時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

10時間の芝居:「ヴァレンシュタイン」

2007年08月29日 | 雑記帳の欄外

 

 

  今日の劇場で、上演時間が長い演劇というのは、どのくらいなのか、寡聞にして知らない。テレビの連続ドラマなどは別にして、普通の劇場を舞台として上演される演劇は多分長くて数時間が限度ではないかと思っていた。

 ところが、2000年にドイツのハノーヴァー・エクスポで上演されたゲーテの『ファウスト』は2部作で、なんと21時間をかけたという*。その結果については、これこそ『ファウスト』の決定版という評と、細部にこだわりすぎ平凡で想像力に欠け、退屈だったとの評に二分したらしい。 実際に見たわけではないが、なんとなく分かる気がする。

 驚いたことは、ドイツには、こうした長大な劇作を好んで演じている劇作家、役者がいることだ。一時はドイツ演劇界の長老ともいわれたピーター・スタインPeter Stein という70歳近い役者がその象徴だ。ふだんはイタリア、トスカナの農家に、妻であり、女優でもあるマッダレーナ・クリッパと暮らしていて、ここをプロダクションの本拠としてさまざまな演劇上の発信をしている。

  このスタインが今夏からベルリンの南東にある醸造工場を改造した劇場で**、あのフリードリッヒ・シラーの「ヴァレンシュタイン」を三部作として公演し始めた。なんと1回の上演に10時間を要するとのこと。

 もうひとつ驚いたのは、現代ドイツでいまだヴァレンシュタインが一大演劇として企画され、それを期待する観客がかなりいることであった。やはりシラーの偉大さなのだろうか。

 少なくも日本では17世紀の30年戦争のことなど、西洋史の研究者(そしてこの「変なブログ」の筆者)でもなければ、ほとんど関心がないのではと思ってしまうが。どの国にも国民的史劇が継承される素地が残っているのだろう。

 他方、30年戦争は少し踏み込んでみると、大変奥深い。そして今日のイラン、イラクなどに起きている現実とほとんど重なるような迫真力を持っている。これらの地域の実態は、17世紀の30年戦争当時とほとんど変わらないほど悲惨で深刻だ***。

  今回ピーター・スタインがとりあげたヴァレンスタインは、ボヘミアの傭兵隊長から身を起こして、カソリックの皇帝フェルディナンドII世ともに30年戦争を戦う。一度は解任されるが、皇帝の懇請により、再び司令官の座につき、強大な力を発揮する。これが第一部である。そして第二部と三部は、オクタヴィオ・ピッコロミーニ元帥の皇帝への傾倒、彼の息子マックスのヴァレンスタインの娘テクラへの愛、そして最後にヴァレンスタインがプロテスタントの希求するものを受け入れた後、暗殺されるまでを描くという。

 「ヴァレンスタイン」は1960年代には国民的に人気があった。しかし、60年代末頃には関心も大きく薄れたという。プロシャのミリタリズムとの連想も生まれ、人気がなくなったらしい。その後上演されることはあってもきわめて簡約化されたもので、スタイン氏によると「中身の空虚な歴史劇」にすぎないという。やはりシラーの描いた史劇の世界を伝えるには、それなりの時間と空間が必要なのだろうか。今回の舞台装置や小道具も考証に時間をかけた、かなり大がかりなものらしい。

 今回のシナリオでは、ヴァレンスタインは自らの運命について決定する知力に満ちた指導者として描かれるようだ。政治を正しい方向に向けるために想いを巡らせ、試行し、破れ、自らのあり方にも疑いの念を抱く思索の深い将軍のイメージが提示されるという。主役のひとりには「メフィスト」や「アフリカを遠く離れて」などに出演し、カリスマ的光彩を放つオーストリアの男優クラウス・ブランダウアーの起用が決まった。

 スタイン自身はドイツ演劇界におけるアウトサイダーであることを強調するが、今回の試みは彼が依然この世界の魔術師であることを示しているとの評価もある。いずれにせよ、こうしてシラー、そして30年戦争が語り続けられていることに感銘を受けるとともに、こうした試みを受け入れるベルリンという都市の奥深さが伝わってきた。

 

*German theater: “Wallenstein” ‘If you like very long plays.’ The Economist August 25th 2007.

**
“Wallenstein” at the Kindlo-Brauerei, Berlin, 13 times between August 25th and October 7th.

***
'Iran: Islamic Republic of Fear.' The Economist August 25th-31st 2007.

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記憶の糸:「三文オペラ」へ

2007年08月24日 | 書棚の片隅から

 このところ記憶の糸が不思議なほぐれ方をしている。映画『善き人のためのソナタ』のブレヒト詩集の連想から、グリンメルスハウゼン、『肝っ玉おっ母とその子どもたち』までつながったのは予想外であった。さらにベルリンの陰翳、イシャウッドまでいってしまった。

 これでしばらく、このトピックスはお休みと思っていたところ、ブログではあえて触れないでおいたブレヒトの名作『三文オペラ』が、東京で10月9日から音楽劇として公演の運びとなるとの案内を受け取った。あまりにタイミングがよいのでまた驚くことになった。

  『三文オペラ』は名作だけに世界中でとりあげられてきたが、そういつでもどこでも上演されているわけではない。幸いこれまで文芸座公演、ミュージカルを含めて見る機会があった。しかし、ブレヒトが考えていた音楽劇なるものが、本当はどんなものであったかについては、あまり深く考えたことがなかった。

 人生の結末が見えてきた今、もう一度だけ見せてやるよという神の思し召しと考えることにして、早速予約手配をした。文学や美術を専攻したわけでもなく、世俗のまっただ中で日々を過ごしてきた。ブログでとりあげている対象も、その間いくつかのジャンルに引っ張られて息抜きのように見てきたものの断片にすぎない。しかし、不思議なことにある時代にはまったく見えなかったものが、急に見えてきたりしている。

 
『三文オペラ』は、「オペラでもオペレッタでもミュージカルでもない音楽劇」(岩淵:解説)であるとのこと。今回、演出の白井晃氏は音楽劇を標榜されており、その点でも楽しみである。今回の翻訳は酒寄進一氏である。設定も異なり、新しいイメージが創られる。『三文オペラ』はかなり自由度がある。

 
 『三文オペラ』の邦訳は、2006年にブレヒト研究の第一人者、岩淵達治氏の新訳(岩波文庫)*で読んだこともあり、とりわけソングの翻訳になみなみならない努力を傾注されていることに圧倒された。新訳に付された「訳注」、「解説」部分は、この翻訳がプロの仕事であることを十二分に見せてくれた。今回の公演ではどんな翻訳がされているか楽しみだ。

 演出に当たる白井晃氏は現代のアジアのどこかの街をイメージして描くとのこと。どこのことだろう。これまで異なった解釈から、いくつもの『三文オペラ』がステージに登場してきたが、それもブレヒトの意図なのかもしれない。

 そのひとつの証左として、原作の『三文オペラ』自体、時代設定が特定されておらず、19世紀後半のような雰囲気といわれてきた。読んでみて確かにそうした印象を受ける。ヴィクトリア女王の戴冠式では外れている。といって、他の時代への特定はできない。ブレヒトは設定を演じる者や見る者の裁量にかなり委ねている。他方、ブレヒトにはこの作品にベルリンの「黄金の1920代」の空気を反映させたいという思いもあったらしい。読んでいると、また眠っていた脳細胞が呼び起こされそうな部分がいくつもある。

 ここでは、ブログとの関係でひとつだけ記しておこう。個人的には、以前にとりあげた1910年頃のロンドンを舞台としたT.シュヴァリエ『天使が墜ちるとき』ともかなり重なるような読後感がある。 ここでは戴冠式ではなく、婦人参政権運動サフラージュのデモのシュプレヒコールが響いていたが。


*ブレヒト作・岩淵達治訳『三文オペラ』岩波文庫、2006年。

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キリストはエボリに止りぬ:ある個人的な回想

2007年08月20日 | 書棚の片隅から


 10代の終わりの頃であったか、「岩波現代叢書」と呼ばれたシリーズをかなり夢中になって読んだ時があった。別に岩波書店のPRをするつもりではないが、大変魅力的なタイトルが含まれていた。その中には今もかなり鮮明に記憶に残っている数冊がある。

 すぐに思い出すかぎりでも、R.ネイサン『いまひとたびの春』 、C.レーヴィ『キリストはエボリに止りぬ』、H.J.ラスキ『国家:理論 と現実』、E.コールドウエル『タバコ・ロード』、P.ギョーム『ゲシュタルト心理学』などである。たとえば、『いまひとたびの春』は1920年代の大恐慌のことが話題になると、どういうわけかキーワードのように最初に出てくるほど記憶度の順位が高い。後になって読んだガルブレイスの『大恐慌』よりも先に思い出す。このブログで映画「クレードル・ウイル・ロック」に関連して、記したこともあった。

 数年後初めて仕事に就いた職場の先輩で、なにかとご教示いただいた Iさんが、この叢書にも含まれているラスキやカーの翻訳でも知られたIR氏の奥様であったのも、人生の出会いの不思議さのひとつであった。

 余談はさておき、配送されてきたばかりの雑誌を拾い読みしていると、「キリストはまだエボリに止まっている」:Christ still stops at Eboliという小さな囲み記事が目にとまった。カリオ・レーヴィCario Leviの作品表題が未だ生きていたからだ。今の時代、ほとんど誰も忘れているだろうと思っていた。個人的にはこの作品を読んだことがひとつのきっかけとなって、その後グラムシやパオロ・シロス=ラビーニなどの著作に惹かれることにもなっただけに、強く印象に残っていた(これについても、後年不思議な出会いがあるが、別の機会に記す)。

 レーヴィは、北と南が別の国のように異なる当時のイタリアについて、北の繁栄と対比しての南の絶望的な貧困を描いた。エボリは、1935年ムッソリーニがカリオ・レーヴィを追放した場所である。ちなみに、エボリは長靴型のイタリアの底に近い所である。

 エボリ周辺の今日の風景は、カリオ・レーヴィの描いた当時とあまり変わっていないらしい。土灰色の丘陵が平原へ急斜面でつながり、アグリ川が流れている。渓谷の上に広がるアリアーノと呼ばれる一群の家々も当時と変わりなくそこにある。

 もちろん、レーヴィがこの地域の貧困の悲惨さを書いた後、70年余の年月が過ぎ、多くの変化もあった。今日のアリアーノには水道、電気、道路、学校もある。長らく人々を悩ませたマラリアも50年前に絶滅された。出稼ぎ労働の結果とイタリア政府やEUからの地域開発援助によって多くの消費財も持ち込まれた。

  しかし、ここはいまやマフイア組織犯罪の巣窟ともいえる地域に化しているようだ。その内部抗争はエボリという地域を離れて、今年8月初めドイツのデュイスブルグ駅近くで仲間同士の争いになり、6人のイタリア人が射殺されるという事件にまで展開した。デュイスブルグは、何度か訪れただけに記事を見て驚いた。

  こうした抗争の背景には、EUから流れ込む南イタリア地域開発のための多額な公的資金の争奪がかかわっているらしい。あらゆる組織が犯罪にかかわり、歯止めがかからない状況が生まれている恐ろしい状態。自浄作用がほとんどなくなっているのだ。考えてみると、南イタリアばかりではない。世界には神も足を踏み入れない地域がまだ多数あるようだ。 酷暑の中、突然の記憶の再生に複雑な思いだった。

 

References
‘Southern Italy: Christ still stops at Eboli.’ The Economist August 18th 2007.


C.レーヴィ(清水三郎治訳)『キリストはエボリに止りぬ』岩波書店、1951年。

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ルイXIII世の音楽世界(2)

2007年08月17日 | 絵のある部屋

L'ORCHESTRE DE LOUIS XIII (1601-1643) *
Recueil de plusieurs airs par Philidor L'Aisne
Le Concert des Nations
Manfred Kraemer Concertino
JOEDI SAVALL
ALIAVOX

 

  30年戦争や内乱などがあっても、17世紀フランスという大国の王の日常はかなりのんびりしたものだったらしい。政治・外交の世界は、辣腕のリシリュー枢機卿と配下の指揮官たちがこなしており、ルイXIII世は自ら関わって積極的な提案をしたり、意思決定することはあまりできなかったようだ。もっとも戦争などで王の権威が必要な時には、前線へも出向いてはいた。

  しかし、王としてはかなり不満を感じていた面があったようだ。とりわけ正式の王座に就くまで、摂政であった強い母親、うるさい顧問たちなどへの反発、フラストレーションがあったらしい。そのひとつのはけ口が、狩猟やバレー音楽などに向けられていた。

  これらの活動は、美食と運動不足の生活への対応という意味もあったが、そればかりではなかったらしい。そのことは、バレー・ダンスで王が選んだ役割などから推測もできる。そのひとつの例として挙げられているのは、Ballet de Madame(1615)でルイXIII世自身が太陽の神に扮して踊ったことである。権力や栄光への渇望があったのだろう。この役割はルイXIV世の時代によく知られている「太陽王」のイメージにまで拡大されたことはいうまでもない。

 

  

 『ルイXIII世のオーケストラ』というCD版*をたまたま持っていた。Le Concert des Nations というちょっと大げさなタイトルがついている。収録されているのは主として当時の宮廷バレー音楽である。前回記したように、王自身が大変な音楽好きであり、ダンスはそれほどではなかったとはいえ、バレーについても幼少の頃からほとんど身体で覚えていたようだ。とりわけバレーについては、王自ら出演していた。

  17世紀前半、画家たちのローマへの旅が慣例化するほど文化的先進国でもあったイタリアではオペラが隆盛していたが、フランス人はあまり関心を示さなかった。代わってフランスの宮廷で好まれていたのは「バレー」(バレー・ド・クール)といわれる特有の舞踏劇であった。

 この宮廷バレーは、劇、、歌唱、ダンス(舞踏)、音楽の混合したものであり、すぐれて貴族的・王宮的な雰囲気から成っていた。庶民の音楽世界とはまったく別の次元である。バレー・ダンスは当時の貴族階級にとっては必修科目のひとつでもあった。このCDは今日まで継承されてきたものを再現しようとした一つの試みである。

  宮廷バレーは、通常次のような構成で上演されていた。それぞれの場面で最初にレシタティーボ(叙唱)、続いて詩の朗読、対話(ダイアローグ)、コーラス、ダンスかパントマイム、そしてグランド・フィナーレとしてのバレーが、仮面をつけた貴族たちとプロ・ダンサーによって披露された。ルイ13世は少なくとも年1回は自ら踊ったらしい。

 こうした慣わしが定着するにつれて作曲家(歌唱および楽器)、演出家、記録係り、振り付け師、舞台監督などの役割が生まれ、総合ドラマ化への道を進んでいった。現在では、残念なことに音楽楽譜などの大部分は消滅して継承されていないが、わずかに残った部分が、フランス国立文書館などに所蔵されている。こうした記録をつなぎ合わせ、当時の状況を再現しようとする試みがいくつか行われてきた。

 さて、しばらくぶりに聴いてみる。華やかではあるが、反復も多くやや単調な感はぬぐいがたい。しかし、17世紀の宮廷に響いていた音の世界を追体験することはできる。

 ルイVIII世は1643年5月14日になくなったが、息子にフランス国王の座ばかりでなく、音楽とダンスへの情熱を残した。

 この17世紀へのタイムトラベルも、記録的な酷熱の前に消夏の効果はあまりなかったが、夏の夜の夢の一端を体験することはできた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ルイXIII世の音楽世界(1)

2007年08月15日 | 絵のある部屋

Louis XIII de France, Philippe de Champaigne, 1655,  Oil on canvas, 108 x 86 cm Museo del Prado, Madrid  


 酷暑の峠も、もう少しの辛抱とのこと。暑気払い?に、少し時代を飛んで音楽の世界へ。  

  バロック音楽は宮廷文化の繁栄とともにあった。17世紀、ラトゥールがパリのルーブル宮を訪れた頃は、ブルボン朝ルイ13世(1601-1643, 在位1610ー)の時代であった。ラ・トゥールは王室付き画家の称号を与えられたほどであり、王のお気に入りの画家のひとりであったことは間違いない。 しかし、この王についても、不思議とあまり知られていない。この時代に活躍した芸術家たちと王との関係も、その実態はあまり明らかではない。  

 ルイ13世は歴史上は太陽王ルイ14世の輝きの前に、「ヨーロッパの歴史でもほとんど目立たない王の一人」とされ、あまり評価されることのない王となっていた。「ルイ14世の父親」、「3銃士の時代の王」という揶揄も横行している。  

 しかし、その後の研究などで、少し距離をおいて見ると、それほど凡庸な王というわけではない。人に厳しく当たったなどうわさ話の類はあるが、歴代のフランス王の中では、とりたてて変わった性格といったわけではなかったようだ。むしろ「公正な王」Louis VIII, The Just といわれるように、自ら宗教的戒律にも厳しい、ブルボン朝では、どちらかというと地味な王であったようだ。  

 ルイ13世は父であるアンリIV世の死去に伴い、1610年10月17日、ランスでフランス国王として戴冠したが、成人に達していなかったので母親マリー・ド・メディシスが摂政を務めた。その後、王は1614年10月2日に正式に成人を迎えた。しかし、実際にルイ13世の時代となったのは、コンシーニの暗殺と1617年4月24日のクーデターの後だった。1615年11月23日には、ボルドーのサン・アンドリュース寺院でオーストリア王室の皇女アンネ との結婚式が行われた。しかし、これは形だけで、実際の結婚認知は1619年1月25日まで待たねばならなかった。  

 この時代、政治・外交は、あの辣腕の宰相リシリューがとり仕切っており、王の出番は少なかった*。そのこともあって、文化政策の当事者として、フランス文化を華々しく展開するという役割も果たせなかった。宗教的にもカトリック宗教改革の支持者であり、厳格なジャンセニストに近く、王としては派手好みというわけではなかったようだ。ヴェルサイユ宮は当時は狩猟用の山荘の扱いだった。  

 しかしながら、ブルボン朝の例として、王としてのルイ13世は宮廷文化の象徴のごとき存在であった。王はさまざまな芸術、文化の領域に関わっていた。ルイ13世はことのほか音楽を好んだ。幼少の頃から、リュート、ヴァイオリン、歌唱などに親しんだ。  たびたび引用される侍医 ジャン・エロール の日誌によると、幼い頃から「王は音楽を愛し、熱心に耳を傾け、陶酔したように高揚し、じっと聞き入っていた。椅子に座り込み、歌唱やリュートに聞きほれて、その他のことは上の空のようだった」と記されている。食事の間もずっと演奏を続けさせていた。  

 画家フィリップ・シャンパーニュ特別展が最近開催されていたことは前々回のブログに記したばかりだが、ルイ13世もお気に入りの画家が描いた肖像画が残っている**。ルーベンスの手になる同様な作品もあるが、肖像画はやはりシャンパーニュの方が一段抜けている。画家自身は必ずしも目指した方向ではなかったようだが、肖像画家としては当代第一流といえる。  

 ルイ13世は音楽にはかなり入れ込んでいたらしい。 楽器も狩猟用のホルンやリュートを自分で奏でていた。作曲などもしたようだが、曲は残念ながら残っていないらしい。王が好んだ狩の光景がイメージされていたようだ。   

 王が音楽へのめりこんだ背景には、摂政時代の強力な母親のイメージと顧問役たちからのさまざまなプレッシャーから逃れたいとの思い、アンリIV世の死後失われたフランスの安定を取り戻すに力を注ぎたいと願ったが、なかなか実現できず鬱積したさまざまなフラストレーションなどがあり、音楽はそのはけ口でもあったようだ。  

 ダンスも特に好きというほどではなかったようだが、1年に最低1度は自ら踊っていた。1919年の12月1日、王は初めて妃を伴い、バレーの宴に臨席し、一緒に踊った。  

 こうしたことから推測されることは、政治・外交の次元では宰相リシリューにかなり引っ張られながらも、ジャンセニストに近い宗教観を持っていた比較的地味な王のイメージが浮き上がってくる。次回ではこのルイ13世が聴いていたという音楽について触れてみたい。



* 近年、リシリュー側からの史料ばかりでなく、王の側からの新たな史料などで、従来とは少し違った王のイメージが生まれているようだ。

** この肖像画はシャンパーニュによって描かれ、オーストリアの王女、ルイ13世の妃アンネから、スペイン王フェリペIV世へ贈られた。

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最低賃金引き上げの効果は?

2007年08月13日 | グローバル化の断面

 最初からこの程度にしかならないだろうと思っていたので、いまさらどうということはないのだが、やはり少しだけ書いておこう。全国最低賃金の引き上げ率である。中央最低賃金審議会の「目安に関する小委員会」が、引き上げ率を全国平均で時給にして14円とすることを決めたとメディアは伝えている*。けれども、これでいったいなにがどう改善されるのか。

 日本の最低賃金率は依然として、先進国中最低に近い水準にとどまっている。憲法で定める「文化的な最低限度の生活」を保障することが最低賃金法成立の精神であることは改めていうまでもない。

 そして、いまや未組織、非正規労働者が圧倒的な時代なのにもかかわらず、組合の「連合」が「セフティネットとしての最低賃金の機能を考えるときわめて不十分」といい、経営側も大企業と中小企業では見解が異なるが、「環境の厳しい地方の中小企業に一定の配慮がなされた」(日本経団連)と評価しているらしい。 

 しかし、この引き上げでなにがどう改善されるのか、まったく分からないというのが少し離れてみている評者の感想だ。最低賃金制度が、現代の労働市場でセフティネットの重要な一部を構成していることはいうまでもない。財政支出を伴わないですむ政策でもあり、適切に制度設計され運用されれば、その重要性はきわめて高い。

 従来、最低賃金率を引き上げると、雇用が減少するという面だけが強調されがちであった。その論理は単純化していえば、引き上げで企業の人件費が上昇し、価格転嫁ができない場合は利益が圧迫され、経営不振になって、新規採用を抑制したり、雇用の削減につながるという脈絡である。しかし、こうした筋書きは「他の条件が一定として」というお定まりの経済理論の抽象の世界の話である。現実には業態や企業の経営力などさまざまな要件で、動態的で多様な展開が進む。賃上げに対応できない企業がある傍ら、賃率上昇が刺激となって、経営効率化の推進や見直しなどが行われることも多い。「高賃金・高生産性」がうたわれた時代もあった。 

 他方、最低賃金の議論の過程で、しばしばことさらに軽視される面がある。最低賃金引き上げで収入増加となった労働者の消費購買力が拡大し、地元企業を中心に活性化へのひとつの刺激要因となり、売り上げ増加、そしてさらには雇用増加へとつながる道である。

 この側面に関連して、マクロ的には賃率の低い地域からは高い地域へと労働力は流出してしまう。地域停滞に拍車をかけることになりかねない。これは国内外の出稼ぎ労働者のインセンティブを考えれば明らかなことだ。

 最低賃金引き上げの影響評価は、これまでも内外で行われてきたが、雇用についてはプラス・マイナスの効果があり、どちらか一方が歴然としている分析結果は少ない。たとえば、同一地域・産業でも小規模個人経営のレストランと大型ファミリーレストランへの影響は、人件費比率も異なり、当然違ったものとなる。業態が異なればさらに違った状況となる。 

 最低賃金引き上げの対象となった地域の企業や産業は、どこの地域の企業・産業と現実に競争しているのか。現行の最低賃金制度の改定単位となっている都道府県別区分は行政上の区分であり、現実の労働市場の代理指標としてもかなり問題がある。 

 今回の最低賃金引き上げをめぐる議論で、この制度へのメディアや国民の関心が少し高まったのは大変望ましいことではある。しかし、現行制度の内在する欠陥をそのままに上げ幅の大小を議論してみても、ほとんど得るものはない。ましてや今回程度の改定幅では雇用にいかなる影響が生まれるか、信頼できる評価測定ができるとは思えない(全国一律で時給1000円水準程度に引き上げられれば、多少有意な影響が計測され、効果判定ができるかもしれないが)。 

 最低賃金制については、国民の総合的セフティネットの一翼を構成するものとして、旧態依然たる枠組みから脱し、新しい視点が要求されていることは間違いない。投薬の効果測定と同様に、正確な効果測定ができない政策は、政策自体に問題があるのだという認識が必要ではないか。


*「最低賃金14円引き上げ:全国平均政府審議会小委が目安」『日本経済新聞』夕刊2007年8月8日

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宮廷画家の世界から:シャンパーニュ

2007年08月12日 | 絵のある部屋

  このブログにも何回か登場した17世紀のフランス宮廷画家の代表ともいえるフィリップ・ド・シャンパーニュPhilippe de Champaigne (1602-74)の大回顧展がフランス、リールの美術館で開催されている。8月15日までであり、残念ながら見ることはできなかった。

 シャンパーニュは、あのリシリュー枢機卿のごひいき画家であった。ブリュッセルで生まれ、19歳でパリに出る。その後、まもなくして1629年、フランスに帰化した。パリに出てきた時に、折りしもイタリアへ画業修業に赴こうとしていたニコラ・プッサンに出会った。シャンパーニュ自身は生涯イタリアへ行くことはなかったが、後年二人はパリ、ルーブル宮で宮廷画家として再会する。その経緯もブログに書いたことがある。

 シャンパーニュは、ルイ13世の母親で摂政であったマリー・ド・メディシス、その後リシリュー枢機卿、ルイ13世の知遇を得て、宮廷画家として活躍した。
プッサンと初めて会ったリュクサンブール宮殿の装飾なども担当した。シャンパーニュが描いたリシリュー枢機卿は、いずれもあの枢機卿の赤い帽子と衣裳が特徴だが、引き締まった威厳のある容姿で描かれており、実物以上?と思われる。このあたりが、お気に入りの理由だったのだろう。

 フランドル絵画の緻密さと写実性を併せ持った作風は、冷徹な政治家リシリューのお好みであり、肖像画だけでも11点残っている(ルイ13世については2点)。ブルボン朝の華麗な肖像画家として知られるが、後半生は厳しい戒律で知られるジャンセニズムに傾倒し、宗教画を多く残した。「シャンパーニュのブルー」といわれる鮮やかな青が素晴らしい。この時代、青色の顔料はラピス・ラズリに代表されるように高価なものが多かったが、宮廷画家の地位にあれば画材の値段などは考えなくてもよかったのだろう。

 シャンパーニュの名作としてよく知られている『二人の尼僧』(仮題)は、パリのポートロワイヤル修道院の尼僧であった妹が奇跡的に重病から回復したことを神に感謝して描いたものである。敬虔な祈りと喜びが画面に溢れている。

 シャンパーニュはラ・トゥール同様に日本ではあまり知られていないが、17世紀中葉のフランス絵画界を代表する画家の一人であり、思想的には同時代のパスカル、デカルト、コルネイユなどと共鳴するところがある。ラ・トゥールとはお互い、ルイ13世に宮廷画家として任ぜられたこともあって、もちろんよく知っている間柄なのだが、ルーブル宮で会ったか否かは今のところ謎のままである。暑さしのぎに、時空を超えてタイムスリップしてみるのは楽しいかもしれない。

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ベルリンの陰翳

2007年08月10日 | グローバル化の断面

ベルリン植物園温室: Photo Y.Kuwahara 

  ベルリンという都市は大変美しいが、ある種の陰翳を感じると記したことがあった。それがなにに由来するものかはよく分からない。人口340万人の大都市なのだが、パリ、ロンドン、ローマといった都市にあるざわめき、喧騒といったものがあまり感じられない。全体に人気のない道が多く、見ようによってはなんとなく沈んだような感じもする。

  それでもベルリンを訪れる人は、昨年700万人に達し、その数はヨーロッパではロンドン、パリに次ぐ。この点について、たまたま小さな記事*を読んだ。そして、8日のTVは、1920年代のノスタルジックな歌曲を静かに歌う人気歌手マックス・ラーベ Max Raabeを映していた。

  社会民主党の現市長クラウス・ヴォーヴェライト Klaus Wowereitは人気のある政治家だが、今のベルリンが持つ「貧しいがセクシーな都市」というイメージを変えたいらしい。そして目指すのは、あの1920年代の輝いていた日のベルリンのようだ。

  そのために、市長は議会からの1000万ユーロの予算を確保して、2年計画で「ベルリン改革」計画に乗り出した。ベルリンは素晴らしい美術館群の整備もほとんど終え、加えて多くの劇場、クラブなど文化的基盤は厚く整っている。現代アートのギャラリーだけでも400はあるという。美術好きにはとても魅力的な都市だ。美術館も適度な数の人で静かな環境で見ることができた。

  なにが足りないのだろう。パリやロンドンと比較すると、富裕層が少ないらしい。市民の二人に一人は、年金か雇用給付に頼って生活している。仕事がある人でも年間平均収入は32,600ユーロである。ドイツ人はベルリンへ旅行はするが、住むのは豊かな感じがするミュンヘンやハンブルグを選んでしまうという。さらにベルリンは都市としても610億ドルの負債を抱えてもいる。

  第二次大戦では、戦火による破滅的な破壊を経験し、さらに東西ベルリンの統合という世界史的課題を克服して今日まできた。しかし、かつてこの都市を支えていた競争力を持った製造業もほとんど他へ移転して、サービス産業に依存する都市となっている。20億ユーロを投じるシェーネフェルド空港の拡張計画も遅れている。2011年には完成の予定らしい。

  市長としては、輝き、さんざめいていたあの1920年代、ベルリンの日々を取り戻したいようだ。静かで芸術性に富んだベルリンでいいような気もするのだが。昔と同じような繁栄を追わなくともと思ってしまう。この都市はそれでなくとも、すでにかなり過去に規定されているのだから。

  「それもまたよいのでは」 
Und das ist auch gut so!
                   (Klaus Wowereit **)


*
‘In search of the 1920s.’ The Economist July 23rd 2007


**ヴォーヴェライト氏は、自らがゲイであることを認めた時の発言。その後、流行語となった。

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看護・介護労働の将来

2007年08月09日 | 会議の合間に

  ある会議の合間に、日本を代表する大病院の経営や臨床現場に携わっておられる医師の率直なお話をうかがう機会があった。図らずも話題は日本の看護士・介護士不足の実態に集中、とりわけ急速に進む看護士不足の深刻さが話題となった。地方のみならず大都市での不足の実態も深刻なようだ。

  有名大病院や看護士養成校を持っている所などは、なんとか対応しているようだが、予算制約が厳しい公立病院などは危機的状況で、このままではとても正常な医療は継続できないとの話である。院内の打ち合わせ会議には、毎回のように看護スタッフ確保の問題が出てくるとのこと。知らない人がないほどの有名病院のお話なので、かなり驚く。

  看護士の資格免許を保有していながら、現在は看護士として働いていない人々の職場復帰を促すなどの努力もなされているが、非現実的で対応策になっていないとの見方が圧倒的に強い。看護士自身も高齢化から無縁ではない。厳しい労働環境、医療・看護技術の急速な進歩などのために、再参入の道は険しく大きな期待は持てない。

  それどころか、交代勤務の厳しさ、報酬に比しての多忙な毎日、負わされる大きな責任などから、病院勤めを辞めて労働市場から退出してしまう看護士が増えているという。確かに患者として実際の医療・看護の場を経験してみると、厳しい条件の下で働いている方々の姿には頭が下がる。
  
  勤務態様などが柔軟な介護サービスなど、他の分野の仕事へ変わる人もいるようだ。町中のクリニックなどは、交代勤務もなく負担も少ないこともあって、看護士確保にさほど危機感はないらしい。

  医師の先生方のお話では、医療レヴェルも高度化し、スキルの高い看護士が欲しいが、とても無理な状況だとのこと。いまや数を確保するだけでも大変のようだ。なんだか暗い話ばかり。

  看護ばかりでなく、介護サービスに携わる人材の不足も、さらに輪をかけて厳しくなっている。厚生労働省は今頃になって団塊世代の高齢化に伴う介護ニーズをまかなうためには、2014年までに介護職員などを40-60万人増やす必要があるとの推計を公表した*。この問題に限ったことではないが、その場しのぎの対応しかしてこなかったことが、いまや破綻状態を招いている。

  長年、労働問題をウオッチしてきたが、数年でこれだけの数で、専門性を備えた人材を養成することは並大抵のことではない。一部には介護職員の熟練はそれほど高くなくてよいと考えている向きもあるようだが、事実誤認も甚だしいと思う。さまざまな問題を抱える患者、高齢者に適切に対応するには、言葉に尽くせない熟練、資質が必要とされる。ロボットと違って、こうした対人関係のスキルも体得した人材の教育・養成には多大な時間とコストを必要とする。看護・介護分野の生産性の向上が必要なことは明らかだが、最も人手を要するサービス分野であり、人間的な対話・交流がきわめて重要な職業分野である。

  福祉施設などで働く介護職員の労働条件は、長時間労働、低報酬で、介護職員を目指す若い人々へのインセンティブも薄れている。移動が激しい。人手不足で需給が逼迫しても、仕事は厳しくなるばかりで労働条件の改善にはつながらない。

  といっても外国人看護士・介護士の受け入れに大きく頼れる状況ではない。政府は2006年に介護分野でフィリピン人研修生を受け入れることを決めたが、総数はわずかに600人。それも継続的に働けるのは4年以内に介護福祉士の国家資格を取得した人に限られるため、焼け石に水の状態である。今回、お話いただいた医師の方々のフィリピン人看護士・介護士への評価は高い。職業意識に徹していて、日本人スタッフと組めば十分信頼できるとのこと。今後の日本にとって国際的な経験の蓄積はなににもまして重要な課題だ。医療・看護、教育も日本人だけでという時代はとうの昔の話となっている。

  参院選の結果の混迷は長く尾を引きそうで、厚生労働分野の事態改善は難航しよう。年金記録問題に時間をとられている間に、医療・看護・介護問題がさらに深刻化することが十分考えられる。その場限りではない、国家百年の計として、根本的検討が必要だ。政治の膠着にかまけて、こうした国民的問題への対応が先延ばしにならないよう願うばかりだ。

 

* 「介護職員「40万人増員必要」団塊ニーズ見据え厚労省推計」『日本経済新聞』2007年7月23日


  

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交錯する記憶の旅:ゼーバルト『土星の環』を読む

2007年08月04日 | 書棚の片隅から

 

W.G. ゼーバルト(鈴木仁子訳)『土星の環:イギリス行脚』白水社、2007年.


  「ゼーバルト・コレクション」の新訳『土星の環:イギリス行脚』が配本されてきた。この作者の作品に親しむようになってから、いつも少なからぬ衝撃と驚きがある。これまで読んできたいずれの作品も、過去・現在・未来、そして現実と虚構が隔てなく行き交い、それもある部分はすさまじい迫真力をもって、ある部分は深い靄の中に紛れ込んだような不思議な世界である。さまざまなプロットが縦糸と横糸のように複雑に織り込まれている。しかし、ひとたび足を踏み入れれば違和感はいつとはなしに解消し、ゼーバルトの世界に浸りきってしまう。

 この作者にとりわけ惹かれるのは、ひとつには自分がこれまで過ごしてきた日々や関心の在り処と微妙に交錯しあう部分があるからかもしれないと思う。その意味では、今度もきわめて個人的な受け取り方なのだ。作品の内容からしても、読者ひとりひとりがイメージするゼーバルトの世界は、決して同一のものではないだろう。

 それにしても、ゼーバルトが使っているプロットは、不思議と私的に因縁があるものが多い。とりわけ、その思いは、『土星の環』を読み始めてたちどころに深まった。というよりは、あまりの重なり方に背筋が冷えるような思いがした。

 その衝撃はページを開いた時から始まった。ゼーバルトの著作には写真が多用されているのだが、今回はレンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』のモノクロ写真にいきなり驚かされた。先日、まったく異なった脈絡の中で出会い、ブログにも記した作品だからである。

  ゼーバルトはその生涯を2001年末、イギリス北部ノフォーク州ノリッジ近くで不慮の交通事故で終えた。娘さんと運転中に脳卒中の発作が起き、タンクローリーに衝突したらしい。

  この作品は、1992年にある大きな仕事を終えた著者が、その空虚を埋めるがために、イギリスのイーストアングリア南東部サフォーク州*を徒歩で旅するとの設定で始まっている。ここはゼーバルトが長年勤務したイーストアングリア大学のあるノフォークの隣の州である。そして、1年近い旅の終わりに身動きできないような状態でノリッジの病院へ担ぎこまれ、入院生活を送る。なにかその後の人生を予感させるような話である。

 退院後、あるきっかけで17世紀、1605年ロンドンに生まれた外科医トマス・ブラウンなる人物の遺骨の行方をめぐる問題に関わる。トマス・ブラウンは医学を志し、モンペリエ、パドヴァ、ウイーンのアカデミーで学び、オランダのライデンで医学博士となり、28歳ごろにイギリスに戻る。そして、このオランダ時代、あのレンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』を実見していたのではないかという推理が投入される。この歴史的にも名高い講義は1632年1月に公開講義として計量所会館で行われた。作品に描かれた名医以外に多数の人々が見守っていたのだ。まさに医学を志す者ばかりでなく、人知の闇から光へと抜けるひとつの歴史的瞬間でもあった。

 ゼーバルトのこの『テュルプ博士の解剖学講義』についての視点の鋭さは、驚異としかいいようがない。レンブラントはラ・トゥールとともに私の「仕事」以外の関心の重要な部分に位置しているので、この作品(マウリッツハイス美術館所蔵)はかなり克明に見てきたつもりであった。いくつかの専門書も読んできたが、この作品についてこれほど深く読み込んだ観察は初めてであった。

 まず、テュルプ博士を初め、描かれた当代著名な外科医たちが正装し、テュルプ博士にいたっては帽子まで被っているという光景は、グループ・ポートレートという新たな肖像画ジャンルのために、画面上で正装させて描いたと、うかつにも思い込んでいた。しかし、これは単なる解剖学の講義ではなくて、人間の肉体を切り刻むという太古の儀式を継承しており、現実にこうした姿で講義も行われたらしい。さらに、医師たちの視線がテュルプ博士の説明する解剖部位ではなくて微妙に逸れている理由にも驚かされた。視線の先は解剖された部分ではなく、画面右端に置かれた解剖学図譜のページに向けられている。

 ゼーベルトの驚くべき指摘は、解剖されている左手の腱は虚構であり、実は右手のものであるという点であった。描かれているのは解剖された左手のものではなく、解剖書の右手の部分なのだ。レンブラントはなにを思い、ゼーベルトはいかなる解釈をしたか。さらに興味深い点は多いのだが、レンブラントという稀代な画家がこの一枚の作品にこめた深い思想と、それを読み解こうとしたゼーベルトという作家の能力には、言葉を失った。 

 さらに瞠目したことがあった。数ページ後に、あのグリンメルスハウゼンの『阿呆物語』におけるジムプリチウス・ジムプリチシムスが登場するのだ。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』(1967年、ブエノスアイレスで刊行)を介在して、ジンプリチシムスが出くわした怪物、<刻々変幻>パルトアンデルスが登場する。森の奥で石像と化していたこの怪物は、ジムプリチシムスの眼の前で変身し、書記となってつぎのことばを書く。「われは初めにして終わりにして、いかなる場所にても真なり」(邦訳p.27)。 

 かくして、医師トマス・ブラウンを追い求める思索の旅は、細々とした糸ながら切れることなく、この作品に縫いこまれていく。まさに絶妙としか言いようがない。縦糸と横糸は不思議な世界を織り出しながら、時には復元しがたいような脈絡に迷い込む。しかし、いつの間にか、基調に戻り、ストーリーが紡ぎだされてゆく。短いが深い脈絡を保つ10の章の第1章からこの深み、闇というべき最中にはまり込み、一人の読者として、しばらく茫然自失のような時を過ごすことになる。

 トマス・ブラウンという医師の探索を細い糸として、ゼーベルトは時空を縦横にかけめぐる。ヨーロッパのほぼ全域のみならず、中国、西大后の時代へ、そして第二次大戦中のホロコースト、さらにはサッチャーの新資本主義まで織り込まれている。しばしば、ノスタルジックな色を漂わせながらも、それに沈潜しきってしまうわけではない。

 終章に近く、イーストアングリアの都市ノリッジにおける絹織物産業の盛衰が現れる。18世紀初頭はロンドンに次ぐ大都市で、絹織物の繁栄に深夜も工場などに灯火が絶えることがなかったという。その背景には世界史を舞台とした絹織物産業の栄枯盛衰が反映していた。しかし、時代は移り変わる。この壮麗な大伽藍が印象的な都市は、今訪れるとなんとなく寂寞として空虚な感じを受ける。こうした都市にありがちな陰鬱、退廃といった感じではなく、美しさと静かさを保ちながらも盛期を過ぎたという光景であろうか。そして、絹商人の息子として生まれたあのトマス・ブラウンは再びここに現れる。それにしても、『土星の環』とはなにを象徴するのだろうか。読者はそれぞれに、これまでの本書とともに辿った旅を想起させられることになる。

 

* 1994-95年にかけてイギリス滞在中、この地域の旧跡・城址などを歴訪していた個人的体験と重なる部分が多い。埋もれた記憶を呼び起こされた感がする。ゼーバルトの記憶の深さ・広さに感嘆するばかり。

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アルビの名物は?

2007年08月02日 | 絵のある部屋

    深夜に近く、ほとんど見るともなしにつけたTVに、どこかで見たような光景が映った。このブログで度々触れたラ・トゥールの「キリストと12使徒」シリーズが掲げられていたアルビの城塞のような大聖堂、そして市立トゥールーズ・ロートレック美術館の館内だった。南フランス、ミディ・ピレネー Mid-Pyrenees と呼ばれるスペイン国境に接するフランスの地域の紹介だった。

 アルビは、キリスト教異端のカタリ派の拠点として、知られてきた。カタリ派は善悪二元論を中心とした信仰に帰依し、カトリックから激しい弾圧を受け、十字軍によって破壊された。そして、カトリックの権威を示すために建立されたのがサント・セシル大聖堂だった。「キリストと12使徒」シリーズは、ある時期、具体的にはフランス革命の1795年段階までは、この大聖堂の内陣、第6番の礼拝堂に掲げられていたことが判明している。しかし、その後忽然と姿を消してしまった。その経緯は、このブログでも記したことがある。この画家の作品と推定されるものは、このシリーズの一部を含めても今日40点程度しかない。

  他方、アルビは、アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec(1864-1901)の生まれ故郷として知られる。ロートレックが36歳の若さで死去したのち、残っていた作品は、母親の手で故郷であるアルビに寄贈された。ロートレックの生家は、旧市街のトゥルーズ=ロートレック通りに残っている。日本人はロートレックが大変好きなことは良く知られているが、この画家の愛好者にとっては、必見の場所である。作品は、トゥルーズ・ロートレック美術館として、1922年に元司教館を改装しオープンした。画家の作品の6割近いといわれる1000点余の作品が収められている。トゥルーズ=ロートレックは多作な画家として知られるが、これだけでも驚嘆すべき数である。しかし、一般によく知られた名作はほとんどオルセーなどが所有している。

  ラ・トゥールの「12使徒シリーズ」は、一部の未発見品を含めて、ほとんど世界中に散逸した状況だが、2点はここに展示されている。最初の依頼主はアルビ大聖堂とは関係がないと見られており、ヴィックやロレーヌの教会、修道院などから転々と所有者が移った可能性も高い。もしかすると、ラ・トゥールが画家として手ほどきを受けた可能性がある、ヴィックのドゴス親方の工房が請け負った作品群かもしれない。ドゴス親方の作品として確認されるものはなにひとつ発見されていない。しかし、祭壇画や聖人の絵などを得意としていたらしいことが記録から類推できる。「12使徒シリーズ」の制作から再発見までの経緯は不明だが、かなり謎めいている。今後、新たな史料などが発見されるかも知れず、興味深い。

  さて、TVの方はというと、トゥルーズ=ロートレック、ラ・トゥールいずれの作品にも触れることなく、この地方の特産であるアーティチョーク、ブロッコリー、大蒜などを紹介し、出演者が名物料理のカスレcassoulet を食べている場面を映して終了。やはり「花より団子」なのか。 

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