時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

国境の暗闇:解決への遠い道程

2017年09月24日 | 移民の情景


アメリカのトランプ大統領が就任直後、アメリカ・メキシコ国境に壁を構築し、費用はメキシコに負担させると豪語したが、各方面の反対は強く実施に至っていない。他方、不法入国者の流れは絶えることなく続いている。

新政権成立後、アメリカ国内の不法滞在者には、格段に厳しい状況が生まれている。とりわけ、中東出身者、イスラム教信仰者は、日常が緊張の連続ともいわれている。街中では警察官などにグリーンカードなどの身元確認書類の提示を求められる。名前がイスラム系とみられるだけで、就職は極めて不利になる(中南米系の労働者にとっても同様な現象が指摘されている)。仕事に応募した際の書類審査で、履歴書の名前、あるいは住所だけで、採用率が大きく異なることはすでに知られている。採否の理由を明らかにしない採用者側の「暗黙の差別」である。トランプ大統領の移民への対応がはっきりして以来、アメリカへの不法入国者は少し減少し、他方で生活環境が厳しくなったアメリカを諦め、母国へ戻ろうとする者も増え始めた。しかし、移民の流れに影響する要因は様々で、状況はかなり不透明だ。

今年の夏、相次いでアメリカのメキシコ湾岸諸州を襲ったハリケーン、そしてメキシコに発生した大地震は、双方にその甚大な被害をもたらした。その結果はいずれ移民の流れにも影響するとみられる。今回はアメリカが抱える問題に焦点を絞ってみたい。

麻薬・薬剤が生み出す社会の劣化
長年にわたり、注目を集めているのは、銃や麻薬の密貿易とそれに伴う犯罪の蔓延だ。新しい世紀になった頃から国境密貿易が急速に拡大、悪化した。麻薬取引に関わるマフィア間の抗争は。闇のカネの獲得を巡って、メキシコなどの中南米諸国で、マフィア間の激しい対立と暴力沙汰、中央政府レヴェルへの汚職浸透に及んだ。状況を反映して、国境の警備、監視などはかつてないほど厳しくなっている。

トランプ大統領が国境壁の増強を公約とし、やや過剰なまでにその実現に固執するのは、不法移民の流入やヘロインなどの麻薬取引に関わる国境付近の犯罪の増大ばかりではない。流入する薬剤にはヘロインなどの麻薬に加え、オビオイド(ケシが原料)などの医療用鎮痛剤の大量流入と蔓延の問題がある。アメリカ疾病対策センターによると、2015年の過剰服用による死者数は以前から違法なヘロインを含めて、33,000人を越え、2000年の4倍近くにまでなった。大半はオビオイド系の違法服用による薬物死と推定されている。働き盛りの世代(25-54歳男性)の労働参加率は、アメリカはOECD諸国中で最低であり、かなり顕著な低下傾向を記録してきた。

同じ世代で仕事についていない男性((約700万人)の半分弱が鎮痛剤を日常的に服用し、そのうち3分の1(約200万人)近くが常習的な薬物依存者と推定されている。

オビオイドなどの服用者は、”プアー・ホワイト”といわれる貧困な白人層が圧倒的に多い。彼らの多くは、ブルーカラーであり、中西部の”ラスト・ベルト”(錆びたベルト)衰退産業地域などに居住しており、長期化した失職などが原因で薬物依存になったりしている。弊害は薬剤中毒者の精神的破綻、家庭崩壊、地域の衰退などに連鎖し、アメリカ社会の基盤を深く侵食している。これらの貧困白人層を大きな選挙基盤としているトランプ大統領にとっては、とりわけ重要な意味を持つ。

トランプ大統領は、白人至上主義的視点からしばしば黒人への差別的発言を繰り返し、人種間の亀裂を深めている。NFLの試合で星条旗に敬意を払わず、起立しなかった選手を、トランプ大統領は激しく批判し、新たな問題を引き起こしている。ちなみに筆者が半世紀前、アメリカの小学校を訪問した時、各教室には星条旗が掲げられており、毎朝子供たちが胸に手を当て、母国への忠誠を誓っているのを見て、日本との違いに衝撃を受けた。しかし、少し冷静に考えてみると、アメリカは多くの政治的、文化的背景が異なった国からの移民で立国した国であり、子供の頃から絶えず国家に忠誠心を抱くよう努力をしていることが必要な国であることを体感するようになった。

さて、すでにオバマ大統領当時から、麻薬と銃砲所持は、大きな議論を生み出したことから明らかなように、アメリカ社会を甚だしく蝕んできた。オバマ大統領も最大限の努力はしたが、ほとんど成果を残すことができなかった。トランプ大統領が国境壁の建造を強く主張する裏には、彼自身も十分に整理できずにいる人種問題の歴史的重圧が存在している。その一つの側面を取り上げてみよう。

アメリカ人が働きたくない仕事
このたび新たな様相で浮上した人種問題の亀裂は、はるか以前から進行している南部諸州を含む農業州における労働力確保にも「深く関わっている。

日本ではあまり知られていないが、「リモネイラ」Limoneira はアメリカ最大のレモン生産者の一つだ。アメリカでのレモン生産は、カリフォルニア、アリゾナ州などが中心となってきた。同社は1893年以来、カリフォルニア州を中心に経営してきた。今や世界規模の柑橘類、アヴォガドなどの生産に特化した企業だ。そのHP(上掲)を訪れてみると、世界の先端にある総合農業企業の一端を知ることができる。

しかし、近年のアメリカ・メキシコ国境管理の厳格化などで、深刻な人手不足に陥り、必要な労働力が確保できなくなった。そのため、対策の一つとして、カリフオルニアの生産地のそばに、農業労働者確保のために、住宅を建築し、運営している。例えば、サンタ・パウラ では、同地域の一般家賃の約55%で、メキシコなどからの農業労働者と家族にこぎれいで機能的な家屋を建築、貸し出している。これまでは、架設のテントやトレイラーハウスなどで、農繁期をしのいできた。しかし、最近では、生活水準の向上もあって、それでは必要な農業労働者を確保できなくなった。今ほど労働力が不足したことはないという。筆者は移民労働の日米調査に従事したことがあるが、実際に訪れてみると良くわかる。灼熱の大地の下での農業労働は、近代化も進み、スタインベックの時代とは大きく変化している。機械化も急速に進んだ。それでもデリケートで手作業が必要な農業や建築業などでは炎天下の労働は極めて過酷だ。

 カリフォルニアなど、アメリカ農業州での人手不足の実態は深刻きわまるようだ。2000-2014年の間に、国内労働力は約20%減少した。機械化が進んだとはいえ、300億ドルの損失を計上した。カリフォルニア州は、アメリカの野菜の1/3、果物、ナッツの2/3を生産しているが、人手不足が原因で果物の採取ができないなどのダメージは他の州より格段に大きい。今日ではアーモンドを枝からふりおとす、トマトを摘み取るなどの作業は機械化されるようになった。しかし、良質なぶどうの剪定、箱詰めなど機械化が当面できないような繊細な果物などを採取する労働者が確保できなくなり、放置するしかないという農場が増加している。不足を補うために国内労働者を雇用することは、ほとんど不可能となり、外国人労働者への需要は格段に増加した。彼らがアメリカ人のためのレモンやアボガドを採取していると言って良いほどだ。 

引き上げられる最低賃金
農業州政府及び農園主は、対応策として、第一に賃金引き上げを考えざるを得なくなった。2000年頃から徐々に引き上げを開始し、時間賃率は8ドルから12ドルまで上昇した。カリフォルニア州ではそれ以上の13ドル近い水準に達している。リモネイラでは時間賃率は19ドルくらいになっており、3-4年前との比較で30-35%高くなっている。これらの外国人労働者は、時には近くの農場にさらに高い賃金で雇われ、追加の賃金を獲得する。トランプ大統領がメキシコ系労働者などが、アメリカ人国内労働者の仕事を低賃金で働くことで奪っているとの批判は当たらない。真実はアメリカの国内労働者、とりわけ白人労働者が低賃金の仕事を忌避し、他のより賃率の高い仕事へと移動していることが主たる原因だ。結果として、アメリカがメキシコなどから不法な受け入れる農業労働者は、2012年頃、60万人台から急増し、2016年には140万人弱まで増加した。アメリカの社会階層において、白人のホワイトカラー層は、彼らの受けた教育的基盤などに支えられ、社会における中核的存在として、アメリカを主導する競争力を保持しているが、その立場はハードワークを辞さないアジア系、中南米系などの移民などによって、次第に侵食されている。教育、地域、家庭環境などの点で、次第に底辺部に”貧乏な白人”たちの環境は厳しい。かつてはアメリカの屋台骨を支えたこともあった白人中間層の復権は著しく前途多難だ。

人種問題は関係者が平静心を維持し、それぞれが継承してきた歴史と立場に尊敬の念を払わない限り永久に解決の道は開くことはない。アメリカが抱える闇は極めて深い。



 

トランプ大統領は9月24日、失効した大統領令を組み直し、北朝鮮、シリアを含む8カ国からの入国を制限する大統領令を発令した。

 Reference

"The market for lemons", The Economist July 29th 2017.

「米労働市場に異変、薬物まん延、政権の課題に」『日本経済新聞』2017年8月19日

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台風の目に入った世界

2017年09月16日 | 特別トピックス

 

ある書店の前を通ったら、「この世の終わりの前に読む本」という恐るべきテーマで、一つのコーナーが設けられていた。きっと書店の店員さんは売れ筋のタイトルの本を扱いながら、今の時代の先には世紀末的破滅が待ち受けているかもしれないと思ったのだろう。確かに最近の書店に置かれた本のタイトルを見ると、様々なペシミズムや終末観を煽り立てるような書籍が目立つ。

一つ例を挙げると、現在の仕事の世界の一面はかなり暗く、この先年金に頼って人生を全うすることはできないのではないかと思う人も多い。苦労や苦痛が多い世界では、長生きしたくないと考える人たちもいる。しかし、人生は働くためにあるのではない。どうして70歳、80歳と働く目標を先延ばしすることを推奨する風潮が高まっているのか。かつては50歳代半ばでハッピー・リタイアメントを祝い、悠々自適の自分の人生を楽しむことが目標で、それを楽しみに働いていた人たちもいた。実際そうした選択をした人たちも多かった。もちろん、働くことに生きがいを感じる人が、高齢まで働こうというのは別の話だ。しかし、世の中では「働け、働け、働かないと・・・・・。」という見えない圧力が人々の背中を押しているようでもある。年金財政の破綻を繕わされるようだと感じる人もいる。しかし、どれだけの人が近未来を正しく予想できるのだろう。

2017年の世界はかつてなく揺れ動き、問題を抱え込んだようだ。天変地裁、戦争、政治、経済、問題を数えだしたらきりがない。大戦前夜と感じている人たちもいるだろう。確かに年号では新世紀に改まってからは、20世紀のような世界大戦は経験していないとはいえ、いつ破滅的、カタストロフィックな出来事が起きてもおかしくない。

世界が見えなくなったどこかの首領様が、”愚かなヤンキー”が繰り出す厳しくなった制裁に切れてしまって、核ミサイルのボタンでも押すようなことがあれば、世界は一瞬にして破滅的な混乱に巻き込まれるだろう。外交交渉という名の妥協の時間が長引くほどに、核の危機は増加する。「日本はアメリカと平壌の網に絡みとらわれている」として、「日本に向けられて炸裂した一発のミサイルは、多くの国民にとって対抗するに10分の時間も与えてくれないだろう」というジャーナリスト(Justin McCurry, the Gurdian)もいる。

他方、今は人類史上最高の時にあるという人たちもいるのだ。例えば、London TimesのコラムニストPhilip Colinsは、昨年2016年を振り返ってそう書いている。世界で一日一ドル以下で暮らしている極貧の人口が初めて10%を切ったとか、死刑を廃止した国が世界の国々の半数を越えたなどが理由に挙げられている。(反論もある。FAOによると、世界の飢餓に苦しむ人たちは2003年までは減少していたが、2015年には横ばい、2016年には反転増加に転じたという)。

こうした"新楽観論者”の提示する”バラ色” の世界観については、これまた様々な見方が示されている。彼らは戦争も大災害も、いずれ長い歴史の中に埋もれていまい、人類は長い目で見れば前進しているのだという。“新楽観主義者”とも呼ばれている人たちがいる。例えば、評論家Norbergは人類繁栄の指標として、食料、衛生、寿命、貧困、暴力、環境条件、識字力、自由、平等、そして子供の状態を上げている。ヨーロッパの町々の街路には悪疫で死んだ死体を貪る犬がいたのはそれほど遠いことではないはずだという。こうしたノスタルジックな点については正しいと言えるだろう。このブログの柱の一本である(美術から見た)17世紀の世界は、歴史で初めて「危機の世紀」と言われ、ジャック・カロが描いた戦争の惨禍はヨーロッパのいたるところで見られた。長引く戦争とそれに要する犠牲や負担が過大となり、なんとか和解にこぎつけたような戦争もあった。

しかし、地球上の繁栄が直線的に右上がりに伸びているとは考え難い。このことは、17世紀以来の世界史を顧みれば、納得できる。一歩間違えば、世界が破滅しかねない時期もあった。人類は危うくその時をすり抜けた感もある。おそるべき破壊力を持つ兵器が軍縮どころか軍拡の波で累積している。一発の核弾頭が世界を大混乱、惨憺たる破滅の状況をもたらすことは改めていうまでもない。戦争は武器を使ったゲームではない。

政治を知性が誘導してくれると思い込むと、大きな落とし穴がある。前世紀からの政治の劣化、政治家の質の低下は眼に余るものがある。それを正しく規制・誘導する仕組みは出来上がっていない。ひとたび、台風の目を抜けた時にいかなる状況が待ち受けているか、考えておく時間はもうあまりない。

 

References
“What if we’ve never had it so good?” , The guardian weekly, Vol 19, no.11, 18.08.17.27
Progress: Ten Reasons to Look Forward to the Future, 6 Apr 2017
by Johan Norberg
””Japan caught up in US-Pyongyang web” by Justin McCurry

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巨匠の素描を見て考える

2017年09月08日 | 絵のある部屋

Leonardo da Vinci  レオナルド・ダ・ヴィンチ
<少女の頭部/岩窟の聖母のための習作>1483-1485年頃 トリノ王立美術館 

ミケランジェロ・ブオナローティ
<レダと白鳥のための習作>1530年頃 フィレンツッェ、カーサ・ブオナローティ

クリックでイメージ拡大 

 

ひさしぶりに青空の見える一日、東京駅前の三菱一号館美術館へ出かけた。『レオナルド x ミケランジェロ』展がお目当てだ。この美術館、立地が素晴らしいので訪れる頻度は非常に高い。特に、最近は周囲の樹木と建物の関係などが次第に馴染んで充実し、落ち着いた街並みになっている。しかし、元来美術館として設計・建築された建物ではないので、その限界を感じることもしばしばある。館内は品格のある調度など雰囲気は良いのだが、展示の仕方、照明などにもう一工夫あったらと思うこともある。例えば、今回の見ものは二人の巨匠の素描(デッサン)なのだが、作品保存の目的もあってか、薄暗く作品鑑賞に難を感じることがある。経年変化して黄ばんだ紙に薄く描かれた素描は、こちらも老化した視力では、細部などはかなり見にくい。

この美術館、展示室の関係で大作は展示が困難なところがある。この程度の規模の美術館には企画が極めて重要であり、それがうまくゆけば、かなり質の高い展覧会を開催できる。今回、あまり面白くなかったという批評をいくつか聞いたが、色々な理由が考えられる。見る側の関心がどこにあるか、どれだけの蓄積があるか、視点がどこにあるか、などでこうした展示の評価はかなり異なるだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)とミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)は、改めて記すことのない美術史上の天才・巨人だが、レオナルドの方がミケランジェロよりも23歳年上である。しかし、二人は文字通り同時代人であった。お互いに相手の力量を十分に熟知し、時に同じ対象をめぐっての競作、考えの違いによる対立など、人間としての個性、感性などの違いも、今日まで生々しく伝えられていて大変興味深い。

二人ともに天賦の才能と芸術環境に恵まれての生涯を過ごしたが、当時の画家、彫刻家などの常としてパトロンをや制作環境を求めて、各地を遍歴しているので、両者が同じ地でともに制作活動を過ごしたのは、1501年から1506年にかけてのフィレンツエでの短い時期であった。

両者の制作活動における作品の規模、数などを考えると、その全面的な対比などは到底できない。今回の展示の特徴は、芸術家の制作活動の根源とも言える素描(ディゼーニョ、デッサン)を主軸として、油彩画、彫刻、手稿などが展示されている。

今回展示されている作品の多くは、以前にトリノの王立図書館その他の展示で見たことがあった。16-17世紀当時、素描、デッサンは画業、彫刻などの制作活動の出発点とされ、画家や彫刻家は徒弟を志す段階から懸命に力を注いだ。ほとんどは画業の一環としての習作の意味が大きかったと思われるが、デッサンそのものが最終作品の意味を持った場合もかなりあったと思われる。

しかし、17世紀頃から少しこの風潮に変化が現れた。画家の間には直接、カンヴァスなどに素描する傾向が強まってきた。修復の際にX線を使用して下地や画材などを調査した時に画家が最初に抱いた構想のデッサンの跡などが発見されることもある。しかし、デッサン自体に接する機会はかなり減少してきた。それだけに、この二人の巨匠のデッサンを対比して見られることは極めて興味深い。

この巨匠の作品の評価などとてもできないが、よく見ていると、両者の対象への制作態度、思想には大きな違いがあることが感じられる。見て考える。そこに美術館に足を運び、鑑賞する楽しみもある。






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天災・人災の板挟みになる移民

2017年09月04日 | 移民政策を追って


日本は天災が多い国だなあと常々思ってきたが、このところ世界中の気象変化は明らかに異常に思える。「天災は忘れた頃くる」といわれてきたが、この頃は忘れないうちに次の天災がやってくる。気象変化に限らず、世界は大小の危機で覆われている。危機にであふれているといえるかもしれない。これまでの経験を基礎に少し冷静に考えでば、我々は頻繁に起きる危機的状況に慣れてしまい、危機と感じる機能が麻痺しているのかもしれない。人類の歴史を回顧してみると、現代の世界はかつてなく危うい事態にあると見るべきではないか。

たまたま前回取り上げたアメリカ南部テキサス、ルイジアナ、フロリダ州などのメキシコ湾沿岸部諸州が大きな被害を受けたようだ。災害はこの地域を襲ったハリケーン・ハーヴェイによるもので、記録的な大洪水が発生した。その中心はアメリカ第3位の都市ヒューストンだが、発表された情報をみる限り、隣接する諸州などでもかなり甚大な被害をもたらしたようだ。予想を上回る規模で、水が完全に引くまでは1週間から10日はかかるといわれ、遠く離れた知人や家族のところまで避難しないといけない人々も現れた。

その中で思わぬ災厄と恐怖に追われている人たちは、世界各地からこの地に住み生活している移民労働者、とりわけ不法滞在者といわれる人たちだ。例えば、ヒューストンでは、ヴィエトナムやインド人が集住しており、アフガニスタン人の人口はアメリカで一番多い。しかし、最も大きなグループはメキシコなどラテン・アメリカから入国に必要な書類を所持せずに国境を越えて入国してきたひとたちだ。この人たちは、ヒューストンではレストラン、ホテル、建設業などで働いていることが多い。ヒューストンについてみると、およそ60万人の不法移民の家族が水害の恐怖から逃げ出していると推定される(Pew Research Center)。9月4日には新たなハリケーン・イルマが発生、フロリダに近接していることが報じられ、さらに危険が増大しつつある。

洪水の中、救出やパトロールのために巡回してくるボートは、逃げ場を失った人たちには命の綱となるが、不法滞在者には、一般の人とは違った恐怖心を引き起こす。救出や食料・水などのサービスを受ける時にも、パスポートや運転免許証などの身元証明などを求められる。しかし、不法滞在者はそうした書類を何も持っていない。救命ボートは彼らを逮捕し、本国送還するためにやってくるようにしか見えない恐怖の存在となっている。

特に厳しい南部諸州
実は、テキサス州ではこのハリケーン被害に先立って、不法移民にかなり厳しい環境が生まれていた。テキサス州知事グレッグ・アボットは、移民機関や政策に協力しない都市に対して最も懲罰的な連邦法の一つに署名した。これに輪をかけたのがトランプ大統領の打ち出した大統領令に基づく移民規制だ。

 トランプ大統領が当面目の敵にしてきたのはオバマ政権時代2012年に出された大統領令DACAと呼ばれる規制の撤廃だ。その内容は、16歳までに米国に入国し、かつ2012年6月15日時点で一定の条件を満たす当時31歳未満の若い不法移民の若者たちの強制送還を2年間凍結し、就労許可などを与える内容だ。

これに対して、トランプ大統領は南部の災害が未だ復興の目処がつかない9月3日の時点で、6ヶ月の猶予期間の後、DACAを廃止するとの大統領令を発令した。

 Deferred Action for Childhood Arrivals の略。不法入国した親などに伴われて、未成年の時に入国、現在は教育、労働などの過程にある外国生まれの若者を、即時の強制送還することから、救済あるいは延期を認めた大統領令。制度の対象となっている強制送還の対象者は80万人近いといわれている。

党派の違いを越えて、トランプ大統領は、前任のオバマ大統領の行った政策の多くに嫌悪感、反発を抱いているようにみえる。オバマ大統領は、ホワイトハウスを去るに際して、民主政治を守るようにとの置き手紙を残したようだが、まったく通じていないようだ。

ハイテク労働力の確保
このトランプ大統領の移民への考え方に、シリコンバレーを中心とするハイテク企業の経営者は強く反対している。アップル、アマゾン、マイクロソフト、グーグルなどIT産業の主要経営者は大統領宛てにDACA制度を撤廃しないよう要請書を提出した。彼らの企業で働く労働者には、合法の移民労働者がかなり含まれている。そのため、DACAに象徴される制度の撤廃は必要な労働力が採用・維持できなくなると懸念している。アメリカを代表する主要企業が多いこともあって、トランプ大統領としてはこの要請を無視することはかなり難しい。「ドリーマー」とも呼ばれるこれらの対象者(80万人近いと推定)が全て国外退去することになれば、その経済損失はおよそ50兆円規模に達すととも推定され、経済界への衝撃は大きい。他方、大統領が当初からアメリカ人労働者(とりわけ白人)の仕事を奪っている主張してきた「アメリカ第一主義」への配慮もあって、政策設定はかなり難しい。

今回の大統領令には財界、野党、与党の中からも反対の動きが出ており、猶予期間を置いたのは、その間に新たな対策を議会に検討させようとの時間稼ぎの魂胆だろう。トランプ大統領としても、直ぐには対案が浮かばない。オバマ大統領政権下において、DACAが最終段階でようやく大統領令として発令できた案だった。利害は錯綜しており、これ以上の案が短期間にまとまるとは考えられない。議論は錯綜するだろう。

このように、現代世界の危機は、移民政策や地球温暖化が例であるように、問題発生から解決案の提示までの時間が限りなく長くなっていて、政策が実行されるまで時間がかかりすぎている。そのこと自体が大きな危機といえる。北朝鮮問題にしても各国の思惑で実効力のある対案が打ち出されることなく今日まで長引き、その間に北朝鮮は急速に軍事力を強化した。状況は急激に悪化、いまや世界の命運を左右しかねない。


Source:
'Submerged', The EconomistSeptember 2nd-8th 2017 

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