時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

絵の裏が面白いラ・トゥール(5):なぜ肖像画を描かなかったのか

2019年01月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

   

Norbert SchThet,  Art of Portrait:Masterpieces of European Portraot Painting、1420ー1670,  TASVHEN, 2002, cover.(Georges de la Tour,  (details), after 1620, The New York Metropolitan Museum of Art.

 

肖像(画・彫刻) portrait とはひとつの定義によると:
ある個人の特徴を表現した美術作品。胸像、半身像、全身像、正面、側面、4分の3正面観など、角度もさまざまだが、顔・容貌をある程度以上写実的に描くことが条件である。ルネサンス以前は基本的に王侯貴族、高位聖職者の肖像しか作品化されなかったが、ルネサンス以降は富裕な商人なども肖像を注文するようになる。17世紀オランダでは、集団肖像画を発生させた(岩波西洋美術用語辞典)。

これは肖像画か
肖像画については、興味深いことが多数ある。今回はその一つを紹介してみたい。上掲の肖像画に関する専門書 Portrait の表紙カヴァーに描かれているのは、なんとあのラ・トゥールの名作《女占い師》の中心人物とみられる卵形の顔をしたとびきり美形の女性である。17世紀絵画に関心がある人で、この顔を知る人はかなり多い。それほど、様々な場面で目にしてきた。ブログ筆者の手元にもこの女性が表紙に使われた書籍は数冊はある。

しかし、不思議なことにこの女性の素性はほとんど何も分かっていない。ラ・トゥールの作品には宗教画が多いが、聖人の肖像についても、画家の周囲で日常みかけるような普通の市井の人をモデルに描いたといわれる。

モデルは実在したのか
しかし、ラ・トゥールのジャンルでは世俗画の部類に入る《女占い師》に描かれた占い師と詐欺師の一団に描かれている人物は、モデルが存在したのか否か、なかなか見極めがたい。しかし、占い師と詐欺師(スリ)は現実には同じジプシー(ロマ)の一団なのだろう。共謀して貴族の若者から金品を盗み取ろうとしている。画面右手の老婆の占い師は、容貌がひどく醜く描かれている。現代と異なり、占いという巫女のような仕事には年老いた老婆が従事していたのだろう。他方、左側の二人の若い女は対照的に美形に描かれているが、手がけていることは恐ろしい。おそらく貴族の若者の遊び相手の仲間なのだろう。17世紀ロレーヌの宮殿にはイタリア帰りを自称するなど、怪しげな男女が出入していたようだ。カモとなる若者は、「いかさま師」の場合と同様、世事に疎い貴族の坊ちゃんと分かる。しかし、「いかさま師」の場合よりしっかりしている容貌で描かれている。

卵形の顔をした美女の正体は
最も興味深いのは中央に描かれた卵形の顔をした異様な美形の女性である。彼女のしていることからすれば、この窃盗団の首領格なのだろう。今日に残るラ・トゥールの作品から推定する限り、この画家は自分の近くにいる人物をモデルとすることが多かった。実在しない全く仮想の人物を描くことはきわめて稀であった。当時の絵画環境から見てきわめて異様な容姿である。そこでこの背景を調べたが、確たる根拠は見出せなかった。そこで感じたひとつの仮説は、幼児の頃、ジプシーにさらわれ、成人するまで彼らの集団で育て上げられた女性がいたという言い伝えがロレーヌにあったという話があった。最近でも、ジプシーによって育てられ成人した子供の実話が公表されていた。

しかし、ラ・トゥールがこうした女性に出会っていたという証拠もない。しかし、この美術史に残る一枚を描いた画家の機智と才能にはひたすら感嘆する。不思議なことに、このPortrait なる表題の研究書では、ラ・トゥールのこの作品について一言も記していない。しかし、肖像画の専門書の表紙に取り上げたい強い魅力を感じたのだろう。

ラ・トゥールは「肖像画」を描かなかったのか
16世紀末から17世紀にかけて、肖像画は歴史画に次ぐ高い地位を享受していた。不思議なことに、今日に残るラ・トゥールの作品で、「肖像画」の範疇に入るものはJきわめて少ない。全回例に挙げた不思議な面立ちの美女も、肖像画の範疇に入れられるか、微妙なところだろう。しかし、バロックの世界に生きながら、自分はゴシックの流れに立つ孤高のリアリストであった。この不思議な美形の女性の背後には、このブログでも紹介しているジャック・ベランジェジャック・カロなどが描いた奇怪で、不思議な人物のイメージも浮かんでくる。リアリストのラ・トゥールが全くの空想でこの《女占い師》の人物像を創り出したとは考え難い。恐らく、街中でこうした光景、そして類似した人物を見ていたのだろう。

ラ・トゥールはその類稀なる天才を評価され、ロレーヌで活動していた当時は多数の愛好者、コレクターが存在した。しかし、乱世、苦難な時代に生きたこの画家は、おそらく高額な謝礼が期待できたと思われる顧客の肖像画の類をほとんど残していない。後年のラ・トゥールには、作品を欲しがる多くの顧客がいたのである。この画家の腕を持ってすれば、肖像画のジャンルでも抜群の力量を発揮したであろう。この画家をめぐる謎はまだ解けきれていない。

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アトリエさまざま:画業習得の道

2019年01月18日 | 午後のティールーム

ピーター・パウル・ルーベンス
《イサベラ・ブラント(ルーベンスの最初の妻)の肖像》
東京展には出展されていない。

Peter Paul Rubens
Isabella Brant, the Artist’s First Wife, ca.1622, black, red and white chalks, pen and ink on うlight brown paper, 38.1 x 29.2 cm
London British Museum

この作品はルーベンスの真作と考れる、チョークとインクで描かれたイサベラ・ブラントの肖像画で二人が結婚して12-3年してからの作品と思われる。スケッチに類する作品だが、人物の特徴が巧みにとらえられている。ルーベンスが肖像画の技法に長けていたことを推察させる。

 

謎の多いラ・トゥールの修業時代
ほぼ同世紀でありながら、ルーベンスとは全く異なる環境で活動したジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ育った16-17世紀のヨーロッパには、多数の画家が活動をしていた。画家ばかりりでなく、彫刻家、建築家など、はかりしれない数の芸術家たちがいた。しかし、ジョルジュのように生来、画業の才能があることが認められていても、画業で生計を立てていけるかは全く未知数であった。それ以上に、いかにして画家となるための修業を行うかが大きな問題であった。


今日でも徒弟制度として一部の職種に残るが、当時の画家の場合、親方の所に弟子入りし、そこで職人、そして親方として一人立ちする上で、必要な知識・技能を習得する必要があった。そのために自然発生的に生まれ、制度化されていたのが徒弟制度であり、工房(atlie, workshop)であった。しかし、工房にもピンからキリまであった。

一般には、すでに画家として力量を社会的に認められている親方の工房へ徒弟として弟子入りし、親方の家へ住み込み、日常の生活を共にしながら、仕事を文字通り見様見真似で習得していく仕組みであった。多くの場合は、親方の家へ住み込む形であったが、例外的には自宅から工房へ通う「通い職人」もいた。ジョルジュがヴィックの町でドゴス親方の所で最初の修業をしたとすれば、この形であったのではないか。

しかし、ジョルジュがドゴス親方の下で修業をしたとしても、その期間は当時の状況(すでに徒弟になることが決まっている若者が一人おり、二人を徒弟にする余裕はなかった)から1年程度であり、その後はナンシーあるいはパリなどで徒弟修業をしたものと思われる。この点についての史料はほとんど何も残っていない。当時の徒弟の期間は地域などでも異なり、4年から8年くらいを要した。いうまでもなく、徒弟の間、親方に収める費用も親方の力量、知名度などで異なったが、かなりの額であった。

徒弟の最大の仕事は、さまざまだったが、そのひとつに親方が使う画材と絵の具の準備があった。徒弟の仕事は、どれを取っても厳しいものだったが、画材の準備もそのひとつだった。例えば、顔料の多くは大理石などの板の上で力を込めてすり潰すことが必要だった。顔料の種類も多く、その配合も複雑だった。顔料から絵の具を作り出すには多くの知識と労働が必要だった。ジョルジュも懸命に努力し、記憶したのだろう。徒弟がなんとか独立して、画家職人になるにはしばしば数年以上を要した。それでも作品制作への注文があるか否かは別問題であった。

恵まれたルーベンス
ピーテル・パウル・ルーベンスの場合は、例外的に極めて恵まれた事例であった。アントウエルペンという大きな豊かな都市で工房入りをし、画業を習得することを目指した。画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められた後、3人の親方のアトリエで次々と修行をしたが、1591年から合計8年の年月を費やしている。1594-5年から師事した画家Otto van Veen(1556-1629)は当時のアントワープで最も知られた画家の一人だった。1598年に親方画家として登録されたルーベンスは、その2年後多くの画家が憧れたイタリアへと旅立った。そしてマントーヴァ公の宮廷画家の地位を得て、この地になんと8年にわたり滞在した。

このように、徒弟の過程を終わると職人として、親方の工房で働くか、遍歴職人として各地を旅し、見聞、経験を積むのが通常であった。ルーベンスの場合は、アントワープ当時から多数の後援者に支えられ、恵まれた過程を辿ったといえる。

この時代の画家たちの遍歴、活動の実態を知ると、ルーベンスの場合は、あらゆる点で恵まれた状況にあった。1608年母の危篤の報で、アントワープに戻ったルーベンスはアルブレヒト大公の宮廷画家に迎えられたこと、イサベラ・ブラントとの結婚などが重なり、イタリアに戻ることなく故郷ともいえるアントワープに大きな邸宅と工房を構えた。1610年にルーベンス自身がデザインした新居は、現在では博物館 Rubenshuis に使われているほど広壮なものだ。当時は制作のための工房で、最高級の私的美術品の収蔵場所であり、図書館でもあった。

しかし、これはきわめて例外的なケースであり、絶えず戦乱、飢饉などの渦中にあったロレーヌなどでは到底想像しがたい状況だった。今に残る銅版画などを見ても、イーゼルなどが置かれた作業場と画材などの置き場などがある程度だった。

 

ヒエロニムス「フランケンIIとヤンブリューゲル兄《アルベルト大公、イサベラ大公妃が収集家の展示室を訪れている光景》

Archduke Albert and Archduchess Isabella Visiting a Collector's Cabinet, Hieronymus Francken II and Jan Brughel the Elswem 1621-23.

 ルーベンスはアントワープの有力者で貴族のヤン・ブラントの娘イサベラ・ブラント Isabella Brant と結婚したが、ルーベンスも長い宮廷社会への出入もあって、ほとんど貴族並みの立ち居振る舞いを身につけ、敬意を持って迎えられる存在になっていた。

ルーベンスは、肖像画に大変長けていたと思われ、多くの作品を残しているが、このブログで再三取り上げているラ・トゥールの場合は、肖像画らしき作品をほとんど残していない。これもラ・トゥールという画家にまつわる謎のひとつだ。改めて取り上げることにしたい。

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眠る二人の子供:未来を託す

2019年01月06日 | 特別トピックス

《眠る二人の子供》1612-13, 国立西洋美術館 Two Sleeping Children, ca.1612-13, oil on panel, 50 x 65.5 cm, The National Museum of Western Art, Tokyo, Japan
無邪気に眠る二人の子供はルーベンスの1610年に亡くなった兄フィリップが残したクララとフィリップではないかと思われる。ルーベンスは後年、この二人を別の作品でより大きなイメージで描いている。


ひと時、雑踏を離れて

バロック絵画をこの世に送り出した画家といわれるピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubenns:1577-1640)の展覧会も終幕に近づいている。この画家、全般に華やかな印象を与える作品が多いが、その生涯も華麗だった。当時のヨーロッパに広くその名が知られた大画家だが、外交官としても活躍した。62歳の生涯であったが、今に残る作品は十分調べたことはないが、500点を越えるのではないか。一説には2000点を越えるとの推定もある。東京展でもおよそ70点が出展されている。一体いつ、どうして制作したのだろうかと疑問を持つ人が多いのではないか。

とりわけ1615年から1625年にかけては繁忙を極め、その受注数は到底一人の画家の制作能力を大きく上回ったと推定されている。ほとんどが顧客からの注文であった。

ルーベンスの制作ジャンルは主として祭壇画などの形をとった作品を含む「歴史画」、「宗教画」の範疇に入るものがほとんどだが、「肖像画」や「風景画」まで驚くほど広い領域にわたっている。

「黄金の工房」の役割
この繁忙な時期にルーベンスを支えたのは「黄金の工房」といわれた工房(アトリエ)であった。常時数人の画家(職人)がルーベンスがチョークで描いたデッサンに彩色し、最後の仕上げ段階でルーベンスが筆をとったといわれる。いわゆる「工房作」なのだが、興味深いのはルーベンスが関わった割合で価格が定められ、工房の職人の誰がどこを担当したなどの記録が工房の台帳に記載されていたとされる。時には、ルーベンスが署名だけした作品もあるらしい。名実ともに売れっ子画家だった

この点、ロレーヌなどの地方画家のアトリエとは全く異なる。ラ・トゥールやジャック・カロなどの史料を見ると、親方画家と徒弟あるいは職人一人の工房がほとんどだった。

ルーベンスの作品で目立つのはその対象範囲が広いことだ。さらにヌードが多いことで、物議を醸したこともあるようだ。画集などでも時折、辟易することもあるくらいだ。それでもさすがにバロックの巨匠といわれるだけに圧巻の作品群だ。

ルーベンス・シティの思い出
ブログ筆者がルーベンスの作品に最初に関心を抱いたのは、この画家の生まれた地ジーゲン(Siegen 現在のドイツ連邦共和国、ノルトライン=ヴェストファーレン州)に、1960年代末の夏、友人の実家があり、しばらく泊めてもらったことから始まった。遠い昔になったが、ドイツ人の家庭生活というものかいかなるものか、初めて経験した。父子が大学教員という知的な家庭であった。曜日で母親の家事仕事が決まっていて、金曜日には、母親が大鍋でシーツや枕カバーなどを文字通り煮沸していたのを覚えている。洗濯機がまだ普及していなかったのだろう。昼食がディナーになっていて、父親が職場から家に戻り、食前のお祈りがあった。今ではほとんど失われた風習だろう。

画家ルーベンスは、まもなくアントウエルペン(現在のベルギー)に移ったが、ジーゲンは「ルーベンス・シティ」と呼ばれることもある。

未来を託して
ルーベンスはブログ筆者のご贔屓の画家では必ずしもないが、いくつか素晴らしいと感嘆する作品がある。それは肖像画であり、顧客の注文に応じたものが多いが、写真をはるかに凌ぐのではないかと思うほど、対象とした人物の特徴を捉えていると思う。

今回はそれらの中で、子供のあどけない様子を描いた作品を取り上げてみた。最初に掲げた作品は、国立西洋美術館が取得、所蔵するもので二人の子供の寝姿を描いている。ブログ筆者はこの作品が日本にあることを大変喜んでいる。

 

《サンゴのネックレスをかけたニコラ・ルーベンス》クリックで拡大
Nicholas Rubens Wearing a Coral Necklace, 1619, white chalk, black chalk, and sanguine on paper 25.2 x 20.2cm, The Albertina, Vienna,Austria

ルーベンスの息子ニコラの幼い姿を描いたこの作品、画家の愛情に満ちた筆致だ。首にかけた紅色サンゴの首飾りは、その美しい色で好まれてきた。それとともに、キリストの血を象徴するものとされてきた。ニコラはルーベンスとイサベラ・ブラントの次男でだった。穏やかな表情の子供で、ルーベンスは少なくも3度、この子を描いている。


* 今日においても、かつてはルーベンスの作品といわれたものが、弟子の手になるものではないかとの見直しも行われている。「かつてルーベンス 今はヨルダーンス?」『朝日新聞』2018年12月25日

上掲の《眠る二人の子供》を紹介、掲載したのは本年の1月6日だが、『朝日新聞』1月8日夕刊美術欄が掲載し、偶然とはいえ不思議な感がある。この小さなブログを開設してまもなく『ラ・トゥール』展もあり、以来、度々こうしたことが起きている。こちらのタイム・マシンが少し先を行っているのだろうか。

 

 

⭐️『ルーベンス展ーバロックの誕生 Rubens and the Birth of the Baroque』国立西洋美術館、2018年10月16 日〜2019年1月20日

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新年を迎えて

2019年01月01日 | 午後のティールーム

 

迎春 

混迷する世界の始まりに
これまで新年の初めには、多くの人々がこれから始まる年に期待や抱負を抱き、心の中で、あるいは歴然とそれらを表明してきた。今でもそれがなくなったわけではない。元日のメディアは多くの目標や決意を含めて、新年への思いで溢れるだろう。

他方、いつもの新年とは異なった空気も感じられる。世界は一体どうなってしまうのだろう。EUにはBrexitに象徴される分裂の気配が色濃く漂い、アメリカでも日本でも来るべき近未来への不安を訴える人たちが増えた。年末に寄せられた海外の友人たちのメールにも、そうした思い、強い危機感が綴られたものが目立った。

長らく愛読してきた雑誌のひとつ、The Economist 誌のクリスマス特集の巻頭論説も例年と比較してかなり印象が異なっていた。2、3年前から心なしか、論調が直裁ではなくなっている。経験を重ね、洞察力に長けた専門家にとっても、それだけ今後を見通すことが困難になっているのかもしれない。今年は「ノスタルジアの使い方」”The uses of nostalgia” という表題で、世界に拡大するノスタルジア(懐旧の情、昔は良かった)の風潮を取り上げている。政治家たちは今までにもこれを逆手にとって、未来は過去より明るいと強調してきた。

しかし、最近世界のあらゆる地域で、過去を懐かしむ思いが蔓延し始めた。政治家たちは相変わらず、その風潮に乗っている。典型的にはロナルド・トランプ大統領就任後の「偉大なアメリカを再現する」”Make America great again” という今や多くの人々の耳から離れないスローガンである。そして世界第二の大国にのし上がった中国の習近平主席の「一帯一路」構想に見られるような再び世界に君臨する「中国の夢」”Chinese dream” の実現、「社会主義近代化強国」という覇権への主張だ。いずれも過去の「良き時代」の復活が軍事力の拡大を伴い、臆することなく掲げられている。いよいよ最終局面に入ったイギリスのEUからの離脱、BREXIT の背景にもブラッセルの官僚支配からの脱却、独立性の復活・強化という思いがあり、さらにはロシアのプーチン大統領、日本の安倍首相にも過去の時代への執念がうかがわれる。

表現は様々だが、より小さな国々でも大国の支配から脱却し、自国の独立を目指すという動きが顕著に見られる。この場合は、自国の内乱、様々な内外勢力の介入による国民の破滅的貧窮、荒廃のイメージが強く漂う。

潜在する不安とノスタルジアの効用
ノスタルジアの底流には明暗様々な要因への危惧や不安があると見られる。IT世界の急速な展開、ロボットなどの自動機械がもたらす仕事の世界の激変、「自分たちの仕事は機械に奪われるのでは」との不安、取り残される人たち、格差の拡大、地球温暖化や自然災害の頻発への不安など、要因は際限なく指摘できる。

しかし、ノスタルジアは一般に受け取られがちな単なる懐古趣味に止まらない、と論説の書き手はいう。未来を見通す手段が手元に見当たらないならば、過去の体験事実から学ぶという道があると指摘する。近年、歴史への関心が様々に高まっていることは、こうした方向への一歩であるかもしれない。

何を記してきたのか
この小さなブログ、17世紀のロレーヌ公国という小国が経験した史上最初の「危機の世紀」といわれる戦乱、苦難の世界に生きたひとりの画家のしたたかな生涯をひとつの柱として出発した。現代のシリアのごとき荒廃した地において、天賦の才とわずかな機会をしっかりと把握した画家であった。現代人の目から、その剛直、強欲にも見える生活の一端を批判することはたやすい。しかし、この画家は来るべき時代への深い洞察、精神性を秘めた作品を残してくれた。

この小さなブログに記してきた時空を行き交う細い糸は、かなり多岐に別れる。そのひとつ、ブログ筆者が大きな関心を抱いてきたより近い過去は、1930年代のアメリカ*2である。現代のアメリカ人の多くが、繁栄と恐慌の時代に様々なノスタルジアを感じている。この時代についてはすでにきわめて多くの蓄積が残されていて、筆者が記してきたことは、文字通り小さな断片にすぎない。

さらに産業革命発祥の地、イギリス、マンチェスターで、多くの人たちが背を向けた工業化の影の側面もしっかりと描こうとしたL.S.ラウリーという貧しい人々への深い愛情が込められた作品の数々は、イギリス人でも必ずしも注目しなかったものだが、近年漸く一筋の光が差し込んでいる。年末に会った旧知のオーストラリア人(マンチェスター近辺労働者階級の生まれ、大学教授としてイギリスから移住)は、筆者との雑談でのトピックス指摘に驚き、自分もファンであることを話し、互いに共感した。長い年月にわたる友人であるが、かつては自分の出自はあまり語ろうとしなかった。

そして、話の糸は最近時の巨大企業ビヒモスの衰退という形で現在につながることになる。日産・ルノー・三菱自動車の事件は、後年どのような形で記憶されるだろうか。ノスタルジアは懐古趣味という負の側面ばかりではないが、それから新たな教訓を学ぶことも容易ではないことも改めて記しておこう。歴史は自らを正す「鏡の部屋」のようなものなのだろう。

 

 

  'the uses of nostalgia' The Economist December 4th 2018 - January 2019

 

*2 BARRY EICHENGREEN, HALL OF MIRRORS: THE GREAT DEPRESSION, THE GREAT RECESSION, AND THE USES - AND MISUSES - OF HISTORY, OXFORD UNIVERSITY PRESS, 2015.( バリー・アイシェングリーン『鏡の部屋:大恐慌、大不況、そして歴史の活用と誤用』)



 

昨年は一年を通して多くの友人、知人を失ったブログ筆者にとって、悲嘆の多い衝撃的な年であった。改めてご冥福を祈りたい。

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