたいという人々が多かったと思われる。実際、これらの作品に接すると、真贋論争など、どうでもよいという気になってくる。  

  というわけで、この(縦長の)「聖セバスティアヌス」も、専門家によるラ・トゥールの真作というお墨付きのない作品である(初めて、この画家の作品をまとめて見る機会があった1972年オランジュリー展当時は、ラ・トゥールの真作とされていた。田中英道『ラ・トゥール:夜の画家の作品世界』造形社、1972年にも掲載されている。)しかし、この絵に接した人は、直ちに並はずれた力量の持ち主の手によるものであることを感じるだろう。そして、前回見た(横長の)「聖セバスティアヌスス」と、根底でどこかつながっていることを思うのではないか。

モダーンな構図  
    事実、作品の発見・検証の過程はそうであった。この縦長の「聖セバスティアヌス」はまったく同じ構図の作品が2点発見されている。それぞれ、ルーヴルとベルリン国立美術館が所蔵している。今回は、ベルリン版を見てみよう。(ベルリン国立美術館が所蔵する現作品は、最初の出所は不明だが、ブラッセルに持ち込まれ、1906年ニューヨークのStillwell Collectionの所有となるが、1927年に売りに出され、ベルリンのMatthiesen Galleryが入手、その後Kaisesr-Friedrich Museumの時代を経て、現在のベルリン国立美術館に移転している。)  

    主題は横長の作品と同じではあるが、いずれもそれぞれに斬新な印象を与える。特に、縦長の作品は大変モダーンな感じがする。構図自体が洗練されていて見事であり、意図して筆を抑制し、輪郭を鮮明にしたような部分もある。とりわけ、中央の黒衣の女性の顔立ちなどにそれがうかがわれる。  

    描かれた登場人物は、5人である。矢で射抜かれ、瀕死の状態で横たわる若者聖セバスティアヌスとたいまつをかかげて事態を見つめる聖女イレーヌと友人、従者と思われる女性が描かれている。横長の作品と今回の作品に共通な点のひとつは、同時代の他の画家たちが、聖セバスティアヌスにかなり焦点を当てているのとは異なり、聖女イレーヌに重点を移していることである。この縦長の作品では、紅赤色の衣装をまとった聖イレーヌと黒い衣装の女性が中心人物である。

見事な仕事  
    ベルリン版とルーヴル版の明瞭な相違点は、後列で合掌する従者のかぶるヴェールがルーヴル版では美しい青色で描かれているが、ベルリン版では黒色である。これは、ベルリン版は安価な顔料が使われたために、褪色した結果らしい。その他の点では、ベルリン版の方が全体に色鮮やかであり、コントラストが大きくとられている。ただ、後ろに並ぶ二人の従者については、ルーヴル版の方がはっきり描かれている。これらのことを含めて、今日ではベルリン版はラ・トゥール工房で制作された正確なコピーと推定されている(キュザン=サルモン)。他方、全体としてルーヴル版の方が穏やかな、落ち着いた印象ではある。しかし、見る人の好みもあるが、いずれも甲乙つけがたいところがある。これは、「いかさま師」の場合などにも当てはまる。  

  両者に当てはまるが、細部にわたる綿密な制作ぶりには圧倒される。従者のかぶる帽子の縁取りまで丁寧に描き込まれている。たいまつの光に映し出された聖女イレーヌの胴着の紅赤色の美しさ、スリーヴの陰影も見事である。とりわけ、聖女イレーヌのかかげるたいまつの3重に重なった炎のゆらぎは、絶妙といってよい。昨今のデジタル画像も、遠く及ばないのではないかと思われるほどである。

美しい画面にこめられた深い悲しみ  
    伝承によれば、聖セバスティアヌス(2013/0115修正)はこの後、イレーヌたちの介抱で一度命を取り戻すが、まもなく殉教し世を去ることになる。意識を失っている若者の脈をとる聖女イレーヌ、そして友人の妻(?)、従者たちの表情には、闇の彼方に待ち受ける結末が見えているようだ。画家が聖ヒエロニムスについては陰影で覆い、見る人の視点を介抱する聖女イレーヌの方に誘導しているのは、この若者の運命がもはや限られたものであることを暗示している。  

    横長の作品以上に、抑制された色彩と様式化された描き方で、ジャック・テュイリエが指摘するように、後年のキュービストにつながるところがある。ルーヴル版と比較して、ベルリン版の方がその印象が強い(ちなみに、この二つの版が並列して比較されたのは、1972年のパリでの展示であった。最近は印刷や画像の技術が大変進歩しているので、必ずしも現物を並べなくても、かなりの点は明らかになるが、当時は並列、比較の意味は大きかったに違いない。ラ・トゥールについて、私が最初に日本語文献で読み、感銘を受けた田中英道『ラ・トゥール:夜の画家の作品世界』の時点では、印刷技術も今日ほど進んでいなかったので、作品一覧の図版はモノクロであった)。  

    ラ・トゥールの他の作品と同様に画題にもかかわらず、宗教画的な印象をほとんど与えない。しかし、画面を覆う独特の静謐さ、完成された美的構図が人々の胸に響く。他の画家の作品に多い光輪や天使はいっさい描かれていない。同時代の人々にとっては、もしかすると、自分たちの日常生活の中にいる人たちではないかと思わせるイメージである。しかし、そこには引き締まった空間が生まれ、世俗の世界とは微妙な一角を画している。  

    「(横長の)聖セバスティアヌス」と並び、これらの作品が疫病や戦乱などがもたらした不安の中に、一筋の光明を見出したいと思う人々にとって、なににもまして心の救い、護符の役割を果たしたことは容易に想像できる。その思いは、フランス王やロレーヌ公爵などの上流階層から、小さな教会に通う一般人まで共通なものであったのだろう。このテーマの作品が多数コピーとして存在するのは、そうした事情があったに違いない。

よみがえった古典世界  
    ルーヴル美術館所蔵の作品についても記しておくと、来歴は不明だが、1649年にロレーヌ公に寄贈されたものに相当するのではないかと推定されている。作品は1945年にノルマンディのボワ=アンズレーの小さな教会で発見され、ルーヴルへ落ち着くことになった。修復後、1948年から展示されている。最初はラ・トゥール工房の作品の域を出ない、あるいは単なるコピーではないかとの評価もあったが、その後、再評価が進み、X線調査なども行われて今日ではラ・トゥール自身の手になるものでないにせよ、オリジナル作品であるとされている。ベルリン版も同様にオリジナル作品あるいはそれにきわめて近い作品との評価で落ち着いているようだ。いずれも、その光の絶妙さ、熟達した筆使い、そしてなによりも構成の美しさからラ・トゥール工房で少なくともラ・トゥールの指導の下、あるいはラ・トゥール自身が筆を加えて制作されたものではないかとの推測もなされている(Thuillier 222)。   

    これらの作品を通して、幸いにも、見事に17世紀という「同時代」contemporaryによみがえった古典ローマの世界に接することができる。そればかりか、明日なにが起こるか分からないという現代社会が抱え込んだ不安に対する一筋の光明と心の支えを、この絵に見出す人もいることだろう。

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頓挫したEUサービス労働者の自由化(2)

2005年04月27日 | 移民政策を追って
  このシリーズの第一回でとりあげたように、EUの欧州委員会は、域内経済活性化の手段としてサービス分野の自由化を構想し、その実現のために「サービス(業務)指令」service directiveを加盟国に提示してきた。これはEU域内でサービス業務を展開する場合に、従来から存在した行政手続きや各国ごとの規制を簡素化・統一することを内容としている。
  より分かりやすくいうと、加盟国内で薬局を開設する場合、国ごとに異なった規制措置がある。また、特殊なケースだが、フランスでチョコレート店を開業する場合には、地元の商工会議所などで構成する委員会の許可が必要とされる。地元の店舗などの権益を擁護するためだろう。こうした規制を簡素化し、域内ではほぼ同じ条件にすることがサービス指令の目的である。さらに、サービス業に従事する人々が、国境を越えてEU域内を自由に移動できるようにすることも、指令が目指すところである。
  この指令は、欧州委員会が指令を採択した当時の欧州委員の名前から「ボルケシュタイン指令」と呼ばれている。そして、指令のカバーする範囲は、金融や通信・運輸を除くすべてのサービス分野に及んでいる。

自由化の効果
  大部分は目に見えないために気づかないが、例にあげたように、各国にはさまざまなサービス業務についての規制がある。このため、サービス分野はEUの経済活動の約7割を占めるが、国境を越える取引の中では約2割にすぎない。欧州委員会は自由化で競争を促せば企業や個人の消費が0.6%増加し、差し引き60万人分の雇用が生まれるとしている。
  しかし、ドイツ、フランスなどの先進地域の国では、この指令への反発は強い。なかでも自国の法規に抵触さえしていなければ、域内の他の国でも同じ条件でサービスを展開できるとした条項に強い懸念が示されている。自国で形成してきた労働基準などを、他国から流入してきた企業や労働者に適用できなくなるおそれがあるためである。ドイツ、フランスなどEU域内の「先進地域」にこうした懸念が高まっている。

大きな賃金格差
  JETROによれば、旧加盟国の労働者の平均賃金は月額で約2500ドル(約27万円)だが、中・東欧などのポーランドやチェコなどでは500-700ドル(約54000―76000円)であり大きな格差が存在する。サービス分野は人件費がコストの大半を占めるので、中・東欧から労働者が流入すれば、失業や賃金低下を招くと懸念する西欧の政府、労働組合などが強く抵抗している。
  言い換えると、EU域内において、以前からの構成国である西欧(ドイツ、ベルギー、イギリス、フランス、スペインなど)と中・東欧(ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド、エストニアなど)との間に経済格差があり、労働コスト(賃金水準)なども、顕著な段差が存在する。そのために、中・東欧圏から西欧に向けて、サービス分野での進出をはかる場合に、格差の存在は中・東欧にとっては有利な武器(低労働コストを背景とする出稼ぎ労働者の雇用増加など)として働くが、西欧諸国にとっては自国民の雇用を奪われ、社会の負担が増加するなどの悪影響が懸念される。とりわけ、前回のシリーズで記したサービス供給の「原産国」、すなわち中・東欧諸国の労働条件を維持することが最低条件となると、受け入れ側の西欧諸国がこれまで達成してきた労働条件が侵蝕されることになりかねない。

国境をくぐり抜ける「一人企業」
  2004年5月の拡大EUへの移行に際して、以前からの加盟国は労働者移動についていずれも留保・制限措置を設けた。しかし、国境の網目をくぐり抜けるさまざまな方途が仕掛けられている。そのひとつは、中・東欧諸国の個人(労働者)が「一人企業」という形で、旧加盟国内に「企業」として登録し、仕事を請負って、サービス業務を提供することが行われている。この場合は、労働者でなく、「企業」として進出するために、旧加盟国の定める最低賃金や労働時間などに束縛されずに、安く仕事を請け負うということが行われている。近年、アメリカなどで、増加が著しい「独立業務請負業」とほとんど同じである。建設、清掃、長距離運転・輸送など、労働コストの比率が高い分野で拡大している。
  暗礁に乗り上げた事態を打開するため、欧州議会とEU理事会がサービス分野の自由化法案の修正を検討中であり、今後、欧州委員会と加盟国間の調整を進めることになっている。しかし、リスボン・サミット当時は、「サービス分野自由化」に賛成であった西欧、とりわけドイツ、フランスが自国の経済状況の悪化もあって、とりわけ「サービス指令」に強い反対を示しているため、自由化は頓挫している。

日本についての示唆
  EU拡大については、しばしばその光の側面だけが伝えられ、過大な幻想を抱きがちだが、現実には多くの困難が存在している。それらの問題は、日本にとって縁がないように思えるかもしれないが、日本の施策のあり方について示唆する部分も多い。
  たとえば、日本の最低賃金制度は、日本列島という地理的にも決して広くない領域を都道府県別あるいは産業別に細分し、政策としての透明度もきわめて悪い。経営者など労使の関係者で、自分の事業所が所在する地域の最低賃金を知らない人も多い。形骸化が著しい。このように制度化が行き過ぎ複雑化し、運用も硬直化すると、無駄な行政コストもかかる。厚労省研究会は制度見直しの提言をしているようだが、現行制度の柱である地域別最低賃金にしても、地域区分の都道府県別などはいまや時代錯誤であると思う。セフティネットとしての最低賃金制度は、EUの実態をみても必要と思うが、日本の制度の内容や運用が明らかに時代遅れになっていること自体を、関係者は厳しく反省する必要があろう(2005年月25日記)。

参考:
“Outlook Gloomy” The Economist, March 30, 2005.
“From Lisbon to Brussells” The Economist, March 17 2005.
「サービス分野自由化:EU、内部対立深まる」『日本経済新聞』2005年4月15日
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ラ・トゥールを追いかけて(17)

2005年04月25日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Attributed to Georges de La Tour, Saint Sebastian Tended by Irene, c.1630-33, Kimbell Art Museum, Fort Worth

  「イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス」「(横長の)聖セバスティアヌス」「ランタンのある聖セバスティアヌス」などさまざまな画題で呼ばれてきたこの作品は、ラ・トゥールの真作とされるものが見いだされていない。現存する作品は、ラ・トゥールの工房作品、他の画家の模作などとされ、専門家の間でラ・トゥール本人のものであるとのお墨付きが得られたものがない。したがって、今回の国立西洋美術館のカタログにも含まれていない。しかし、いくつかの傍証からラ・トゥールが、このテーマで複数の作品を制作したことは確認されている。模作などの形で発見された点数が10点を超えることもあって、ラ・トゥールの研究書や紹介にはたびたび登場する。真作と確認される作品は見つかっていないとはいえ、ブログ筆者はこの一連の作品の存在自体、その数からしてもラ・トゥールの画家としての生涯で、ひとつのエポックを画するものであったと思っている。

現存する多数の模作  
  この横長の構図での作品は、模作・複写されたものがラ・トゥールの画題の中では最も多く、これまでに少なくも11点が見つかっている(1998年にはオレルアンで、当時所在が確認されていた10点のうち、8点が同時に展示されたこともあった)。修復その他の理由で後に加筆された作品も多く、ラ・トゥールの真作に近いものからまったく別人の作と断定されるものまで、かなりばらつきがある(聖セバスティアヌスのテーマでは、縦長の構図や横長でも作品のサイズが異なり、かなり小さいものもある)。

  確かに、現存するまったく同じ構図の作品であっても、並列されていると光源として描かれているランタンの光度次第で、印象はかなり異なる。光と影がこれほどまでに作品を変えるものかと驚かされる。制作にあたった画家(たち)は、当然さまざまな効果を試しているのだろう。

  今回は、ラ・トゥールの作風に最も近いともいわれるキンベル美術館所蔵の作品で見てみよう。他の同一構図の作品と同様、画面の中央部に置かれたランタンの映し出す光と陰の下に、3人の人物が描かれている。真ん中に横たわる裸体の若者の左上肢には、羽根のついた矢が突き刺さっている。傍らに置かれた甲冑などから、戦闘などで負傷した兵士とみられ、きわめて重態であることがうかがわれる。中央に位置し、ランタンの光によって容貌や衣装が最もはっきりと映し出されている女性は、介抱に当たり、矢を引き抜こうとしている。その横でランタンに覆い被さるように立っているのは、おそらく女性の従者であろう。

やすらぎと癒しの情景
  この構図から、若者は聖セバスティアヌス、介抱に当たる女性は聖女イレーヌであることが分かる。髪の長い若者の容貌は光が直接当たっていないため、必ずしも明瞭ではないが、重傷に伴う衰弱の状態がみてとれる。しかし、そこには残酷さや苦痛の色はあまり感じられない。他の画家の作品には、しばしば矢が何本も刺さっていたり、流血まで描かれている。他の画家であれば、聖セバスティアヌスを中心に描くであろう画題を、おそらく原画を描いたラ・トゥールは、聖女イレーヌに焦点を移すという、大きな革新を行っている。聖女イレーヌの胴着のクリムソン(深紅色)、袖のマジェンタ(紅紫色)がランタンの光に美しく冴えている。この作品では、胴着の刺繍もかなりはっきりと読み取れる。ラ・トゥールの描いた(現存する)女性像の中では、最も高貴に美しく描かれているといえるだろう。

  抑制されたリアリズムの下で、宗教画という印象は薄い。この点は、カトリック宗教改革の目指すところを的確に読み取り、聖人や使徒の苦痛や苛酷な試練を過度にリアリスティックに示さないという画家の配慮と併せて、当時の人々にとっては、大変感動的な光景として受け取られたと思われる。遠く離れたものになっていた聖人、使徒を、当時の人々の日常生活に近づけるというラ・トゥールの意図はここにもはっきりと感じられる。

人々の求めたもの  
  この画題でラ・トゥールが多数試み、模作も多いという事実の背景には、このテーマが当時の人々に大変好まれたという事情が存在すると思われる。ロレーヌ地方には当時ペストなどの疫病が蔓延することが多く、戦乱の巷になるということもあって、階級の上下を問わず、社会には不安が満ちていた。人々は心の安らぎや救いを求めて、こうしたテーマの作品に強く惹かれ、苦難に耐え、立ち上がろうとする殉教者の姿に、守護神のような思いを抱いていたと思われる。聖人信仰が復活していたといえる。

  聖セバスティアヌスはキリストへの殉教者として、16-17世紀には大変よく知られる存在となり、疫病への守り神と考えられた。それまでの聖書伝記の研究では、聖セバスティアヌスについての詳細は時の流れに埋没してあまり知られていなかった。反宗教改革当時、キリスト教初期の歴史研究が精力的に行われ、聖セバスティアヌスは大変人気があった。伝承によると聖セバスティアヌスは、3世紀後半頃、ディオクレティアヌス皇帝の近衛兵であったが、密かに禁制のキリスト教を信仰していた。二人の仲間が同じ信仰のために死刑を宣せられた時、助けようとして弓矢による刑に処せられたと伝えられている。しかし、矢はいずれも急所を外れ、九死に一生を得た。その時、寡婦イレーヌとその侍女とされる聖女たちに手当てを受けて回復したが、再び皇帝のキリスト教徒への仕打ちを非難したため、棍棒で打ち殺され、殉教したという。

守護聖人となった聖セバスティアヌス
  この画題は、最初の苦難の時に、夜になって聖女イレーヌが侍女とともに傷ついた聖セバスティアヌスを埋葬のために訪れたところ、幸い命があり、矢を抜いて傷の手当てをしたとの伝承をとりあげたものと思われる。聖女イレーヌはおそらく聖セバスティアヌスの迫害された友人の寡婦であると考えられる。この弓矢の傷で一度は死亡したと思われた状態から再度立ち上がったという伝承も、守護聖人としての聖セバスティアヌスの人気を高めたものと思われる。

フランス王をも動かす?
  1751年、ロレーヌの歴史家ドム・カルメ師は、(当時の文書の記録か伝承によるものか定かでないが)ラ・トゥールがフランス王ルイXIIIに聖セバスティアヌスの絵(詳細不明だが、おそらく縦長の作品)を贈呈したと記している。王は作品の素晴らしい出来映えを大変気に入り、自室にかかっていたすべての絵を取り外し、この絵だけを掲げさせたという逸話を残している(Jacques Thuillier 1992,97:174)。こうした事実があったのか、確認のしようはないが、作品のできばえ、時代の状況、画家の実績からすれば、十分ありえたことであろう。

  折しもロレーヌ公爵領は、1634年からフランスの統治へ移行しており、ラ・トゥールとしても新たなパトロンの庇護を求めたい事情もあったと思われる。そうした世俗の世界の人としてのラ・トゥールの評価は別として、この時期には画家としての力量、そして名声も確立し、もはや文句はつけがたい。そして、時代もこの画家を求めていたといえよう。(後世の真贋論争を超えて)この作品はその要望にしっかりとこたえたものであった(2005年4月24日記)。

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グローバル化の衝撃:繊維産業のケース(3)

2005年04月24日 | グローバル化の断面
吹き荒れる「チャイナ・バッシング」の嵐
  中国繊維製品が世界市場にもたらした衝撃は、予想を超えたすさまじいものがある。特に先進国の中でなんとか生き残ってきたアメリカ繊維産業にとっては、今回は存亡をかけたせめぎあいといわれている。最近のアメリカ議会には、最後の攻防手段ともいえる繊維製品の輸入制限に加えて、人民元の切り上げ要求などが重なりあって「チャイナ・バッシング」の嵐が吹き荒れている。議員立法などの対抗措置が目白押しである。しかし、そうした措置がどれだけの効果があるのか。グローバル化の衝撃は大きく、対応も困難をきわめる。グローバル化の激流から逃れられないとすれば、その中で対処する道を選ばねばならない。
  繊維産業を抱える南部あるいはニューイングランド諸州出身の議員は、上下院を通して中国製品の競争力削減に懸命になっている。確かに、2004年のアメリカの対中貿易赤字は過去最大の1600億ドルに達した。中国製品の輸入が急増している繊維産業を中心に、アメリカ企業の経営破綻や人員解雇が相次いでいる。その実態を伝えるレポートを素材に展望してみよう。

繊維の町カンナポリス(注*)
  ノースカロライナ州カンナポリスは、南部の繊維工業の町として知られているが、その実態は、グローバル化の衝撃に壊滅寸前の姿を示している。この町は1906年、繊維産業王のジェームス・キャンノンが工場を設立、君臨したカンパニー・タウン(企業城下町)である。カンパニー・タウンの通例として、会社と従業員とその家族である住民が一体となり、パターナリスティックな雰囲気が漂っている。会社が住民の生活まで目を配ってきた。そのかたわら、1920年代大恐慌時、従業員の生活の面倒をみた経営者に「キャンノンおじさん」の愛称がつけられたような町である。会社と共に生きてきた住民にとっては暮らしやすい小さな世界を形作ってきた。高い賃金、州が無償で提供する電力、雇用の安定などが、この日常は平穏な町を今日まで存続させてきた。(長年、この産業を研究対象のひとつとしてきた私にとっても、良くこれまで存続しえたという思いと同時に、ついに来るべき日が来たかという複雑な感じである。)

記録的な失業者
  このキャンノン・ミルズは、かつては一日30万本のタオルを生産していた(画像は同社のタオル製品)。しかし、滔々たる中国製品の流入に対抗できなくなってきた。2003年7月末には傘下のピローテックス社が全米にあった16工場を閉鎖し、およそ6500人の従業員が職を失った。ノースカロライナ州では、わずか一日に生まれた失業者数としては記録的なものとなった。カンナポリス地域だけでも4300人が失業者となった。過去10年間にノースカロライナ州だけで25万人の製造業労働者が職を失っている。そのうち、9万人が繊維工業で働いていた。このシリーズでも記したように、本年1月1日から繊維製品の輸入割当が撤廃されたので、失職する人はさらに増えそうである。

再訓練の困難さ
  失職しても、他の産業に雇用されればよいではないかという考えもある。確かに、ノースカロライナ州のハイテクやサービス産業は拡大している。しかし、繊維産業のような工場労働者は新しい技術に対応できない。ピローテックス社が閉鎖した時、労働者の3人に1人は高校教育を受けていなかった。10人のうち一人は読み書きが十分できなかった。そして半数近くは50歳以上であった。
  アメリカには「貿易調整援助」Trade Adjustment Assistanceと呼ばれる連邦の再訓練プログラムがあることは、よく知られている。輸入の急増などによって危殆に瀕した産業の労働者などに対して実施される救済と次のステップへの移行措置である。こうしたプログラムの対象となった労働者が再訓練を受けている間は、生活に差し支えないほどの給付がされている。給付期間も2002年から従来の78週が104週になった。しかし、ピローテックスのようなひとつの会社に30年も勤続した労働者が、突然しかも多数失業した例はほとんどない。そのために、今回はこうしたプログラムにとっても試練のケースとされている。
  2000人近い労働者が再訓練プログラムを希望したが、計算機(コンピューターではない)も使ったことのない人々も多い。地域に貢献するために、会社は多数の身体障害者も雇用してきた。しかし、再訓練でこれらの人々が新たな仕事につける可能性は少ない。

外国人労働者には恩恵
  皮肉なことに、このプログラムで救われるのは、長年この地に住むアメリカ人労働者ではなく、外国人労働者だといわれている。合法的にアメリカに居住できる資格さえあれば、カナポリスにいる数百人のラオスや中南米からの労働者も再訓練を受けることができる。それまで、下積みの肉体労働しか仕事がなかったが、思いがけなく無料で教育・訓練を受ける機会が生まれた。彼らは、英語とコンピューターの教育を受けた後、カンナポリスを出て仕事を見つけることができる。「キャンノンおじさん」の町にずっと暮らしてきた人たちにとっては時代の変化はとりわけ厳しい(2005年4月23日記)。

(注*)カンナポリスについての記述は、主として下記の資料による。
“The human cost of cheaper towels”, The Economist, April 23rd, 2005 digital edition.
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人はなぜ移動しないのか:EU経済の課題

2005年04月23日 | 移民政策を追って

  2004年5月のEU拡大後、東欧諸国など新加盟国から、イギリス、フランス、ドイツなどのEU中心国へ働く場所を求める移民労働者はどのくらいの数になるか。大変予測が難しかったことは、以前にイギリスを例に検討した通りである。今回は、少し別の視点から考えてみたい。
  ヨーロッパ最大の経済規模を誇ってきたドイツだが、現在は戦後最悪の経済的苦境に陥っている。今年1月から、就業能力のある社会扶助受給者を算入した新しい失業率統計に移行したが、それによると失業率は12.1%、失業者数でも500万人台という記録的な水準となった。旧東独地域は、20%近い失業率である。しかし、旧東独地域からの労働者の移動・流出は、東西統一後のピーク以降、増加せず、停滞しているという。

人々を引き留めるものは
  ここで、ひとつの疑問が提示される。失業している労働者は、雇用の機会を求めて、なぜ、国内あるいはヨーロッパの他の地域へ移らないのか。この問題は、ドイツに限ったことではない。イタリアでも、失業者の多いシチリア、南イタリアから雇用機会の多い北イタリアのトレントやヴェローナなどへ労働者は移動して行くことはほとんどない。カルロ・レーヴィの「キリストはエボリにとどまりぬ」Cristo si e' fermato a Eboli, 1945(岩波書店、絶版)で、悲惨な状況として描かれた南イタリアほどではないにしても、南北の格差は消滅したわけではない。人は自分が生活する地域や文化に、それぞれの深い愛着やしがらみを感じて生きている。
  地域や産業間での労働力移動が柔軟に行われないという硬直した労働市場は、ヨーロッパ経済における最大の障害とされている。いまやEU活性化にとって最重要課題となった労働市場改革の目指す方向は、労働力の流動化である。確かに、失業者など仕事の機会に恵まれない労働者が雇用機会のある場所へ移動すれば、いうまでもなく失業者は減少する。しかし、人は期待した通りには動いてくれない。なにが、人々を地域に引き留めているのだろうか。

中国・アメリカとの差異
  ヨーロッパは特殊なのか。確かに中国、アメリカなどでの労働力移動の実態とは顕著に異なる。中国における春節時の都市から農村への労働移動は、極端な例かと思うが、シリコン・ヴァレーのようなハイテク集積地域においても、技術者・専門家などの熟練労働力の出入はかなり激しい。
  ヨーロッパでも、中間管理者層やプロフェッショナルの地域間移動は増加しているが、それでも、アメリカなどと比較すると、人々は地域に固定されている。地域の生んできた文化の影響力は大きい。18年前からエラスムス・プログラムの名の下に、奨学金つきの多国間・交換留学プログラムが実施されてきた。目標は、ヨーロッパの大学生全体の5%をこのプログラムに参加させることとされているが、達成は困難とされている。
  こうした状況の背景には、形の上ではEUという歴史的な地域統合が実現したとはいえ、実際には国や地域という障壁が自由な移動を妨げていることが分かる。事実、EUのほとんどの加盟国は人の移動にさまざまな制限を付している。昨年の拡大EU実現後も、以前からの加盟国はすべて、国境を越える人の移動について、暫定措置を選択し、入国を制限している。

人が動くか・産業が動くか
  その背景には、これまでの国家としての国民に対するサービスのあり方などが、各国ごとに異なっていることを指摘できる。教育制度、専門職資格、労働法、医療保険制度や社会保障・年金制度などもEUとして統一されていない。
 かつて、イギリスのサッチャー首相政権下における産業・雇用政策が思い起こされる。サッチャー首相が政権の座についた時は、イギリスは産業界にも活気がなく、失業者も多く、停滞の色が濃かった。ロンドンなどの大都市も、今日の活況をおよそ想像できないような陰鬱さが漂っていた。チェアリングクロス街の路上で炭坑夫組合がスト資金のカンパをしており、警官が来ると隠れたりしていた光景が目に浮かぶ。
  停滞した地域から人が動かないならば、産業を持って行こうという政策が成果をあげ、地域の活性化が始まった。現在、日産自動車の工場がある北東部のワシントン・サンダーランドを開所式の頃に訪れたことがあった。少しずつ部品企業などが進出していたとはいえ、あたり一面広漠とした野原のようであった。テープカットに誰がくるか秘密にされていたが、当日サッチャー首相が自らヘリコプターでかけつけた。資本に色はない、イギリス人のための雇用機会が生まれるならば、外資は大歓迎という方針にも驚かされた。他方で、イギリス資本の自動車企業はなくなってしまうという反対の声もかなり高かったからである。労働力が動かないならば、産業が移動するという政策転換が行われていた。
  労働力移動が大きな社会が望ましいか否かは、多分に関係者の価値観によるところが大きい。故郷や故国を失った漂泊の民のような人々が増えるのも好ましいことではない。ディアスポラ(家族や国家の離散)は、グローバル化の進行とともに深刻な問題となっている。
  かくして、「人はなぜ移動するのか」そして「人はなぜ移動しないのか」という問いは、労働の世界を学ぶ者にとっては、興味が尽きないテーマである(2005年4月21日記)。

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心に残る絵それぞれ(1)

2005年04月21日 | 絵のある部屋


 人生の途上で訪れた国内外の美術館は、今になってみるとかなりの数に上る。ひとまず国内は別として国外で最も回数の多いのは、以前にも記したが、ロンドンのテート・ギャラリーであろうか。ほとんど30年近いつき合いとなる。2000年5月に、テムズ・バンクサイドの火力発電所跡に建造された現在のテート・モダンに移るずっと以前から機会があれば通いつめていた。ここは、ターナーのコレクションでも著名だが、ターナーについてはきりがないので、別の時にしよう。

 絵との出会い
テートには強く印象に残る絵が多いが、その中のひとつにサージェント(John Singer Sargent)の「カーネーション、百合、百合、薔薇」と名付けられた絵がある。最初にこの絵にお目にかかったのは、多分1967年、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに展示されていた時ではないかと思う。テートが誇る多くの名画の中では決してとりたてて目立った絵ではないのだが、最初見た時からなんとなくひきつけられてしまった。その後、ロンドンでのサージェントの特別展を含めて、この絵と対面した回数は一寸分からないくらいになった。1998年に東京都立美術館で開催された「テート・ギャラリー展」そして、滋賀県立美術館での展示にも出品されたらしいが、見る機会がなかった。

 東洋風の不思議な印象
作品自体はきわめて写実的だが、画面に漂う雰囲気がなんとなく幻想的であった。大変美しい絵なのだが、題材が非常に不思議に思えた。二人の少女が美しい花々の中で、東洋風の提灯に火をつけている。西洋的な美と東洋的な美とが混然となったような魅力を持つ絵である。そして、どことなく夏の夕方を思い起こさせた。なにが、そうした印象を私に与えたのかは実のところよく分からない。

やや思い当たることがないわけではない。子供の頃、お盆になると各家が門前に迎え火を焚き、それぞれの先祖の菩提寺まで行き、墓前に花を捧げ、家紋の入った提灯に火をともして戻ってきた記憶と重なり合ったのかもしれない。夕方になると、各家ごとの提灯を手にした人々が行き交っていた光景が記憶に残っている。家々は祖先の霊を迎えるために、花を飾り、お供え物をして、僧侶が忙しそうに檀家をまわっていた。

 イギリス風・フランス風?
どの絵画にも画家の活動している国の国民性や風土を反映して、特徴があるが、この絵を見た時の第一印象のひとつは、なんとなくイギリス風だなあと感じたことである。個人的な印象にすぎないが、ヨーロッパの他の国ではこうした絵はあまり受けそうにない。とりわけ、ラテン系の国々には、なんとなく合わない気がする

   この作品を所蔵するギャラリーがテートであるということを別にしても、やはりイギリス風なのである。ターナーをはじめとする有名な絵が多いこともあるが、テートでも通常はそれほど人だかりがない絵である。少なくとも私が惹きつけられた頃はそうであった。この周囲に溶け込んで突出して目立たないというのも、イギリス風なのだ。(余談になるが、昨年テート・モダンのショップに立ち寄った時、この絵とジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「生誕」がポスターの売れ行きベストテンに入っているといわれて、一寸驚かされた。)

後日、この絵がサージェントによって描かれた時の状況を知ることができたが、夏の夕方、ウースターシャーの友人邸に滞在した折、ローンテニスの合間に、友人の娘をモデルとして画家が想像のおもむくままに描いたものらしい。そして後に記すように、画家が「フランス風」にすぎるとの批判を受けて、定住を決めたイギリスの地で「イギリス風」への変革を試みたひとつの作品であると考えられる。画風が画家の活動する世界の影響を受けて、変容することを知る興味あるケースである。

 肖像画家としてのサージェント
サージェント(1856-1925)は19世紀後半から20世紀初めに活躍した画家だが、きわめて多くの有名人の肖像画を残した肖像画家ともいうべき特徴を持っていた。事実、ウッドロー・ウイルソン大統領、セオドア・ルーズヴェルト大統領、ジョン・ロックフェラー、ヘンリー・ジェ イムズ、画家のパトロンのイサベラ・スチュワート・ガードナーなど多くの有名人の肖像画が、この画家の手で描かれた。かつてアメリカにいるときにその傑作の一つといわれる「マダムX」や「ウインハム姉妹」などの絵を、これもメトロポリタン美術館で見た記憶があった。(「マダムX」は、1884年のパリ・サロンに展示された時に、露出度が高い、傲慢な表情などをめぐり、当時のパリではスキャンダルで不道徳な絵と悪評であった。今日の標準では、とりたてて、どうということはない。)
   
しかし、サージェントの肖像画以外の作品については、恐らく見ていたのかもしれないが、画家の生い立ちを含めて、ほとんど詳細を知らずに過ごしていた。肖像画は絵画の世界でひとつのジャンルを形成しているが、描かれた人や時代についての知識がないと、深い理解ができない。そのため、私は特定の絵を除き、あまり関心がなかった。だが、この東洋的な絵がサージェントの作品であることを知ってから、この画家の背景について、にわかに興味が生まれた。


サージェントはアメリカ人の両親の間に生まれたアメリカ人なのだが、生まれたのはイタリアのフローレンスである。そしてイタリア、フランス、ドイツで絵画の修業を積んだ。正規の絵画教育はパリの美術学校とフランスの著名な肖像画家であったキャロラス・デュランの下で受けた。その後、彼は人生のほとんどはイギリスで過ごした。両親の国であるアメリカには短期間の旅行しかしていない。ましてや、日本や中国に旅行したという記録もない。したがって、この絵も、想像の世界で描かれたものだろう。

 画家の評価
サージェントについての専門家の評価は1925年の画家の死後、低落していた。批評家の一部には、素晴らしい才能の持ち主だが、作品に深みがないという評価があった。しかし、毀誉褒貶は世のならいである。その後、作品のてらいのない自然さ、優れた技法が再評価されたのである。
 サージェントの作品は、大陸に活動の中心を置いていた前半とイギリスに移った後半で顕著に区分される。彼はパリ・サロンでの評価にみられた画壇での不評に見切りをつけ、30歳の頃からロンドンに移り住み、肖像画の比重を減らした。そして、ヨーロッパ、とりわけイギリスの風景を印象派風に水彩で描くことが多くなっていた。モネなどの印象派の画家たちとも親交を結んだ。しかし、イギリス画壇での彼の評判は当初芳しくなかった。ロイヤル・アカデミーに代表される伝統を重んじた画壇でも、「フランス風」であり、「モダーン」過ぎると批評された。

 ヘンリー・ジェイムズとの出会い
彼を救ったのはすでにイギリス文壇で確固たる地位を占めていたヘンリー・ジェイムズであった。ジェイムズはサージェントに好意的で「指の先まで洗練されている」と高く評価した。こうした支援に気をよくした画家は、精力的にイギリスでの画業に専念したようだ。し かし、その時はもはや肖像画専門の画家ではなくなっている。

「カーネーション、百合、百合、薔薇」は1887年のロイヤル・アカデミーに出展された作品である。そして、フランス風でイギリス人の好みではないという、それまでの彼の評価を覆し、大きな賞賛を勝ち得た。その後、サージェントはイギリスにおける印象派とみなされるようになった。しかし、この絵に観察されるように、中心となる人物はきわめて写実的に丁寧に描かれており、印象派の特徴である絵筆の使い方はアマチュアの私の目には、あまり感じられない。だが、大きな印象派の流れの中には、サージェントも位置づけられるといえるだろう。 


 次第に高まった評価
   サージェントは天賦の才能に恵まれ、技術的な卓越と当時の画壇における斬新な題材の選択など、この時期を代表する作品を多数残したという評価は、今日では揺るがないものになっている。かくして、サージェントは1925 年ロンドンにおいて69歳で死去するまで、多大 な名声と賞賛に囲まれた画家として生涯を送った。この時代のアメリカ、ヨーロッパを代表した画家であった。たまたま魅せられた一枚の絵であったが、それが導いてくれた背後の世界は、実に興味深く、飽きることがない(2005年4月21日記)。


 Information:
 John Singer Sargent に関する基本的な情報は下記の書籍に負うところが多い。なお、Kilumurray and Ormondの著作の表紙カバーにも、「カーネーション、百合、百合、薔薇」の絵が使われている。
Elaine Kilmurray and Richard Ormond eds. 1998. John Singer Sargent. Princeton: Princeton University Press.
Richard Ormond, et al. John Singer Sargent: The Early Portraits (The Complete Paintings, Vol.1).

Picture:Courtesy of Tate Gallery, London.


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グローバル化に揺れる労働市場:ドイツの建設業

2005年04月19日 | 移民政策を追って
複雑なグローバル化の衝撃
  高賃金の国が国境を開放し、相対的に低賃金の国の労働者にも移動・就労を自由化すると、いかなる状況が生まれるだろうか。単一の職種で、制度的障壁などが存在しないならば、水が高低差によって平準化するように、資本移動など他の条件が変化しないとすれば、賃金も一定期間の後に均衡水準に落ち着くはずである。すなわち、国境を越える労働力の移動が起きて、結果として高賃金国の賃金は低下し、低賃金の国の賃金は上昇する。しかし、現実にはさまざまな制度的な障壁が存在し、複雑な様相を呈する。そのひとつの例がドイツの労働市場に見られる。
  ドイツの失業者数は今や500万人を越え、戦後最悪の状況である。しかし、国内労働者の賃金水準は労働組合の抵抗などもあり、下方硬直的である。企業は労働コストの切り下げのために、東欧その他の国々の外国人労働者を雇い入れ、国内労働者の比率を引き下げてきた。結果として、低賃金の外国人労働者と高賃金の国内労働者の市場に分断化されるる動きが進行してきた。典型例は建設業である。

2極化進む労働市場
  ドイツの建設業は1990年代に入って、旧ソ連圏からの移民労働者を初めとして東欧諸国など、海外からの労働力を積極的に受け入れてきた。90年代末には20万人近いEU諸国からの外国人労働者が働くようになった。ベルリンでは二人に一人が外国人労働者であるといわれる。その結果として、低賃金の外国人労働者と高賃金の国内労働者に、労働市場が2極化されてきた。
特に一般化したのは、東欧など母国の企業とドイツの企業との間に締結された労働あるいはサービス契約の充足のために、労働者がドイツへ派遣されるという海外派遣労働の形態である。通常1年以内で、契約が履行された時に帰国する。EU協定に基づくサービスと移動の基本的自由の権利に基づいて、派遣会社は他の加盟国の労働市場へのアクセスができる。
  労働者派遣にかかわる根本的な問題は、派遣された労働者への労働・社会的厚生の水準は、送り出し、受け入れ、どちらの国のものが適用されるかということにある。現状は、当事者がどちらの国の法律によって契約がなされるかは、当事者の自由となっているが、例外もある。
  たとえば、一時的(1年以内)に他のEU国に派遣された労働者については、かれらの出身国のルールに基づき労働契約が締結される。労働条件は、一般に労働者の母国の法律に従うことになる。
  しかし、この原則に従うかぎり、低賃金の国からドイツに進出した企業は、外国での競争に有利性を発揮できる。建設業のように生産物や生産地が移動し得ない産業の場合、低賃金国からの労働者派遣は、建設コストを引き下げる有力な手段となる。派遣労働者の社会保障負担も出身国の基準で実施されるので、低賃金国からの派遣労働者を雇用することは、賃金コストに加えて有利な条件となる。

多い違法企業
  ドイツの建設業者は国内労働者の賃金水準では競争できないとして、高賃金のドイツ人労働者と低賃金の外国人労働者をミックスして雇用するという形態を採用している。ドイツの建設企業の競争力はそれでも低下し、債務超過企業が増加した。失業者も増えて、外国人労働者によるドイツ人労働者の代替が進んだ。
  イタリア、ポルトガル、スペインなど相対的に低賃金国の建設業者は、ドイツ、オーストリア、フランスなどの高賃金国での下請けあるいは元請けとなっている。こうした業者は、ほとんど違法行為を犯している。EUのいくつかの国では労働者派遣が禁じられている。ドイツの場合、産業の同一の分野で働く場合にかぎり、そしてその場合でも同じ賃金枠・社会保険の枠組みの場合のみ合法とされている。しかし、実際には巧みに偽装されて一般化している。1996年に法律で建設業での団体交渉により協定された賃金、最低賃金は海外からの労働者や企業にも適用すると定めたが、違反が続出している。
  今年2月ドイツの労働対策局や警察は、全国的な点検を行い、こうした違法行為の摘発に当たった*。その結果、多くの違反が発見されたが、典型例はポーランド系の建設労働者派遣企業である。この企業の傘下で働く東欧系労働者の場合、表向きは週35-38時間労働、時給は8ユーロだが、実際は週60時間以上働き、時給は5ユーロを切っていた。

代替が進む雇用
  建設業の他にも、農業、ホテル、ケイタリングなどの労働分野では、国内労働者は、急速に少なくなっている。かつて、ドイツの経済発展期には移民の積極的効果が認められ、雇用の点でも国内労働者に対して補完的(Kindelberger 1997)出会ったが、今日では代替的になっている。
  最近、シュレーダー首相の社会民主党と野党側のキリスト教民主同盟および労働組合DGBは、これまでほとんど合意することのなかった点について合意に達した。それはドイツ国内労働者の仕事の機会を東欧諸国などからの安い労働力から守るという一点である。食肉加工業だけでも、2万人近い雇用機会がポーランドからの労働者によって代替されているといわれる。
  これに対して、連邦政府はいわゆる従業員派遣法を他の産業にも拡大しようと考えている。この法律は現在は建設業だけに適用され、使用者に外国人労働者に対して労働協約で定められた最低賃金を下回る賃金の支払いを禁じている。
  しかし、こうした政策が実際にどれだけの効果があるかについては、関係者の間でも評価が分かれている。グローバル化の主流は、アングロ・アメリカンモデルである。しかし、EUが独自の路線を打ち出し、確立することができるか、今後を注目したい(2005年4月19日記)。


* DER SPEGEL, March 26,2005

Photo:Courtesy of DER SPIEGEL

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日曜の美術館:マルモッタン・モネー

2005年04月17日 | 絵のある部屋
 いつの頃からか美術館めぐりがひとつの習慣?となってしまい、気がついてみると、訪れた国内外の美術館はかなりの数になった。そのいずれもが、それぞれに思い出深いものがある。ルーブル、メトロポリタン、プラド、テート、故宮(台北)など大きな美術館は、それぞれ圧倒される内容を持っているが、どちらかというと小さな美術館が好みである。適度な数の作品を、疲れない程度の時間でゆっくりと鑑賞できること、観光客も少なく、混んでいない、特別展が多い、などが理由である。都内では、庭園美術館、世田谷美術館などが、なかなか素晴らしい展示を行っている。昨年から今年にかけての世田谷美術館「世界遺産:吉野・熊野、高野の名宝ー祈りの旅ー」などは出色の展示だった。
 中規模の部類だが、ニューヨークのグッゲンハイムなどは、学生時代は大変好きで、マンハッタンに出るたびに立ち寄った。このところ、比較的訪れる機会ができた「上海博物館」が外観(鼎の形のデザイン)はともかく、中に入った第一印象が、真ん中に吹き抜けがあり 、それを取り巻く回廊のデザインなど、かつてのグッゲンハイムによく似ているなあと感じたが、グッゲンハイムと提携してのカンディンスキーの特別展を行っていたのには驚いた。
  これらと比較するとよりはるかに小さな美術館だが、別の意味で気に入ったのはパリのマルモッタン美術館である。2004年春に、東京都美術館がベルト・モリゾ(1841-1895)の子孫であるルアール夫妻のコレクションを中心に展示を行ったので、ご存じの方も多いかと思う。マルモッタン美術館の目玉といえば、やはりクロード・モネ(1840-1926)の「印象・日の出」だが、残念ながらフランス国外への持ち出しは禁止となっている。
  パリの西部、16区、地下鉄ラ・ミュエットの駅に近いこの美術館は、モネ(Claude Monet 1846-1926)のコレクションで知られている。かつてこの辺りに1年余住んだ折、場所が近くであったことからその後も良く通った。19世紀の個人の館を美術館としており、地下1階、地上2階の小規模なものだが、あたりにはブーローニュの森に近く、緑も多く、一見すると外からは美術館とは見えない。このごろは、多くの美術館 がHPを開いているが、マルモッタン美術館のHPも小規模だが、大変好感のもてるHPである。
  この美術館は美術史家のポール・マルモッタンとその父親が収集した美術品を展示しているが、なんといってもモネの作品の多くが所蔵されていることで著名である(名前自体、マルモッタン・モネ美術館となっている)。とりわけ、地下1階は、モネ・コレクションと して、有名な「睡蓮」、「ばら」など圧倒的な数が展示されている。2階には、モネ、ゴーギャン、ルノワールなどの絵で飾られている。モネは日本人の好みに合うのか、観光客の数も比較的多い。しかし、ルーブル、オルセーなど壮大な美術館が多いパリのことゆえ、観光の主流から少し外れたこの美術館は訪れる人はそれほど多くなく、ゆっくりと鑑賞できる。絵画鑑賞の合間に、眺めることのできる中庭は木々の緑が美しく、目を休ませてくれる。
  「睡蓮」をテーマとする作品が展示された地下には、真ん中に気楽に座れる巨大な円形の椅子が置かれ、360度ゆったりとした雰囲気でモネの世界に浸ることができる。大変ぜいたくな美術館である。絵画を買うなどの余裕はないが、1995-96年にかけて、この美術館で開催された「フランス絵画の3世紀」展のポスターを1階のショップで買い求め、フレームに入れて楽しんでいる。

http://www.marmottan.com/index.html

Photo:Courtesy of Musée Marmottan Claude Monnet
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ラ・トゥールを追いかけて(16)

2005年04月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
「蚤をとる女」

Georges de La Tour, The Flea Catacher, c.1630-34, Musée Historíque Lorraine, Nancy

当惑したラ・トゥール愛好者
  この絵は1955年にラ・トゥールが主として活動したロレーヌではなく、レンヌで発見された。当時、ラ・トゥール研究の第一人者であるパリゼ氏(François-Georges Pariset) が、フランス美術史会の席上、ラ・トゥールの作品と紹介した時に、出席者の当惑した表情は大変なものであったらしい。それまで、ラ・トゥールの作品というと、レンヌ美術館が所蔵する「生誕」The Newborn Childやルーブル所蔵の「羊飼いの礼拝」The Adoration of the Shepherdsを思い浮かべ、それらをこよなく愛していた人々にとってはいかにも受け取りがたい画題であった(Jacques Thuillier)。といっても、「蚤をとる女」A Flea Catacherというタイトルは、ラ・トゥールがつけたものではなく、後世の美術史家によるものである。しかし、提示された絵はラ・トゥールの他の作品を知る者、とりわけ専門家にとってはにわかに信じがたい衝撃であったことは想像するに難くない。ラ・トゥールは、他の作品のいくつかがそうであるように、また見る人をあっといわしめたのである。
  燭台が置かれた朱色の椅子の傍らに坐った女が、灯火の下で指の爪先で蚤をつぶしているという、なんともいえない情景が描かれている。もっと別の画題があったろうにと思うのは、実は後世の人々の時代にとらわれた受け取り方なのだ。

日常のひとこま
  衛生状態の良くなかった16-17世紀においては、こうした行為は階級の上下を問わず、なにも珍しくない日常の光景だったと思われる。事実、同時代に同じテーマを扱った作品があることは確認されている。しかし、ラ・トゥールはその卑俗ともいえる人々の日常の行為を、形容しがたい静謐さの漂う不思議な世界に変えてしまった。ラ・トゥールという画家の非凡さは、ここにあるといってよい。他の画家たちがすでに取り上げたテーマであっても、彼の手にかかると、絵にみなぎる世界は一変してしまう。
  作品に接するかぎり、そこには画題がともすれば思わせるような卑俗さなどはみじんも感じられない。確かに描かれた女は容貌や体形が美しいとはいえない。額の張った、かなり特徴のある顔立ちである。ラ・トゥールの他の作品でもそうであるが、この画家の描く女性はいずれもきわめて印象深い容貌である。誰もが一度見ると忘れがたい。蝋燭の照らし出した裸足の足下を見ても、室内ではあるが土間のような感じで、清潔な状況とは見えない。女の表情は蚤をつぶすという行為に集中しながらも、なにか分からないが考えごとをしているように見える。これから床に就く前に、過ぎし一日の仕事のことでも考えているのかもしれない。目前に行っている行為からして、瞑想という次元まではいたっていないと思われる情景である。
  身につけた衣服も、かなりくたびれた感じのする質素な素材に見える。しかし、静寂、ある種の不思議な緊張感が画面を支配している。この作品をめぐっても、さまざまな解釈が提示されてきた。悔い改めた女性、マグダラのマリア、身ごもった聖母マリアなど、確かに、主題と描かれた対象は、なにか宗教的含意(悔俊の女など)があるのではという第3者の推測を排除するものではない。しかし、先入観を捨てて自然のままに画面に対すると、この時代に生きた人々にとっては、なにも不思議ではない生活の一情景を描いたという画家の意図が伝わってくる。

細部にこめられた画家の力量
  画面には、きわめて簡素で画家の意図を示すに足る最小限のものしか描かれていない。衣服にしても「占い師」や「いかさま師」、そして「老男」、「老女」ともまったく異なり、簡素そのものである。一見すると、およそ同じ画家の手になるとは思えない。
  もう一歩近づいて、細部を見てみよう。女の着ているローブのひだや蝋燭の光が生み出した陰影の細やかな描写に画家の力量が見て取れる。そして、かなりの存在感を示すものは、使いこまれたと見られる椅子の色調である。この椅子もデザインからして、一見単純至極に見える。しかし、背もたれの鋲の陰影、それも小さな鋲のひとつひとつが微妙に異なった陰影をつけて描かれている。椅子の背の部分も時が刻んだ無数の傷跡が見られるが、もしかするとなにかの絵が描かれていたのかもしれない。他方、主人公の女の腰掛けているスツールは、よく見ると朱色の椅子よりも木彫りの加工が複雑である。わずかに装飾のごときものは、女の腕にかけられたジェット(黒玉の数珠)であり、これは魔よけの意味があったといわれる。
  そして、なによりも重要なものは、燭台にともる短い蝋燭である。燃え尽きるまでに、あまり時間がないことを暗示しているかのごとくでもある。簡素であるだけに観る者をして、多くのことを考えさせる一枚である。ラ・トゥールはここにおいても、見事に自らの意図を達成している(2005年4月15日記)。


Picture: Courtesy of Web Gallery of Art.

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転機を迎えるEU移民政策

2005年04月13日 | 移民政策を追って
 2004年5月、念願の拡大を果たしたEUだが、懸案であった統一移民政策については加盟国の合意が得られないままに今日を迎え、厳しい試練に迫られている。加盟国の拡大によって拡大EUの国境線は、大きく外へと伸びたが、最前線では押し寄せる移民・難民の流れに対応が間に合わなくなっている。
 さらに域外ばかりでなく、域内でも加盟国間の歩調が合わず、各国がそれぞれの移民政策(入国管理政策)で対応しており、早急な調整が必要になってきた。しかしながら、移民政策は各国のこれまでの移民受け入れ状況、福祉制度のあり方などに深く係わっており、統一的な方向でまとまることができない事情にある。EU加盟の多くの国々が高齢化時代を迎えつつあるにもかかわらず、加盟国の国民は雇用、治安などへの不安から、移民受け入れの増加には警戒的になっている。
 
 本年4月に入り、EUのヨーロッパ委員会は、加盟国それぞれの実施する移民政策の他に、EU全体としての政策充実のために、今後7年間に約58億ユーロ(約8100億円)を投入する予算を提示した。
 EU本部は、近く加盟国やヨーロッパ議会の承認を得て、2007年からの中期計画に算入する。この予算は主として次の3領域に当てられることになっている。
1) 国境警備
 拡大した国境フロンティアにおける出入国管理の充実のために、約21億ユーロ(2900億円)が予定されている。実際には、旧ソ連圏、北アフリカからの不法移民の流入が多いため、その阻止のための国境パトロールの人員や発見・通報システムなどの充実に当てられる。たとえば、スペインはアフリカなどからEUに進入を図る不法移民の圧力に耐えかねて、国内にいる100万人近いともいわれる不法滞在者を一定条件の下で合法化する措置を導入した。しかし、これも一定期間に限定しての対応とみられる。
2) 本国送還
 不法入国や不法滞在の事実が判明した入国者には、厳しさの程度に差異はあるが、ほとんどの国が本国への強制送還を行っている。現在イタリアが実施しているように、無条件で直ちに送還という厳しい対応をしている国もある。こうした本国送還のために、約7.6億ユーロ(約1000億円)が投入される。
3) 域内地域社会への定着
 オランダやフランス、ドイツなどにおける移民をめぐる地域社会での紛争の増加、移民の各地域での定着促進などの目的で、17億ユーロ(2400億円)という大きな予算が計上されている。特に、治安維持関係の予算は従来の3倍以上という内容になっている。
 長い間、ヨーロッパ諸国は北米、オーストラリアなどへの移民送りだし地域という立場にあったため、アメリカなどと異なり、経済的動機に基づく移民の受け入れには消極的であった。そのため、移住希望者は事実上、不法入国して難民申請する以外に方法が見いだしがたかった。しかし、グローバリゼーションの本格的展開、高齢化の進行などに伴い、移民にかかわる問題は、ヨーロッパの基盤を揺るがしかねない重要性を持って浮上してきた。移民増加に伴う社会の多様化と社会福祉の両立をいかにはかるか、ヨーロッパの選択には引き続き注目してゆきたい。

Source: EuroActive HPその他を参考にした。


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アフリカを離れて

2005年04月12日 | 移民政策を追って
大卒者流出の多い国
 「アフリカを離れて」Out of Africa. これはあの有名な映画(*)のタイトルではない。OECDの統計を見ていて、ひとつの衝撃的な統計に出会った。世界のOECD非加盟の主として開発途上国における大学卒業者のうち、外国に居住している者の比率である。まず、自国の大卒者のうち、ほとんどが海外に住んでいる者の比率の高い国のグループをみると、ギアナ(83%)、ジャマイカ(81%)、ハイチ(79%)、トリニダッド・トバゴ(79%)、フィジー(61%)などであり、その後にアンゴラ、サイプラス、モーリタス、モザンビーク(50%)、ガーナ、ウガンダ、タンザニア、ケニヤ、ブルンディ、シェラレオーネ(39%)などが続いている。一見して、アフリカ諸国および島国(island nations)が多いことが分かる。

流出の比較的少ない国
 他方、大卒者が外国に居住している者の比率が低い国、言い換えると自国に留まっている比率が高い国を見てみよう。エジプト(4.4%)、シリア(4.2%)、コスタリカ(4%)、ヴェネズエラ(3.2%)、中国(3.2%)、ヨルダン(3.1%)、インド(3.1%)、ボリビア(3.1%)ネパール(2.2%)、バングラデッシュ(2%)、以下、パラグアイ、インドネシア、タイ、ブラジル、ミャンマー(1.8%)の順である。
 これらの事実はなにを意味するのだろうか。一般にいずれの国においても、大学卒業者はその国の高度な知識・専門能力を持つ人材であり、さまざまな意味で母国の発展に寄与することが期待しうる層である。

「良い循環」を生むために
 最近、アメリカ、ドイツ、イギリス、日本など、多くの先進国がIT分野などを中心に高度な専門家、技術者について、特別枠など優遇措置を設けて受け入れ拡大に努めている。受け入れ国側としては、国際競争力強化をめぐって激しい競争をしている自国の産業の要望に応えての措置であり、教育・養成に時間とコストのかかる高度なマンパワーを他国から受け入れることで充当しようと意図が働いている。開発途上国から先進国へ仕事の機会を求めて出国する人たちは、自国に自分たちの知識や能力を発揮する場所が少ないこと、先進国は報酬水準が高いことなどがきっかけになって、海外に滞在する。
 先進国にとっては労せずして高度な人材を自国の経済発展のために活用できるなど、メリットが大きいが、送り出す開発途上国としては多大なコストと時間を投入した自国の人材が流出してしまう損失は大きい。「ブレイン・ドレイン」(頭脳流出)といわれてきた問題である。
 高度な能力を備えた人材が母国に寄与する道としては、1)帰国して先進国で蓄積した先端の知識や技術を自国の発展に活かす、2)海外で働くことで得た報酬を自国の家族などへの送金を通して自国に環流し、生産的な用途に流入させる、などの選択肢がある。これらの仕組みがうまく機能すれば、「良好なサイクル」が形成されて、高度な能力を持った人材の一時的な海外流出も、自国発展の経路に位置づけられる。しかし、現実をみるかぎり、その実態は厳しい。
 「アフリカを離れて」Out of Africaは映画のタイトルであるが、今のままでは本来母国が最も必要とする高度な能力を持った希少な人材から自国を離れて、先進諸国に定住してしまい、せっかくの人材が母国の発展のために生かされることがない。悪循環が進行、定着している。最近では、本人ばかりでなく家族も流出してしまう事態が増加していることが報告されている。その間に母国は経済的にも疲弊し、北と南の格差はさらに拡大するという「悪循環」が加速されてしまう。
 日本がこれからの世界で知的面あるいは産業の競争力において、世界に伍して発展してゆくためには、外国からみて知的・文化的に魅力があり、吸引力を持った国となることを目指さねばならないことはいうまでもない。その場合に、日本にやってくる人々が得た経験や能力が、彼らの母国にいかに還元され貢献できる仕組みになっているかについて、これまで以上に考える必要がある(2005年4月12日記)。

* "Out of Africa" は日本での上演タイトルは「愛と悲しみの果て」という甘ったるいものになっていた。「アフリカを離れて」の方がずっと良かった。シドニー・ポラック監督、ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ主演。
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『わたしたちが孤児だったころ』

2005年04月10日 | 書棚の片隅から

 桜の便りが聞かれるようになった頃、積み重なった書籍の山を片づけていると、一冊の本が目にとまった。以前に読んだ本だが、なんとなくもう一度読みたくなり、仕事を放り出して読みふけってしまった。カズオ・イシグロの作品『わたしたちが孤児だったころ』When We Were Orphansである。いまや現代イギリス文学を代表する作家の一人であるイシグロの作品は好みでもあり、『女たちの遠い夏』、『日の名残り』、『充たされざる者』など、そのほとんどを読んできた。その名から推察されるように、この作家は日本人の血筋を受け継ぎながらも、生活の場であるイギリスの風土に溶けこんだ佳作を次々と生みだしてきた。
 とりわけ、1989年のブッカー賞を受賞した『日の名残り』The Remains of The Dayは、イギリスらしい舞台装置と深い心理描写に大変感銘した。94年にケンブリッジに滞在していた時に、映画も見てしまい、さらにビデオまで買い込んだ。
 イシグロの作品の中で、今回の小説『わたしたちが孤児だったころ』は、プロットにおいてもこれまでの作品とは、かなり趣きを異にし、この作家の非凡さをうかがわせる。広い意味では、イギリス伝統の探偵小説のジャンルに入るといえるが、きわめて特異な筋立てである。先ず『わたしたちが孤児だったころ』When we were orphans という意表をついたタイトルに驚かされる。しかし、読み進めるうちに、それが読者を含んだ現代に生きている「わたしたち」であることに気づかされる。

1930年代の上海
 話は、ケンブリッジ大学を卒業した主人公クリストファー・バンクスの回想で始まる。バンクスは幼いころ上海に住んでいたが、10歳のころ、立て続けに両親が失踪し、一人自分はイギリスに送り返され、伯母の下で育てられ、名門ケンブリッジ大学を卒業する。両親失踪の原因は、1930年代当時問題となっていたアヘン貿易にからんでいたらしい。当時は、インドの阿片が中国に輸入され、中国の命運を左右するまでの大きな社会問題となっていた。バンクスが大学を卒業するまで両親の行方は確認できず、消息は深い霧の中に閉ざされていた。このことがトラウマとなって、バンクスは大学卒業後探偵となることを夢見る。そして、ロンドンを舞台に実際に探偵となり、大きな成功を収める。
 横道にそれるが、イギリスでは探偵という職業は、社会的に高く評価されているようだ。シャロックホームズ、アガサ・クリスティなどの影響かもしれない。ケンブリッジ大学の卒業生が探偵 detectiveという職業を選択するについても、特に迷いはないようだ。事実、かつてカレッジ生活で親しくなったケンブリッジの学生から卒業したら、できれば探偵になりたいという話を聞いて、冗談ではないかと聞き直したことがあった。
 さて、探偵となった主人公は、ロンドン社交界のパーティなどに出席して、上流社会の人々との交際を通して、職業上の情報を集めるとともに、有能な探偵としての社会的評判を獲得する。そして、舞台は1937年の上海に戻り、バンクスはすでに20年前に起きた両親の事件の解決に自らあたるという設定である。時は日中戦争が勃発し、騒然とした最中である。バンクスは探偵として、子供の頃の時代を求め、これまでの彼の人生を形づくり、そして歪めてきた過程を辿ろうとする。

わたしたちがたどった道
 失われた過去への旅事件発生から20年も経ったというのに、両親がどこかに幽閉されているかもしれないと考え、戦乱で騒然、殺伐とした上海の世界へ戻ってゆく主人公はいかにも現実離れしている。イシグロはそれをわれわれが皆持っている「壊れてしまったものをもとに戻したいという欲求」に基づくものだという。これは、ある意味で、現代人、とりわけ若い世代が持っている「リセット」願望、あるいは既視感déjà-vuともいうべきものに近いのかもしれない。  
 バブルがはじけた90年代以降、日本のみならず、世界も激変を経験した。とりわけ、産業の盛衰は顕著で、それに伴い労働市場も大きく変わった。最近の日本では、大学卒業後3年間に、約3分の1が転職するという。1990年代以降、日本の労働市場は顕著な変貌を見せている。企業の盛衰の激しさも目を見張るばかりである。企業のみならず、個人間の競争も厳しさを増した。こうした実態を反映してか、自信を喪失したり、これからの人生をどう過ごすか戸惑っている若者が増えているようだ。
 職業生活をスタートしたばかりと思われるのに、もう一度人生をやり直したいという感想を述べる人もいる。彼(女)らはできるなら、人生を「リセット」したいという。だが、リセットできるのは、小説の中だけなのだ。小説の根底に流れる思いは、探偵クリストファーが直面した過酷な体験から回避しようと、明るい未来を心に描くことに似ている。それは、現代という先の見えない不安な社会に生きている人間の思いなのだ。現代人は日々の現実がもたらす苦悩や疲れから逃れるために、幻想を抱く。いつかその幻想も現実の前にもろくも壊れるのだが。そのためにも、クリストファと同様に、わたくしたちも仮想の世界を必要としている。
 イシグロは、現代人が持つ名状しがたい不安感を、一人の人間の失われた過去と記憶の旅を通して、見事に描き出している。表題が「わたしたち」とあるように、現代に生きているわたしたちは、過ぎ去った人生において精神的に取り戻したいなにかを抱えていることを、この佳作は絶妙なプロットを通して暗示している(2005年4月11日記)。


Kazuo Ishiguro. When We Were Orphans.London:Faber and Faber, 2000. (カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』 入江真佐子訳、早川書房、2001年)

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ラ・トゥールを追いかけて(15)

2005年04月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールとカラヴァッジョ(2)

M.Caravaggio, Cheats, 1594, Kimbell Art Museum, Fort Worth, Texas 

カラヴァッジョの影響
  ラ・トゥールについて語る時、しばしば言及される画家の一人にカラヴァッジョがいる。「ラ・トゥールはローマへ行ったか」、「カラヴァッジョの影響を受けているか」など、ラ・トゥール研究者が常に問われてきた課題である。これまでのラ・トゥールに関する研究の進展に見る限り、この画家自身がイタリアへ赴いたという事実を証明する文書などは、発見されていないようだ。しかし、いかなる経路をたどったかは別として、ラ・トゥールはカラヴァッジョが画壇にもたらした革新の影響を、彼なりに感じ、消化していたことは十分感じられる。
  カラヴァッジョは1571年、ミラノに生まれ、徒弟時代を同地で過ごした後にローマで画家として活動を始めた。斬新で独特な画風によって当時の絵画の概念を覆し、時代の先端を走る画家として一躍その名をローマ中に知らしめた。しかし、特異な性格が災いして晩年に誤って殺人を犯してしまい、以後の人生の大半を逃亡生活で過ごした果てに、1610年、38歳で波瀾と謎に満ちた生涯を閉じた。名声の頂点だった。文字通り、時代を走り抜けた画家であった。天才と無軌道さを併せ持っていた。その生涯をラ・トゥールと比較すると興味深い。ラ・トゥールもそうであったように、天才はしばしば世俗の世界では振幅が大きい。

日本における知名度
  カラヴァッジョは西欧では大変良く知られた画家だが、ラ・トゥールに似て、日本ではいまひとつ知名度が不足している。2001年に東京都庭園美術館で「カラヴァッジョ 光と影の巨匠-バロック絵画の先駆者たち」展と題して、作品の一部が公開されたので、ご覧になった方もおられるだろう。印象では、場所の制約もあるが、今回のラ・トゥール展より少し混み合っていたくらいだった。

  カラヴァッジョが徹底的に追及した写実表現は、誰もが容易に想像し得る同時代の風俗を加味した場面設定とあいまって、画面の登場人物たちに生き生きとした存在感を与えた。また、光と影を効果的に使ったユニークな明暗法は、想像力を通して鑑賞者の内面に訴えかける画期的な手法として、伝統や慣習にとらわれない新たな絵画の創出へとつながった。
さらに、彼が残した作品とスタイルは、ローマやナポリ周辺の画家たちばかりではなく、オランダ、ベルギーなど北方の画家にまで影響を与え、“カラヴァッジェスキ”と呼ばれる追随者たちを生みだした。ルーベンスやベラスケス、レンブラントら17世紀の画家たちにも受け継がれ、バロック絵画として新たな展開を迎えることになる。

衝撃的な作品
  カラヴァッジョは日本での特別展の実態をみても、日本人の受け取り方はかなり振幅が大きいのではないか。この画家は時代の先駆者ということもあって、それ以前の画家とは大きく異なった画風である。
  たとえば、「洗礼者ヨハネの馘首」Beheading of John the Baptistでは、聖人の首からほとばしる血を鮮烈に描いている。最初にこの絵を見た時は、どうしてここまで描かねばならないのかと思ったほど衝撃的だった。
  聖人・使徒の霊妙な世界を普通の人間世界のものにしてしまう画家の能力は、当時ヨーロッパ世界に展開していた反宗教改革の潮流に根ざしている。宗教的神秘を具象化し、世俗の世界に近づけるという意味である。時代にそれまでなかった技法を縦横に発揮した最初の近代画家であり、古典の聖書シリーズの暗い恐怖と欲望を題材に多くの作品を描いた。その徹底したリアリズムは、当時においては文字通り革命的であったことは間違いない。
  他方、カードの「いかさま師」The Cheats (画像)のような時代の風俗を描いたような作品では、全体として落ち着いた画面構成が選ばれている。カラヴァッジョは、風貌をしのぶ肖像画が残されているが、一見穏やかな表情の裏にはラ・トゥールと同様に、振幅の大きなキャラクターが潜んでいる。
  カラヴァッジョは、私も好む画家の一人であり、特別展などがあればできるかぎり出かけたい方だが、そのリアリズムにはしばしば辟易となることもある。現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーで開催されている特別展も、闇の中に作品を展示し、鑑賞の効果を上げるという斬新かつ衝撃的な方法を採用している。この画家の興味深い点は、同じ主題を扱いながら、1601年に描いた「エマウスの晩餐」(ローマにいた時期の作品)と、5年後に描いたものを比較すると、まったく別の画家に見えるほどの違いがある。前者は静物画的、後者はより神秘的な状況での内面的な扱いが見て取れる。画家の人生の局面における精神的状況が作品に反映されている。

「パッション」への類推
  図らずも2004年、アメリカ大統領選の時に「華氏911」と並び、大変話題となった映画「パッション」を思い出してしまったが、この映画はキリストの「受難」の過程を克明に描いた問題作であった。
  おそらく、世界中で最も有名なキリストの最後、イバラの冠をかぶらされ、重い十字架の横木を背負い、ゴルゴダの丘で両手両足を釘打ちされた十字架刑の事実を、ここまで忠実に映画化したものは他にないだろう。想像を絶する痛み、苦しみの後に来る奇跡の復活が、これでもかとばかりに描かれている。思わず、画面から目をそらしてしまうほどである。
  その凄惨さゆえにアメリカのみならず、ローマ法王をも巻き込んでの論争に発展、公開前から世界中のメディアが連日報道するという騒ぎになった。
  脚本はすべてラテン語、アラム語で書かれ、衣装、食習慣から、俳優の瞳の色、顔つきまで変えるほど徹底してリアリティにこだわった。敬虔なカトリック信者でも知られるメル・ギブソンが、監督第3作目にして自らのパッション(情熱)の全てをフィルムに焼きつけたといわれるが、キリストの人生、死、復活の意味を、圧倒的な映像の力で語りかけてくる。

 ラ・トゥールの宗教画は、こうした作品と比較すると、「宗教画」というジャンルに含めるには、時に違和感を覚えさせる独特の静謐さに充ちている。他方、イタリアにおいては、ラ・トゥールが画家としての地位を確立する頃には、カラヴァッジョが、すでに多くの衝撃的な作品を世に残していた。伝達経路はさまざまであったかもしれないが、ラ・トゥールは、こうした画壇に新たに生まれ確立したリアリズムの風潮を十分体得しつつ、反宗教改革という流れの要請するものを鋭く感じ取っていた名実ともに希有な画家である(2005年4月8日記)。

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ラ・トゥールを追いかけて(14)

2005年04月08日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour, Saint Jerome, c.1628-1630, Musée de Grenoble,157x100cm
「光輪のある聖ヒエロニムス」

(Georges de La Tour, Saint Jerome, c.1630-1632, Nationalmuseum, Stockholm
「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」、152x109cm)

拡大は画面(下図のみ)クリック



砂漠の聖ヒエロニムス
 前回に取り上げた「書を読む聖ヒエロニムス」は、「できの悪いラ・トゥール」とまで評された作品だが、今回の「砂漠の聖ヒエロニムス」は口さがない美術史家を黙らせる傑作である。聖ヒエロニムスは、使徒として当時のカトリック教会側が期待する二つの特徴を併せ担っていた。ひとつは、学者としての側面であり、もうひとつは禁欲の使徒としての側面である。今回は、後者の側面を描いたラ・トゥールの作品をとりあげたい。

 聖ヒエロニムスを対象とした美術作品は、ラ・トゥール以前からきわめて多い。世俗の世界の誘惑から逃れられない自分に苦しみ、自らの胸をむち打つことで悔悟し、克服しようとした使徒である。ルネッサンス期には石をもって自らを打つ姿が描かれた。

使徒の生涯
 聖ヒエロニムスはA.D.340 年頃にダルマティア(現在のクロアチア西部、アドリア海沿岸地域)に生まれたといわれる。その後、ギリシャ語とラテン語を学ぶためにローマへ旅した後、聖地イエレサレムを訪れている。その後、シリアの砂漠に3年間近くを過ごしたと云われている。その後、A.D.382年頃にローマへ戻り、法王の要請によりヘブライ語聖書のラテン語版への訳業にあたった。この聖書はウルガタ聖書Vulgateとして、その後教会公認のラテン語訳聖書となる。彼は長い時間をこの重要な仕事に捧げた後に、420年にベツレヘムで亡くなった。

  聖ヒエロニムスについて後世の人々が抱く学者と禁欲の使徒というイメージは、反宗教改革期に改めて強調された。当時の教会の思想的流れを、ラ・トゥールの作品は忠実に継承している。というのも、反宗教改革に携わった教会や関係者は、キリスト没後の時の流れに埋もれた前例や使徒の足跡の探索に没頭していたからである。

 主題である悔悟者としての使徒のイメージは、レオナルド・ダ・ヴィンチなど多くの画家が採用してきた。聖ヒエロニムスは、天使からクリスチャンであるよりキケロ崇拝者として非難されたことを悔悟して、砂漠における禁欲、自戒の日々を過ごしたといわれる。

二つの作品
 この主題でラ・トゥールの作品として現存するものは、グルノーブルとストックホルムの美術館がそれぞれ一点ずつ所蔵している。主題と構図は、両者とも基本部分はまったく同じといってよい。大きな違いは、ストックホルム版には枢機卿のアトリビュートである大きな赤い帽子が描かれている。朱色の大きな帽子の存在のために、後者の方が比較するとやや明るい感じがする。また使徒のまとう腰布の白さも明るさに寄与している。この画家は、ひとつの主題をさまざまな観点から描く試みをしてきたことで知られている。いずれ記す機会があるかもしれないが、この聖ヒエロニムスの場合に限らず、他の主題においても、いくつかの異なった作品が存在する。
 
 ラ・トゥールが描いた聖人の中で、グルノーブル版の聖ヒエロニムスだけに、光輪haloがかすかに控えめな線で描かれている。修道院に納められるということへの配慮があったのかもしれない。今回は個人的好みもあって、グルノーブル版をとりあげてみたい。もちろん、「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」と呼ばれるストックホルム版も、大変興味深い点が多い作品である。時期的にはストックホルム版の方が後に制作されたと云われている。ちなみに両者が最初に並べて展示されたのは、1972年のオランジュリー展が最初であったということで、この展示は改めてラ・トゥール研究におけるひとつのエポックであったという感が深い。今振り返っても、偶然とはいえ、得がたい機会に出会ったという思いがする。


克明に描かれた使徒の肉体
 グルノーブル版はその後の時代考証で、ドーフィーヌ地方の修道院Antonite monasteryのために制作されたといわれている。教会組織の改編などを経て、後年グルノーブル美術館へ収まっている。

 グルノーブル版の方が、表情を含めて、肉体の描き方などに、砂漠において自らの肉体をむち打ち、悔悟する過酷な使徒の姿が、より厳しく描かれている。使徒の肉体を描く克明さについては、リアリズム派のカラヴァッジョをはるかにしのぐ精緻さといえる。例のごとく、髪の毛、皮膚の皺、筋肉のつき具合など、執拗なまでに描きこんでいる。とにかく、こうした点におけるラ・トゥールのリアリズムは並大抵のものではない。また、同じ構図を設定しながらも、ストックホルム版では別の色彩を試すなど、画面の与える印象などに格段の配慮をしていることがうかがわれる。画家はさまざまな試みを通して、効果測定を行っている。

 ちなみに、構図は全く同じだが、ストックホルム版では、使徒の身にまとう腰布loinclothが白い布であり、帽子などの赤を際だたせるため、刺繍までされている。さらに、枢機卿のアトリビュートである赤い帽子が描かれている。

 聖ヒエロニムスは最初の枢機卿であることに加えて、制作の時からリシリュー枢機卿Cardinal Richelieuのコレクションに収まることが予定されていたため、ラ・トゥールが付け加えたものと思われる。顔の表情も穏やかで、自らをむち打つ過酷な行為にもかかわらず苦痛の感じが少ない。ストックホルム版の使徒の方が全体として威厳と穏やかさが漂っており、リシリュー枢機卿のコレクションとしてもふさわしいものである。こういう点で、画家は聖俗ふたつの世界に大変配慮し、巧みに使い分けていることがうかがわれる。作品の素晴らしさの背後に、ほのかに見える画家の心的状況の振幅や表現のさまざまに、激動の時期に生涯を送ったラ・トゥールの生き様がうかがえる。

 

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グローバル化の衝撃:繊維産業のケース(2)

2005年04月07日 | グローバル化の断面
グローバル化の衝撃:繊維産業のケース(2)

  前回概観したように、中国の急激な台頭は先進諸国の産業、雇用に多大な影響を与えている。産業再編の方向、雇用を中心に見てみたい。今回の数量規制の完全撤廃は、世界の産業史でも最大の合理化促進であり、それだけに変化も顕著である。
  繊維品貿易の完全自由化に伴って、アメリカなどの国内企業は、このままでは産業が破滅してしまうと主張しており、組合も35万人分の仕事が過去3年間で失われたとしている。セーフガードなどの緊急防衛措置が発動されなければ、残った695,000人分の雇用機会も中国などへ流出してしまうと危機感を強めている。
他方、中国は、セーフガードは現在の問題に対し発動されるもので、未だ実現もしていない貿易を対象として発動されるものではないと反論している。
  アメリカなどの一部の富める国の繊維産業だけが、危機にさらされているわけではない。中国のWTO加盟に対して、50を越える国がトルコに集まり、“イスタンブール宣言”に署名し、WTOに対しクオータを3年間延長するよう求めた。この中には、バングラデッシュ、スリランカ、インドネシア、モロッコ、チュニジア、トルコなど、経済水準の点で貧困な国と中位の国が含まれている。

中国に続く国は
  宣言の署名国はクオータの終焉に伴って、関係国でおよそ3000万人分の仕事の機会が失われると恐れる。原糸から衣服まで繊維産業のすべての工程が、中国の傘の下に入ってしまうともいわれている。しかし、貿易自由化で、浮上するのは中国ばかりでなく、インド、パキスタンなどもそうである。
  インド最大の衣服輸出業者のオリエント・クラフト社 のディングラ会長は、彼が繊維機械を1台買うごとに国内に4人の仕事が生まれ、海外に他の4人の機会が生まれると豪語している。インド繊維産業の典型的な企業では労働者の5分の4は貧しい村落の貧困者として人生を始める。義務教育を受けた者も少ない。
  繊維は人類の最も基本的なニーズのひとつであり、クオータ制度もそうした背景の下で、市場をゆがめる仕組みだが、やむをえないものとして設定された。皮肉なことに、その当時は貧困な開発途上国は、貿易自由化で先進国に圧倒されると考えられていた。しかし、
これらの国は豊富で低廉な労働力を武器になんとか生き残ってきた。それを支えたもうひとつの要素は、特恵関税であった。
  そのため、インド洋の小さな国モーリシャスのような国でもこれまでは競争力を維持することができた。ヨーロッパの旧植民地であるこの国は、75年のロメ協定により、EUに関税なし、数量規制なしで繊維製品を輸出できた。03年において、モーリシャスの繊維・医療品の輸出額は約15億ドル、国内雇用の約40%を担い、GDPの12%、外貨獲得額の60%を稼ぎ出してきた。しかし、数量規制の撤廃でこの国の繊維産業は、大打撃を受け、急速な衰退に追い込まれている。
  今日の世界の繊維産業はかつてない大変化の渦中にある。実態は、今の段階では、ダリの絵のようといわれるように大変複雑である。インドの原糸が、イタリアで織られ、アメリカで裁断され、ホンジュラスで縫製後、アメリカで売られるという構図である。さらに、かつては、低賃金以外に競争力の源がなかった開発途上国が新たな先進設備という新たな武器を手中にした。最新技術を生かした機械化によって、カンボディア、ベトナムなどが輸出市場へ参入してきた。

インドの期待
  もっとも、中国だけが一人勝ちするとは考えられていない。二番手にはインドが台頭すると目されている。さらにパキスタンなどが後に続くだろう。
  他方、敗退が予想されるのは、メキシコ、南ア、バングラデッシュ、ネパール、スリランカなどである。しかし、これらの国々では産業内部の近代化が前提となっている。その点を考えると、中国などはさらに拡大するかもしれない。
  バングラデッシュでは、繊維産業は1990年には約800社が40万人を雇用していた。それがいまや、4000社が2百万人を雇用するにいたった。労働者の10分の9は女性であり、1千万人近くが繊維産業に依存している。クオータ制廃止で、バングラデッシュの輸出は25%近く減少するとIMFは予想している。

守る立場のEU、アメリカ
  先進諸国の中では、アメリカに並びイタリアの受ける打撃が大きい。ビエラ、コモ,などに約5万の繊維企業がある。多くは零細、家族企業であり、平均規模は従業員で10人程度である。そして、製品の約3分の2は輸出される。すでに、これらの企業は影響深刻で、生産立地の移転、従業員削減などを実施している。
  フランスでも1993-2000年の間に数10の企業が消滅した。約3分の1の雇用がなくなった。今日、フランスブランドの6割以上は、他国で生産されている。EUの繊維業界は、状況が大きく変化した新たな世界に向けて産業再編に乗り出している。その場合に、品質と革新が勝負の柱である。イタリアのヴィエラはかつてないエネルギーをマーケッティング分野に投下し、「卓越のアート」art of excellenceを掲げて積極的なキャンペーンを開始している。(画像はヴィエラの町全景)

セーフガード発動の動き
  他方、EU繊維産業の最大のロビー機関ユーラテックスEuratexは、ブラッセルに本拠があるが、セーフガード発動を検討してきた。EUに加盟したばかりのトルコは、1月9日に中国製品の43カテゴリーに発動を決定した。アルゼンチンも同様な割り当てを中国製品に発動している。EUもまもなく発動するのではないかとみられる。2002-03年に中国からのアノラック輸入は3-4倍になり、価格は75%下落したとスポークスマンは話す。
  他方、中国も制限をすることを検討中といわれる。いくつかの製品に2-4%の輸出税を課するとともに、いくつかの繊維製品に最低価格を設定すると報道されている。しかし、こうした施策も実態にはほとんど影響ない。
  こうしてみると、繊維貿易の完全自由化が雇用に与える影響は、中国、インド、パキスタンなどに大きな増加を生む反面、アメリカ、EUそして中進国については厳しい状況を生むことが予想される。繊維産業のあり方をひどく歪めていた数量規制がなくなり、国際貿易理論が予期する線に近い姿に近づくだろう。
生産立地は中国を中心に大きな変化を見せることは、ほとんど確実である。しかし、繊維製品は人類の歴史において各国、地域で、微妙なニッチ市場も確立してきた。そのため、ある限度に達すると、その後の変化は、予想ほど急速でないかもしれない(2005年4月6日記)。

追記:2005年4月7日
  
 このタイトルで書いた直後、全米繊維協会など繊維関連4団体は、4月6日、中国製の繊維製品14品目について、輸入急増で国内業界に被害が発生しているとして、緊急輸入制限(セーフガード)の発動を米政府に正式要請した。対象となるのは、合繊製シャツ、綿製および合繊製セーター、合繊製ズボンなど、今年1-3月の中国からの輸入が前年同期に比較して、1.3から8.7倍に急増した品目という。EUの欧州委員会も6日、中国製繊維に対するセーフガード発動の検討に入った。

参考:
“Special Report: The World Textile Industry” News Week, January 26,2005
“Special Report: The Textile Industry” The Economist November 13th,2004
“European Textiles: The sorry state of fashion today”, The Economist, January 29, 2005
「日本経済新聞」2005年4月7日夕刊

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