時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ジャック・カロ:溢れるファンタジア(2)

2014年04月08日 | ジャック・カロの世界

 

下に掲げる作品部分(Détails)



 上に掲げた図(拡大はクリック)を見てどんなことをイメージされるるだろうか。専門家でも一瞬ぎょっとすること請け合いである。この奇々怪々なもの?はいったいなにを描いたものか。現代のアニメの先端?のようだと考える人もあるかもしれない。それにしても、なんと奇怪で奇想天外な発想だろう。

 実は、あの17世紀の天才銅版画家ジャック・カロの手になる『聖アントワーヌの誘惑』と題する作品のほんの一部分である。、作品といっても、原寸の大きさは 画面下の説明部分を除いたイメージは縦横 31.3 x 46.1cm)ほどである。しかし、そこに描かれた(彫り込まれた)内容の壮大さと複雑さは驚くべきものがある。ちなみに、
この怪物は画面右下にルーペで見ないと分からないほど小さく描かれている。



ジャック・カロ『聖アントワーヌの誘惑』(第2作)
Jacques Callot. La Tentation de saint Antoine: deuxième planche gravée par Callot et tiree apres sa mori à Nancy, 1635 (I., 1416), (Musée des Beaux-Arts, Nancy) 35.6 x 46.2 cm

 カロが制作に際して思い巡らした想像の世界は、奇想天外、現代人の想像の域をはるかに越えるものがある。この「聖アントワーヌの誘惑」(ラテン語:アントニウス、英語:アンソニー)と題する作品は、これまでブログで折に触れ見てきたような、カロが好んで制作したファンタジーでもなければ、残酷な戦争や貴族や貧民の描写でもない。聖アントワーヌをめぐる逸話をイメージにした作品である。

 この聖人の逸話をめぐる作品は構図としては、一大劇場風の展開となっている。地上の善と悪の戦いが一場の光景として描かれる。聖アントニウスは構図の中では全体の片隅にいる小さな存在である。伝承によると、この聖人は、他の修道士たちの場合と同様、砂漠における禁欲生活の間に、さまざまな幻影にとらわれた。美術の世界では、それらは悪魔の恐ろしいあるいは性的な誘惑という形で描かれることが多かった。悪魔はしばしば野獣や怪物、そして魅惑的な女性の姿をもって現れ、アントワーヌの肉体を引き裂こうとするが、光に包まれた神が現れると、逃げ去ってしまう。カロ最晩年の作品である

この時までに画家は自らの故郷であるロレーヌそしてネーデルラントやフランスにおける大規模な戦闘を画家として記録する仕事も行ってきた。世の中の苛酷さ、貧富の格差のもたらす実態を体験しながらの画家人生だった。この『聖アントワーヌの誘惑』は、それらの体験が濃密に集約された作品といえる。

 聖人アントワーヌは構図の右下に近い洞窟の入口で、襲いかかる巨大な悪魔に十字架をもって敢然と立ち向かっている。画面には当時伝承されていた聖アントワーヌに関する伝記を基礎に、それまでに作品化された他の画家ボスやピーテル・ブリューゲル(父)などの作品などの影響を受けてか、あらゆる悪を体現した悪魔や奇々怪々な怪物が描き込まれている。カロはその生涯でイタリア、フランス、ネーデルラントなどに旅しているので、これらの地でも先人画家の同じテーマの作品を見ていたものと想像できる。

 前回の続きを多少記すと、フローレンスでコジモII世の支援の下で、活発な制作活動を開始したカロだが、パトロンであるコジモII世が死去すると、美術家たちを取り巻く環境も変化してしまう。有力な支援者を失ったカロは、帰国を決意し、1622年ロレーヌ公国のナンシーへ戻ってきた。ここはシャルルIV世の時代となっていた。ロレーヌ公国の混迷、衰退の因となったこの人物については、このブログでも多少記したことがある。

 カロはフローレンスでは知られた画家となっていたが、故郷ナンシーは両親などの説得にもかかわらず、逃げるようにしてイタリアへ去ったいわくがある土地であった。それでも、画家として独立したからには生計をたてる道を探さねばならない。しかし、帰国(1621年)したロレーヌ公の宮廷から仕事の依頼はしばらくなかった。

  そこでカロが最初に手がけたことは、当時の美術先進国イタリアにおける研鑽の成果を、ロレーヌの地で再現したり、作品をロレーヌ公に献呈したりすることで、その実績を故郷で認めてもらうことだった。前回、紹介したGobbi のシリーズ、そして『聖アントワーヌの誘惑』などの作品は、ナンシーで再彫刻された。その後少しずつ、カロの銅版画家としての力は宮廷筋でも認められるようになり、多額の恩給も給付されるようになる。

 カロは銅版画家として、その後の人生をほとんどナンシーで過ごした
。わずかな例外は1628年、オランダに招かれ、ネーデルラント軍とスペイン軍の戦争における『ブレダの包囲戦』 の全景を描写した作品を制作したこと、1629年に『ロシェルの陥落』 『レ島の攻略』 などの制作のため、パリそして戦地へ赴いたことなどであった。1630年にはナンシーへ戻っている。しかし、3年後ナンシーはルイXIII世の軍隊に占領され、1633年9月25日、フランス軍に降伏した。カロはこのナンシーの陥落を記念する作品を依頼されたが、故郷の悲劇であり、断っている。

 こうして、カロは同時代人の間で有名であったし、フランス美術史上も忘却されることなく、ほぼ正当に評価されてきた。当然、作風を模倣する者も多かった。カロの作品の中で最も好まれた主題は、現在開催されている企画展*2でほぼ十分に見ることができる。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 カロはこの主題で2つの作品を制作しており、ここに掲げたものは第2作(ヴァージョン)の構図である。第一作はカロがフローレンス滞在中に制作されたと推定されているが、その銅版から印刷された作品はほとんど見ることがない。銅版の摩滅など、なんらかの理由で印刷作品が残っていないようだ。この第2ヴァージョンはカロの没年に画家の生涯の友人として知られるイスラエル・アンリエが版元になって出版された。

*2 
 国立西洋美術館で開催されている『ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場』は、今のところ空いていて落ち着いて作品鑑賞ができる。銅版画は概して作品が大変小さいので、観客が多く、混んでいると満足できる鑑賞は期待しがたい。これまでにも近年の「アウトサイダーズ」展を初めとして、カロの作品は国内外の展示でかなり見てきたが、今回初見の作品もあり、新たな知見も得ることができた。ご関心のある方にはお勧めの展覧会だ。一枚一枚の作品が大変小さいことに加えて、経年変化も加えて、印刷インクの色が薄いことが多く、携帯ルーペは必携の品だ。残念なことは、作品の絵はがきがないことだ。必要ならばカタログを見ればよいのだが、絵はがきはそれ自体別の用途があり、折角の企画展なので惜しまれる。美術館所蔵の作品なので、いずれかの時に主要作品の絵はがきが発行されることを期待したい。

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ジャック・カロ:溢れるファンタジア(1)

2014年04月06日 | ジャック・カロの世界

 




Jacques Callot
Les Gobbi, BdN, Paris


  ジャック・カロ(1592-1635)の企画展(国立西洋美術館)が近づいてきた。この希有な銅版画家については、さまざまなイメージが思い浮かぶ。17世紀を代表する銅販画家でありながら、一般に知られた戦争の惨状を描いた作品ばかりでなく、その反面でファンタジーに溢れ、ダイナミックな創造的作品を多数残している。戦争の世紀ともいわれる過酷な時代に身を置きながら、それに押し流されることなく、冷静な目で時代の隅々まで目を配りながら、ファンタジーの世界でも同時代の人々ばかりでなく、21世紀の現代人でも瞠目するような創造の成果を開花させた。

 後者のファンタジーに溢れた作品は、前者のリアリスティックな作品に比較して、日本ではあまり知られていない。画家の天才的ともいうべき空想・幻想の力を存分に発揮した作品には、あっと驚くような人物や仕掛けが次々と繰り出される。現代人の目からすれば、時に当時の人々にとっても、グロテスクに感じられるようなイメージも提示される。いったい、これはなにを描いたのだろうと思わせる奇矯な人物も次々と登場する。しかし、それらは画家の時代を踏まえた確たる創造力の冴えが背後で支えていた作品だった。

17世紀理解に不可欠な画家
 ジャック・カロはジョルジュ・ド・ラ・トゥールと並んで、17世紀ロレーヌ、そしてヨーロッパの世界を理解する上で欠くことの出来ない画家だ。カロの場合は、ラ・トゥールのように長い間歴史の闇に埋もれることはなく、現代にいたるまでほぼ正当な評価を受けてきたといえるだろう。これにはその作品の素晴らしさとその広範な普及を助けた銅版画というメディアが、大きな役割を果たした。カロの作品に影響を受けた画家、文学者は枚挙にいとまがない。

 このブログでも時々記してきたが、カロはラ・トゥールの1年前に生まれ、43歳という働き盛りに世を去っている。その間に残した作品は1400点を越えるといわれる。画家が銅版に刻み込んだ光景はきわめて多岐にわたり、今日その作品世界を知るためには、時代背景の理解を含めて、鑑賞する側にかなりの努力が必要となる。

画家としてひたすら生きたい
 ここでは、カロが銅版画家を志し、修業過程を経て独り立ちするまでの跡を少し追ってみたい。ナンシーの貴族の家系に生まれたジャック・カロだが、父親ジャンはロレーヌ公の紋章官(宮廷の祭事、紋章などの管理を行う)であったこともあり、父親ジャンは教会の司祭のような聖職か自分のような宮廷官吏への道を選ぶのが当然と考えていたらしい。しかし、ジャックは絵を描くこと以外はまったく関心なく、学業は徹底して嫌いだった。そして、先にイタリアへ行った友人の手紙などに刺激を受け、家出をしてローマへ行こうと試み、志半ばで連れ戻されることなどがあったようだ。

 カロの両親は度重なる説得にもかかわらず、息子が画業以外にはまったく関心を示さないことで、ついにイタリアへ修業に行くことをしぶしぶ同意した。この折、ロレーヌ公シャルルIII世が亡くなり、公位継承者アンリII世はローマへ状況を知らせる特使を送ることになった。ジャックは父親の力もあったのだろう、この特使の随員に加えてもらい、ローマを訪れることができた。

 ナンシーを出発したのは1608年12月1日と記録されている。翌年年初にローマに着いたジャックは、子供時代の友人で一足先にイタリアへ行っていたイスラエル・アンリエ Israel Henriet とも再会することができた。

 ローマで解放されたジャックは、水を得た魚のように活動を始めた。最初は画家テンペスタ Tempesta の工房で修業したといわれる。さらにフランスの版画家で当時はローマに住んでいたフィリップ・トマッサン Philippe Thomassin の工房で3年近く働き、銅版画の技術を完璧に修得した。

画家としての自立
 1611年の末になると、フローレンスへ移り、当時画家・銅版画家として活躍していたジュリオ・パリジ Julio Parizi の下へ身を寄せた。この時期、トスカーナは以前にも記した天文学者ガリレオ・ガリレイも支援していた熱烈な文芸・美術愛好者でもあったメディチ家のコジモII世が統治していた
。幸いカロの後援者にもなってくれて、カロはたちまちその潜在的な能力を発揮し始めた。

 1615年、トスカーナ大公はウルビノのプリンスのために大きな祭事を企画しており、カロはこの祭典の記録版画を制作するよう依頼された。これは、カロにとってその後の名声を生み出すことになった仕事だった。そして、翌年にはパリジとの間での雇用契約も終わり、カロは独立した親方職人となった。

 カロは自らのオリジナリティを発揮した最初の作品 "Caprices" を斬新なデザインで構想し、"Varie figure di Gobbi, di Iacopo Callot, fatto in Firenze l'anno 1616"と題したシリーズとして製作した。カロは後に故郷ナンシーに戻った時に再彫しているが、その前書きに、「美術的価値あるものとして制作した最初の作品」と記している。他人に依頼されて製作したものではなく、自らが主題を構想し、下絵を描き、銅版に彫刻するという、独立した画家としての喜びと自負が感じられる。ローマで働いていた当時は、カロは下絵を描き、彫り師が別にいた。

 このブログには、
"Gobbi"(背中の丸い、猫背に人の意味)と題されたシリーズから、数枚を掲載してみた。いずれも奇妙にデフォルメされ、不思議な印象を与える作品である。当時の祝祭のコメディ、仮面劇や町中で見られた音楽師などの姿を、画家がシリーズとして構想したものだ。

 これらの作品は一見、グロテスクにも見えるが、当時のフローレンスの祭事の一部を写したものであり、フローレンスの人々にはなじみのある場面の数々であった。多くの作品は当時上演されたコミカルな場面であった。

 特に毎年10月18日の聖ルカの日に Imprineta と呼ばれる盛大な祭礼が開催され、多数の人々が楽しみに参集した。これらの光景を描くことはカロが得意とするところであった。

続く





          

Jacque Callot. Les Gobbi
BdN, Paris

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画家の見た17世紀階層社会(18):ジャック・カロの世界

2013年09月04日 | ジャック・カロの世界

 

Baltolomeo Schedoni(1578-16159, La Carita, 1611, oil, canvas, Museo di Capodimonte
バルトロメオ・スケドーニ『慈善(施し)』、1611年、油彩・カンヴァス、ナポリ、カポディモンテ美術館

 

 17世紀の貧困を画題とした画家、作品は少ない中で、このイタリア・エミリア派の巨匠といわれたバルトロメオ・スケドーニの作品は、『慈愛(施し)』の情景を描いている。恐らく、修道院などの戸口で施しを求める子供たちに修道女がわずかな食べものを与えている光景である。この作品で注目されるのは左側に描かれた子供(おそらく視力を失っている)の虚ろな表情、女性からパンのようなものを受けとる子供の幼いが感謝に充ちた表情、今後に待ち受ける世の苦難をいまだ知らない幼い裸足の子供たちのあどけなさを残した表情にある。こうした施しという形をとった慈愛の活動は当時、カトリックの世界では、推奨された行為ではあった。しかし、きわめて美しくカラヴァッジョのような劇的効果をもって描かれた現実の世界では、絵画の想像を超えた厳しさが支配していた。教会、修道院などの宗教的支援は、すさまじい現実の前に、ほとんどなすすべがなかった。飢饉の折、教会の裏側に多くの子供が遺棄されていたなどの記録は実に多い。

 

 

 17世紀、多くの宮廷画家たちは、自分の周辺のパトロンや貴族などを画題の対象とていた。当時すでに膨大な数で存在していた、貧民や貧困の実態には目をつぶり、作品の対象にとりあげることをしなかった。このことについては、ブログに多少記したことがある。宮廷人たちがひとたび華やかな宮廷を出て町中に出れば、そこにはみわたすかぎり、おびただしい数の貧窮に苦しむ人々で溢れていた。しかし、その悲惨な光景は多くの画家にとっては創作意欲をそそられる対象ではなかった。

 そうした風潮の中でジャック・カロは、かなり多くの貧民の実態を描いている。そのおかげで、写真などなかった時代、この時代の貧困の実態がいかなるものであったかを、かなり良く知ることができる。

教会の繁栄の陰に:おびただしい貧しい人々の姿
 
カロが日常目にしていた貧民の状況はきわめて多様にわたっていた。多作ではあったが、手当たり次第描いていたのでは収集がつかなくなる。カロは貴族階層のさまざまを描いたように、貧民についても、その類型化をイメージして制作していたと考えられる。当時の人口の7割以上を占めた農民まで含めると、社会階層の大半はその日暮らしに近い貧しい生活を強いられていた。彼らの日々の生活は、貧困と劣悪の限りであり、その生活様式は地域や職業ごとに多様をきわめ、すべてを描くことはもとより不可能であった。その中でカロは日常顕著に目にする人々の姿を、鋭く観察、厳選して描いたと考えられる。

お守りとなった聖人像
 
カロがイタリアからロレーヌへ戻った17世紀初め1621年頃、ロレーヌはカトリック布教の前線の砦としての戦略的位置を与えられ、カトリック布教の強力な活動が展開していた。その結果、強い宗教的精神に充ちた地域となっていた。
 
 度々記したように、この地は戦乱、動乱、悪疫、天候異変などに絶えず襲われていた。たとえばカロがナンシーへ戻ってしばらくすると、1630年代にはペストなどの悪疫が流行した。1631年にカロは『悪疫から身を守ってくれる聖人たち』Book of Saints for Plague を制作し、実に488人の聖人の姿を描いた。悪疫についての知識や医学水準が低位にあった時代、人々はひたすらそれぞれが守護聖人と仰ぐ聖人に、自分や家族の安全、不幸にして罹患した場合の早期の治癒などを祈るしかなかった。こうした折には、魔術や呪術などのいかがわしい活動も盛んになった。




ジャック・カロ 『キリストと聖母マリア』

Jacques Callot, Christ and Virgin Mary

Les Grands Apôtres(The Large Aolssstles)
Princes & Paupers, 2013,p.123.
クリックして拡大
 

 この聖人肖像集は恐らく大きな評判となったのだろう。翌年、カロは『大使徒』シリーズ、large Apostles を制作し、キリスト、聖マリアと13人の使徒の画像を描いた16枚(1枚は表紙)の肖像集を刊行した。今回は大量の印刷頒布に耐えうるよう、銅版の彫り込みも深く、図版も拡大された。恐らく、多数の需要があり、ロレーヌの多くの家々の壁にカロの聖人画が掲げられていたのだろう。

  当時のヨーロッパ各地にはおびただしい数の貧民がいた。現代の社会保障制度のようなものはなく、困窮者の最後の頼りは教会、修道院などの慈善の観点からの施しにすがることだった。しかし、ロレーヌのようにカトリックの布教が強力に勧められた地域であっても、教会の社会的な救済の力は実態を改善するにはほとんど無力に近く、多くの人たちが頼るすべもなく死んでいった。「慈善」は単なる布教上のスローガン化していた。

 最近の研究で分かったきたことだが教会内部の腐敗や堕落の陰で、想像を絶する数の貧民、窮迫民が救いや施しを求めることすら出来ず、戦火や悪疫、飢饉の中で死に絶えていた。(難民200万人を越えたといわれるシリア内戦の惨状を思うとき、管理人の心情はその解決を考えると、残暑の中でさまざまに乱れる。)

 17世紀、近世初期の時代の美しい絵画作品だけを見ていると、ともすれば、その背後に存在した膨大で計り知れない貧困の実態を知ることなしに過ごしてしまうが、それを知ることなしに、この時代を理解することはできないのだ。

続く

  

 

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画家の見た17世紀階層社会(17):ジャック・カロの世界

2013年08月18日 | ジャック・カロの世界

 

ジャック・カロ『ロスピス』(ハンディキャップを持った人々の
ための家、病院)
Jacques Callot, L'Hospice, c.1622, Etching 53 x 79cm
The British Museum, London, Department of Prints and Drawings

画面クリックすると拡大(以下同じ)

 

 

重要な情報源であった銅版画
 日本列島はどこへ行っても猛暑のようだ。暑さを避けて(?)、17世紀ロレーヌの世界に戻ることにしよう。幸い、行動の制限もなくなった。

  これまで鑑賞してきた17世紀ロレーヌの画家ジャック・カロは、銅版画家であったことにより、油彩画などよりもはるかに多くの人々、顧客に向けて、その作品を頒布することができた。イタリアから戻ったカロの工房は、生地ナンシーの中心部におかれた。カロはここから驚くほど多様な次元にわたる作品を発信し続けた。銅版画は通常は単色で彩色されていないため、油彩画のような迫力に欠けるとはいえ、カロの作品は、画題もきわめて広範にわたり、ともすれば視野が限られる当時のヨーロッパにおいて、多くの人に広い世界を見るためのさまざまな情報を与えていた。

 カロは貴族たちや貧民を自らの画題にとりあげるに際して、どの程度厳密に意識していたか判然としない部分もあるが、、いくつかの類型に分けていたようだ。貴族層(プリンス、プリンセス)については、このシリーズ前半で、その概略を見てきた。

 他方、社会階層として反対の極にあった貧民 paupers の場合は、農民、巡礼、物乞い、ジプシー、放浪者、地域から孤立した人物などを描いている
。その際、画家は注意深く互いのグループを区分できるよう配慮していた。

 カロのこのシリーズのひとつの特徴は、作品に説明も制作番号も付されていないことにある。それらがあれば、画家の制作に際しての思考方向、社会的評価の順位なども推測できるかもしれない。カロはことさら、それを避け、観る人の評価に委ねたと思われる。

 たとえば、カロは当時の「物乞い」 begger に一定の同情や憐憫を感じていたと思われる。同じ人間として生まれながらも、さまざまなハンディキャップによって、社会の他の人々から施し alms (聖書:善行)を受けねば生きることができなかった人たちへの思いである。ローマ、フローレンスあるいはより小さなナンシーなどの都市は、いたるところこうした貧民たちで溢れていた。

 画家カロがナンシーの町へ出れば、ただちに貧しい人たちを目にした。カロが修業したフローレンスでも同じであった。ナンシーのカロの工房は、町の中心部のきわめて立地の良い場所に位置していたが、貧民はそこでも多数見られた。多くの宮廷画家は貧民を画題にするようなことはなかったが、カロの画家として天性、素晴らしい点のひとつは、決して貴族層の好む題材ばかりを描いていたのではないことにある。

巡礼の旅
 この時代、世の中には多くの苦難や不安が満ちており、それを背景として自らの心の救いやよりどころを求めて、さまざまな聖地へ巡礼する人たち、巡礼者も多かった。彼らの身なりは質素であり、しばしば長旅に汚れた衣服を身につけていた。キリストやその使徒たちも、基本的に富や華美を求めず、簡素な生活を旨としていたこともある。大きな町や巡礼者が旅する地では、信仰のために旅をする人々に、教会や修道院が食事、時には宿泊の場所を提供していた。また、宿泊費を支払える人たちには安価な旅籠屋もあった(下図)。


ジャック・カロ『旅籠屋』
Jacques Caoolt, L'Auberge, from Capricci
c.1622, Etching, 57 x 79 mm
Albert A. Feldmann Collection

 

巡礼者を装う物乞い
 しかし、なかには巡礼者に扮した偽者も多く、巡礼者と単なる物乞いの区分をすることは、当時の世俗社会での必要事であった。これらの偽巡礼はしばしば犯罪などにもかかわっていた。

 画家は物乞い beggers は汚れ、破れた衣類、靴をはいていない、帽子が破れているなど、細かに観察して描き分けていた。カロにとって、重要な課題のひとつは、単に教会や土地の人々から施しをうけて生きている物乞いと、宗教的な目標を抱いて、巡礼などの旅の途上にある者を区分することであった。このことはその当時、日常さまざまな機会に彼らに対していた社会の人々にとって、生活上必要なことでもあった。カロやカラッチなどが描いた貧しい人たちを、いかに理解するか、その後も多くの論争が繰り広げられてきた。

 カロは当時の社会階層の大多数を占めた農民については、しばしば農具や動物と共に、そしてなによりも屋外で働く姿で描いている。基本的に彼らは家族で農地を耕し、質朴そしてしたたかに生きていた。カロは、土地に束縛され、重税に苦しみながらも、懸命に働く彼らに同情の心を抱いていたようだ。

物乞いと巡礼者の区分 
 他方、物乞いで生活する放浪者はほとんど家族はなかった。家庭を持てるだけの生活上の物的、精神的安定もなかったのだろう。家族は離散していたり、母子家族など、生活上安定した状況ではなかった。現代の目で、カロの作品をつぶさに見ると、そこには身体上の障害を持った人たちがきわめて多いことに気づく。杖をついたり、目が不自由なために、犬を連れた老人などもいる。簡単なカートに座って、他の人に押してもらっている人たちもいる。なんとなく、高齢化が進行した日本の一面を見るような思いもする。

 カロは貧乏や貧困は、この世に生まれて以降、多くの場合その人にとって生涯つきまとう条件と考えていたようだ。実際には戦争や飢饉などが原因で、貧困から抜け出した者、あるいは逆に貧困に陥った者などの個別の違いはあったようだが、概して人々は自ら生まれ育った地域、家族、階級などの制約によって、社会における位置を定められていた。カロが残した作品は、こうした社会の最下層部におかれた人たちの状況、生活を理解する上で貴重な資料でもある。

 国家による社会保障など存在しなかった時代であり、人々は個人の持つ力を軸に、自ら定められた人生を懸命に生きていた。しかし、生活の手段を奪われ、他人の善意にすがるしか生きるすべがない人たちはあまりに多かった。他方、少数で特権的階級である貴族は、優雅な暮らしを享受し、時に功労や名誉に応じ、君主から年金を授与される慣行もあった。しかし、これはあくまで君主が与える褒賞、功労金の一種であった。

 個人の出自は、その後の人生を決定的に定めていた。カロやラ・トゥールは才能、努力、運などに恵まれ、例外的に社会階層を昇り、貴族に叙せられ、画家としても恵まれた人生を送った。こうした事情もあって、多くの画家は宮廷などの限られた社会で認められるための作品制作に専念し、彼らの外の社会に多数存在する貧民の姿に創作意欲をかき立てられるようなことはなかったようだ。

 しかし、カロはこうした社会通念をかなり逸脱して、社会の下層に位置する貧しい人たちを積極的に描いた。カロは概してこれらの人たちに同情、憐憫の念を抱いていたようだ。若いころ、祖父の代以降、維持継承されてきたロレーヌ公の宮殿に関連する仕事に就くことに反発し、家出のような形でイタリアに画業修業に行ったカロにとっては、悲惨な状況にありながらも、自立して生きている貧しい人々を画題としても、排除することはなかった。唯一の例外は、ヨーロッパ各地で放浪の生活を送っているジプシー(最近はロマ人とよばれることもある)に対してであった。、彼らに対する当時の社会的受け取り方も反映して、こそ泥、詐欺を平然と行う者として、警戒、侮蔑の感を抱いていたようだ。この点については、いずれ詳しく記すことがあるかもしれない。

  ジプシーは、地域に定住することなく、家族や仲間で、時には多くのキャラヴァン(馬車などの隊列)を組んで移動していた。しかし、描かれた画題で農民と大きく違うのは、ジプシーの場合、詐欺や掏摸などの犯罪を犯している場面が多い。実際、この時代、ジプシーは村や町を渡り歩き、日用品の修理、農作業の手伝いなど小さな手仕事をしながらも、そうした悪事に手を染め、各地を放浪していたようだ。そして、そのイメージはすでにヨーロッパ各地で、多くの人々の見方にしみ込んでいたらしい。

 ジプシーを含めて、カロの他の『貧民』グループについては、改めて記したい。どう見ても夏向きの話題ではありませんね。




Jacques Callot, Le Mendiant au couvot
ジャック・カロ『手を温めている物乞い』

続く
 
 

 

  

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画家の見た17世紀階層社会(16):ジャック・カロの世界

2013年08月04日 | ジャック・カロの世界

フランスの切手にも採用されたジャック・カロの貧民を描いた作品
クリックすると拡大、以下同じ

 

 ジャック・カロの貧民シリーズには、総じてこの希有な画家が当時の貧しい人々に抱いていた同情、憐憫の思いが込められている。しかし、中には少数ながら一部の貧民あるいは貧しさを逆手にとり、善良な人々を欺瞞、詐欺的犯罪を犯す者たちへの非難、反感が感じられる作品もある。その例を見てみたい。

 下に掲げた図を見てほしい。乱れた髪、破れた衣服など見るからに貧しげな一人の男が描かれている。カロの描く貧しい人々は、ほとんどはそれぞれ貧しいなりに身なりを整え、しっかりと大地に脚を踏ん張り、生きているように描かれている。容貌やまなざしも真摯なものが感じられる。しかし、この男はかなり異なるようにみえる。容貌もなんとなく卑しく、片目はフェルトの帽子に隠れているが、口はだらしなく半ば開かれている。右手は三角巾のように布で支えられている。本当に右手は動かないのだろうか。あたかも、怪我をして働けなくなったとでもいいたげである。

 画家カロは、他の貧しい人たちとは別の視角でこの男を描いたようだ。描かれた男の片目は意味ありげにこちらに向けられている。そして、左手で担いでいる旗のようなものには、”Capitano de Baroni”と書かれている。この時代、17世紀初期には、baroni という言葉は「悪党、ごろつき」という意味を暗に持っていたらしい。16世紀末のローマには ”Compagnia delli Baroni
”と呼ばれた、身体は別に悪いところはないが、怠け者で働くことをせずに、他人からの施し物に頼って生きている者の集団があったようだ

 彼らは、しばしば詐欺、窃盗などの明らかな犯罪行為も犯していた。その存在は、当時大きな社会的問題になっており、町村によっては、外部からの流入者を制限するという対抗措置までとっていた。 時には、多数の放浪者が村や町へ入り込み、平和な地域の秩序を乱すという出来事があったらしい。町の中心の広場がこうした浮浪者で占拠され、住民が困惑したという出来事がヨーロッパ中で頻発していた。この時代、多くの町がそれぞれに高い城壁で外部からの侵入者を防ぎ、城門で出入りを制限していた。ナンシーなどの都市でも、外部から町へ入ってくる者を制限した時があった。
カロは、善意の施しをする地域の人々を欺いて生きている、こうした狡猾な者たちへの批判と嫌悪をこの男に象徴させているようだ。

 彼の持っている旗に首領 capitano という文字が記されているのは、同じような怠惰で反社会的な人間が多数いることを暗示している。そして、それを示すように、この男の背後には多くの同様なことをしている放浪者たちが描かれている。左手に見えるように、こうした放浪者たちは町に入ると、まず教会へ行き、施しを求めた。 

 

Jacques Callot, Frontispice 

 カロの貧民シリーズは、貴族たちを描いたシリーズと違って、2点を除き、人物の背景が描かれていない。あたかも、彼(女)らはなにも頼るものもなく、孤独に人生を過ごしていることを暗示しているかのようだ。その点、上記のいかがわしい貧民と下に掲げる「二人の放浪者」という作品だけに背景がある。カロは背景に特別な意味を持たせたことが推定される。

 17世紀のヨーロッパ社会の通念では、貧民を慈善の対象に値する者と値しない者に二分して見ることが一般的であった。カロはその点、両者を区別することなく描いているが、評価は観る者に委ねている。しかし、そのための材料は克明に描き込んでいる。

 その例として、下に掲げる「二人の放浪者」は、顔つき、目つきなどがどうもうさんくさい。真面目に巡礼をしている旅の者とは違うようだ。背景には旅の者に施しをしている善良な市民らしい姿が描かれているが、この二人がそれに値するかは、観る者の判定次第ということらしい。
 


Jacques Callot, Les Deux pelerins

 17世紀ヨーロッパには、教会の慈善を初め、少しでも良い生活をしている人たちの施しによって生きていた貧しい人々、あるいはそれに便乗して悪事を働く者など、貴族たちの優雅な世界とはまったく別世界が並存していた。ジャック・カロは鋭い観察眼を持って、その多様な断片を描いている。レンブラントがカロの作品に注目したのは、当然のことであった。

 

Reference
 Exhibition Catalogue, Princes & Paupers, 2013.

★しばらくの間、時間はあっても文献確認、入力などの身体的自由を制限されていたため、記憶に頼った断片的な記事になっている部分があります。幸い機会に恵まれれば不足部分を追加したい。

 

続く 

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画家の見た17世紀階層社会(15):ジャック・カロの世界

2013年07月29日 | ジャック・カロの世界

 


ジャック・カロ「ヴィエル弾き」部分
クリックすると拡大(以下同様)

  ジャック・カロは自分で選び、描いた貧民たちを題材とした作品に、「貧民」シリーズという統一した表題をつけていたわけではない。こうした表題は、カロの死後、膨大な作品整理の上で、後世の美術史家などが付したものである。実際、カロはこの25点から成るシリーズ以外にも、当時の貧しい人たちの姿をさまざまに描いている。この25点は画家が自ら構想した路線上で描かれた作品群であるといえる。注目すべきことは、これらの作品のほとんどが、カロが1621年故郷の地ロレーヌへ戻った後、すでに紹介した「貴族」シリーズに引き続き、まもなく制作されたということにある。カロの優れた点は、宮廷や貴族たちをパトロンにしながらも、決して彼らにおもねるような作品だけを制作していたのではないことにある。広い視野で当時の世界を見つめ、その多様な側面を、時には大画面に、時には小さなスケッチのような形で描き残した。

 カロの描いた貧しき人々には、全般に画家の深い同情や憐憫の思いがこめられている。こうした人たちは、それぞれの生い立ちなどの違いはあるが、先天あるいは後天的な身体上のハンディキャップを抱えている人たちが多い。そして、ほとんどの人たちがその日暮らし hand to mouth に近い貧窮のどん底で生きていた。多くはなんらかの理由で、一人身で家庭とは縁がなく、放浪の途上であることを思わせ、家族のような例は少ない。わずかに母親と子供を共に描いた下掲のような作品があるにすぎない。下図は、母親と未だ幼い子供たちを描いた作品だが、こうした世の中のことをなにも知らない無垢な子供たちの前になにが待ち受けているのか、画家はそれを観る人に問いかけている。

ジャック・カロ「3人の子持ちの母親」
La Mere et ses trois enfants(Mother with Three Children)
クリックして拡大(以下、同様)

 この時代、こうした貧困者については、原則として彼らが生まれ育ち、居住している地域の町や村がわずかな救済の手をさしのべていた。さらに、教会、修道会などが慈善の観点からできるかぎり施しを行っていた。この時代のヨーロッパにおいては、「貧困者」と見なされたのは、身体的理由などで働くことができない、典型的には高齢者、不治の病に冒されている者、小さな子供たちを抱える単身の母親などであった。中世までは、教会なども彼らに救いの手を延べることは、慈善の現れとして積極的に活動した。

 しかし、16世紀に入り戦争や飢饉、悪疫の流行などがあると、地域の外から入ってくる貧民の数も増え、彼らに対する救済措置は次第に後退していった。住民の中には、貧民への反感や蔑視もみられるようになった。なかには物乞いは、罪深さに対する神の罰のしるしとして、慈善の対象であるべきでないと主張する者もいた。近世初期の貧民の実態は統計に表れないが、教会などの慈善行為では到底救いきれないものとなっていた。

 カロが選び、描いた貧しい人たちは、一見してそれと分かる服装をしている。職業という名に値する仕事についている人はいうまでもなく数少ない。しかし、彼がいかなることで、その日を生きているかということは、ほとんど想像がつく。とりわけ、当時の人にとっては、ひと目で見分けがついたのだろう。しかし、カロはこれらの社会の底辺の人たちをできうるかぎり見苦しくない身なりで描いている。そのためには、色数の少ない銅版画のような手法が適当であったかもしれない。

 描かれた貧しい人たちの着衣は、実際にはもっとみすぼらしく、汚れたものであったろう。これらの人物は当時の慣習であった帽子を被ったり、髪をスカーフで覆っており、いづれも靴を履いている。子供たちを描いた場合も帽子を被らせている。実際には衣服が破れ放題であったり、つぎはぎだらけのものであり、靴を履いていない者もいたらしい。しかし、カロはそれらの点にもきを配りながら、この時代の「貧困」というものが、いかなる様相を持っていたか、人々が考える材料としてさまざまな角度から描き出している。

 カロが貴族の多様さをあたかもスタイルブックのように描いてみせたように、貧しき人たちも現実にはきわめて多様な姿をとっていた。貧民にはスタイルブックなど無用のものであったが、カロは一定の尊敬をはらって社会の陰の側面の多様さを描いている。




ジャック・カロ 「ヴィエル弾き」
La Joueue se vuekke (Hardy-Gurdy Player) 

ジャック・カロ「犬を連れた盲目の旅人」
L'Aveugle et son chien (blind Man with dog)

 上に掲げた2枚は、カロと同時代のロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが自らの作品制作に際して、発想の源としたことがほぼ想定できる作品である。このブログでも紹介したラ・トゥールが好んで描いた旅の音楽師、ヴィエル弾きである。哀愁を感じさせるヴィエル弾きの画題は、17世紀のヨーロッパの人々には強い共感を引き起こしたようだ。その後もこのテーマで小説や詩集まで創られている。これらの旅芸人たちは、多くは定住の地を持たず諸国を放浪して、町中などで演奏を聴いた人たちの喜捨などでわずかな生活の糧を得ていた。彼らは旅の途上で生活の窮迫、迫害など多くの苦難を常に背負っていた。しかし、カロやラ・トゥールが描いた音楽師たちは、身につけた衣装は粗末であっても、大地にしっかりと立っており、どこか孤高の人として毅然とした、威厳を感じさせる風貌を見せている。
 


Reference
Exhibition Catalogue: Princess & Paupers, Houston, 2013.

続く

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画家の見た17世紀階層社会(14):ジャック・カロの世界

2013年07月23日 | ジャック・カロの世界

 



ジャック・カロ「片目の女」
Jacques Callot, La Borgnesse (One Eyed Woman)


 イギリス王室の将来のプリンス誕生の騒ぎは、おめでたいことには違いないが、ちょっと騒ぎすぎではないかと思うところもある。イギリス王室の歴史を振り返ると、決して諸手をあげて喜べるとはいえないことも多々あった。もっとも、EU脱退の話まで取りざたされている昨今のイギリスの実情をみると、この機会に、空騒ぎでも慶祝ムードを盛り上げたいという気持ちは分からないでもない。とにかく、イギリスという国は、良きにつけ、悪しきにつけ、王室を話の種にしてきた。王室もこの国の栄枯盛衰をしっかりと受け止め、演出してきた。とりわけ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インドなどで、かつての大英帝国の威光を失うことなく、自陣内に留めていることはさすがだ。ふだんは表面に出ない巨大なサポーターを擁している。真のサポーターがないに等しい日本とは大きく異なる。いずれの国も衰退の時は来る。イギリスは幕の引き方が巧みな国である。どこかの国のように、「経済大国」に影が差すと、すべて浮き足立つということがない。

 閑話休題。今、このブログで取り上げている Princes and Paupers 「王女と貧民」という話題も、17世紀、イタリアやフランス、ロレーヌなどの宮廷と、その外にあって社会的底辺に追いやられていた人たちを対比させるという意味で、君主制を継承してきた国々の問題である。

 統計もITもなかった時代、当時の画家がリアルに描いた実態は、同時代の人々の目線で、社会を見ることを可能にしてくれる貴重な資料だ。近世前期と呼ばれるこの時代、君主などの為政者の側には、国民の厚生、福祉を維持・向上し、貧困を減少させるという意識は例外的にしか存在しなかった。基本的に個人の出自、そして能力と努力そして運がそれぞれの社会的位置を定めていた。


描かれること少なき人々
 
ジャック・カロはイタリアではメジチ家コジモII世の庇護の下で、そして故郷ロレーヌに戻ってからはロレーヌ公付きの画家であった。宮廷の後ろ盾なしには、いかに優れた腕の持ち主とはいえ、妻子を抱え生計を立てて行くことは、かなり難しい時代であった。そのため、この時代の多くの画家たちは競って君主の庇護を求めた。

 宮廷画家の多くは、自分を庇護してくれることになった君主や宮廷人など貴族階層の世界を描いていた。生涯、それ以外の対象を描かなかった画家も多い。彼らにとって、社会の大部分を占める貧しい人々は描く対象に入っていなかった。これは宮廷画家に限ったことではない。

 ジャック・カロもその画家としての生涯には、貴族たちが気に入るような作品を多数残している。宮廷行事などの劇場的光景、戦争における勝利、貴族たちの日常の断片、仮面劇の光景などである。しかし、カロには他の宮廷画家とかなり異なった点があった。それがなにに由来するのかは、分からないが、貴族の家に生まれ、親に自分の行く末まで束縛されることに反抗し、銅版画家を志し、イタリアの自由な空気を求めて、ほとんど家出同然の年月を過ごしたことに関係しているかもしれない。

 
1621年に故郷ナンシーへ戻った後は、かつては縁を切った旧来の関係と折り合いをつけねば生きられない事情もあった。それだけ若いころの角がとれて、大人になっていたのだろう。ロレーヌ公の宮殿へ出入りできるようさまざまに努力した。ロレーヌ公への奉仕と忠誠をもって、貴族になっていた実家の力も必要だった。

 他方、イタリアで修業していた頃から、カロの目には社会の底辺に生きる人々の姿が消え去ることはなく映っていた。そして、画家人生の最後の15年近くは、社会の下層・縁辺部に生きるさまざまな人々の姿を描いている。

 人々はそれぞれが置かれた階級の場所で、精一杯生きていた。彼らの正確な数などは到底不明である。当時の社会の大部分を占めた農民を含めると、恐らく人口の7割をはるかに越える人々が、貧しく、質素な日々を過ごしていた。このピラミッド型の社会階層で最も下の部分を占めるのが、カロが画題とした人々である。日々を過ごす蓄えや手立てもなく、人間としてかろうじてその日を生きているような人々である。カロの描いた他の作品を鑑賞しながら考えてみると、フローレンスでもナンシーでも、こうした人々は日常いたるところで目につく存在であったに違いない。宮廷に頼って生きる貴族たち、プリンス・プリンセスの社会とは、事実上断絶した別の社会で貧民たちは生きていた。

ジャック・カロ「ロザリオをかけた乞食」
Jacques Callot, Le Mendiant au rosaire (Begger with rosary)

カロの「貧民」シリーズの迫力
 
カロの描いたPaupers(貧民)と呼ばれる一連の作品は、大きな反響を呼び、かのレンブラントも刊行後10年経たずして、作品を入手していたという。それまでほとんど描かれる対象にはならなかった人々でもあり、たちまち当時の人々の関心の的となった。各地をさまよい歩くさすらいの人々、ジプシー、貧しい農民たち、戦いに敗れ雇い主から解雇された傭兵などのリアルな姿が描かれている。貴族社会の華やかな生活と違って、見て楽しいというイメージではないが、あまり正確に伝わっていない社会の陰の部分が克明に描き出されている。彼らを描くという画家の思い自体に、社会の底辺で必死に生きる人々への人間としての同情がこめられている。教会などのわずかな施しなどに頼るしかなかった時代の苛酷な現実が、観る人の心を打つ。 

 カロの「貧民」シリーズは、正確には分からないが、ほぼ1622-23年頃に制作され、現存するおよそ25枚から構成されているとみられる。その一枚、一枚を観察すると、この非凡な画家が対象とした人物の実に細かい点まで観ていることが伝わってくる。油彩ではなく、モノクロの銅版画でよくこれだけ描き込んだという感想も生まれる。カロの描いた貴族のさまざまなイメージが、彼らの「スタイルブック」として使われたような役割は、「貧民」シリーズにはない。ここに描かれた貧しい人たちが、カロの作品を観る機会など到底なかったろう。しかし、この画家は実にさまざまな貧しい人々の異なった姿を描き分けている。もちろん、この創造力溢れた画家でも、当時の貧民の全体像を描くなど、到底不可能であった。それほどに、貧民の数は多かったのだ。しかし、カロの作品によって、現代人は当時の社会の現実の有様がいかなるものであったかを、時を超える迫真力をもって知ることができる。

現代の白昼夢
 
カロの描いた貴族と貧民のさまざまな姿に接していると、白昼夢を見る思いをすることがある。かなり以前からのことである。タイム・マシンは現代に戻っている。しばらく前、「一億総中流」社会と自称していた国があった。それがいつの間にか「格差社会」といわれるようになっている。身につけている衣装からはしかと判別できないが、生への強い意志も失い、頼る寄る辺もなく、ただ老いと貧困の日々を過ごしている人々が、かなり増えてきたと感じている。


Reference
Exhibition Catalogue, Princes & Paupers: The Art of Jacques Callot, 2013.

 

続く

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画家が見た17世紀階層社会(13):ジャック・カロの世界

2013年07月23日 | ジャック・カロの世界




Jacques Callot, La Grande Chasse (The Stag Hunt), 1619, etching on laid paper, the MFAH, gift of Meredith J. Long in honor of Fayez Sarofim at “One Great Night in November, 1991.”, quoted from the exhibition catalogue "Princes & Paupers" held in Houston.

 

 ジャック・カロの時代、支配階級である貴族層の頂点にいたのは、領主である。同じ貴族であっても、上流、中流、下流、法服、帯剣と複雑に階層が分かれていた。彼らの頂点に立っていた領主にのみ許された楽しみがあった。それは多数の貴族、その家臣たち、そして馬や犬を動員し、鷹をあやつる「鷹匠 」 falconer を使って、鹿、猪、狐、雉などの鳥獣を狩る『大狩猟(大鷹狩り)』 La Grand Chasse (The Great Hunt or The Stag Hunt)と呼ばれる大規模な狩りであった。

  中世以来、狩りを題材とした作品は多いが、カロも優れた作品を残している。制作されたのは、カロがフローレンスに滞在していた頃である。ここに紹介する作品はその一枚、鹿狩りの光景を描いたものだ。馬に乗った貴族や槍などを持った家臣、従僕たち、多数の猟犬、そして鷹匠などが、牡鹿を追って動いている。獲物とされる牡鹿は画面中央部に追い詰められている。以前、ブログでとりあげたことのあるパオロ・ウッチェロの『森の中の狩』と同様に、おなじみの遠近法を駆使して描いている。この作品で左右に広がる大樹は、狩り場の光景に迫真力を持たせる効果がある。カロが遠近法を十分修得していることは改めて述べるまでもない。
 
 左前方で馬に乗り、指図をしているのが領主なのだろう。後ろには槍を肩にした家来、そして多数の猟犬を従えている。そして、貴族の前で今、鷹を空に放とうとしている鷹匠がいる。上空には2羽の鳥が争っているのがみえる。画面右側にもなにかの指図をしている騎馬の男、はやる犬たちを抑えている男などが描かれていて、臨場感を強めている。中央の大きな木の下には、落馬したラッパ手までいる。左手小高い丘の上には領主の館と思われる塔を備えた別荘 estate の一部が描かれている。



La Grancd Casse (details)

 カロは鹿狩りの光景を4ステートで描いており、これはその一部を構成している(Four Landscapes, 1617-18;L.
264-67)。カロはイタリア時代に共に仕事をしたアントニオ・テンペスタが多数制作した狩りの光景から多くを学んだようだ。テンペスタはおよそ200点に及ぶ狩りの光景を描いたといわれる。

 カロはそれに加えて、フローレンス滞在中にフェデリコ・ツッカロ Federico Zuccaroが、ヴェッキオ宮殿内に描いた大作『大狩猟』を手本にシリーズを作成したと推定されている。この作品はツッカロが1565年、メディチ家フランセスコI世とジオヴァンア・ドオーストリアとの結婚を祝して依頼され、作成された。

 現実には、こうした狩猟や鷹狩りは当初、戦争の準備・訓練のために行われたが、次第に貴族たちの主たるエンターテイメントとなっていった。あのカスティリオーネも「宮廷人に適当な身体の運動であり、武人にはふさわしい」と推奨している。

 「領主のように狩りをしていた」というと、あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールを非難する地元農民の亡命中のロレーヌ公へ当てた抗議の手紙の一節が思い浮かぶが、ラ・トゥールはリュネヴィルの大地主にまでなっていたが、画才を認められて貴族となったたかだか中級貴族にすぎず、到底このような壮大な狩りを楽しんだわけではない。この点については、別に記す機会があるかもしれない。

 さて、カロが鋭く観察して描いたこの時代の貴族については、興味深い点が多々あるが、ひとまずこのくらいにして、カロの描いた他の社会階層へ視点を移すことにしたい。

 

 

続く

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画家の見た17世紀階層社会(12):ジャック・カロの世界

2013年07月11日 | ジャック・カロの世界

 

 

Jacques Callot
L'Éventail (The Fan), Florentine Fête
1620Etching with engraving
220 x 298mm
Albert A. Feldman Collection
ジャック・カロ、『扇』
毎年7月25日、聖(大)ヤコブの祝日に行われるフローレンスでの祝祭行事を描いた作品
カロが故郷ナンシーへ帰る直前に制作された。クリックして拡大。

 


  画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに多少なりと関心を持たれる読者は、この画家の配偶者となったディアヌ・ル・ネールが現在のフランス、ロレーヌ地方のリュネヴィルという地の貴族の娘であったことをご記憶と思う。1617年に結婚後、ラ・トゥール夫妻はこの地に移住し、戦乱や悪疫が蔓延した時期を除き、その生涯のほとんどをリュネヴィルで過ごした。

ヴェルサイユそっくり!
 今日、リュネヴィルを訪れてみると、そこには「プティ・ヴェルサイユ」といわれるヴェルサイユ宮殿をそっくり移したような大宮殿・庭園があることに驚かされる。今はとりたてて目立った産業もないリュネヴィル市は、お定まりの財政難で、2003年の大火災で焼失した宮殿部分の再建や広大な庭園の維持に大変なようで、管理状態は決して良くない。しかし、とにかくどうしてこの地に、こうした壮大な宮殿が造営されたのだろうかという疑問を持った。


 多少、由来を調べてみると、リュネヴィルは中世から水運を利用した塩の輸送などで栄え、最初のリュネヴィル城が築かれたのは10世紀であった。ドイツの諸侯が幾度か領有を繰り返した後、最終的にトゥール司教がリュネヴィル伯となったことで決着した。1243年、リュネヴィル伯位はロレーヌ公国のもとに移った。17世紀以降、歴代のロレーヌ公は好んでリュネヴィルに暮らし、町を美しく再建した (1611年ロレーヌ公アンリII世がそれまでに存在したリュネヴィル城を元に再構築した)。首都であるナンシーは行政上の首都として機能した。

 もっとも、17世紀、ラ・トゥール夫妻が住んでいた頃のリュネヴィル宮殿は、ナンシーの宮殿の離宮のような程度であった。それもフランスとの戦いで1638年、ほとんど全市が焼失してしまった。その後18世紀、ロレーヌ公レオポルド1世とスタニスラス・レシチンスキ公時代に宮殿の再建が進められた。今日残るのは、主としてこの時造営された建物である。

プティ・ヴェルサイユの流行 
 
実はこの時代、フランスブルボン朝のルイ14世が、ヴェルサイユに大宮殿を造営したことを模して、ヨーロッパ中でこうした宮殿を建設することが流行した。あまり有名でないプリンスまでもが、ブルボン朝の繁栄にならいたいと思ったようだ。かれらは自分たちの領地の中心から離れた場所へ競って王宮を造営した。

 フランスの影響下にあったロレーヌ公国のリュネヴィルはその代表例だった。そのほかには、ナポリ王国のカセルタ、プロシャのポツダム、ヴィエナ郊外のシェーンブルンなどがある。ルイ王朝の仇敵であったイギリスのウイリアム・アンド・メアリーまでもが、ロンドン郊外にテューダー風の豪華なハンプトン宮殿を建設した。宮殿を都市から引き離したことで、それまでなかった宮廷生活の世界が創り出され、ヨーロッパの王家の間に新たなファッションを生んだ。17世紀末から18世紀初めにかけて、こうした風潮はある意味で近世初期ヨーロッパの絶頂期となった。

宮廷文化の盛衰
 これらの君主たちは競って自分の王宮を華麗なものとし、そこにおける独自の文化を生みだそうとした。ひとたびそうした空間に慣れた貴族たちは、そこに定着し、もとの都市へ戻ろjうとしなかった。1634年、長年慣れ親しんだ宮廷から追放されたあるスペイン貴族の言葉が残されている。「宮殿を離れることは......世界の最果ての地に行くようなものだ。暖かさや光溢れる所から離れ、ひとが誰も住んでいない、荒れ果てた土地にひとり住むようなものだ。」*1 

 彼らにとって、宮廷の生活がいかに重要なものであるかを思わせる言葉だ。しかし、現実には時の経過とともに、宮殿生活には退廃やマンネリズムがはびこり、衰退の色が濃くなっていた場合が多かったようだ。これは革命前のヴェルサイユの状況からも推測できる。

 さて、ジャック・カロやラ・トゥールが生きていた17世紀前半の頃は、未だ宮廷文化が華やかであった。ロレーヌ公国のような小さな国でも、貴族たちはいかに装い、振る舞えば、貴族らしく見えるか、それぞれに努力していた。16世紀を代表する人文学者のひとりエラスムスの言葉が残っている。「最初はそれ(貴族)にふさわしい衣装でよい。しかしいずれ……[彼らは]その役割を演じなければならない。」*2

貴族層の分化
 
17世紀ロレーヌ公国でも貴族は社会生活で中心的役割を果たしていた。しかし、貴族の数が増えてくると、服装だけで彼(女)たちの階層を推定することはかなり困難になっていたらしい。カロの版画はいわばスタイルブックの役割も果たし、そうした際の判別にきわめて重宝されたようだ。

 この画家は分化し、複雑になった貴族層の微妙な差異を衣装の細部まで描き込むことで、見る人に判断材料を与えていた。カロは正確な観察の下に描写で知られた画家であった。そのため、描かれた服装は当時の貴族たちのさまざまな姿を今日に伝えている。しかし、カロと同時代の人にとっても、同じ貴族階層の中での上下関係を推定することはかなり困難であったようだ。そのために、画家は人物の背景に彼(女)たちの社会階層を暗示する邸宅や住宅地域などを描き込んだ。これを見ることで当時の人々は、宮廷都市ナンシーの町並みばかりでなく、描かれた人物の階層を知ることができた。さらに、ひとりひとりの衣装の詳細、装身具、武具などの細部を描いて、彼らの貴族階級あるいはブルジョワ層の内部における階層の上下を判断できるようにしていた。

 描かれた人物がしばしばコミカルな容貌をしているのは、該当する人物がナンシーでは著名であったこと、あるいは友人たちをモデルにしたためではないかと推定されている。さらに、カロは金銭的には裕福であるブルジョワたちがなんとか貴族階級へ入り込みたいと、あたかも貴族のように振る舞っていること、さらに貴族層の内部でもより昇進したいと、さまざまな試みがなされていることを、風刺をこめて描いている。もちろん、カロのような中層、下層の貴族たちもそれぞれに階層内での上方移動のために、できうるかぎりの努力をしていたことはいうまでもない。

 彼(女)らが社会における自分たちの地位を認識する機会はさまざまにあったが、そのひとつをカロの作品から紹介しておこう。上に掲げた作品は、フローレンスで、毎年、聖(大)ヤコブの祝日に、1日かぎり催される naumachia と呼ばれた盛大なスペクタクルである。これはフローレンス市内を流れるアルノ川で海戦の光景を再現し、人々がそれぞれに着飾り、自らの階層に対応した場所から見物している光景である。メディチ家が主催し、その権威と財力を誇示した行事のひとつであった。多数の人々が川の両岸、橋の上などから見物している光景から、この行事がきわめて盛大なものであったことがうかがわれる(今日だったら隅田川の花火見物のような光景か)。カロが描かなければ、その詳細は今日に伝わらなかったともいわれる。いわば、今日の写真に相当する意義を持っている。

 テーマは、アルノ川の中流に作られた人工島をめぐり、織物工と染色工のギルドが争奪の戦いをするという設定で、銃火器の代わりに水を打ち合うという形になっている。この作品は丈夫な紙に印刷され(裏側は説明文)、銀の持ち手がついた贅沢な扇(形状は今日の団扇に近い)であり、コジモII世の命で500枚だけ制作され、貴顕の人々に配布されたという。扇をもらえた人々は、自らの社会的地位をさぞや誇示したことだろう。中央右手の女性が左手に得意げに掲げている。

 華麗な馬車に乗ったり、遠めがね(望遠鏡)で眺める人(画面、左手)も描かれている。ブログのガリレオ・ガリレイの記事で記したが、望遠鏡はすでにこうした形で使われていた。ガリレオはほぼ同じ時期にコジモII世の庇護の下にあり、カロの友人であった。いうまでもなく、手前の見晴らしの良い場所に陣取っているのは、フローレンス貴族社会の上層に位置する人たちである。この時代の貴族とは、いかなる社会的地位を占めていたかが、如実に伝わってくる。

 このように、カロはフローレンス時代、そして故郷ナンシーへ戻ってからも、自らが貴族でありながらも、職人、商人など、そして社会の下層部に多数存在した貧民の状況をあたかも記録写真のように、写し取り、作品にしていった。 

 続く


 


*1
Jonathan Dewald, The European Nobility 1400-1800 (Cambridge: Cambridge University Press, 1999) に引用されている貴族の言葉(原典はR.A. Stradlimg, Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665, Cambridge, 1988, 156)。

*2
Exhibition Catalogue Jacques Callot (2013, 20) quoted from Erasmus’s Colloquy ”The False Knight” in Jackson, 1964

 


Reference: Exhibition Catalogue: Princes & Paupers, The Art of Jacques Callot, The Museum of Fine Arts, Houston, 2013.

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画家が見た17世紀階層社会(11):ジャック・カロの世界

2013年07月01日 | ジャック・カロの世界

 


j

『宮廷人の本』
Baldesar Castiglione. The Book of Courtier,
Edited byDaniel Javitch
New York & London: W.W.Norton, 2002

上掲の書籍はイタリア人バルデサール・カスティリオーネ(1478-1529)によって書かれたイタリア語の原本を英語に翻訳・編纂したもの*。クリックすると拡大。


17世紀と20世紀の近さ
 ようやくシリーズのテーマに戻ることができそうだ。文学座の『ガリレイの生涯』について考えている間は、自分が現代にいるのか、17世紀にいるのか、一瞬戸惑うような錯覚に陥りそうだった。

 『ガリレイの生涯』を劇作化したベルトルト・ブレヒトは、1898年に生まれ、1956年に亡くなっている。管理人にとっては、現代史のある部分を共有したほとんど同時代人の思いがある。

  ブレヒトは1933年、ドイツ帝国ヒンデンブルグ大統領がヒトラーを首相に任命、その直後に起きた有名な国会議事堂放火事件の翌日(1933年2月28日)、入院中の病院を密かに抜け出て、ユダヤ人であった妻と長男を連れてプラハ行きの列車に乗り込んだ。そしてデンマークに5年間近く滞在した。

 しかし、1940年4月、ナチスがデンマーク、ストックホルムに侵攻したため、1941年ヘルシンキ、モスクワ、ウラジオストックを経由してアメリカ合衆国へ亡命のため入国した。しかし、共産主義者であったブレヒトは、1947年あの悪名高い非米活動委員会の審問を受ける(ガリレオの異端審問を思わせる)。恐怖に駆られたブレヒトはその翌日、パリ経由でチューリッヒへ逃亡、そして1949年東ドイツへ入国した。その後1956年8月14日、心臓発作でベルリンで死去するまで、自ら結成した劇団ベルリナー・アンサンブルを拠点にベルリンで活動した。その墓はヘーゲルとフィヒテの墓に向かい合っている。


 他方、ガリレオ・ガリレイが活動していた時代は、このブログに頻繁に現れるラ・トゥール、カロなどの生きた時代とまったく重なっている。17世紀が「危機の時代」ならば、現代はそれ以上の危機的状況をはらんだ時代といえるだろう。

カロと貴族社会
 
銅版画家ジャック・カロが当時の世界の最先進国イタリア、ローマから故郷のロレーヌへ戻ったが、しばらくはさしたる仕事がなかったことは前回記した。しかし、2年ほどしてナンシーの富裕なクッティンガー家の娘カトリーヌを妻に娶ったことと前後して、ロレーヌ公宮廷に関連する仕事が急増する。カロは自らの仕事を通して、貴族として生きることとはどういうことかという問題を考えていたようだ。

 カロにとどまらず、17世紀のヨーロッパ諸国の宮廷で君主に仕える宮廷人にとって座右の書となっていたのが、前回紹介したバルダッサーレ・カスティリオーネの著した『宮廷人』 Il libro del cortegiano, 1528 という書物だ。

 カスティリオーネ自身、外交官であり、作家でもあった。この書は決して現代社会に氾濫しているハウ・トゥ物ではない。君主に仕える宮廷人が自らの尊厳を保ちながら、一定の道徳律の範囲で、君主のために尽くすには、いかなることが必要であるかを説いている。1506年5月のウルビーノ宮廷の4日間を描いたという設定で、宮廷人が備えるべき条件、教養について記している。現実と理想の葛藤など、当然、多くの論争を引き起こす材料も多数含まれている。ラテン語を含め多数の言語に翻訳されたが、日本語訳もあり、今日読んでもきわめて興味深い。

 ノーブル(高貴)であるとは、なにを意味するのか。カロは貴族 La
Noblesse として生きる意味を画家の目を通して描いた。イタリアでもロレーヌでも、貴族たちは自ら肉体労働をすることを嫌い、そうした労働をする者を軽視していた。しかし、画家、建築家などの芸術家、金細工師、宝石商など高度な技能を持った職人は、評価していた。

 こうした環境で故郷に戻ったカロはイタリア風からロレーヌ風の版画家として、転換するためにさまざまな努力をしていた。今日に残る下絵のデッサンや作品では、イタリア風に描かれていても、銅版の段階ではロレーヌ風に描き直していたようだ。

 カロが描いた「貴族」のカテゴリーには、ブルジョワ・貴族 bourgois nobilityといわれた社会の中間階層のイメージも含まれている。ブルジョワは一般に貴族ではないが、服装や生活態度などで貴族化していた。彼らは裕福な商人、法律家、医師、会計係、大学教授などであった。ガリレオもこの中に含まれるだろう。彼らは平民よりも豊かであり「貴族のようにふるまい、生きる」ことを目指していた。裕福な商人や画家なども貴族のような出で立ちで現れ、血統は貴族の家系でなくとも「貴族授与状」letters of ennoblrment を授けられことは珍しくなかった。

 彼らにとって衣装は大変重要な意味を持っていた。衣装を貴族のように装うことで、中身より見かけを変えることが選択されるのは、昔も今も代わらない。17世紀初期にはイタリアでもフランスでも recueils de costumes と呼ばれた「衣装コレクション」、今日でいえばスタイルブックとでもいえる書籍が大変人気があった。これにはヨーロッパのみならず、当時知られていた外国の衣装まで入っていた。主として貴族の衣装がもてはやされたが、従者や高級娼婦などまで描かれていた。このブログにもとriあげたカロに先立つロレーヌの銅版画家ジャック・ベランジュの銅版画にも、いったいどこの国の人だろうと思わせるエキゾティックな人物が多数描かれている。

 

本書(英語版)の大変興味深い点は、カスティリオーネの原書の英語訳に続いて、彼が抱いていた貴族像について、10人のさまざまな観点からの批評が掲載されていることである。内容は非常に面白いのだが、今ここに紹介するだけの余裕がない。下記の邦訳もある。


カスティリオーネ・バルダッサッレ(清水純一、岩倉具忠、天野恵訳註)『カスティリオーネ宮廷人』東海大学出版会、1987年。

 
続く

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(10):ジャック・カロの世界

2013年06月12日 | ジャック・カロの世界

 

ジャック・カロ
クロード・ドゥリュ Claude Deruet (1588 Nancy-1660 Nancy) と息子アンリ・ニコラの肖像画
1632年

画像拡大はクリック(以下同様)



フランスの郵便切手にも採用されたカロの作品

 ガリレオ・ガリレイの世界については、考え出すと思い浮かぶことが多く、とてもまとまらない。文学座の公演を見れば、脳細胞も刺激され、雑念も整理されてさらに新たな発想が思い浮かぶような気もしている。ひとまずこのテーマの路線へ戻ることにしよう。

 ガリレオ・ガリレイも17世紀ヨーロッパ階級社会の一員であった。彼は天文学者で大学教授ではあったが、イタリアでの社会階層での位置づけは決して高いものではなかった。優れた銅版画家のジャック・カロがトスカーナ大公の庇護の下でしか、十分な仕事ができなかったように、彼らは時代を支配していた貴族層のパトロンを後ろ盾として、物心両面の支援なしには自分の持つ能力を十分に発揮することはできなかった。自らの力だけでその才能を開花させることはきわめて困難な時代であった。

17世紀貴族の実態

 他方、イタリアでも、フランスでもあるいはイギリスでも貴族たちの多くは、自分たちが属する貴族という階級のなかでの昇進を目標にして生きていた。そのためには、自分たちの存在、そして仕事ぶりを他者に認めさせることが必要だった。いわば公的な人間ペルソナとしての社会的な誇示をしていないと、支配者が代わると、貴族の称号やそれにまつわる特権さらには社会的評価も消滅し、認められなくなることも頻繁に起きた。そのため、貴族は「貴族らしく」、衣装、礼法、言葉使い、同僚や上位の貴族層とのつきあい方などに大きな努力をしていた。ひとたび獲得した貴族的特権はそれらを行使しなければ、社会的に次第に認知されなくなり、形骸化、風化してしまう。さらに、その時代の「貴族」のイメージに合致しない人物は良かれ悪しかれ隅に追いやられてしまう。

 パン屋の息子ではあったが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが貴族の娘と結婚し、それを契機に貴族的特権の請求をロレーヌ公に行い、それらが認められた後は、ことあるごとにその行使を行っていたのは、下級貴族として生きるために、それなりの理由があったのだ。現代社会の尺度で、それらを傲慢とか、強欲の結果と断定するのは、やや早計と思われる。ラ・トゥールのように、天賦の画才に秀でた功績で貴族となった者は、多くは一代かぎりであった。しかし、できることならば息子たちなど次の世代へも継承させたいと思うことも人の常であった。ラ・トゥールも例外ではなかったと思われる。

 近世初期のフランスなどでは、生まれた子供の大部分は成人に達することなく死んでしまった時代でもあり、貴族あるいはそれに伴う特権・地位を確保し、家系の次の世代にまで継承させることは容易なことではなかった。

 この時代における貴族に関する研究や文献はきわめて多いが、それでも貴族層の実態は不明な部分が多く残されている。いったい貴族が何人くらいいたのかも諸説あって定かではない。その種類、授与の内容も複雑多岐にわたる。

 すでにブログに記したこともあるが、祖父や曾祖父などの代で功績と忠誠を認められて、所領や家紋を授与されながらも、時代とともにいつの間にか風化し、それに気づいた孫や曾孫の世代になって、かつての地位・特権の復権、名誉回復などを求める動きは多数存在した。

 中世以来、先祖の武勲などで貴族となり、名門の誉れ高い家系では、さほどの努力をすることなく、子孫代々までその地位と特権を享受することができた。しかし、中・下層の貴族たちは、彼らの特権がどこに由来するのか、きわめて不確実であり、しばしば一代かぎりでもあった。

 ブログに登場するジョルジュ・ド・ラ・トゥールの家系についても、母方には貴族の血筋があったかもしれないという研究もある。また、常連の読者の方は、ご存知の通り、ジョルジュの息子エティエンヌが画家としての資質や向上意欲?に欠けていたがために、親の七光りで授与された貴族の称号・地位に固執し、最終的には領主への道を選択し、画家としての家系を意図的に?消し去っていったという指摘もなされている。

貴族の条件

 トスカーナ大公にその画家としての力量を認められたジャック・カロのような宮廷画家の仕事は、貴族たちの注文に応じて、自画像・ポートレイトを作成することも重要な仕事に含められていた。その場合、画家は画像に描かれる人物の地位、知識・教養、職業などが見る者に分かるようにしなければならない。描かれる者の社会的地位が誇示されることになる。当時は、そのための決まりがすでに定着していた。情報伝達手段が限られていた時代、肖像画は描かれた者の社会的存在意義を世の中に知らしめるきわめて重要な方法だった。

 カロが描いた肖像画は、実際には自画像を含み15枚程度と以外に少ない。その中には、ロレーヌ公シャルルII世、メディチ家コジモII世なども含まれる。

 こうした時代環境であったから、「貴族はどうあるべきか」という話題は大きな注目を集めた。そのための条件を記した下記のガイドブック、カスティリオーネの『宮廷人必携』(Castiglione's The Book of the Courtier) は当時いわば国際的ベストセラーとなった。今日読んでもなかなか興味深い本だが、とりわけ貴族たるものは「優雅さ」(grase, grazia)、「(貴族であることを意識させない)無関心さ」(nonchalance, sprezzatura) があげられていることが興味深い。社会の指導者の人格、力量などが話題にされることが多い現代にもつながる記述も多く、時代を超えて人間社会の機微の複雑さを思わせる。

  さらに一挙手一投足、日常の振る舞い、習慣、装いなども必要な条件であった。自らの相対的な立場を認識していない者は、ひどく軽蔑された。貴族もそれぞれのたっている状況を認識して身なりなども整えることが要求されていた。

 画家のClaude Deruet, Jacques Callotなどは貴族に任じられ、一般の貴族よりはランクが上であったが、
 長い家系上の血統を保持する「(真に純粋な)貴族」とは遇せられなかった。文筆に優れた人々、学者、画家などの芸術家に授与された貴族のタイトルであった(彼らは、Letters of Noblementを贈られてはいる。しかし、”正統貴族”との間にはさまざまな壁があった)しかし、この時代においても評価の重点が置かれたのは、遠い祖先たちの成果ではなく、その時代に生きる貴族自身の徳と行動とされていたことは、興味深い。

 クロード・ドゥリュの場合は、ロレーヌ公から貴族の称号を授与された後、ほぼ10年後には、gentilhomme (紳士・貴族)という稀な称号も得て、階層中における地位を高めている。やや後年になるが、モリエールの『町人貴族』 Le Bourgeois Getilhomme のコメディ・バレ(1670年初演)で取り上げられているのは、貴族(gentilhomme)になんとかなりたい愚かな金持ちの商人(bourgeois)を取り上げている。当時の貴族のイメージ、他方金銭的には裕福だがなにか欠けているとされるブルジョワのイメージが興味深く描かれている。


 この問題は深入りするときりがない。ひとまず棚上げにする。

 さて、上掲の画像は、カロが恐らく1632年の記念すべき年に友人の姿を描いたものである。描かれた人物ドゥリュにとっては、得意絶頂の時と思われる。カロは当時のマナーに従って、ドゥリュ家に授与された家紋も適切な場所にしかるべく描きこんでいる。ロレーヌ公ばかりでなく、フランス王ルイXIII世も、ドゥリュ
に1645年に貴族の称号を授与している。人物の背景にはナンシーの市街、とりわけドゥリュの当時著名であった豪邸も描かれている。ルイXIII世がナンシー入りした時、宮殿よりもドゥリュの邸宅に滞在することを望んだほどの豪華な邸宅だ。そして、得意満面の父親の傍らに、息子アンリ・ニコラは小さなマスケット銃と銃架を持って描き込まれている。恐らく、そうしてほしいとのドゥリュの希望の反映であろう。

 ドゥリュはその画業生活を通して、カロのように社会の貧民層を描くことはなかった。生涯を通して、豪華絢爛たる宮廷などにかかわる社会的上層の有様しか取り上げていない。その生き方は、当時の宮廷社会の上層部にはおそらく好まれたのだろう。カロのように社会の下層部に位置する貧民層に目を受けることはなかった。しかし、カロはこうした社会観の異なる友人にも画家として適切な敬意を払って友人の晴れ姿をしっかりと残している。

 




ジャック・カロ自画像

 

 名門貴族のように、所領などの財産が十分ではない貴族・ブルジョワにとっては、裕福な家から妻を娶ることも、この時代しばしばみられた処世術であった。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが貴族の妻と結婚したように、ジャック・カロも1623年ナンシーの富裕な家で、貴族層とつながりもあったクッティンガー家から妻カトリーヌを娶った。
 
 イタリアではすでに十分認められた銅販画家であったが、トスカーナ公の死後、故郷ナンシーへ戻ったカロにしばらく大きな仕事は来なかった。しかし、この結婚を契機に、カロの画業は急速に上昇・発展への道をたどった。17世紀、内助の功といえようか。

 




ジャック・カロ
妻カトリーヌと子供肖像

 

 

 

続く

 

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(9):ジャック・カロの世界

2013年05月31日 | ジャック・カロの世界

 

書斎で満足げな哲学者ルネ・デカルト(G.Parker, 2013 図版) 
 この画像、なにを意味しているか、お分かりだろうか。すぐにお察しの方には大きな敬意を表したい。描かれた人物は17世紀きっての哲学者ルネ・デカルトである。この偉大な人物が馬鹿にしたように踏みつけている本は、アリストテレスと背表紙にある。この時代、きわめて
高価な本を足で踏みつけるとは! 他方、彼が読んでいるのは、1638年に購入した同時代の天文学者ガリレオ・ガリレイの論説(「新科学対話」だろうか)である。デカルトは「この書を読むのに2時間を要したが、余白に記すことはなにも見つからなかった」と記している。*2(上記Parker図版説明)。画像はクリックして拡大。

 
 このシリーズが脱線、横道に入ったのには、ある理由があった。誤解を恐れず言い切ってしまえば、これまでの17世紀ヨーロッパ史そしてその傍流である美術史は、その視野設定にかなり限界があると思っていたからだ。一部の例外を除けば、この時代のヨーロッパ美術史では、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、オランダ、フランドルなどの北方美術の地域に主たるスポットライトが当てられていた。しかも、多分に作品あるいは当該画家個人の次元に検討の重点が置かれてきた。


グローバル化の曙
 このなにを目指しているのかわかりがたい断片的なブログの記事を、今日まで辛抱強く読んでくださった皆さんは、すでにお気づきの通り、グローバリゼーションは17世紀美術の世界でも、背景として明らかな展開を見せていた。今はオックスフォード大学へ移った歴史家ティモシー・ブルックが、フェルメールの一枚の絵の中に描かれた若い兵士がかぶっている帽子が、遠く新大陸カナダのセント・ローレンス川流域につながっていることを指摘したように、貿易という手段はすでに当時の世界に大きな変化をもたらしていた。同じ作品に描かれている背景の壁にかけられた地図は、地理学者が見た当時の世界のイメージを示すものだった。

 こうした点に関心をもたないかぎり、フェルメールも一枚の美しく描かれた風俗画を見ただけの印象で終わってしまう。ブルックの著書の副題は「17世紀とグローバルな世界の暁」であった。この書物を読まれた方は直ちに気がついたように、この著作は美術書ではまったくない。フェルメールの作品の美術的次元や評価はほとんどなにも含まれていないのだ。

開かれていた海路:冒険家と宗教家
 航海術の進歩もあって、マゼランやドレークなどの冒険者によって、16世紀末までには世界一周の海路は明らかにされていた。その背後には宗教の力も働いていた。1552年北イタリアの小さな町に生まれたマテオ・リッチは、1534年、イグナティウス・ロヨラなどによってパリに設立されたジェスイット会(イエズス会)に加わり、1577年インドへの布教の旅に加わる。そして最終的には中国にまで旅をし、1610年に北京で死去している。イグナティウス・ロヨラのジェスイット会創始者のひとり、フランシス・ザヴィエルもリスボンから、ポルトガル領ゴアへ旅発ち、1549年には中国、日本に到着した。彼もまた、1552年に中国で死去している。このように、宗教上の情熱は、宗派間が競いあう力と相まって、彼らを遠い異国の地へと向かわせた。

ヨーロッパに起きていた変化
 
ヨーロッパの中でも大きな変化が進行していた。ローマは何世紀にもわたり、世界の文化の中心であることを誇っていたが、その影響力も次第に新興の大都市パリあるいはオランダへと移転しつつあった。

 それらの地を往来した人々、そしてかれらが運んださまざまな品が、新たな環境を生み出していた。絵画の世界についてみれば、画業を志す人々のローマへのあこがれ、そしてそれを達成し、故国へと戻る人の流れがあった。故郷へ戻ることなく、イタリアの地にとどまった画家たちも多かった。

 人の流れは、作品や画風に関する情報の地域間の移転を生み出した。イタリアのカラヴァッジョの作風がその流れを継承するカラヴァジェスティによって、北方ユトレヒトなどへもたらされたのも、ひとつの流れだった。しかし、
ラ・トゥールやレンブラント、フェルメールの時代には、カラヴァッジョもすでに過去の人になりつつあった。

  シェークスピア(1564-1616)も、同時代の偉大な詩人・劇作家であったが、英仏の覇権争いもあって、大陸への浸透には時間を要した。時にイングランド国王はチャール一世であった。王は1600年の生まれだが、在位は1625-1649年、国家への反逆者として処刑された。国の元首が処刑される時代であった。もっともチャウシェスクやサダム・フセインなどの例を見る限り、今日でも例がないわけではない。他方、かのオリヴァー・クロムウエルは、王と1年違いの1599年の生まれ、1658年にこちらは病死したとされている。

 この時代の芸術文化や学芸、科学などの流れと盛衰には、それを動かす人たちがいた。当時のヨーロッパの中心パリにいて、王を通して国を動かすといわれ権勢並ぶ者なき存在であったリシュリュー枢機卿(1585ー1642)は、文化政策を政治策略の一部と考え、イタリアからパリへの美術品の買い付けと移送にも采配を振るっていた。前回、記した希有な天文学者、博物学者で美術品、骨董品の収集に大きな関心を寄せていたペイレスクが驚くほどに、金に糸目を付けない枢機卿の指令の下、多数の美術品がパリへ集まっていた。その一部は現在のルーヴル美術館の土台になった。

 リシュリューと同時代の探検家シャンプラン(Samuel de Champlain:1570-1635)は、イギリスと争奪を繰り返しながら、新大陸にニュー・フランス植民地を建設していた。彼は37年間の間に実に27回フランスと新大陸の間を往来した。しかもその間、一隻の船も失うことがなかった。

 こうした背景には、天文学の成果を背景としての優れた航海術の発達があったことを容易にみてとれる。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の時代でもあった。

グローバルな危機とヨーロッパ 
 こうしてみると17世紀は、文化・芸術・科学などが発展した時代と思いがちだが、現実にはヨーロッパ世界を覆い尽くした大きな危機の時代だった。このブログで、断片的に記してきたように、戦争、異常気象による干ばつ、大雨による洪水、農作物飢饉、悪疫の流行などが、人々を苦難と恐怖の渦中へと追い詰めた。

 17世紀はなによりも戦争の世紀でもあった。ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱を機に勃発して30年戦争(1618ー1648)をはじめとして、数え切れない大小の戦争が繰り広げられていた。とりわけ、神聖ローマ帝国(主として現在のドイツ)はその主戦場と化し、荒廃をきわめた。この時代のドイツ美術が語られることが少ないことには理由があった。長期間にわたる戦争と傭兵などによる略奪によって、ドイツの国土は荒廃し、ペストなどの悪疫の影響もあって、人口の激減をみるほどに衰退した。
 とりわけ30年戦争を理解することなしに、この時代を語ることはできない。多くの戦争の立役者が舞台に登場した。なかでもボヘミアの傭兵隊長から身を起こしたヴァレンシュタイン、他方迎え撃つ側のスウェーデン軍を率いたグスタフ2世アドルフは共に戦場で死を迎えた。さらに、フランスの参戦によって、権謀術数を駆使したフランス宰相、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、そして神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世の繰り出す戦略と軍隊が衝突する。

 1648年のヴェストファーレン(ウエストフェリア)条約の締結にこぎつけるまでは到底書き尽くせない出来事があった。戦場となった地域はきわめて広範にわたり、フランスと神聖ローマ帝国の狭間にあったロレーヌ地域も荒廃した。ジャック・カロがその残酷、非情な光景を克明に描いている。

 さて、17世紀が「危機の時代」であったことは、これまでさまざまに語られてきたが、実は危機はヨーロッパの地域に限られたものではなく、グローバルな危機であった。ヨーロッパの危機を鮮明に描き、われわれの前に提示した歴史家G・パーカーは、最近の力作 Global Crisis でその実態を見事に展開させている。その内容を見ると、17世紀という時代と現代がどれだけ違うのだろうかという思いがしてくる。汚れた東京の空では、ガリレオの望遠鏡をもってしても、木星の衛星はもはや見えがたい。人類はどれだけ進歩したのだろうか。パーカーの新著には中国はいうまでもなく、日本も登場する。機会があれば、その何分の1かでも記してみたいと思うのだが。

 

 



Geofrey Parker. Europe in Crisis 1598-1648. second edition, Oxford: Blackwell, 2001, pp.326.

Geoffray Parker. Global Crisis: War, Climate Change & Catastrophe in the seventeenth century. New Heaven and London: Yale University Press, 2013, pp.871.

*2
 
デカルトはガリレオの所説に好意的であった。自らの自然学哲学を論述した『世界論』を出版しようとした矢先、ローマでガリレオが地動説支持のかどで断罪されたことを知る。そこでデカルトは自らの『世界論』の出版をとりやめた。それは内容がガリレオと同様に地動説を認めるものであり、加えてローマ教皇庁が認めるアリストテレスの自然学をはっきりと斥けるものであったためである。この『世界論』とその終章に相当する『人間論』が刊行されたのは、デカルトの死後であった。
小林道夫責任編集「デカルト革命」『哲学の歴史』5巻、中央公論社、2007年。

 

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(8):ジャック・カロの世界

2013年05月21日 | ジャック・カロの世界

 

  文学座『ガリレイの生涯』の公演も来月に迫ったので、もう少しだけ横道に入り、ガリレオ・ガリレイとその周辺の世界について記しておこう。ガリレオについてはすでに多方面での膨大な研究の蓄積があり、それ自体がひとつの研究領域を形成している。

 ここで取り上げるのは、ガリレオの新発見、新説に対する旧体制、とりわけ教会、異端審問所などによる厳しい追及から、ガリレオを支援し保護しようとした人々のことである。ガリレオの生涯についての研究や文学
作品は多いが、ほとんど取り上げられることがなかった人たちもいる。その一人に、このブログでも短く記したことのあるニコラ・ペイレスクがいる。

 ペイレスクは1600-1601年の間、イタリアのパデュアに滞在した時、ピネリのアカデミーに研究の場を置いていた。彼はそこでガリレオに初めて出会った。そして、生涯を通しての友人となった。


生涯に1万通の手紙を書けますか

 ペイレスク自身も天文学者であり、考古学に関心を抱き、さまざまな骨董品の収集者であることで知られているが、とりわけ後者については、現代の日常使われている、古くて、市場価値のある品々を集めるという意味とは異なっている。むしろ、この地球や世界を理解するための品々を集め、研究するいわば博物学者の立場に近い。化石、珍しい植物、古代のメダル、書籍など、彼が興味を抱いたあらゆるものを収集していた。

 さらに驚くべきことには、ペイレスクは西はマドリード、東はダマスカス、カイロに及ぶ広範な地域にわたって500人を越える有識者、政治家たちと手紙のやりとりをしていた。その書簡の数は彼の死後、確認されたものだけで、1万通を越えるといわれる。そのほか自らヨーロッパを旅することで、多くの知見を積み重ねた。とりわけペイレスクはこうした活動を通して、科学知識の組織化を意図していたとも考えられる。その関心範囲の広さから「芸術・科学革命の時代のプリンス」ともいわれている。科学者、哲学者、政治家などで当代一流といわれる人々と、対等な立場で交流ができるということは並大抵なことではない。

 電話、ましてやインターネットなど考えられない時代であり、遠隔地にいる人々との交流はほとんど手書きの書簡による交信であった。それだけにペイレスクのような存在は大変貴重であった。いわば、ヨーロッパ世界における文化交流の中心のようであった。ペイレスクに連絡すれば、ヨーロッパの動向がほぼ分かるという情報センターのような働きをしていた。
世界の最高レベルの人々との交流を通して、ペイレスクも時代を代表する教養人であった。

 ペイレスクにとって、ガリレオが考え出した新説に対しての反対や非難は、無知と不安の入り交じった典型的な状況に思われた。そして教会内部にいるガリレオの友人たち、とりわけマッフェオ・バルベリーニ枢機卿(後の教皇ウルバンVIII世)およびフランセスコ・バルベリーニ枢機卿が、ガリレオを神学的立場から論難することが信じられなかった。

 彼にとって、惑星や星座の名前のように、あるいは発掘された古代の宝石がなんであるかを確認することのように、信仰にはいかなる損傷を与えることなく、コペルニクス体系の真偽を論じることができるはずだと考えていた。キリスト教の教義とはなんら関係ない次元での議論と考えたのだ。教会内部にもそう考えている人もいた。たとえば、ペイレスクの友人メルセンヌ神父は「聖書は哲学や数学を教えるように書かれたものではない」と記している。

メディチ家の星々
 
銅版画家ジャック・カロもそうであったように、貴族ではないが、さまざまな才能ある者(平民)が、それを生かすには庇護者(パトロン)の存在が欠かせなかった。とりわけ、家族その他のことで絶えず金銭的窮乏状態にあったガリレオにとって、有力なパトロンを確保することは、研究を続けて行く上でも重要であった。メディチ家の第4代トスカーナ大公(在位1609-1621年)コジモII世は、人格温厚で教養豊かな人物であった。大公になる前、一時期はガリレオから数学も習っていた。当時の貴族たちは所領の管理などで、数学の知識を必要としており、若い貴族で数学に関心を寄せる者は多かったといわれる。

 メディチ家とのつながりを強めたいと考えていたガリレオは、1610年3月4日付のパデュアからの書簡で、自らが発見したばかりの木星の4つの衛星について、1609年よりトスカーナ大公となったメディチ家のコジモ2世に敬意を表して “Cosmica Sidera”(コジモの星々)と命名したいと記した後に大公の提案に従って “Medicea Sidera”(メディチ家の星々)と改名した。大公だけでなく、メディチ家の4兄弟コジモ、フランチェスコ、カルロ、ロレンツォ全員に敬意を表したものである)。ガリレオは書簡で大公殿下の最も忠実なしもべと記している(ガリレオが大公に送ったこの書簡はメディチ家の継承財産の中に保存されていた)。
 

 ガリレオのこの発見は1610年3月半ば、550部の 『星界の報告』 Sidereus Nuncius としてヴェネツィアの印刷所から刊行された。

 1615年3月、ナポリの神父パウロ・フォスカリーニは、コペルニクスの説を聖書に敵対するものと考えるべきではない、と主張するパンフレットを出版した。ガリレオはその著作の写しを受けとり、自らの発見に自信を深めた。(後に禁書目録に入る)。

 しかし、世の中、とりわけ教会内部、異端審問所の動きはガリレオにとって不利な方向へと動いていた。さらに、彼が大きく頼りにしていたトスカーナ大公コジモII世が1621年に若くして亡くなり、ガリレオを支える環境は急速に悪化していった。コジモII世は政治力はなかったが、メディチ家が伝統としてきた文化興隆の支援者であり、よき理解者であった。あのジャック・カロもトスカーナ大公のおかげで、その才能を開花させることができた。

 ガリレオにとっては、さまざまな出来事が続いた後、1631年2月、『天文対話』がフィレンツェの出版所で刷り上がった。ガリレオの友人たちは感動し、敵対者は恐れおののいた。しかし、予想されなかったことはかつてガリレオの友であり、熱心な支持者であった教皇ウルバヌスが敵側にまわったことであった。その背景は複雑でブログなどでは到底扱えない。この時代の科学、宗教そして異端と正統にかかわる思想環境は、ブログで多少記した魔女審問の世界とも関連している。

 その後の展開は、多くの人が知るところでもあり、ブレヒト劇の核心でもあるため、ここではこれ以上記さない。ただ、17世紀という時代、知識人とみられていた人々が、いかなる手段と経路で情報を得て、自らの思考を形成していたか、その一端を紹介してみたいと思ったまでである。

Reference
Peter N. Miller. PEIRESC'S EUROPE: Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Heaven: Yale University Press, 2000.

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(7):ジャック・カロの世界

2013年05月11日 | ジャック・カロの世界

ジャック・カロ 『リムプルネッタの市』
Jacques Callot. L'Impruneta.
クリックして拡大

L'Impruneta, details.
同上詳細 

 度々の中断で、このシリーズ、思考の糸が切れ切れになっている。多少(?)横道に入るが、少し修復作業をしてみたい。

カロの精密な仕事ぶり
 
ジャック・カロの作品を見ていると、これは制作に際してかなり強度な拡大鏡などを使わなければとても無理ではないかと思うようになった。たとえば、上掲の作品は、カロのフローレンス時代の代表作のひとつである。毎年、聖ルカの祭日にトスカーナの小さな町イムプルネッタで繰り広げられる市の光景を描いたものである。全体の構図、そしてその細部を見ていると、とても人間の目と手
だけでこれだけの細密な銅版の彫刻をやりとげられるとは考えがたい。拡大鏡の助けを借りても、恐ろしく大変な仕事と思う。

 それでは、カロはどうやってこのような精密な銅版彫刻を続けられたのか。管理人の考えたひとつの仮説をご紹介しよう。

 ジャック・カロ(1592-1635)は、43歳という当時でも比較的若い年齢で亡くなった。その短い生涯に驚くべき多数(およそ1400点)の作品を残した。1592年にロレーヌのナンシーで生まれたが、1608-1621年のほぼ13年間をイタリアで過ごした。最初はローマで修業と制作の活動に没頭した。自ら選んだ職業とはいえ、カロの仕事ぶりは今でいうワーカホリックに近かったのではないかと思うほど超人的だ。これもシリーズ前回までの繰り返しになるが、後半はフローレンス(フィレンツェ)へ移り、若いトスカーナ大公コジモII世付きの画家として働いた。その経緯を少し詳しく記すと次のようなことである。

 1611年、著名な銅版画家アントニオ・テムペスタ Antonio Tempesta がカロの力量を見込み、スペイン王妃、マルゲリット・オーストリアの葬儀のためにギウリオ・パリジ Giulio Parigi とテムペスタ自身が制作した装飾を版画化するため、カロを雇った。マルゲリットは、スペイン王フィリップIII世の妃であり、トスカーナ大公コジモII世の妻マリア・マグダレナの姉であったが、1611年11月3日に逝去し、葬儀はフローレンスのサン・ロレンゾ教会で執り行われた。

 カロはパリジのサン・ロレンゾのための装飾を版画化し、マルゲリットの人生のイメージから選び出して描いた26枚のグリザイユ(灰色の焼き付けによる画法)画の15枚を受け持って銅版画として制作した。これらの銅版画は1612年、フローレンスでスペイン王妃の追悼譜として、アルトヴィト・ジョバンニ Giovanni Altovit のまえがきとともに刊行された。葬祭の儀式の次第も追悼譜も、コジモII世の依頼によるものだった。


 この仕事によってカロは初めてメディチ家との縁を得た。そして、その後さらなる庇護の関係へと広がり、1614年にはフローレンス・メディチ家大公コジモII世付きの画家に任ぜられた。コジモII世の治世下、フローレンスは文化的に繁栄し、さまざまな祭典が行われた。それらの多くは、宮廷画家となったカロの手で、詳細な銅版画に制作された。

 この後、1621年3月、コジモII世が31歳で早世されたことで、後援者を失ったカロは、仕事の場を失い、故郷のナンシーへ戻ることになった。

ガリレオ・ガリレイとコジモII世
 ここで思い浮かぶのが、ガリレオ・ガリレイである。フローレンスでは1608年に自分の教え子であったコジモII世がトスカーナ大公になられた。生涯、いつも金策に頭を悩ましていたガリレオは当時ピサに居住していたが、フローレンスへ移る可能性が生まれたことを知り、大変喜んだようだ。1608年のコジモの結婚式には、大公妃クリスティーナの招きで出席もしている。そればかりか、若いコジモに数学を教えるべく、夏をフローレンスで過ごすことにした。滞在費以外は支払われなかったらしいが、ガリレオは宮廷とのつながり強化に賭けたのだった。

 さらに1609年には、オランダで眼鏡職人が遠方の物体が3-4倍に見える望遠鏡を製作したとの噂を聞き、自らのアイディアではるかに性能の良い望遠鏡の製作に成功した。天体望遠鏡発明の栄誉は誰に帰属するかについては、多くの論争があるが、ここでは立ち入らない。すでに、1590年代にイタリアで製作されたとの説もある。

 そして、1610年5月、彼はフローレンスに近いピサ大学で授業をしなくてもよい首席数学者に指名された。加えて、トスカーナ大公付き哲学者兼首席数学者に指名された。9月にはふたりの娘をともなって、フローレンスへ移った(1631年にはフローレンス郊外アルチェトリの修道女となった娘がいる修道院近くの別荘に移り住んだ)。フローレンスとピサは管理人も何度か訪れたが、車があれば簡単に移動できる距離だが、せいぜい馬車しかなかった当時は、移動するにかなり苦労したことは間違いない。

 ガリレオはすでに大変著名な人物となっていた。同じ宮廷に大公付き画家として雇われていたジャック・カロが、そのことを知らないわけはない。恐らくさまざまな折に、二人は宮廷その他で会っていたと思われる。この時点では、天文観測に使うほど精密ではなくとも、数倍の拡大レンズは、宮廷内では見ることができたのではないか。もし、この仮説が成立しうるならば、カロがあれだけ精密な作品を製作した秘密の一端も推測できることになる。

 まもなく、文学座でベルトルト・ブレヒトの『ガリレイの生涯』 の上演が始まる。ブレヒト・フリークの管理人にとっては大変待ち遠しい(ブレヒトについては、このブログでも何度かとりあげた)。ここに記したカロとブレヒトのレンズについての仮説は、管理人が想像したものにすぎないが、ガリレオがこの時期をいかに過ごしたかという点を舞台上でも見られるのは、きわめて楽しみなことだ。

 さらに、カロばかりでなく、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールへもつながる仮説が生まれてくる。長くなるので、それはまたの機会のお楽しみにしよう。


Reference
Georges Sadoul. Jaccques Callot :miroir de temps, Paris:Editions Gallimard, 1990.

 

 

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(6):ジャック・カロの世界

2013年05月01日 | ジャック・カロの世界

 

「貴族の目に映ったフィレンツェ」

フィレンツェ、ドゥオモ広場の光景(クリックすると拡大)
Plazza del Duomo, Florence 

  予想外のことが次々に起こり、思考の糸が度々切れてしまう。今回のボストン・テロ事件なども、ジャーナリズムに任せておけばよいのだが、そこにはまったく書かれることがないような個人的な体験などが次々と浮かび上がり、頭脳のどこかで断たれていた糸が再びつながったような思いがして、例のごとくメモ代わりにと記してしまう。

 さて、再びタイムマシンを駆動させて、17世紀のロレーヌ、ナンシーへ戻ることにしたい。このごろはマシンも操縦者も歳をとって、エンジンの始動もおそくなった。

カロ、故郷ナンシーへ戻る
  ナンシーでは
主人公のジャック・カロもイタリアから戻ったところだ。メディチ家のトスカーナ大公コジモII世が1621年に若くして世を去り、唯一最重要なパトロンを失ったカロにとっては、生まれ育ったが、愛憎に充ちた地でもあるナンシーへ戻る以外に選択の道はなくなった。13年ぶりの帰郷であった。

 カロは親が強く望んだ道を選ばずにナンシーを離れ、イタリアで銅版画家になることを選んだ。それだけに戻ってきたこの地で、生きるためには銅販画家としてしっかりと自立した姿を示す必要があった。とりわけ宮廷都市であったナンシーで自立するには、カロがトスカーナ大公の支援を受けたように、ロレーヌ公の後ろ盾を得ることが必要であった。ひとたびは親に反抗し、宮仕えの道を断り、故郷を捨てたようなカロにとって、当初はさまざまな葛藤があったことだろう。

 しかし、すでにイタリアでは立派な成果を上げていたカロは、故郷のナンシーにおいても短時日の間にその才能を十二分に発揮し、名声を確立する。しかし、画才だけではなかなか生きることが難しかった時代、カロも名家の娘と結婚することで社会的地位、名誉を獲得するという選択をしている。1623年、ナンシーの富裕な名家の娘カトリーヌ・クッティンガーと結婚している。これによって、カロの名前はナンシーに広く知られるようになり、社会的地位も急速に上昇した。個人や宗教関係、そして宮廷からの版画の注文が来るようになった。

 結婚を機に画業も隆盛の道をたどるという姿は、この時代にはかなり見られたことであった。あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールもそうであった。しかし、カロもラ・トゥールも結婚以前に立派に一人前の画家に成長し自立してていた。ただ、この時代の慣習としては、修業の時期を終えたらできるだけ早く結婚するということになっていた。

 カロはラ・トゥールよりも恵まれていたところもあった。カロの生家は貴族としては2代目で、とりたてて名家というわけではなかったが、ロレーヌ公とのつながりを維持していた。カロがナンシーへ戻ってしばらく、反目していた父親との間にもなんらかの折り合いがついたのだろう。

貴族になったカロ 
 
ナンシーにおけるカロの画業生活はこの後、急速に隆盛をきわめる。ロレーヌ公宮廷に集う貴族たち、名士などとの社会的つながりは広がり、恵まれた生活が訪れた。カロは43歳という若さで1635年に世を去ったが、1630年頃の作品には、"Jacob. Caoolt Nobilis Lotaring" (Jacques Callot Lorrainese Noble) 「ジャック・カロ、ロレーヌ貴族)などの署名が記されている。

 カロを含めて、ロレーヌ公の宮殿に集まった貴族の男女、プリンス、プリンセスたちが、どんな生活をしていたのかは、文献では必ずしもよく分からない点もある。写真、動画などまったく存在しなかった時代であったから、唯一当時のイメージを具象化して見るには、絵画に頼るしかなかった。その中で、版画は複数のプリントが可能で、多くの人たちの目に触れる機会を与えるという意味で、当時もそして記録として見る今日でもきわめて重要な意味を持っている。

 さて、このシリーズで焦点を当てようとしている『プリンセスと貧民たち』というテーマは、カロという名版画家が描き出した17世紀社会の階層の実態を、その作品から推定してみようという試みである。前回に続き、当時のナンシーの宮廷社会で noble (高貴な人たち、貴族)と呼ばれていた人々のイメージをいくつかお見せしたい。下に掲げたイメージをクリックすると拡大)。

 

 この時期のカロの作品には、人物の表情などにコミカルな印象を与えるものがかなりある。これはカロがイタリア時代、年齢では20歳代、祝祭や演劇などの情景を描いた作品がきわめて多いことに遠因があると思われる。フィレンツェ時代、トスカーナ大公の宮廷画家にまでなっていたカロは、同地に受け継がれ、頻繁に上演もされていた宮廷祝祭の光景を多数作品に残している。たとえば、「コンメディア・デッラルテ」といわれる即興劇を描いたシリーズには、仮面をつけたり、奇怪な服装をした人物が多数登場する。

 こうした人物の中に、当時の貴族階層と思われる人々も、混じって描かれている。当時、ヨーロッパ世界で最も豊かで華美をきわめたローマ、フィレンツェなどの宮廷社会の姿を想像することができる。

 その後、ナンシーに戻ったカロの作品は、イタリア時代と違って急速に現実味を深める。その点はフィレンツェとナンシーの文化格差を反映するものでもあるが、人物の表情などにイタリア的なものを感じるイメージも多い。恐らく現実の宮廷人たちはいつもこうした表情をしていたのではないだろう。作品の販路を拡大するためには、それなりの創意工夫もあったに違いない。顧客開拓に宮廷人が好みそうなファッショナブルな衣装や顔かたちがあったのだろう。宮廷人の世界も、さまざまな駆け引き、策略などで充ちていた。ラ・トゥールの『いかさま師』や『女占い師』などに描かれた華麗な衣装の裏側に働いていた油断もならない現実の厳しさなどにもその一端が示されている。

 興味深いのは、こうした宮廷人や貴族たちの衣装であり、少なくもこれらは当時の流行を伝えるものだろう。そして、さらに探索したいことは、ファッショナブルな衣装をまとった彼らの生活、そして心のうちである。

続く




アラダイス・ニコル(浜名恵美訳)『ハーレクインの世界 復権するコンメディア・デッラルテ』岩波書店、1989年。

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