時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

医師の世界の近未来:社会的公正をいかに維持するか

2018年08月28日 | 特別トピックス

公正な選考とは:「ブラック・ボックス」の世界にメスは入るか


このたびの医科大学における入試選考をめぐる不正は、他の領域でも指摘されてきた日本における男女格差形成の格好な事例として、世界中に広く報道された。ブログ筆者も一部のメディア記事を目にしたにすぎないが、なかにはかなり偏った報道もあった。当該大学名をそのまま外国語訳すると、事情を知らない外国人には、東京大学医学部との誤解を与えかねないのだが、外国メディアがセンセーショナルに取り上げるには都合のよいテーマとなった。他方、日本人の間でも必ずしも認識されていない深刻な問題も浮上した。

 今回日本で問題化した事例では、最初の入学者段階で一律に女子に不利な係数を乗じ、特定の男子には有利な加点措置を講じるというあからさまな差別的行為が働いたようだ。その主目的は背後にある男性医師の優位を維持するという隠された動機にあったとみられる。しかも、類似の行為は過去数年に渡って実施されたようであり、かなり明白な差別的意図が継続して存在したことを推定させる。今回の案件では、差別の行為主体(差別者)が誰であるかは、いずれ明らかになると思われるが、多くの場合、事案の性質からして特定化することはかなり難しい。


この問題の核心は、日本社会に根強い男女格差と、それを生み出し固定化する差別意識の存在だった。日本の医師でも数は少ないが女性の医師(通称、女医)が活動していることは、戦後の社会ではある時期から知られてきた。それにもかかわらず、医師は概して”男性の職業”という意識は、日本人の間ではかなり広範に存在していたのではないかと思われる。その証拠に「男医」とはいわない。この事件がなかったら、この医学部応募者の性別に関わる差別的決定については、そのまま見過ごされていた問題であった。多くの人々は将来の医師の教育・養成のための選考過程に、こうした差別的行為が働いているとは考えても見なかったのではないだろうか。


さらに、重要なことは、今回の日本の事件を大きく伝えた海外のメディアの中には、自国においても医学界で男女差別が執拗に存在し、現在でも存在することを報じているものがあったことだ。「差別」という事象を解明し、改善することの困難さを示している。日本の場合は性別格差がきわめて大きく、国際比較の観点からも、改善度の低い国にランクされてきた。

こうした状況で、医師は他の職業に比較して、高い報酬、社会的ステイタスなどが得られる専門的職業として参入の壁が高く、「占有」されてきたことを指摘できる。世の中の職業を性別比で分類すると、相対的に男子比率の高い職業、女子比率の高い職業が存在することは知られてきた。医師は「男子の職業」として暗黙裡に認識されてきた。一国の医療行政の観点からも、将来の医師のあり方に関わり、医学部の入学定員の決定自体、政策上の重要な論点となってきた。同様な例として、きわめて非生産的な結果を招いた司法試験制度改革をあげることができる。長期的に「男性の職業」といわれてきた分野への女性の参入が増加するにつれて、男性による「占有」が徐々に崩れ、他の職業との比較において、労働時間、報酬水準などに示される労働環境も厳しさを増すことは避けがたい。

この事件を契機に「公正な選考」とは、いかにあるべきかとの議論が進むことを期待したい。すでに2次試験として面接などを導入している大学で、女子の合格率が男子より低位にあることが指摘されており、こうした試験制度がいかなる役割を果たしてきたか、解明が求められることになろう。その実態にどれだけメスが入れられるか注目したい。

類似の問題は、かつて男女雇用機会均等法成立当時に指摘されていたが、その含意を理解した人々は少なかった。採用試験などの際に行われる質疑の内容に関わっている。なぜ、女子学生だけが面接試験などで、将来の結婚、育児、転勤、職業継続などについて質問を受けていたのか。これらの点から推定しうるように、医学部に象徴される教育や職業の入り口にある選考の過程は、かなりの「ブラック・ボックス」の世界なのだ。

今日、遅まきながら問われているのは「公正な選考」とはいかなるものであるべきかという困難な課題だ。選考のプロセスの公正化、透明化をいかなる形で実現するか。これを大学学内や病院内部を含む社会的次元で議論することは、かなりの困難を伴うことはブログ筆者もある程度認知している。筆者の知る限り、欧米の大学などでも、学部などの創設者、(巨額な寄付などによる)貢献者の子弟などに、通常の入学選考条件とは異なる優遇措置が付与されることがあることも聞き知っている。これらの問題を含めて「公正な選考」に必要な条件とは何か。改めて考える時かもしれない。

思考力を奪う酷暑の摂氏32度の世界に耐えかねて、16度の世界へしばらく移っていた。台風一過、爽秋の空が戻った時、将来この国を担う人々のために何がなされるべきか。冷静な議論が始まることを期待したい。



References

“Think sexism in medicine is unique to Japan? Think again” by Van Badham, The Guardian, 13 August 2018
「医学部入試の合格率:女子、7割強で男子を下回る:2次試験、影響大きく」『日本経済新聞』2018年3月27日「男子合格率女子1.2倍:医学部に文科省が81大学で過去6年調査」『朝日新聞」2018年9月5日
桑原靖夫「企業の人事政策はどう変わったか」『雇用均等時代の経営と労働』(花見忠・篠塚英子編) 東洋経済新報社、1987年



 

*2018年9月4日、端末入力の不具合による重複部分など、一部に削除修正をいたしました。

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医師は「男性の職業」ではない

2018年08月14日 | 特別トピックス

 

Mary Roth Walsh, Doctors Wanted: No Women Need Apply: Sexual Barriers in the Medical Profession, 1835-1975, New Heaven: Yale University Press, 1978, cover
M,R, ウオルシュ『医師募集:女性応募の要なし:1835-1975:医師の世界の性別障壁 』表紙


医学部・医科大学への進学は、最近ブームのような状況を呈している。先が見えないこの時代、医師は高度な専門的技能を持ち、高い報酬も期待できる安定的な職業として、若い人々の目には魅力的に映るのだろうか。もちろん、その動機は様々な病に悩む人々に救いの手を差し伸べたいとの人道的な理想に支えられていると思いたい。しかし、現実はそうした高い理想に応えるものだろうか。

このたびの東京医科大学の入試における、(1)許認可権限を持つ官公庁の一部官僚子弟(受験生)への特別な配慮要請と、それに対する大学側の不当な加点、(2)さらに、一般の女子受験者に対する合理的、説得的な理由のない差別的減点という事実が暴露されたことを知って、しばらく言葉を失っていた。多くの海外メディアも、このニュースを’衝撃的’と伝えた。

*例えば、’Toxic test-doctoring’ The Economist, August 11th 2018


およそあってはならないこと、とりわけ上級官僚といわれる人々が関与しているという事実には、深い失望と怒りを抱いた。大多数の公務員は、今では「公僕」public servantとは言わないまでも国民のために日夜、真摯に努力されていると思っている。だが。一部官僚が保身、地位確保などの私利私欲のため、あるいは自らが所属する組織の歪んだ政策を維持するために、研究者などにも不当な圧力を加えるなどの事例は、これまでの人生で、ブログ筆者も見聞・体験してきた。論点が多いので、今回はこのたびの医学部入試に関わる男女性差別問題に焦点を絞ろう。


改革の難しい医学界と是正への長い道程
実は今回の医学部入学に関わる性差別の問題は、アメリカやヨーロッパのいくつかの国で、はるか以前から問題になってきた。医師という職業は長年にわたり「男性の職業」と考えられてきた。社会的レスペクトも高く、報酬もよい職業の代表とされたのだろう。ハーヴァードのような名門校医学部でも、最初は男子の応募しか認めていなかった。女子の応募を認める大学でも関係者だけに秘匿される「10%ルール」など暗黙の差別的方針を少数の意志決定者が密かに維持してきた。こうした状況はアメリカでも20世紀後半まで長期にわたり存続した。例えば、20世紀初め、全米の医師約7000人の中で女性医師の比率は5%程度にすぎなかった。女子の高まる医師就業への願いに応えるために、20世紀末までには19の女子医師専門大学、9病院が設置されたが、医師の世界は依然男子中心で、彼らの職業的優位を維持するという高い壁は壊せなかった。

*ちなみに、アメリカで初めて女子 エリザベス・ブラックウエルが医学部に入学を認められたのは、1847年ニューヨークのGeneva Medical College であったとされる。


長い歴史を持つ医学生合否の実態解明

かねて労働や教育の場における「差別」や「平等」という問題に関心を抱いてきたブログ筆者は、40年ほど前に、この問題を分析したM.R. ウオルシュの名著#(上掲)を書評の形で紹介したが、医師の友人を含め、日本での関係者の関心は低かった。山積する研究の中で、ウオルシュの研究はバランスのとれた優れた研究であり、統計も当時としてはよく整理されていると高い評価が与えられていた。彼女は長い年月にわたり、医師が「高いステータスの職業」”high status occupation” として維持されてきた仕組みを明らかにしている。当時、医師は暗黙裡に男子が占有する職業と考えられていた。

*同じ問題を対象とした分析が多数、この時期に、刊行されていることは、この問題がアメリカにおいて大きな問題として認識されつつあったことを示している。例えば、
Elizabeth C. Patterson, Doctors Wanted: No Women Need Apply and the Hidden Malpractice, Scientist, vol.66, No.4, July-August 1978.


その後社会的圧力の高まりもあって、事態改善のため、名門校の多いボストン地域での1850年から1900年における医学分野での女性の進出に貢献したのは「(女権拡張運動という意味での)フェミニズムが、決定的な変数」であったことをウオルシュは認めている。こうした運動も影響して、その後広く支持されるようになった (1) 女性を医学分野から排除していた様々な教育上の障害と医師の認可に関わる法律など制度面の制約が撤廃されたこと、(2) 女性自身が医学分野でのキャリア追求を自発的に控えることが少なくなった、という点を評価している。それでも、20世紀には「(大学などの)医学関連機関は女性の医師の比率を意図して最小限に抑えることに影響力を傾注し、成功を収めた・・・。結果として、数少ない女性の医師は医学関連分野でいかなる影響力も発揮できなかった」と結論づけている。

 

男子を上回るまでになった女子医学部入学者:アメリカ
女性の置かれた不利な立場を改善しようと、1979年には女性権利行動連盟 Women’s Equity Action League が医科大学、大学医学部への集団訴訟を起こし、結果として、女性の医学界進出への大きな貢献をしている。女性の医学部・医科大学への入学率(matriculations) は、男女比で1950年には5.5%にすぎなかったが、その後急速に上昇し、昨年2017年には男子を上回り50.7% (21, 338人) になったと推定されている。医師を志願する女子の数は顕著に延びている。他方、今日では医師のみならず、医療関連技師、看護師、介護士などを含めると、医療分野は圧倒的に’女性の職業分野’になったとまでいわれている(Source:AAPA Annual Survey Report)。

こうしたアメリカの状況と比較すると、今回図らずも多くの人の注目を集めるに至った東京医大の入試で、女子、3浪以上の受験者に対する一律減点を行ったとされる事実は、その通りとすれば明らかに不当な行為であり、合理的、説得的な理由がない「明白な差別」overt disctimination といえる。

これまでの日本の国公立・私立の医学部の入試における合格者の男女比率を見る限り、一部の大学で、女子応募者への差別が存在した疑いは払拭し難い。しかし、今回の事案に止まらず、入学審査の過程における差別の有無の検証は、きわめて難しく、アンケート調査のような形では確認しがたい。最終的な合否を定めた原資料と最終意思決定者の判断内容の聴取が最低限必要になる。こうした差別的行為はしばしば明示されることなく、最終意思決定者の頭脳の中に留まり、入試要項などにも記されないことが多いからである。これは海外での多数の事例、訴訟判例などですでに明らかにされている。

医学部入学者の性別比を考えるに際しての留意点
ここで、日本の医学部・医科大への入学応募者採否の合理性を判定する上で留意すべき点をランダムに挙げてみたい:

1) 日本における女子の医学部・医科大学志願者も西欧諸国と比較すると大変遅れてはいるが、傾向的に増加してきた。

ちなみに、近代日本で最初の女性医師としての国家資格(医業資格) を得たのは、荻野吟子(1851ー1913)と言われる。1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格。同年5月、 湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して 15年が経過していた。

こうした先駆者の努力の延長として、今日医師を志望する女子の数は次第に増加してきた。国公私立の大学間でかなり差異はあるが、概して合格者数全体のおよそ20-35%程度の女子比率となっている。

*吉岡彌生(1871-1959) 女史の創設になる現東京女子医科大学(女子のみ) 、東京大学(類別)など、特別の目的や構成を持つ大学もあり、同一の扱いはできない。

年ごとの男女性別比率の変動は別として、女子応募者の中長期的傾向から数値が統計的に有意でなく離反している場合は、その原因について特別の説明が必要となる。

2) 一部には、有名大学の医学部進学コースに合格することだけが目的になり、将来医師としての適性が疑われる学生が増加する事態も指摘されている。また、開業医の子弟が親の地盤継承・維持のため、自分の職業観が十分定まらないままに医学部を受験する例も多いといわれる。こうした状況を反映して、近年通常の筆記試験に加えて、論文試験や面接を導入するようになった大学も増加したようだ。一般に面接結果は合否に影響しないとするところが多いが、審査プロセスが公表されないので、本当のところは分からない。

医学部・医科大学における合否決定の中心となるいわゆるペーパーテストといわれる筆記試験では、平均的に女子が男子を上回ることが多いとされる。これも大学によって異なり一般化は現時点では難しい。この点の検証も必要だが、近年、若年層における女性医師は増加しており、医学部入学者に占める女子比率は約3割と推定されている。どうしても医師の道を選びたい女子は、女子比率が相対的に高く、選考に関わる情報を秘匿せずに公開している大学を選択することもよいかもしれない。

3) 今回の事例では、女子は入学後、結婚、出産などで退学、中途休学などで、医師不足の原因になるとの説明がなされている。しかし、産休、保育施設など教育、実務の過程での対応も進んでおり、これも直ちに男女の入学者数に差をつける合理的な理由とはみなし難い。女子入学者を増加するという対応の方が合理的という反論もありえよう。前掲のThe Economist 誌は、問題の根源は妊娠、出産、育児などの状態にある女性の労働環境そして対応が劣悪だから脱落者が多いと厳しく指摘する。

4) 一部専門分野への偏在
日本でもアメリカでも、皮膚科や眼科、耳鼻咽喉科、小児科、産婦人科、麻酔科といった診療科では女性医師の占める割合は高いが、外科や脳神経外科などの診療科では、非常に低いことが知られている。これらは分かりやすい例に過ぎない。実際には医学の専門化は、医師自身の想像を絶するほど専門化・分化している。こうした専門分野ごとの男女別偏在を理由に女子入学者の数を制限することは説得的でも合理的でもない。アメリカでも過度な専門化を是正し、より広範な領域をカヴァーする再編が必要との見解も出されている。入学前後の教育や医療技術の進歩などの力で、少しでも偏在を改善する努力が必要という。

図らずも、ブログの次元を逸脱するような問題に気づかされることになった。今回の不幸な出来事が、将来に向けての大きな改善の契機となることを祈りたい。現代の医療は多くの男女の専門家、エクスパートの協力なしに成り立たないことは誰も否定できないのだから。



References
*書評(桑原靖夫):M.R.ウォルシュ著『医師募集ー医療における性別障壁:1835-1975年』『日本労働協会雑誌」20(12)、1978年12月、pp.62-66
桑原靖夫「差別の経済分析」『日本労働協会雑誌』nos.235-236, 1978年10-11月
桑原靖夫「性差別経済理論の展望」『季刊現代経済』(日本経済新聞社)1980年

 

 

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怪獣ビヒモスを追いかけて(7): 牧歌的時代の終わり

2018年08月06日 | 怪獣ヒモスを追って

 

繊維工場で働く女性たち:牧歌的時代


現代の資本主義が、デジタル・キャピタリズム、ITキャピタリズムなどと言われるようになっても、世界的規模でみれば製造業、とりわけ、大工場、怪獣ビヒモスは、したたかに生きている。産業の盛衰は激しいが、繊維衣服産業は産業革命以降、戦略的産業として、開発途上国を中心に一貫して重要な役割を果たしている。

近年話題となっているのは、中国勢の拡大だろうか。イタリアの繊維産業の中核であったプラトーは、ブログ筆者も訪れているが、今や完全に中国資本、そして労働者までも中国人になっている。産地表示だけはメード・イン・イタリーという妙な状況が生まれている。かつてのイタリア資本による企業との大きな違いは、中国企業が布からファッションの分野まで統合していることだろう。別の例は、やはり中国勢によるカンボジア、ヴェトナムなどでの拡大だろうか。いずれも中国本土よりも労務費の安い地域への進出と考えられる。


アメリカ、ロードアイランド州ポータケットのスレイター・シスムが衰退し始めた19世紀始めころ、ニューイングランド、マサチューセッツ州ウオルサム近傍に新たな大規模工場が生まれていた。企業の設立は当時の資本家兼起業家でもあったボストン・アソシエーツ Boston Associates によるものだった。

 

ニューイングランドの繊維工場の立地:水力を動力としたため大きな川に沿って分布していた。


それまでの工場が紡糸過程だけにとどまっていたのに対して、ウオルサム・システムと呼ばれた工場は原綿の紡糸、織布、染色、裁断などの過程を縦に統合(vertical integration)し、「綿糸から布」cotton-to-cloth と言われる、ひとつの企業内に最終製品までを包括する一連の製造過程を全て収めた当時としては革新的な工場体系だった。

そこで働く労働者は’mill girls’と呼ばれた近隣の町からやってきた若い女性たちだった。彼女たちのために建設された宿舎では厳しい門限があり、生活面でもモラル・コードを遵守するよう配慮していた。さまざまな情操教育も試みられた。そのため、娘たちを送り出す親たちにとっても安心できる場所であり、年限を終えて帰郷した女性たちは、教育を受け、しつけの良い子女として、結婚などでも一目おかれる存在であった。資本主義的な工場発展過程の”牧歌的時代”である。

その後、ウオルサム・システムはさらに展開を遂げる、フランシス・キャボット・ローウエルという起業家たちが手がけた事業だが、繊維産業の発祥の地イギリス、ランカシャーにおける苛酷な労働条件を持ちこんだ。週80時間労働、週6日の工場労働であり、寄宿舎の生活は早朝4:40分の起床、5時から働き始め、7時に朝食後、昼まで働き、30-45分の昼食時間を挟んで7時まで働いた。しかし、彼女たちが受け取る賃金は、当時女性に開かれていた家事手伝い、教師などの職業で得られる水準を上回っていた。さらに、この頃には現金で賃金が支払われた。ほとんどの農家は現金をわずかしか所有していなかったので、これは大きなメリットだった。牧歌的な時代といっても、労働条件や生活環境はこの程度であったのだ。

b1826年、およそ2,000人が居住することになった地は、1817年に亡くなったフランシス・キャボット・ローウエルの名を記念してローウエル Lowell と命名された。さらに20年が経過すると、人口およそ30,000人の都市にまで発展した。10社の大きな繊維企業が生まれ、12,000人の労働者(ほとんど女性)が働いていた。しかし、この地の繁栄も長くは続かなかった。新たな転機が迫っていた。


2014年に改行したカンボジャの工業団地「ボンレミー」は約160ヘクタールの敷地があり、中国や韓国の11の企業が建設中といわれる。「飢餓の國 服飾工場に変えた」「朝日新聞』2018年7月29日

Pietra Rivoli. The Travels of a T-shirt in the Global Economy, 2005 
ピエトラ・リボリ 雨宮寛+今井章子訳『あなたのTシャツはどこから来たのか?』東洋経済新報社、2007年

続く

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