時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌの春(2)

2007年02月28日 | ロレーヌ探訪


  通常の観光客とはほとんど縁のないロレーヌの小さな町ヴィック・シュル・セイユのラトゥール美術館の売り物は、なんといっても「荒野の洗礼者聖ヨハネ」である。しかし、ラトゥールの作品については、もうひとつ「女性の横顔」(Tête de femme: fragment)を2004年から所有している。

   この小さな美術館が生まれた背景について、少しだけ記しておこう。なにしろ、この忘れられたような小さな町は、この美術館でかなり活性化した。町には立派な「ツーリスト・インフォメーション」が設置され、行って見ると、それまではなかったラトゥールとヴィックを紹介する別室まで出来上がっていた。ラトゥール・フリーク?にとっては、美術館とは別に、いつまでもいたいような空間である。ヴィックの町の立体模型も作られており、美術館の近くには、祖先がラトゥール家ではなかったかといわれるパン屋まである。

  「荒野の洗礼者聖ヨハネ」の発見をめぐる美術界での騒ぎは、かなりよく知られているが、この小さな町へもたちまち波及し、どの家でも屋根裏に作品が残っていないかと夢中になったとのこと。なにしろ、ラトゥールの作品ともなると、閣議で問題になるくらいの国宝扱いで、一枚数億円は下らないのだから無理もない。

  1996年モ-ゼル県は、ヴィック=シュル=セイユの町とジョルジュ・ド・ラトゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」を展示する美術館を設立する協定を結んだ。この作品は、一時は海外流出もうわさされたが、フランス政府の政治介入によって、1994年に将来その他の作品と合わせて美術館を設置することを前提に、県が保有する権利を獲得していた。フランス政府もまたアメリカへ持っていかれるのではないかと、躍起になって流出を防いだらしい。1993年の秋にパリの競売の下見会で発見されてから、翌年12月にモナコのサザビーズでオークションにかけられ、モーゼル県が落札・購入するまでの経緯は、紆余曲折、政治ミステリーのようであったらしい。

  美術館設置の場所として、当初はこの町の産業のひとつであった貨幣鋳造所跡が予定されていたが、ラトゥールの作品が常設展示されるということになって1998年には、80点近い作品の寄贈や寄付が集まり、最初のプランではとても収容できないことになった。これも予期しなかった「ラトゥール効果」だった。

  結果として、町の中心であるジャンヌ・ダルク広場に、かつては18世紀の町役場であった建物を改築して美術館とすることになった。ところが、古い町によくあることだが、建設サイトを3メートル近く掘り下げたところ、ローマ時代の遺跡に始まり、その後の幾たびかの火災の跡など、町の盛衰を語る多くの資料が発掘された。こうしたことで、美術館が完成したのは2003年6月のことである。

  美術館の内部は、訪問者がゆったりと作品をあるがままに鑑賞できるように自然光を重視した設計になっている。何にもまして、観客がいないことが都会の美術館とは大違いである。 展示されている作品は、美術館建設の歴史が語るように、ロレーヌの歴史の一端を物語る考古学的発掘品、穀物などを計量した秤などの生活にまつわる品々、彫像、絵画など、かなり多岐にわたっている。

  絵画作品に限ると、17-18世紀の作品に注目すべきものが多い。とりわけ17世紀初期のフランス画壇は複雑な変化をしているが、そのいくつかを象徴するような作品が展示されている。ちょうど、このブログでも記したパリの美術展で大きな注目を集め、待ち時間1時間以上という「オランジェリー 1934年: 現実の画家たち」と重なり合うような作品もあった。

  ヴィックを訪れる前からチェックをして、ぜひ実物を見たいと思っていた作品のひとつに、ジャック・ステラ Jacques Stella (1596―1657) という画家の「母親との自画像」があった。ステラはプッサンの友人でもあり、ラトゥールとほぼ同時代人であって、当時の人々の容貌や衣装がどんなものであったかを知るに面白いと考えていた。ところが、残念なことに、この作品だけ別の美術館へ貸し出し中であった。しかし、H. シェーンフェルドの「鏡の前のマドレーヌ」など、他の作品でかなり興味を惹かれたものがあった。

  満足できるまで見ていられるというのが、こうした美術館の大きなメリットである。オルセーなどで、名作に圧倒されるような威圧感もなく、自分の家の居間で作品に対しているような時間を過ごすことができる。



* この作品については、興味深い点もあり、いずれまた記すことにしたい。

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ロレーヌの春(1)

2007年02月26日 | ロレーヌ探訪

Photo Y.Kuwahara   


  ロレーヌは、もう春の光が射していた。土地の人の話では、今年は冬がなかったという。雪もほとんど降らなかったようだ。野原の木々には若緑の芽が見えている。この地方、比較的平坦ではあるが、地平線のかなたまで野原や畑が続くというわけではない。適度になだらかな丘陵や遠くに山も見えて目に優しい。雨量が多かったため、ほとんど草原や畑の中に埋もれたような川が岸からこぼれんばかりに、しかし静かに流れている。

  何度目のロレーヌへの旅になるだろうか。かつて仕事でしばらくパリに滞在していたころ、ザールブリュッケンの大学にいた友人の誘いで週末に何度か訪れた。冬の休みには1ヶ月くらい家に泊めてもらったこともあった。親切な友人で、遠来の客をもてなそうと、暇を作っては朝から夕方まで小さな町や村などに残る教会や城跡を案内してくれた。城砦の構築の仕組みに興味を抱くようになったのも、この頃からだった。友人夫妻の子供はまだ1歳にならず、乳母車を車へ持ち込んでの移動だった。その子供も今はスラヴ文化の研究者となった。

  ロレーヌの歴史やジョルジュ・ド・ラトゥールへの関心が深まってからは、ここは
きわめて親しみのある土地となった。アルザス・ロレーヌは、政治的にも複雑な経緯を辿った地域である。各地に刻まれたさまざまな記念碑や古い戦車、大砲などが幾多の戦争を記憶に留めるために残されている。それにもかかわらず、自然の美しさは傷跡を癒すかのように残っており、なだらかな丘陵の合間に点在する小さな町や村には、静かな生活が営まれている。

  今度の旅はこれまでとは、かなり異なるものとなった。ラトゥールという画家が過ごした環境をできるだけ追い求めてみたいという目的があった。過去に訪れた場所も含めて記憶をたどる旅でもある。最初に訪れたのは、ラトゥールの生まれた土地、ヴィック・シュル・セイユである。ここもかつて訪れた場所である。基本的には17世紀以来の自然環境はほとんど残っているのではないかと思われる小さな町である。

  ナンシーから車で30分くらいであった。森や野原に穏やかな春の光が指している実に美しい道だった。自動車文明が生み出した影響を除くと、400年前もこうした状況だったのではないかと思われる自然が残されている。鹿や猪に注意との道路標識が目につく。アメリカのパットン戦車が置いてある村もあった。

  以前訪れた時と比べて、ひとつ大きく変わった点があった。町を歩いていてほとんど人影もないような小さな町に、立派な美術館が生まれた。ラトゥールという一人の著名な画家が残してくれた記念碑である。ジャンヌ・ダルク広場にあった、かつての古い町役場を再設計して構築された。外観は小さなオフィス・ビルのようではある。昔の面影をもっと残したかったようだが、所蔵品の展示のために5階建ての作りとなり、かつての面影はわずかにビルの角に小さなニッチを設けただけになった。美術館の周辺はかなりきれいに整備されていた。

  しかし、開館時間の9時30分に行ってみたが、入り口が開いていない。開館していることは調べてあったが、もしかすると臨時休館かという思いが一瞬頭をかすめた。折りよく通りがかった犬を連れた中年の女性に聞いてみると、休みではないはずだから少し待ってみたらと言ってくれた。10分くらいして、男性が現れてお待たせしましたと言って、ドアを開けてくれた。午前中は館内にいたのだが、その間他には誰も訪問者はなかった。美術館を独り占めにしたような満足感だった。

  都会の美術館であったら、観客の肩越しに見ることになる作品をいつまでも一人で見ていられるという考えられないような至福の空間があった。 「荒野の中の洗礼者聖ヨハネ」が目前に掲げられている。採光の良い条件の下で見ると、以前に暗い照明の下で見た時よりも鮮やかであった。ラトゥールの現存する最晩年の作品ではないかといわれるが、言葉を失なうような見事な作品である。この画家の作品は、大美術館で鑑賞するにはあまり適していない。作品が持つ深い精神性が伝わりにくいのだ。幸いこの作品は落ち着くべきところを得た。長旅の疲れもあって体調はよくなかったが、ここまで来てよかったという深い充足感がこみあげてきた。

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ロシアでも不法移民締め出し

2007年02月23日 | 移民政策を追って

  ロシアにおける移民・外国人労働者の実態については、これまであまり知られていない。本年1月末、ロシア政府は突然移民法を改正し、外国人労働者への規制に踏み切った。

  政府は改正移民法によって、ロシア国内で働く不法就労外国人労働者の就労禁止、彼らの市場からの排除、就労実態の把握、そして現在国内に滞在する不法就労者については、簡易な手続きで合法就労に移れるとしている。しかし、4月1日までに、ロシアの小売市場の外国人を、最大限40%に制限するなどの厳しい措置が含まれている。

  規制の対象は主としてコーカサス、中央アジアの旧ソヴィエット諸国、中国などからの出稼ぎ労働者である。規制は即時に実施され、これまで市場を牛耳っていたタジキスタン人、中国人などが市場から追い出されている。
  
  ロシアは目覚しい経済発展をとげているが、社会の経済格差も拡大している。こうした外国人が経営する店は商品が安く、そうした市場に頼る人々も多い。外国人労働者の賃金も安い。

  他方、増加する外国人への反発も高まっている。多くの死傷者が出た2006年8月のモスクワの市場での爆破事件は、そのひとつの動きである。不法就労の外国人との軋轢も増加してる。ロシアの外国人労働者は1200万人を超えており、不法就労者はそのうち800-1000万人と大多数を占めるといわれる。彼らは建設現場やレストランなどで働いている。今年は旧ソヴィエット諸国からの出稼ぎ労働者受け入れ許可は最大でも600万人といわれており、閉め出される外国人の数も大きい。

  ロシア国内では、エスニック・ナショナリズムともいえる動きが急速に高まっている。民族主義の台頭に伴って、外国人がロシアの富を奪っているとの不満が強い。プーチン大統領は、スラヴ・ロシア人の保護を公言している。今回の措置も表向きはロシアの農民が生産する農産物価格の改善に寄与することが目的といわれてはいるが、実際は非スラヴ系の外国人を追い出すことにあるらしい。

  改正法では3日以内に手続きすれば労働許可を与えるとしているが、不法滞在者の間には疑念がある。今回の措置では、ロシアで合法労働が認められるためには一度国外へ出なければならない。しかし、不法労働者のうち3%しか合法許可は与えられないとの推定がある。出国の際に罰則を受ける可能性もある。移民局などに見つからなければ彼らを雇う使用者は多く、ビジネス機会もある。もし、合法化許可が得られず、国外退去となれば最長5年間は入国禁止となる。ということで、この急な対応措置には多くの不安と混乱があるようだ。

  改正移民法は全ロシアに及ぶため、極東地域などでも混乱が起きている。ウラジオストック、ウスリースクなどでは、ロシア人の経営する市場で、中国人労働者が働いたり、店を開き、商品を持ち込んで販売している。衣料品から日用品までほとんど市場でそろう。建設ラッシュで人手は足りない。ロシア人の人口は年々減少している。ここでも外国人労働者に頼らないとやってゆけなくなっている。ヨーロッパを旅して、かなり移動の自由度は増加したと感じる点もあるが、国境の壁は厚い。

  今回の移民法改正は、抜本的措置には程遠い。プーチン政権の強権発動による一時的な対応である。新たな混乱が生まれ、しばらく続くだろう。 国境はここでも高くなった。

Reference

“Market forces.” The Economist January 20th 2007

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オランジェリーが抱いた時代への思い

2007年02月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Credit: Place de la Concorde (6 fevrier 1934, Au fond, l'Orangerie, Paris, Biblioteque national de France), partial 
  


    オランジェリー美術館の歴史の中でも、1934年に開催された「オランジェリー 1934年:現実の画家たち」は、特別に意義ある展覧会として今日まで記憶されている。70年余りの時空を隔てた今日、その忠実な再現を試みた今回の特別展は、それ自体大変アンビシャスな試みであることは2月3日に記したとおりである。

  ただ、完全な再現とはいっても、オランジェリー美術館自体が全面改装されたので、展示室の配置などは変わらざるをえない部分もあった。展示作品もさまざまな事情で完全に同じ形での出展は難しい。しかし、主催者側は最大限の努力をして当時の状況を再現しようと試みたようだ。開催の時期も、1934年11月24日-35年3月24日と、季節まで考慮したかのように重なっている。その徹底したこだわりぶりには敬服する。細部にわたってみると、さまざまな配慮が感じられる。

  展示空間については、インターネット技術を駆使して、1934年当時の状況を3D空間で再現している。70年前に誰がこれほどの技術発展があると予想しただろうか。この労作ともいえる3D作品を見ると、当時の展示では、入り口からまっすぐに入った部屋を通り抜け見通した先の部屋の正面に、あのフィリップ・シャンパーニュ
「二人の尼僧」(略称)の作品が掲げられている。そして手前の部屋を見渡せば、このブログを訪れてくださった皆さんにはすでにおなじみの作品が、左右に目を奪うばかりに展示されている。

  たとえば、左側にはルナン兄弟の作品、右側にはラ・トゥールの作品を中心に、著名な作品が多数掲げられている。その他、ニコラ・プッサンの「ある画家のポートレート」と題された自画像など、巨匠の作品が文字通り目白押しに並んでいる。この時代の美術に関心を寄せる人々にとっては、目を奪われるような至福の時を与えてくれる空間だ。

  今回の特別展では、部屋の状況は異なっているが、さまざまな検討の結果が試されている。そのひとつは、これもインターネット技術を活用して、今回の展示室の作品配置
が即時に分かることである。卓抜な試みである。

  1934年展の忠実な再編という意味では、今回の展覧会のカタログが徹底して、その目的を追求している。400ページという大部なカタログだが、通常の展覧会のカタログとは大きく内容を異にしている。なぜなら、その大部分を1934年版の再現に当てているからである。それも、再版という単なるコピーではなく、34年版のそれぞれのページごとに詳細な注記を付して、その後の調査・研究の成果、作成年次の特定、研究文献、展覧会や特別展への出品歴など、70年余の年月が蓄積した進歩の跡が加えられている。たとえば、ラ・トゥールの作品のいくつかには、2005年の東京展の出展記録が追加されている。


  これらを見ていると、実に多くのことが脳裏に去来する。今回はそのひとつを記しておこう。 Introductionの部で、導入部分 overtures の写真に使われているのは、「コンコルド広場、1934年」** と題されたモノクロの写真である。写っているのは、鉄兜をかぶり、銃を背にした騎兵隊である。この写真自体はかなり有名なもので、これまでなんどか目にしたことがあったが、一瞬なぜこの写真がここにと思った。

  1934-35年という年は世界史上もきわめて注目すべき時であった。1934年にはヒトラーが総統に就任し、翌年の35年にはフランス領ザールはドイツに編入された。第二次世界大戦はもう目の前まで迫っていた。前途に暗雲が立ちこめるきわめて不安な時であった。1934年(正確には1934-35年)展は、その最中に企画され、開催された。今回の特別展カタログの最初に、この象徴的な写真を掲げた主催者の時代への思いが強く伝わってくる。



*
Philippe de Champaigne, La Mère Catherine-Agnès Arnauld et la sæur Catherine de Dainte Suzanne

**
Place de la Concorde (6 fevrier 1934, Au fond, l'Orangerie, Paris, Biblioteque national de France)


ORANGERIE, 1934: ”PEINTRES DE LA RÉALITEÉ”, Exposition au musée de l'Orangerie, Paris. 22 novembre 2006 - 5 mars 2007, 2006, 400pp.

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完成しないジグソーパズル

2007年02月11日 | 雑記帳の欄外

 
    この「変なブログ」も、いつの間にか2年になる。ブログ世界の主流とは遠く離れた片隅で、きわめて個人的なメモ作りのようなことをしてきた。いわば「デジタル雑記帳」である。忘却という闇に深く埋もれてしまった記憶の切れ端をつなぎあわせるような試みである。とはいっても、なにか明確な意図や見通しらしいものを持って始めたことではない。一寸したはずみで軽率に始めたにすぎない。2,3ヶ月でやめることになるかもしれないと思っていたので、これまで続くとは思ってもいなかった。一日の暮らしの中で、ふと思い浮かんだことを、暇な時間が生まれた折に書き込んでいるだけである。他の仕事に時間をとられている時には、ブログの存在などすっかり忘れてしまっている。
 
  それでも、始めた時にはまったく予想しなかったようなことも起きている。もつれた糸が少しずつ解けてくるように、ひとつのことからいろいろなことが浮かび上がってくる。記憶の不思議に改めて驚く。すっかり忘れてしまっていた小さな事柄が、なにかのきっかけで浮かび上がってくる。死んでしまったと思っていた記憶細胞が、どこかで生き残っていたことを素直に喜ぶ。

     ここまで書いて、他の仕事があって中断していたところ、ブログを読んでくださった友人K氏から、ある医師から聞かれた話として、大略次のようなことを記したメールをいただいた。:
「どんなコンピューターでも容量は有限だが、脳というコンピューターだけはその容量は無限。学習を積み重ねることで、神経回路のネットワークを拡大強化し、連想性を高め、個性のあるコンピューターに育て上げることが出来る。記憶は、そのものが時間と共に失われることはない。ただ記憶を取り出しにくくなるに過ぎないのである。年をとっても脳の神経細胞には常に余裕があるが、その活性化は本人次第。」
  
  あまりにタイミングがよくて、私の思考経路が即時にK氏に伝わっていたような思いがした。これも不思議な気がしている。最後の一行には「耳も、頭も痛い」のだが。

  17世紀という400年近くも経過した世界が、一枚の絵画作品を介在してきわめて近い存在に感じられるようになってくる。自分がその時代に身を置いていたら、なにをしていたのだろうかと考える。人々はなにを支えに、どんなことを考えて日々を過ごしていたのだろうか。ロレーヌの人々はどんな顔をしていたのだろか。今も自然のままに残る深い森のつながり、その闇の中になにを見ていたのだろうか。

  このブログを訪れてくださった方は、現代と17世紀をどうしてごちゃまぜに取り上げるのかと思われるかもしれない。しかし、私にはあまり違和感がない。外国軍の侵入で暴行、殺戮が繰り返され、一時は焦土と化したロレーヌの状況は、今のイラクとどこが違うのだろうか。人々を恐怖と狂信に追い込んだペストなどの悪疫の流行は、鳥インフルエンザと重なってくる。人類は進歩しているなどとは到底思えない。

  フランスや神聖ローマ帝国など、大国の覇権の狭間で生きてきたロレーヌ公国の人々の生き様が迫ってくる。17世紀、ほとんど先が見えない不安な世の中で、人々は唯一確かなものに見えた利得を追い求め、争い、そして神にすがっていた。先を見通すについて、人々が頼りにしていたのは、町中その他で交わされる噂話や風の便りに伝わってくる他の世界の出来事であった。神は日常の中に見えていた。ラ・トゥールの世界である。そして、現代は「神が見えない時代」となった。

  紙の上ではなかなか実現できない時間や空間を超えての試行錯誤や疑似体験をインターネットの世界は、少しばかり可能にしてくれる。とはいっても、失われた記憶が、元のままに戻ってくるわけではない。「完成することがないジグソーパズル」をしているような感じもする。もしかすると、これが今日までなんとか続いている原因なのかもしれない。

  
  


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ラトゥールへの旅(2):ルナン兄弟

2007年02月06日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Le Nain, La Forge, did aussi Un maréchal dans sa forge
Huile sur toile, H.0,960; L.0,570

Musée du Louvre, Paris
http://www.wga.hu/html/l/le_nain/blacksmi.html


    このたびのオランジェリー特別展で再現している「1934年展」の最大の呼び物は、ラ・トゥールであったことはすでに記したが、同時代17世紀の他の多くの画家たちにもスポットライトが当てられていた。

  その中で、ラ・トゥールに次いで主催者が力を入れたのは、ルナン兄弟 Le Nain であった。ラ・トゥールの作品や生涯に関心を抱くようになってから、このルナン兄弟の作品にも興味を惹かれてきた。とりわけ、当時の農民や職人の生活がリアルに描かれた作品については、「労働」の世界を追いかけてきた者として大変興味深いテーマであった。このルナン兄弟も、19世紀半ばにリアリズム美術を評価したシャンフルーリなどによって「再発見」された。

  今回の展示でも、10点という全体の中ではかなり大きな出展数である。すべて農民や職人の生活を描いた作品である。実はルナン兄弟は宗教画も描いていた。作品ばかりでなく、3人の生涯にはラ・トゥール以上に謎が多い。

  ルナン兄弟はルイ、アントワーヌ、マティユー Louis(1600-1648), Antoine(1600-1648) and Mathieu(1607-1677)の3人兄弟である。仲が良かったらしい。ルイとアントワーヌは近年の研究によると、ほとんど同年の生まれらしい。ということは、3人とも同世代ということになる。彼らは3人ともにロレーヌ地方のランLaonに生まれ育ち、画家としての修業も生地で行ったのではないかと推定されている。誰か親方の下で徒弟修業したと思われるが、確認されていない。兄弟3人そろって画家というのも面白い。

  兄弟は1630年頃までにはパリに来て、サンジェルマン・デプレに工房を設けていた。アントワーヌは1628年ころに親方画家となった。マティユーは1630年にパリへ来たようだ。3人は行動を共にしていた。最初の作品からみると、歴史画家、特に神話画や宗教画を専門 としての地歩を築いたようだ。しかし、1630年末頃からヴーエ Vouetの工房などが活気を呈し、イタリア帰りの画家たちの中にも大きな装飾画を得意とする者が出てきた。そのため競争が激しくなったこともあって、ルナン兄弟は肖像画と農民の生活を描く方向へとジャンルを変えたようだ。

  サンジェルマン・デプレの辺りは、フレミッシュの画家たちも居住していた。彼らの影響もあってか、ルナン兄弟は、次第に現実派画家としての地位を確保していったようだ。兄弟の画風は当時の画壇の傾向とは一線を画していた。当時としては、アンビシャスで新奇な技法も試みたようだ。3人ともに1648年のアカデミーの創設時のメンバーだから、仲間の間での評価も高かったのだろう。

  しかし、彼らが画家としてどんな修業をしたのか、インスピレーションの源はなにであったか。誰に向けて画業を続けたのか、究極の目的はどこにあったのかなど、鍵になる事実はほとんど明らかでない。ラ・トゥール以上に資料に乏しい。そのため、依拠しうる年譜も作られていない。ただ、かなりはっきりしているのは、兄弟3人が一緒に仕事をしていたという事実である。
 
  
それは作品の署名がLe Nain となっていて一人一人の名前がないことにある。画家として活動したほぼ20年間、作品はたぶんかなりあったと思われるが、ほとんど行方は不明である。ある推定では2000から3000の作品が生まれたとされるが、現存する作品数では100にも満たない。年次がつけられた作品は、1641-47年という短い年月である。1640年より前に作品が描かれたかどうかもわからない。

  ルナン兄弟の作品は宗教画から農民画まで幅があり、いかなる時期に兄弟の誰がどの作品を描いたのかもほとんど不明である。最初にルナンの手になったといわれる宗教画を見たとき、兄弟の中の誰の手になるものかと思ったことがある。ここに掲げた「鍛冶屋」と題される作品にしても、1934年展当時は、長兄ルイの作品とされていたが、今回はルナン兄弟になっている。これに限らず、今回の特別展には、1934年展から70年余の年月の間の調査・研究の成果が各所に反映されている。

  3人の兄弟はおそらくいつかの時点で宗教画から農民画へのジャンル転換を行ったと思われるが、同時期に多くのスタイルで描かれたのではないかとの推定もある。工房の中で兄弟の間で専門化していたのかもしれない。

  顧客がいかなる人々であったのかも良く分からない。農民が制作を依頼することは考えられないからだ。しかし、当時の社会的現実の描写という点では大変興味深く、さらに質朴に描かれた農民たちの情景には古典的な雰囲気が漂っている。農民たちの目はしっかりと見る人に向けられ、リアリズムの画家としての光を伝えている。

Reference
PIERRE GEORGEL. ORANGERIE, 1934: LES "PEINTRES DE RÉALITÉ" 2006.

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ラ・トゥールへの旅:1934-2007年

2007年02月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

    オランジェリー美術館改装お披露目の特別展は、素晴らしい企画である。とりわけ、ラ・トゥール「発見」の一大契機となった1934年の『オランジェリー、1934年現実の画家たち』を、70年余りの年月が経過した今日、新たに位置づけようとする発想はきわめて斬新だ。二つの世界大戦を間に挟んで、このフランスが誇る美術館が、同館の歴史に残る最善の展示のひとつを現代に再現する意欲的な試みである。*

  『オランジェリー、1934年:現実の画家たち』と題された展示は、1934年にジャモとステルラン Paul Jamot and Charles Sterling によって企画・組織された。この展示によって、それまで必ずしも知られなかった17世紀の画家、ル・ナン兄弟、ラ・トゥールなど、とりわけジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品を世に知らしめたことで世界の美術界に大きな影響を与えた。17世紀フランス絵画の評価を確定したといえる。

    1934年の美術展では、およそ70点の17世紀フランス絵画の逸品が公開された。ラ・トゥール、ル・ナン兄弟 the Le Nain brothers, に加えて、ヴァレンタン Valentin, トゥーニエ Tournier, ブールダン Bourdonなどに加えて、あのプッサン Poussin, クロード・ジェレ(通称ロレイン) Claude Gellée などのフランス美術史上の大家の作品が展示された。
   
  今回の特別展は、1934年の展示の単なる再現だけではない。1934年から2006年という70年余りの時の経過がいかなる歴史的評価を下したかというきわめて興味ある視点からの構想に基づいて組み立てられている。時間の経過が、いかなる評価を下したかというきわめて興味ある問への答である。

  この設定に応えるために、今回の特別展でCONSONANCES(「共鳴」) という名の下に新たな一室を設け、次の時代へつなげる意味を含めて1934年展の作品とさまざまに響きあうと思われる
作品を選択、展示するという意欲的な試みが付け加えられている。ここには10点ほどの作品が展示されている。たとえば、東京展ですっかりおなじみのラ・トゥールの「天使と聖ヨゼフ」との対比で、レネ・マグリッテ René Magritte の作品で蝋燭とトルソを対比した「符合する光」 Luminère des conincidences (1933)を比較したりしている。展示作品数としては決して多いわけでもなく、選択にも異論も多いと思うが、見ていると、さまざまなことを想起させる刺激的な展示になっている。

  1934年以来、70年余の時空の隔たりについてオランジェリーがどんな評価を下し、さらに今後に続く時代にいかなる構想を抱いているかを示したいというきわめて根源的で冒険的な設定である。これから70年余後の人々はさらにどんな評価を付け加えるだろうか。非常に興味深い。これらの点にも、折があれば立ち入ってみたいと思う。

  展覧会の詳細は、いずれブログでも書いてみたいが、今回はとりあえず、その意義だけを記しておこう。

Orangerie 1934: les ”peintres de la réalité” au musée de l'Orangerie des Tuileries. 22 novembre 2006 - 5 mars 2007.

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