時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ヒエロニムス・没後500年(5):作品の裏側

2016年10月26日 | 絵のある部屋

 

ヒエロニムス・ボス没後500年記念特別展カタログ表紙
マドリード・プラド美術館、2016年
『快楽の園』3連祭壇画左側、部分

これは何でしょう?


500年経っても解けない謎
 ヒエロニムス・ボスの没後500年に当たる今年2016年、記念事業のひとつとして刊行された「作品篇」(カタログレゾネ)と「技術篇」の2冊の研究成果は、圧倒的な迫力がある。ページ数は双方で1,000ページをはるかに越え、重量でも2冊併せて9kg近い。もう少し経済的な印刷・装丁が可能ではないかと思うが、記念事業主催者側としては、立派なものを後世に残したいのだろう。

 さらにブラバントとプラドで開催されたカタログまで見ていると、それぞれが面白く、今年の夏はかなりの時間、これらを眺めて暑さを忘れた。まるで長編ミステリー小説を読んでいるようで、ついのめり込んでしまう。両者には対抗意識が働いているようで、微妙に面白い。十分消化したとは到底言い難いが、これまで抱いていたこの画家と作品についてのイメージが、一変したような思いがしている。すべての作品を見たわけではないが、すでに1970年代から旅の途上などで、マドリード、リスボン、ベルリン、ヴェネツイア、ウイーン、ロッテルダムなどで、かなりカヴァーしていた。真作といわれるおよそ20点の70%近くは、直接目にする機会があった。とりわけ、ロッテルダムの大学に短期滞在していた折、新たな興味が湧き、多少本格的に調べたことがあった。

ボスは筆者にとって、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやレンブラントほど、贔屓の画家ではない。しかし、その奇想天外、奇々怪々で、想像力をかきたてる作品には、最初見た時から圧倒された。とにかく変幻自在、想像を絶する発想と構成に魅了された。その印象はかなり知識が増えた今でも変わらない。ボスの影響を受けたピーター・ブリューゲル(兄)の作品に接するまでは、他の画家とはまったく断絶した別の世界に生きているような斬新で想像を超える発想に驚かされた。当然、その奇想に溢れた作品の裏側を知りたくなる。

 ヒエロニムス・ボス(c.1450-1516)の本名はJheronimus van Aken であることから、祖先の祖先はドイツ、アーヘンであることが推定されるが、画家はJheronimus Boschと作品にサインを残しており、活動の本拠地が's-Hertogenbosch(フレミッシュ)であったことなどから、今日ではフレミッシュの画家ボスとして知られている。ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)はフローレンスで活動していた同時代人である。多分、ダヴィンチもボスの作品について聞き知っていたのではないか。思い当たる点もある。

ボスはその生涯においてすでに大変著名な画家であったが、時代の制約もあって、その詳細は分からないことが多い。1318年に設立された「聖母マリア兄弟会」という信徒の会で誓約兄弟という中心メンバーになっていたことなどから、世俗の人でありながら、指導的な知識人でもあったことがうかがわれる。

ボスの没年1516年から500年が過ぎた今日まで、世界中で出版されたこの破格な大画家と作品に関する書籍は、数にして千をはるかに越えたと推定されている。このたびの記念事業に関連して刊行された書籍もかなりあるようだ。このブログでは上記の研究書やカタログに併せて、その後読んだ本の記憶を少しだけ再現したにすぎないが、この画家について抱いていた既成観念は、かなり塗り替えられた気がした。

「地獄」は描けても「天国」は?
 そのひとつ、この画家は「天国」、「地獄」や「悪魔」を描くにきわめて長けていた。画家ボスが生きていた時代、15世紀の終わりも近く、世界の終末が来ると伝えられてきた。人々は、ボスの絵画を見て来たるべき「最後の審判」とその後に待ち受ける天国と地獄のありさまを想像し、天国へゆけることをひたすら祈った。

 ボスはとりわけ恐怖に満ちた迫真力ある地獄の仮想描写に長けていた。そのこともあって、当時は‘悪魔絵描き’devil maker の名で知られていたらしい。地上には、戦争、天災、飢饉などがもたらした残酷、恐怖で満ちた光景がいたるところに展開していた。といっても、現代世界における戦争の殺戮の方が、はるかに残酷・悲惨と思うのだが。いずれにせよ、ボスにとって世紀末に目にするかもしれない恐怖の世界を描く材料には事欠かなかった。"Bosch"という名前は、多かれ少なかれ、地獄を描いたジャンルHellekenとほとんど同じ意味で使われてきた。

 ひとつの例をあげてみる。聖アントニウスがさまざまな悪魔や化け物に誘惑されながらも、信仰の深化に努める光景を描いた『聖アントニウスの誘惑』は、当時からきわめて人気のあった画題であった。興味深い事実が見いだされている。ボスの『聖アントニウスの誘惑』の3連祭壇画は、16世紀に30点以上が制作されたと推定されている。いくらがんばっても、生涯にとても一人では描ききれない数の地獄絵Hellがボスの作品として出回っていた。ボスの追随者、模倣者が多数出現し、ボスの署名まで真似て制作していたことは明らかだった。

ボスの真作とみられる3連祭壇画を見ると、人々に「地獄」の恐怖を呼び起こす凄絶な光景と比較して、「天国」の光景はどこか迫力に欠ける。工夫を凝らして大変美しく描かれてはいるが、「地獄」の迫真力にどこか及ばない。現世に「地獄」の凄絶さを思わす光景を見ることはあっても、「天国」がいかなる所かを思わせる光景はほとんどなかったのだからだろうか。

 

ボス・ヒエロニムス『聖アントニウスの誘惑』3連祭壇画、部分
村落の火災

 

 ボスの作品を見て気づく別の点は、ボスの他の画家から隔絶したような想像力、奇想天外な発想だ。ありとあらゆる実物、あるいは仮想の生物?、化け物のたぐいが画面一杯に登場している。その発想の源、手がかりはなにであったのだろうか。興味がかきたてられる。よく見ると、一見するとぎょっとするような化け物にもなんとなく滑稽さ、奇矯さが漂っている。愛すべき化け物といえるかもしれない。しかも、この画家の作品を見て驚くことは、およそ見たこともない化け物や存在するはずのない生き物?が画面の片隅に描かれていても、一切手抜きがなく、細部にわたってしっかり描き込まれていることである。そして、それはさらに新たな興味をかき立てる。見たこともない化け物や生き物?なのだが、しばしばユーモラスな印象を与える。かくして、ボスは「地獄の画家」とともに「笑い・滑稽な画家」として知られるまでになった。正統の宗教画作品を別にすると、「怪物図鑑」を見ているような気にもなる。不思議な画家である。

ヒエロニムス・ボス『聖アントニウスの誘惑』部分

 

ヒエロニムス・ボス『地上の楽園』、3連祭壇画
右側パネル部分 
右側の男は誰? 


作品制作の裏側
 この画家はその生涯において、きわめて多くの作品を制作したと推定されている、しかし、今日ほぼ真作とされ、実在する作品は20点ほどである。そのうち、7-8点(一部は欠損、滅失)は3連祭壇画であり、しかも最重要な作品はスペイン、マドリードのプラド美術館が所蔵している。画家の活動したブラバント Brabant には作品は一点も残っていない。

 伝承その他でボスが制作したと伝えられる作品、たとえば1521年にMarcantonio Michielが言及した、「ヨナが鯨に飲み込まれる」場面(「大きな魚が小さな魚を飲み込む」)を描いた作品やマドリードの重要な収集家ディエゴ・デ・ゲバラ(1450-1520)が所蔵していたと思われていた祭礼を描いた作品なども発見されていない。とりわけカンヴァスに描かれた油彩画はすべて滅失している。その多くはアントワープの美術館が所蔵していたと思われる。

 さらに現存するボスの作品は、画家ひとりの手で制作されたとは考えられない。ボスの作品のその奇想さ、多様さなどで、一人の画家がすべてにわたって制作したとは考えにくいものが多い。そこで浮かび上がるのが、画家の工房の存在である。ボスが工房を持ち、多くの優れた職人、徒弟などを雇っていたことはほぼ判明している。ボスは親方として、彼らを指導、指示しながら制作活動を行っていたのだろう。こうした工房の仕組みは、技能伝習の装置として大変興味深いが、詳細は別の機会にしたい。

活躍した?多数の贋作者と宮廷のパトロン
 さらにすでに名声が高かったボスの踏襲者や贋作者が多数存在し、活動していた。ボスの作品に贋作、模作が多いことは、収集家のフェリペ・デ・ゲヴァラなどは1560年くらいには事実として知っていたようだ。これらの模作や贋作作品は、しばしば画家の署名も真作のそれを模して記されている。さらに作品に箔をつける(?)ために、ストーブの煤などで真作らしくする裏技なども加えられていた。ボスの没後500年記念プロジェクトとして行われた研究では、さまざまな分析技術を駆使して、作品の真贋、制作技法、年代などの推定が行われ、興味深い事実を明らかにしている。たとえば、ボスの作品のほとんどは樫の木などの木板の上に油彩で描かれているが、今回の科学的調査で木材の年輪まで判明している。しかし、不思議なことに真作と鑑別された作品制作時期よりも、使われている木材の年代の方が若いということもある。

ボスの数少ない作品を所蔵し、今日に継承するに重要な役割を果たしたのは、パトロンの存在と庇護だった。とりわけ、前回に記したフィリップ美公といわれたフィリップ1世(1478-1506)が、ボスの作品を好み、注文を出していた。ボスの生まれたブラバンド公国は1494年からフィリップ美公が統治していた。スヘルトーヘンボスにも滞在し、『最後の審判』の制作を依頼している。


フェリペII世肖像

Anthonis Mor, Philip II, c.1549-50
oil on oak panel, 107.5x83.3cm, Bilbao,
Museo del Bellas Artes, inv. 92/253


 ナッサウ国ヘンドリック3世(1483-1538)はフィリップ美公のスヘルトーヘンボス滞在時に随行していた貴族だった。当時のネーデルラントの最高権力者だった。1499年、伯爵である伯父の跡継ぎとしてネーデルラントに移り、その後現地の司令官として重きをなしていた。彼の結婚に際して制作された作品が、ボスの最高傑作といわれる『快楽の園』である。

そして、もうひとりの重要なパトロン、ディエゴ・デ・ゲバラ(1450-1520)はスペインの貴族だが生涯の大半をネーデルラントで過ごした。ゲバラはナッサウ伯とともに、ボスもメンバーであった聖母マリア兄弟会に属していた。美術品収集家として知られ、ボスの作品を6点(内4点は行方不明)所蔵していた。スペイン王フェリペ2世(フィリップ美公の孫)はゲバラの孫から作品を買い取っている。そして、フェリペ2世はボスの作品の収集・所蔵家として、後のプラド美術館、エル・エスコリアル修道院のコレクションを貴重な継承遺産として今日に伝えた。



ディエゴ・デ・ゲバラ(?)肖像
Michel Sittow, Diego de Guevara(?)
c.1515-18, oil on panel, 33.6x23.7cm
Washington, D.C.;National Gallery of Art
Andrew W. Mellon Collection 

 ボス・ヒエロニムスの代表作は、ほとんどこのプラド美術館に集中している感がある。とりわけ『快楽の園』、『干し草車』、『東方三博士の礼拝』などの3連祭壇画の名作を保有しているのは、この画家の研究にとっても大きな強みだろう。スペイン宮廷の貴族たちが、いかなる点に惹かれてボスの作品を収集してきたのか。彼らの美術観も興味深い。ゴヤ、ベラスケス、スルバラン、グレコなどの名作と並んで、別世界を創りあげたようなボスの作品が加わり、さらに最近ではジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品も意欲的に集められているようだ。スペイン経済の停滞の中で、プラドは燦然と輝いている。


さらに、スペインはマドリード郊外に『十字架を担うキリスト』(エル・エスコリアル修道院)、『荒野の洗礼者聖ヨハネ』(ラザロ・ガルディアーノ美術館)を所蔵する強みがある。加えて、隣国のリスボンには多数の模作、贋作を生んだ人気の『聖アントニウスの誘惑』(国立古美術館)があり、ボスの愛好者にとっては忘れがたい地である。

References

Hieronymus Bosch, Painter and Draughtsman: Catalogue Reisonne
by the Bosch Research and Conservation Projet
Brussels: Mercatorfonds, 607 pp.

----------------.Technical Studies
by the Bosch and Conservation Project
Brussels: Mercatorfonds, 463 pp. 

Hieronymus Bosch: Visions of Genius, an exhibition at Noordbrabants Museum, 's-Hertogenbosch, the Netherlands, February 13-May 8, 2016
Catalogue of the exhibition by Marthijs Ilsink and Jos Koldeweij
Brussels: Mercatorfonds, 191 pp.

Bosch: The Fifth Centenary Exhibition
an exhibition at the Museo Nacional del Prado, Madrid, May 31-September 11, 2016
Catalogue of the exhibition edited by Pilar silva Maroto
Madrid: Museo Nacional del Prado, 397 pp.



続く 

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分裂に向かうEU:復活する国民国家(4)

2016年10月17日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

秋が来ても
 10月10日、ドイツ連邦共和国内で、ISISの影響を受けテロを準備していたと思われるシリア難民アル・バクルと名乗る男(22歳)が、ライプツィヒで同国(シリア)人二人の通報で警察によって逮捕された。男の住んでいたケムニッツChemnitz のアパートで発見された火薬などの量から、2015年ブラッセルとパリで起きた爆弾テロと同規模の攻撃を企図していたと警察当局は推定している。この男はダマスカス出身とされるが、自分に捜査が及んでいるのを察知して、ライプツィヒへ身を隠していたという。

 ケムニッツという地名を聞いて、かつて日独経済学会でイエナに旅した時、バスで通ったことを思い出した。ここは、カール・マルクス市 Karl-Marx-Stadtと呼ばれたこともある都市だ。マルクスが生きていたら、何を思ったことだろうか。それはともかく、このシリア人は、いったいなにが目的でどこをテロの対象と考えていたのか、他国のことながら背筋が冷えてくる思いがする。テロがない世界は考えられなくなった。

 男は2015年89万人の難民・移民の流れに混じり、昨年2月庇護申請をしていたが今年6月に許可を得ていた。男のテロの目標は未だ明らかではない。さらに3人が関連する容疑者としてドイツ各地で逮捕されている。

 アンゲラ・メルケル首相は、容疑者の逮捕に協力したシリア人を賞賛したが、彼女自身は昨年来、難民に対する国境開放政策をとったことで、国内で厳しい政治的批判の対象になっている。ドイツ連邦共和国だけで2015年は100万人以上の難民を受け入れた。その多くはシリア人だった。

 メルケル首相がとった国境開放政策は難民からは歓迎されているが、国内では不協和音が渦巻いている。今回の容疑者がシリア人難民であったことは、衝撃が大きい。メルケル首相自体は彼女の政策を取り下げてはいないが、実質上後退を余儀なくされている。

チロルにもブルカの女性観光客 
 別の例をあげてみたい。やや唐突だが、CNNで、ドイツの隣国オーストリアのチロル地方に、最近は真っ黒なブルカをまとったイスラム女性観光客が多数訪れていることが報じられていた。地域の人々にとっては、今でもかなり違和感があるようだが、数多く見慣れてしまうと、観光旅行者であれば仕方がないかと割り切るようになるという。日本で頭から足先まで真っ黒な衣装の一団が、突然主要な観光地に現れたら、どんな反応があるだろうか。筆者は長らく世界の移民・難民問題をウオッチしてきたが、この問題への日本人の考え、対応は依然大変ナイーブだと思っている。多数の失踪者を出してしまうような制度をそのままにしながら、労働力不足を理由に外国人労働者受け入れ拡大を認めるのは、大変危うい。

 難民・移民は、政治家にとっても厳しい難問を突きつけるが、政治哲学的にも難しいものがある。大陸からEUのように百万を越える難民が押し寄せてくるなどの現実に直面すれば別だが、日本人はこうした問題はおよそ真剣に考えたこともない。しかし、台湾の政府関係者から、ある朝目覚めてみたら、海岸線が何千という難民ボートで埋め尽くされていたという夢を見るという話を聞いたことがある。日本人、日本政府はこうした起こりうる事態に、いかなる対策を考えているのかと聞かれたこともあった。

政治家の倫理 
 こうした問題に対した政治家はいかなる思想の下で決定を下すのか。ひとつのエッセイを読んだ。最近のアンゲラ・メルケル首相の政治哲学、思想についての推論である。日本の政治状況と比較すると大変興味深い。

 ドイツではGesinnungsethik(英:ethics of conviction:信念(しばしば(心情)倫理) とVerantwortungsethik(英:ethics of responsibitily: 責任倫理)という概念が、TVや家庭でも時々話題に上るとの興味深い指摘がある。政治における理想主義とプラグマティズムの対立にもつながるテーマである。「きわめてドイツ的な」特徴を帯びた道徳的緊張感があると社会学者マンフレッド・ギュルナーは述べている。

 この概念は元来 マックス・ウエーバー が、1919年ミュンヘンの書店主催での講演の際に使ったことに始まる。ドイツは第一次世界大戦に敗れ、皇帝も退位したところだった。その後、この政治学の講義は古典となった『職業としての政治』として一般に知られるようになった。ウエーバーは政治家は強い倫理観に持たねばならず、それは信念倫理と責任倫理だという。そして、この二つの倫理の間には”救いがたい”対立があるとした(遠い昔に読んだ記憶が少し戻ってきた)。

次の決断
 前者の信念倫理は彼らが抱く道徳的純粋さを現実の世界にいかなる結果が生まれようとも貫くことにある。他方、後者の責任倫理は自分の行為の(予知しうる)結果について責任を負わねばならないという原則に従い、自らの行動のすべてに責任を持つことを意味する。政治家が則らねばならないのは責任倫理であり、(意図しないことも含めて)自らの行動のすべてに責任を持つことだと、ウエーバーはいう。

 エッセイによると、今日のドイツは「信念倫理」の氾濫状態(Wolfgang Nowak)にあり、とりわけ左翼とプロテスタントの間に多いという。この政治倫理は今やS.D.(社会民主党)ばかりでなく中道右派にも広がっているが、ヨーロッパの多くはこの流れに賛成していないことが見落とされているという。

 このたびの難民・移民に対するドイツ連邦共和国の"welcome culture"はこうした流れの延長で、メルケル首相は「信念倫理」に乗って"早駆け gallop away"(Konrad Ott, 哲学者、移民と道徳に関する著作者)したとされる。2015年9月4日の歴史的な難民への国境開放を生んだ背景である。彼女は人間を受け入れるに”ただの必要で”数的上限を設定することを拒否し、事態は混迷の度を深めたが、未だその立場は変えていない。他のヨーロッパでは、ドイツは”道徳的帝国主義”と非難する者もいる。他方、あまりに多くのことがドイツに要求されると考えるドイツ人もいるようだ。確かに、いつの間にかEUはドイツあってのEUであり、ドイツなしではEUは存在しえなくなっている。

 事態がここにいたれば、メルケル首相がどれだけ彼女の信念を大きく損なうことなく、責任倫理の道に戻りうるかということにすべてがかかっているように思われる。 難民問題の最後の切り札と踏み切ったトルコの思わぬ専制強化、混迷も彼女にとっては唇を噛むような思わぬ展開となった。

 ここにいたる状況は、本ブログでなんとか追ってきた。この政治倫理概念に頼っての議論は政治理論の専門ではない筆者には、やや抽象に傾きすぎている。

  アンゲラ・メルケル首相はノーベル平和賞の候補にあがっていたといわれる。大激動の過程で、彼女がここまで首相の座にあったのは、ひとえに政治家としての強靱さであり、打たれ強さであるともいえる。平和賞の可能性が消えたわけではないと思う。


追記 2016年10月26日
アンゲラ・メルケル首相は、昨年来、大幅に増加した難民について、新たな国民との統合(融合)の努力を進めることを打ち出している。難民と認定された外国人についてドイツ語の習得や技能の訓練過程を経て、国内に雇用の受け入れ機会が生まれることを目指す。これまでの政策との一貫性を維持する上では、当然の方向とはいえ、その前途が多難なことはいうまでもない。ちなみに、今年は25-30万人近い受け入れを予期しているようだ。ドイツ経済が堅調さを維持している現状では、数の上では昨年の約3分の1であり、労働市場の需給関係を大きく乱す可能性は低いと思われる。中長期的に数および質の点で、受け入れ政策は根本的な再考を迫られるだろう。他方、すでに深刻な労働力不足を迎えつつある日本は、対応が遅れてきた反動として、次の世代は大きな衝撃を覚悟しておかねばならないだろう。


Reference: A tale of two ethics, The Economist, October 1st, 2016
 

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分裂に向かうEU:復活する国民国家(3)

2016年10月07日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

アフリカ、リビヤ沖で沈没中の老朽木造船から救助される移民(8月21日)
Time, Sept.12-29, 2016, cover 

分裂の諸相
 EU(欧州連合)分裂の兆候はいまやさまざまな形で現れている。そのいくつかの局面を見てみたい。BREXITで英国が離脱しても、EUの加盟国数は27カ国ときわめて多い、それぞれ独自の国民性を保ち、EUが目標として目指す単一国家にはほど遠い。また、そこへ到達する可能性もきわめて薄くなった。実際、政治体制、経済発展段階、文化的差異など、さまざまな点で、EU内部にはかなり以前から亀裂が目立ち始めていた。加盟国の数を増やすことを急ぎすぎて、発展段階が違い過ぎる国々が混在する、結束力の緩い集まりになってしまった。

 しかし、近い将来の分裂を思わせる決定的要因となったのは、やはり2015年から急増を見せた難民・移民の動向だ。対応に苦慮したEUは、いわば域内最東端の砦ともいえるギリシャの対外(EU域外)国境保持に大きな期待をかけた。財政破綻で国家として存続も危ぶまれるギリシャだが、EU(ブラッセル)、域外隣国のトルコとの連携などがようやく整い、沿岸警備隊の強化などで、シリアなどからの難民がエーゲ海を渡り、ギリシャを経由する難民・移民の流れはかなり抑止されるようになった。ブルガリアがEUの支援を受け、トルコ国境警備を強化したことも、バルカン・ルートで知られる陸路経由の難民抑止に効果を上げている。

地中海ルートへの集中
 それに代わって、顕著な増加を見せ始めたのは、以前からの地中海ルート、いいかえると、アフリカのリビア近辺からイタリアのランペドゥーサ島などを目指す難民・移民である(このルートをたどった難民の海難事故などについては、このブログでも何度か記した)。ギリシャ経由でヨーロッパへ向かう陸路を閉ざされたシリア、アフガニスタンなどの難民・移民は別の経路を探し求めていた。

 この地中海ルートは従来、主としてアフリカ諸国からの難民・移民がたどった海路だ。そこへエーゲ海を渡りギリシャへ渡航できない難民・移民が移動してきた。2015年には百万を越える人々が地中海を越えた。トルコからギリシャへの海路は短い地点では8キロメートル程度だ。しかし、アフリカからの海路は、距離もはるかに長く危険度も格段に高い。

 このルートにも悪質な密航業者 traffickerが多数暗躍し、難民・移民をビジネスの対象として暴利をむさぼってきた。彼らは渡航を希望する者から高額な金(数百ドルから数千ドル)を徴収し、老朽木造船やゴムボートなどで洋上へ送り出す。たとえば、トリポリからイタリアのランペドゥーサ島までは290キロメートルもある。海上の距離も長く、遭難など多くの危険に満ちている。概して、こうしたボートの多くは海洋での渡航には耐えない。洋上で沈没、多数の死者を出すなど、多くの犠牲者を生んできた。しかし、危険を顧みず渡航を試みる者は増加する一方である。密航を企てる者は気候が安定している秋を選ぶことが多い。

驚くべき数の渡航者
 去る9月3日には1日で6000人近くが40隻余りの木造船、ゴムボートでアフリカ、リビアの海岸などからイタリアを目指し渡航を企てている。700人近くが一隻に乗っていた例もあったといわれる。彼らはイタリア、あるいはリビアの沿岸警備隊や付近を航行中の船舶、人道支援組織の救援などによって海洋上で救出された。死者・行方不明者は9人と発表された。渡航者がこれまでの最大数であったにもかかわらず、犠牲者の数が極小に留められたのは、気象条件が安定していたことに加え、イタリアなどの沿岸警備隊、民間人道支援組織などの船舶よる救援努力が実ったためであった。人道支援組織は、独自に航空機まで活用して、洋上に漂流する難民ボートなどを探索、発見し、近くの船舶と協力して救助に当たっている。


 最近の"Time" 誌には、このアフリカからヨーロッパ大陸を目指す移民・難民の船に同乗したジャーナリストの手記が掲載されている。それによると、人道的観点から見て、その劣悪、苛酷さ、危険性は壮絶なものであり、青く静かな海の上でもひとつ間違えると悪徳業者の餌食となり、死の世界へ直行する("Between the devil and the deep blue sea" Time)。2016年年初から9月末までに30万人余りが渡航を達成し、死者・行方不明者は3500人に達したことが明らかになっている。他方、同じ期間にギリシャ・ルートでは386人が命を落としている(IOM))。

人道主義的支援が密航を加速?
 しかし、皮肉なことにこうした人道主義的救援の仕組みが充実するにつれて、それを見越しての難民・移民が増えるという奇妙なサイクルが生まれつつある。難民・移民は気象条件や海上の状況を確かめた上で、密航業者が提供する航行能力のない欠陥ボートなどで洋上へ乗り出し、沿岸警備隊などに救助を求めるという形が一般化してきた。

Time誌掲載のジャーナリスト(Aryn Baker)が同乗したアフリカ、リビヤからイタリア、シシリー島への航路。目的地はシシリー島、カターニア。実際にはこのボートは、リビヤのトリポリに近いサブラタを出航したところで、沈没、乗員は沿岸警備隊によって救助されている。右側数字は、今年中央地中海ルートを選んだ難民の中で、106,461人がイタリアに到達。10,986人がリビアの沿岸警備隊によって抑止、救助された。2,726人は航海途上で死亡。原データ出所:IOM、本年8月28日現在。Time, September 12-19, 2016. 

  アフリカ側のリビアだけでも、密航を望む難民・移民がすでに60万人近く集結しているという。2011年以降、リビアの独裁者カダフィ政権はイタリアと共同でこうした密航を最小限に減少させようとしていた。しかし、カダフィは失脚し、移民は帰るところを失った。この真空状況で人身売買が復活し、多数の犠牲者を出しながら、今日のように密航者が急増した。人身売買業者は最初から航海に適さない船を準備しているという(IOM)。アフリカ側の警察、沿岸警備も腐敗している。シリア、アフガニスタン難民が加わった現在の状況は、UNHCRによると、第二次大戦以来、最大数の移民を生んでいるといわれる。しかし、世界の指導者たちは有効な手段を持たない。トルコ・ギリシャルートを遮断したことは、ただ経路の変更をさせたにすぎない。

 幸いにも海上で救助された移民・難民はイタリアで難民に該当するか審査を受ける。多くは携行品もほとんどなく、言葉もできず、技能水準も低い。しかし、ヨーロッパでなんとか働きたいという意欲だけは強い。審査を通らなかった者は、強制的にイタリアを離れることを求められる。しかし、実際には行く先もなく、イタリア国内で不法就労者となり、、多くは農業労働者として働くか、ヨーロッパの他国へ移動する。手になにもなければ、いかなる仕事でもひたすら働くすべを求めて生きねばならない。国境のわずかな隙間でも入り込もうとする。

きびしくなる国境管理 
 かつては域内外からの労働者をかなり柔軟に受け入れていた域内諸国の国境管理も厳しさを増した。最も極端なケースは、ハンガリーである。移民労働者の受け入れ可否を国民投票にかけた。国民投票は最近のヨーロッパでややファッション化している。去る10月2日実施された国民投票は圧倒的多数が受け入れ拒否だったが、投票者数が規定に満たないなどで、公式には成立しなかった。しかし、国民の間に根強い外国人労働者の受け入れ拒否意識があることが判明した。

 難民・移民受け入れへの反対は、ハンガリーにとどまらず、チェコ、スロヴァキア、ルーマニア、オーストリア、フランス、ドイツなど多くの国で高まっている。反移民をスローガンに掲げる政党の台頭がひとつの要因でもある。国境検問が厳格化され、受け入れ抑止に急速に移行しつつある。

 他方、欧州連合(EU)は、10月6日、EUレベルで域外との国境警備にあたる「欧州国境・沿岸警備隊」を正式発足させた。警備隊はEU加盟国の国境警備の調整を担っている欧州大概国境管理協力機関(フロンテクス)の権限や装備を強化して発足させた。年内に少なくとも常時1500人規模の警備隊を確保し、問題の多い地域へ派遣される。

 こうした対応から見えてくるのは、急速に高まったEU域外、域内の障壁であり、それでも入国を目指す難民・移民に対する管理体制の強化の構図だ。今やドイツ連邦共和国といえども、加盟国と同様な路線を進まねばならない。昨年、メルケル首相が高らかに掲げた開かれた国境のイメージは急速に退行してしまった。

  眼前に立ちはだかる高い国境の障壁。その前に立ち尽くす難民・移民が出てきた故国はほとんどが壊滅的状況にある。世界銀行が難民救済のために増資を実施し、新国連事務総長が難民問題を重視すると述べても、世界各地の難民・移民に安心した生活を約束できる祖国が復活する日はいつのことだろうか。


References
"SAVED: One week abroad a refugee rescue ship" Time Sept.12-Sept.19, 2016*

追記
10月9日BS3『関口知宏 ヨーロッパ鉄道の旅』では、ハンガリー一周の旅を放映していた。筆者はブダペスト近傍しか知らない国だが、このたびの難民問題で急遽設置された有刺鉄線の国境風景が映っていた。それとともに、「ベルリンの壁」崩壊の先触れとなったショプロンの「ヨーロッパ・ピクニック」当時を知る医師とのインタビューなど、大変興味深かった。お勧めの番組である。

 

 

 

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