時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

中東式格差解消?法

2010年01月28日 | グローバル化の断面

 ドバイ・ショックがリーマン・ショックのごとき世界経済への決定的な大衝撃にいたらず、多くの人々がほっとしたのではないか。といっても、問題が完全に解決したわけではない。関連して読んだ記事*の中から、このブログのテーマに関連する話題をひとつ。

 ドバイ危機の騒ぎの中であまり話題にはならなかったが、この国に世界最高のビルと誇示するブルジュ・ハリファBurj Khalifaが竣工した。公称168階建て、最高828メートルの超高層ビルだ。これまで順風満帆であるかにみえたドバイ経済が急発展した中から生まれた大胆な建造物だ。ドバイ・ショックの洗礼を受けた後では、なにやら「砂上の楼閣」の感も禁じ得ない。  

 注目すべきことは、この建物がほとんどすべて外国人によって企画、建造されたことだ。アメリカ企業が設計し、施工、管理は韓国、ベルギー、日本などの外国企業が行い、もっとも時間と労力を要する土木工事は東南アジアを中心とする外国人出稼ぎ労働者が担った。 関与した労働者の国籍は100カ国を越えた。

 実際、アラブ首長国連邦の労働力の90%は外国人だ。カタール、クエートでは80%以上である。サウジアラビアのように2200万人近い自国民を擁する国であっても、同国の仕事の半数近くは外国人が担っている。しかし、彼ら外国人はこの国に住むことを認められていない。仕事が終われば、直ちに国へ帰るしかない。生産工程に投入される原材料のように、融通無碍に増減されるフローの労働力として位置づけられている。  

 他方、公務員に代表される高給で安定した仕事の機会は、ローカルの自国民にしか開放されない。彼らは事業や景気の後退時にも解雇されることがない、いわばストック労働力だ。経営管理者層や中間管理職層などの仕事は、UAEの自国民、下級技能の事務や肉体労働は、ほとんどすべて低賃金・フロー型の外国人労働者によって担われている。両者の間には賃金など労働条件でみても、「超絶格差社会」ともいうべき実態が存在する。

 湾岸諸国の多くは、概してマクロ経済的には豊かだ。しかし、この豊かさはその反面で、無気力、無関心、退廃、安逸に流れるなどの後退現象を引き起こす。自分がこの世界でなにをなすべきか、なにができるかを見出すことができず、無為、無気力に日々を過ごしている若者たちが増えている。彼らは低賃金の民間雇用の機会には就こうとしない。やむなく、そうした仕事は出稼ぎ外国人労働者にゆだねられている。自国民でありながら、積極的に生きるインセンティブを見出せない人たちの増加に、国の指導者たちのいらだちはつのる。なんとなく、日本の現実に通じるところもある。

 こうした湾岸諸国の物質的には恵まれた豊かな国民と、貧しい出稼ぎ外国人の実態を、「マリアナ海溝」にたとえる人もいる。社会が別の社会のように、深く断絶、分け隔てられているという意味だ。近年、UAE政府は、「首長国化」Emiratisation あるいは「サウジ化」Saudisationというのスローガンの下に、企業に割り当て制で自国民を優先雇用するように勧めている。さらに、UAEとサウジは、景気後退時には外国人を最初に解雇するように指示してもいる。ローカル優先策である。

 こうした状況で、バーレーンの採用した政策に湾岸諸国の注目が集まっている。バーレーンも民間部門の仕事の80%近くを外国人労働者に頼っている。 しかし、政府は外国人労働者の雇用を抑制する反面で、ローカルな自国民をより雇用しやすい状況を生み出すことを意図している。豊かな社会に取り残された無気力な若い労働者の雇用機会の創出だ。

 この目的のために、2008年7月以降、バーレーン政府は、外国人の労働ヴィザの発給について、企業に対し外国人一人当たり200ディナール(530ドル)の費用支払いを、さらに外国人従業員一人当たり、毎月10ディナールの課金支払いを求めている。外国人労働者を雇用するコストを高めて、ローカルな国内労働者に目を向けさせようとする考えだ。

 しかし、バーレーンの経営者たちはこうした課金を払っても、外国人労働者を雇用することをやめられないでいる。 バーレーンはその後、外国人労働者への課金を増やし、年間9百万ディナールが課金収入として入ってきた。その80%は「タムキーン」(Tamkeen バーレーン企業と労働者の生産性改善のための機関)へ、安いローンと訓練費用負担という形で注入される。19,000人のスキルを持たないバーレーン人労働者を訓練し、データ入力の仕事、新聞配達などの仕事を与えようとしている。 言い換えると、外国人労働者を雇用することを課金によってコストが高いものとし、得られた課金を原資に自国民労働者の雇用改善を図ろうとする政策だ。

  安い労働力の存在は訓練、技術への投資を妨げていると、バーレーンの労働大臣は述べる。「だから生産性は低く、賃金も低い。そのため民間部門はバーレーン人にとって魅力がないものとなる。バーレーンはローカルな人々が期待する高い賃金にふさわしい労働力を養成したい。」

 合理的な考えのように見えるかもしれない。しかし、どこかおかしい。いくつかのことが考えられる。最大の問題は、バーレーンに代表される湾岸諸国は、外国人労働者の力と才能を十分に取り入れない限り、発展はありえないということだ。彼らの存在を必要悪のように考え、「2級市民」として固定化する政策に固執するかぎり、望む成果は得られない。

 外国人労働者の受け入れを国民的議論の対象とすることなく、先延ばしにしている日本とは、大きく異なると思われるかもしれない。しかし、この問題、よく考えると、日本の格差縮小政策についても、大きな示唆を含んでいる。


バーレーン労働者と外国人労働者の労働コスト
民間部門 (通貨単位:バーレーン・ディナール)

 

 

 

References  
  * "Briging the gap" The Economist  2010


 中東湾岸諸国の労働実態は、日本ではあまり知られていない。下記の新著は出版時とドバイ金融危機が運悪く重なってしまって大変残念だが、中東を代表するドバイの実態を深く解明した労作だ。ご関心のある方々にぜひお勧めしたい。

佐野陽子『ドバイのまちづくり』慶応義塾大学出版会、2009年

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女性の潜在力に期待

2010年01月23日 | 労働の新次元

Cover “We did it!”  The Economist January 2nd 2010.



 ある日の病院の光景。廊下を通る医師の中で女医さんが随分多いことに気づく。そういえば、時々お世話になっている歯科、眼科、皮膚科の先生、そして定期的に診察を受けている病院内科ティームにも女医さんが加わった。皆さん、真摯に対応していただいており、いつも感謝している。


 アメリカの大学医学部入学者の女子比率は、
2009年に50%を越えたようだ(正確に調べたことはないが、日本は3割くらいだろうか)。アメリカ、EU諸国の多くでは大学生の比率でも、すでに女子が男子を上回っている。医師、看護師、医療技術者、薬剤師などを併せると、医療は「女性の職業」になりつつあるとメディアは伝えている。

 さらに、
200910月にはアメリカの労働力のほぼ半数(49.9)を、女性が占めるまでになった。女性の大統領は今回生まれなかったとはいえ、労働力においても「女性優位の時代」が実現しつつある

 女性医師あるいは科学者などの比率が大きく伸張したのは、自然科学に関する教育的効果が女性の間に深く浸透し、女性の意識を変化させるに大きな役割を果たしてきたことがあげられている。教育や社会などの支援効果がきわめて大きいと思われる。欧米諸国では、政治分野でのサッチャー首相やクリントン国務長官の活躍なども大きな影響を与えてきた。高等教育の拡大は雇用市場におけるロール(役割)・モデルの意義を広め、家庭で主婦としてとどまるよりは成功する職業人を目指す女性が増加した。今日のアメリカでは大学教育を受けた女性の80%が労働力化しており、高等学校卒業者の67%、義務教育だけの終了者の47%を大きく上回っている。

 アメリカの女性医師の比率がほぼ男女と肩を並べるに至ったとはいえ、全体の数だけであり、医師の専攻偏在などについては、未解決な大きな問題が残っている。アメリカでは、男性中心の医師会などがその特権的地位を守るために、有名大学医学部の入学者定員や男女比の選定にさまざまな圧力をかけ、教授による入学者選考委員会が「10%ルール」などといわれる、文書に記録されない、暗黙の規制を行ってきたこともあった。

 そうしたことを考えると、これでも想像を絶する変化だ。しかし、歴代アメリカ医師会会長の男女比は男子161:女子2というような数値をみると、真の男女平等はこの国でも依然としてかなり大変なのだということを感じさせる。大企業の経営者層についてみても、女性の比率はきわめて低い。

 女性の社会進出にかかわる変化は、各国間でかなり異なっている。最も遅れているのはアラブ諸国だが、先進国でも日本やイタリアなど南ヨーロッパのいくつかの国では、労働力に占める女性の比率が低いことが指摘されている。たとえば、日本では2007年時点で、雇用者における男女比率は、男子57対女子43であり、賃金水準にも大きな男女格差が存在する。アメリカやEUの中進国と比較すると大きく見劣りする。日本は先進国の中でも、女性の潜在力の開発が最も遅れている国とみなされている。

 世界レベルでみると先進国労働市場は明らかに女性優位の時代へと転換している。ヨーロッパでは、女性は2000年以降に作り出された仕事800万のうち6百万を占めている。失業率も女性の8.6%に対して男性は11.2%である。

 さまざまな仕組みが女性の社会進出を支えてきた。たとえば、IT技術の発達もあって、女性が実際にオフィスに通わなくとも、家庭で働くこともある程度可能となった。それでもきわめて多くの家庭が保育施設などの不足、労働時間制度の硬直性に悩んでいる。しかし、いまや彼女たちの力を開発、それに期待することなしに、この国の将来はないのだ。男子はすでに大多数が労働力化しており、これ以上の上昇に大きな期待はできない。人口減少がもたらす労働力、そして活力の減少を補う方策は限られている。

 今日、実施に移されつつある少子化対策は、はたしてどれだけ実効性があるかという点で疑問符がつくが、現実が一歩でも進まないかぎりこの国に明るい未来はない。出産、育児を行いながら、後顧の憂い無く仕事につけるよう、一層の環境整備が必要だ。政権が交代しても、議論は目先のことに忙殺されており、将来への見通しはほとんど見えてこない。日本の人的資源で、活用が最も遅れているのが女性と外国人(移民)労働者であることを、再度想起したい。 

 

References
“We did it!”  The Economist January 2nd 2010 
Mary Roth Walsh. Doctors wanted, no women need apply, sexual barriers in the medical profession, 1835-1975, Yale University Press, PB 1977.

 

 

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人生の一枚:チョン・キョンファ

2010年01月18日 | 午後のティールーム

新春に聴く

 いつの頃からか仕事をしながら、BGMを聴いているという習癖が身についてしまった。これまでの人生で、今ではあまり考えたくもないような仕事にかかわり、常軌を逸した環境と戦わねばならない時期があった。狭い世界にしか生きていない人間の偏狭さ、愚鈍さ、不合理、偏見などがもたらすマイナスの事象が澱のように積み重なってくると、ストレスが高まる。とりわけ、自ら好きでもない管理職を長らく続けていた時は、オフィスにCDカセットを持ち込んで会議の合間に聴いていた。

 以前に記したリパッティのショパンなどもそうした折に頻繁に出動するのだが、同様に登場回数が多かったのは、ヴァイオリンのチョン・キョンファ Chung Kyung-wha だ。この人のヴァイオリンは天上の音楽のように聞こえる。といっても珠玉の如く玲瓏、清涼、クリスタル、というのではない。

 彼女の芸術家人生における苦悩が生み出した、音に込められたすさまじいばかりの情熱と豊かな感情が、紡ぎ出される音に強靱な張りと実質さを与えている。デビュー当時、かつてはたよりなかったような細身の韓国天才少女もすでに60年近い風雪に耐えた大芸術家となり、ジャケットにみるように風格のある容貌となった。若い頃には想像を絶する苦難の時代を経験したようだ。その間、私も公私の仕事にかかわり、彼女の国の友人も多かったのだが、日韓という難しい歴史の関係を越えてわかり合う、心の通った友人を近年相次いで失ってしまった。

 今日の円熟と言われる評価が与えられる以前の、切れんばかりに張り詰めた人間性に溢れた演奏時代の作品が格段に胸を打つ。技巧ばかりに走って、音色は華麗だが心に残ることが少ない演奏家とはまったく異なる強い鋼線のようでありながら、たおやかに切れそうな部分が渾然としている。

 それやこれやで、チョン・キョンファの作品は、かなり多数聴いてきた。とりわけ、サン=サーンス 「ヴァイオリン協奏曲第三番」[L75]、ベートーベン 「ヴァイオリン協奏曲」[dec79]などは、数え切れない回数だ。

 今、平穏な生活に戻った新春の仕事場の空間を充たしているのは、「ツィゴイネルワイゼン~ヴァイオリンヴァイオリン名曲集」[EMI98]だ。小品集で、「ユモレスク」(ドヴォルザーク・ヴィルヘルミ編)、「G線上のアリア」(J.S.バッハ、ヴィントシェベルガー編)、「美しきロスマリン」(クライスラー)、「アヴェ・マリア」(シューヴェルト/ヴィルヘルミ編・ハイフェッツ校訂)などの珠玉の名品が含まれている。このツイゴイネルワイゼンを聴いていると、人間の世界にこんな美しい音があったのかと思うほど、深く引き込まれてしまう。天上から降ってくるような美しさ。生きている間に、この演奏家に会えて本当によかったと思う。

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夜更けのアルザス

2010年01月16日 | 午後のティールーム

 夜更かしのつれづれに見ているNHK『テレビでフランス語』の一月号に「アルザス~光と影の魅力」と題する紹介が掲載されている。筆者はこの講座でもおなじみの中央大学教授ミカエル・フェリエ氏だ。東洋文学にも造詣が深い上に、タレント性のある興味深い人物だと思っていた。実はフェリエ氏は、ストラスブールの出身だった。それだけに、この地への深い愛情が込められている。    

  実はこのところ日本でもストラスブールに関する本格的な著作が相次いで刊行された。いずれもかなりの力作だ。といっても一冊は例の如く「積ん読山」の山中に埋もれており、未だ読み終えていない。いつか改めてコメントする機会を持つことにしたいと思っているが、今日は「本題はさておき」のお話。   

  ストラスブールあるいはアルザスという地域は、「フランスでもなく、ドイツでもないフランス」と形容されるきわめて複雑な歴史的背景を持っている。これはかなりの程度まで、ロレーヌについても当てはまる。しばしばアルザス・ロレーヌと一緒にして紹介されてきた。しかし、ロレーヌとアルザスには、類似点とともに相違点もある。地理的にもヴォージュ山脈が両者の間を分けている。こうしたそれぞれの地域の持つユニークさは、ヨーロッパの魅力だ。  

  ストラスブールの美しさは強く印象に残っている。あの大聖堂はとりわけ遙か数十キロ四方から遠望できるほどの美観と壮大さを誇っている。内陣も素晴らしい景観を見せてくれる。そして、町を歩くと、家々の窓辺を飾る花々の美しさが、今も目に残る。  多分ローマへは行かなかったジョルジュ・ド・ラ・トゥールも、ストラスブールには行ったに違いない。交通が便利になった今日では、パリ東駅からTGVで約2時間、あっという間の距離だ。あの大聖堂はこの画家の目にはどう映ったのだろうか。

  ラ・トゥールは、しばしばカラヴァッジョの影響を受けたカラヴァジェスキといわれるが、イタリア的雰囲気はほとんど感じられない。それよりも、ゲルマン的、ゴシックの影響を強く受けている。  

 そして、アルザスというと、すぐに思い出してしまうのがシュークルート(ドイツ語:ザウワークラウト、塩漬けキャベツ)だ。最初にストラスブールを訪れた時、典型的なアルザス料理として、友人が推薦してくれ、一緒に食べた味は懐かしく不思議と今日も残っている。ソーセージやハムなどと一緒に食する。
歴史的には、この地の岩塩生産が背景にあって生まれた料理だ。アルザスは元来ドイツ語でElsass(塩の意味)であり、神聖ローマ帝国の一部であった(フランス領に組み込まれたのは1697年)。塩はきわめて重要な財源となっていた。島国日本にいると、塩と聞くと海を思い浮かべるが、ヨーロッパでは岩塩が大きな比重を占めてきた。アルザス・ロレーヌ、そしてオーストリアを旅すると、当時の壮大な岩塩抗や塩田の跡に出会い驚かされる。  

 ザウアークラウトは長らく結婚式や祭日など、特別の時のご馳走だったらしい。アルザスには16世紀までザウアークラウト専門の調理師 surkrutschneider もいたようだ。彼らは刻んだキャベツを樽の中に塩で漬け込み、アニスの種、ういきょう、月桂樹の葉、ニワトコの実、キダチハッカ、チョウジ、クミンなどの香辛料、スパイスなどで独特の風味を加えていた。別に酵母などを加えるわけではないのだが、自然に発酵するらしい。こんなことを考えていると、肝心のフランス語のレッスンは興味が減退し、食欲は増進する。
  

  それにしても、この番組、同じ素材の度々の再活用?は目をつぶるとしても、木曜日午前0:00-0:25、再放送土曜日午前6:00―6:25という時間帯設定はどういうつもりなのだろうか。しばらく前までは、深夜といってもその日の内に放映されていたが、いまや翌日にならないと見ることができない。眠くなったりで集中力も低下して効果は上がらない。実際、本当に見たい番組は、さらにこの語学講座の次に置かれている。真夜中や朝まだきに語学番組を見ている人はどれだけいるのだろうと思ってしまう。



References
* 内田日出海『物語 ストラスブールの歴史』中公新書、2009年, 313pp.
宇京頼三『ストラスブール ヨーロッパ文明の十字路』2009年、460pp.

ちなみに今月号では、ブルターニュのコワフの刺繍も紹介されているが、これも以前の番組の再放送のようだ。

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イギリスは移民がお嫌い?

2010年01月11日 | 移民の情景

EU+北米8カ国世論調査(German Marshall Fund et al. 2009)


 外国人労働者
(移民)についての国民的感情について考えている時、短いが興味深い記事に出会った前回の記事にも関連するので、少し記してみよう。移民受け入れについてのイギリスの特別な位置が主題だ。

 イギリス人は、ヨーロッパ大陸の主要国あるいは北米のアメリカ、カナダと比較して、移民受け入れに消極的(反移民的)になっているという内容だ。EUのイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スペインに、アメリカ、カナダの2カ国を加えた8カ国の国民の意識調査が判断材料になっている。この調査では、これらの国々の中で、イギリスだけが際立って移民受け入れに消極的という結果が出ている。なぜだろう。

 かなりのイギリス人が自国に移民が多すぎると感じているようだ。さらに、ポイント方式など他国から先進的と評価されている移民受け入れ策にも相当多くの国民が否定的だ。政府の積極的移民(受け入れ)政策は間違っていると考える人も多い。移民は自国民の仕事を奪うと考えがちであり、移民に公的給付が等しく与えられることに反発しがちだ。最近話題に上っている「ゲストワーカー」(一定期間就労後、帰国するタイプ)の導入案についても、賛否相半ばしている。一時的労働者導入よりは定住型移民への賛成者が多いようだ。

 イギリスの移民の人口比率は、フランスやイタリアよりは高いが、突出して高いというわけではない。ただ、近年ポーランドなど東欧諸国などからの移民労働者の流入が急増したこともあって、失業率の上昇を背景に、移民への国民的関心は高まっている。

 少し前まで、イギリスは移民受け入れに大陸諸国より寛容であり、政府やメディアもそれを喧伝してきたところもあった。今回の調査に反映されている移民への消極的な感情には、12年間続いた労働党政権への不満も影響しているかもしれない。イギリスの人口に対する移民比率はおよそ10%だが、調査に答えた人たちは平均すると27%くらいと考えたようだ。実際より移民の存在を大きく感じている。移民の影におびえるのだろうか。正確な事実を知ることの難しさを感じる。メディア側にも問題があるかもしれない。

 確たる分析が行われたわけではないが、人口に占める移民の比率が10%のラインを越えると、移民への反発などマイナス面が目立つようになるともいわれてきた。しかし、この調査で対象として取り上げている8カ国の中で、イギリスよりも人口に占める移民比率が低いのはフランスとイタリアだけだ。しかも、フランスでもイタリアでも、外国人(移民)労働者をめぐる多くの難しい問題を経験してきた。したがって、イギリスが移民受け入れに消極的になっている原因としては、移民・人口比率以外の背景があると考えられるべきだろう。

 移民はある特定地域へ集中する傾向があるので、そうした地域では、平均以上の移民集積が起きて、住民との軋轢・摩擦などが生まれる可能性は高くなる。

 さて、イギリスを含む上記調査では、「自分は人種差別主義者(racist) ではないが」という条件付きで、いくつかの質問に対する各国別の回答者の結果が示されている(上掲図)。

  「移民は自国民の仕事の機会を奪うか」という問いに「その通り」と答えた比率は、イギリスが図抜けて高く50%を超えている。アメリカ、スペインが続く。

  「合法移民は犯罪増加につながるか」という問いに、「その通り」と答えた比率はオランダ、ドイツに続いてイギリスが高い。

  「公的給付は移民に平等に与えられなくともよい」と回答したのは、やはりイギリスが50%近い高さで第1位、ドイアメリカが続く。

 「政府の移民政策は誤っている」との答も、イギリスが70%近くで第1位、スペイン、アメリカが続く。

 これらの結果を見る限りでは、確かにイギリス国民の間に移民受け入れについての懐疑的な思いが高まっていることは、推測できる。しかし、そうした変化が何に起因しているかは、簡単には分からない。考えられる短期的な要因としては、EU新加盟の東欧諸国からの移民増加、相次いだテロ事件の衝撃、厳しい雇用状況などが挙げられる。そして、長期的には移民比率が傾向的に上昇してきた。こうした状況で、移民への消極的、否定的な感情が高まっているようだ。好況時には、移民労働者は人手不足もあって、受け入れは歓迎されることが多いが、不況時には逆の反応が強くなる。移民への国民感情は冷静に判断する必要がある。
  
 同じ島国である日本は、イギリスと比較すると、人口に占める移民比率は数分の一であり、移民受け入れへの国民的感情はイギリスほど切迫感を持ったものにはなっていない。しかし、外国人の集中・集積が高い都市や地域では、深刻な問題も発生している

  ここで、注意しなければならないことは、移民問題はいずれの国においても、好況・不況という景気循環の動きにきわめて左右されやすいという特徴があることだ。さらに地域における外国人との現実の接触、交流において、どれだけの蓄積があるかということも強く関係している。言い換えると、交流経験の蓄積の程度が対応のあり方に大きく影響する。移民、外国人労働者の受け入れという点では経験の浅い日本だが、国民的合意形成への方向性が見えぬままに、なし崩し的に受け入れは進んでいる。行方定めぬいつものやり方だが。さて、行き着く先はどこだろうか?

 

 日本でも「外国人集住都市」と呼ばれる地域は、さまざまな問題に直面している。ちなみに現在は7県28市町が「外国人集住都市会議」と呼ぶ自治体組織を設立・運営し、共通の課題の解決、政府関係機関への提言などを行っている。群馬県大泉町のように外国人登録者数が全人口に占める比率が16.6%(2009年4月1日現在)と国全体の平均(2008年末1.74%)を大きく上回る地域もある。

 

Reference
This skeptical isleThe Economist December 5th 2009

コメント (4)
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日本は「ディズニーランド」か

2010年01月06日 | グローバル化の断面

日本はディズニーランドか
 

 新春にたまたま読んだイギリスの総合雑誌の論説に、日本に言及した興味深い記事があった。このブログの関心領域に触れる課題なので、忘れないうちに簡単に感想を記しておきたい。

 今日の日本で、外国人がどこへ旅行しようとも、初めて外国人を見るような奇異な目で遇されることは恐らくないだろう。日本各地の人々にとって、外国人は少なくとも珍しい存在ではなくなった。

 日本に外国人労働者が目立つようになった1980年代以降、ずっと現場を見続けてきた者にとっても、瞠目する変化だ。少なくも「第二の黒船」論は聞かれなくなった。交通・通信手段の著しい発達もあって、外国人とのアクセスの場面は明らかに増加した。お隣の国、韓国では2008年時点で人口の42%が外国人と話をしたことがないとの調査もある。しかし、韓国の外国人居住者の数は過去7年に120万人増え、人口の2%に達した。外国人労働者の受け入れには、日本より積極的だ。  

 外国人(移民)労働者受け入れという点では、先進諸国の中で日本はかなり特別な目で見られてきた。人口に占める外国人の比率が2%に達していない。日本は外国人にとって本当に居心地が悪い国なのか。もしそうだとすれば、なにが原因なのか。これまでにも、さまざまに探索がなされてきた。外国人(移民)については、多くの視点からの分析が可能だ。従来、経済学、社会学、文化人類学などに立脚した研究が多いが、それだけでは一面しか見えてこない。実態を正しく見るには、多面的な観察と分析が欠かせない。  

 その中で興味深い視点は、Foreign (外国の、異質の、関係がない、などの意味)とは、いかなることを意味しているかという観点からのアプローチだ。この観点に立つと、いくつかの注目すべき側面が見えてくる。たとえば、アメリカでは旅行者は別として、国民の誰もが自分は外国人であるとは思っていない。あるいは場違いな所にいるとも感じないようだ。それは、いうまでもなく、ほとんどすべての国民が、元来外国人あるいはその子孫だからだ。彼らの先祖の国籍は、世界のほとんどすべてをカバーしている。  

 他方、外国へ旅をして自分がそこでは外国人として見られている、あるいは地元の人とは違った「異質な」(foreign)存在だと感じる地域は、地球上で少なくなっている。外国から来た人たちが自らを「異邦人」と感じ、現地に住む人たちから彼らとは異なる「外国人」としてみなされる地域は、アフリカ、中東、アジアの一部くらいだろう。  

 先進諸国における外国人の人口に占める比率は約8%、不可逆的に増加しており、外国人が真に自分が外国人と見られていると思う国は次第に少なくなっている。外国人であることは、まったく珍しくない状況になった。   

 こうした中で日本は依然特別な目で見られている。確かに、移民受け入れの歴史も浅く、外国人比率も先進国中でも最低に近い部類だ。この点について興味深い視点は、日本という国はディズニーランドのような仕組みで出来上がっているという見方だ。それによると、日本は外国人を含めて、誰もがある定められた役割を演じることを求められている国であるという。すべてが同じ目的の為に暗黙裏にも準備されている。

 確かに思い当たることは多々ある。外国人は定住が認められた後も、ずっと外国人であり続けることが求められている。外国人は外国人らしくあるべきだという有形無形な枠組みが日本には存在するとでもいえるだろうか。高い言語の壁、宗教、道徳性などがその仕組みを支える役割を果たしている。さらには急速に西洋化することへのためらいや反発があり、近年の中国の急成長への対応もあって、アジアへの傾斜も見られる。 

 他方、アメリカでは心理的には誰もあまり壁を感じることなく、アメリカ人になれる。しかし、日本では外国人が日本人になることはきわめて難しい。日本に長く住み、日本語に熟達していても、いつになっても外国人のままなのだ。確かにその通りだといえよう。しかし、もしそうであるとしても、この仕組みを作り上げている論理は不明な点も多く、十分には解明されていない。  

 日本は外国人労働者(移民)の受け入れに、出入国管理などの制度上でみるかぎり他の先進国並みあるいはそれ以上に開放され、寛容であるとの主張がある。しかし、現実には日本が望むような高度な技能、専門性を持った人たちが期待するほど入国、定着しない事実は、そこに目に見えないしきたりや制約(壁)が存在することを暗示しているかもしれない。

 他方、アメリカの覇権を求める帝国主義的行動あるいは専横性を嫌う人々がいても、アメリカの最大の力は人々がそこに住みたいと思うことにある。世界の移民希望者に最も移住したい国を聞けば、アメリカは図抜けて希望者が多い。外国人を外国人と思わせることなく、吸収・同化してしまう国である。アメリカを最大のライヴァルとみなす中国でも、アメリカ留学希望者はきわめて多い。その中には、北京の最高指導者たちの子女も含まれている。彼らは、大きな摩擦なく受け入れ国に留まる上で必要な世俗の術にもたけている。合法移民・滞在者として税金を納め、生活に困らない程度の英語を話し、受け入れ国に親密な態度を示すという程度の内容である。   

 明らかに国家的衰退の兆しが顕著になっている日本にとって、活性化の重要な選択肢のひとつに移民(受け入れ)政策がある。しかし、国家のあり方まで含めて、徹底議論されることはほとんどない。先進諸国の中で、唯一人口を増やしているのはアメリカだ。もちろん、移民がアメリカを強い国としている唯一の原因とは考えられない。デメリットも当然ある。しかし、基本的に外国人が住みたいと思わない国に明るい未来があるとは思われない。オバマ大統領の誕生に見るように、新しい考えが生まれないかぎり、創造も発展もない。100年先の国のあり方を見据えて、外国人も視野に含める新しい人口政策の構想が必要だろう。「国家戦略局」(仮称)が考えねばならないことは、日本の将来にかかわる基本構想、基軸を国民に示すことではないか。
それなくして日本が「輝く国」とはなりえない。



References
“The others”and “A ponzi scheme that works” The Economist December 19th 2009
George Mikes. How to be An Alien.
1973

上記ブログ記事は雑誌論説に触発された管理人の感想にすぎません。当該雑誌の論説詳細は上記を参照ください。

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迎春

2010年01月02日 | 午後のティールーム

迎春

新年明けましておめでとうございます。

今年は人間が本当に「進歩」しているか、確かめる年にもなりそうです。

2010年元旦

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