時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

オフショアリングと雇用機会(1)

2005年03月31日 | 移民の情景
オフショアリングと雇用機会
  最近、「オフショアリング」0ffshoringという言葉を頻繁に聞くようになった。この分野に関連して、ある辞書の項目執筆に関わっていることもあるが、私が最初にこの言葉を耳にしたのは、多分1970年代後半、第一次石油危機後の時期であったと思う。OPECの原油価格引き上げで競争力を失った産業が、海外へ生産拠点を移す動きであった。海外生産あるいは海外で調達するという意味で使われていた。当初は原油などの沖合採掘という意味からスタートしたのだろうが、最初は圧倒的に原料や製品を海外で生産・調達するという意味で使われていた。それに関連して、ある国の産業、付随して仕事や雇用の機会が海外に流出してしまうという、例の「産業空洞化」論争が盛んに行われた。
  最近の議論も根底は同じ意味に基づいている。海外で調達する、あるいは海外へ仕事を委託するという意味に変わりはない。しかし、今回対象となっているのは、製造業というよりは、ほとんどがサービス関連の仕事である。とりわけ、この言葉が流行するようになったアメリカでは、昨年の大統領選挙でもたびたび登場するまでになった。

増大する海外委託
  1990年代以降、コスト削減を目的に業務をアウトソーシングする企業や行政部門が増えている。委託をする側は、欧米や日本など先進諸国の企業が多く、委託の相手先はインドや中国など、比較的人件費が安いと思われている国々の企業である。
  医療費の高いアメリカでは、病院でX線写真を造影した後、インターネットでインドのレントゲン技師へ送り、読影結果を送り戻してもらえば大きなコストダウンになるという話が議会で話題になったと聞く。確かに、近年のIT技術と医学の驚くべき発達を見ていると、もしかするとロボットによる遠隔手術ということも、近い将来可能になるかもしれない。手術室の隣でマジック・ハンドを使って手術するのは、すでに実験段階を過ぎて実用段階に入っている。
さらに、アメリカなどでは、使用言語が同じインドへITソフトウエア・システムの開発などを委託することは十分可能であり、すでに広範に実施されてきた。時差を利用すればシカゴの企業が、従業員が眠っている間、インドのバンガローに仕事を送っておけば、出社してきた従業員が結果を受け取り、さらに仕事を進めることができる。24時間操業?のIT企業ということになる。

コールセンターの人材は
  また、インドやフィリピンへコールセンターの仕事を移転し、アメリカの顧客とマニラのコールセンターが直接コンタクトするという状況もかなり普及したようだ。もっとも、訛りのない英語を話す、地理の分かったオペレーターを出してほしいという顧客のクレームがあって、英語とアメリカの地理の研修に時間をとられているという「嘘のようなほんとの話」まで出ている(「コールセンター・ビジネス引き受けます」BS7:2004年12月14日)。コールセンターに働く人たちの待遇は、現地の賃金水準よりはかなり高いが、人材はそれほど豊富ではないようだ。
 いずれにせよ、こうした傾向が継続・拡大すれば、関係国の雇用機会に顕著な影響をもたらすことは確実である。数倍から数十倍といわれる先進国と開発途上国の賃金格差を考えると、このオンラインの仕事移転の行方は検討しておかねばならない。継続して、この動きに注目して行きたい(2005年3月30日記)。

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拡大EUと移民の動き

2005年03月29日 | 移民政策を追って
 EU拡大が実現すると、人の動きはどうなるだろうか。移民や国際労働移動の研究者ばかりでなく、関係国の一般の人々にとってもきわめて興味あるテーマである。それにもかかわらず、この問題は多くの予想できない要因を含んでいるため、さまざまな憶測が飛び交っていた。受け入れ側当事者として、移民政策の転換期を迎えているイギリスにおいても同様であった。
 拡大EUが成立した2004年5月1日当時、新加盟した中欧およびバルティック諸国からおよそ7400万人がイギリスで働く権利を取得できることになっていた。しかし、実際にはどういう状況になるのか、誰も分からなかった。
イギリス内務省のある研究は、年間5,000人から13,000人がイギリスには来るにすぎないと予想していた。他方、センセーショナルな報道は、旧約聖書の「エジプト脱出」の規模で民族大移動が起こるとして、危機感をあおった。未だ1年経過したわけではないが、その後調査の結果が公表され、実態がある程度判明した。その結果を記しておこう。

予想外の結果
 EU拡大が実現してみると、どちらの予想も正しくなかった。本年2月22日に公表された数値では、過去8ヶ月の間に123,000人がイギリスで働くことを登録した。政府の予想を大幅に上回ったが、出入国管理でコントロールできないほどの大きな数にはならなかった。
数の問題は別として、かなり注目を集めたのは、移民労働者が出身国別にかなり偏在し、集積して居住していることであった。とりわけロンドンは多くの労働者が集まると予想されたが、やや予想外な結果もあった。ロンドンにはブラック・カリビアンの61%、インド人の42%が居住している。ポーランド、スロバキア、リトアニアなどからの労働者は、あまり集中していない。かれらの32%だけがロンドンに居住している。他方、ブラック・アフリカンの場合は実に80%近くがロンドンに集中している。
 日本でもすでに1990年代初め頃から、出身国別に外国人が集住する地域、コミュニティが形成されていることはよく知られている。静岡県浜松市近傍、群馬県太田市、大泉町、豊田市保見団地などは全国的にも有名である。東京のような大都市では、池袋、新宿などに中国、韓国など出身国別のコミュニティが形成されてきた。最近では、新聞でも報道されたように、江戸川区にハイテク業界で仕事をするインド人のコミュニティが形成され、ちょっとした話題となっている。
 日本は人口に占める外国人の比率が小さいといわれているが、全国津々浦々、外国人の姿は別に珍しくない。1980年代後半には、代々木公園や上野公園に外国人が集まっているというだけで、メディアの記事になっていたのだが。それだけ、国際化が進んだといえるのだろうか。
 日本はITなどの専門家・技術者の受け入れにようやく手をつけ始めたが、さまざまな障壁があり、その数はあまり伸びない。3年ほど前にかなりの規模の調査に参加したことがあるが、国、企業、地域などにさまざまな障壁があることを感じさせられた。やはり、外国人が住んでみたいと思う魅力を備えなければ難しい。日本と同じように嫌われている国?のアメリカは、その点懐が広い。  
バブル期以前、経済大国であった頃は、それでも日本の人気はかなり高かったが、いまや周辺諸国との間でもぎすぎすした関係になっている。移民(受け入れ)政策とは、決して入国管理の段階で終わるのではなく、背後に広がる「社会的次元」を包括的に含む政策として構想されねばならないと言い続けてきたが、縦割り行政は相変わらずであり、改まる方向にはない。
 結局、国レベルの政策の欠陥を地域が背負い込むことになる。外国人労働者やその家族が特定の地域に、しばしば出身国別に集住するのは、ある点では自己防衛策である。しかし、彼らばかりの問題ではない。受け入れ側にも問題がある。集住を決める要因は、その意味で十分に検討に値する課題である。

集住を決める要因
 こうした集住・集積のあり方には、仕事の機会のあり方がかなり関連している。イギリスの場合、農業、食品製造などは移民労働者が多く、全体の5分の1近くに達している。建設、運輸、介護・医療などでは10分の1近い。
 中欧からの移民はイギリス政府に住宅給付を要求できないことになっているので、大都市生活は難しいといわれている。彼らの5分の4は、時間あたり6ポンド以下の低賃金しか得ていない。8カ国から参入したため、文化的要因もあって、集積して住むのも難しいのかもしれない。
その中で、ポーランドからの移民は流入者の2分の1以上なので、なんとかコミュニティを形成している。しかし、すでに定住したポーランド人の退役軍人や、共産圏からの難民は、母国からの移民労働者にかなり冷たい対応をしている。国境は開かれたが、競争が激しくなることは臨んでいないのだろう。イギリス居住のポーランド人会は、「スキルがなく、仕事につける見込みがなければくるな」というメッセージを母国へ送ったということで、一寸驚かされた(2005年3月29日記)。


イギリスでの調査結果については、下記資料によっている:
Digital version, The Economist, Feb26th, 2005
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スコットランドの色彩画家

2005年03月28日 | 絵のある部屋
絵のある部屋
 雑然とした仕事部屋であっても、好みの音楽が流れ、壁に一枚でも絵がかけられていると、心が安らぐ感じがする。とはいっても、好きな絵画をかけるというのは、CDを聞くようには実現しない。オリジナルは論外としても、工房などで作成される複製はかなり高価である。結局、複製ポスターが私の手の届くものである。仕事部屋にかかっているのも、ほとんどポスターである。それでも、無味乾燥な壁よりはるかに憩いが生まれる空間となる。
 ディジタル時代の利点を借りて、折にふれて好きな絵のいくつかを掛け替えてみよう。最初は、少し時空を遡ります。

旅の途上で
  少しでも時間が空けば、旅先きの美術館に立ち寄るのは、いつの頃からか身についた習性となってしまった。以前に記したモントルーでの国際会議(「国際会議のひとこま~2~」)の折、ロンドンに短時日滞在した。ヒースローから市内への車の中で思い浮かべたのは、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立美術院)はなにをやっているかなということであった。最近では、日本にいる間に海外の美術館や劇場の催し物をチェックすることも容易になっている。しかし、この旅は忙しい時期でもあり、かなり成り行きまかせの日程であった。すでに30年以上になるが、ロンドンと関わり合いを持つようになってから、「ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ」はきわめてなじみの深い場所となった。ロンドンでは、テートに次いで頻繁に足を運んだ所である。初めてターナーの絵の実物を見たのは、ここであったような記憶がある。
 長期に滞在しているならばともかく、短い旅の途中ではテートのような大きな美術館はそれだけで一日の日程となってしまう。その点、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツは、買い物客で賑わう市の中心部(Burlington House, Piccadilly)でアクセスもよい。なによりうれしいのは、素晴らしい展示 exhibitionをしばしば行っていることである。今回は、 「スコットランドの色彩画家たち」The Scottish Colourists: 1900-1930と題して、4人の画家の手頃な規模の展示を行っていた。ホテルで旅装をとくなり、2、3の書店巡りの後に、アカデミーに出かけた。

「色彩派」の印象
 「スコットランドの色彩画家たち」というのは、20世紀初期に活躍したペップロー (Peploe)、ファーガソン(Fergusson)、ハンター(Hunter)およびカデル(Cadell)というスコットランドが生んだ4人の画家のことである。これらの画家たちは同時期にさまざまに影響を与え 合いながら、ひとつの特徴ある画風でこの時代を画した人たちである。その特徴というのは、鮮やかな色彩を自由に駆使し、どことなくマティスやゴッホなどとも共鳴する部分を持っている点にあり、美術史上は後期印象派に属すると評価されている。とはいっても、展示のカタログにあるように、これらの画家たちは、イギリス美術史の流れでは時に見落とされてきた。この展示は、その存在の「復位」の意味を持つと評価されている。これらの画家の作品は、いくつか別の場所で、見たことがあった。今回は合計65点が展示されていたが、大変良く体系化されていて興味深く鑑賞することができた。いずれの画家たちも決してマティスやゴッホなどのように、日本でも名前が知られた「超大家」ではない。しかし、ヨーロッパの近代絵画史上はかなりしられた画家である。いずれの画家の作品も、一見するとあっさりと描かれているが、なんとなく好きになってしまう。イギリス人好みの画家たちであるといえよう。

 カタログの表紙に使われたカデルの「室内」と題された作品も、よく見ると大変興味深い。カデルは4人の画家の中では最も富裕であったといわれるが、それを偲ばせるような作品が多い。シャンデリアの下がる豪華な室内で、ピアノを弾く紳士を背景に、ひとりの貴婦人を描いている。窓にはオレンジ色の遮光カーテンがかかり、彩りを添えている。テーブルには立派な銀器が並び、ティータイムであることを示している。左側には、この時期にヨーロッパのひとつの流行であった中国風の屏風が置かれている。全体として、大変色彩豊かな 作品である。

4人の画家たち
 展示で今回初めて見た作品が多かったが、いくつか大変印象に残る絵があった。ひとつ、ふたつ紹介してみよう。ペプロー(Samuel John Peploe: 1871-1935)という画家である。この画家は1871年にエディンバラに生まれ、法律事務所で見習いを始めるが、1890年代にやめてしまい、エディンバラ美術学校で絵画の手ほどきを受けた後、パリへ移り絵画の勉強を続けた。4人の画家の何人かは、こうして当初志した仕事をやめて画業の道を選択しているという点でも共通した点がある。その後、1895年頃にエディンバラに戻り、美術学校に在籍しつつ、画家としての道を追求した。
 1907年にパリに戻った折りに、4人の画家の一人ファーガソンとも出会っている。ペプローはこの頃から印象派的画法を追求するようになる。とりわけ、静物画に専念し、多数の作品を残した。ペプローは4人の画家たちのいわば情報センターの役割を果たした。彼らは共 に人生のある段階でパリに住み、当時のフランス画壇の大きな変化の渦中にあった。画家仲間としての影響もあってか、4人の画家たちの作品にはどことなく共通するものが感じられる。とはいっても、展示案内にも指摘されているように、美術史上で、この4人がひとつの運動や学派を形成したとは公式には言われていない。彼らが生前に共に展示の機会を持ったのは3回にすぎなかった。

みずみずしい作品
 展示された作品には、大作は少ない。しかし、身近において常に見ていたいと感じる作品が多い。どの作品も、それがあることによって心が安らぐ感じがする。しかも、「色彩派」colouristsの名称が与えられているように、色彩感覚がみずみずしい。会場にいると、文字通り目を洗われるような清涼感がある。とりわけ、画家たちがそれぞれに当時のパリを描いた作品、あるいは静物画には深い愛着を感じさせるものがいくつかあった(画像:「パリ光彩」)。こうした作品に出会うことは、忙しい旅の途上でのささやかな楽しみである。今回も、せわしない日程ではあっ たが、ふだん埋めることができない心のすき間が満たされたような充実感があった。アカデミーの門を出ると、そこは観光客でにぎわう週末のピカデリーであった。夕闇がせまっていた。

2000年9月15日original記
旧ホームページに加筆、転載。

Picture: Courtesy of the Royal Academy of Arts
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ラ・トゥールを追いかけて(11)

2005年03月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

George de La Tour, The Cheat with the Ace of Diamonds, c.1630-1634, Museé du Louvre, Paris

 

  前回にとりあげた「占い師」に劣らず、この「ダイヤのエースを持ついかさま師」も一度見たら忘れられない絵である。ルーヴル美術館が所蔵するこの貴重な一枚は、実は1972年のオランジュリー展の時に、ルーヴルが画商ピエール・ランドリーから当時としては、破格な値段で購入したものであった。この絵と同一のテーマを扱った「クラブのエースを持ついかさま師」(George de La Tour, The Cheat with the Ace of Clubs, c.1630-1634, Kimbell Art Museum, Fort Worth.)が現存していることは、ご存じの通りである。「ダイヤ」と「クラブ」のどちらが先に描かれたかという点については、X線を使った科学的調査にもかかわらず、完全には決着がついていない。「クラブ」の方が先という見解がやや有力らしい。

大きな伝承の力
  そうした詮索は別にして、この作品が並大抵でない円熟した画家の手になるものであることは直ちに分かる。正確な制作時期の推定は専門家の結論を待つとして、両者ともにラ・トゥールが30代後半の頃に描かれたとみられる。画家としての自信と評判を手中にして、新しい主題の探索にも熱心であった頃であろう。この絵に限らないが、ラ・トゥールはローマには行っていなかったとしても、南イタリアから北ヨーロッパまでのヨーロッパ絵画界の潮流は熟知していたと思われる。今では、少なくともパリに行ったことは、確実であるとされている。
  ラ・トゥールが画家としての修業時代をいかなる形で過ごしたかについては不明な部分が多いが、画業にかぎらず、徒弟制度の過程を経るのが通常であった職業では、職業上の知識や時流(ファッション)についての情報は、かなりの速度で伝達されていたとみられる。親方の下で徒弟修業をした後、独り立ちが認められた「わたり職人」(journeyman)は、それこそ諸国を歴訪して新しい知識や技法を身につけるとともに、情報の伝達役を務めた。ローマに行かなくとも、少し前の時代の寵児カラヴァッジョやその流派についての情報は伝承され、ラ・トゥールの工房にも確実に届いていたはずである。かつて、北イタリアに木工家具の工房を訪ねた時、現在でも中世以来、市場や技術についての情報ネットワークを世界に伸ばしているとの話を聞き、なるほどと思ったことがあった。

貴族社会への風刺?
  この絵も「占い師」と同様に、宮廷階級や画商のために描かれたことはほぼ間違いないだろう。その意味では、ラ・トゥールの発想の源になったカラヴァッジョの同テーマの作品(Cardsharp, Fortune-Teller」)が、庇護者であったフランセスコ・デル・モンテ枢機卿の自室に掲げられていたという伝承を念頭におけば、現代においても、ナンシーやルーヴルの宮殿の一室に、これだけが展示され鑑賞できれば、環境としては理想的かもしれない。
  ここで、「クラブ」ではなく「ダイヤ」のテーマを取り上げたのは、私の好みにすぎない。「ダイヤ」の方が作品として全体の色調などが落ち着き、円熟度の高まりが感じられることと、「占い師」の場合もそうであったように、「クラブ」の方は作品の上部が切り取られているようで、「ダイヤ」の方が安定感がある。「クラブ」の方は、色調も明るめであり、別の興趣をそそられる。
  画題自体は、新約聖書(ルカ伝15:11)の「放蕩息子」にまで遡ることもできるといわれるが、16世紀後半にはきわめて広く取り上げられていたようだ。これも伝承の力がもたらしたものだろう。たびたび話題となるカラヴァッジョも、「いかさま師」、「占い師」の双方を描いている。一見、カラヴァッジョ風だが、ラ・トゥールはまったく別の解釈で、新たな世界を創り出した。ラ・トゥールは、この広く知れ渡った画題についても、その非凡さを縦横に発揮し、絢爛華美な雰囲気を湛えた素晴らしい作品に仕立て上げている。

試されるのは見る人
  カード(トランプ)ゲームはすでに15世紀からヨーロッパ全域に広がっていたようで、特に戦乱にあけくれた16世紀ロレーヌでは、兵士そして社会階層では上流階級の間に広まっていた。予想されるとおり、ギャンブル(賭)として流行しており、ギャンブルあるところには「いかさま」、「だまし」などの詐欺行為が付きものであった。
  さて、この作品の登場人物はすべて宮廷人であろう。とりわけ、「占い師」の作品がそうであったように、真ん中に坐る完全に楕円形の顔をした女の存在が圧倒的であり、画面を支配している。これも、一度見たら忘れられない顔である。画家が最大のエネルギーを注いだ顔ではないか。現実にモデルになるような女がラ・トゥールの周辺にいたかどうかは分からない。
  カラヴァッジョなどの作品でもそうだが、詐欺は複数の人物の行為として描かれており、焦点はカードをすり替えるなどのいかさま行為を行う男に当てられている。しかし、ラ・トゥールはここでもまた「革新」を行っている。「駝鳥の卵のような顔」をした女が主役である。そして、脇役の召使いの顔もなんともいいがたい、怪しげな表情をしている。私の愛用?しているブックマークは、ボローニャの書店でたまたま見つけたものだが、この顔をアップしている。この召使いの表情についても、画家は大変エネルギーを注いだようだ。

「圧縮動画」のような世界 
  この作品はまるで、宮廷世界のある画面を切り取った「圧縮動画」のような印象である。ストーリーは真ん中に堂々と坐っている異様なまなざしの女からスタートする。画家は見る人の視線を集中させるために、女の容貌、とりわけその目つきに多大な配慮をしたと思われる。彼女がいかさま師の男に目配せをする。男は背中のベルトにはさんだカードをすりかえる行為に移る。それと同時に、召使いの女がワインを注ぎ、緊張した雰囲気に水を差して、だまされる男の視線をそらす。ここでも、「かも」になる男は若い、世慣れない、着飾った男である。周囲の状況を見抜くだけの世俗の世界の経験がなく、だまされないぞという顔をしながらも、視線は上の空、自分のカードのことで頭はいっぱいのようだ。目前で悪巧みが進行しているのに、気づく余裕がない。同じテーマを扱った他の画家の作品とまったく異なり、「かも」になった若い男は画面の主役ではない。こうして、見事にこのゲームのプレイヤー間の心理的洞察が画面に凝縮されている。
  カードでプレイされているのは、当時流行していた「プライム」(La Prime)というゲームのようだ。この絵を見る貴族階級などの宮廷人は、誰もが知っているゲームであり、場面がどういう展開になっているかを考え、読み取って楽しむことができる。いかさま師の手の肘の陰に隠された貨幣など、実に芸が細かい。
  画家は登場人物の衣装の隅々まで綿密な配慮をしていることが分かる。これまで、比較的研究が遅れていると思われる衣装についての歴史的考証が進めば、さらに興味ある知見が得られるだろう。
  ラ・トゥールの非凡さのひとつは、よく知れ渡った主題をとりあげながらも、まったく新しい解釈で、はるかにレヴェルの高い作品に構成しなおしていることにある。鑑賞する人々は主題は熟知しているが、作品に接してあっと驚かされる。こうした「エンターテイメント」の要素を含んだ作品は、画家が人生のある過程で、自らを売り込むために意図してさまざまな仕掛けを取り込んだものと思われる。これで明らかなように実は試されているのは、見る側の鑑識力なのである。画家の力量を測ろうとしている者が逆に測られているのだ。空間、位置取り、色彩などあらゆる点で、驚嘆に値する熟成度の高い作品といってよいだろう(2005年3月26日記)。


Courtesy of Web Gallery of Art

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頓挫したEUサービス労働者の自由化

2005年03月24日 | 移民政策を追って
 「踊り場」から脱しきれない日本からみると、EU拡大を達成したヨーロッパの前途は明るくみえるかもしれない。しかし、内情は問題山積である。1999年にユーロを導入した時のような、前途の発展を夢見た陶酔感はどこかへ消え去ってしまっている。
 EUは、3月23日の首脳会議で、経済改革10年計画(リスボン戦略)の中間見直しを含む議長総括を採択した。議長国はルクセンブルグ(ユンケル首相)がつとめた。5年前のリスボン首脳会議で、EUは2010年までに「世界で最も競争力ある経済にする」との目標を掲げたが、厳しい実態の前に取り下げられてしまった。
 IMFは、今年のドイツの成長率は1%以下と予測した。最大課題の失業者についても現時点で5百万人を超え、失業率は12.6%という高率である。この失業水準は、大恐慌の1930年代以来の深刻さである。フランスは今年の予想成長率は2%で、ドイツよりは多少良いが、失業率は10%を超えている。

「サービス指令」の目指すもの
 ブラッセルのEC委員会は、EUの雇用改善プランとして、かねてからサービス労働者の域内移動の自由化を内容とする「サービス(業務)指令」を準備していた。製造業の貿易自由化は、1990年代の域内自由化プログラムで達成されてきた。しかし、サービス分野の労働者の移動自由化は、それぞれの国の事情もあり、後回しにされてきた。サービス分野の雇用はEU全体の70%にまで達している。このEU委員会の自由化案は金融や通信、運輸を除くすべてのサービス分野に及んでいる。各国間にある移動の障壁を取り除けば、経済成長にも大きく寄与するだろうというのがEC委員会のもくろみであった。EC委員会が委託したある調査によると、この自由化で60万人分の新規雇用が生まれ、年間330億ユーロ(430億ドル)相当の経済活動が作り出されるという予想だった。

なぜ反対なのか
 不況にあえぐドイツ、フランスにとっては、大変素晴らしい提案であるかに見える。しかし、両国首脳はEC委員会の「サービス指令」案には、反対の意向を示し、その取り下げすら求めるようになった。本来なら「指令」推進の主導者であるはずの域内市場コミッショナーのマクリーヴィー氏すら、原案では各国の賛成を得られないと言い出した。1年前のEC委員会では満場一致で通過したのに、なぜ、こんなことになってしまったのか。
 実は、リスボン会議後に公表された「サービス指令」案には、西欧各国の労働組合や左翼が反対し始めていた。ヨーロッパ議会の社会主義者などは、この指令がこのまま承認されるなら、「ヨーロッパのソーシャル・モデルの崩壊だ」とまで非難した。最初にこのアイディアを提出したのは、前のEC委員会コミッショナーであったオランダのボルケシュタイン氏であった。同氏の名前がフランケンシュタインに似ているので、「フランケンシュタインの再来」など、しばしばからかいの材料になってきた。

サービスの「原産地表示」
 「サービス指令」案で、反対者が最も問題にする点は、「原産地表示原則」ともいうべき内容である。これはあるEU加盟国のサービス供給者(労働者)に、他の国でのサービス提供(労働)を認めるものだが、サービスの供給者が母国のルールと法律を充足していることのみを条件にという但し書きがついている。要するに、自国の社会経済制度はそのままでよいという条件である。これには、サービスの単一市場創出が、さらにお役所的なレッドテープを生むリスクを避けようとの考えが背景にある。いいかえると、サービス業のそれぞれについて、ルールや法律を作ったりしないように、この単一の基準で整理しようとの配慮が働いている。
 しかし、反対者は新たな「ソーシャル・ダンピング」を作り出すようなものだと非難している。EU加盟国の間には大きな経済格差があり、東欧、南欧などの貧しい国々との競争は、ドイツやフランスなどの労働者の賃金を引き下げ、福祉の水準を劣化させてしまうという。たとえば、ドイツで大きな反対の象徴的存在になったのは、食肉処理場の労働者の仕事である。すでに中欧の派遣業者が送り出す労働者との競争で、ドイツ人労働者の仕事が失われている。ドイツの労働組合は、こうした新参者は低い賃金でも働くので、全体の賃金水準を引き下げており、衛生基準も守っていないと非難している。確かに、新規にEUに加盟した国々と以前からの加盟国との国境周辺では、サービス業の価格低下がじわじわと進行している。
 他方、EU委員会提案を支持する側は、こうした懸念はボルケンシュタイン指令案で配慮されていると反論する。すなわち、派遣された労働者は、職場の存在する地域の社会や労働関係の法律に従わねばならないだろう。受け入れている国の最低賃金や労働災害規則、労働時間法を破る行為は法律違反である。さらに、EU委員会は一般の関心が高い運輸、介護労働の多くは、指令の対象外にしてあると反論している。

形骸化した「サービス指令」
 結局、今回のEUサミットでは、前回のリスボン・サミットからの課題を何度も話題にしたが、ほとんど実のある行動に結びつかなかった。特に、大きな議題の「サービス指令」案は、EU委員会案から「心臓を切り取ってしまった」といわれるほど、形骸化してしまった。すなわち、EU加盟国の富んだ国を、貧しい国からの競争から保護する「社会保護」条項を追加したのである。これは、EU委員会の原案を完全放棄しようとしたフランス(ドイツが支持)への妥協であった。
 フランスではEU指令への反発は強く、5月に予定されるEU憲章の国民投票の結果を左右しかねないものになっていた。フランス政府は「サービス指令」を批准することが、国民投票を「ノン」(否定)とさせてしまうことを恐れたのである。EU憲章にフランスが賛成しないとなれば、EU委員会は大きな痛手を負うことは明らかだった。他方、中・東欧などEUの新加盟国としては、サービス労働の自由化を進めて、労働コストの相対的安さを武器に発展を図りたいところである。しかし、そのためには古くからの加盟国が同意してくれなければ動きがとれない。対外的な競争力強化を目指すはずが、最大の敵は自分たちの中にいるということになってしまった。

日本も直面する課題
 サービス労働の自由化は、アジアでも大きな課題である。すでに、看護師、介護士などの受け入れをめぐって、日本のような先進国とフィリピン、タイなどの開発途上国との間でせめぎ合いが展開している。しかし、サービス労働の範囲は広い。少子高齢化が深刻化する日本では、すべての仕事を日本人だけでこなすことはできない。外国の人々の手や頭脳に依存し、相互に助け合って生きる構図をしっかりと確保しなければならない。すでにパートタイムや派遣労働者の増加などで、国内労働者間の労働条件格差は拡大している。さらに外国人労働者をいかに位置づけるのか。外国人の比率が低いからといわれて、単に数の面で受け入れを拡大するだけでは、対応にならない。基本政策の再検討は急務である。EUの議論は、日本やアジアでも真剣に検討されねばならない課題なのだ(2005年3月24日記)。


本稿は、一部を下記のニュースによっている。
Digital Edition, The Economist, March 24, 2005.


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災害は必ずやってくる

2005年03月23日 | 仕事の情景

 このところ、インドネシア・スマトラ沖の大地震、津波の後には北九州の地震と、災害が続発している。「災害は忘れた頃にやってくる」とは、寺田寅彦の有名な言葉だが、この頃は忘れないうちにやってくるようだ。

 寺田寅彦は、「津波と人間」という随筆で、次のような興味深い言葉も残している。  「しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。」(昭和八年五月『鉄塔』)  

 残念なことにわれわれ人間は災害から逃れることはできないようだ。どこかで必ずやってくる。あの地下鉄サリン事件の時も、私はひとつ前の地下鉄に乗っていて危うく運を逃れた。もっとも、これは天災ではなく、人災であったが。 

 たまたまTVを見ていると、カンボジアの首都のホテル街で火災が起き、20名を超える人々が犠牲になったと報じていた。ホテルの火災は意外に多い。20年ほど前、私もたまたま滞在したロンドンのストランド・ホテルで夜間に火災に遭遇し、煙の立ちこめる廊下を何も持たずに文字通り這うようにして、逃げ出た経験がある。一寸先も見えなくなるという状況を実体験した。幸い、この時は犠牲者が出なかったが、このホテルと契約している近くのサヴォイ・ホテルが避難場所になり、思いがけないことでロンドン最高級ホテルの一時的な客となった。ストランド・ホテルの方は何の変哲もない普通のホテルだが、この騒ぎのしばらく前に中曽根康弘元首相が議員時代に宿泊したということを後で知った。

歴史に残る悲劇 
 ホテルや工場の火災の記事を読むと、しばしば思い出すのが1911年3月25日にニューヨークのトライアングル・シャツ会社(Triangle Shirtwaist Company)で発生した悲劇的な火災事件である。現代アメリカ史には必ず登場する著名な事件である。 悲劇の発端の火災は、ビルの最上階にあるトライアングル社の終業時間近くに起きた。火の手は瞬く間に広がり、500人の従業員のうち146人が焼死するという悲惨な事故となった。煙に巻かれ、苦しさのあまりビルの9階から飛び降りた人もいた。 

 この事件については、かつてGHQ 時代に日本での教育向けに作成されたアメリカ労働運動の記録フィルムを見ていた時、その中でこの火災事件が大きく紹介されていたことも記憶に残っている。

現代に残る苦汗労働 
 2001年はこの火災が発生して90年目に当たるために、ニューヨーク市では、3月27日に追悼行事が行われ、そのひとつとして「トライアングル火災事件の今日;苦汗労働とグローバル経済」と題したフォーラムも開催された。 

 この悲劇が今もなお多くのアメリカ人の心に刻み込まれているのは、この火災をめぐってさまざまな出来事が展開したことによる。トライアングル社は当時のニューヨーク市イーストサイドでの典型的な苦汗労働工場 (sweatshop)であった。苦汗労働というのは、低賃金 できわめて長時間、不衛生な環境の中で労働者を働かせることである。非人間的な労働条件の下での過酷な労働といってもよい。この工場では、ビルの持ち主がビルの各階を個人に賃貸しをして、雇い主はそれぞれお針子と呼ばれる女子労働者をきわめて低い賃金で、シャ ツやブラウスの縫製のためほとんど拘束状態で働かせていた。劣悪な状況で管理もないに等しく、この事件が起きても、いったい何人がビルの中で働いていたか見当がつかなかったといわれる。 

 苦汗労働は今日でも消滅せず、世界中に見いだされる。アメリカ労働省の最近の調査でも、ニューヨーク市の衣服縫製工場の63%は、連邦最低賃金を下回る賃金しか支払っていず、労働時間も過長で違反していた。グローバル化の進展は、労賃の低さだけで生き残ろうとするこうした苦汗工場を開発途上国ばかりでなく、先進国にも存在させている。 火災発生以前の1909年には、劣悪な労働条件に耐えかねた若い女子労働者たちの職場放棄などが起き、女性労働組合連盟 (The Women's Trade Union League) などが、争議を支援するなどの前触れが起きていた。なにかがなされねばならないと良識ある人々が感じ始めて いた矢先の悲劇であった。 

 この火災で犠牲になったのは、ほとんどが当時アメリカに移民してきたばかりの若いイタリア人、ヨーロッパ系ユダヤ人労働者であった。犠牲者はほとんど女性であり、中には11歳の少女まで含まれていた。貧困のどん底生活を送り、想像を絶する環境の下で働いていた 。火災発生時、避難階段への道はほとんど閉ざされており、逃げる労働者の重みで階段自体が折れてしまった。消防車のはしごも短く届かなかった。 

 しかし、事件の責任追及は不十分に終わった。火災発生後8ヵ月して陪審員は工場の所有者を無罪放免した。陪審員団のしたことは火災発生時に外部に通ずるドアに鍵がかけられていたか否かを確認しただけだった。生存者は異口同音に外部のはしごに通じる唯一のドアは開くことができなかったと証言した。しかし、被告弁護士の巧みな弁舌によって、証言は陪審員を動かすにいたらなかった。「正義はどこにあるのだ」という非難が高まった。

工場安全衛生法の成立に 
 事件の悲惨な内容が次第に判明するにつれて、国際婦人服労働組合(International Ladies' Garment Workers' Union: ILGWU) を初めとして、市民たちの救援活動や労働条件改善要求の運動が盛り上がった。そして、この事件の責任を追及する社会的運動へと広がった。 ニューヨーク州知事は、工場査察委員会を設置し、5年間にわたる公聴会その他を経た後、アメリカ労働立法史上、きわめて重要な工場安全衛生法の制定が行われた。 

 後にニューディール政策を実行したフランクリン・ D. ルーズヴェルト大統領の下で、労働長官を務めたフランセス・パーキンス女史は、現場を視察し、その後の人生で労働者の地位改善の主唱者となることを決意したといわれる。そして、ニューヨーク市安全委員会事務局長の立場で工場査察を支援した。 この悲惨な事件は、上記の労働立法への道を開いたばかりでなく、過酷な労働条件で働く労働者への関心の喚起、そして救済のための立法への契機となったものとして、絶えず思い起こされ、多くのアメリカ市民の心に今に残るものである。後に労働長官となったパーキ ンス女史は、ニューディールはトライアングル事件の日から始まったと述べている(関連記事:本ブログ「
芸術と政治の戦い:「クレイドル・ウィル・ロック」」)。 

 

  事件発生後、90年の年に当たる2001年3月、コーネル大学キール労使関係アーカイブセンター (Kheel Center for Labor-Management Documentation and Archives, Cornell University/ILR) は、この歴史的な事件に関わる詳細を記録・再現する素晴らしいHP(注)を開設した。

 このHPには当時を知る関係者の記録がオーディオ・ヴィジュアルな手段を駆使して蓄積されており、きわめて印象的なHPとなっている。この分野に関心を持つ学生が資料を発掘し、研究に利用する場合の注意など、細かな配慮もされている。日本人は過去の出来事を大変忘れやすい民族ではないかと私は思っているが、災害についても確実に後世の人に伝える努力が必要であろう。



注:トライアングル・ファイア事件を記録するHP
http://www .ilr.cornell.edu/trianglefire/

画像:トライアングル事件を記憶するため国際婦人衣服労働組合が Ernest Feeney に依頼、制作した壁画「縫製産業の歴史」 (1938), Courtesy of New Deal Network

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転換迫られる中国人口政策

2005年03月22日 | 移民政策を追って
 人が国境を越えて移動するについては、様々な要因が働いている。供給側と需要側の双方の要因がある。とりわけ、需要側に労働力不足があり、受け入れる素地があることが基本的に重要である。他方、送り出し側にも余剰な労働力が存在することが条件である。
 世界の人口は2005年で約64億人近いと推定されるが、国際労働移動の観点から注目されるのは中国、インドなどの人口大国といわれる国々の動向である。
 今回は中国についてみてみよう。人口13億人を要する中国は、その人口の大きさ自体が国内ばかりでなく、アジア諸国を中心に世界的な規模で様々な影響を及ぼしている。国内的にも農村から都市への人口圧力が強く働き、過剰農村人口吸収のための雇用創出という大きな課題を負っている。さらに、中国は移民の送り出し国というイメージはあまりないかもしれないが、留学その他さまざまな形で海外へ流出する人口の影響は無視できないものとなっており、周辺諸国への見えない圧力となっている。

一人っ子政策の光と影
 1979年に中国が一人っ子政策を採用してからほぼ4半世紀が経過した。その影響は中国社会に広く浸透し、プラス・マイナス複雑な結果を生み出してきた。人口抑制という意味では、世界の歴史上最も成功した例といえなくもない。しかしながら、近年はそのマイナス面が次第に露呈し、中国の公式メディアまでもがその修正を示唆するような発言もみられるようになった。
 一人っ子政策が生んだ最大の弊害は、中国が世界でも例のないスピードで高齢化社会に近づいていることである。高齢化の速度はどの国より早い。このまま進行すると、生産年齢人口(15-59歳)と60歳以上人口の比率は今日の6対1から2040年には2対1となると予測されている。いうまでもなく、国家的にも大変な財政負担となる。
 中国の都市部では「4-2-1現象」と呼ばれる状況が生まれている。これは、4人の祖父母とその間に生まれた2人の子供から成る両親が、一人の子供によって扶養されるという状況である。夫婦がそれぞれの両親、祖父母の老後の扶養をするという負担はきわめて大きい。日本の「老々介護」を上回るものになっている。「小皇帝」といわれ、祖父母や両親の寵愛を受けて育った年代も、最初の世代は35歳近くとなり、予想もしなかった課題を担うことになった。
 中国政府側にすれば、過去30年間に約3億人の人口縮減を達成したのは社会主義経済の大成功ということになるかもしれない。確かに食料を含めて、発展途上の過程における諸資源の希少さへの対応と貧困の拡大には役だったかもしれないが、いまや人口構成の内部に深く浸透した不均衡は、そうしたプラス面を覆しかねないほどになっている。

さまざまな抜け穴
 一人っ子政策は国家的政策として、他国にも例をみない強力な推進力をもって展開されたが、現実にはさまざまな例外措置も暗黙のうちにも講じられてきた。働き手の必要な農村などでは、最初の子供が女児の場合、二人まで子供を持つことも、黙認されてきた。また、少数民族の場合は特別の配慮から、二人以上の子供も許容されている。2001年からは都市部の場合、夫妻がそれぞれ一人っ子の場合、出産する子供の数が2人になってもよいとされている。
 こうしたいくつかの抜け穴が存在するにもかかわらず、アメリカの国勢調査局の推計では、1980年には女性一人当たりの出生率は2.29、2004年には1.69と顕著に低下を続けてきた。中国では、出生率ではおよそ2.1が、人口が再生産を続けるに必要な水準と考えられている。総人口は現在13億人だが、依然として増加を続けており、絶対数として減少するのは世紀半ばに近づいてからとみられる。
 一人っ子政策は基本的に変更なく推進されており、政府筋が検討しているといわれる人口政策の見直し結果が明らかになるまでは、基本的に変更される可能性はない。こうした強制的な人口抑制策は世界でも異例だが、さまざまな抜け穴がある農村部と比較すると、都市部では政策は実効をあげている。それは、行政上もルールを適用しやすいからである。違反した場合の罰金も高額であり、都市部の平均年収の3から10倍に達する。公務員や、国営企業の従業員の場合、二人子供がいると入学できる学校すらみつけられないと云われる。社会保障などの恩典も受けられなくなる。
 比較的抜け穴があるとされる農村部でも、強制的な人工中絶や資産没収などの措置がとられることもまれではない。他方、高齢者を扶養する当事者がいない場合などについて、農村の監視者が目をつぶっている場合もある。その結果、農村部には公式統計を上回る多数の子供が存在するとみられる。
 中国の人口構造には、多くの問題点が隠蔽されている。次の10年間に中国の高齢化は急激に進み、65歳以上人口は膨大になり、他方で労働人口は縮減する。また、性別比率のゆがみも顕著である。社会主義体制の下でも男子優位の社会であるため、国勢調査によると、2000年時点で、新生児の男女比は118対100という信じられないほどのゆがみがある。「お嫁さんがいない」といわれる地域も多い。他方、農村部などでは、女子の出生は時に記録されていないと云われている。しかし、性比のゆがみの大部分は人工中絶の結果である。この点については、性別判定が可能となる妊娠14週以後の中絶を避けるパイロットプログラムがようやく2005年にスタートした。2004年からは、「農村部の計画生育家庭奨励のための補助金制度」が実施され、国の計画生育政策(いわゆる一人っ子政策)に即して、子供を1人、または女の子を2人しか持たない農村部の家庭に対し、親が60歳に達してから年間600元あまりの補助金が支給されることになった。
 他方、中国は市場経済化への移行で、一人っ子政策を放棄しても、かつてのような大家族志向はなくなったのではないかと推定されている。医療、教育、住宅などのコストが高価になり、多数の家族を抱えることが困難になってきたからである。二人以上子供を持ちたいという夫婦は、それほど多くないともいわれている。ただ、富裕層の間には国内における批判を避けるために、海外で第二子をもうけ、教育も外国でという動きもでている。子供の数が少ないために、家庭の英才教育志向はきわめて強い。ブライダル産業も隆盛しているが、離婚も急増している。大事にされて育った一人っ子は思いやりがないとの説がある。
 今の段階で政策転換を行えば、2050年には16億という国連中位推計で予想されている最大人口をさらに上回ってしまうだろう。しかし、他方で高齢化のこれ以上の進行は、なんとしてでも回避しなければならない。そのため、社会保障システムの整備が急がれている。
 これまでの政策の結果である、一人っ子家庭の不安は次第に高まっている。中国政府はこの問題についての公式見解を示していないが、状況は次第に深刻化しており、2010年頃には一人っ子政策が緩和されるのではないかともいわれている。市場経済の浸透とともに、世界に例のない人口政策の終焉は近い.
 最後に、日本について一言。厚生労働省の人口社会保障研究所の予測では、2050年までに、15歳以下の子供が全人口に占める比率は11%以下になってしまう。政府は無策なのに、どうして実質的に一人っ子政策が実現した国になってしまったのだろうか。中国の人口政策がわれわれに考えさせる課題は多い(2005年3月22日)。

Photo:Courtesy of Worldisround.
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ラ・トゥールを追いかけて(10)

2005年03月20日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour, The Fortune-Teller, ca.1630-1634, The Metropolitan Museum of Art, New York, Rogers Fund, 1960.  

 この作品を初めて見たのは、60年代末に暇をみては足しげく通ったニューヨークのメトロポリタン美術館であった。画家の詳細な背景について知るのは少し後のことになるが、とにかく画題と構成の斬新さに目を奪われ、脳裏に深く刻まれてしまった。しかし、パリのオランジェリーでの特別展を見るまでは、ラ・トゥールの画家としての輪郭が私には十分とらえられていなかったので、ひとつの画期的作品としての印象にとどまっていた。その後、この画家に魅せられ、知識も増えるにつれて、この作品についての自分なりの評価も少しずつ形作られてきた。

  この絵をメトロポリタン美術館が購入したことをめぐっては、フランスでは国家的文化遺産の海外流出という観点から大議論があった。いかなる経緯でアメリカに来ることになったか、今日の段階でも十分明らかにされていないが、その背景も知りたいところである。  

  なんといっても、この絵を見て驚くのは、描かれた人物5人の中で、右側の2人である。とりわけ観る者の視線をひきつけてやまないのは、卵形の顔をした女のあやしげな目つきである。あの「いかさま師」シリーズの登場人物の「ダチョウの卵のような」と形容された女の目つきとも異なる不思議な顔立ちである。この顔はその後さまざまな書籍の表紙などにも使われ、たびたびお目にかかることになる。肖像画の専門書の表紙にまで使われているから、誰がみても不思議で異様な容貌なのだろう。そして、この女の右側に立つ老女の異様に醜い顔もさらに見る人を驚かせる。いずれも一度見たら忘れられない。

画家の非凡さ 
  この作品のテーマ自体は、ラ・トゥールの他の作品と同様に、同時代の他の画家によっても試みられている。その点は、かなりおなじみのものである。しかし、例のごとくラ・トゥールはその主題を天賦の才と技法をもって、他の画家とはおよそ異なる次元へ移し変えている。 

  最初にこの絵に接した時に、右側のジプシーの占い師が上半身とはいえ、ほぼ全体が描かれているのに、なぜ左側の二人のジプシー女は部分的なのだろうと思ったことがある。画面の左側が詰まっており、バランスがいかにも悪い。最近の研究(Toussaint)によると、やはり左側は後年なんらかの理由で切断されてしまっているらしい。 

  右側の異様に醜く描かれた顔の女は、ジプシー(ジプシーは自分たちのことをロマニーと称している)の占い師である。「ジプシー」Gypsyの名が示すように、エジプトから来た民族と誤って伝えられてきたが、当時のヨーロッパを広く放浪の旅をしていた。このジプシー女にこれから自分の運命を語らせようとしているのは、世の中の苦労を何も知らないようなおめでたい顔?をした若い男である。 

  ところが、この「ジプシーの仕事師」たちがとんでもない曲者である。卵形の顔をした女を含めて、残りの3人はジプシーの仲間で、占い師が手相を見ている隙に、お客さんから金目のものをかすめとるのだ。左の女は二人とも顔立ちはいいが、考えていることはとんでもない。男のポケットから金をかすめとろうとしている。その隣の女は、それが手渡されることを待ち受けている。真ん中の女は、なんとカッターで金のペンダントの鎖を切ろうとしている。その表情はなんと形容したらよいだろうか。

  これらは、当時の人々がジプシーについて抱いていた考えを反映したものだろう。(実は現代社会の話だが、私自身イタリアの町で、犯行を隠蔽するために手に手にダンボールの切れ端を持ったジプシーの子供グループの「こそ泥」に友人が襲われる現場に直面した経験がある。幸い被害は軽くすんだが。)もっとも、この作品と同じテーマでジプシーが逆に「かも」にされている絵もあるのだが。

考え抜かれた作品 
  
ラ・トゥールの作品は、いずれも非常に「読みが深い」ので、見る側が画家のメッセージを読み取るのはかなり大変である。とりわけ現代の人には必ずしも分かりやすいものではない。同時代の人々にはすぐ伝わった画家の明らかな、時には秘められた含意が、時代を経過すると分かりがたくなってしまう。 

  作品の組み立て、そして技法には、画家の熟達と自信のほどが縦横に発揮されている。ラ・トゥールの他の作品を特徴づける蝋燭のかすかな光を見慣れた者にとっては、この絢爛豪華、まばゆいばかりの「光の光景」に接すると、これはラ・トゥールであるはずがない、別人の作品であると思ってしまうのも無理はない。その意外性こそが画家の意図するところであり、一種の「革新」(イノヴェーション)を試みたのだ。昼と夜、聖俗の世界を描き分けることが、ラ・トゥールの画家としてのキャパシティの大きさを定めていると考えられる。

  ラ・トゥールの愛好者の間でも、「占い師」や「いかさま師」などの「風俗画」といわれるジャンルの作品について、好き嫌いは分かれる。「闇の世界」を描いた作品を好む人の方が多いようだ。しかし、こうした「昼の世界」の作品を正当に位置づけることで、この稀に見る才能を持った画家の実像がより鮮明に見えてくる。

「エンターテイメント」を超えて 
  ラ・トゥールは自らの置かれた時代的状況を判断して、主題その他を熟慮の上で選択している。この作品は本質的には、パトロンや顧客である貴族階級、コレクターなどの要望に応える一種の「エンターテインメント」作品であろう。ラ・トゥールがこうした世俗的な画題(風俗画ともいわれる)を選んだのは,深いわけがあるのだ。 

  作品右上の画家のサインを見ても、他の作品とは異なり、カリグラフィーのお手本のように記されている。このサインは真贋論争のひとつの焦点となった。細部にわたって眺めているだけでも、さまざまなことを考えさせる興味津々たる作品である。しかし、単なるエンターテインメントに終わらないところにこの画家の非凡さがある。しばしば比較されるカラヴァッジョを超えているところも多い。登場人物の衣装のデザイン、材質まで画家はさまざまな思いをこめている。たとえば、あの陶器のような肌で不思議な目をした女は、仲間のジプシー女とはどうも出自が違うようである。その背景にはじプシーにかどわかされ、育てられた女をテーマとした小説が想定されているようだ。占い師の衣装に描かれた鷹と兎はなにかを暗示しているのだろうか。 

  この作品を楽しむことができたのは、17世紀当時の貴族階級に代表される社会的上層の人々である。しかし、ここで愚弄されているのは、貴族階級などのお坊ちゃん?である。貴族階級の子女には、この画題は警鐘の意味を含んでいるのかもしれないが、画家の出自を考えると真意は複雑である。パン屋の息子が天賦の才に恵まれ、徒弟あるいは同様の修業の後に、画家としてひとり立ちし、宮廷画家の世界にまで入り込むことは、並大抵の努力ではなしえない。この絵で「かも」になっている若い男の指先を見てほしい。貴族階級の子女にふさわしくない汚れた爪である。これはなにを語ろうとしているのか。

厳しい世界を生きた画家 
  この作品は、ラ・トゥールの現存する作品ジャンルの中では、孤立しているかにみえる。しかし、戦火などで失われてしまった作品の方がはるかに多いのだから評価は難しい。ラ・トゥールの描く占い師、宮廷人、ジプシーなどの登場人物は、17世紀当時の社会における「だますもの」、「だまされるもの」についての鋭く冷たい観察の結果である。

  ラ・トゥールが人生のほとんどを過ごしたとされるロレーヌは、今日訪れてみると、田園や森の広がるのどかな場所に見える。しかし、画家の生きた時代環境は、しばしば戦乱のちまたと化す、不安に満ちた、そして世俗の世界では生き馬の目を抜くような緊張感をはらんだ状況が展開していた。わずかに残る画家の人生を推定させる材料も、そうした時代の反映なのだ。

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試練のヨーロッパ:イスラームと移民政策

2005年03月18日 | 移民政策を追って
 2004年11月2日、アムステルダムの映画監督テオ・ヴァン・ゴッホが暗殺された。暗殺者は若いモスレムの過激主義者であり、脅迫状で予告していた。ヴァン・ゴッホは著名な画家ヴィンセント・ゴッホの血筋をひいているが、イスラーム社会における女性への不当な扱いを映画化し、そのうらみを買った。この映画はオランダのリベラルな政治家アヤン・ヒルシ・アリとの共作であったが、アリはソマリアからの難民であり、政略結婚から逃れてオランダに入国を求めた経緯があった。彼女もヴァン・ゴッホと同様な脅迫状を受け取っていた。ヴァン・ゴッホは、2002年に暗殺された反イスラーム、反移民の政治家ピム・フォルティンの支持者でもあった。
 アムステルダムでは、直ちに大規模なデモが展開し、イスラームの学校や寺院への報復が行われ、さらにエスカレートしてキリスト教会への報復行為に拡大した。ハーグでの暗殺者の隠れ家捜索では手榴弾が飛び交い、警官の重傷という事態にまでいたった。オランダのイスラーム人口は約100万人で、人口比の約0.5%である。
 3月11日には、マドリッドでの列車爆破事件もあっただけに、この問題は、オランダばかりでなく、瞬く間にヨーロッパ全体の問題となった。暗殺者は、自らの行為をヨーロッパ全体に対するジハード(聖戦)とする文書を残していた。オランダはヨーロッパ諸国の間でも、多文化主義を標榜してきた国である。それだけに、この事件は大きな波紋を呼んだ。リベラルな社会は、不寛容さに対してどれだけ寛容でありうるかという問いが突きつけられたといってよい。
 過去20年間、オランダ社会はイスラーム移民の増加に対しても、イスラームの権利を保護し、文化を受け入れてきた。大きな衝突を生むことなくキリスト教徒とイスラーム教徒とが共存して行くためには、それしかないと本能的に感じたためだろう。しかし、それがたどり着いた今日の段階において、オランダが目指してきた多文化主義とは相容れない宗教を信じる人々への寛容さは、大きく揺らいでいる。
 2002年には反イスラームの代表的存在でもあったピム・フォルティンが暗殺されたことで、政治的活動は崩壊したと思われた。しかし、その後も火種は尽きず、さまざまな場で反イスラームの右翼主義者が活動してきた。オランダはこれまで、寛容な国であることを自他ともに誇りにしてきた。オランダの移民担当大臣リタ・フェルドンクは、オランダが長年にわたり、過激なイスラーム原理主義者を許容してきたことを悔やむと公言した。その後、政府は冷静に行動するよう呼びかけてはいるが、現実にはオランダばかりでなく各国で、移民政策は入国者に厳しくなり、とりわけイスラーム原理主義者の取り締まりに向かっている。
 フランスではかつての内務大臣で現在は大蔵大臣のニコラス・サルコジが、「私が好きであろうと嫌いであろうと、イスラームはフランスで第二の宗教である。したがってイスラームをもっとフランス化して受け入れる以外にない」と述べている。フランスには5百万人を超えるイスラーム人口がいるが、現政府は一方では過激主義者も陣営内に取り込むことで押さえ込んで来た。そして、他方ではトラブルメーカーには、強力な安全保障対策で対してきた。フランスは、反テロイズムという点ではきわめて厳しい政策を採用してきた。
 ドイツは3-5百万人のイスラーム住民を抱えているが、暴力に対する恐怖とジハードはどうしてか小さい。ドイツのイスラーム教徒のほとんどはトルコ(260万人)あるいはボスニア(17万人)出身であり、彼らの配偶者もイスラームであるが、全体に穏健である。しかし、ドイツが新たな統合政策を推し進めるにつれて、新たな問題も生まれ、事態は深刻化している。最近では、イスラーム・ラディカルの排斥をする反面、移民にドイツ語クラスを義務づけている。
 9.11以降、かつての移民受け入れ国は一様に厳しい入管政策に転じた。2004年11月にはEUの移民担当大臣がオランダに集まり、移民政策についてEUとしての統一的方向に合意した。これは新規に入国を求める外国人に対する柔軟さと強硬さの両面政策の確認である。平和的な政治体制に参加出来るよう救いの手が延べられねばならないし、信仰も尊重されねばならないが、そのために自由が削られることがあってはならないという趣旨である。しかし、現実の場において、EU諸国は各国独自の政策に走っており、その行方は定かではない。
 ヨーロッパの寛容さは、いまや試練の時を迎えている。そして、日本も遠からず同様な問題に直面することは必至である。
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遅すぎた日本の対応

2005年03月17日 | 移民政策を追って
 
 本年3月15日から日本政府は、これまで多くの批判があったにもかかわらず継続してきた「興行」の在留資格(芸能人ヴィザ)に関する発給制限を厳格化することに踏み切った。「興行」の在留資格については、この資格で入国した後、ヴィザの目的から外れる「資格外活動」として、風俗営業店などでホステス等として不法就労に従事する外国人がかなりの数に上るとともに、人身売買の被害に遭った外国人の例が多数指摘されてきた。
 すでに問題は1980年代から露呈していたのに、有効な施策が講じられることなく放置されてきた。その結果、施策実施の当時者である東京入国管理局長自身が、これも人ごとのような無責任な話だが、事態のひどさを明らかにするほどの段階まできてしまっていた。1995年に自らが調査に携わった店の9割以上で、「資格外活動など」があったという事実まで公開している(『朝日新聞』(2005年2月28日夕刊))。事態はもはや最悪の段階にいたっていたといえる。
 日本で正規の資格で働ける就労を目的とする在留資格は、「外交」、「公用」を除くと、「興行」が圧倒的に多く、2003年には就労目的の在留資格で入国した合計155,831人のうち、133,103人を占めている。最も多いフィリピンは、2003年には8万件、全体の60.1%に達した。(同年のフィリピン側の日本で働くフィリピン人労働者数は、62,539人、POEA統計と差異がある)。この在留資格で日本に働きにくる外国人は、従来東南アジア、東欧などからが多かったが、特にフィリピン人が圧倒的比重を占めてきた。フィリピンの海外出稼ぎ者の60%は女性であり、過半数が35歳以下である(画像:マニラ湾の夕日)。
 実態をみると、歌手やダンサーなどの資格で入国しながらも、接客業として働いており、売春などにかかわることも多かった。人身売買の犠牲となる案件も目立ち、アメリカ政府など国際社会から厳しい指弾を受けてもいた。日本は米国務省の04年報告で人身売買の防止制度や被害者保護に欠ける「監視対象国」に指定された。
 他方、送り出し国としてのフィリピンでは、興行ヴィザ取得のためには、取得を希望する本人が、芸能人団体などが管理するオーディションなどを通して「芸能人資格証明書」Artist Record Bookあるいは Artist Accreditation Cardを取得することが必要であった。しかし、現実には証明書が売買対象となったり、ブローカーが商売の種にするなど、安易な形で入手が可能であった。日本は形式上はフィリピン政府が発行するこの証明書があれば、入国を認めてきた。
 このたびの対応で、日本政府は「芸能人資格証明書」をいっさい認めないことにするとともに、「興行」のカテゴリーで日本に入国するためには、2年以上のアーティストとしての職業的経験、大学での演劇・舞踊など関連課程の2年以上にわたる履修証明など、発給条件を厳しくすることにした。その結果、今後、ヴィザ発給は現在の10分の1程度にまで減少するのではないかとも云われている。
 こうした変化に対して、フィリピン側にはかなり大きな動揺が生まれている。日本で働いた経験のあるフィリピン女性は、NHKの取材に、日本に滞在中は月約30万円の収入があり、5人の家族を支える上で、どうしても日本で働く必要があると答えていた。
事態への対応が遅れると、それに依存して生きる人々が生まれてくる。フィリピンのトーマス労働相までも、このたびの日本政府の措置導入に抗議し、実施の延期を求めている。その背後には、彼女たちが海外で働き、稼ぎ出す外貨収入がフィリピンの国際収支改善に大きな役割を果たしていることも影響している。しかし、この問題の責任は、事態がここまで悪化することを容認してきた日本政府の側にあるといわざるをえない。
 日本は外圧がなければなにも変わらないといつもいわれてきたが、今回もILOの2004年11月の報告、日本を人身売買の注意リストに掲載したアメリカからの政治的圧力が働いて、やっと事態改善に踏み切ったことは明らかである。アメリカ国務省の2005年報告は5月にも発表される予定で、「監視対象国」指定の返上をめざす日本政府としては、後に引けない状況だ。対策が後手に回る間にどれだけ多くの人々が犠牲になるか、日本政府の認識の甘さと意思決定システムの欠陥を改めて指摘しなければならない(2005年3月17日記)。

関連記事:「外国人労働者政策の破綻」2005年2月28日

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ラ・トゥールを追いかけて(9)

2005年03月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

身近かになったキリストの使徒たち

「聖小ヤコブ」 c. 1615-1620. Oil on canvas. Musée Toulouse-Lautrec, Albi, France.

 ラ・トゥールはその生涯に、いくつかの連作、シリーズ物を生み出している。その中に「キリストとアルビの12使徒」と呼ばれる一連の作品がある。今日の段階で、真作として確認されている点数は、最近発見された作品を含めて6点にとどまっているが、模作を含めて画家が意図したシリーズの内容はかなり明らかにされている。また、最近では科学的技法を駆使しての研究(注)も行われている。その中から私の印象に残る一枚を選んでみた。
 ラ・トゥールの作品を見ていると、時に昼夜、聖俗の世界についてかなりクリティカルな目を要求されているなあと思うことがある。ラ・トゥールと同時代の人々には共有されていたと思われる「知的継承」が、400年近い時空の隔たりの間に失われており、見る側も努力をしなければ、画家の真意を把握できないものがある。この12使徒シリーズについても、それが感じられる。
 ここに取り上げる「聖小ヤコブ」(英語ではSt. James the Minor, or James the Less)は、キリストの親戚筋でもあり、容貌が大変キリストに似ていたといわれている。聖大ヤコブSt. James the Greater(最近ラ・トゥールによる真作が発見された)と区別するため “the Minor/the Less”という語が付加されている。ちなみに聖小ヤコブは、キリストの没後、使徒たちが各地に離散した後、パレスチナに残り、イエレサレムの最初の司教になったと伝えられる。 聖小ヤコブの説教などについては、他の使徒ほど伝えられていない。また、しばしば聖大ヤコブと混同もされてきたようだ。

戻ってきた使徒たち
 キリスト教の歴史に詳しくはないが、ラ・トゥールの使徒像はどれをとっても、それまでに制作された他の画家の使徒と比較して、普通の人々との距離感が少ない。言い換えると、ラ・トゥールが描いた使徒像はいずれも16-17世紀に生きていた普通の人々とあまり変わりないように思われる。先人の画家、たとえばルーベンスやヴァンダイクあるいはクラナッハの描いた使徒は、いかにも「聖人らしく」描かれている。使徒は聖・俗二つの世界を結びつけるいわば仲介者の役割を担った人々である。ラ・トゥールは、使徒のイメージをむしろ普通の人に近づけることを明らかに意図して描いたようだ。
 それでも、ラ・トゥールの「聖小ヤコブ」は一見して威厳を秘めた人物として描かれている。しかし、少し落ち着いてみると、いずれの使徒も、日常はさまざまな分野で働き、しばしば戸外で労働生活を送っている人々がモデルのようだ(ラ・トゥールのシリーズの中では、「聖アンドレ」と大変似ているように思われる。同じモデルかもしれない)。聖小ヤコブの場合も、これまで彼が生きてきた年輪を感じさせる皮膚の色、しわ、ひげ、髪の色、そして手指に刻まれた労働の跡などが、克明に描き出されている。身につけている衣服の色彩に表現された時の経過も、素晴らしいリアリズムの成果である。
 右手にはおそらく肩にかけるふりわけの荷物、左手に太い木の枝を握っている。これは聖小ヤコブであることを示すアトリビュート(象徴的な持ち物)である。すなわち、聖小ヤコブは毛織物を木の棒で叩いて柔らかくすることを仕事としており、その棒で殴られ殉教したと伝えられている。

近くにいる聖小ヤコブ
 描かれた聖小ヤコブは、内に秘めた強い意思を感じさせるが、普通の人々との間に距離をおいて、高いステイタスの持ち主として君臨する、近づきがたい聖人・使徒のイメージではない。人々が日常、町や農耕の仕事の場で出会うかもしれないような人々である。ラ・トゥールがモデルとしたのは、ほとんどが当時の農民あるいはそれに近い社会階層の人々であった。日々の生活の規律に従い、勤労の厳しさに耐えることを通して、神の世界に近づくことができるという思いを実感させてくれる使徒像が、ラ・トゥールの意図したものであった。
 アルビの「キリストと12人の使徒」がいかなる目的のために描かれたか、初期の歴史はよく分かっていない。おそらく教会、修道院などのため、もしかするとパトロンの依頼によるものであったのかもしれない。
 ラ・トゥールはなぜ、それまでの使徒像とは異なるイメージを導き入れたのか。いくつかのことが考えられる。ロレーヌは、私も訪れてみて初めて実感したことだが、16世紀初めに生まれたカソリック改革(反宗教改革)の前線地帯であった。宗教改革は新教プロテスタントの側から、カソリック(旧教)への挑戦であったが、カソリック改革(反宗教改革)はいわば体制側からの巻き返しであった。教義の神秘化、使徒の神格化などが進み、キリストと世俗の人々との距離が開いてしまったことに対する、プロテスタントからの批判に応えねばならなかった。確かに、すでにこの時代において、使徒、聖人のイメージと世俗の人々の距離は大きく乖離していたのだろう。教会や使徒たちをもっと人々の身近なものに取り戻さねばならないというカソリック改革の使命を、ラ・トゥールは画家として敏感に感じ取り、自らの作品に具象化していったと思われる。

時代の風向きを感じていた画家 
 アルビの使徒シリーズを通して、ラ・トゥールはロレーヌの宗教社会に教会が期待する方向での貢献をしたのではないか。結果としてみると、ラ・トゥールより20年ほど前のローマにおいて、カラヴァッジョが行った革新と似ている部分があったように思われる。
 カラヴァッジョのカソリック改革美術への最も顕著な貢献は、それまで幾度となく語られてきた宗教上の真実を日常世界との直接的な関連で、再現したことであった。これはある意味で、既成のイメージに対する偶像破壊的衝撃であったにちがいない。 
 ラ・トゥールが実際にローマに行ったか、あるいはカラヴァッジョの作品に接したかといった詮索は別として、間接的にもなんらかの影響を受けたことはほぼ間違いない。カラヴァッジョはラ・トゥールの時代にはもう伝説的話題の画家であったと思われる。ちなみに、カラヴァジョは1610年に没している。ロレーヌばかりでなく、同業の工房の世界には、新しい試みや時代の好みは直ちに伝わったはずである。そうした話は、ラ・トゥールにとって新たな創造欲をかき立てるものであったろう。事実、この天賦の才に恵まれた画家は、聖俗を含めて時代の風向きに大変敏感であった。
 ラ・トゥールは自らが感じた時代への対応の必要をカラヴァッジョのように激しい形ではなく、ロレーヌの風土に合うような、柔らかな形で持ち込んだ。リアリズムによる描写を通して、使徒の存在を身近なものとすることで、それを行ったのである。それまでの使徒のイメージと比較すると、粗野な雰囲気を漂わせているが、それは宗教を時代の人々に近づけるという課題を果たす上で必要であったのだろう。今なお田園風景が残るようなヴィックやリュネヴィルのごとき小さな町の礼拝堂や修道院には、きわめて適切な作品だった。
 ラ・トゥールは、画家としての天才的才能を持ち大きな成功を収めながら、他方で世俗的社会における成功者でもあった。名声や金銭欲も強く、したたかな日常生活を過ごしていたと見られる。そうした人生経歴を経てきたラ・トゥールは、ロレーヌの社会の中で生きて行くために、時代の変化や流れを他の人々以上に敏感に感じ取っていたと思われる。それこそが、ラ・トゥールが世俗と芸術の二つの世界を巧みに生き抜くための知恵でもあった(2005年3月16日記)。

(注)C2RMFフランス博物館科学調査・修復センター(パリ)は、「ラ・トゥールの12使徒」の科学的調査・研究に関するDVDを2004年4月に完成した。その日本語版が発売されている。

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閉ざされる国境:アメリカ移民政策の課題(2)

2005年03月15日 | 移民政策を追って
 それでは移民労働者問題について、アメリカはどう対応すべきなのだろうか。不法入国者がいかに多いとはいえ、カリフォルニア州地域のアメリカ・メキシコ国境で実施されている「入国管理作戦」Operation Gatekeeperのような強固な塀を全国境に張り巡らすことは、膨大なコストもかかる。アメリカのような国ですら、国境のすべてについて、こうした障壁を設置することはためらっている。
 開発途上国における人口爆発の実態をみるかぎり、移民が近い将来減少すると考えることは幻想にすぎない。きわめて劣悪な労働条件の下で働いているとしても不法移民は、母国の家族を支えるに足る金を稼ぎ出している。外貨送金の額自体は顕著な増加を示してきた。たとえば、メキシコ人移民労働者による2004年時点での母国への送金額は、166億ドルで同国の原油輸出収入に次ぐ額に達した。確かに、メキシコ、フィリピン、ブラジルなど移民労働者を多数送り出している国の場合、海外で働く自国民からの送金額は大きい。しかし、それらが有効に活用されているかというと、疑問符がつく。これまでの経験で判断するかぎり、移民で母国が立ち直った例はきわめて少ない。
 難しいのは、経済的現実と政治的現実とをいかに調整するかという点にある。ほとんどのエコノミストは、移民労働者は関係国の経済にとって、総体としてプラス効果があるとしている。多くの移民は、年齢的にも若く健康であるということばかりではない。移民による税金支払いと移民が得る給付の差について、いくつかの研究はプラス効果を生むとしている。たとえば、アメリカについて、National Research Councilの1997年のレポートは、顕著なプラス効果があるとしている。すなわち従来からアメリカに居住するアメリカ人にとって、最大年100億ドルのプラスになるとの推計を提示している。しかし、その内容をみると、明暗がある。高校卒以下の教育しか受けていない移民は、マイナスの長期的な財政効果(約13,000ドル)しか生み出していない。これに対してより高い教育を受けた移民は、長期利益(約198,000ドル)を生み出した。2002年には大統領経済諮問委員会は、この利益を最高で年140億ドルに達すると推計した。アメリカに限らず、多くの受け入れ国が不熟練労働者の受け入れは制限し、高度な熟練を持つ技術者や専門家については積極的に受け入れる方針を示しているのは、こうした背景が存在するためである。
 しかし、問題はマクロの水準ではなく、移民が多く集まる地域などミクロの水準にある。たとえば、メキシコなどからの不法移民がアメリカに入国することで発生する財政的な重荷は、連邦レベルではなく州など低位の地域が背負うことになる。ひとつの試算として、アメリカ移民改革連盟は、カリフォルニア州は年77億ドルを不法移民やその子供の教育のために、14億ドルをヘルスケアに、同じく14億ドルを不法移民の囚人のために費やしているとしている。さらに、低賃金の移民労働者が増加することは、アメリカ人労働者の賃金を引き下げる。このように、地域が背負う負担が大きいために、住民の間に反移民の感情的反発が生まれやすい。
 ブッシュ大統領が、同時多発テロ以前に提案していた、メキシコからゲストワーカーを導入する提案は見通しが不確かになってきた。ブッシュ政権の考えでは、不法労働者に「一時的労働カード」(3年ごとに再発行可能)を発給し、母国にもその間に帰国でき、再入国を拒否される不安もないようにする。そして、ひとたび帰国すると、使える権利が生まれる租税優遇措置つきの貯金勘定が与えられる。そうなると、アメリカに不法に滞在するインセンティブがなくなる。恒久的にアメリカに滞在したいと願う一時的労働者は順番を待たねばならない。
 ブッシュ政権のプランはこのかぎりでは、妥当で機能するようにみえる。しかし、硬派にとっては、不法滞在者に対するアムネスティが発動されるための前奏曲が準備されるにすぎないと思われる。そして、さらに不法な移民増加を促進してしまうことになる。また、エドワード・ケネディ議員などによって議会に再提案されたAgJobs billもこうしたリベラルな考えに沿っている。彼らの法案は、2003年7月以降少なくも100日働いた農業労働者に一時的な合法ステイタスを与える、そして次の6年間に360日働いた場合には、定住の申請を認める内容である。
 しかし、こうした諸提案に対して反対する側は、機能する代替案を持っているだろうか。現在アメリカ国内に居住する数百万の不法労働者を強制送還することは、実際問題としても不可能に近い。不法移民の両親の間に、アメリカで生まれた子供は、親がメキシコに帰国しても後に残る権利がある。また、不法移民を雇用した使用者を罰することは、これまでの経験でうまく機能しないことが判明している。彼らは偽造された入国に必要な書類を判別できる専門家ではない。しかも、政治家としては、選挙運動の際に支援をしてくれる使用者に警告はしたくはない。
 最善の解決はどこにあるのだろうか。移民についての制限を強めることではなく、緩めることであるとする見方もある。リベラル派のCato Instituteは入国への障壁が低いと移民は循環的なプロセスとなるとしている。1942-64年に実施されたブラセロプラン(農業労働者の季節的な循環受け入れプラン)の下では、メキシコ人労働者は(ひどい労働条件の下ではあったが)アメリカの労働市場に自分の意思で入国を希望し、自由に帰国した。対照的に、障壁が高いと入国してそのままとどまるインセンティブが強まる。
 理論上はそうかもしれないが政治家には、なかなかそこまで期待はできない。state of the unionの場で、ブッシュ大統領は次の趣旨の演説を行った。現在の移民システムは、「アメリカ経済の必要にも、わが国の価値にもあっていない。家族のために一生懸命働いている人を罰する法に満足すべきではない。アメリカ人がやらない仕事をする一時的な移民労働者を認めるような移民政策の時である。麻薬取引人やテロリストにはドアを閉ざすべきだ」。出席した議員は拍手した。しかし、こうした提案が法案となった場合に、投票に向かうかは別の問題である。
 アメリカが抱える移民問題は、程度の差こそあれ、多くの受け入れ国が抱える問題でもある。国境の開放度を高めることは、入国の制限度を緩め、不法就労者を減少させるという点では多大な効果があるが、自国に多くの失業者を抱え、さらに開発途上国の特徴でもある膨大な人口圧力を考えると、容易に踏み切ることはできない。現実的な対応として、受け入れ国側がさまざまな受け入れ制限措置を導入することも必然的な結果である。さらに議論されなければならないことは、関係国双方にとってよりメリットがあり、マイナス面の少ない政策のセットの模索である(2005年3月15日記)。


画像はアメリカ・メキシコ国境
本稿の議論展開は"American Immigration", The Economist, March 12-18, 2005に負っている。
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閉ざされる国境:アメリカ移民政策の課題(1)

2005年03月14日 | 移民政策を追って
 移民で国家を形成してきたアメリカは、さまざまな問題を抱えながらも「自由」で「開かれた」国のイメージを世界に広めてきた。そのため、アメリカは嫌いといいながらも、アメリカに住みたいという人々は多い。とりわけ、隣国メキシコから越境してくるヒスパニック系の労働者は、国境管理上、きわめて対応の難しい問題をつくり出してきた。正規の入国に必要なパスポート、ヴィザなどの書類を持たずに越境し、アメリカ国内で働きながら滞留している労働者およびその家族は、600万人を越えるとも云われている。不法滞在者でありながらも、アメリカの労働、社会、政治などの分野に次第に影響力を発揮してきた。2001年9月からアメリカ・メキシコ両国大統領間で、アメリカに滞留するメキシコ不法移民を合法化する交渉がまとまりかけていたが、同時多発テロ事件の勃発によって頓挫してしまった。
 9・11同時多発テロの勃発で、なによりも凄絶なテロの対象となったアメリカでは、多数の不法滞在者の存在は、緊急な対応を迫られる大きな政治課題となった。テロリスト入国阻止を直接の目的としながらも、外国人に対する入国規制は強まっている。特に、アラブ系の移民・難民に対する風当たりは一挙に高まった。
 2004年9月30日からは、原則すべての外国人渡航者に入国時点で指紋情報の読み取りおよび顔画像の撮影を課すなど、入国申請手続き・審査も厳格となった。さらに、2005年に入り、ブッシュの提案は実を結ばない方向へ向かっている。取り締まりが強化されたカリフォルニア州地域を避けて、不法移民が増加したアリゾナ州では、本年4月1日から自警団が「40年間にわたるメキシコ国境からの進入者からアメリカを守る」ためのパトロールを開始することになっている。
 1994年当時のクリントン政権はカリフォルニア州における不法入国者の実態にショックを受け、入国阻止作戦Operation Gatekeeperなるシステムをカリフォルニア国境に導入した(写真はカアリゾナ州アメリカ・メキシコ国境の風景)。
 カリフォルニアの場合、2つの高いフェンスが並行して並び、日夜ヘリコプターでの監視、闇夜透視カメラ、隠れたエレクトロニクスセンサーなどが設置された。さらに、ボーダーパトロールが追加・増員され、結果としてカリフォルニア州境の66マイル(106キロ)でのの不法移民の流れは、1994年以前と比較して大幅に少なくなった。他方、アリゾナ州での2003年10月から2004年9月までの1年度における不法入国者の逮捕者数は、前年度より18万人多い約59万人と、9.11前の最高水準に近づきつつある。
 アメリカ・メキシコ間の国境は、疲労と渇きによる死を覚悟の上ならば、越えられないわけではない。しかし、5日近い酷熱のアリゾナ砂漠地帯を国境パトロールの監視から逃れて徒歩で越境することは、筆舌に尽くしがたい苦難である。この障壁を抜ければ、メキシコで働く賃金の数倍から10倍の金を手にすることができ、家族への送金もできるという思いだけが越境者を支える。
 合法移民についての現在のシステムが十分機能していないために、こうした危険を冒しても入国したい人の流れが絶えない。しかし、システムの再構築は可能だろうか。修復するにはなにが必要だろうか。

壊れたシステム:修復はいかなる形でなしうるか
 アメリカへの不法入国者の数の推定は、きわめて困難である。いくつかの機関から、100-300万人という推定値もあげられている。その中で比較的実態に近い推定ではないかとみられる移民・帰化サービス(INS)は、毎年100万人近い入国者があるのではないかとみている。さらに、アメリカに入国した書類不保持者の40%は合法的に入国はしているが、滞在期間を越えて居住していると推定されている。公式のアムネスティ(1986年の包括的アムネスティを利用して約270万人が、そして別の300万人近くが1994-2000年の間に実施された6つの法律の恩恵を受けた)は別として、少なくも10万人の不法居住者unauthorized residentsが、自らその資格を調整するか(たとえば、メキシコ人がアメリカ市民と結婚)あるいはアメリカを出国し、ヴィザを獲得して再入国してくることで、毎年合法化されている。
 数には疑いがあっても、行き先は確かである。100万あるいはそれ以上の不法移民が、主としてカリフォルニアの農業労働に従事している。その他は大都市の移民社会に紛れ込んで生活している。

日本はどうすべきか
 アメリカが日本と異なる最大の点は、アメリカの場合、法律によって毎年675,000人に永住ヴィザを発給していることである。移民で国家を形成してきたアメリカの柱の部分である(日本が移民を真に必要とするならば、この部分についての徹底した国民的議論が必要である。)このうち480、000人は、すでにアメリカに住んでいる市民の家族再結合および新たな合法移民のためである。そして残りの140,000人が雇用目的のための受け入れに当てられている。加えて難民には人道的観点から恒久的ヴィザが与えられる(2004年7万人の上限)。そして過去5年間に5万人以下の送り出ししかない国には、国民の多様化を図るためのdiversity visasが5万人分、発行されている。
 実際は、675,000人という数字は上限というよりは下限である。合法的な移民範疇である直接的な家族の受け入れについては、永住ヴィザ発給の上限がないからである。その結果、1990年以来、合法的な居住が与えられた数は、年平均962,000人に達した。それでもヴィザ発行の供給数は需要を満たし得なかった。
 アメリカを始めとする先進諸国への移住や就労機会を求める人々の圧力はきわめて強い。「人口爆発」といわれる世界の人口増加のほとんどは、アフリカ、アジアなどの開発途上国で起きている。
先進国の移民・入国管理政策は、押し寄せる移民の大波に、壊れかけた塀をもって支えようとしているにすぎない。よりよい方策はないのだろうか。日本の移民政策検討にも欠かせない課題である。次回は、この点をさらに掘り下げてみたい(2005年3月14日記)

Photo: US-Mexican border, courtesy of the Economist (March 12th-18th, 2005)
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ラ・トゥールを追いかけて(8)

2005年03月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

The Musicians' Brawl. c.1625-1627, Collection of the J. Paul Getty Museum, Los Angeles   
Courtesy of Olga’s Gallery.


「辻音楽士の喧嘩」

  この作品は、一時期はThe Beggers' Brawl「乞食の喧嘩」と呼ばれていたこともある。しかし、その後は「辻音楽士の喧嘩」The Musicians’Brawlという題名の方が一般的になっているようだ。 描かれている人物が手にしている楽器などから音楽士らしいと推定されるようになった。画家が作品に表題をつけているわけではないので、あまり深く詮索する意味はない。 

画家が意図したプロット
  一見すると、画家が描こうとした内容は単純なように見える。しかし、よく観察すると大変奥深い。絵の中央に描かれた二人の放浪音楽士、フルートとヴィエルの楽士が、つかみ合いの喧嘩をしている。前回の漂泊の旅に疲れ、哀愁感の濃い楽士とは、まったく異なって、ナイフを振りかざした喧嘩という緊迫した情景の中にも、どこかユーモラスな雰囲気すら漂っている。これも画家が明らかに意図したプロットなのだ。  

  左のヴィエルの楽士はナイフと楽器で詰め寄っており、右の楽士はフルートでその攻撃を防いでいる。ヴィエルの楽士は盲目であるらしいが、左目は半分空いている。もしかすると、目が見えるのかもしれない。他方、右のフルート楽士は右手にレモンのようなものを握っており、その汁をしぼって、けんかの相手に注ごうとしているかにみえる。楽士が本当に目が見えないのか、少なくも一方は見えるのではないかと試そうとしているかにみえる。しかし、そのアイディア自体が、ナイフがふりかざされるという緊迫した情景の中ではやや滑稽でもある。ラ・トゥールは、またそうしたプロットを密かに組み込んで、観る人の観察力を試そうとしているかのようでもある。  

ストーリー性のある構図
  左手の女性は恐怖におののいたような表情をしているが、見ようによってはややオーバーな表情で描かれている。彼女はヴィエル楽士の仲間なのだろうが、もしかすると楽士の目が見えることを知っているのかもしれない。他方、右の二人はフルート楽士の仲間であると思われるが、こうした乱闘の中でなにかさめた様子である。前に立つ楽士の顔には笑みのような表情すら浮かんでいる。明らかに両者のいさかいについて、なにかを知っていて高見の見物役を決め込んでいるかに見える。おそらく、喧嘩の原因やその落ち着きどころを心得ているにちがいない。  

  ラ・トゥールはヴィエル楽士を主題として、一連のシリーズの作品を残しているが、現存する作品でこれだけが、やや異なった情景を描いている。他の作品は一人のヴィエル楽士だけが描かれ、多かれ少なかれ旅芸人の哀切感に満ち、漂泊に疲れた姿が全面にうかがわれる。  

  注目すべきもうひとつの点は、ラ・トゥールの場合、他の同時代の画家が同じ題材を選んでいても、まったく異なった観点から深く画題を掘り下げ、精緻な筆致で強い印象を与える作品に仕立て上げている。画家としての天賦の才を思わせる。  

見る者を惹きつける
  この辻音楽士のけんかにしても、同時代の他の画家が表面的に描いている画題を再構成し、ラ・トゥール独自の濃密な見せ場の多い作品に構成しており、見事といわざるをえない。この作品も喧嘩の行われているのが、いかなる場所であるのかを推測させるような材料はまったくない。主題にまっすぐに切り込み、しかも、観る者を画面に吸い付けるような魅力を準備している。主題を見事に描き出し、若干のユーモアさえ漂わせている。画家はそれについて周到な計算をしているのだ。  

  画家がその意図を表現するに最低限の数の人物を登場させ、画面の中に不自然なところを残さずに一枚に収めている。半身の画像も斬新である。テーマをクローズアップするために、余分な部分は極力削ったのだろう。ラ・トゥールが自らの技法を手中にしていることを思わせる。おそらく後の「いかさま師」のシリーズなどにつながる新しいドラマティックな展開の種が胚胎しているのだ。この絵も私にとっては、1972年オランジュリーで出会ってから、今日まで印象に残る一枚である(2005年3月12日記) 


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ラ・トゥールを追いかけて(7)

2005年03月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
犬を連れたヴィエル弾き c. 1620-1622, フランス、ベルグ市立美術館、186x120cm  

  きわめて著名な画家についても一般的にいえることだが、非常に人気のある作品とそれほどでもない地味な作品がある。ラ・トゥールの場合であれば、「大工の聖ヨセフ」あるいは「いかさま師」シリーズなどが前者であろうか。

  画家の名を知らない人でも、クリスマスカードなどにも良く使われているので知っている人も多い。 他方、ラ・トゥールの愛好者?からすると、あまり一般に知られていない作品に次第に強い関心を抱く場合があるように思われる。この「犬を連れたヴィエル弾き」などもそのひとつではないか。ラ・トゥールの比較的初期の時代の作品と推定されているが、その当時好まれた画題でもあるようだ。複数の同じ画題の作品が現存しており、ラ・トゥールが、時代の日常生活の中から選び出した、いわばシリーズのひとつである。「老男」「老女」などにつながるところがある。

  今は古楽器となったヴィエル(ハーディ・ガーディ)を弾いて、町や村を歩いてまわった辻音楽士を描いた作品である。理由は必ずしも明らかではないが、他の画家の作品でもヴィエル弾きは、盲目の老人として描かれている。ハンディキャップを負った人たちが生計を立てる上で、当時残された数少ない職業類型だったのかもしれない。 

  この絵に私が接したのは、「ラ・トゥールとの出会い」に記したが、30余年前になる1972年のオランジュリーでの展示であった。今回の国立西洋美術館での「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展のカタログによると、オランジュリーでの展示までは、ラ・トゥール以外の名前も挙げられ、画家の特定も十分なされていなかったようである。その後、少なくもラ・トゥールの「工房」の作品であるらしいことまではほぼ推定が進み、痛みのひどかった作品の修復もオランジュリー展に合わせて行われたらしい。 

  実物に接すると分かることだが、作品が等身大に近い186x120cmという大きさである。それだけに大変な迫力もある。盲目の楽士が観る者に向かって歩みながら歌っているような実感がある。しかも「豆を食べる人々」や「老男」「老女」などと比較して、衣服も粗末であり、老楽士の容貌から漂泊の旅に日々を過ごしていることが直ちにみてとれる。これは、同じ主題を扱った他の作品についても指摘できるが、この作品の場合、とりわけ哀切感が画面に強く漂っている。それは、他の作品には描かれていないが、老楽士の足下に坐る子犬の表情からもうかがわれる。犬の傍らに置かれた小石との対比で、この子犬がいかに小さな存在であり、それでいて盲目の老楽士にとっては、苦難の多い旅路での大切な伴侶であることを切々と訴えている。旅に疲れた老楽士を支えるかのような、この子犬の存在感は大きい。この子犬が描き込まれていなかったら、画面の印象はかなり変わる。この絵を見る機会があったら、ぜひ犬の表情をしっかり見てほしい。 

  少なくとも現存する作品から判断するかぎり、ラ・トゥールは当時の風俗画に属する作品以外では、自分たちと同等あるいは上流とみなされる社会階層の人々を描いていない。農民や老楽士など、ラ・トゥールの出自と比較しても、階層的には低い人々を好んで描いている。この点は、ラ・トゥールが過ごした人生のあり方と関連があるのだろうか。パン屋の息子から宮廷画家の階層まで社会的上昇を達成し、資産や名声にも恵まれた自分の生涯を背負った上でのこうした画題の選択には、画家として多くの思いがあったことが想像できる。

Picture
Courtesy of Olga's Gallery (Original owned by Musée Municipal, Bergues, France)
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