時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

追い風吹くアメリカ移民制度改革

2012年11月28日 | 移民の情景




  

  再選されたバマ大統領は精力的に活動を開始している。 これまで頓挫していた政策を再生させようとの動きが見え始めた。11月27日にはメキシコのペニャ・ニエト次期大統領と会見し、両国懸案の課題解決に着手し始めたようだ。PBSの対談に出演したS.オニール(外交問題評議会)、M.シフター(インターアメリカン・ダイアローグ)の両氏は、共にアメリカにとって経済問題に次ぐ課題は、移民問題への対応という点で意見が一致していた。

  移民制度改革については、オバマ大統領、前半の4年間は、共和党の反対が強く、ほとんどさしたることができなかった領域である。移民制度の改革案は、すでにジョージ・ブッシュ大統領の時に概略は提示されながらも、多くの共和党員が反対し、実現を阻止されてきた。とりわけ賛否が分かれた問題は、およそ1200万人ともいわれる不法滞在移民への対応だった。

大統領選を左右したヒスパニック系
 
このたびの大統領選挙戦を通して、民主、共和両党に、この問題についての共通基盤が生まれつつある。いくつかの理由があるが、最大の変化は不法移民の大半を占めるヒスパニック系、とりわけメキシコ系移民についての認識が変化したことだ。ヒスパニック系への対応が、大統領選などの成否を決めることが、やっと認識されるようになった。特に共和党内には、これまでヒスパニック系選挙民に冷淡であったことについて、反省が生まれている。

 今回の大統領選で、ヒスパニック系は、アメリカ全土の選挙有権者の10%を占めた。2008年当時は9%であった。わずかな変化にみえるかもしれないが、数は着実に増え、キャスティング・ボートを握った。ロムニー候補が不法滞在者は「自分で強制的に帰国せよ」 self-deportという発言をしたこともあって、ロムニーは、ヒスパニック系投票者の27%の得票しか得られなかった。

 他方、オバマ大統領は一定の条件をクリアした若い不法滞在者に労働許可を与える方針を示し、彼らの抱える問題に理解を示したこともあって、71%を獲得した。これほど明瞭な差異が生まれると、共和党もヒスパニック系選挙民の重要性を認めざるをえない。依然、不法移民に市民権を与えることはアムネスティであるとして、反対する勢力も強いが、状況は明らかに変化しつつある。共和党員の間にも大統領案に同調する者も増え始めた。

 変わる移民の現実
 
変化をもたらしている要因は他にもある。アメリカ・メキシコ国境は約2000マイル(3200km)近くになるが、およそ1日1人の率で越境を試みる者が死亡している。不法越境は状況が急速に厳しくなっている。

 結果としてみると、メキシコの人口のおよそ10人に1人に相当する1200万人が不法移民である。アメリカで生まれたメキシコ系は約330万人である。ロサンジェルスは、いまやメキシコの首都メキシコ・シティに次いで、メキシコ系人口が多い。 

 1995-2000年の間に約300万人のメキシコ人がアメリカへ入国した。他方、メキシコへ戻ったのは70万人くらいだ。2005-10年には、新規入国は140万人くらいだったが、戻った数も同じ140万人程度だった。今は帰国者の方が多くなってきた。

 ボーダーパトロールによると、2000年にはおよそ160万人が越境しようとして拘束された。昨年2011年は286,000人、過去40年間で最低の水準だった。 

 移民の波は、増えたり減ったりしている。かつてはカナダ、イタリア、ドイツからの入国者の方が、メキシコよりも多かった。メキシコ系の入国は1970年代から増え始め、80年代から急速に拡大した。アメリカの移民システムの対応は緩やかだった。入国ゲートは比較的開いていたといえる。ピークは2000年で、75万人以上が入国した。


Source: The Economist 24th November 2012

減少した移民の仕事
 
2000年はアメリカの失業率は約4%だったが、今では8%台である。これは最近のメキシコの2倍の水準である。アメリカの建築業はひどく不振であり、庭園業も需要が減少している。強制送還は厳しくなり、年間30万人近くになっている。

 メキシコのティフアナとサンディエゴを結ぶ経路は、これまでボーダーコントロールが間に合わないくらい多数の越境者が通過したが、今は閑散としている。 

 最近では国境を不法越境する人たちの”人気の地点”は、アリゾナ砂漠に移っている。ここは最短でも越境に徒歩72時間を要する難路である。日中は酷熱の砂漠、毒蛇やコヨーテなどが出没し、夜は急速に気温が下がり酷寒の地となる。多くの人が途中で命を落とす。しかし、最近はメキシコの麻薬ギャングの暴力の方が怖い。メキシコの人権委員会によると、毎年およそ2万人がメキシコ国境まで北上の途上で誘拐されたり、死亡するという。カルデロン大統領の6年間には,麻薬カルテルに関連しておよそ6万人が死亡したという。                                    

 メキシコ人の間でも、豊かな人たちはメキシコ側ではアタモロス、モンテレーなど、アメリカ側ではサンディエゴ付近に移住するようになった。コロニーが生まれている。

 北からメキシコへ戻る人たちは、女性が多い。アメリカで子供を産み、育てて、しばらくすると帰国を考える。ある40歳代の女性はプラスティック・リサイクル工場で週給250ドルで働いていた。メキシコに戻ると、$4.20の日給水準となる。アメリカに戻るために再入国することは難しくなっている。

 今日、アメリカにいるメキシコ人から本国への外貨送金は、228億ドル、観光業収入を上回る。しかし、2007年の260億ドルを下回るようになった。

 総じて、アメリカに住むメキシコ人はまずまずの暮らしをしている人たちが多くなったが、メキシコにいる人たちは、家族を含めて苦しい生活を送っている。オバマ大統領が改革に着手し、不法滞在移民が合法化されれば、彼らの地位は向上し、労働条件も改善されよう。メキシコの家族への送金も増加し、良い結果につながるだろう。

 新年早々にオバマ大統領は、移民制度改革の具体化に着手すると思われる。共和党の対応も変わる。先が見えなかった道の前方にようやく光が見えてきた。

 

      

Reference
PBS November 27 2012
'This time, its different' The Economist 24th November 2012  

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ガザに盲(めし)いて:ひとつの回顧

2012年11月23日 | 書棚の片隅から

 



 11月21日午後9時、イスラエルとイスラム組織ハマスの停戦が成立した。それまでインターネットの進歩で、リアルタイムで空爆の様子などが伝えられていた。イスラエル、ハマスの双方に責任があるとはいえ、一般市民が無残に犠牲になる残酷な光景は見るにたえない。とりわけ、イスラエル軍の爆撃はすさまじいの一語に尽きる。イスラエルは標的をハマスに設定しているといっているが、かなり無差別に近い。イスラエルとハマスは長年にわたり、市民を巻き込む憎悪と殺戮という「悪魔の罠」から抜け出られない。

ひとまず戦火が途絶えたようでほっとした思いだ。しかし、一触即発状態の緊迫は続いている。すでに24日にはイスラエル兵の発砲でパレスチナ人が死亡したと報じられた。さらに、事態は仲介に当たったエジプトのムルシ大統領の専権への反対という形で他地域へ拡大し、燃え上がっている。人間はなぜこのように残酷に争うのか。この地域の紛争は日本人には最も理解が難しい。おざなりの歴史教育ではとてもわからない。

 戦火の舞台となったのは、パレスティナのガザ。ガザと聞くと、すぐに思い出すのがイギリスの小説家オルダス・ハクスリーAldous Leonard Huxley の『ガザ゛に盲いて』 Eyeless in Gaza(1936) と題する作品だ。若い頃に手にしたが、理解力が不足していた。大変読みにくい妙な小説だという印象しか残らなかった。その後、イギリスに在外研究者として滞在した折に、もう一度読み返した。年の功か、さまざまな蓄積に助けられ、今度はかなり深く読み込めた。

 10数人(20代から60代)からなるあるサークルで、このたびの戦争の話が出てきたので、ふと、この本を知っているかと聞いてみたが、誰も知らなかった。落胆したが気を取り直して(笑)、知っていることを少し話す。帰宅して、翻訳があるかを調べるために、ワープロ上で「めしいて」の部分を表現しようとしたが、そのままでは変換できなかった。『広辞苑』(第6版)には、「めしい」の項目に、(「目癈(めしい)の意)視力を失っていること。また、その人。(倭名類聚鈔 (3))とある。

 このたびの停戦とこの小説の間に、直接的関係はまったくない。題名はジョン・ミルトンが、旧約聖書に基づき、サムソンが、ガザでペリシテ人に目を焼かれて視力を失い、ガザに連れられ、奴隷と共に石臼で穀物を挽く仕事をさせられたという記述に基づいている。実はハクスレーは角膜の炎症で視力が弱く、その治療もあってアメリカ、カリフォルニアに移住している。(実は一時期、管理人も視力に不安を感じて、ハクスレーの『視力改善の技法』The Art of Seeing (1942)という本を手にしたが、あまり効果はなかった。後に理論的にかなり物議をかもした本であることを知った。)


`Eyless in Gaza at the
     Mill with slaves`
                     MILTON

 小説は主人公アンソニー・ビーヴィスとその友人・知人のとの子供から中年までの関係・事件を、時系列的に連続ではなく、時代を行き来しながら、描いた小説である。ビーヴィスは生来の道徳的な臆病さから普通の世の中から距離を置いている。そしてなんとか新しい生き方を探し求めている。いくつかの出来事、特に友人ブライアンが主人公との恋のさや当てで自殺した事件が、ひとつの試金石となっている。さらに主人公が交際していた麻薬中毒などの問題を抱えたシニカルな女性、学校時代から付き合っていたマークという”ごろつき”との関わり合い、などの出来事がフラッシュバックで織り込まれる。1章ずつ丁寧に読まないと理解が難しいが、各章は見事に描かれている。ビーヴィスは自分を平和主義者と思っているが、知的にも洗練されているわけでもなく、徹底していない人物と描かれている。時代は20世紀初め、1910-20年代である。小説はハクスリー自らの生き方と、重なるような部分も見せている。

 作家は神秘主義に深く入り込み、新たな精神世界の探索を求めて、精神科医のハンフリー・オズモンドに自ら幻覚剤の実験対象となることを希望し、メスカリンを服用したりしている。かなりメランコリックな状態にあることも分かる。また、死に望んでは、LSDの投与を妻に依頼していた。

 ハクスリーは小説、エッセイ、詩、旅行記、児童向け読み物など広範な文筆活動を展開した。『すばらしい新世界』Brave New World (1932)などは、ジョージ・オーウエルを思い起こさせる。そして、このブログでも触れたことのある魔女裁判の白眉『ルーダンの悪魔』 The Devils of Loudun(1952)などには、ハクスリーの神秘主義者としての関心がうかがわれる。さらに、ハクスリーはジョルジュ・ド・ラ・トゥールについても記している(The Doors of Perception and Heaven and Hell, 1954)。彼がどこでこの画家の作品を見たかはわからない。ラ・トゥールについて知っている、あるいは書き記している英国人は、わずかな数の美術史家、収集家を除くと、きわめて少ないからだ。しかも、画家の存在もあまり知られていない時代である。ここにもこの時代の底流に繊細に反応していた偉大な作家の視野の広さと鋭敏な感覚を感じる。

 オルダス・ハクスレーは、晩年アメリカにわたり、ハリウッドに住んだ。そこではあのクリストファー・イシャウッド、バートランド・ラッセル、クリス・ウッド、クリシュナムルティなどの神秘主義者のサークルとの交友もあった。この時代が持つ独特な不安、陰鬱な空気を感じる。ハクスレーは、1963年11月22日、ハリウッドの自宅で死去した。ジョン・F・ケネディがダラスで暗殺された日であった。

 

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しぼむ多文化主義の花

2012年11月13日 | 移民政策を追って

 

 オバマ大統領はアメリカにとって、移民政策改革がきわめて重要であることを強調しながらも、最初の4年間の任期中には最小限の施策しか実現できなかった。それでもヒスパニック系移民の投票を確保するにはかなり効果があったようだ。

 今回当選後の演説でも、「財政の崖」解消と並び、移民法改革を重要課題としているが、どれだけのことができるだろうか。野党共和党議員の中には、国内に居住する不法滞在者は、本国にいったん送還すべきだとする強硬派も多いので、難航することは疑いない。アメリカの実態についてはかなり誤解もあるが、これまでは世界の中でも一般に「開かれた国」であるというイメージが広く浸透していた。しかし、アメリカに限らず、近年の現実はかなり異なった様相を見せ始めた。。

望ましい国のイメージ
 
 ある国が世界で輝いているかを判断するひとつの指標は、その国へ行ってみたいと思うかどうかではないか。その内容は、その国を旅したい、そこで学びたい、働きたい、できれば移住したいなど、異なるかもしれない。しかし、多くの人が行ってみたい国は総じて魅力があり、輝いている。そこには「希望」が待っていそうな気がする。

 移民の歴史が示すように、アメリカは長らくそうしたイメージを世界に発散、時に誇示してきた。世界中から多くの外国人がさまざまな目的をもって集まり、まさに移民で出来上がった国として今日にいたった。アメリカに限らず、豊かで平和な国は優れた人的資源(人材タレント)を受け入れることができる。

 国に魅力があれば、世界中の賢い人たち、優れた人材も誘引することができる。そうした人たちの力を借りながら社会を革新し、投資を行い、事業などを拡大することができる。まさにアメリカはその道を歩んで今日にいたった。

 日本人のノーベル賞受賞者の中にも、若いころにアメリカで教育を受け、研究活動をされた方がきわめて多いことに気づく。また、管理人がお世話になったり、知人である医師でも、多くの方が海外で研修、研究などの経験を積んで来られた。そうした経験がその後の活動にさまざまなプラスの効果を加えていることは、ほとんど明らかだ。

 個人的経験を記すならば、戦後ある時期のアメリカは、世界の人々が最も憧れる国だった。今でもそうかもしれない。日本は敗戦後の壊滅状態から立ち上がりつつあったが、アメリカはどれほど努力しても到底追いつけない国に思えた。この国にいても、自分の目指していることは実現できそうもないように感じた。アメリカへ行きたいという思いは急速に強まり、ある日羽田を飛び立った。成田空港はまだ開港されていなかった時代だった。当時アメリカに来ていた日本人は、数は少なかったが、総じてとにかく良く勉強した。ヴェトナム戦争の最中、アメリカの学生たちも必死に勉強していた。単位を落とすと徴兵が待っていた。その後、ヨーロッパの国にも滞在する機会に恵まれたが、そうした経験が、その後の職業生活や生き方にもたらした効果はきわめて大きいと実感している。

 日本の教育・研究環境が貧しかったこともあり、外国、とりわけアメリカへ行きたいという思いはきわめて強かったし、それが実現した時はとてもうれしかった。最近、海外留学に積極的でない若い人たちが多くなったことを知って、いささか理解しかねることもある。海外の主要大学に滞在している日本人は非常に少ない。代わって中国人が圧倒的に増加している。若い世代のひとたちには一度でも、日本と違った国で過ごしてみることを強くお勧めしたい。

「移民流出」

 だが、最近、受け入れる側にも以前にみられなかった変化が起きていることにも注意しておきたい。アメリカについてみると、この国の寛容度はかなり変わってしまった。いくつかの理由はあるが、2001年9月11日の出来事は、状況を激変させた最大の要因だ。この日を契機に、アメリカは急速に門戸を閉ざすことになった。

 具体的には、グリーンカード〔永住権が得られるヴィザ)が取得しにくくなった。熟練労働者・技術者に交付されるH1-Bヴィザは、企業のスポンサーがなければ取得できない(1999年は10万人以上を受け入れたが、最近は65,000人以下に制限されている)。すでにアメリカで働いている人は、仕事を失うリスクを覚悟しないと転職することはできない。パーマネントな居住許可が難しくなっている。1980年代にアメリカへ来たインド人技術者はグリーンカード取得に18ヶ月を要したが、最近では10年近くかかるといわれている。先が見えないので、思い切ったことができない。学校を卒業しても、仕事がなかなか見つからない。こうした理由で、母国へ帰国してしまう人が増えた。「移民流出」the immigration exodus という現象が指摘されるようになっている。他方、カナダ、オーストラリア、シンガポールなどでは、労働力が不足し、より容易にヴィザを取得できる。

イギリスでも
 同様な状況は、イギリスでも起きている。この国では、2015年までにネット(純)の移民受け入れを年間10万人以下に抑える方針を発表している(Immigrants keepout.)。実際には達成は無理といわれているが、2011年、純流入はおよそ36,000人減少し、216,000人になった。ポーランドのような新たにEUに加入した国からの移民労働者が仕事がなく帰国している。イギリス人の海外流出も増加している。オーストラリアなど海外で働くことを目指すイギリス人も増えている。昨年2011年には149,000人が流出し、帰国も少なくなった。

 イギリスへの移民が減少している背景には、イギリス経済の停滞、生活費上昇、海外からの雇用、学生のリクルートメント増加などが挙げられている。友人のケンブリッジの教員が、アメリカ、オーストラリアからの学生・教員の誘い、大陸の大学のいわゆるエラスムス計画の魅力などで流出が多く、引き留めに苦慮していると話してくれた。大学などの高等教育はイギリスが国際競争力を持ち、強みとする領域だが、政府の学生ヴィザの発行は絞られており、昨年1年で21%も減少した。経済が上向いているインドなどでも、故国を捨てたディアスポラを呼び戻している。オーストラリアでは家事のお手伝いさん domestic girls にイギリス人を募集している。

 経済危機のギリシャ、ポルトガル、スペインなどでは「頭脳流出」brain drain が目立ち、たとえばポルトガルからはブラジルやアンゴラへの出稼ぎが増えている。旧くなった先進国よりも、新興諸国の方が活力があるのだ。

「多文化主義」の行方
 
さらに、従来「多文化主義」を掲げてきた国が、イスラム教徒との摩擦増加などで、後ろ向きになっている。現代史上、一大事件となった9.11を契機とし、オサマビン・ラディンの暗殺を挟んで、イスラム教徒の労働者の出稼ぎ先国での同化をめぐる軋轢がかつてなく顕著になった。イスラムフォビア(イスラム嫌悪者)と呼ばれる、狂信的なグループが生まれ、しばしば厳しい問題を生み出している。オランダ、デンマーク、ドイツなどほとんどの国が「共生」や「同化」のスローガンを放棄しつつある。「多文化主義」の旗手のひとつだったカナダも、1971年に多文化主義の推進を法律化したが、9.11以降は否定的になってきた。

 グローバルな人の流れは明らかに変化している。移民受け入れがもっとも進んでいるとみられてきたドイツは、メルケル首相が「多文化主義」の敗退を認めた。移民の宗教にかかわる摩擦・紛争が容認しがたくなっのだ。ドイツ国内にいるイスラム教徒は、約400万人と推定されている。これまでドイツは移民の社会的「統合」を標榜し、試行錯誤を続けてきた。政府は長らく移民統合の過程で国民に「寛容」を求めてきた。この意味は、ほとんど忍耐に近い意味であったが、ついにその限度が近づいたようだ。「統合」もその政策概念と実態の間に大きなかい離が生まれた。「統合」と「同化」も同じではない。ドイツ人と同じように生きることを強いるのが、現実の姿だ。それが不可能ならば、移民と従来の国民との一体化を求めることはできない。理念と現実の間には大きな距離がある。
 
 こうして、アメリカ,イギリス、ドイツなどかつての人材受け入れ国が、受け入れ制限に傾いている時、日本はどうするのだろうか。国民的次元での議論はほとんどない。国家戦略の重要な課題のひとつのはずなのだが。

 世界に優れた人材が多数存在する今、日本がそこにアクセスする努力をしないことは愚かなことに思われる。日本人が気がつかない斬新な発想などを導入して、日本が未だ比較優位を保つ先端技術の研究・産業集積の導入、漁業、林業などの地場産業を活性化する新たな発想が必要ではないか。魅力ある地域づくりなくして、希望の持てる国は生まれない。今こそ、世界の英知を借りる努力をすべきだろう。文化立国なくして、この国にもう花は咲かない。

 東電がやっと、「福島本社」の実現に動いたのと同様に、被災地復興を最先端の研究・産業集積で支援する「東北都」の構想はやはり本質的な意味を持つと考えている。遠く離れたところで指図をすることを排し、問題のあるところに対応の主体を移すことは、地域振興政策の鉄則なのだ。

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パンの重さ:シャルダン『市場から帰って』

2012年11月02日 | 絵のある部屋

 



ジャン・シメオン・シャルダン
『買い物帰りの女中』
1739年、油彩、カンヴァス
47x38cm

パリ、ルーヴル美術館

La pourvoyeuse
Huile sur toile
Paris, Musee du Louvre




 
シャルダンの作品は、そのほとんどが眺めていて一種の精神安定剤のような効果を与えてくれる。作品を見ていると次第に心が落ち着き、なごやかな感じが漂ってくる。作品自体が見ている人になにかを押しつけようとする、あるいは画中の人物などが迫ってくるような感じがない。当時の日常の一齣を描いた風俗画にしても、その世界に自分も入り込んでいるような思いもしてくる。

 シャルダンのことは書き出すときりがないので、書くつもりはなかったのだが、ある調べごとをしているテーマとの関連で、一枚の作品のことが頭をよぎった。

 シャルダンの『市場から帰って』(『買い物帰りの女中』)という有名な作品だ。市場へ買い物に行って帰ってきたばかりの召使い(お手伝い)が、買ってきた品物をキッチンの棚の上に置いた瞬間の光景が描かれている。これから奥に見える同僚に、話をするのだろう。

 この主題は3点のヴァリアントが現存している。実は4点あったのだが、4点目はロスチャイルドのコレクション(Henri de Rothchild)に含まれていて、第二次世界大戦中に火災で焼失してしまったらしい。今回の『シャルダン展』に出品されているのはルーヴル美術館が所蔵している一枚である。1867年の年記があり、現存する3点の中では最後に制作された作品だ。

 鳥の腿肉がそのまま飛び出ている買い物袋を持ちながら、食器棚の上に二つのパンを置いた時の一瞬を描いたものだ。描かれている主人公は、多少重い買い物などでも、一向に気にかけないような体格の堂々とした女性だ。おそらくこの家の女主人は、とても重い物など持てないような華奢な人なのだろう。

 この主題、複数のヴァリアントがあるように、画家は主としてさまざまな配色の効果を試したかったようだ。前回のブログに記したパリ、ワシントンなどでの巡回『シャルダン大回顧』展では現存する3点が並列展示されていたが、今回はルーヴル美術館所蔵の1点だけが展示されている。実は3点とも人物や什器、器物などの配置はほとんど同じなのだが、画家は微妙な配色、陰影の効果などを確かめたようだ。どれもそれぞれに持ち味があって興味深いが、今回出展されたルーヴル・ヴァージョンは色合いが全体にはっきりしていた、迫力がある。現存する3点の微妙な違いは、画家がなにを考えて描いたのかを想像させて大変興味深い。その中で、ルーヴル・エディションは、最後に描かれただけあって、完成度が高い気がする。全体の色合いも他の2点と比較してやや濃い。

 当面、筆者が注目するのは、彼女が食器棚の上に置いたふたつの大きなパンの塊だ。フランスのパン屋の発達史を多少調べてみた時に分かったのだが、この作品が制作された18世紀、1867年、そしてあの生家がパン屋であったジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生きた17世紀の間に、フランスではパンの製法にはほとんどさしたる変化がなかったことが推定されている。パンは当時も今も主食なのだが、当時はパンの種類も少なく、製法も比較的単純であったこともあって、伝統的な工程には大きな変化がなかったようだ。

 17-18世紀のフランスのパンには、地方によって製法や形状にそれぞれ特異な違いが見いだされるが、注目されるのはその形状と大きさだ。今日の社会で消費されるパンの種類は、消費者の嗜好もあって、きわめて多様なものだ。しかし、シャルダンの時代にあっては、パリでもこうした大型の塊のようなパンが、市民の主食であったことがわかる。主食である以上、その重さが重要な意味を持っていた。

 17世紀においても、パン屋の信用は多分に店で売っているパンの重量が正しく守られていたかという点にあった。ロレーヌの農民などは、とにかく大きなパンを買ってきて、せいぜいスープに浸して食べていたらしい。したがって、パンの形状などは二の次で、まるで不揃い、パンかまどに入れる前に簡単に形を整えたくらいで、凸凹な塊のようだ。問題は重量にあり、パン屋が秤量をごまかさないかという点は、消費者にとって大きな問題であった。

 多くの場合、毎朝焼き上がったばかりのパンを買いに行ったので、その大きさで何人家族かというようなことまで推定できるようだ。

 同じ時代にロレーヌでパンを買って帰る女性と子供たちを描いた絵がある。これを見ると、当時のパンがいかに大きなものであるかが分かる。子供が大事そうに抱えているのは、彼女の分け前なのだろうか。

 

source
Gerald Louis. Le Pain en Lorraine
クリックすると拡大します


 シャルダンの絵を見ると、重い買い物袋を持った上に、これほど大きなパン二つを抱え込んで市場(いちば)から帰ってきた女性は、一家の買い物担当だけあって、さすがにたくましい。今日でもバケットなどを紙に包むこともなく、無造作に買い物袋に突っ込んで歩いている人をパリなどでも見かけるから、紙に包んだり、袋に入れるなどという慣習は、このころのパリでももちろんなかったのだろう。日本とは大きな違いだ。

 一枚のなんでもないような風俗画だが、よく見ているといろいろなことを考えさせられる。
 


日本で開催中の『シャルダン展』では、『買い物帰りの女中』という画題がつけられている。もともと、シャルダンは画題をつけていないのだが、当時のフランスではプールヴォワイユーズ La pourvoyeuse〔配達人,供給者の意味) と呼ばれる召使いは、特に市場や店で、買い物を担当する役割を負っていた。1999-2000年の『シャルダン大回顧展』では『市場から帰って』 Return from marketという画題であった。今ではこちらの方が良いと思うのだが

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