Norbert SchThet, Art of Portrait:Masterpieces of European Portraot Painting、1420ー1670, TASVHEN, 2002, cover.(Georges de la Tour, (details), after 1620, The New York Metropolitan Museum of Art.
肖像(画・彫刻) portrait とはひとつの定義によると:
ある個人の特徴を表現した美術作品。胸像、半身像、全身像、正面、側面、4分の3正面観など、角度もさまざまだが、顔・容貌をある程度以上写実的に描くことが条件である。ルネサンス以前は基本的に王侯貴族、高位聖職者の肖像しか作品化されなかったが、ルネサンス以降は富裕な商人なども肖像を注文するようになる。17世紀オランダでは、集団肖像画を発生させた(岩波西洋美術用語辞典)。
これは肖像画か
肖像画については、興味深いことが多数ある。今回はその一つを紹介してみたい。上掲の肖像画に関する専門書 Portrait の表紙カヴァーに描かれているのは、なんとあのラ・トゥールの名作《女占い師》の中心人物とみられる卵形の顔をしたとびきり美形の女性である。17世紀絵画に関心がある人で、この顔を知る人はかなり多い。それほど、様々な場面で目にしてきた。ブログ筆者の手元にもこの女性が表紙に使われた書籍は数冊はある。
しかし、不思議なことにこの女性の素性はほとんど何も分かっていない。ラ・トゥールの作品には宗教画が多いが、聖人の肖像についても、画家の周囲で日常みかけるような普通の市井の人をモデルに描いたといわれる。
モデルは実在したのか
しかし、ラ・トゥールのジャンルでは世俗画の部類に入る《女占い師》に描かれた占い師と詐欺師の一団に描かれている人物は、モデルが存在したのか否か、なかなか見極めがたい。しかし、占い師と詐欺師(スリ)は現実には同じジプシー(ロマ)の一団なのだろう。共謀して貴族の若者から金品を盗み取ろうとしている。画面右手の老婆の占い師は、容貌がひどく醜く描かれている。現代と異なり、占いという巫女のような仕事には年老いた老婆が従事していたのだろう。他方、左側の二人の若い女は対照的に美形に描かれているが、手がけていることは恐ろしい。おそらく貴族の若者の遊び相手の仲間なのだろう。17世紀ロレーヌの宮殿にはイタリア帰りを自称するなど、怪しげな男女が出入していたようだ。カモとなる若者は、「いかさま師」の場合と同様、世事に疎い貴族の坊ちゃんと分かる。しかし、「いかさま師」の場合よりしっかりしている容貌で描かれている。
卵形の顔をした美女の正体は
最も興味深いのは中央に描かれた卵形の顔をした異様な美形の女性である。彼女のしていることからすれば、この窃盗団の首領格なのだろう。今日に残るラ・トゥールの作品から推定する限り、この画家は自分の近くにいる人物をモデルとすることが多かった。実在しない全く仮想の人物を描くことはきわめて稀であった。当時の絵画環境から見てきわめて異様な容姿である。そこでこの背景を調べたが、確たる根拠は見出せなかった。そこで感じたひとつの仮説は、幼児の頃、ジプシーにさらわれ、成人するまで彼らの集団で育て上げられた女性がいたという言い伝えがロレーヌにあったという話があった。最近でも、ジプシーによって育てられ成人した子供の実話が公表されていた。
しかし、ラ・トゥールがこうした女性に出会っていたという証拠もない。しかし、この美術史に残る一枚を描いた画家の機智と才能にはひたすら感嘆する。不思議なことに、このPortrait なる表題の研究書では、ラ・トゥールのこの作品について一言も記していない。しかし、肖像画の専門書の表紙に取り上げたい強い魅力を感じたのだろう。
ラ・トゥールは「肖像画」を描かなかったのか
16世紀末から17世紀にかけて、肖像画は歴史画に次ぐ高い地位を享受していた。不思議なことに、今日に残るラ・トゥールの作品で、「肖像画」の範疇に入るものはJきわめて少ない。全回例に挙げた不思議な面立ちの美女も、肖像画の範疇に入れられるか、微妙なところだろう。しかし、バロックの世界に生きながら、自分はゴシックの流れに立つ孤高のリアリストであった。この不思議な美形の女性の背後には、このブログでも紹介しているジャック・ベランジェやジャック・カロなどが描いた奇怪で、不思議な人物のイメージも浮かんでくる。リアリストのラ・トゥールが全くの空想でこの《女占い師》の人物像を創り出したとは考え難い。恐らく、街中でこうした光景、そして類似した人物を見ていたのだろう。
ラ・トゥールはその類稀なる天才を評価され、ロレーヌで活動していた当時は多数の愛好者、コレクターが存在した。しかし、乱世、苦難な時代に生きたこの画家は、おそらく高額な謝礼が期待できたと思われる顧客の肖像画の類をほとんど残していない。後年のラ・トゥールには、作品を欲しがる多くの顧客がいたのである。この画家の腕を持ってすれば、肖像画のジャンルでも抜群の力量を発揮したであろう。この画家をめぐる謎はまだ解けきれていない。