時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌ魔女物語(15)

2010年06月27日 | ロレーヌ魔女物語

 梅雨時の夜半、17世紀の闇の世界、魔女審問の記録などを読んでいると、しばしば形容しがたい不思議な気分になる。およそこの世に本当にこんなことがあったのかと思われるような奇々怪々な話が出てくる。到底、箒に跨って空を飛ぶおとぎ話のような魔女の次元ではない。それでも、もしかすると現代の世界の方がはるかに怪しく不気味だと思うようなこともあり、興味は尽きない。格好の暑さしのぎかもしれない。
 
 17世紀前半のロレーヌで魔術を操る者(魔術師 wizard, witch, )によって被害を受けたとされ、告発、審問などの対象になった案件では、牛、馬、豚、羊など、主として農民が飼育する家畜にかかわるものが最も多かった。農民たちが自分の飼育する牛や馬などが魔術師の妖術?によって、疫病に罹病したり、死んでしまったというような事例が非常に多い。そして、その原因をめぐって犯人捜し、魔女狩りが始まる。

 当時でも明らかに家畜に伝染する疫病があったのだろう。人間の場合は疫病が流行し始めると、城門を閉じ、家の戸口も閉めて、自分の周りにバラの香りを振りまいたり、薬草を焚いたりして、「別の空間」を作り出すくらいがせいぜいだった。魔術師、healer と呼ばれる魔術による治療を勧める者などが跳梁する時でもあった。最近の口蹄疫問題などでの騒ぎをみると、医学的進歩で伝染予防、ワクチン注射など、対応はかなり変わったとはいえ、人間の行動様式は根底ではあまり変わっていないのではないかと思う部分もある。

 さて、前回のブログに記したが、16世紀後半から17世紀前半にわたる近世前期といわれるこの時代、なぜ「魔女」といわれるように、女性の比率が高かったのか。そこには女性に対するなんらかの特別の要因が働いているのだろうか。

  
 実は、この問題、現代における魔女研究でもきわめて大きな関心を集めているテーマだ。しかしながら、すでに遠く離れた時代、しかもきわめて異常な内容のジャンルであるために、納得できる答を出すことは非常に困難だ。迷信、妖術のたぐいが未だ広く蔓延していた近世初期の闇の次元、情報も不確かであった時代に形成された話の多くは、それ自体かなり怪しげな要素を含んでいる。審問の過程も不明な部分が多い。立証の資料も十分でなく、なぜ「魔女」が多かったのかを確定する統計的あるいは時系列分析も容易ではない。重要なことは最近の研究者たちが指摘するように「悪のジェンダー」探しをすることではなく、いかなる社会のどんな人たちが、どのような場合に、魔術を体現  bewitchmentする傾向があったかを探求することにある。

 再三述べたように、こうした状況で、ロレーヌの魔女審問アーカイヴ(史料館)は、
きわめて豊かな情報を含んでいる。しかし、ロレーヌの魔女裁判の研究者ブリッグスが認めるように、アーカイヴが充実すればするほど、その一般化が難しくなる面もある。多数の事例が蓄積され、事件の内容が多様化すると、中心的な課題を抽出することが難しくなる。ロレーヌでは他の地域で見られたような集中的な魔女狩りが行われた証はない。1620年代にひとつの事件で50人近い犠牲者を生んだ例があるが、むしろ例外であった。起こった時間と地域もかなり分散していた。

 ブリッグスがその著書で取り上げている審問事例は、すべて男の魔術師が関わったものだ。その例を分析したかぎり、犯罪とされた基本要因には、魔術師が男だからあるいは女だからという男女のジェンダーに関わる特有の要因はなく、なににもまして怪しげな魔術を操った者(魔術者)としての行為が基本だとされている
。魔術治療者 healer としての面でも、ジェンダー・レヴェルで区分線を引くことは難しいという。とはいっても性別の違いがまったくないわけではない。 男の魔術師はしばしば農民の収穫を損なう企てを行った者あるいは狼人間(werewolves 伝説で満月に狼に変身する人間)として登場している。 

  ブリッグスはいくつかの注目すべき点を挙げている。被疑者となった魔術師の多くは、長年、時には数十年にわたる魔術師としてのうわさや非難に基づいている。しばしば特定のうわさがある家族が対象となってきた。この点は、この時期の社会的コミュニティにおける噂や偏見の形成あるいは地域性、階層といった要因についても深く考える必要を示唆している。

 ブリッグス が例示する、男女それぞれ96例について、魔術師が魔術をかけたとして告発された場合をみると、大変興味深いのは、馬、牛、豚などの家畜にかかわる問題が圧倒的に多く、人間については誰か(多くは成人)が病気(死亡を含む)に罹病したという事例が多い。しかも、ブリッグスが指摘するように、魔術師のジェンダーによる差異は少なく、多くの審問例について男女の魔術師がほぼ等しくかかわっている。しかし、魔術をめぐるジェンダー問題について、十分説得的であるとは思えない。継続して考えてみたい問題として残っている。

 近世初期 early modern といわれるこの時代。1632年、ペストの大流行があった時代だが、1637年にはデカルトの『方法序説』が発表され、理性の光がヨーロッパに射した時でもある。ロレーヌに生まれ、ナンシー、パリなどで当時の新たな思想にも触れる機会が多かったと思われるジョルジュ・ド・ラ・トゥール、ジャック・カロなどロレーヌの知識層の精神世界の深奥がいかなるものであったか、興味が尽きない。
(続く)

Robin Briggs. 'Male Witches in the duchy of Lorraine.' Witchcraft and Masculinities in Early Modern Europe, Edited by Alison Rowlands. London:Macmillan palgrave, 2009.

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ロレーヌ魔女物語(14)

2010年06月14日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌの魔女審問の研究者ブリッグスの著書


  しばらく雑事に時間をとられ、このテーマについての思考の糸が途切れてしまっていた。何を考えていたか思い出さねばと、しばし、衰えてきた思考力の歯車を逆転させる。どうもこちらの油も切れてきたようだ。 

 きっかけは、もはや旧聞になるが、世界的なベストセラーとして40カ国以上の言語に翻訳され、4000万部以上売れたというダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』The Da V inci Codeに遡る。少し、確認したいこともあって映画も見た。原作は小説とはいえ、キリスト教の初期の歴史に関わるかなり刺激的な問題提起が含まれていた。

 とりわけ、マグダラのマリアに関する議論は、白熱したものとなった。ダン・ブラウン自身はあくまで小説であると言っているが、キリスト教会への挑戦ともいえる問題が多数含まれているし、かなりの論争に耐えうる考証もなされている。たとえば、小説ではマグダラのマリアMary Magdaleneはベンヤミン部族出身のユダヤ女性であり 、イエスの最も重要な弟子と解釈され、愛人でもあり、妻でもあり、彼らの間にできた子供サラの母親でもあったとされる。そうだとすれば、単なる使徒にとどまらずイエスに最も近い存在であったはずだ。キリスト教史に関心を持つ人にとっては、容易には認めがたい多くの挑発を含んでいる。なぜ、マリアの存在がその後の歴史的過程で、ことさらに表面から隠され、歪められるようなことになったのか。マリアは実際にいかなる人物だったのか。ここでその内容に立ち入るつもりはまったくないのだが、議論は、このブログでとりあげてきた17世紀ロレーヌの画家たちの精神風土を理解するに欠かせないマリアの評価、さらに背景として中世以来の魔女狩りの実態ともある脈絡を持っている。  

 16世紀から17世紀前半のヨーロッパは、近代初期とはいえ、社会には多くの矛盾、不合理さ、不安、恐れ、そして闇が充ちていた。魔術師の存在もそのひとつだ。とりわけ興味を惹く問題はなぜ、迫害の対象となったのが男性の魔術師よりも女性が圧倒的に多かったのか。  

 先の『ダヴィンチ・コード』によると、魔女狩りの時代にヨーロッパでは教会が500万人の女性を魔女として火刑台に送ったとされる。しかし、17世紀前半における魔女狩りの時代に関する現代の研究者によると、この数字はまったく根拠のないものであり、小説のベストセラー化とともに、誤解も広まったという。数字自体をみると、これまで900万人という驚くべき数さえ挙げられたこともあった。いずれにせよ、今日の研究者の間ではまったく根拠のない数字とされている。

  ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』には40カ所を越える根拠なき誤りがあるともいわれるが、著者自身はあくまで小説としているので、議論はかみ合わない。しかし、小説とはいえ、その構想の巧みさと資料的考察は膨大なものだ。だが、時代についての誤解を広げてしまったとすれば、ベストセラーの影の側面でもある。  

 実際はどうだったのだろう。17世紀前半という現代とはかけ離れた時代の空気や精神の継承がわれわれには途絶えていて、直ちに伝わってこない。時代を遡り、史料を読み、推理力を駆使して、その次元を支配した空気や人々の心の中までを推し量ることで、ようやく見えてくるものがある。 

 絵画作品についても、現代とつながり、画面の中にほぼすべてを見ることができる印象派以降の作品とは明らかに違うところだ。画家はいったい何を伝えようとして作品を描いたのか。それを読み解くためには同時代の空気を推し量り、読み取る作業が欠かせない。画中にその鍵が隠されていることもある。観る者にとって、あたかもパズルを解くような作業でもある。 

 すでに何度か記したように、16世紀から17世紀にかけてのロレーヌは複雑怪奇な地域でもあった。17世紀前半でも魔術や錬金術が広く受け入れられ、魔女狩り witch craze がかなり見られた。この実態を知ることなく、近世初期のヨーロッパを正しく理解することはできない。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの重要な作品主題の一つである「悔悛するマドレーヌ」シリーズの背景には、なにがあったのか。  

 ヨーロッパの魔術研究は近年大きな進歩を見せた。その成果は、これまでかなり一般化していた知識や理解に修正を迫るような内容を持っていて興味深い。 ダン・ブラウンの場合のように、伝承や「魔術学者」たちの限られた著作の内容をほとんどそのままに受け入れてきた側に問題があったのだ。少しでも正確な評価を取り戻すためには、信頼できる客観的なデータの確保と再現は欠かせない。近年では主要研究者は自分の開発したアーカイブ(史料ベース)を持っている。たとえば、このシリーズの記事を書き始めた動機のひとつとなった
ロレーヌの魔女裁判に関するブリッグスの貢献だ。 その他の著名研究者の例を挙げると、マクファーレンはイギリス、エセックスの史料、カルロ・ギンズバークはフリウリに、ドイツの研究者はしばしば自分の居住する都市の史料庫に論拠の基礎を置くようになった。

  ブリッグスたちが開発・整理し、公開しているロレーヌの事例は、実に膨大であり、とてもたやすく読み切れるものではない。現代のフランス人でも難解きわまるといわれる手書きの古文書をここまでに読み解き、整備した努力は、敬服の他はない。現代人にはしばしば大変理解しがたい内容だが、興味の赴くままにいくつか読んでみると、大変興味深い内容に充ちている。 

 今回、記してみたいのは、呪術した魔術師の男女比の問題だ。1570-1630年の間にロレーヌ公国の審問官は2000例近い裁判を経験していた。このうち、史料として信頼できる審問事例としておよそ400例が整備され、公開されている。ブリッグスによると、魔術を悪用し、人々をたぶらかしたとされる容疑者の約28%は男であり、数で見れば合計500-600人だった。他方、72%は魔女とされたのだから、女性の比率はきわめて高い。当時のロレーヌ公国は、人口およそ30万人の小国であり、人口比でみると、ヨーロッパで最も徹底した魔女審問が行われた地域であった。ヨーロッパで魔女として女性の比率が高かったのは、このほか、ルクセンブルグ公国、ケルン選帝領などであった。 

 ロレーヌ公国の裁判システムはフランスにならっていたが、上級審への上訴は行われなかった。魔術師審問の過程で、拷問は自白を強制する手段として組み込まれ、ルーティン化していた。 ブリッグスなどによって、完全に記録化されたケースの79%が有罪の判決を受けている。

 それにしても、女性の比率がこれほどまでに高かったのは、いかなる理由、背景によるものだろうか。ブログ読者の皆さんはどう考えられるのでしょうか。(続く)

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ロレーヌ魔女物語(13)

2009年11月06日 | ロレーヌ魔女物語
a sight of village in Lorraine, Photo YK


  近世初期、16世紀末から17世紀初めにかけてのフランス、ロレーヌの魔女裁判にかかわる文献を読んでいて興味を惹かれることはきわめて多いのだが、そのひとつに17世紀という時代がそれほど遠く隔たった昔ではないと感じることがある。人間の思考や行動様式は、根底において一般に想像するほど変化していないということかもしれない。 

 当時、魔女裁判によって裁かれ、処刑されることになった者は、処刑前にいつから魔術にかかわり悪行を行うことになったか、共謀者は誰かといった内容を再確認されるのが決まりだった。そこにいたる前の尋問、特に拷問などで、むりやりに被害者にされた者を改めて救済するなどのねらいもあったようだ。 

 すでに告白された悪魔との関わり、魔宴 sabbatに参加したか、悪魔と交わったかなどのお決まりの点を述べさせられている。当時のロレーヌの審理手続きは、フランスのそれと比較すると、被疑者にとって絶望的といってもよいほど、著しく不利なものだった。上告する上級審もなく、地方の裁判所に多い素人裁判官の誤りをただす道もなかった。ナンシーでまとめてレビューされる手続きも、限界的な役割しか果たしていなかった。ロレーヌで魔女審問がかなり多発した背景には、こうした状況で、拷問が有力な解決手段として多用されたことがかなり影響したようだ。大変不幸なことだった。そして、定式化されていた審問手続きは、被疑者にしばしばお定まりの告白を求めていた。 

 当時の魔女審問は具体的次元でみるとかなり多様な形をとっているが、根底には共通したものが流れている。悪魔、魔女あるいは魔術について相当程度画一化された概念が、暗黙にも共通の輪郭として形成され、共有されていたことに気づく。現代のように情報が流動的でない社会、とりわけ農村において、実際にはきわめて定式化され、固定化した概念や理解が共有されていたことは驚きだ。  

 日没とともに、漆黒の闇に閉ざされることに象徴されるこの時代、夜や森は魑魅魍魎が跋扈する恐ろしい場所だった。そこでなにが行われているかは、想像にゆだねるだけにすぎない。夜も光に満ちあふれた現代社会の状況からは、考えられない次元だった。とりわけ、闇の時間が長い農村は魔術や呪術の舞台として格好なものだった。いつの間にか、魔術や魔女が飛び回る風土が生まれ、深く根付いていた。 

 魔術にかかわったとされたある女性の告白の例をみてみよう。彼女の10年ほど前の記憶によると、セントローレンスの祭日に、遠くの親戚を訪ねた寡婦が再婚話を反対され、闇夜をひとり帰宅する途上、森を通った時に、悪魔に誘惑され、その後悪魔が自分に乗り移ったと思うようになった。そのしるしに、自然と神を呪う言葉を口にするようになった。悪魔はお前を守ってやると言い、一本の杖を渡す。そして、彼女を憎み、脅かす者や動物がいたら、その杖で打つことで救われると言った。そしていつも、お前の力になると言われたという。 

 これに類似した告白はフランスのみならず広くヨーロッパに見出され、あるステレオタイプ化した悪魔や魔術のイメージが、いつとはなく社会に深く浸透していた。 近世初期の社会の現実は、統一されたというにはほど遠い複雑なものであったが、基本的にはかなり同質的な世界観が支配していたと思われる。それは、自然と超自然、現実と仮想、具体と抽象といった区別ができるほど進んだものではなかった。

 農村などの地域社会には、社会階級と結びついた権力者と虐げられ、嫌悪の対象となる者がつくり出されていた。当時の社会に多かった家庭における夫の暴力、近隣住民との軋轢、対立なども、特定の住民に厳しい状況を作り出していた。 相次ぐ戦争による軍隊の略奪、飢饉などで農村の困窮が進み、幼い子供を抱えた寡婦や老人など貧窮の底に沈み、共同体の片隅でかろうじて生きている者もいた。 

 魔女にかかわる事件は、自然の災害がもたらした飢饉や悪疫などの流行などを契機に、突発することも多かった。原因の分からない家畜の死亡なども、魔女の仕業とされた。 

 こうして見ると、当時の社会は憎悪と恐れ、不安と緊張に充ちていたかに思われるが、戦時や飢饉、悪疫流行などの時を除くと、町や村落の日常生活は概して平穏といってよいものだった。むしろ、10年1日のごとく過ぎて行く日々だった。しかし、さまざまな不安に根ざした時代の深層は、なにかのきっかけに表面化し、噴出するのだった(続く)。
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ロレーヌ魔女物語(12)

2009年08月29日 | ロレーヌ魔女物語

ヴィック・シュル・セイユ郊外  Photo YK





  ヨーロッパ、16世紀から17世紀への転換期は、実に不思議な時代だった。科学の面ではガリレオ・ガリレイの大発見などが行われていた反面で、人々は魔女や魔術の存在を信じ、名状しがたい恐れを感じていた。これは単に農民などの一般民衆にとどまらず、かなりの知識人の間にも広く見られた。

 この時期の魔術や犯罪にかかわる詳細な裁判記録はヨーロッパ全体を見渡しても、稀にしか存在しない。ところが、今日残る最も歴史的に価値ある記録は、ナンシーのArchives Departmentales of the Meurthe-et-Mosell at Nancy に保管されていた。当時魔女裁判にかけられたおよそ300例の完全な書類が残っている。時期としては、ほとんど1580-1630年に集中している。しかし、これらはロレーヌで行われた魔女審問のおよそ5-10%程度と推定されている。他の判例記録などから新たに魔女審問の記録として区分変えもなされた上での推定だ。同様に魔女裁判が行われたイングランドやフランスではこうした記録はほとんど残存していない。ヨーロッパ全域でみても、散発的にしか残っていない。いずれにしてもナンシー文書館所蔵の文書は、この時代の最も複雑怪奇な社会現象を探索するに、大変貴重な素晴らしい記録だ。

 ナンシーに保管されていた魔女審問記録は、ある一定のルールで構成されている。15-25人の証人、目撃者の確保、証人の証言、こうした証言に基づく容疑者の尋問、証人と被告の対決、そして普通は1-2回以上の拷問による尋問という手順を踏んでいる。

 これらの記録の性格はきわめて重要だ。なぜなら法律家や判事が編集する以前の第一段階での尋問、告発内容が含まれているからだ。審問の初期段階であり、拷問の下での強制された告白ではないことがきわめて重要な意味を持っている。告発が行われた当時の一般的な人々の考え、いいかえると時代の空気が感じられるからだ。判事などに強制された部分と自発的な告白部分の境界は、ほぼ判明している。たとえばsabbat (魔女の夜会)に行ったか、そこではどんなことが行われたかなどについて、当時人々がどう考え、いかに伝承されていたかを推定できる。

 ロレーヌはヨーロッパ史では、厳しい魔女裁判の舞台として描かれてきた。ロレーヌ公国の検事総長
ニコラ・レミNicolas Remy は、1580-90年代に900人の魔女を火刑にしたとして、その悪名をほしいままにしてきた。魔女の歴史が示すように、そこにはかなりの誇張が入っている。しかし、容疑がひとたび裁判所まで達すると、魔女としての告発率は90%近くなった。他方、この時期に合計3000例くらいの裁判が行われたという推定が妥当であるとすると、少なくも40万人の人口のロレーヌ公国で毎年60件近い裁判があったことになる。人口あたりの比率とすると、エリザベス朝のエセックスなどにおける、発生ピークの率とさほど変わるものではない。しかし、ロレーヌにおける死刑の比率はかなり大きかった。

 ロレーヌにおける一般民衆とエリートとの間で、魔女の存在、行為などについて、明瞭な区分があったかどうかは、きわめて難しい問題だ。大多数の裁判は地方の裁判所で行われた。裁判官といえども、ある者はまったく無学だった。裁判官としての職業的水準をほとんど充たしていない者も多数含まれていた。審問官レミにしても、彼の考えの中心を成していたものは、学者の伝統に基づいたものというよりは世俗のものだった。実際の審問を記述した部分は大変直裁で正確だ。しかし、一般化の段階では言葉だけが躍っている。

 こうした風土で、容疑者となったのは、コミュニティできわめて特別なグループだった。レミと他の裁判官の態度は、人々に裁判所を使うようにさせたかもしれない。そして容疑者を尋問の渦中に放り込んだ。典型的容疑者は20年近いローカルでの評判の持ち主が多かった。魔女とされた者の範囲はかなり広く、ばらつきがあり一般化は難しいが、魔術の行為で告発される容疑者の多くはコミュニティの片隅に生きた放浪者や乞食、そしてある意味で厄介者であり、村人などから受け取る謝礼や施しもので生きていた。

 彼(女)らが告発された契機は、隣人や彼らの家畜に何年にもわたり実害を与えたなどの容疑によることが多かった。村落の人々の思い込みは共同体や個人に加えられた現実の損害に強く根付いたものだった。そうした例*をひとつ紹介しよう。もちろん、魔女裁判の事例はひとつひとつ異なり、特異である。しかし、ヨーロッパの他の地域でも十分見出されるような事例だ。

 1584年、ロレーヌのカトリーヌ・ラ・ブランシェという60歳代の寡婦が魔女審問にかけられた。25人の証言者のひとり、クレロン・バルタールは次のように証言した。5年ほど前、彼女と夫が飼育していた牡牛に餌をやっていた。その時カトリーヌがやってきて、いつものように施しを願った。証言者クレロンは「カトリーヌ、もう私はお前にはなにもやらないことにしたから、他の人の所へ行って施しをもらいなさい。私たち家には幼い子供もいるし、夫の兄弟の子供も扶養しているからお前に与えるものなどないんだ。あんたより子供たちを養うことが、神にかけて大事なの。だからどこかへ行きなさい。」この証言にみるかぎり、そこには後に魔女審問の容疑者とされたカトリーヌから脅迫されたなどのしるしはなにもない。

 しかし、その後牡牛が死んでしまったことについて、クレロンは施しを断られたカトリーヌが呪いをかけたせいだと証言している。施し、慈善を拒否したことに対する報復を要素として作り上げられたひとつのタイプともいえる。カトリックの影響が強く、伝統的風土が色濃く根付いた地域では、こうしたタイプの出来事がかなりあったようだ。プロテスタントが浸透し、社会経済上の変化が激しい地域では見られないタイプとされている。しかし、こうした関係が生まれるには、時に20年間というような長い年月を要している。

 さらに魔女とされた容疑者は、いつの頃からか地域に対して強い憎しみの念を抱くにいたっていると考えられている。もちろん他方で、告発されることにまったく納得ができず、強く反発した者もいただろう。そうした事例も残っている。

 魔女狩りを生んだ風土と背景はきわめて複雑だが、審問の数が多少なりと指標になりうるとしたら、そのピークはおそらく16世紀末頃と思われる。その後審問数は少しずつ減少し30年戦争という悲惨な混乱の時期へ突入していった。30年戦争はそれまでの人々の普通の生活のあらゆる特徴に終止符を打った。魔女狩りも皮肉なことにその一部だったと考えられる。悲惨な戦争の前には、コミュニティの片隅の問題にかかわる余裕もなくなったのかもしれない。 (続く)



* Robin Briggs. Communities of Belief. Oxford: Clarendon Press, 1989, reprinted 2001. pp.69-70.

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ロレーヌ魔女物語(11)

2009年06月30日 | ロレーヌ魔女物語

 16世紀末のロレーヌに限ったことではないが、ヨーロッパで魔女に関わる問題は、大きな都市よりは小さな町や村で多く発生したようだ。都市の住民は、それだけ啓蒙されていたのだろう。魔女狩りの実態は、かなり多岐にわたり、内容も複雑だった。魔術を使ったとされた者の中には民間療法、今でいうヒーリングのような医療行為、自然崇拝、呪術や占いなどに関わる者もかなり多かったようだ。これらのどれが魔女狩りの対象となったかは、環境・風土によるところも多い。しばしば、迷信的行動は、悪魔に帰属するとされた。なかでも女性が魔女とされ、迫害などの対象となりやすかった。また、後に例を挙げるが、コミュニティの中での確執、反目などが高じて、魔女狩りという次元へ移行した事例もあった。  

忍び込む時代の不安
 民間療法には多かれ少なかれありうることだが、当時の民衆の目からみると、得体の知れない薬草などを煮詰めたり、立ち居振る舞いもいぶかしく、怪しげに見えたのだろう。さらに、宗教・宗派間の争いが関わる場合には、しばしば相手側を魔術を使っていると非難したようだ。

 そして、16世紀からの戦争、疫病などの蔓延、農作物の不作などを背景に、終末論も人々の間に広がっていた。どこからかいつとはなしに、伝わってくる戦争、略奪、悪疫、天候異変などの噂話は、人々の心にさまざまな不安の種となって忍び込んでいた。

 魔女裁判の当事者たちにも色々な問題があった。概して、ローカルな裁判官たちは社会の中層部を出自としていたが、裁判官として必ずしも公正かつバランスのとれた判断ができる者ばかりではなかったようだ。世間のうわさ話などに、しばしば同じ次元でふりまわされていた。そして、農民など民衆はほとんど批判することもなく、彼らの下す判断に素早く迎合、協力したようだ。

拷問は決まった手続き
 ロレーヌでは魔女裁判に政治的介入もあった。シャルルIII世の時代には、ナンシーの上級判事に公国のすべての魔女判決をレビューする権利が与えられた。ロレーヌ公国では、魔術使いの容疑で逮捕され、お定まりの尋問・状況聴取、さらに有力な証人との対面取り調べなどを受けた容疑者については、調書がナンシーへ送られた。魔女審問の過程では、拷問が一般的な手続きとして組み込まれていた。魔術使いとされた容疑者は、概して自ら嫌疑の事実を認めようとはせず、自己主張が強く、頑迷、時にはかなりエクセントリックで、通常の尋問では容疑の確定が困難だったことも影響していたようだ。


 取り調べの過程で自白がないかぎり、検事などによって、容疑者は拷問にかけられるよう命令される。ほとんどの場合、ローカルな裁判官たちはそれを支持した。ある場合には拷問器具を前にして、尋問が行われた。きわめて稀なことだが、証拠不十分などで釈放されることもなかったわけではない。 

 今に残る審問文書などから推定されていることだが、17世紀初めの頃の魔女裁判では、最終判決を下すに証拠が薄弱と思われる場合、容疑者が拷問で脅かされることは通例であったようだ。数は少ないが、容疑者の側に自白をする意図がうかがわれる場合には、拷問は実施されなかった。しかし、これは不満足な解決であり、あいまいな部分を残すことが多いとして、まもなく中止された。

 大変おぞましい話だが、拷問の手段は大体決まっており、「親指を締め上げる」thumbscrews,「手かせ・足かせ」 strappado, 「足に重圧をかける責具 borodequins(leg-press)などの器具が使われた。 これまでやられると、被疑者は大体覚悟して、裁判官の望む内容の供述をしてしまったようだ。

 こうした過程を経ることで、被疑者はあらかたローカル・レヴェルで屈服し、自白していたので、ナンシーへの調書送達は、形式を踏むだけだった。しかし、ほとんどの判例で、最終の審問・判決は、いちおう統一された審理手続きを踏むナンシーの法廷 Change de Nancy にゆだねられた。刑罰としては、火刑の他、さらし台、鞭打ち、殴打なども行われた。

   しかし、なかには拷問にかけられても自白をしない気丈な被疑者もいたらしい。魔女の嫌疑をかけられたある女性は、宙づりにされながら、「神の前では誰も裁くことはできない」、あるいは「これほどの苦痛を与える罪を犯すことは許されない」と大声で叫んだ。
魔女裁判の容疑者すべてが不合理な嫌疑を認めたわけではない。興味深い例も伝えられている。

名誉回復の試みも
 1622年、クレフシーのジョルジュ・デュランGeorges Durand of Clefcyは、ロレーヌ公に対して、それまでの慣行とはきわめて異なった訴えを行った。彼は魔術を使ったとの疑いで告発されていた。しかし、彼はこれは二人の男が自分を陥れるためにねつ造したえん罪だと反論したのだ。

 そして自分を陥れた二人に50フランの罰金を訴訟費用に上乗せて払うように求めた。おそらくデュランにとってもっとも満足度が高かったのは、サン・ディ Saint-Dieの法廷で、デュランと彼が選んだ6人の前で、
名誉回復を図る儀式を要求したことだった。この儀式で、デュランは自らを陥れた二人の男は丸坊主にされ、床にひざまずいて、共謀し、悪意をもって彼らが謀ごとを行い、被告とされたデュランに対しての虚偽の証言をするように多くの人たちを唆したことを告白、謝罪するよう求めた。

 残念なことに、その結果がいかなることになったかを語り伝える文書記録が残っていない。そして、デュランにとっては、これが結末ではなかったようだ。別の記録によると、彼はまもなく獄中で死を迎えており、自分は魔術を使ったことを告白したことになっている(Briggs 71)。

 この記録は、魔女狩りが時には地域共同体の構成メンバーの間の確執、対決の闘争道具に使われたことを思わせる。事実、ある記録が残っている。たとえば、1620年にある男を魔術師として告発した者のひとりが、その後罰金を科せられた事例が伝えられている。この場合、告発者が「(容疑者に対し)彼はGigou ギグーのように躍る」と言いふらしたことが罪となった。ギグーはこの地方でかつて魔術師として処刑された者の名前であった。

 しかし、こうした事例がこの地方での合理性や正義の芽生えとみることは早急に過ぎるようだ。この時代、ロレーヌの社会はまだ多くの混迷や不合理で覆われていた。コミュニティでの家族や氏育ち(出自)は隠然たる重みを持っており、魔女狩りの犠牲者の多くは支援者のいない、地域の縁辺的存在に追いやられていた者が多かったからだ。ロレーヌに真の光が射すまでには、まだかなりの年月が必要だった。~続く~

 
 

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ロレーヌ魔女物語(10)

2009年06月17日 | ロレーヌ魔女物語
ロレーヌの旅から 

 16-17世紀のロレーヌの魔女狩り、裁判に関心を呼び起こされ、多少なりと踏み込んでみると、さまざまなことを考えさせられる。人間の理性の有りよう、知識水準、環境条件のいずれにおいても、今の時代とは大きく異なっている。しかし、発現する形態は異なったとしても、魔女狩りは今日の世界でも十分起こりうる、あるいはどこかで起こっていることだ。

 この時代に裁判に携わった裁判官や検事たちは、社会階層の上部に位置するエリート層であった。他方、魔女狩りの犠牲者となった者の多くは、どちらかといえば、社会の縁辺部にいた人たちであった。魔女狩りという出来事は、その対象からして理解するに多くの困難を伴う。その困難さは、当時において最も甚だしいが、時代を隔てて考えてみても、理解しがたい部分が多い。今日に残る魔女審問の文書は、その闇と狂気の世界を垣間見せてくれるのだが、その多くが混迷している。その実態は、魔女狩りが行われた時代の混迷と表裏をなしていた。
 
破綻をかろうじて防いだ仕組み
 魔女狩りを生んだ時代、1570年以降、17世紀前半のロレーヌは、経済的にかなり困窮し、窮乏の淵まで追い詰められていたが、修復不可能というほどではなかった。困窮の程度は農村部で最もひどかったが、さまざまな慈善的行為などが貧しい農民の暴動などの絶望的行動をかろうじて防いでいた。とりわけ、カトリック信仰に根ざした慈善的行為は、ロレーヌの社会に深く根付いていた。長期にわたる困窮状態を存続させていたひとつの要因であった。

 16世紀末までに蓄積されてきた多く問題が山積して、社会のあらゆるシステムが大きなストレスの下にきしんでいた。社会の最下層にある農民層を中心には、さまざまな破綻が発生していたが、憤りの強い感情が爆発することはかろうじて抑止されていた。

 社会経済的状況の悪化と魔女裁判の増加は、時系列的に合致していたが、その関係はさほど複雑なことではなかった。悪天候による農作物の不作、家畜などに広がった悪疫などへの恐れ、怨嗟などは、しばしば個人の域にも及び、魔術、呪術などへ結びつけられた。誰がこうした災厄などを引き起こしているかは特定できないとしても、地域に隠れた敵として幻想する象徴的対象を見出した。時にコミュナルな期待を破壊した者と損傷された者のうらみは、想像を絶して深いものがあったようだ。そしてしばしば、長年の間にイメージの世界につくり出されてきた魔女という得体の知れない存在が、禍の根源と想定された。  
 
 魔女裁判が比較的多かったロレーヌが、ヨーロッパの他の地域とさほど大きく異なっていたわけではなかった。ヨーロッパ近世初期といわれる時代の特徴は、濃淡はあってもヨーロッパに広範にみられた。ロレーヌについて、適度な注意をもって見る必要もあるようだ。17世紀初め1620年代くらいまでロレーヌでは、16世紀と比較してしばらく経済状況の改善がみられたが、それが魔女狩りの急速な減少にはつながらなかった。

ロレーヌ魔女裁判の実際  
 魔女裁判にかけられた多くの被疑者はあまり頑強ではなかったようだが、例外的に執拗に否定する被疑者もいたようだ。ヴォージュの検事総長になったデュメニルのように、魔女審問に関わった主導的な裁判官は、被疑者の主張をなんとか言いくるめる道を考えていたようだ。問題の核心にふれることなく、巧みに別の問題を議論してはぐらかす方向が意図されていた。そして、ボーダンの言辞を引用して言っている:「魔女のようなオカルトの例では、他のよりはっきりして確かな犯罪と比較して、状況を観察する必要はない。なぜならば、この特別な犯罪の立証は非常に難しく、証拠は一般に流布している評判と疑いを立証しさえすればよい。」 (Briggs 59)。

 言い換えると、「例外的犯罪」 crimen exceptumという概念では、集められたうわさのひとかたまりが、拷問、さらには処刑を行う正当化のための証明となった。そうした法律運用のごまかしは、現代の視点からは、きわめて不公正なものに思われる。当初から被疑者のすべてが悪いとする仮定に、通常依存しているからだ。デュメニルが言うような審理の上で技術的な難しさがあるからといって、魔女裁判におけるきわめて高い有罪率を認めることはできない。  

 ロレーヌの法制度は、魔女裁判のような明らかにある想像が生み出した犯罪行為について、論理を詰めて審理し、時に截然と死罪を宣告するほど完成していていたわけでは到底ない。言い換えると、誤審についての疑念を払拭しうるほど整然としたものではなかった。

大勢に迎合的裁判
 ロレーヌの裁判官や関係者は魔女狩りを積極的に支持したわけではないが、総じて見ると大衆の動きに対応していた。以前にも記したニコラ・レミは判事で悪魔学者であり、最終的には公国の検事総長となったが、概してこのモデルに従っていた。もし、ロレーヌが他の地域よりも多数の魔女審問と処刑を実施していたとすれば、地方的な特徴を反映したものであった。審問はローカルな地域で、一種の安全弁のようなものだった。というのも犠牲となった者は、この地方で魔術を使って人をたぶらかしていたなど、ある長い期間にわたり、相当な評判を持っていた者だからだ。

 ロレーヌの裁判をザールランドやラインランドあるいはトリアーなど、近隣地域の迫害の実態と比較して、一概に否定的にみなすことは正当ではない。ヨーロッパの他の地域でもそうであったように、実際に観察できることは、裁判制度を単に自分たちの利益のために操った懐疑的な者たちの仕業というよりは、彼らの個人的な利益のために行われたとしても、むしろ神のようなあるいは人間的な正義を実行していると思い込んでいる、混乱した人たちの存在が魔女審問という状況を生み出していたことだ。

フランス的制度の浸透 
 魔女裁判が行われたころ、ロレーヌ公国は神聖ローマ帝国の版図の一部だった。1542年ニュールンベルグの協定によって、公国に奇妙な半ば切り離された独立したようなステイタスを付与していた。このことは、表向きは神聖ローマ帝国、そしてドイツ的に見せていた。しかし、ロレーヌの人々は多くがフランス語を話し、文化、宗教、そして政治的にもフランスの方を向いていた。法制度がフランスとドイツの混合であったことは驚くべきことではない。しかし、実際にはフランス式が日常の裁判制度を支配していた。裁判所における諸手続は、まったくフランス風であった。手続き、裁判官など関係者の構成、尋問の方式、証言者と被告の対決、その他について、すべてフランスの方式が採用されていた。16世紀にフランスから必要に応じて取り入れられてきたものだった。その結果、ロレーヌの裁判制度には、一貫性に欠けるところがあり、裁判の実態にも影響を与えていた(続く)
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ロレーヌ魔女物語(9)

2009年04月24日 | ロレーヌ魔女物語

17世紀初頭の頃、Vicを望む風景銅版画



 魔女狩りといわれる現象は、現代社会に存在しないわけではない。今日でもさまざまな場面で、この言葉、概念が使われている。ある条件が揃うと、時代にかかわりなく、この現象が発生しやすくなる。

 17世紀に入ったヨーロッパ全体でみると、魔女狩りは次第に減少してきたとはいえ、ロレーヌでは依然として絶えることなく、魔女狩りが行われていた。そうはいっても、ロレーヌは、ヨーロッパの他の地域とさほど異なっていたわけではなかった。しかし、魔女狩りを生むようないくつかの条件が重なって存在したことも事実であった。とても、ブログの枠に収まる話ではないが、メモ代わりにもう少し続けてみたい。このテーマの研究者にとっては、ほとんど常識に近いことだが、17世紀ロレーヌに少しでも近づくための材料集積のためだ。今回は、主として経済的背景を考えることにしよう。

農業社会のロレーヌ
 現在でも変わりないが、16世紀から17世紀前半、ロレーヌは基本的に農業社会であった。日常の取引は、短い距離の小さな市場圏で行われていた。しかし、モーゼル川とその近隣の地は、ラインやネーデルラントと水路を経由して結ばれていた。陸上交通の点でもロレーヌは、文化の十字路を形成していた。

 16世紀、ロレーヌでは記録に残るかぎりでは、食料品価格は3倍近くに上昇したが、賃金は2倍にもならなかった。比較的繁栄を享受しえた17世紀初めの20年間についても、ロレーヌでは価格は比較的安定していたが、賃金はわずかに上昇したにすぎなかった。他方、他の地域からの流入もあって人口は増加し、貧窮化が進行した。それにもかかわらず、17世紀に入って1630年頃まで、ロレーヌは比較的恵まれた時を迎えていた。フランス革命までに再び達することのなかった水準だった。

 16世紀末期の宗教戦争、とりわけユグノー戦争は不安と騒乱をもたらしたことは事実だが、百年戦争のような農業労働の完全な中断状態を生み出すようなことはなかった。ただ、17世紀に入ると、30年戦争の戦場に巻き込まれたロレーヌは他の地域よりも過酷な状況に置かれた。

 別の変化も進行していた。ロレーヌの住民は安全で平穏な状況を望んでいた。しかし、そうした期待を裏切るように、地域のコミュニティは次第にメンバー間の協力よりも、紛争の場へと移っていた。不平等が拡大し、実質的に土地を持たない日雇いの農業労働者が増加し、少数の富裕者と多数の貧困層へ階層分化が進行した。

 
さまざまな規制の存在
 ロレーヌの毎日は、荘園とコミュナルな権威が交差する点で、高度に規制されたシステムの中で展開していた。収穫期、休閑地、森林地の管理、あるいは共有の牛馬、牧草地の維持管理などが最重要な問題だった。例外的な特権を購入しないかぎり、農民は領地の水車、パン窯、ワイン絞り器などを使わざるをえなかった。

 戦争その他の理由で、自由農民が土地を放棄せざるをえなくなると、土地は領主によって収奪された。また、保有地を手放さざるを得なくなった農民から、安価に土地を獲得していった。

 ここでは、富と権力は結合していた。牧草地は次第に教会、修道院、貴族などの富裕層などが独占するところになり、農民など普通の人々は必要ならば小作契約をして動物などの飼育をするか、自由な土地を売り、小作契約をするしかなかった。ほとんどの家庭は、他人への日雇い労働をして暮らしていた。かなりの農民は、大農借地の日雇い労働と技術的進歩を遅らせたさまざまな共同体規制、そしてとりわけ家内制農村工業労働のおかげで生存が可能になっていた。こうした状況にあって、貴族となり、ロレーヌの牧草地を馬で放縦に走り回るほどの富を得た画家ラ・トゥールや特権に支えられた修道女たちに向けられた一部農民の怨嗟の光景が彷彿とする。

 16世紀以降、何回かの悪天候、飢饉などがロレーヌの状況悪化を深めた。1630年代までの比較的良い時期は、悪化の進行を緩和したが、反転させたわけではなかった。貧窮化への道は一方通行で、しばしば悲惨な状況を伴った。しかし、暴動のような反乱は少なかった。生活の術がない乞食などの貧窮者が増加し、支配者にローカルな慈善を求めた。穀物、木材、果実の盗みが横行した。しかし、社会秩序は巧みに支えられ、大きな破綻を見せなかった。

不満の蓄積と発散
 
こうして、16世紀前半は比較的繁栄していた。しかし、深刻な貧窮状態に陥ると、農民たちは、どこへ訴えるべきか分からなかったのかもしれない。村へやってくる収税吏、穀物収拾人に対する農民のいくつかの暴力的な行為の例、鬱積した怒りの発現は、この時代環境で起こりうるものだった。特に対象となる犠牲者が社会的なアウトサイダーの場合、事態はしばしば極端に走った。 しかし、コミュニティは修復不可能なほど壊れてはいなかった。異なった階層間をサービスと義務がなんとか結びつけていた。

 人口の多くが、長期にわたる困窮の淵にまで追い込まれていた。それでも、村落の支配者はさまざまな社会的、文化的圧力を駆使して、貧しい人たちの力の集中と暴発を防いできた。断片的に残る農民や下層民との軋轢、衝突などからも、その一端はうかがえる。 1570年代以降の社会経済的状況の悪化と魔女審問の増加は、こうした長年にわたる変化の中から生まれた。農作物に決定的な影響を及ぼす悪天候、そして牛、馬、羊などの動物への悪疫の流行は、人間関係にまで波及し、魔術や呪術への傾斜へ連なっていった。

 誰かの行動がコミュニティを破壊しているか特定できないとしても、その内部に隠れた敵として幻想する対象が、魔女という存在だった。それでは、魔女あるいは魔術を操る者とされたのは、どんな人々だったのだろうか。審問の事例を見ていると、あるイメージがおぼろげながら浮かび上がってくる。
(続く)  

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ロレーヌ魔女物語(8)

2009年04月02日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌの風景から

  アメリカABCのNightline  Face-off (2009年3月26日)が、「悪魔は存在するか」Does Satin Exist? という論争的番組を放送していた。この番組に先立って、「神は存在するか」Does God exist? という番組も放映された。後者のテーマは、これまでもしばしば繰り返されてきたので、目新しいわけではない。しかし、前者には少なからず驚かされた。およそ日本のTV番組には登場しないテーマである。 

 アメリカ人の70%近くが、「悪魔の存在を信じている」という。彼らが思い浮かべる「悪魔」がいかなるものであるかは、正確にはイメージしがたいが、議論を聞いていて、現代の思想環境は17世紀とさほど変わらないところがあると改めて感じた。とりわけ、イラク戦争がアメリカ国民に強い影を落としていることを改めて思った。 

 さらに、興味深い問題は、ほとんどの場合、悪魔が神との対比において議論されていたことであった。この場合、「神」がキリストを意味しているらしいことは伝わってくるのだが、それだけに限定されるのか、よく分からない部分が残った。オバマ大統領が演説の最後で、God bless you. God bless America. という時、Godはどんな神をイメージしているのだろうか。キリスト以外の神を信じる国民も多い国なので、気になっていた。とりわけ、選挙活動中、オバマ氏の宗教はイスラムではないのかという議論もあっただけに、彼が心中、いかなる意味で「神」Godを口にしているのかと思う。

国家形成と魔女審問
 さて、17世紀、ロレーヌ公国という小さな国が、大国に伍して生きていくためには、さまざまなことが必要だった。ロレーヌ公の政治的支配力は弱く、経済基盤も決して盤石なものではなかった。その中でロレーヌが曲がりなりにもひとつの公国として存在するためには、ロレーヌ公国のイメージとして統一した精神的な柱が求められていた。 

 この国を支えていた宗教的基礎は、カトリックだった。ヨーロッパ・カトリック世界の辺境で、ロレーヌはローマ教皇庁の最前線地域として位置づけられ、プロテスタントやさまざまな異教に対峙していた。ロレーヌは、近世初めの神聖国家のひとつとしての道を進んでいた。しかし、「神聖さ」について、上から下へ統一した思想や政策が存在したわけではない。カトリック信仰についても、その布教、伝道は、教会や聖職者たちの手にゆだねられていた。同じカトリックでも,宗派間の反目、対立は激しかった。農民のレベルまで下りれば、さまざまな世俗的信仰なども彼らの生活の中に根付いていた。宗教を軸とする精神世界は上から下まで、かなり混沌としていた。他方、世俗の世界では、君主と裁判官は権力の頂点にあることを自認していた。

魔術学の大家はどう考えていたか 
 ロレーヌの魔女狩りの世界に入り込むには、残されているさまざまな手がかりに頼らねばならない。「惡魔学」(なんとも怖ろしい名前!「妖怪学」や「鬼神学」
もありますが。)は、中世以来重要な位置を占める学問だった。魔術は、決して迷信やいかがわしい信仰のたぐいではなかった。

 当時、ロレーヌの知識人のひとりで、魔女審問に直接携わったニコラ・レミ Nicholas Remy(1534-1600)という人物がいた。1595年にレメギウスという筆名で記した書物『悪魔崇拝論』Demonolatriae*は、いわば魔女と妖術に関する資料集で、魔女裁判の折に審問官の参考書として重用された。

 レミはフランスで教育を受けた法律家であり、その後ロレーヌの階層社会で昇進し、1583年に貴族に任じられ、ロレーヌの上級判事、検事総長にまでなった。敬虔なカトリックであり、時代を代表する悪魔学の権威でもあった。彼の著作は1595年、メッスの司教でロレーヌ公の息子であるシャルル枢機卿にも献呈された。

意図してあいまいに?
 しかし、後世の研究者の目で見ても、レミの著作は大冊だが散漫であり、当時の魔女審問の底流にあったものを知ることはかなり難しいようだ。魔女裁判と宗教を直接に結びつけるような論理も見いだされていない。 レミは、ロレーヌ公と魔女裁判の間の政治的、宗教的目的との関連にも、一言も触れていない。ロレーヌを特別に神聖なものとするような言及もない。魔女狩りと国家の形成や維持の間に、なんらかの関連を思わせるような記述もしていない。しかし、ロレーヌ公シャルル3世は、ナンシーの上級判事にすべての魔女審問判決を審査する権利を与えており、レミもそのひとりだった。シャルル公は、審問の内容などには、なにも関わっていないようだが、こうした仕組みは当時の審問のあり方に、ある程度の方向性をもたせていたのかもしれない。

 レミの著作からは、ロレーヌの魔女狩りにかかわる、とりわけ明確な方向性は見えてこない。全体としてみると、聖職者の無知が農民を悪魔の餌食にするような無知の状態にしているとの一般的記述に留まっている。だが、当時の主要な惡魔学者と同様に、農民が無知だからといって,魔術に寛容的になるのは誤りとする。なぜなら、そこに妖術 sorcery が介在して、他人の道徳を傷つけるからだという。当時、魔術 witchcraft と妖術は明瞭に区分されていた**。

現実には厳しい対応
 レミの用心深い記述の中から浮かび上がってくることは、魔術は、人間が犯す最も非道な行いであり、世俗、教会の別を問わず、それにふさわしい厳しい罰でのぞまねばならないという考えである。レミは魔女審問の過程で、拷問による告白の引き出しを重視していたとみられるが、これは当時の代表的判事たちにも共通の考えだった。レミは1580年代と90年代に、ロレーヌ地方で900人の魔女を焼き殺したと主張している。もっとも、この数値は「適当な」文学的効果を狙った誇張であるとの解釈もある。いずれにせよ、尋常な数ではない。   

 レミの上級判事としての政治的立場が、あいまいな叙述にしたとの推定も可能だが、現実に明確な論理を確立しうるだけの時代環境ではなかったという方が正しいだろう。魔女に象徴される悪魔がなぜ生まれるか、悪魔が行う悪行の実態、魔術と妖術の区分け、惑わされる人間の弱さ、宗教の役割、邪悪な悪魔へいかに対応するか。どれもが謎に包まれていた。その具体的次元での対応は、ほとんどすべてカトリック改革における審問官など、法服エリートの宗教的感覚に依存していた。

 主導的な論理や手がかりがなかったこともあって、判事たちにとって魔女狩りの頻発は好ましいことでもなかった。結果として、審問、判決においては、当時の悪魔学の大家の考えに従うという流れを生み出していた。魔女審問は、彼らにとって、かなりやっかいな出来事だったのだろう。以前に紹介した、エリザベス・ドゥ・ランファングの事例にあったように、24名もの判事のすべてが同じ判断であったというのも、こうした風土によるものだろう。いかに自らの独自な意見を確立し、述べることが難しかったかを想像させる。

 時代のさまざまな束縛から自らを解放し、それでいて多くの人を説得しうる論理を貫くことができるか。それが時代の求めるものと、いかなる関係を保っているか、とりわけ、宗教とのつながりへの判断は、どうか。魔女審問がなくなるまでには、まだかなり長い時間が必要だった。

(続く)

 


* フランス語版の他、英語版もある。
Nicolas Remy. Demonolatry. Edited by Montague Summers. 1595: New York, 1974.

** 魔女狩りや魔女審問に関する文献はきわめて多いが、下記の著作は、これらの錯綜した諸問題を展望するに適した好著のひとつ。
 ジェフリ・スカール、ジョン・カロウ(小泉徹訳)『魔女狩り』岩波書店、2004年。

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ロレーヌ魔女物語(7)

2009年03月19日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌ、マルサールの製塩所跡 


  なぜ、ヨーロッパ近世初期、ロレーヌの魔女狩りなどに関心を抱いたのか。以前にも一端は記したが、理由としてはさまざまなことを感じている。そのひとつは、この時代の画家、とりわけジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品だけを見ていたのでは、ロレーヌという地域の特有な歴史、風土、そしてそれらが生み出した複雑な社会状況
が十分見えてこない。そればかりでなく、作品自体も十分鑑賞しえないと思ったことにある。これらの点について、美術史専門書、企画展カタログなどでも、輪郭程度しか紹介されていない。日本人にはなかなか理解できない時代と風土だ。

 他方、混迷し、先が見えず、不安が支配する今の時代を、後世の人が振り返って見たらどう思うだろう。魔女狩りの対象が、しばしば社会の片隅で孤立した老人、それも女性に向けられたこと、占い師や詐欺師の横行などの例を見ていると、日本の「オレオレ詐欺」の蔓延などを思い出してしまう。

魔女はどこに 
 閑話休題。ロレーヌに限ったことではないが、16-17世紀ヨーロッパ、魔女狩りが頻発した地域には、なにか共通の特徴が見いだされるのだろうか。大変興味深いテーマだ。しかし、その答にたどり着くのは容易なことではない。  

 ひとつの問題は、魔女狩りの頻度、発生数の多寡をなにで測るかということだ。なにをもって、魔女、そして魔術の存在を確認するのか。とてもすぐには答えられない。多くは、300年以上をさかのぼる時代のことである。具体的な検証に耐えられる記録とはなにか。伝承のたぐいは、多数残っている。その中で最も頼りになるのは、魔女審問の記録である。しかし、これとても、長い年月の間に散逸しており、すべてが残っているわけではない。むしろ、残っているのが稀なのかもしれない。

運良く記録が残ったロレーヌ
 こうした状況で、魔女狩りの研究は絶えることなく続けられてきた。最も信頼できる資料とされる魔女審問記録は、すべて保存されてきたわけではない。その多くは散逸し、消滅してしまった。記録の質の問題もある。ロレーヌは幸い記録が残った数少ない地域のひとつだった。それには記録保管所 archives の存在と継承が大きく寄与している。  

 16世紀末、ロレーヌ公国のシャルル3世は、自らの積極的外交のために資金を必要としていた。そこで、1591年には300人近い官吏に、仕事を保証する代償に課金を求めた。その集金を記録するための課税台帳の整備が行われ、記録保管所が整備されて発達した。ここに数百の魔女裁判記録も一緒に保管されて生き残った。いわば収税活動の副産物だった。

公国の財源  
 シャルル3世は、1588年以降しばらくの間、多数の軍隊の動員をしたり、一般的な危機の雰囲気が漂っていた時期について、かなりの租税軽減を行った。1595年の講和の後、緊張感はやや和らいだ。こうした中で、ロレーヌ公国はその主たる収入源を大きな農場主に求めた。しかし、実際には公国の収入の半分以上は、特産の岩塩の交易によるものだった。かなりの輸出を行うとともに、国内では独占的価格を維持していた。ロレーヌには、当時の製塩所の跡が塩博物館などの形で残っている。その他の収入は森林利用権など、さまざまな封建的収入、取引税、そしてヴォージュ山脈の銀、銅、その他の鉱山からの収入だった。   

 ロレーヌ公国の住民は、フランスと同様、90%以上が農民であり、多数の村落から成っていた。多数の領主、地方の修道院、貴族などが、複雑に支配していた。農民はさまざまな支払いや義務を負わされていた。そのひとつひとつは小さいが、合計すると農民には大きな重荷となった。

小国の世界 
 16世紀から17世紀前半にかけてのロレーヌ公国は、隣国フランスの影響を強く受けていた。政治や財政などの仕組みも、フランスに倣ったものであった。しかし、相違している点も少なくなかった。17世紀ロレーヌ公国の政治の座にあった公爵たちは、この小さな国はヨーロッパの覇権を競い合う政治世界では、主要な役割は担えないと自認していたようだ。  

 次第に整備されてきた法律などの制度は、君主にとって権力と威信発揮の手段となって、新たな機会を与えた。特に、フランスでは法律家たちは、行政の主要なグループと結ぶことで次第に力を蓄えていた。第4階級と呼ばれた王の裁判官や官吏が、王の名において活発に動いていた。

 ロレーヌでは、1580年代、ポンタムッソンにジェスイット大学が設立され、法学部が置かれるまで、公国のほとんどすべての法律家たちは、フランスの大学で修業していた。当然だが、フランス的なやり方を公国へ持ち込んでいた。しかし、この小さな国には、あまり大きな仕事はなかった。結果として彼らが過ごした狭小な世界が、魔女審問のあり方に影響を与えたかもしれない。

  さらに、ロレーヌ公国は、国としての精神的基盤として、カトリックを柱としてきた。この国の君主や裁判官たちは、このカトリックの支持の下で、自らの権力を維持してきた。近世初の神聖国家であったといってもよい。ロレーヌ公国の魔女狩り、魔女審問は、こうした独特の風土の中から生まれてきた。 (続く)

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ロレーヌ魔女物語(6)

2009年03月11日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌの修道僧、ヴィック=シュル=セイユのジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館



たぶらかされたのは誰?

  16-17世紀ロレーヌの魔女審問の世界を垣間見てみると、なんとも信じられないことが起きていた。以前に少しだけ記したエリザベス・ドゥ・ランファング事件に、もう少し立ち入ってみよう。ちなみに、この出来事は悪魔狩りの古典的な事例として、大変よく知られている。

 1620年頃のロレーヌで実際に起きた話だ。エリザベス・ドゥ・レンフェンは貴族階級につながる上流の家庭に生まれた娘だったが、子供の頃からどことなく神がかったような、理解しがたい行動をみせていた。 家庭の育て方にも問題があり、「箱入り娘」的で、ほとんど外出もさせなかったらしい。その結果、娘もかなり偏った性格になってしまっていた。娘の扱いに手を焼いた両親は、なんと15歳になった時に、42歳の軍人に嫁がせてしまった。娘ながら厄介者と縁を切りたいと思ったらしい(親も親だが、よほどてこずったのだろう)。

 ところが、この夫もひどい男で、妻を大変乱暴にに扱っていたらしい。9年後に夫は他界したが、6人の子供が残った。ただ、エリザベスの狂信的ともみえる宗教的熱意?は冷めることなく、夫の没後、ロレーヌで大変著名な修道院教会があるレミレモンへ、巡礼の旅に出た。

 その帰途、小さな町の宿で、医師シャルル・ポアロ なる人物に出会う。ポアロは、この地方では医師として、かなり名前が知られていた人物だったようだ。エリザベスが後に語ったことによると、彼女はポアロに飲食に招かれ、媚薬を盛られて、意識が朦朧とした中で医師の意のままになってしまった。そして、それから後、なにか自分ではない、とてつもないものによって支配されるようになったとして、医師を激しく罵るようになった。

 エリザベスは恐怖と混迷状態で村の薬剤師に薬を求めたが、薬剤師はポアロの診察を受けろというのがせいいっぱいだった。小さな町で彼女の扱いをめぐって一騒ぎがあったらしい。結局、町の司祭はなんとかエリザベスをナンシーへ送り届けた。

お手上げの事態に
 ナンシーでは、祈祷師がおきまりの悪魔払いをするが、効果がなかった。そこで、ナンシーの多くの宗教・宗派が、それぞれの名誉にかけて次々と祈祷師や司祭などを送り、治癒を試みたがすべて効果がなかった。  

 伝えられるところでは、このエリザベスなる女性、習ったはずはないイタリア語やギリシャ語などが分かったらしく、封じられた手紙の中身を透視して読むなど、かなりのことができたらしい。実は、これらの行動は、その数年前に明らかにされたローマン・カトリック教会が発布した悪魔憑きの古典的な症候と一致していたようだが、周囲は見抜けなかったようだ。

愚かな医師
  さて、こうしてエリザベスの常軌を逸した行動が何年か続いた。教会の欄干の上を歩くなど、奇矯な行動をしたらしい。そして、ある日、大きな転換があった。あの医師ポアロがナンシーを通りかかり、軽率にもエリザベスの所に立ち寄ったのだ。

 エリザベスは、ポアロを自分に魔術をかけたと激しく非難し、医師は逮捕された。そして、ロレーヌの行政官の命令で、ポアロは魔術師の容疑で尋問が行われた。当時、魔術師は身体のどこかに悪魔の印がついているとされた。そのため、身体中を調べたられたが、なにも見つからなかった。ポアロは告白も拒否していた。  

 その後、さらに妙なことが起きた。数ヶ月後、ポアロは悪魔が憑いたとされる農j民の少女から訴えられ、再び逮捕される。そして、今度は身体検査の結果、なんと悪魔の印が見つかったのだ!

どうなっているのか
 そして、今日からみると、およそ想像もしないことが起きた。ロレーヌ公国の24名の著名なエリート裁判官が、審問の結果、ポアロに有罪の判決を下した。フィリップ2世の娘を含む強力なポアロの支持者たちが、介入して助命を訴えたが、その効果もなかった。そして、医師ポアロと悪魔が憑いたという農民の娘は、火刑台へ送られてしまった。  

 他方、エリザベスはというと、その後緩やかに普通の人の状態になっていった。そして、再び巡礼の旅に出て、悪魔を克服、追い出したかに見えた。人々のエリザベスを見る目も変わり、敬意と尊厳さまでも感じるようになったらしい。そして、1631年にはナンシーに自ら新設にかかわったノートルダム救済修道院の筆頭修道女に任ぜられた。その後、この修道院は、当時のロレーヌの各宗派のモデルとされるまでに格式高いものとなっていった。18年後に彼女が世を去ると、かつての悪魔憑きの心臓は聖体扱いされ、ナンシー市民の尊敬する地位にまで高められたと伝えられている。

 なんとも信じがたいような話である。どこで、誰が、どうなってしまったのか。しかし、悪魔狩りの時代、こうした出来事はロレーヌに限ったことではなかった。フランス、スペイン、イタリア、スコットランドなど、ヨーロッパの各地で似たような、不思議で、おぞましい事件が起きていた。


 このレンフェン事件、関わった医師、聖職者、判事たちは、なにに基づいて、こうした判断をしていたのか。とりわけ、審問に当たった24人もの著名な判事たちの思考、判断基準はどこにあったのか。時代の環境・風土は、どこまで審問を左右したのだろうか。

 現代的視点からみると、理解しがたい出来事であり、とても正気の沙汰ではない。しかし、この魔女狩りの流れは、その後も歴史のどこかに潜んでいて、さまざまな形で表面化することになる。

 たまたま、イラク戦争にイギリスがアメリカとともに開戦を決定する直前の状況を描いたBBCの力作*を見ていて、真実を見定めることの難しさについて、深く考えさせられてしまった。



* 『イラク戦争へのカウントダウン』 (2009年3月10日)

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ロレーヌ魔女物語(5)

2009年02月15日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌ十字といわれるユニークな十字架。


大国の狭間に生きたロレーヌ公国 
 魔女審問が行われた頃のロレーヌ公国の歴史や風土を知る人は少ない。ロレーヌ公国は小国であった。当時の領土は面積にして、日本の九州の6割くらいだった。加えて、16世紀から17世紀前半にかけてのロレーヌは、地政学的観点からみても、きわめて複雑な状況にあった。その実態を理解しないかぎり、このブログのひとつのテーマであるジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の実像は見えてこない。 
 この時代、ロレーヌという小国の置かれた状況は、現代に引き戻して考えれば、ドイツとフランスの間にサンドイッチのハム状態に挟まれた形である。しかも、挟まれた内容がさらに複雑なものだった。神聖ローマ帝国とフランス王国という強大勢力の間に挟まれたこのロレーヌ公国の権威は、国内に存在する司教区(メッス、ツール、ヴェルダン)の教会権力にも脅かされていた。
 17世紀初頭のロレーヌの地図を見ると、海に浮かんだ島々のように、司教区などが領土を分断していた。それぞれの政治領土の間には、法制、関税、言語などの点で微妙な差異が存在した。歴代のロレーヌ公はこうした複雑な政治風土の中で、できる限り戦争などの争いを避け、小国としての安定と繁栄を探し求めた。


1600年頃のロレーヌの地図(詳細はクリック)。領土の中に多数の司教領、王領などが散在していることが分かる。 

フランスとのつながり 
 しかし、小国の悲しさ、神聖ローマ帝国とフランスという二大勢力を中心にヨーロッパ政治が変動すると、たちまち存立を脅かされる不安定な状況になった。
 他方、16世紀、17世紀前半は、フランスの王権も十分確立されたものではなく、当時オーストリアとスペインを統治していたハプスブルグ家に国土を包囲されているとの強迫観念にとりつかれていた。そして、この包囲網を破ろうと、フランス軍は神聖ローマ皇帝軍、スペイン軍と激しく戦った。フランス王は敵の敵は味方と考え、神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯やスエーデンのようなプロテスタント国とも同盟した。 ロレーヌ公の家系的、政治的つながりも、こうした勢力関係を強く反映していた。
 総体として、言語、文化の点では、ロレーヌ公国はフランスとのつながりが強かった。これには16世紀頃から歴代ロレーヌ公が、年少の時期をフランスの宮廷で過ごす慣行が成立していたことが影響していた。 しかし、この小国が宝石のように輝いていた時期もあった。ロレーヌ繁栄の頂点には、公国の歴史で「偉大なシャルル」といわれたシャルルIII世Charles III, duke of Lorraine and Barがいた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた時のロレーヌ公であった。

ロレーヌ公シャルルIII世:繁栄の時代 
 シャルルIII世は1552年からフランスの宮廷で過ごし、その知的・文化的環境を体得していた。在位の間は領土の拡大はできなかったが、公国としての独立を維持し、繁栄を生み出した。16世紀後半、フランスが宗教的、政治的混乱に陥っている間を利して、シャルルIII世は巧みに教会などの世俗的財産を司教区から公国側へ移すことなどに成功した。とりわけロレーヌにとって寄与したのは、マルサルでの岩塩生産の権利を取得したことだった。この塩田はロレーヌ公国の経済的繁栄の基盤となった。 
 ロレーヌ最大の都市として、ナンシーでの新市街開発も1590年代に進んだ。メッスが北の砦として、重きをなしているのに対して、バランスをとることが図られたようだ。絶えず隣国からの脅威の下にあったロレーヌ公国での最大都市としての位置をはじめて確立した。
 こうして、ロレーヌ公国に繁栄をもたらしたシャルルIII世だが、1608年3月14日、世を去った。この時、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは15歳になっていた。画家を目指し、修業の途上であったと思われる。 ロレーヌ公国の存在をヨーロッパ史上で知らしめたひとつの出来事は、皮肉なことにシャルル公の葬儀だった。葬儀は実に2月半以上続いた。その盛大さはフランス王や神聖ローマ帝国の戴冠式にも匹敵するほどだったと言われている。小さな国の大儀式だった。その盛大さは、今日まで伝わっていrる。


LA POMPE FUMÉBRE DE CHARLES III
NANCY MUSÉE LORRAIN 
歴史に残るロレーヌ公シャルルIII世の葬儀


 シャルルIII世が在位中に魔女裁判に直接関わった証拠はなにもない。一時フランス王の座を目指したこともあった公だが、それが叶わないとなった段階で、旧い状態を維持することを前提にフランス王と平和協定を結んだ。

宗教改革の衝撃  
 こうした努力にもかかわらず、ロレーヌ公国は次第に深刻な問題に直面していた。その大きな原因は公国の外にあった。フランスにおける宗教戦争の拡大と新教国としてのオランダの独立だった。宗教改革と対抗宗教改革(カトリック宗教改革)の衝突は、この時代を支配した最大の問題だった。フランスではアンリ4世のナントの王令で、ヨーロッパでは類を見ない一国王2宗教(カトリック、プロテスタント)の体制がしばらくの間だが実現した。 
 宗教改革で防衛側に追い込まれたカトリック教会側は、16世紀中頃、代表がトリエント公会議を開催、教会の改革に精力的に取り組んだ。そして、プロテスタントから批判の的となって諸点を含めて、カトリックとしての基本方針を定めた。その線上に、17世紀には「対抗宗教改革」(カトリック宗教改革)
と呼ばれるカトリック教会の自己改革が進められた。

カトリックの拠点だったロレーヌ 
 ロレーヌ公国の政治を貫いていた糸は、カトリック信仰への忠誠であった。すでに1525年ドイツ農民戦争で、アントワーヌ公はアルザスから進入した農民兵を撃退している。その後も、ロレーヌ公国内のプロテスタンティズムの騒乱を初期に押さえ込むというカトリック側としては、効果的な対応がとられてきた。
 公国内にみられた一部の目立ったプロテスタントのコミュニティは、公国の権力が十分およばないような地域とか縁辺部に限られていた。プロテスタントの最も重要なコミュニティは、メッス、ファルスブルグのような独立性の高い地方、南東部のドイツ移民鉱夫の間などだった。メッスはフランスの駐屯軍が置かれていて、プロテスタントへの暗黙な協力があった。
 ロレーヌはカトリック宗教改革のいわば最前線、拠点であった。そのため新しいカトリック改革の秩序を確立したいという努力が他地域よりも速やかに進んでいた。1572年、ポンタムッソンにはジェスイット大学が設置され、改革の神学的支えを提供した。 
 しかし、カトリック内部にも新旧の摩擦が絶えなかった。トリエント公会議の方針を推進する動きとカトリックの旧来の体制との摩擦も多く、かなり複雑な様相を呈してはいた。新旧の権威と迷信がしばしば一貫せず、混じり合っていた。こうしたロレーヌ・カトリシズムは、この時代の典型でもあった。魔女狩りが多発したのもこうした風土においてであった。当時のロレーヌでは、新旧の権威と迷信がしばしば一貫しないままに存在していた。
 公国として注意深く設定され、統一された強い政策が欠如していたこと、隣国フランスやオランダのような深刻な宗教上の闘争があまりなかったことは、ある意味でロレーヌ公国の大多数を占めた農民などにとっては幸いだった。小国であるがゆえに、軍隊の力や税金に、ほどほどしか依存しえなかった。結果として、公国として統一できない地域文化が存在することを許容していた。地域性に根ざしたさまざまな民間の習俗、信仰、呪術が生き残る地盤があったといえる。魔女審問が多かった背景のひとつである(続く)。

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ロレーヌ魔女物語(4)

2009年02月05日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌの草原を流れるセイユ川

グアンタナモへつながる魔女狩り 
  オバマ新大統領は就任早々の22日、キューバ・グアンタナモ米軍基地にブッシュ前政権が設置した対テロ戦収容所を、1年以内に閉鎖することを命ずる大統領令に署名した。ブッシュ路線との決別を意味する象徴的な決断だった。アメリカ史上の汚点といわれる1692年に始まったセイラム魔女審問の延長上にあるとされてきたテロ容疑犯の収容施設である。現代の名にふさわしくないおぞましい状況が露見、摘発されてきた。遠くたどれば魔女狩りの時代へとつながっている。  

  魔女の問題が為政者の大きな関心事となることは、17世紀においてもかなりあった。宗教と政治の境界が定かでなかった時代であった。魔女狩りはカトリック教会の力が強かった中世よりも、近世に入ってからの方がはるかに増加している。宗教改革によって教会の力が弱まり、呪術や魔術が再び力を得て、隙間へ入りこんできたといえようか。そればかりでなく、魔術や魔女狩りは、しばしばカトリック世界の中心部に近い修道院の中から生まれてきた。

魔女狩りの原型
 1609年、フランス、エクサン・プロヴァンスのウルスラ会の修道院で、貴族出身の若い修道女が幻覚と夜驚症状にとらわれた。この修道女に悪魔が憑いていると考えたドミニコ会の修道士が公開の惡魔祓いの儀式を行う場で、修道女はルイ・ゴーフリディ神父というマルセイユでアクール聖堂区の主任司祭を務める高名な人物を名指しで非難し始めた。彼女はマルセイユに住んで、神父の指導を受けていた頃、自分に魔法をかけたと述べたのだ。神父は最初のうちは、司教の支持をとりつけたりして、身の証を立てることができたが、うわさは拡大し、事態を放置できなくなったエクスの高等法院は神父を捕らえた。1611年2月、拷問の末、神父は自供し、惡魔と契約したこと、信仰を捨てたこと、サバトに行ったこと、呪いをかけたことを認めた。修道女を誘惑し、魔女にしようとたらし込んだと告白した。1611年2月、ゴーフリディは火刑台へ上った。 

 
ルーダンの憑依
 このエクスの惡魔憑きのうわさは、あっという間にフランス中に広まった。もちろん、ロレーヌでも大きな話題となっただろう。エクスの事件は、その後、この時代の魔女審問のいわば原型になった。その後、1632年にはルーダンの惡魔憑きとして、これも大変よく知られている惡魔祓い裁判が、同じようなプロセスで起きた。その経緯は後世さまざまな学問的研究、小説、演劇、映画などの題材となった。ルイXIII、宰相リシリューまでが深く関与した政治的にも大事件だった*



1634年ルーダンで火刑に処せられるサン・ピエール・デュ・マルシェ教会主任司祭、サント・クロワ教会聖事会員ユルバン・グランディエ師。当時流布した銅版画の一枚。(このグランディエ司祭、なんとなく明るい容貌に描かれていますが。その謎を解く秘密は、下記セルトーの力作をご覧ください。)  

  魔女狩りや魔女審問はヨーロッパの諸地域に、平均して見られたわけではない。時代や地域によって、かなりばらつきが見られる。しかし、そうした差異を生み出した要因については、十分解明ができていない。17世紀のフランスあるいはロレーヌ公国においても、今日に残る記録でみるかぎりでも、さまざまな審問事例があることが分かる。この時代はヨーロッパにとって宗教改革の嵐が襲い、対立と混迷をきわめた「宗教の時代」から近代への移行の時期であった。  

  ロレーヌを含めて、フランス語圏では魔女審問が他地域よりも多かった。ロレーヌ(ドイツ語:Lothringen)の名は、現在のフランス20地域のひとつとして受け継がれている。しかし、17世紀ロレーヌ公国の領土は、現在のロレーヌより小さかった。ロレーヌは、古く遡れば6世紀には、オーストリア・メロヴィンガ朝は、この地域のほとんどを領有し、ブルーネヒルト(Brunehild,ワーグナーの悲劇的ヒロインの遠い原型)はメッスを都としていた。

忠誠の二面性 
  しかし、17世紀のロレーヌは、地域としては統一がとれていない存在だった。ロレーヌ公国の名を掲げながら中央集権の力は及ばず、国境近辺は、フランスや神聖ローマ帝国との争いによって漠としていた。ロレーヌは公式には神聖ローマ帝国の版図に含まれていたが、住民にとってはあまり関係のないものだった。他方、バロア朝を支持する勢力があって、伝統的にフランス側につき、ロレーヌ公はフランスに忠誠を誓っていた。この神聖ローマとフランスに関わる二面性は、ロレーヌに複雑な中世的状況を生み出してきた。 

  魔女狩りは中央集権が行き届いた地域よりは、辺境、周辺の領邦など、政治的統一性の緩やかな地域で多発したようだ。ロレーヌも公国としての集権力は弱く、内外の敵に脅かされていた。公国は、メッス、ツール、ヴェルダンの司教区の教会権力からも脅かされる状況にあった。そうした中で、歴代のロレーヌ公は、強国の狭間で懸命に均衡をとりながらも、できうるかぎり戦争を回避し、懸命に領土を維持してきた。  

  しかし、ヨーロッパ政治が大きく動くと、この小さな公国はたちまち揺らいでしまい、独り立ちが困難になっていた。公国の領土は狭小であり、政治、文化の中心ナンシーは、隣接するどの国の国境からも90キロ程度しか離れていたにすぎなかった。美術史のテキストなどでは、当時ロレーヌを旅した旅行者の目には、この国は天然資源も豊かで大変繁栄しているように映ったと描かれていることが多い。しかし、経済史などの観点からは、人口密度が低く、税収吏の力も弱く、税率が低かったので、税収基盤が小さかったにすぎないからとされている。歴代のロレーヌ公は、支配権力が十分でなく、フランスのように農民から税金を搾り取ることはできなかった。ロレーヌの住民の大部分を占めた農民は、相次ぐ戦乱、悪疫などの襲来で、見かけの豊かさとは程遠い状況に置かれていた。物質的にも精神的にも不安な時代が長く続いたロレーヌは、魔術や呪術、さまざまな世俗的信仰、民間療法などが忍び込みやすい風土だった。
  




References
* 
Michel de Certeau. La possession de Loudun. édition revue par Luce Giard. Paris: Gallimard/Julliard, coll. Folio histoire, 2005 (1970) 

Michel de Certeau. The Possession a Loudun, translated by Michael B. Smith, with a Forward by Stephen Greenblatt. Chicago: University of Chicago Press, 1996l.

ミシェル・ド・セルトー(矢橋透訳)『ルーダンの憑依』みずず書房、2008年。  
 
 本書は、17世紀フランスの魔女狩り、魔女審問の典型を深く、鋭くえぐった見事な一冊だ。すでにオルダス・ハックスリーの『ルーダンの悪魔』 The Devils of Loudun や映画化などでも、よく知られているが、セルトーのこの著作はきわめてよく考えられた組み立てと周到な史料調査に基づき、当時のフランス全土を揺るがせた事件の深層に迫っている。ロレーヌ公国における魔女狩りに関する史料的な Briggs(2007)の最近作などと併せて読むと、フランス、ロレーヌというフランス語圏における精神的・文化的風土の深奥へ少し入り込めた感じがする。

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ロレーヌ魔女物語(3)

2009年01月21日 | ロレーヌ魔女物語

17世紀の面影をとどめるロレーヌ、ヴィック=シュル=セイユの町並み
Photo:Y.K.



魔女の判決が下るまで
 1652年6月27日、フランス、フランダースの住人スザンヌ・ゴードリー Suzanne Gaudry は、魔女の疑いをかけられ、モンMonsの宗教裁判官から火刑を宣告され、処刑された。当時の魔女審問では、犠牲者はしばしば厳しい詮索と拷問の挙句に魔女(魔男)と裁定されていた。ヨーロッパ大陸の多くで、形の上では告白なしには刑罰を科することはできないという宗教審問手続きがとられてはいた。これは、ロレーヌなどフランス以外の地域でも同じであった。

 しかし、現実には執拗な質問責め、拷問などで告白を迫られ、最後には魔女や魔術師にされてしまうことが多かった。ゴードリーの審問例を見ても最初のうちは魔術を使ったことや、自分が魔女であることを繰り返し否定していた。しかし、次第に精神的・肉体的に痛めつけられ、魔女であることを認める発言をしたり、また否定したり、精神の混迷を来たしてくる。そうした段階で、告白を迫られる。さらに、処刑されるまで魔女であるとの告白を撤回しないよう強制された。おそらく処刑の時は、精神的にも肉体的にも、到底普通の精神状態ではなかったろう。

時代の不安とのつながり
 史料研究が進んだとはいえ、こうしたおそましい記録を読むことは愉快なことではない。しかし、この時代の魔女狩りを生んだ社会的・精神的風土を追体験する努力なしに、16世紀、17世紀という時代を理解することは難しい。近代初期といいながらも、無知、虚妄、迷信、蒙昧は消え去ることなく根強く存在した。不安な時代を生きるに、宗教を含めてさまざまな緩衝材も必要だった。ロレーヌの魔女審問についての研究者 Briggsは、その最新著(2007,p7)で、ロレーヌ公国において魔術と癒し(セラピー)の関係がどの程度、普通と思われる関係ではなくなっているかという点が、最も頭を悩ます問題だとしている。きわめて興味深い指摘だ。

 魔女狩り、魔女審問の正確な実像を組み立てることはきわめて難しい。情報やその伝播のプロセス、記録管理などの仕組みが、きわめて不完全あるいはほとんど欠如していた時代である。地域差も大きく、今に残る事例のばらつきも大きい。しかも、地域によっては戦争などによって、記録自体が逸失、消滅してしまった場合も多い。記録の内容にもさまざまな偏見、バランスが混在している。後世の研究者自身が、分析の方法論を確立できず、史料を単に組みなおしたに過ぎない場合もある。しかし、近年の悪魔学、魔女研究の「ルネッサンス」で、この時代の暗部にもかなり解明の光が加えられた。

 15世紀末から17世紀末までにヨーロッパ全体で10万人近い犠牲者が出たと推定されている。フランスの北部から東部、現在のオランダ、ベルギー、スイス、ドイツなどが、魔女審問の事例が記録文書として比較的多く残る地域である。

魔女はなぜ多かったか
 さらに魔女審問の犠牲者の5分の4近くは女性だった。これには、ひとつには次のような理由が挙げられている。当時の女性が薬草などを使った民間療法などをしばしば行っていたことなどが疑われた。実害が少ないことから白魔術 white magic といわれることもある。こうした行為が正当な判断力を失った裁判官、エリートなどから、悪魔と契約を結んだ魔術師だとされてしまったこともあった。当時一般の人々の間に信じられていた魔女、魔術のイメージは、しばしば貪欲、享楽的、好色、執念深い、激情的、反理性的といったものだった。これらは聖職者やエリートたちも、さほど変わらず共有するものだった。

 16世紀ヨーロッパでは、地域や文化的環境などでかなり濃淡があったが、宗教改革の高まりを反映して、宗教的にも互いに非寛容であった。カトリック対プロテスタントの対立ばかりでなく、新旧それぞれの宗派間の勢力争いも激しかった。こうした混迷した状況は、魔女狩りが消滅しないような風土を生んでいた。その後、宗教的な情熱が冷却するにつれて、審問数も減衰していった。

 1970年代以降、魔術や魔女への関心は著しく高まり、研究の蓄積も進んだ。新たな視点から16-17世紀の魔女狩りの時代を見直してみることは、単なる歴史的興味に留まらず現代的関心からもきわめて興味深い。過去が時空を超えて語りかけるものに耳目を向けてみたい。彼らが住んだ不可解、不思議な社会は、ある意味では現代の鏡ともいえる。国民裁判員制度についての議論が高まっている今日、17世紀魔女審問をめぐる論争と、かなり重なっても見える。
(続く)  

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ロレーヌ魔女物語(2)

2009年01月16日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌの魔女騒ぎ  

 17世紀初め、1610年代から40年代にかけて、ロレーヌ公国の貴族、裁判官、聖職者などのエリートたちは、エリザベス・ドゥ・ランファング Elisabeth de Raingang という貴族出の未亡人によって引き起こされた事件に翻弄されていた。ランファングは、子供の頃から神がかったところがあり、親も手こずるほどであったらしい。その後、超能力を授かった聖女だと主張し、当時の名だたる神学者や法律家、教皇まで巻き込む騒ぎとなった。騒ぎの範囲は次第に拡大し、カトリックの宗派間の勢力争い、さらにプロテスタントまで加わる争いとなった。「ナンシー始まって以来のスキャンダル」と噂された出来事だった。当時の裁判官の多くは、悪魔学の学究をもって任じていた。3人の男女がさまざまな理由で悪魔の手先として訴えられ、告白もなしに、刑場へ送られてしまった。たとえば、くだんの医師も逮捕され、妖術を使い、ランファングに媚薬を盛ったとされ、1620年処刑された。 

 現代の世界でも似たような事件は起こっているのかもしれない。パレスチナ、イラクなどの事態を見ると、「不安の時代」を通り越して「恐怖の時代」に入っている。明らかに常軌を逸した状況としか言いようがない。そして、中東ばかりでか日本でも、異常な出来事が時々起きている。

 16世紀から17世紀、ヨーロッパのかなり多くの地域で、悪魔や魔女、魔男が、人をたぶらかし、さまざまな悪行を重ねたとされ、挙句のはては魔女裁判にかけられて、処刑されるという現象はこの時代を特徴づけた。フランス、そしてロレーヌ公国では16世紀、単なるローカルな出来事から国の裁判所を揺るがすような事件まで、魔術、魔女にかかわる騒ぎが起きた。

 魔術が広く人々の生活に浸透し、悪魔の侍女としての魔女狩りが流行したのは、ヨーロッパでは400年頃から1700年近くのきわめて長い年月にわたるともいわれている。しかし、その実態は文字通り複雑怪奇で、当時はいうまでもなく、今日でも十分解明されているわけではない。  

闇への恐れ
 人工の光に慣れてしまった現代人にとって、不安、恐怖などが充ちているような漆黒の闇の世界を実際に経験することは少ないだろう。仮に闇の空間があっても、先へ行けば光が見えることは分かっている。しかし、近世初期のヨーロッパ、とりわけロレーヌのような地域では、日没とともに始まる夜の闇は名状しがたい不安や恐ろしさで充ちていたにちがいない。度重なる戦争、悪疫などの惨禍は、それに拍車をかけただろう。そればかりか、世の中には当時の人智では分からないことも数多くあった。突如として襲ってくる天災、悪疫や外国の軍隊など、心配、不安の種は日常どこにもあった。特に、こうした災厄の犠牲になりがちな農民は、悪魔や超能力な魔物の存在を信じていたと思われる。

 こうした風土に乗じて、占星術を初めとする占い、呪術、魔術のたぐいが広く横行していた。さらに、それらを操る人間への畏怖、恐怖、疑心も渦巻いていた。とりわけ、夜の闇はそうした不安や恐怖を象徴するものだった。とりわけ、深い森は、闇夜には箒にまたがった魔女が集まり、怪しげな飲みものを飲み交わしたり、いかがわしい行為をし、悪行の相談をする場と考えられた。

 日没とともに、魔物や超霊性のなにかが支配する世界が訪れる。神秘的、超霊性的なものが感じられる深い森や闇に、当時の人々は名状しがたい茫漠とした不安や恐れを感じたのだろう。ラ・トゥールの作品を特徴づける深い闇と蝋燭や松明、そしてどこからともなく射している光は、当時の人々、そして画家の心象風景を語っている。

 魔術の横行は、教育の浸透・効果とも関連しているようだ。17世紀末フランスで、結婚の際に自分の名前が署名できたのは、男女合わせて5人に一人程度であったという。しかし、18世紀末になると3人に一人、ロレーヌなどでは男性のほとんどは署名できたようだ。しかし、魔術や魔女審問は少なくはなってもなかなか消滅しなかった。フランスでは人口の大部分を占めた農民の間では、魔術や魔女は執拗に存在していた。公的な場から魔術や魔女裁判がなくなったのは、ルイXIV世の下、1682年の新しい王令の発布によるものだった。魔術や魔術師の行為は、はじめて詐欺や欺瞞のたぐいとされることになった。

進んだ魔術・魔女研究
 他方、時代が経過し、近世初期ヨーロッパに見られた悪魔、魔女、魔術などの実態や背景については、その後かなり解明が進んだ。実際、1970年代以降、魔術、魔女研究は大変盛んになった。単に歴史研究ばかりではない。その範囲は、小説、劇作、映画、ファンタジーの領域にまで及んでいる。ハリー・ポッターの世界的人気もひとつの表れといってよいかもしれない。

 魔術を操る魔術師、魔女、魔男は、恐ろしい悪行の象徴から、未開社会に残る自然界を操り、プリミティブな価値を奉じる呪術師まで、今日においてもさまざまにその力を振るっている。魔術や呪術が世界から消えたわけではない。ヨーロッパ近世の魔術や魔術師と、今もアフリカなどに残る魔術や呪術の信奉者の間には、文化人類学などの観点からは、近接性が指摘されてもいる。

 未解明な部分は多いとはいえ、これまでの魔術、魔女研究の蓄積は膨大なものがある。多少、文献探索などをしてみると、その多さに圧倒される。魔女狩りは研究の世界でも人気テーマとなっている。それについては、1970年代以降、大量の歴史文献の発見、整備、解読が進んだことも挙げられる。たとえば、 ロレーヌ公国の公文書保管所には膨大な審問調書が保蔵されていた。今日のフランス、ナンシーの公文書館(departmental archives)である。 かつてのロレーヌ公国の首都ナンシーは、世界で最も充実した魔術、魔女審問の史料所蔵庫といわれるくらいになった。

 今から50年以上前、ローカルの史料研究家エティエンヌ・デルカンブルがこの史料を使って、600ページを越える著作を残している。そこでは、400近い魔女審問の事例が挙がられている。その後、ロレーヌに近接するドイツ語圏でも、いくつかの優れた研究が生まれた。魔術、魔女裁判はロレーヌ、フランスばかりでなく、イングランド、スコットランド、オランダ、ドイツなどでも見られた現象だが、それぞれ独特の特徴を帯びている。

身近かになった研究成果
 どうして、今頃魔術や魔女狩りなどに関心を持つのかと、思われよう。そうかもしれないのだが、正気な理由もある。近世ヨーロッパの探訪をしている中で、いくつかの興味深い文献、史料に出会った。そのひとつは、17世紀ロレーヌの魔女審問に関する史料が、研究者の努力で整理、分析され、興味を抱けば一般の人でもかなり知識を共有することができるようになったことを知った。

 もともと、この時代の史料は、ほとんどすべて手書きのフランス語などの古文書であり、文書館の埃の中に長い間眠っていた。その解読など、専門家にとっても難事である。気の遠くなるような仕事だ。それを行ったのは、公文書保管所などを拠点とする研究者であった。

 ロレーヌについても、デルカンブル、ブリッグスなどの歴史家たちの努力で、膨大でしかも雑多な審問事例が整理され、さらに最近では英語訳までされて、IT上で見ることができるまでなった。こうした研究の成果を少しだけ覗いてみようというのが、今回の記事の裏側だ。さて、どれだけ、17世紀のロレーヌの空気を感じることができるだろうか。(続く)




References
Etienne Delcambre. Le concept de la sorcellerie dans la duche de Lorraine au XVIe et au XVIIe siecle. Nancy, 1948-1951

Robin Briggs. Witches and Neighbours. 1996, 2nd ed., 2001.
______. The Witches of Lorraine. Oxford: Oxford University Press, 2007.

Briggs の上記の新著の理解を補うIT上のサイトが開設されている。主要な審問記録、手書きの文書の例などを見ることができる。
http://www.history.ox.ac.uk/staff/robinbriggs/index.html

# 後続の記事では、上記 Briggsの最新研究成果に多くを依存している。

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ロレーヌ魔女物語(1)

2009年01月12日 | ロレーヌ魔女物語




魔女が飛んでいた時代


 近世初期ヨーロッパ*、とりわけ17世紀前半のヨーロッパは興味が尽きない。文字通り波乱万丈、舞台装置も明暗入り混じり、華麗、壮大で見ごたえがある。中世と近世がいまだ交じり合うような混乱と複雑性が同時に存在している。奥が深く、知らずの内にのめりこむ。もう一回人生をやり直さないと、今関心のあることについても、十分知ることはできないだろう。本業としてきた仕事とはほとんど関係がない、いわば脇道に入った趣味の領域なのだが、興味が尽きない。調べてみたい課題が次々と湧き上がってくる。残された人生の時間に、どれだけ時空を超えた旅をすることができるだろうか。

 なかでも、ロレーヌあるいはアルザス・ロレーヌと呼ばれる地域。これまでも断片的に取り上げてきたが、400年近い時空を超越して、目の前に迫ってくる。

ヨーロッパの中心に近く 
 ロレーヌあるいはアルザス・ロレーヌは、ヨーロッパの地図を見ると分かるが、ほとんど中央といってよいところに位置している。現在のフランスの北東部、「聖なる6角形」といわれる右上端の部分を占めている。その戦略的位置からも、ドイツとフランスなど列強の間でしばしば争奪の的となっていた。そのこと自体は、この地域がヨーロッパでの覇権を狙うものにとって大変魅力ある存在であることの裏返しともいえる。

 他方、同じ17世紀ヨーロッパでも、レンブラントやフェルメールが活動していた当時の先進地域ネーデルラント(オランダ)と、後進地域であったロレーヌでは、政治、経済、文化などあらゆる条件がきわめて異なっていた。距離的にはさほど離れた地域ではないが、交通手段が発達していなかった時代では、格段の差異があった。

 今日、ロレーヌの地域を旅してみると、中世から第二次大戦まで幾度となく繰り返された戦いの跡を伝える要塞、塹壕、戦車、高射砲などが残されている町や村があり、その傷跡の深さを十分知ることができる。ロレーヌは豊富な天然資源を擁しながらも、ながらく平和には恵まれなかった。今日訪れると、町や村には静かな日常の生活が営まれているのだが、どことなくかつての荒廃した時代の雰囲気を今日も留めているようなところがある。
 
ひとりの画家との出会い
 ロレーヌにのめりこむきっかけになったのは、このブログの出発点のひとつとなったジョルジュ・ド・ラ・トゥールという一人の画家と作品への関心にあった。異国の地でふと目にした、名前も知らなかった画家の作品に強い衝撃を受けた。その作品に含まれた深い精神性に、この謎めいた画家の生涯とその時代へと惹かれた。

 その後、この画家の生まれ育ったヴィック=シュル=セイユという小さな町を訪れてみた。今日でも17世紀の雰囲気を漂わす町並みが残っている。昼でもほとんど人の姿を見ないほど静かな町だ。いや静かというより、時間が止まった町といったほうが適切かもしれない。グローバル化の大波からもすっかり取り残された岩陰の空間のようだ。

 静まりかえった町の周囲には、起伏のあるなだらかな土地に、森や林、畑地が広がり、その間を川が流れ、小さな町や村が散在している。景観としてもさほど強い印象を与える所ではない。

 何度か、この地を訪れてみて印象的なことは、その特有の風土だ。大都市は少なく、日没とともにあたり一面漆黒の深い闇の世界が広がる。それはラ・トゥールの時代とほとんど変わりない。人々の住む家々や衣服は、時代とともに移り変わったが、その生活の基底には、遠い昔の名残りをさまざまにとどめているようだ。

魔女がいた頃
 近世初期というと、なにか前方が開けるような印象を抱きがちだが、この地の辿った歴史は、それとは違った空気を感じさせる。ラ・トゥールが生きた17世紀前半のころは、まだ闇夜を魔女が飛び交っていた時代だった。事実、16世紀からルイXIVの時代は「魔女の時代」でもあった。

 さらに2世紀ほど遡ると、ロレーヌはあのジャンヌ・ダルクが生まれ、その華々しくも短い生涯を終えた地域でもある。ジャンヌは1412年にドンレミ・グリュというナンシーに近い小さな村に生まれている。彼女が神の声を受けたいきさつ、そしてその後の波乱万丈の展開、そしてジャンヌを裁いた異端審問、焚刑への道は、論理では説明できない。信仰、呪術、不合理、神秘、恐怖、残酷、救済、混迷、あらゆるものがそこにあった。


 17世紀前半のロレーヌは、この混然とした中世的風土のかなりの部分を受け継いでいた。魔女裁判はヨーロッパの全域でみられたわけではない。特定の地域で頻発していた。ロレーヌは魔女迫害の狂騒が多く見られた地域のひとつだった。ヨーロッパで魔女迫害に巻き込まれたのはかなり広範に及ぶが、とりわけ目立つのはロレーヌの他、フランス東部のフランシュ=コンテ、ピレネー、ラングドック、アルプスなどの地域だった。

 この時代の暗い部分は魔女裁判に象徴的に見ることができる。ロレーヌは、この時代でも魔女裁判が行われていた。近世初期は、科学が生まれ育った時代でもあった。この合理と非合理という時代の空気は、いかに抗い、せめぎ合っていたか。宗教改革、30年戦争、商業革命、植民地化と略奪など、大きな嵐が吹きまくっていた時代だ。

 この困難な時代に生まれ、生きたひとりの画家がなにを考えていたのか。そのほとんどは闇に包まれている。しかし、その奥に分け入らないかぎり、ラ・トゥールが描く闇、そこに射すかすかな光の世界を真に感じることはできない。作品だけから画家が描こうとしたものを読み取ることは、この画家についてはとりわけ困難だ。

 しかしながら、その時代環境は少しずつではあるが、解明されてきた。たとえば近年の魔術、魔女研究が、この時代のロレーヌに新たな光を当てている。少しばかり、その世界を覗いてみたい。
(続く)


*  ここでは近世ヨーロッパとは、大体1500年から1800年くらいまでの時代を念頭に置いている。近世初期は大体17世紀前半くらいまでの頃であり、ラ・トゥールやレンブラント、フェルメールなどの活躍した時代とほぼ重なる。
   

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