時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

カードゲーム・いかさま師物語(9):ギャンブルの視点(5)

2015年03月29日 | いかさま師物語

Michelangelo Merisi da Caravaggio,The Gypsy Fortune Teller,detail.
これはなにをしているのでしょうか。答えは下段文中に。

 



  カードのギャンブル(賭け事)が大好きだったらしいデル・モンテ枢機卿だが、素行不良の無頼な画家カラヴァッジョのパトロンになって自邸へ住まわせたり、当時ローマで設立された芸術家支援と埋もれた才能を開発するのための聖ルカ・アカデミアを主宰したり、世俗の双方に通じていた。聖職者でありながら、当時としては稀に見る広い視野を持ったかなり寛容な人物だったようだ。

 とりわけ、カラヴァッジョという美術史上にその名を燦然と輝かせた希有な天才画家の埋もれた才能を見出し、世に送り出した影の功績者であることは特筆されてよい。このヨーロッパ世界に鮮烈な衝撃を与えた画家を支援し、その後の革新的な業績を残した大画家への道を開いただけで、聖職者なのに賭け事が好きだったことぐらいは忘れてしまう。

 かくして、カラヴァッジョの名画『いかさま師』は、デル・モンテ邸の一室に掲げられて、その後行方不明になるまで、しばらく安住の所を得たようだ。

ひとりの教養人の姿
 デル・モンテ枢機卿は、ヴェネツィア生まれでパデュア、ウルビノなどで聖職者としての修業時代を過ごした後、1572年頃、ローマへ赴任してきた。彼は、ヴェネツィア美術のエッセンスをローマに持ち込んだ。さらにフィレンツエ・メディチ家フェルディナンド1世の政治的な指南役をしたり、美術顧問のような役も務めた。さらに、この時代の教養人のひとつの特徴として、絵画ばかりか、彫刻、骨董、貴石、楽器、陶器、ガラス器、マーブルなどにも関心を寄せ、収集していた。とりわけ東方への関心は深く、2枚のトルコ絨毯まで所有していたようだ。カラヴァッジョは抜け目なく、自らの作品の片隅に描き込んでいる。

 デル・モンテ枢機卿のこうした博物的な関心と収集意欲は、あのラ・トゥールの精神的支援者であったランベルヴィレールやその友人であったヨーロッパ中に知られた博物学者、ペイレスクなどと共通するものがある。広く世界に目を配り、さまざまなことに関心を抱き、根源を探求し、真に良質なものとそうでないものを見極める鑑識眼を涵養していた。

 この点は、若いころから専門化して、ともすれば広い世界が見えなくなってしまう現代人の生き方、知識基盤の形成の仕方とは大きく異なっていた。天文学から路傍の草花まで、好奇心を常に抱いて生きた。こうした基盤は一朝一夕に身につくものではない。絵画にしても、できるかぎり多数の対象を見ることを通して、玉と石とを判別することができるようになる。売り込む側の画商も、その点は十分心得ていて良質の作品を持ち込んだのだろう。

 カラヴァッジョの『いかさま師』は、同じ主題を描いた同時代以前の他の画家の作品と比較して、際だって美しく、洗練された作品に仕上がっている。描かれた場面は、当時のローマの市井のあちこちで見られたいかさまの光景だ。実際はきわめて薄汚い、いかがわしい場面のはずだ。しかし、ひとたび名画家の筆になると、枢機卿そして後世の人々の目を惹きつけるだけの迫力がある。人物のポジション、色彩の美しさ、明暗など、単純なテーマであるにもかかわらず、見る人を強く魅了するカラヴァッジョの初期の名品の一枚といってよい。

『(ジプシーの)女占い師』
 さて、カラヴァッジョは、この『いかさま師』と並んで、大変著名な『(ジプシーの)女占い師』といわれる作品を制作していた。『いかさま師』と『占い師』のいずれが先に制作されたかは、定かではないが、画家の生涯の早い時期であることは明らかになっている。

 『女占い師』については、2点のやや異なったヴァージョンが残っており、今日では、パリのルーヴル美術館とローマのカピトリーニ美術館がそれぞれ所蔵している。

 ローマに残る一点は、画家の友人でもあった画商スパッタ Constantino Spataが、『いかさま師』と同様に、デル・モンテ枢機卿に売り込んだ可能性が高い。この画商は枢機卿の邸宅近くに店があり、カラヴァッジョなる当時はまったく無名の画家を見出し、顧客に紹介したり、作品を持ち込んでいたようだ。いうまでもなく、ローマにはパトロンのいない貧窮した画家たちが多く、それぞれにその日暮らしのような生活をしていた。カラヴァッジョも、強力な庇護者に見出されるまでは、そのひとりだった。

 まず、ルーヴル所蔵の作品『女占い師』から見てみよう。この作品は、制作時点からみると、2点のヴァージョンの内、最初に描かれたといわれるが、実際は定かでない。

 「カモ」とみなされた青年を誘惑するジプシーの女性の顔が丸顔で輝いて、だまされる青年の顔も表情がそれらしく?、全体として画面が明るく、作品としては上質との評価が高いようだ。他方、カピトリーニ版(本ページ最下段)は女性の顔がやや暗く、若者の顔もいまひとつという評がある。要するに若者を誘惑する女性の魅力が、当時の世俗的観点から問題にされているようだ。それ以外で両者に際立った優劣はつけがたい。

カラヴァッジョ「(ジプシーの)女占い師」、ルーヴル美術館蔵 画面クリックして拡大

Michelangelo Merisi da Caravaggio (1571-1610), The Gypsy Fortune Teller, c. 1594, oil on canvas, 99 x 131cm, Muse du Louvre, Paris 

 

 ジプシーは今日ではロマ人と呼称されるようになっているが、ヨーロッパの歴史の中では、しばしばマイナスのイメージで語られることが多かった。漂泊の民として、キャラバンで各地を移動する有様は、ジャック・カロの版画などにも詳細に描かれてきた。他方で、文学、劇作などの主題に取り上げられることも少なくなかった。 

 たとえば、劇「ジプシー」は16世紀当時、著名な劇作家ジャン・アントニオ・ギアンカルリによって、メディチ家当主フェルディナンドI世とクリスティーヌ・ロレーヌの結婚式に上演され、大評判となった。デル・モンテ枢機卿も招かれ、出席していた。枢機卿にとってみれば、『いかさま師』と『女占い師』の2点を自邸の壁に掲げることができれば、大満足だったろう。
変わりゆく世俗画のイメージ

 両者共にいわゆる世俗画のジャンルに入り、聖職者の邸宅の壁を飾るにはいかがなものかと思われるかもしれない。カードゲームで世の中の事情にうとい若者がカモにされたり、若くて美しいジプシー女の占い師に、目がくらんでいる間に金品を奪われるといったプロット自体は、はるか古い時代へさかのぼる。若く、ハンサムで、ナイーヴで、上等な衣服を着ている男が世俗の世界に溺れ、財産を失ってしまう(ルカ伝15:II)。放蕩息子の寓話であり、ほとんどのギャンブル、だまし、ジプシーの占い師などに関わる話の根底に暗黙に想定されている。

 『女占い師』では二人の男女が描かれ、若い世の中を知らない若者の手をジプシーと思われる若い女が、手相を見ての占いをよそおいながら、あわよくば高価な指輪を抜き取ろうとしている場面が描かれている。当初は上述の「放蕩息子」の含意が予想されていた主題であったが、この時代には、ローマなどの都市社会に蔓延していた退廃した世俗の光景の一画面となっていた。

 現実のこうした犯罪的行為の光景は、およそ美術の対象にはなじまないものであったに違いない。しかし、カラヴァッジョに代表される画家たちは、それらを見て楽しめる美術の世界へと移し替え、それぞれの階層の人々が、
さまざまな思いで楽しんでいたというのが実情だった。

 いつの間にか「いかさま」「ごまかし」「占い」「貧困」「華美」などのイメージは当時の人々、とりわけ画家や劇作家の心中で相互につなぎあわされ、単なる宗教的教訓といった次元を超えて、新たなイメージの世界を創りあげつつあった。

カラヴァッジョ「女占い師」(ローマ、カピトリーニ美術館) 画面クリックで拡大

Michelangelo Merisi de Caravaggio, The Gypsy Fortune Teller, c.1595, oil on canvas, 115 x 150cm, Pinacoteca Capitalina, Musei Capitolini, Rome

 

続く

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カードゲーム・いかさま師物語(8):ギャンブルの視点(4)

2015年03月20日 | いかさま師物語

 

カラヴァッジョ 『いかさま師』 部分
Michelangelo Merisi da Caravaggio
The Cardsharps, c. 1594-95
oil on canvas, 94.2 x 130.9cm
Kimbell Art Museum, Fort worth 



 ギャンブル依存症ともいうべき精神疾患に類する人たちが日本で増えているという。その数、なんと500万人近いとのこと(『日本経済新聞』夕刊、2015年3月19日)。ギャンブルの淵源がいつまで遡るのか知るよしもないが、ここでたまたまテーマに取り上げているカードゲームでは15世紀くらい、ドミノやダイスなどではもっとはるか以前になるようだ

 カードゲームでのギャンブルの光景を取り上げた絵画作品はかなり多い。それだけ人間の本性に深くかかわっているのだろう。無知、腐敗、欲望、時に犯罪にもつながり、人間について考える格好の主題だ。

輝くキンベルの存在
 カードゲームのギャンブル、いかさまを取り上げた絵画作品の白眉は、やはりキンベル美術館が所蔵するカラヴァッジョの作品だろう。この美術館、1972年の開設であり、どちらかといえば新しい部類だが、その所蔵品は素晴らしい。数はさほど多くないが、 非常に目配りの良い水準の高い美術館である。建築史上においても、記念碑的存在である。新棟も追加され、今後がさらに楽しみな美術館だ。


 キンベルはカラヴァッジョおよびラ・トゥールの「いかさま師」、「女占い師」シリーズを所蔵し、このテーマを追求するのであれば、どうしても訪れねばならない場所になっている。

 カラヴァッジョの手になるカードゲームの「いかさま師」シリーズについては、ブログで何度か取り上げているが、テーマの与えるイメージと異なり、際だって美しい作品である。カラヴァジズムとして後世に知られるようになったこの画家の作品は、モデルを駆使してのリアリズムに充ち、 それまでの画家たちがあまり選ぶことのなかった社会の低下層の人たちの群像を描いている。

 「いかさま師」The Cardsharps は、カラヴァッジョの初期の画業段階での傑作といえる。来歴を見ても、デル・モンテ枢機卿が最初に買い入れて以来、突如として所在が不明となり、長らくヨーロッパの個人の所蔵品に埋もれていた。キンベルが取得したのは1987年という近時点である。デルモンテ枢機卿の宮殿はそれほど立ち入りが難しいかったとは思えない。デル・モンテ枢機卿の後、作品がいかなる遍歴を経たかについては、画家の生涯ほどには知られていない。探索するに興味深いトピックである。真作に接する機会が得られなかった画家たちは、多数のコピーを作り出した。ちなみに、キンベルはラ・トゥールの「クラブのエースのいかさま師」(真作)も所蔵している。
 
 現存するコピー作品とカラバッジョの真作を比較してみると、その差はあまりにも歴然としている。カラバッジョは、ほとんどデッサンすることなしに、直接キャンヴァスに向かったといわれているが、全体の人物の配置、ダイナミックさ、色彩の美しさなど、画家の非凡な才能を感じることができる。 カラヴァッジョの作品を目にされた方の中には、どうせ絵空事を画家が勝手に描いたのだろうと感じた方もあったかもしれない。しかし、16世紀を代表する画家は、制作に際してきわめて鋭く深い構想を秘めていた。 それは、この作品に限ったことではないのだが。

カラヴァッジョ『いかさま師』 19世紀の模作の例、部分

Annonymous, The Cheat at Cards, 19th century, after Michelangelo Mersi
da Caravaggio's Cardsnaps. Oil on canvas, 92.5 x 124.5 cm,
University Art Museum, Princeton, New Jersey, details.

 

徹底したリアリズム
 ここで行われているカードゲームは、当時ヨーロッパですこしずつルールは異なりながらも、プレーされていた「プリメロ」 primero あるいは「プライム」と称されていた現代のポーカーの原型に近いゲームであるという。作品を見た人たちは、その場面がゲームではいかなる時に相当するか、ほとんど分かったようだ。ゲーム自体が広く社会の各層に浸透していた。


 描かれている人物は3人、そのひとりはいわゆる「カモ」dupe にされている若者だ。品のいい暗色のジャケットを着用し、襟元の小さな白いカラーが育ちの良さを示しているかのようだ。子細に見ると、カラーや袖口にも繊細な模様が描き込まれている。この若者、前回記した「放蕩息子」を思い起こす方もおられるかもしれない。ゲームにもまだ慣れておらず、自分の手の内しか見られない。

 他方、ゲームの相手方の若者は、当時の流行であろうか、かなり華やかな身なりだ。緑色のシャツの上に、革の胴衣を着ている。帽子には鳥の羽が付いていて、華麗さを強調している。カードを隠すに適当なベルトを着用している。横顔はほとんど自分の勝利を確信して、相手のためらいを待ち遠しいように眺めている。明らかにいかさまをしているのだが、悪の世界に入って日が浅いようで、当時の普通の若者の容貌だ。

 ここで、いかさまを企み、それを動かしているのは、容貌の悪い後ろにいる男だ。自分の持ち手の中にしか視野が広がらない「かも」 のカードを盗み読みし、その結果を相棒の若者に伝えている。手袋の指が破れていることにも意味があるようだ。その破れ方も擦り切れたというわけではなさそうだ。当時のいかさまプレーヤーの中には、カードの感触を指先で覚えたり、秘密の印しをつけるなどの目的で、わざわざ手袋の指先に穴を空けていた者もいるという。なにしろ、画家のカラヴァッジョ自身がデル・モンテ枢機卿の支援を得るまでは、ほとんどローマの市井で、着の身着のままの生活を送っていた。こうしたいかさまの世界など、とうに経験済みなのだ。

  さらに、この容貌の良くない男は、詐欺師集団のひとりとして、世間にうとい若い男を誘い込み、カードゲームを覚えさせ、いかさま仕事の上前をはねているのかもしれない。文化の栄える都ローマは、悪徳、犯罪、享楽、犯罪などがいたるところにはびこっていた。

 ローマへ出てきたカラヴァッジョは、作品も売れず、貧窮な生活を過ごしていた。デル・モンテ枢機卿の庇護を得ることでそうした生活から抜け出ることができたかに見えたが、画業で得た金は荒んだ日々の生活で、すぐに使い果たしていた。波瀾万丈、悪徳に充ちた人生を過ごした画家だが、その作品はその罪を償うかのように光輝いている。



続く

  


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カードゲーム・いかさま師物語(7):ギャンブルへの視点(3)

2015年03月15日 | いかさま師物語

 


15世紀、バックギャモンなどの賭博を戒める版画

Rest on Sunday, from die Zehn Gebote (Book of the Ten Commandaments by Johannes Glffcken, 15th century woodcut. Universitatsbibliothek Heidelberg, Germany


忍び込むギャンブル性
 カードゲームは歴史の古いドミノ,バックギャモンなどと並んで、当初はゲームの勝敗だけを楽しんでいたものだったが、まもなくギャンブル(賭博、博打)の対象となる。たとえば、アウグスブルグでは14世紀半ば、すでに詐欺が窃盗に次ぐ犯罪となっていた。


 ギャンブルは
15世紀くらいから急速にヨーロッパ社会に拡大・浸透していった。ルネサンス期にはヨーロッパの全域でギャンブルの手段となっていた。小さな事では町中の居酒屋やカフェでビールや小銭を賭ける程度から始まったのだろう。この時期にはギャンブルをしない者はいないといわれるほど、ヨーロッパのいたるところで行われていた。

  


After Lucas van leiden(c.1494-1533),
The Card Players, c.1550-99. Oil on panel,
55.2 x 60.9cm, National Gallery of Art,+
Washington, D.C. Samuel H. Kress Collection. 

  一例としての上掲の作品は制作年次は16世紀後半と推定されるが、比較的良い身なりの男女がカードをプレーしている。しかし、中心に座る主役らしき女性を囲み、カラヴァッジョ、ラ・トゥールなど後年の画家たちの作品に登場する詐欺的行為を思わせる描写である。


 絶え間ない戦争や悪疫の流行などを背景に、社会が荒廃し、聖職者や貴族の世界ではかなり大きな金品が賭けられていたようだ。目に余る状況などもあって、教皇クレメントVIII世がその横行ぶりに警告を発しても、前回のデル。モンテ枢機卿の例のごとく、金銭を賭けたカードゲームは、宮廷や教会の裏側では日常的な娯楽になっていた。


カラヴァッジョ肖像画
Ottavio L
eon (italian, 1578-1630), Portrait of Caravaggio, c.1621,
red and black chalk with white heightening on blue paper,
23.4 x 16.3cm, Biblioteca Marucelliana, Florence

  カラヴァッジョは生涯に殺人など多くの問題を起こし、非業の最後を遂げたが、デル・モンテ卿には多くの擁護を受けたことを忘れなかったろう。ギャンブルがあるところには、詐欺や だましが生まれた。さらに、組織的詐欺がフランス、イタリアで問題となっていた。盗賊、詐欺師のグループが現れていたのだ。

  カードゲームの情景が絵画の主題として登場することも多くなった。それも単にゲームを楽しんでいるという光景ではなく、ギャンブル、詐欺といった犯罪の要素が入りこんでいることが分かる。その光景を最も鮮明に描いたのが、カラヴァッジョであった。カラヴァッジョがローマに出てきたのは1592年であり、1606年には殺人の罪を犯して逃亡、漂泊の旅に出た。ローマにいたのは15年にも満たない年月であった。この期間にカード詐欺、占い師などを題材に名作を残した。

底流にあった「放蕩息子」の寓話
 カード詐欺のプロット自体は古く遡る。若く,ハンサムで,ナイーブさを残し、上等な衣服を着ている貴族の子弟などが世俗の世界に入り、財産を失ってしまう、放蕩息子(ルカ伝15:II)の寓話である。ほとんどのギャンブル、詐欺、ジプシーの占い師などに関わる話の根底に流れている。話の内容は画題にしやすいにもかかわらず、16世紀になって本格的に取り上げられた。最初は北方の画家ルーカス・ファン・ライデンやフランツ フランケンII などの手によるものだった。

 イタリアでは次第に聖書の寓話の枠を離れて、世俗画の画題に移行していた。デル・モンテ枢機卿に買い上げられたカラヴァッジョの作品はその後19世紀末になると、作品の所在が不明になり、変わって30点余りの模写などの作品が出回り始めた。

  カラヴァッジョの『カード詐欺師』は、bravo(暴漢、刺客)、富裕な兵士、ローマの貴族の服装で描かれており、彼らは1590年代のローマの街を徘徊していた悪名高い存在であった。画家自身がそうした仲間とともに、画業を続けていた。

 彼らは武器の携行を許され、帯刀していた。町中で乱暴狼藉を繰り返し、カードやダイスで賭博をおこなっていた。ジョバンニ・ガルダーノは、そうした男たちを念頭に描いた書物を17世紀に出版している。そして彼らは熟練、ごまかしの技術に長けているので、相手としてプレーしないよう戒めている。

 このキンベル美術館が誇る所蔵品の一枚については、次回以降記すことにしたい。

 

 

 続く

 

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カードゲーム・いかさま師物語(6):ギャンブルへの視点(2)

2015年03月13日 | いかさま師物語

デル・モンテ枢機卿の肖像画

Ottavio Leoni(Italian, 1578-1630)
Portrait of Cardinal Francesco del Monte, 1616.
Black chalk with white heightening on blue paper,
9 x 6 1/2 in.(22.9 x 16.5cm).
Collection of The John and Mable ringling Museum of
Art, the State Art Museum of Florida, Sarasota,
Museum purchase, 1967.
source: Helen Langdon, Caravaggio's Cardsharps: Trickery
and Illusion. 



ギャンブル好きな枢機卿
 話の口火を切る意味もあって, 
リシュリューの政治家・外交家としての性格を現代の観点から見直してみるという試みを行ってみた。リシュリューについては、実は興味深い問題は多々あるのだが、ここではさらに少し視点を変えて、リシュリューが活躍していた17世紀という時代におけるギャンブルと絵画の関連について記してみたい。言い換えると、カード(トランプ)ゲームという遊戯が、絵画の主題としてどのように描かれていたかという点を通して、この時代の社会環境について少し新しい視点を加えてみたい。現代社会におけるさまざまなギャンブルの根底にある問題にも関わっている。

 現在につながるカード(トランプ)ゲームの起源は、ドミノカードなどを含んで数多く、正確には分からない。しかし、いずれのゲームでも、最初のうちはゲーム自体の面白さに魅せられ、せいぜい紙の上での勝ったり負けたりの点数争いでも十分楽しかったのだろう。しかし、ある時点からそれだけでは面白くなくなり、ギャンブル(賭博、博打)の誘惑が忍び込んでくる。 最初はパブ(居酒屋)で負けた者が1杯おごる程度であったのかもしれない。しかし、いつの間にかギャンブルの額は大きくなり、多額の現金などを賭けたりするようになる。最近、マカオのカジノでのギャンブルに全財産をつぎ込み、それでも抜けきれないギャンブル依存症ともいうべき精神状態になった男の話をBSが報じていた。

 実際、ヨーロッパにおいてはルネサンスの時代は、ギャンブルがすでに社会のあらゆる分野に浸透していた。とりわけ、娯楽の少ない下層社会では盛んであった。16-17世紀、戦争の多かった時代、兵隊たちは暇さえあれば、兵舎の片隅などで金を賭けてのダイスやカード遊びに夢中だった。ペストなどの疫病が,軍隊の移動とともにヨーロッパ各地に蔓延したように、ギャンブルも軍隊の移動とともに、各地へ拡大・浸透していった。ラ・トゥールの『聖ペテロの否認』 なども、画面の半分はダイスゲームに入れ込んでいる兵隊たちの姿が描かれている。

 そして、カードゲームなどのギャンブルは、ほどなく貴族から聖職者まで含めた上層社会へと浸透する。かれらは有閑階級であり、富裕階級であったがために、ギャンブルにはすぐにのめり込んでいた。 

 そして時代は下って、現代社会ではトランプ、花札、ダイスなどのギャンブルのウエイトはインターネットの発達とともに、急速にウエイトを低めた。目に付くのは(預貯金)カード詐欺やインターネット上でのギャンブルの話であり、これは枚挙にいとまがない。
 
 今回は17世紀におけるカード(日本でのトランプ)ゲームを主題として描いた美術作品について、少し掘り下げてみたい。すでにこのブログでも部分的には何度か、取り上げているのだが、少し系統立てて新しい視点で見てみたい。

カラヴァッジョのカードいかさま師
 16-17世紀におけるカードゲームをする人たちの情景を描いた作品は数多い。その中で、最も著名な作品はカラヴァッジョ、そしてラ・トゥールの手になるものといえる。まず、カラヴァッジョの作品をもう一度見直してみたい。

 ローマに出てきたカラヴァッジョは、絵描きとして身を立てるため、精力的に作品を制作し、それらを売って生計に当てていた。しかし、その生活は荒れており、安定した芸術活動を維持するにはほど遠いものだった。

 ある美術商がこの画家の手になる『カード詐欺師』Cardsharps と後に呼ばれる作品を、1672年にローマきっての美術品の収集家であるデル・モンテ枢機卿 Cardinal Francesco del Monteに売却した。デル・モンテ枢機卿は、このカラヴァッジョなる抜群の技能を持った若い画家に目をつけ、
自邸に住み込ませ、生活を支え、修業させた。この時代にはローマでパトロン探しをする芸術家は数多く、このこと自体はさほど珍しいことではなかった。カロもプッサンも、ほとんど同じような形で、自分の才能を認め、財政的な援助をしてくれるパトロンを捜し求めた。ただ、カラヴァッジョの無頼ぶりは当時のローマではかなり知られており、作品を次々と描き、その金で毎夜のごとく酒を飲み歩き、帯剣して狼藉を働くことに費やしていた。

Caravvagio, The Cardsharps, c.1594
Kimbell Art Museum, Fort Worth 

 

 この甚だしく素行の悪い、しかし天才的な画家の素質に目をつけた枢機卿が、画家のパトロンとなったのだ。もの好きと言えばそうなのだが、この聖職者にはその才能を見通す眼力があったのだろう。1594年ころのことと思われる。『いかさま師』なる作品は長らくデル・モンテ枢機卿の宮殿の壁に架けられていた。デル・モンテ枢機卿はカード・ゲームが大好きで、毎夜のごとく、カード遊び、それも金を賭けてのゲームをしていたようだ。聖職者といっても、多分に俗人的であったのだろう。


ギャンブルにふけった聖職者たち
 
すでに16世紀から、カードゲームはローマでも中下層ばかりでなく、上流の階級でも好まれていた。デル・モンテ卿もそのひとりだった。1597年8月、「教皇の甥であるピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿とオドアルド枢機卿と、デル・モンテ卿の3人はディナーの後にカードをした。デル・モンテ卿はこのことを友人宛に次のように記している:「われわれは、大きな戦いをした。そしてアルドブランディと私が負けた。私の負けのほうが彼より大きかった。」ギャンブル好きな枢機卿たちはデルモンテ卿の宮殿でゲームをしたのかもしれない。ローマの聖職者たちの間で、こうした情景が繰り広げられていたのだから、パリのリシュリュー枢機卿もカードゲームくらいはしただろう。

 そして、なにごとでもフランスやイタリア流を取り込んでいたロレーヌ宮殿では、ラ・トゥールが描いたようないかがわしい者たちが出入りする情景が現実にあったのだろう。徹底したリアリストであったラ・トゥールには、必ずモデルがあったはずだ。

 ロレーヌではラ・トゥールの作品の熱心な収集家であった地方長官ラ・フェルテ Marechal de La Ferte もギャンブル好きだった。戦争などがない折には、仲間とカードをしていたようだ。もし、ラ・トゥールのこれも斬新な『いかさま師』が架けられた自室の壁の前でカードをしていたのであれば、デル・モンテ卿とは違った楽しみだったに違いない。

 そして、こうしたカードゲームの世界に、さまざまないかさまな手口が入り込んで行き、ゲームの世界を変えていった。そうした変化には、当時の社会環境、倫理観の変化なども忍び込んでおり、画家たちは巧みにそれらを作品化していた。 

 

続く

 

 

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インターミッション(幕間、まくあい):シベリウスを聴く

2015年03月09日 | 午後のティールーム

 

KULLERVO 
Catalogue 


  今年はシベリウス生誕150周年。世界中でさまざまな催し事が行われている。思いがけないご招待をいただいて、コンサートホールへ出かけていった。曲目は「クッレルヴォ」(KURLLERVO)。フィンランドの叙事詩「カレヴァラ」(カレワラ)による全5楽章の大作だ。

 シベリウス26歳の時の作品であり、ベートーヴェンの交響曲第九番くらいの長さがある壮大な作品だ。ソプラノ、バリトン、そして大規模な男性合唱を伴っている。この男性合唱団の存在は圧倒的な迫力を作品に加えている。

 各楽章にはタイトルがついている:
I. 序奏 アレグロ モデラート
II. クッレルヴォの青春 グラーヴェ  
III. クッレルヴォと妹 アレグロヴィヴァーチェ 
IV. 戦いに向かうクッレルヴォ アッラマルチア 
V.クッレルヴォの死 アンダンテ

 ストーリーは劇的だ。とりわけ、第3楽章は25分近い壮大なオーケストラの響きと合唱に圧倒される。合唱も劇唱といってよい迫力に満ちている。滅多に聴くことのない激しい音響、オペラ的構成など、しばらくぶりに心が高揚した一夕となった。この作品は、日本ではあまり演奏に接する機会(前回は2007年とのこと)がないだけに、感動的だった。同時に演奏された交響詩「フィンランディア 作品26-7」は、お馴染みだが、やはり名曲中の名曲だ。かつて帝政ロシアの支配下にあったこの国の存在、そしてその後のフィンランドが凝縮されている。


 彼の地で長く活動された松原千振氏(東京混声合唱団正指揮者)とマッティ・ヒュヨッキ氏(シベリウスアカデミー合唱指揮者クラス教授)のトークで、男性合唱団の歴史・背景が語られたことは、興味深かった。

 ヘルシンキの地は、管理人にとっても衝撃的な思い出
が残る地でもあり、当時訪れたシベリウスの記念碑、フィンランディア・ホールなどの記憶も眼前に甦る。この大作に接して、友人への鎮魂の思いがこみ上げてきた。

Sibelius monument, Helsinki

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カードゲーム・いかさま師物語(5):ギャンブルへの視点(1)

2015年03月07日 | いかさま師物語

 

17世紀のカードゲーム風景
を描いた絵画の例





  宰相リシュリューが仮にポーカーのようなカードゲームをしたとしても、果たして勝負に勝てたか否かは分からない。それ以前に、この17世紀ヨーロッパきっての多忙な政治家がカードゲームをする余裕があったか、疑わしい。リシュリューは政治家であったが、枢機卿という聖職者でもあった。もっとも、当時の聖職の世界もかなり乱れていたので、実際のところは不明である。リシュリューの私的な生活は、波乱万丈であった公的生活と比較して分からない点が多い。後代の画家が描いているように、仕事の合間に猫と遊ぶくらいだったのかもしれない。ルイ13世とともに戦場を駆け回っていた合間に、鹿や雉を狩ることくらいはあっただろうか。

 しかし、彼がヨーロッパを駆け回っていた時代、17世紀には、カードゲームは社会のあらゆる分野で、かなり人気のゲームであったようだ。このころから、カードゲームをする人々の姿を描いた絵画作品が増えている。

 その中で このブログの読者の方々がよくご存知なのは カラヴァッジョやラ・トゥールの 作品だろう。これらの作品は、しばしば『(カードの)いかさま師』card shark あるいはcard sharp という画題で知られる作品である(card sharkやcard snapは、しばしばcardshark やcardsnapのように一語あるいはcard-sharpのように綴られることもある)。しかし、当の画家は自分の作品にこうした画題を記しているわけではない。作品を見る人、後世の人が便宜上それらしき画題をつけたことは多々ある。具象画についていえば、多くの場合、作品を見れば、画家がなにを描こうとしたかはほぼ理解することができる。

 ちなみにcard sharpという英語は主としてイギリスで、card sharkは、アメリカ、カナダ、オーストラリアで使われることが多いといわれてきたが、今日ではその区分はほとんどなくなった。両者ともに言葉の意味としては、1) プロフェッショナルなカードプレーヤー、2)カードゲームに熟達した者、3)カードゲームで人をごまかす(だます)ことに長けている人、といういづれかの意味で使われるようだ。しかし、いずれの意味で使われているか、その差異もあまり明確ではなく、それが使われた状況で判断するしかない。

 このブログでも、これまでに、カラヴァッジョやラ・トゥールの『いかさま師』(card shark)なる作品について記したことがあるが、今回、リシュリューの練達した政治・外交手腕をポーカーの名手にたとえた外交評論を題材にした延長線上で、16-17世紀以降、カードゲームの特定の場面が、人気のある画題として浮上した背景について少し記すことにしたい。

 インターネットが発達した今日では、実際のカードを使ってのトランプも麻雀(麻雀)も目に見えて人気がなくなったようだ。かつては大学近辺などによく見かけた雀荘も、ほとんど廃業して消えてしまった。カードゲームをしている光景にもほとんど出会うことがない。電車などでは、大人も子供もスマホとやらに、目を据えて見入っている。自分が周囲から隔絶したように画面に没入している光景は、かなり異様と管理人は今でも思っているが、そうした感想を抱く人も少数なのかもしれない。 

 さて、問題のカードゲームの原型は、さまざまな説があるが、9世紀中国の唐の時代に遡るという説がかなり有力なようだ。しかし、ヨーロッパでもドミノなどのカードがあるので、定かではない。今日に伝わるトランプ・タイプのカードは14世紀末くらいが発祥らしい。こうしたゲームの常として、間もなく単なる遊びの道具としてばかりでなく、賭け事(賭博、博打 gamble at cards)の手段に使われるようになる。

 ギャンブリングは、ルネサンス期のヨーロッパではきわめて広く浸透し、やらない人のほうが少なかったといわれるほど人気があったらしい。そして、15世紀から急速に広がったようだ。イタリアのシエナなどでは、禁止令が出るほどになった。

 これから数回、このカードゲームとヨーロッパ絵画の関係に立ち入ってみることにしたい。 


 トランプ(trump: 切り札のこと)。通常、53枚から成る遊戯用カード。西洋カルタ、骨牌。

 続く

 

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カードゲーム・いかさま師物語(4):ギャンブラーとしてのリシュリュー(4)

2015年03月02日 | いかさま師物語


ジャック・ステラ
『タイタスの寛大(気前のよさ)』
(ルイXIII世とリシリューの気前のよさ)

Jaques Stella (Lyon 1596-Paris 1617)
The Liberality of Titus
(The Liberality of Louis XIII and Richelieu)
About 1638
Oil on canvas, 174 x 146.2cm
Harvard Univerisy Art Museum, Cambridge



 リシュリューという17世紀を代表する政治家について、その実像を把握することは現代のフランス人にとってもかなり難しいようだ。身近かにいるフランス人の知人に尋ねても、もちろん名前は良く知っているけれども、内容のある議論はできないという。それでも少し切り込んで聞いてみると、革命以前の歴史はあまりよく分からないとの答が戻ってきた。大学教師などの間でも意外にこうした答が多い。

 他方、リシュリューのことは現代においても、さまざまな場面で目にする。何度か映画化もされたし、フランスは自国の戦艦にリシュリューの名をつけたこともあった。この記事を書き始めた動機もたまたま 著名な雑誌であるJournal of Foreign Affairs に最近漫画付きでリシュリュー再評価の論文が掲載されていたことにヒントを得たものだった。最近ではフランス革命の悪名高いロベスピエールも、一貫して「人民の擁護者」であったという評価になっているという

 これまで長い間、外交や政治の専門家たちが抱いていた印象は、リシュリューが考え、実行していた政策は古典的で、現代には合わないという考えのようだ。今日でも多くの人は彼の政治を古典的として却下する。しかし、JFAの筆者が指摘するように、現代の世界における政治や外交の実態は、考えてみるとポーカーゲームに近いという。そこにおいて、彼らが行っていることは、リシュリューのそれとあまり変わりはないとされる。

 リシュリューの政治技術は、自らの政治生命を危うくする可能性があった。1618年には30年戦争が勃発した。ヨーロッパ宗教戦争の最後の痙攣ともいうべきものだった。プロテスタント諸国とハプスブルク家とそのカトリックの同盟諸国が大陸を引き裂いて戦った。その中で、本来カトリック国であるフランスはプロテスタント側として参入した。オーストリアとスペインのハプスブルグ家がヨーロッパの最強力勢力となることを防ぎたいフランスがとった苦肉の戦略だった。

 フランス王国は、リシュリューの指揮下で、1617年プロテスタントの要害ラ・ロシェル包囲。兵糧攻めで陥落させた。その後イタリアに侵攻して勝利し、さらにオランダ、スエーデンを部分的に支持する戦略をとった。

 1636年にはスペインの軍隊がフランスを侵攻し、パリに迫った。パリの群集はリシュリューを弾劾。枢機卿は深く失望したという。リシュリューはポン=ヌフへ行き、演説をして民衆の支持を取り付けた。リシュリュー最後の6年間のフランスは、新しい地域を獲得し、ヨーロッパ外交において主導国となった。

 リシュリューのとった戦略が、フランスのその後の長期的発展にいかなる効果をもたらしたかという点については必ずしも明らかでない点もある。最大のライヴァルであるハプスブルグ、オーストリアとスペインに勝って、フランスに勝利をもたらした。しかし、これらの地域を統合することはできなかった。国内政策では、彼は税収入を何倍にも増加し、その資金力で30年戦争を効率的に勝利できた。しかし、その過程で農民、地方の領主、エリートを著しく搾取した結果、一連の反乱を引き起こすことになった。新しい力を備えた地方監督を設置したリはしたが、恒久的な新たな行政システムをデザインすることはできなかった。

 それには次の君主と別の首相、ルイ14世とジャン–バプティスト-コルベールが引継ぎ推進することが必要だった。彼らはフランスの近代の国境を確定した。地方都市と協力し、反対も少なくより多くの税収をあげた。リシュリューの創設した地方長官を、中央政府から伸びた確たる腕とした。簡単にいえばリシュリューは近代のフランスを創ることはなかっし、それをヨーロッパの指導的国にすることもできなかった。しかし彼の行ったことは、後継者にそれを実現させたことであり、それ自体が評価されるべきことなのだ。やはり、時々はタイムマシンを駆動させ、二つの時代を行き交うことが欠かせないようだ。



「ロベスピエール」『朝日新聞』2015年3月2日

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