時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

切ったり・貼ったり:「修復」の社会理念

2007年07月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 17世紀前半のラ・トゥールの作品を見ていて、前から気になっていることがある。それはいくつかの作品における空間のとり方が、どうも自分の感覚と少しずれているような気がするのだ。たとえば、仕事部屋に掛けている「生誕」のポスターを毎日見ているのだが、左側に立つ召使の頭上の空間が心持ち窮屈な感じがする。あと10センチいや5センチとってあれば、もっと楽に見られるのではないかと思う。

    他方、同じ画家の作品でも 「ファビウスのマグダラのマリア」のように、少し闇の部分をとり過ぎているのではないかと思う時がある。また、構図自体がどうしてこれほど窮屈なのだろうかと思われる作品もある。典型的なのは、あの「ヨブとその妻」 (エピナル美術館)である。人体としてはバランスを失しているのではと思われるほど長身の女性がヨブを見舞っている。頭の部分が不自然なくらいに上から押さえられている。天井が低すぎて、無理に首を曲げているような感じがする。しかし、この違和感を感じるほど窮屈な構図こそが、この作品の不思議な魅力の一因なのだ。少し見慣れてくると、これでなければ駄目だと思うようになる。

  美術史家の友人によると、ラ・トゥールの作品に限らず、この時代の好みや風習が反映しているという。確かに、この時代、依頼者(あるいはパトロン)が主題を指定して画家に製作依頼し、作品の納入が終わった後、自分の好きな部分だけを残すということもかなり行われてきた。時には、作品が所有者を変える過程で、新たな所有者が自分の嗜好に合わせて、画材を継ぎ足したり、切り取ったりしている。作品が自分の所有になったら、どうしようが勝手という風潮なのだろう。作品と芸術家の「社会性」の関係が十分確立されていない時代である。(かつてこのブログでゲインズバラの作品「姉と弟」 (仮題)について、記したこともあった)。

  画商が作品を適宜、裁断して複数の作品に仕立て上げ、販売することも行われた。こうしたことは時代を下って、印象派の時代になっても行われていた。

  興味あることは、ラ・トゥールの昼の作品は、すべてある時期に継ぎ足しが行われて画面が拡大されているらしい。狭い画面に人物がぐっと詰まった構図が、時代の好みに合わなくなってきたからである。部材を継ぎ足してゆとりをもたせることなどが行われている。たとえば、ルーヴルの「ダイヤのエースを持ついかさま師」は、あらかじめ色を塗った帯状の布で上部を拡大している。継ぎ足された部分は、現在も作品の一部として残っている。他方、北米のキンベル美術館が所蔵する作品のいくつかは、近年の修復時に後年に追加された部分を取り去り、元の寸法に戻されている。

  また、「辻音楽師の喧嘩」(J.ポール・ゲッティ美術館)は古い時代に模作がつくられており、それには拡大部分がない。ブリュッセルの「ヴィエル弾き」は、原作段階ではヴィエル弾き以外にもヴァイオリン弾きが描かれていた。現在残る作品に、楽器と弓を持つ手が残っている。数人の楽士を描いた横長の画面だったのだ。おそらく偶発的な原因などで作品が損傷し、画家の署名が残る部分の体裁を整え、独立した作品のようにしたのではないかと推測されている。 

  絵画に限らず、建築物などについてもいえることだが、作品の社会性が確立されていなかった時代では仕方がなかったとしても、今日では作品の社会性とその維持のための責任の基準確立が望まれている。芸術作品の「修復」や「模造」に関する理念を、社会がいかに共有するか。絵画にとどまらず、芸術作品の社会性のあり方が問われている。

  このブログで取り上げているラ・トゥールの作品がたどってきた歴史は、こうした課題を考えるに際して格好な素材を提示しているように思われる。

「われわれは、芸術作品そのもののいかなる部分にも真正性(オーセンティシティ)に疑いが生まれないように、類推による補完はせず、芸術作品の今残っていてわれわれに見えているものの享受を容易にすることだけにとどめなければならない。」


Cesare Brandi. Teoria del restauro (チェーザレ・ブランディ(小佐野重利監訳、池上英洋・大竹秀美訳『修復の理論』三元社、2005年)、p.134.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうひとつのバロックの響き(2)

2007年07月29日 | 書棚の片隅から

    恐らく若い時期のラ・トゥールがひとつのジャンルとして、大きなエネルギーを注いだシリーズは、「ヴィエル弾き」であった。そこに描かれた放浪の老楽士が使う楽器ハーディ・ガーディ hurdy gurdy(フランスではヴィエルvielleと呼ばれることが多い)は、今日では古楽のアンサンブルなど特別な機会にしか接することができない。

  しかし、この楽器の原型は11世紀くらいには出来上がっていたらしい(organistrum と呼ばれることもある)。あの聖地巡礼で著名なサンチアゴ・デ・コンポステラに、その演奏風景を記した彫像が残っている。楽器の形態は、簡単な鍵と弦楽器を組み合わせたような仕組みで、初期には二人一組で演奏していたらしい。ひとりがクランクを回し、もうひとりが鍵を引っ張って演奏していた。弦も1~3本程度の大変簡単なもので、主として修道院や教会などで合唱の伴奏などに使われていたようだ。

  その後、改良が加えられ、ひとりの演奏者でクランクと簡単な鍵を操作することができるようになった。ラ・トゥールの作品に描かれているのは弦が3本である。この楽器は主として、スペインやフランスで 使われていた。ルネッサンス期にはバグパイプなどと並び、大変よく知られた楽器となった。そして、形状もラ・トゥールの絵に出てくるような短いネックと箱形の本体を持ったものになってきたようだ。弦から発生する独特な振動音が特徴である。

  フランスで発達したものは形状が円形のリュート(14-17世紀に多用された丸い胴を持つ琵琶に似た弦楽器)のような反響板を備えたものである。フランスでは、ヴィエルvielleの名で知られてきた。

  しかし、17世紀末にかけて楽器の主流は、より多音・ポリフォニーな音調を要求するようになって行き、単調なハーディ・ガーディは社会の下層階級のための楽器へと追い込まれていった。「農夫の竪琴」、「乞食の琴」などの名前で呼ばれることになった。ラ・トゥール以外にも、ハーディ・ガーディを描いた作品はいくつかあるが、その多くはみすぼらしい身なり、時には盲目の楽士が演奏する楽器となっている。長い苦難に満ちた漂泊の旅を続ける老楽士として描かれている。

  その後、18世紀に入ると、少し様子が変わってきた。フランスでは、田園風な、雅趣にあふれた曲目が好まれるようになり、ハーディ・ガーディが再び見直され、演奏される機会も少しずつ増えてきた。古楽の復活ブームも背景にある。前回ブログで紹介したアンサンブルはそのひとつの表れである。楽器としてもかなり改良、進歩がはかられた。

  バロック音楽としていかなる概念を組み上げ、イメージを抱くかについては、あまりに多くの記すべきことがあり、ここでの課題ではない。しかし、しばしば思い浮かべるバロック音楽の華麗な世界の片隅に、ひっそりと忘れられたもうひとつの世界があったことを記憶にとどめておく必要がある。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼ウルリッヒ・ミューエ

2007年07月26日 | 雑記帳の欄外
  

    このブログでとりあげたばかりだが、映画
「善き人のためのソナタ」(ドイツ語タイトルはDas Leben der anderen) で主役の東独国家情報機関シュタージのヴィスラー大尉役を演じたウルリッヒ・ミューエさんが7月22日亡くなった。ブログに書いたばかりのこともあって、言葉がない。哀悼の意を表するのみ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうひとつのバロックの響き

2007年07月26日 | 書棚の片隅から

After George de La Tour, A Woman Playing a Triangle(original 1620s?). private collection, Antwerp.

    近着の『考える人』2007年夏号に掲載されている岡田暁生氏の「音楽史を知って深く聴く」という短い読書案内を読んだ。その中で、「民主主義の19世紀において音楽が「誰にでも求めれば手に入るもの」になるより前、それが特権階級(貴族と僧侶)の独占物だった時代に、一体どんな音楽が鳴り響いていたのか?」という一節に目が止まった。  

  確かにバロックの時代、音楽は王侯、貴族のものであった。音楽好きなルイ13世は食事の間、お気に入りのヴァイオリニストとリューテニストに演奏させて眠りへの前奏曲としていた。いわば、睡眠薬にもなっていた。彼らのBGMがいかなるものであったのかは、いずれ触れてみたいこともある。   

  他方、民衆に音楽がなかったかといえば、そうではない。彼らは豪華絢爛とはまったく縁遠いが、別のジャンルの音楽を持っていた。たまたま2005年5月に西洋美術館で「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展が開催された折、それに合わせて「ラ・トゥールの響きをもとめて」と題する小さなコンサートが開催された。演奏はル・ポエム・アルモニークという古楽アンサンブルであった。  

  そこでは今では珍しい楽器ヴィエル(手回し琴)も演奏されて、目と耳を同時に楽しませてくれた。曲目の中には15世紀初頭より伝わるボーヌ地方民謡、ブルターニュ地方の哀歌など、遠い時代の響きを復活させようとした試みも含まれ興味深かった。演奏会場が美術館のロビーであり、古楽とはいえ、楽器も当時のものより改良されているので、雰囲気がなんとなくモダーンで、期待と異なる部分もあったが、それなりに楽しむことができた。舞台装置という意味では、かつてケンブリッジのコレッジの一室で時々催されていた古楽アンサンブルやイーリーの教会で図らずも聴いた誰も観客がいない部屋での練習風景の方がぴったりしていた。  

  この時代、辻音楽師がそれぞれ町や村をめぐり、漂泊の旅を続けながら生活の糧を得つつ、人々を楽しませていた。 17世紀のこの時期、民衆の耳に響いた音楽の音は、きわめて素朴なものだった。歌唱に加えて、楽器はフルート、リュート、ヴァイオリン、トライアングル、ヴィエル、バグパイプ、ドラムなどが主たるものである(原画はラ・トゥールではないかといわれる「トライアングルを弾く女」というコピーも存在する。上掲イメージ)。  

  ラ・トゥールはどうもヴィエル弾きがお好みだったようで、いくつかのヴァージョンを残している。この画家はある時期、ヴィエル弾きを描くことならば、ラ・トゥールという評判を得ていたのではないか。しかし、画家が放浪の音楽師であるヴィエル弾きを好んで描いたのは、彼らをロレーヌでよく見かけたからであろう。工房へ呼びモデルとなってもらったのかもしれない。

  そして、この画題による作品が多く残ることは、当時の人々にも強くアッピールするものを持っていたのだろう。なにが待ち受けるか分からない、不安に満ちた時代、唯一つ楽器に頼って、時に子犬などを旅の伴侶として、漂泊の旅路をたどった楽師は、その哀愁がこもった歌と楽器の響きで当時の人々の胸を打ったに違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「肝っ玉おっ母とその子供たち」再読

2007年07月21日 | 書棚の片隅から
Jacques Callot. La marche de bohemiens.


  先日のブログでブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子供たち』について言及したが、改めてこの作品についても少し記しておきたいと思った。シラーの『30年戦争史』『ヴァレンシュタイン』などの壮大な史劇は、今読んでみてもそれなりに印象的ではある。しかし、なんとなく空白な部分があることを感じる。自分たちにはまったく関係のない宗教・政治戦争の底辺で、さまざまな苦難に日々直面していた民衆や農民の姿に視点を置いた作品も読んでみたいと思った。グリンメルハウゼンやヘルマン・ロンスを取り上げたのもそのためである。  

  ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子供たち』*は、30年戦争の年代記というジャンルで作られている。「訳注」によると、ブレヒトは「年代記」をエリザベス朝演劇の「史劇」(history)に近いジャンルと説明している。  

  すでに記したように、ブレヒトはグリンメルスハウゼンの『女ぺてん師クラーシェ』からアイディアを得て、この作品を創作した。とりわけ主人公は、「肝っ玉」(クーラージュ)という名前まで借用している。グリンメルスハウゼンのクラーシェも軍隊の酒保(軍隊の営内にあった日用品・飲食物の売店)付きの女商人だったこともあるが、大体は娼婦として過ごした。  

  ブレヒトのこの作品にとりたてて大きな方向性を持った筋書きがあるわけではない。しかし、主人公を中心に展開する社会の最底辺における庶民の生き様を通してブレヒトが描いたものは、30年戦争という理不尽とさまざまな暴虐に対する反戦劇である。  

  この『肝っ玉おっ母とその子供たち』は、岩淵達治氏の素晴らしい翻訳に加えて、詳細な「訳注」、「解説」、さらに「ブレヒト略年譜」までつけられていて、ブレヒトとこの作品について、読者はこれ以上ないほどのサポートを得ながら読み続けることができる。もちろん、ブレヒトの原著を読みこなすことのできる読者ならば、解説なしに、この素晴らしい作品に接することはできよう。しかし、時代背景も異なり、作品の隅々に秘められた作者の仕掛けや含意を原文から類推、理解できる読者は寂寥たるものである。おそらくドイツ語圏の読者でもそうではないか。  

  翻訳文化が華やかな日本において、翻訳書はプラス・マイナス両面を持っている。最初、翻訳書に接し、後に原著を開いてみて、そこに存在する少なからぬ間隙や違和感に気づかされることもある。さらに、翻訳書に付けられた「解説」や「あとがき」の浅薄さに、あぜんとさせられることも少なくない。  

  しかし、本書で岩淵達治氏の名訳に付された「訳注」「解説」「ブレヒト年譜」に接した読者は、その誠実で正確きわまりない内容に、絶大な感謝の念を抱くのではないか。恐らくドイツ語のよほどの達人であり、しかもブレヒトについての深い学識を持たれる僅少の人々を例外として、読者は本書から単なる翻訳書というイメージをはるかに超える多くの恩恵を享受することができるだろう。
  
  グリンメルスハウゼンの作品が、17世紀の30年戦争という時代を扱いながら、現代への深いつながりを感じさせるのは、ブレヒトのこの作品を貫いている「平和は、戦争という<引き立て役>がコントラストとして存在しないと存在し得ないのだろうか」(本書解説p217)という根源的な問いかけである。


 Bertolt Brecht. Mutter Courage und Ihre Kinder, 1949(岩淵達治訳『肝っ玉おっ母とその子供たち』岩波書店2004年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

EU拡大とポーランド出稼ぎ労働者

2007年07月18日 | 移民の情景

    このブログでも定点ウオッチの対象としてきたが、EU拡大に伴いポーランドなど東欧諸国から旧加盟国のイギリスなどへの出稼ぎ移民が急増している。たまたま見たBS1でも取り上げていた。移民問題は海外紹介番組のテーマとしてなじみやすいのだろう、比較的良く取り上げられる。

  ポーランドは、2004年5月EU加盟が認められ、労働ビザなしに働くチャンスが生まれた。しかし、ドイツ、フランスなど大陸諸国は国民感情、雇用機会の得やすさなどの点で、出稼ぎ先として限界があり、最近では経済好調なイギリスが選択肢として有望視されてきた。ポーランドからは3年間で100万人近くが流出している。国内での労働者の平均賃金はEUでも最低の部類で、海外
出稼ぎが急増している。イギリスとは4倍近い差がある。いまやイギリスは移民希望者にとって「新しいアメリカ」となり、英仏海峡はリオグランデになったいう誇張さえある。

  海外への労働力流出は高い専門性や技能を持つ医師や看護士にまで及んでいる。医師の月給はポーランドでは10万円くらいだが、イギリスでは10倍近くとなる。とりわけ、需要の多い麻酔科の医師は4分の1が流出してしまった。そのために手術ができない状況も生まれている。待遇改善を求めて、5月末には医師、看護士の無期限ストが行われた。しかし、政府は手立てがない。こうした「頭脳流出」の問題は、アジアでもフィリピン看護士、医師などのケースとしてブログで取り上げたこともある。

  例に挙げられたのは、バルト海に面するポーランドのコヴォブジェという人口5万人くらいの漁業と観光で生きる小さな町である。ここからイギリスへ出稼ぎに出る夫婦の話だ。小学生の二人の子供は祖母の下に預けて、3年間は戻らない決意で出稼ぎへ行く。

  夫クシシュトフと妻ゴーシャの二人併せての月給は、日本円で月16万円。これまで貯金した40万円のうち、20万円を持ってイギリス、スコットランドの首都エジンバラまで30時間以上のバスの旅である(ちなみに空路を利用すれば、はるかに短時間で樂であることはいうまでもない)。

   エジンバラで思いがけない障壁となったのは、英語の能力だった。 ロンドンは好景気に支えられて、建築ラッシュが続いている。よく働くという評判のポーランド人の働き場所は数の上では多数ある。残業をいとわなければ、月給は30万円近く本国の5倍近くになる。ロンドン西部には、ポーランド人街まで生まれている。しかし、ポーランド人の間の競争も激しく、路上生活者も増えている。ロンドンのホームレスの実に3割はポーランド人といわれる。

  エジンバラに到着した夫妻は安い部屋へ引越し、 3日分の食材費用は2千円で暮らす。大学院卒の資格を持っている妻ゴーシャは大衆レストランで皿洗いと掃除をして働く。賃金は時間賃率1300円の最低賃金である。1週間働いても26000円、家賃分しか稼げない。妻は時間帯が異なる別のレストランでも働くようになる。いわゆるダブルジョッブである。大型自動車免許を持つ 夫はもっと苦しく、草刈りで日給5千円である。

  この事例は、ケースとしては良くあるもので、それ自体珍しいものではない。出稼ぎ先の国の言語能力が十分でないと苦労するというのは、外国人労働者に共通の問題だ。

  今回のTV番組もそうだが、実態を報じるだけで解決への示唆がない。重要な教訓は送り出し国にどうすれば産業・雇用の機会を創出し、貴重な労働力の流出を抑制することができるかという視点である。出稼ぎ労働者の海外送金で、送り出し国が活性化、発展して行くというシナリオは、途中での漏出、無駄が多い。出稼ぎに頼って経済発展に成功した国はそれほど多くない。

  医師や看護士の流出のように、自国の医療・厚生水準も劣化してしまう。送り出し国における産業・雇用振興のプログラムを関係国の協力で地道に創り出して行く視点が必要だ。EUレベルではかつてイタリア政府などが提案したことがあったが、その後真剣に検討された様子がない。他方、このたびのイギリスでの同時多発テロ未遂事件で、イギリス政府は医師などの高度な専門家などの受け入れに慎重な対応をすることを迫られ**、思わぬ要因で国境の壁は再び高まろうとしている。


BS17月14日 「ポーランド発 イギリス行き」 EU拡大で
増える出稼ぎ労働者

**ブラウン首相は事件後の対応について議会で、イギリスに入国してくる高い熟練を持った労働者の背景についてチェックを拡大すると言明、NHSへの医師のリクルートについても適切な対応を検討するよう指示したと述べている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

占い師とジプシー

2007年07月17日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
ボヘミアンの旅(J.カロ)   

    ラ・トゥールの「占い師」fortune-teller を最初見た時の衝撃は忘れることができない。とりわけ、画面中央の卵型の顔をした女性は、なんとも形容しがたい不思議な顔である。そして、右側のいかにも奇怪な顔をした占い師の老婆も実に異様である。他方、ここでも「かも」になっているのは、世の中の辛苦などなにもしらない貴族の坊ちゃんだ。
  
  17世紀のロレーヌ、とりわけ30年戦争前のロレーヌは平和で豊かであり、ナンシーやヴィックは交通の要衝でもあり、ヨーロッパの東西からさまざまな人々が行き来していた。 宮殿のあったナンシーやリュネヴィルには、実際にこういう顔をした人たちが歩き回っていたのだ。若者を取り巻く占い師や美女たちは、ジプシーである。ロレーヌでは多くのジプシーが漂泊の旅をしていた。 この作品を見た当時の人々にとって、ジプシーは身近な存在であり、画家が何を描いたのか直ちに分かり、画面に魅了されたに違いない。描かれた人物の顔かたちはいうまでもなく、衣装のデザインの細部にまで込められた画家の力量に圧倒される。そして、作品を見る者の「読みとる力」まで試されているのだ。

  グリンメルスハウゼンの「クラーシェ」は、この作品とも深い関係がある。ここに描かれた女性はジプシーであり、占い師、音楽師、道化師などを生業としてヨーロッパ全土を放浪していた。ジンプリチシムスやクラーシェもそうであったように、ジプシーたちはしばしば各国の傭兵ではなく正規兵として軍隊稼業をしていた。そして、驚くことにしばしば子供を含む家族ぐるみで、軍隊とともにヨーロッパを移動していた。カロの版画には食事を準備する母親たちの周りに、幼い子供たちが座って段取りを見ている作品もある。

  各国の皇帝や王侯たちは自国の民衆が軍隊に入ることを嫌ったり、逃亡してしまうので、傭兵に頼ることが多かった。軍隊生活に慣れていたジプシーは、その点では王侯・貴族たちにとって必要な存在でもあった。

  占いについても、ジプシーの仕事と考えられていた。占いという神秘的な、未来を予測する能力を持つといわれる彼女たちに、人々は畏敬の念と疑いの念の双方を持っていた。16世紀以降、カトリック教会もプロテスタント教会も占いを禁じていた。司祭たちは、占いは、人を惑わすペテンの術と言っていた。しかし、教会の教えることに反したことをしていたにもかかわらず、ジプシーたちが表立って罰せられたりすることはなかった。これについては、ジプシーに対する信頼と恐怖がないまぜになっていたからと推定されている。

  しかし、そればかりではない。キリスト教も決して救いの柱となっていなかった。キリスト教自体が大きく揺らぎ、分裂し、厳しく内部反目していた。長く続いた教会や修道院の堕落、腐敗は、宗教改革の大きな嵐を呼んでいた。キリスト教もカトリック、プロテスタント共に、不安な世界に生きる民衆に対して、説得力をもって神の国を語ることはできなかった。

  戦争、疫病、飢饉などが次々と襲ってくる世界では、一時の気休めにすぎなくとも、ジプシーたちの占いにつかの間の救いや安心の種を求めることは自然な成り行きであった。占いの結果は、予想されるとおりさまざまな波紋を生んだ。ジプシーは世の中に迷妄、不安をもたらすとして彼らを嫌悪、排斥する動きもあった。しかし、その結果は宗教戦争のような次元まで拡大するものではなかった。

   ジプシーの占い師のテーマは、当時かなり人気のあるものだった。カラバッジョ、ヴーエなど、当時の著名な画家たちはいずれもこのテーマの作品を手がけていた。それらは、大別すると二つのジャンルに分けられる。ひとつは、ジプシーの若い美しい占い師と、占ってもらう若者との間の愛のやりとり、色恋の情景である。もうひとつは、長い漂泊の旅で日焼けした占い師の女が占いをしている間に、仲間の美しい女たちが顧客の若者や女性から金品をかすめとるという光景である。

  当時、ジプシーの女たちは組みになって村などを訪れ、野菜など、物をねだったり、ちょっとしたものを売り、その間に他の仲間がこそ泥を働くなどの行為をすることがよく知られていた。 カラヴァッジョの描いた「占い師」は前者のジャンルだが、リアルではあるが平凡でつまらないとも評価された。

  他方、ラ・トゥールの「占い師」は実によく考えられていて見る人にさまざまなことを考えさせる。パトロンはきっと飽きずに眺めるほどの充足感を覚えただろう。たとえば、画面中央に立つ「卵形」の顔をした女は、どう見ても馬車やテント生活に明け暮れているジプシーの顔立ちとは異なっている。左側の悪事を働いている女たちもそれぞれ美しい。他方、占い師の老婆はなんとも形容しがたい異様な顔で描かれている。しかし、老婆の衣装などは当時のジプシーの身なりなのだ。  

  ラ・トゥールは明らかに他の画家の作品とは一頭地を抜く、エンターテイメント性の高い作品を創り出している。この作品には当時の上流階級に流布していた文学や伝承の話が背後に込められている。その点は長くなるのでいずれ記すことにしたい。  

  このラ・トゥールの「昼の世界」の作品は、画家が比較的若い頃のものと推定されている。リュネヴィルに移り、妻の階層である貴族社会に入り込むために、画家はその技量のありたけを見せようとしたのだろうか。「かも」になっている自分の周りにいるような若者を彼らはどう見たのだろうか。想像するだに面白い。人物の配置、衣装のひとつひとつを見ても、さまざまなことを考えさせる傑作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「放浪の女ぺてん師クラーシェ」:30年戦争小説を読む

2007年07月11日 | 書棚の片隅から


 戦争は人類の業病なのだろうか。人類の歴史は戦争の歴史の様相すら呈している。とりわけ宗教がからんだ戦争は紛糾、混迷し、しばしば泥沼状態となり解決が難しい。17世紀、ヨーロッパの歴史を大きく揺り動かした宗教戦争としての30年戦争も、実態は歴史家の間でも意外に分からない部分が多いようだ。

  このブログでも取り上げたシラーの
『30年戦史』にしても、戦史として最高司令官レヴェルの戦争にかかわる戦略や背景、そしてシラーの歴史観は知り得ても、現実に戦争の舞台となり、自国および他国の軍隊が蹂躙する戦場となった地域の人々が経験した苦難の実態については、ほとんど記されていない。情報伝達・収集が体系的には出来ない時代であり、人々の風評などがかなり大きな意味を持ったのだろう。しかし、30年戦争についても、最近新たな史料の調査、分析なども進んで、かなり興味ある事実が分かってきたようだ(この点は別の機会に改めて触れることにしたい)。

  30年戦争は、戦場の主たる地域がライン川から東の現在のドイツ、東欧であったこともあり、戦史ではこのブログでしばしば話題とするロレーヌなどはあまり登場してこない。しかし、ジャック・カロの『戦争の惨禍』(1633年)などが伝えているように、この地が経験した戦争の実態は、陰惨きわまりないものだった。

 ふとしたことから思い出すことになった
グリンメルスハウゼンの『放浪の女ぺてん師クラーシェ』は、30年戦争を舞台とするもうひとつの小説である。主人公(語り手)は、クラーシェという女性である。この作品は 『ジンプリチシムス』 (邦訳『阿呆物語』)と対になる続編といわれ、ジンプリチシムスもクラーシェの愛人として後段で登場してくるが、二つのストーリーの間に特に明瞭な関連性はない。 

  ストーリーは、後年クラーシェと呼ばれるようになるリブシュカという若い女性が主人公である。リブシュカはなにひとつ不足ない幸せな人生のスタートを切ったかに見えたが、30年戦争に巻き込まれ、否応なしに流転する戦争の渦中へ巻き込まれていく。それにもかかわらず、クラーシェは1645年のウエストファーリア条約にいたるまで、当時の荒廃したヨーロッパ社会をありきたりの道徳など放り出して、したたかに、奔放に生き抜いた一人の女性として描かれている。

 数少ない30年戦争小説としてブログに記した
Warwolf も、戦争の知られざる側面を描いた作品として、同じ流れに位置づけられる。傭兵の軍隊や窃盗団などの侵攻で、精魂込めて開拓した自分たちの土地や村を根こそぎ蹂躙をされるにもかかわらず、めげることなく気を取り直し、自らの力で防衛しようと、団結して戦う農民像が描かれているが、そこには「喰われるなら喰う」というすさまじい生き様が描かれている。

  妻や子供あるいは仲間が、ある日突然何の理由もなく襲われ、殺傷され、農作物や家畜その他、なけなしの家財も根こそぎ奪われるという非道きわまりない世界を生きていた人たちにとっては、虫けらのように殺されるよりは力で対抗するという選択をするのは当然のことかもしれない。村に自分たちの力で保塁を作り、自衛を図る。

 しかし、自衛組織を持ち、被害を多少とも阻止できた場合は、きわめて稀であった。多くは暴虐の嵐が吹き荒れる間、ひたすら辛酸を耐え忍んで嵐が遠のくのを待っていた。しかし、ひとつの村や町が無謀な略奪、殺戮の前に全滅する場合が多かった。 

  このような時代背景の中で生きる女性は、男性とはおよそ比較しえない悲惨な状況であった。しかし、クラーシェはそうしたイメージと遠く、したたかである。彼女が経験する現実はそのいずれもが、苦難そのものである。そして、荒涼、陰鬱な舞台へ放り出された彼女が選ぶことは、当時の倫理からしても、すべて悪の行為である。しかし、クラーシェは、その名の原義通り「芯が強く」、女性ながら常に明朗、奔放さを失うことなく、強く生きていく(劇作家ブレヒトが発想を得たのは、クラーシェのこのたくましさの部分である)。

  安楽に一生を暮らせる身分であったにもかかわらず、戦争のため生まれ故郷を離れて、ヨーロッパ各地を転戦する軍隊とともに流浪の人生を送る。その途上、何度結婚しても夫や愛人は次々と戦死し、財産はたちまち消えてしまう。次々と襲いかかる不運と非常な運命の中で生きた美貌のクラーシェには、娼婦、泥棒、漂泊者という厳しい生活しか残されていない。次第に性的魅力と狡猾さを身につけ、それらを武器にして、したたかに生きていく。しかし、全編を通して、悲惨、堕落、破滅といった構図ではなく、苦難にめげず強靭に明るさを失わずに生きた女性として描かれている。

  作品の結末でも大方の読者の予想する零落、堕落、破滅という姿ではなく、乱世をそのままに受け取り、活路を見出そうとする。最後はジプシーの集団に身をゆだね、ヨーロッパ全土を流浪・漂泊の旅を続ける。最後の章では、ロレーヌにおいて、村人たちから巧みに食料などを盗み出し、ジプシーたちが知り尽くしている深い森の中へと身を隠し、漂泊の旅を続ける。

  ラ・トゥールの作品に描かれているジプシーの女たちの
占い師やこそ泥
などの行為も、当時のヨーロッパ社会に一般に根付いていた風評や見聞が背後にあるのだろう。これらの絵画作品を正しく理解するには、時代背景についてのかなりの蓄積が必要と思われる。

   17世紀、30年戦争という宗教・政治戦争が一般民衆にとっていかなるものであり、かれらが生き抜いた風土がいかに厳しいものであったか、グリンメルスハウゼンの小説は、時代を超えてその一端を語り伝えている。大変な人気を博したのは、ストーリーが当時の実態を取り込んでいたためだろう。手ごろな長さの小説であり、17世紀前半、ひとつの時代規範の範囲にうまく収められている。 ピカレスク・ロマンの体裁をとり、主人公は改心することもなく、人生の苦難に屈することなく、最後まで強靭に生きて行く女性である。

  主人公の生き方には、いかなる意味でも賞賛されるべき点はない。しかし、クラーシェは自らの選択できる範囲で最大限に生きた。本書も決して悪徳の勧めではない。ひとたびこの世に生を受けた人間が、いかにその人生をまっとうするか。現代にも通じる多くの材料がある。そこには後のドイツ教養小説につながる源流のようなものすら感じられる。『ジンプリチシムス』は、発刊された1668年当時、すでに‘ベスト・セラー’であったという。


ヨハン・グリンメルスハウセン(中田美喜訳)『放浪の女ぺてん師クラーシェ』現代思潮社、1967年 

Johann Grimmelshausen. The Life of Courage: The notorious Thief, Whore and Vagabond, Translated by Mike Mitchell. Cambs:Dedalus, 2001, pp.175.

Grimmelshausen, Hans Jacob Christoffel von, Simplicianische Schriften. Courage, Wissenschaftliche Buchgesellschaft (1965, Darmstadt). 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深緑の待たれる時

2007年07月07日 | 午後のティールーム

Photo 日光中禅寺湖八丁出島

   
  沖縄は梅雨明け宣言。他方、日本列島はようやく梅雨の気配で鬱陶しい季節。大雨が降っている地域もある。澄み切った青空と深緑が待ち遠しい。

  仕事もなかなかはかどらない。気分転換に、あるご縁でお送りいただいている日光東照宮発行の『大日光』(77号)を見る。この社報(といっても会社ではなく日光社寺のこと)、世の中に多い広報誌とは一線を画し、毎号掲載内容が濃密で、大変興味ある記事が多い。世界遺産に登録された日光という貴重な人類の遺産の維持のために、さまざまな人々がいかなる努力をされているかということを知る上でも、教えられる点が多い。残念ながら一般書店などで販売される刊行物でないのが惜しい。大きな図書館では見られるかもしれない。

  今回の77号では、工藤圭章「中禅寺湖畔の英国大使館別荘とアーネスト・サトウ」という論文に目を惹かれた。1896年に建築された英国大使館別荘の来歴とその建築史・文化史的意味について書かれている。ちなみに筆者の工藤氏は元文化庁建造物課長をされた工学博士で(財)日光社寺文化財保存会理事をされている。

  この英国大使館別荘は、中禅寺湖湖尻から半月峠の方へ向かう湖畔の砥沢というところに建てられており、湖越しに男体山などの日光連山を望む景勝の地である。立木観音を過ぎて、湖畔の道の途中から自動車が入れなくなっているので、静穏な環境が保たれている。

  さらに先に進むと、昭和3年に著名な設計者レイモンドの設計による旧イタリア大使館別荘が、栃木県が所有するようになり、
日光イタリア大使館記念別荘公園として復元されて一般公開され、多くの人々が訪れる観光名所となっている。まだ別荘として使われていた頃を知る者として、こうした形で保存されることになったことを素晴らしいと思う。修繕・維持などに大変費用がかかる木造住宅であり、多くは老朽化し壊されてしまうからだ。この砥沢は明治以来、各国の大使館の別荘などが多く建てられてきた地域で、英国大使館別荘のように現在も使用されているものもある。

  いろは坂、中禅寺湖、戦場ヶ原、湯の湖と奥日光へ続く表通りからは湖尻で分かれて、左岸の脇道に入ることになるが、湖畔の道にも深い緑の美しさが保たれている。たまたま学生時代、暑さを避けての勉強を理由に何回かの夏をこの近くで過ごした。学業
の方は少しも進まなかったが、半月峠、足尾銅山、小田代ヶ原、男体、白根などの奥日光の山々の縦走など、土地の人もあまり知らない隅々まで知ることができた。今では体力的にとてもできない。10年ほど前にオーストラリアからの友人を案内して奥白根などへ登ったが、それが最後である。幸い友人は大変気に入ってくれて、その後も来日の時は頼りにならない私を同行せず、自分たちだけで登っている。

  さて、英国大使館別荘の建物は、外観が明治期の2階建ての和風木造住宅の体裁であり、当時の素朴な趣きを今に伝えている。設計はニコライ堂などの設計に関わった著名な建築設計者ジョサイア・コンドルの手によるものとされ、歴史的にも貴重な建物だ。1896年頃に建てられたらしい。依頼主は日本研究者としても知られる駐日英国公使アーネスト・サトウである。サトウはよほどこの場所が気に入っていたらしい。滞日中は暇が出来ると、ここで過ごしていたようだ。

  冬はとても厳しい寒さで、このあたりの温泉宿まで閉鎖されてしまうほどだが、夏は深い木々の中で暑さを忘れることができる。イタリア大使館別荘公園の先の湖畔にはキャンプ場もあり、子供たちがテント生活を楽しんでいる。湖岸まで適度な浜辺もあり、目の前は八丁出島である。さらに先へ進むと、かなりけわしい場所もあるが、中禅寺湖一周もできる。

  近くの仏国大使館別荘もクローデル記念館として保存されることが検討されているとのことだが、この英国大使館別荘も将来そうした機会があればぜひ同様な形で保存されることを期待したい。ここは日光を訪れる人があまり気づかない、隠れた憩いの場である。


工藤圭章「中禅寺湖畔の英国大使館別荘とアーネスト・サトウ」『大日光』77号、2007年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛び散った「労働ビッグ・バン」

2007年07月06日 | 労働の新次元

  年金記録問題という大衝撃で、最低賃金法改正案など労働関連重要3法案の今国会成立はついに見込めなくなった。一時はメディアを含めて「労働国会」などと騒ぎ立てていたが、今や雲散霧消に近い。失業率などにようやく改善の兆しが見られ、セフティネットの補強の時としては最適な時期だけに、法案が成立せず先延ばしになったことは、きわめて残念だ。年金問題の行方と併せて、格差拡大がさらに増幅される恐れがあり、大変憂慮される。両者は、とりわけ社会の最も弱い層の厚生・労働条件に深くかかわっているからだ。

  なかでも最低賃金の大幅(?)引き上げがほとんど見込めなくなったことは、きわめて憂慮すべきことだ。それでなくとも、日本の最低賃金は、先進国中でも最低に近い水準である。

  この点に関連して
考えさせられることは、労働政策の立案・改革に全体を見通した構想が欠けていることだ。省益擁護を含めて、既存の制度にとらわれすぎたり、部分の問題に目を奪われて、政策が歪んでいる。これは、最低賃金制度に限らず、労働政策のさまざまな領域に見られる。たとえば、最近メディアをにぎわしている外国人研修・実習制度はそのひとつである。この問題では、外国人労働者受け入れの根本的部分について再検討の必要が問われているのであって、現行の研修・実習制度の綻びをどう繕うかという問題ではない。

  ここでは最低賃金制度を例に挙げよう。今回の議論で提起されている最低賃金の水準と生活保護の整合関係を論じることは重要なことではあるが、もっと大切なことは最低賃金の制度を国民に分かりやすく透明なものとし、その仕組みと存在意義を周知徹底する努力である。先進諸国の中で日本ほどいたずらに制度を複雑にし、その実効性を削いでいる国はないだろう。アメリカ、イギリスなどで、この制度に接してみて分かるのは、最低賃金制にかかわる情報が広く労使などの関係者に浸透していることである。原則、全国一律、時間賃率表示ということもあって、透明度が高い。制度内容が労使に広く浸透している。

  他方、このブログでも指摘したことだが、日本では各地域で自分の企業が所在する労働市場の最低賃金を正確に答えられない使用者はきわめて多い。筆者の経験でも、ある地域の使用者インタビューで、最低賃金を即座に答えられたのは、数十社の中でほとんどなかったことさえあった。アンケートという書面調査においてさえ、回答者の過半が正確に答えられないという状況になっている。パートタイム賃金を決める時にだけ、最低賃金率を確認して、それに合わせるという本末転倒した事態さえ横行している。
 
  労使の代表は一円刻みの折衝に骨折ったなどと、もっともらしくいうが、グローバル化がこれほど進んだ世界で、一円単位まで示した都道府県別の最低賃金決定の仕組みが、どれだけの意味があるだろうか。都道府県の区分は行政区分にすぎず、現実の労働市場の範囲とはなんの関係もない。実態とはかけ離れた制度の形骸化を如実に示している。グローバル化した世界で、「地域」労働市場が競争している相手は、どこなのかを十分考える必要がある。

  都道府県という行政区分別に、複雑な水準設定をすることが重要なのではない。地域に関わりなく、日本人として人間らしい文化的な生活を最低限可能にする水準の維持こそが、最低賃金設定の基本に置かれるべきであり、そのメッセージが国民に伝わらなければならない。

  こうした複雑で実効性に問題が多い制度の維持・運営に国民が支払っている行政コストの大きさも認識されていない。制度の透明性と実効性を回復するには、基本的に全国一律の制度とし、例外的な地域に限って上積みするという簡素で透明度が高い体系への整備を図るべきだろう。しかも、労使など関係者が記憶しやすい直裁な数値設定も、小さなことのようだが重要だ。

  現代のグローバルな状況からいえば、全国一律の最低賃金率を設定した上で、せいぜい道州区分程度でグループ化し、必要に応じて、地域プレミアム加算をすることで十分だろう。日本全国を貫く賃金のフロアーが、どれだけの水準であるかを国民に明瞭に示すことが第一義的に必要だ。これまでの内外の実証研究を見る限り、最低賃金の引き上げが雇用にいかなる影響を与えるかは、仮定や標本の設定次第でプラス・マイナス両面の結果が出ており、それも微妙な範囲に留まっている。格差拡大が進む日本の現状では、水準引き上げが雇用面でもプラスに働く可能性は高いと思われる。

  現行の公労使3者構成の委員会方式も多くの問題がある。最低賃金審議会の制度も見直されるべきだろう。最低賃金制度のあるべき思想に立ち戻り、現行制度の抜本的検討が必要である。先延ばしになってしまった法案改正を「災い転じて福となす」よう、制度の根源に立ち戻っての議論を望みたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブレヒト、グリンメルスハウゼン、「善き人のためのソナタ」

2007年07月01日 | 書棚の片隅から

   かねて見たいと思っていた映画「善き人のためのソナタ」を見る。変化の激しい時代、公開から1年近く経った作品であり、時期としては旧聞になってしまう。しかし、作品自体は深い余韻の残る素晴らしいものだった。これも見たいと思っていた「ブラックブック」の方はハリウッド作品ということもあって、急に見る意欲が失せていた。両者ともにすでに映画評も多数出ており、いまさら新たな感想を付け加えることもないが、例のごとくいくつか失われていた記憶の糸がつながる思いをした。
  
  そのひとつ、映画「善き人のためのソナタ」では、20世紀を代表する劇作家・詩人のベルトルト・ブレヒトの詩集を、主役である東独のシュタージ(国家保安省:秘密情報組織)のヴィースラー大尉が、盗聴の相手である劇作家ドライマンのアパートからくすねてきて隠れ読むことが、ストーリーを形成するプロットのひとつになっていた。今回の記憶再生の糸の端は、そこにあった。

  映画を見ながら突然現れたブレヒトの詩集のことを考えていると、ふとあることを思い起こした。ブレヒトが日本でも知られている作品のひとつ、MUTTER COURAGE UND IHRE KINDER (邦訳:岩淵達治『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(文庫)岩波書店、2004年)の着想を、グリンメルスハウゼン Hans Jakob Christoffel von Grimmelshausen ie Lebensbeschreibung der Landstörzerin Courage(邦訳『放浪の女ぺてん師クラーシェ』中田美喜/訳、現代思潮社、1967年)から得ていたということである。

  この作品『放浪の女ぺてん師クラーシェ』は、主人公が男性である『冒険家ジンプリチシムス』(Der abenteuerliche Simplicissimusの女性版と考えられてきた。いずれもはるか昔に知ったことであり、完全に忘却の彼方へ消え失せたと思っていただけに突然妙な形でよみがえってきたのには、ただ驚くばかりだった(日常の生活で必要な時に人の名前や書名など、思い出せず切歯扼腕を繰り返しているのに。)

  ブレヒトはグリンメルスハウゼンから女主人公の名前と兵隊相手の食堂、そして背景としての30年戦争の荒廃した舞台装置を借りただけで、両者の脚本の展開はまったく異なっている。しかし、この記憶の断片のつながり方にはさらに不思議な思いをした。グリンメルスハウゼンの訳書は、これもかつてドイツ語を教えていただいた(そして若くして世を去られた)恩師が、青年時代に手がけられたものであったからだ。*

  ブレヒトの人生についてみると、劇作家、詩人として活躍したベルリン時代、ナチスの台頭、アメリカへの亡命、非米活動委員会(マッカシー委員会)喚問、東ベルリンへの移住と、彼の人生はそのまま世界の激動の最先端だった。イシャウッドの人生イメージ
と重なる所も多い。

   個人的経験としては、まだ「壁」の残る時代、西ベルリンでの会議のために出張した時に訪れた東ベルリンのイメージ(当時、日本からのアエロフロート直行便は東ベルリンへ着いた)、そしてこれも仕事で訪れたチャウシェスク政権下のルーマニア、ブカレストの暗い闇と小さな凱旋門、なんとなく背筋が寒くなった壮大な文化宮殿などの断片が頭をよぎった。そして、最近テレビで見る平壌の寒々とした光景が重なってきた。小さな体験ながら、自分も20世紀の片隅を生きてきたのだとの思いがいつか深まってきた。



* グリンメルスハウゼン、ジンプリチシムスに関する評価、そしてバロック小説の的確な展望が、恩師遺文集(1991年)に収められている。この不思議な縁の糸に驚くとともに、改めて学恩に深く感謝申し上げたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする