Georges de La Tour, The Fortune-Teller, ca.1630-1634, The Metropolitan Museum of Art, New York, Rogers Fund, 1960.
この作品を初めて見たのは、60年代末に暇をみては足しげく通ったニューヨークのメトロポリタン美術館であった。画家の詳細な背景について知るのは少し後のことになるが、とにかく画題と構成の斬新さに目を奪われ、脳裏に深く刻まれてしまった。しかし、パリのオランジェリーでの特別展を見るまでは、ラ・トゥールの画家としての輪郭が私には十分とらえられていなかったので、ひとつの画期的作品としての印象にとどまっていた。その後、この画家に魅せられ、知識も増えるにつれて、この作品についての自分なりの評価も少しずつ形作られてきた。
この絵をメトロポリタン美術館が購入したことをめぐっては、フランスでは国家的文化遺産の海外流出という観点から大議論があった。いかなる経緯でアメリカに来ることになったか、今日の段階でも十分明らかにされていないが、その背景も知りたいところである。
なんといっても、この絵を見て驚くのは、描かれた人物5人の中で、右側の2人である。とりわけ観る者の視線をひきつけてやまないのは、卵形の顔をした女のあやしげな目つきである。あの「いかさま師」シリーズの登場人物の「ダチョウの卵のような」と形容された女の目つきとも異なる不思議な顔立ちである。この顔はその後さまざまな書籍の表紙などにも使われ、たびたびお目にかかることになる。肖像画の専門書の表紙にまで使われているから、誰がみても不思議で異様な容貌なのだろう。そして、この女の右側に立つ老女の異様に醜い顔もさらに見る人を驚かせる。いずれも一度見たら忘れられない。
画家の非凡さ
この作品のテーマ自体は、ラ・トゥールの他の作品と同様に、同時代の他の画家によっても試みられている。その点は、かなりおなじみのものである。しかし、例のごとくラ・トゥールはその主題を天賦の才と技法をもって、他の画家とはおよそ異なる次元へ移し変えている。
最初にこの絵に接した時に、右側のジプシーの占い師が上半身とはいえ、ほぼ全体が描かれているのに、なぜ左側の二人のジプシー女は部分的なのだろうと思ったことがある。画面の左側が詰まっており、バランスがいかにも悪い。最近の研究(Toussaint)によると、やはり左側は後年なんらかの理由で切断されてしまっているらしい。
右側の異様に醜く描かれた顔の女は、ジプシー(ジプシーは自分たちのことをロマニーと称している)の占い師である。「ジプシー」Gypsyの名が示すように、エジプトから来た民族と誤って伝えられてきたが、当時のヨーロッパを広く放浪の旅をしていた。このジプシー女にこれから自分の運命を語らせようとしているのは、世の中の苦労を何も知らないようなおめでたい顔?をした若い男である。
ところが、この「ジプシーの仕事師」たちがとんでもない曲者である。卵形の顔をした女を含めて、残りの3人はジプシーの仲間で、占い師が手相を見ている隙に、お客さんから金目のものをかすめとるのだ。左の女は二人とも顔立ちはいいが、考えていることはとんでもない。男のポケットから金をかすめとろうとしている。その隣の女は、それが手渡されることを待ち受けている。真ん中の女は、なんとカッターで金のペンダントの鎖を切ろうとしている。その表情はなんと形容したらよいだろうか。
これらは、当時の人々がジプシーについて抱いていた考えを反映したものだろう。(実は現代社会の話だが、私自身イタリアの町で、犯行を隠蔽するために手に手にダンボールの切れ端を持ったジプシーの子供グループの「こそ泥」に友人が襲われる現場に直面した経験がある。幸い被害は軽くすんだが。)もっとも、この作品と同じテーマでジプシーが逆に「かも」にされている絵もあるのだが。
考え抜かれた作品
ラ・トゥールの作品は、いずれも非常に「読みが深い」ので、見る側が画家のメッセージを読み取るのはかなり大変である。とりわけ現代の人には必ずしも分かりやすいものではない。同時代の人々にはすぐ伝わった画家の明らかな、時には秘められた含意が、時代を経過すると分かりがたくなってしまう。
作品の組み立て、そして技法には、画家の熟達と自信のほどが縦横に発揮されている。ラ・トゥールの他の作品を特徴づける蝋燭のかすかな光を見慣れた者にとっては、この絢爛豪華、まばゆいばかりの「光の光景」に接すると、これはラ・トゥールであるはずがない、別人の作品であると思ってしまうのも無理はない。その意外性こそが画家の意図するところであり、一種の「革新」(イノヴェーション)を試みたのだ。昼と夜、聖俗の世界を描き分けることが、ラ・トゥールの画家としてのキャパシティの大きさを定めていると考えられる。
ラ・トゥールの愛好者の間でも、「占い師」や「いかさま師」などの「風俗画」といわれるジャンルの作品について、好き嫌いは分かれる。「闇の世界」を描いた作品を好む人の方が多いようだ。しかし、こうした「昼の世界」の作品を正当に位置づけることで、この稀に見る才能を持った画家の実像がより鮮明に見えてくる。
「エンターテイメント」を超えて
ラ・トゥールは自らの置かれた時代的状況を判断して、主題その他を熟慮の上で選択している。この作品は本質的には、パトロンや顧客である貴族階級、コレクターなどの要望に応える一種の「エンターテインメント」作品であろう。ラ・トゥールがこうした世俗的な画題(風俗画ともいわれる)を選んだのは,深いわけがあるのだ。
作品右上の画家のサインを見ても、他の作品とは異なり、カリグラフィーのお手本のように記されている。このサインは真贋論争のひとつの焦点となった。細部にわたって眺めているだけでも、さまざまなことを考えさせる興味津々たる作品である。しかし、単なるエンターテインメントに終わらないところにこの画家の非凡さがある。しばしば比較されるカラヴァッジョを超えているところも多い。登場人物の衣装のデザイン、材質まで画家はさまざまな思いをこめている。たとえば、あの陶器のような肌で不思議な目をした女は、仲間のジプシー女とはどうも出自が違うようである。その背景にはじプシーにかどわかされ、育てられた女をテーマとした小説が想定されているようだ。占い師の衣装に描かれた鷹と兎はなにかを暗示しているのだろうか。
この作品を楽しむことができたのは、17世紀当時の貴族階級に代表される社会的上層の人々である。しかし、ここで愚弄されているのは、貴族階級などのお坊ちゃん?である。貴族階級の子女には、この画題は警鐘の意味を含んでいるのかもしれないが、画家の出自を考えると真意は複雑である。パン屋の息子が天賦の才に恵まれ、徒弟あるいは同様の修業の後に、画家としてひとり立ちし、宮廷画家の世界にまで入り込むことは、並大抵の努力ではなしえない。この絵で「かも」になっている若い男の指先を見てほしい。貴族階級の子女にふさわしくない汚れた爪である。これはなにを語ろうとしているのか。
厳しい世界を生きた画家
この作品は、ラ・トゥールの現存する作品ジャンルの中では、孤立しているかにみえる。しかし、戦火などで失われてしまった作品の方がはるかに多いのだから評価は難しい。ラ・トゥールの描く占い師、宮廷人、ジプシーなどの登場人物は、17世紀当時の社会における「だますもの」、「だまされるもの」についての鋭く冷たい観察の結果である。
ラ・トゥールが人生のほとんどを過ごしたとされるロレーヌは、今日訪れてみると、田園や森の広がるのどかな場所に見える。しかし、画家の生きた時代環境は、しばしば戦乱のちまたと化す、不安に満ちた、そして世俗の世界では生き馬の目を抜くような緊張感をはらんだ状況が展開していた。わずかに残る画家の人生を推定させる材料も、そうした時代の反映なのだ。