時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

現代に生きるラ・トゥール

2011年02月27日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 いつも楽しく拝見しているあるブログに、大変興味深い記事が掲載されていました。17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品が、今日の日常生活に生きていることを示す光景です。

 この画家、日本での知名度はいまひとつですが、海外ではさまざまな芸術的発想が生まれる源になっています。その範囲は絵画にとどまらず、文学、音楽など多方面にわたっています。

 たとえば、次の図はある著名な作品をデフォルメした現代の作家の作品の一部です。さて、原画となっているのは、何でしょうか。答
はこのブログ内の記事に。




Georges de la Tour  LE TRICHEUR, par Pol Bury. ideas et calendes, La Bibliothéque des Arts.





Reference
絵画分野におけるラ・トゥールの影響を知るひとつの資料として
ディミトリ・サルモン「ラ・トゥールに基づいて」『カタログ;ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 光と闇の世界』東京、国立西洋美術館、2005年

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レンブラントはスエーデンへ行ったか

2011年02月22日 | レンブラントの部屋

 

Rembrandt van Rijn The Conspiration of the Bataves 1661-62 Oil on canvas, 196 x 309 cm Nationalmuseum, Stockholm (details).



  まもなく国立西洋美術館でレンブラント展(「光の探求/闇の誘惑」、会期:2011年3月12日~2011年6月12日)が開催される。版画が多く、油彩画の出展は少ないようだ。レンブラントのように作品の数が多い画家の場合は、真作のすべてを目にすることはかなり困難だ。ごひいきの画家だけに、これまで主要な作品は目にしてきたつもりだが、画集でしか見たことのないものもある。さらに17世紀美術の難しいところは、画家が意図した主題の意味を理解するのが、現代人のわれわれには容易ではないことがしばしばあることだ。

 最近話題とした
「クラウディウス・キウィリスの謀議」もそのひとつだ。初めて見た時は、なにをテーマに描いた作品か分からなかった。カタログを読んで漸く理解した。17世紀、当時(contemporary)のオランダの人々ならば、ほぼ教養?として知っていたことだろう。しかし、ギリシャやローマの歴史についての素養に乏しい現代人、とりわけ日本人には一枚の作品を理解することが至難なことになる。

 この作品、本来ならば今では「ダム広場の王宮」として知られるアムステルダム市庁舎ホールの装飾の一部となるはずだった。確かにレンブラントの手になる作品だが、短い期間掲げられただけで、画家の手に戻されてしまった。制作報酬も支払われなかったようだ。そして、すぐに別の画家ヨリス・オーフェンスが依頼を受け、フリンクのデッサンを引き継いで完成させた。

 レンブラントのこの作品は後年ストックホルムで発見されたとき、原作の四分の1程度に切断されてしまっていた。なぜ、そんなことになったのか。今日でもその謎は解明され尽くしたわけではない。画家が売却のことを考えたのかもしれない。

作品制作の背景
 この作品、今でも解明されていない謎を含んだ経緯の下で制作されている。少し、背景を記すと、1659年、市庁舎2階の大広間の四周をめぐる天井の高い回廊を飾るため、市議会の決定によって政治史、軍事史から発想された12点の巨大なアーチ形絵画の委嘱が、画家ホファールト・フリンクになされた。ちなみに、フリンクはレンブラントの弟子であった。この時、すでにレンブラントは破産して、豪邸を去り、零落の身の上だった。

 12点のうち4点は、聖書および古代ローマ史の英雄が描かれ、8点にはローマ帝国の知事たちの腐敗に抵抗して蜂起したバタヴィア族の反乱が描かれることになっていた。オランダのことを古くはバタヴィアとも呼んでいた。

 この主題の選択は的確なものだった。ローマの歴史家タキトゥスの語ったローマに対するバタヴィア族の反乱は、17世紀、スペインに対するネーデルラントの反乱を暗黙裏に語る象徴と広くみなされていたからだ。言い換えると、スペインに対抗し、独立したオランダの意志を示すものだった。1648年ミュンスター講和で、オランダは独立を勝ち取った。

 スペインに対するオランダの反乱はアムステルダムに経済成長をもたらし、その結果として来たヨーロッパ最大の市庁舎が建設されるにいたったのだが、これだけでもバタヴィア族の反乱を取り上げるに十分だった。 しかし、アムステルダム市当局は同時のオラニエ公家にも気をつかい、オランダ共和国の建国の父である沈着なヴィレム一世を「ユリウス・キウィリスの再来」として描かせようとした。政治的には独立していたにもかかわらず、アムステルダムはオラニエ公を支持する「王党派」とも良好な関係を保っていた。1651年に一時的に総督職が廃止されたのちも、オラニエ公家は軍事的指導力を発揮する機会をうかがっており、また広範な民衆の支持を取り付けていた。アムステルダム市当局が回廊の装飾を企画したのも、総督フレデリック・ヘンドリックの未亡人アマーリア・ファン・ゾルムスの訪問に際しての準備の一環と予定されていたようだ。

 さて、この主題の絵画化について、最初に委嘱を受けた画家フリンクが制作を続けたならば統一のとれた見事な連作が完結しただろう。しかし、連作最初の主題の水彩素描を遺して、1660年2月に急死してしまう。その後を埋めるため、師匠にあたるレンブラントは「クラウディウス・キウリィスのもとで誓いを立てるバタヴィア人たち」を彼のやり方で描くよう委嘱される。

ユリウス・キウィリスの反乱
 AD69年、ローマの同盟であったバタヴィア人が、ユリウス・キウィリス(後年、誤りでクラウディウス・キウィリスともいわれる)に導かれローマに反乱を起こした。この出来事についての唯一の記録は歴史家タキトゥスによるものだった。それによると:

 
キウリスは隻眼という見かけの不利な点を別にすれば、大変聡明な指導者であった。彼はある日、部族の首領や勇猛な男たちを、晩餐にかこつけて聖なる場所に招集した。夜が更け、宴会が盛り上がった時にキウリスは彼ら部族の名誉と栄光について語った。彼は部族が奴隷化したことによる多くの不正、侮蔑などについて語った。
TACITUS, Histories, 4, 14-15

 ローマはただちにバタヴィア人の反乱に終止符を打ち、旧来の同盟を回復した。キウィリスがその後どうなったかは分かっていない。
 
 タキトゥスは反乱の原点となった誓約の様子について記していない。作品では、レンブラントは、首領たちがキウィリスと剣を交わす形で、その状況を描いた。当時のオランダなどでは、誓約者たちが握手する光景が描かれていた。レンブラントは新しい見方を導入したのだ。
  
 夜景がえらばれたのは、レンブラントの著名な明暗法に定評があったからだろう。タキトゥスによれば、バタヴィア人は宴会という名目で洞窟につどい、酒を飲みながら計画を練った。キウィリスの促しに応じて、彼らは「粗野な慣習に従って」反乱の誓いを交わしている。レンブラントはその情景を描こうとしたのだ。

 だが、この絵が市庁舎を飾ったのは数ヶ月だったともいわれる。1662年には書き直しのためレンブラントの手元に送り返されてしまった。どのように、そしてなぜレンブラントが書き直すはめになったのかを語る史料は残っていない。レンブラントはいくつかの修整をする気になったようだが、結局市当局との合意には達しなかった。

 幸い全体像については、レンブラントが遺した素描から推察することはできる。カンヴァスを切断縮小することで、レンブラントは当初の大舞台のような設定を排除し、誓約の場だけを遺そうとしたのかもしれない。

 それにしても、なぜレンブラントは絵が飾られた後に描き直しを求められたのか。そして、なぜこの縮小された作品も、再び回廊に戻らずに終わったのだろうか。数々の謎が残された。しかし、書き記された記録は少なく、推測だけが残っている。

なぜ返却されたのか
 この問題の経緯に関してはさまざまな仮説が提唱されてきた。

 レンブラントは歴史家タキトゥスの遺したテクストとその行間の含意の双方を描こうと努力したようだ。タキトゥスの記述通り、キウィリスが隻眼の人物として描かれたのも初めてで、これは英雄の描写に品格を求める17世紀の暗黙のルールに反する決断だった。こうした欠陥がある場合、正常な側の横顔を描くのが普通だった。祖国独立を指導した人物は、それにふさわしい容貌でなければならないと考えられたのだろう。さらに、当時の人々は「まるで艀の船頭や泥炭堀りのように描かれたレンブラントの絵の反徒たちの姿に困惑した」(美術史家H・ファン・デ・ヴァールの指摘)。当時のオランダ市民は圧政に抗して立ち上がったバタヴィア人と自らを重ね合わせてみたかったのだろう。レンブラントの描いた叛徒のイメージはどうも合わなかったようだ。

 さらに、キウィリスが王冠を戴いていること、反乱の誓約がそれまでの常識とされた握手ではなく、剣を交叉することで行われていること、酒杯を掲げている者がいることなどへの反発もあったようだ。

 当時すでに大画家であったレンブラントの作品が、依頼者からかくも無情に突き返されてしまったのか。これまでの話は、あくまで後世の推論にすぎない。真相はほとんど闇の中だ。あえて断定すれば、レンブラントの画風が徐々に時代の求めるものではなくなっていたのだろう。

 さらに謎は深まる。20世紀になって、ミュンヘンで見つかった一枚のスケッチから、破産後にレンブラントは一時スエーデンへ身を隠し、北欧神話の隻眼の王オーディンを描いたのではとの推測も生まれた。問題の作品は、今日ストックホルムの国立美術館が所蔵している。かなり記録が残っているレンブラントの生涯だが、闇に包まれた部分も多い。視点を変えると、次々と興味深い問題が浮かび上がる。17世紀美術のあまり気づかれていない魅力だ。

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17世紀のアウトサイダーたち

2011年02月14日 | 絵のある部屋

 


ジャック・カロ 『ジプシーの宴』
Jacques Callot. Les Bohemians: La halte et apprêts du festin

  年末から予期していなかった雑事が重なり、せわしない日々が続いた。そのため、ゆっくり見たいと思っていた『カンディンスキーと青騎士展』の鑑賞も、滑り込みとなってしまった。もっとも、会期末の割には観客は少なく、やや拍子抜けの思いだった。作品の選択、展示が作品提供者のレンバッハハウスに頼りすぎたためか、少し単調で、ひと工夫が欲しかっ

た。

  
 
2011年世界アルペン選手権が開催されているガルミッシュ・パルテンキルヘンの美しい冬山の景色を見ながら、そういえば、カンディンスキーの冬山を描いた作品は記憶にないなあと思ったりしている。

 

 もうひとつ見過ごすところだったのが、国立西洋美術館の小企画展『アウトサイダーズ』(よそ者)だった。このブログにもしばしば登場したジャック・カロの銅版画を中心に、そのほかにもオノレ・ドーミエ、ハンス・ゼーバルト・ベーハムなど、有名版画家の作品が展示された。ドーミエの作品を見ていて、かつて東大総長を務められた大河内一男先生がホガース(先生ご自身が銅版画の著名なコレクター)、さらにドーミエなどの作品に大変関心を寄せられ、小さな研究会の合間などに、作品やその魅力などについてお話をうかがったことを思い出した。こうした座談の折の先生は、大変楽しそうであった。

 

 閑話休題。今回の小企画展は、国立西洋美術館所蔵の作品が中心だったが、銅版画という大量頒布が可能であった作品の特徴を生かして、いくつかの場所で、同一主題の作品を見ることができる利点がある。

 展示された作品の多くは、すでにどこかで見たおなじみのものがほとんどであったが、作品を見ている時間は楽しく、心が癒される。

 今回の展示の中核となっていたジャック・カロ
(1592-1635)は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)とは、生年も1年違いである。カロはナンシー生まれ、町では著名な旅籠屋の息子であったから、日記などの記録はないが、この二人は必ず会っているにちがいないと思っている。ラ・トゥールは何度もナンシーへ赴いているし、二人は同時代のロレーヌを代表する著名な画家であった。
  


 

中世以来、ヨーロッパに限ったことではないが、社会の主流から外れたところで、しばしば奇異な目で見られた人たちがいた。「アウトサイダーズ」(よそ者)といわれた人々である。彼らは外国人や日常の生活ではあまり見かけない人、言動の変わった人たちなどであった。しばしば好奇の対象となり、また疎まれ、社会的差別の対象ともなった。

 ヨーロッパ中を放浪して旅するジプシー(ロマ人)はその代表的存在でもあり、ベランジェ、カロあるいはラ・トゥールなどの画家たちが好んで画題とした。アウトサイダーズは、社会的にも下層にはじき出された人たちであり、多くは放浪それも漂泊の旅をしていた。カロやラ・トゥールがしばしば描いた楽師、占い師、道化師などが多く、詩人、さらには魔女とみなされた人たちも含まれていた。

 この犬を連れた旅人の姿からは、ラ・トゥールの『犬を連れた音楽師』のイメージがほうふつとする。

 

 

 

 

 

 

 Jacques Callot. Les Gueux

  

 

 

 

 Jacques Callot. Les Gueux

 

 

 

 

 

 ロマ人問題を始めとして、「アウトサイダーズ」は、現代社会においても厳然と存在する。そうした人たちをみる時代の目がいかに変わったか、あるいは変わっていないか。彼らを描いた多数の版画は、現代人にも当時と変わらぬ厳しい問いを突きつけているようだ。



ちなみに、Briggsの著書の表紙もカロの銅版画の一枚である。

References

 

ヴォルフガング・ハルトゥング(井本晌二/鈴木麻衣子訳)『中世の旅芸人;奇術師・詩人・楽士』(法政大学出版局2006年)

 

マルギット・バッハフイッシャー(森貴史/北原博/濱中春訳)『中世ヨーロッパ放浪芸人の文化史;しいたげられし楽師たち』(明石書店 2006年)

Georges Sadoul. Jacques Callot. Paris: Gallimard, 1969.

 

 

  


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カンディンスキーの列車

2011年02月08日 | 絵のある部屋

 

 
ヴァシリー・カンディンスキー
『ムルナウ近郊の鉄道』

Murnau View With Railway And Castle. 1909
Oil on cardboard,
36х49 cm,
Munich, Stadtische Galerie in Lenbach,

 「カンディンスキーと青騎士展」(東京三菱1号館美術館)を終幕近くで見た。もっと早く見たいと思っていたが、事情があってぎりぎりになってしまった。今回の企画展は、『青騎士』 der Blaue Reiter と呼ばれる表現主義の画家たちのサークルの作品を多数所蔵するミュンヘン市立レンバッハハウス美術館の全面支援で実現したものだった。この美術館、かつて何度かミュンヘンを訪れた折に、立ち寄ったことがあった。作品を見ている間に失われた記憶がよみがえってきた。

 私にとっては、この画家ヴァシリー・カンディンスキーの作品に初めて接したのは、ニューヨークのグッゲンハイム美術館であった。1960年代、日本ではなかなか見る機会が少なかった時代だった。そのために、真作を目のあたりにした時は、頭の中の霞のようなものが一瞬に飛び去ったかのような爽やかな感じがしたことを覚えている。脳細胞もまだ若く新鮮だったのだ。アメリカ滞在中、何度か訪れた。そのことは、ニューヨーク・グッゲンハイム美術館の記憶の断片として、このブログにも記している。

 カンディンスキーの代表作品として、なにを思い浮かべるかは、恐らく見る人によってかなり異なるのではないだろうか。今回出展された作品だけを見ていても、作風がずいぶん変化していることに改めて気づかされた。私が好きなのは、カンディンスキーが、コッヘルーシュレードルフ Kochel-Schlehdorf 、ムルナウ Murnauなどで山を描いた作品だ。

  そして、さらに今回展示されていた一枚の作品『ムルナウ近郊の鉄道』を見たとたんに、思い浮かんだのが
キルヒナーとのつながりであった。ベルリンへ移ったキルヒナーは、1912年の第2回「青騎士展」」に出展している。

  カンディンスキーのこの作品では、真っ黒な蒸気機関車が画面を横断するように、ばく進している光景が描かれている。背景には煙突のある城館のような家と山が見える。カンディンスキーとミュンターが南ドイツ、ミュンヘンに近いムルナウという小さな町に住んでいた頃、高台の住居からは、いつも眼下にミュンヘンとガルミッシュを結ぶ鉄道を走る機関車を見ることができた。彼らにとって、いわば日常の光景だった。

 1980年代のある年、ミュンヘン、インスブルックに住む友人たちを訪ね、ガルミッシュ・パルテンキルヘンと呼ばれるこの地域(現在2011年世界アルペン開催中)を、車と鉄道で旅したことがあった。晴天に恵まれ、世界にこれほど美しい光景があるのかと思ったほど感動した素晴らしい旅であった。

 この地の風光絶佳な山岳風景を見ているかぎり、その美しさに魅惑されるだけかもしれない。事実、旅をしている間はそうであった。しかし、改めて、カンディンスキーの描いた背景は鮮やかに美しいが、細部は一切描かれず、ただ黒一色で塗り込められ、ばく進する機関車を目にした時、突然にキルヒナーの『ノレンドルフ広場』Nollendorfplatz (1912)という電車が、ベルリン市内のこの広場で衝突した事件を描いた作品が眼前に浮かんできた。

 カンディンスキー、そしてキルヒナーが、1912年、図らずも別々に描いた列車の行方はなにかを暗示したかのようだ。時代はまもなく、第一次世界大戦という破滅的局面に突入する。






Ernst Ludwig Kirchner (1880–1938), Nollendorfplatz, 1912,  Öl auf Lwd.; 69 x 60



 

 

 
 

コメント (4)
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レンブラントはイングランドへ行ったか

2011年02月02日 | レンブラントの部屋

Rembrandt van Rijn The Conspiration of the Bataves 1661-62 Oil on canvas, 196 x 309 cm Nationalmuseum, Stockholm


 上に掲げたレンブラントの絵を見て、なにをテーマとしたものか、すぐにお分かりの方は、かなりのオランダ通あるいはレンブラントに造詣の深い方でしょう。

 それはさておき、17世紀の画家の作品あるいは文献は、つれづれに見ている間にも興味深いことが次々と浮かび、あたかもミステリーを読んでいるような思いをすることがある。たとえば、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが当時の画家たちにとって、憧憬の地であったイタリアへ行ったことがあったかという問題は、この画家にまつわる謎のひとつであり、
このブログでも少し記したことがある。  

 当時の時代環境からすれば、ロレーヌの画家たちにとって、イタリア、とりわけローマへの旅は、画家の修業の一端として、ほとんどお定まりの経路だったとする美術史家も多い。たとえば、ブログで記した17世紀フランス美術史の大家テュイリエなどは、ラ・トゥールのイタリア行きをほとんど当然のこととしている。  

 その推論の根拠となっているのは、若き日のラ・トゥールの手になったものかもしれない一枚の作品だ。イタリアの地方の小さな教会に残っている。しかし、画家の署名もなく、作品移動の経緯も不明のままであり、決定的な論拠とはなりがたい。謎はまだ解かれていない。しかし、具体的な証拠がないからといって、画家がイタリアへ行かなかったという証明にはならない。作品や資料などの欠如や散逸は避けがたい時代であった。この問題も、新たな史料や作品が発見されないかぎり、謎のままに今後の研究者へ継承されている。

レンブラントはオランダを離れただろうか 
 実はラ・トゥールと比較すると、格段に記録が残り研究も進んでいるオランダの巨匠レンブラント(1606~1669)についても、外国への旅をめぐる同様な謎があることを知った。それは、「レンブラントはイギリスへ行ったことがあるか」という問題だ。

 レンブラントは、ラ・トゥールよりほんの少し後の画家だが、ほとんど同時代人といってよい。  レンブラントは、当時画業を志すオランダの若者たちが、続々とイタリアへ行ったにもかかわらず、その必要はないとしてアムステルダムに留まって活動したことで知られてきた。オランダ国外へは出たことはないと考えられてきた。当時のすぐれた教養人でオラニエ公の秘書官であったホイヘンスは、若い才能溢れたレンブラントとリーフェンスにイタリア行きを勧めたが、二人ともその必要はありませんとそっけなく答えている。著名な逸話だ。  

 そのレンブラントが晩年ではあるが、イングランドへ旅し、しばらくの期間滞在していたという話は、にわかに受け入れがたい。なぜなら、この画家は「アムステルダムは世界の美術の中心」と考え、外国にまで出かける必要はないと考えていたからだ。

 レンブラントがイギリスへ行ったかという疑問は、この画家が1662年頃イングランド、ヨークシャで1年半くらいを過ごしたとの短い記述が、18世紀のある個人の日記に残っていることに端を発している。そして、レンブラントによるロンドンの描写が残っているとの主張が、1897年にある研究者から提示されたことにあった。第二次大戦前には、多くの研究者がこの推論を支持していた。しかし、作品は後から簡単にコピーできるし、レンブラントのイギリス滞在を確認するより確かな証拠が発見されないこともあって、反対者も多く、その後は問題にされなくなっていた。言い換えると、レンブラントは、生涯オランダを離れたことがなかったという認識が今日まで定着していた。   

 しかし、最近ポール・クレンショーというアメリカ人研究者が、一度は捨てられた仮説に再び挑戦している。クレンショーは、フェルメールの研究に大きな貢献をしたモンティアスと同様にアメリカ人である。少し詳しく記してみよう。クレンショーが依拠する史料は、以前の論争で否定されたものと同一である。  

 これまでの論争の根拠は、唯一、レンブラントが世を去った後に、ある人物が1713年に残したVertue’s Diaries という日記の一節に、「レンブラントRembrandt Harmensz. van Rhine はイギリスにおり、ヨークシャーのハルに16ー18ヶ月滞在し、数人の紳士、船員を描いた。そのうちの一枚をダール氏が所有していた。船長を描いたもののようであった。それにはレンブラントの名と1662あるいは1661年とも読める年記があった」という短い記述の真否に関わっている。しかし、この記述に該当する作品は、発見されていない。仮にそれらしき作品があったとしても、容易に模写はできるという主張の前には、強い説得力を持ち得ず、議論は展開せず潰えてしまった。

新しい推論 
 それでは、なぜ研究者ポール・クレンショーは、今の時点で、すでに否定され、答が出てしまったようなテーマを再び持ち出したのか。別に新たな史料や証拠が発見されたわけではない。新しいといえば、推論の仕方にある。レンブラントの個人史を振り返ると、1656年に「財産譲渡」の処分を受け、全財産の競売が始まった。その原因は作品が当時の流行に合わなくなり、売れなくなったこともあるが、主として豪華な個人住宅の債務の累積によるものであったとされている。  破産後、画家はローゼンフラフト街の小さな借家に移り、1969年63歳で世を去るまでそこで過ごした。しかし、画家の作品はこの頃を転機に、急速に人気がなくなり売れなくなった。あのアムステルダム新市庁舎を飾るはずであった『クラウディウス・キウィリスの謀議』(上掲)も不評で、数ヶ月は掲げられたが、レンブラントに返却されてしまう。  

 この時期、オランダにおけるレンブラントの制作活動が、急速に低下したかにみえる現象は、もしかすると、この画家が精神的な立ち直りを図るため、あるいは世俗的な不評の高まりなどを一時的に回避するため、しばらくアムステルダムを離れたことによるのではないかとの推論は、可能性としては十分ありうるだろう。いかに著名な画家とはいえ、あるいはそれゆえに、アムステルダムが居心地の良い環境ではなくなっていたとも思われる。実際、この時代のオランダでは、個人破産した当事者は、ほとんど人目に触れないよう町を去った。  

 画家や作品についての理解は、時に思いがけないことから進む。ラ・トゥールやフェルメールの研究の進展も、発端は小さな発見から始まっている。フェルメールについても、
モンティアスによる従来の美術史家がほとんど注目することのなかった家計資料の発掘から、知見は大きく充実した。モンティアスは、1960-70年代は、イエール大学でソ連邦の経済システムの研究者として知られていた。  

 レンブラントやフェルメールのように、すでに良く知られた画家や作品について、新たな発見があるのを知ることは素晴らしい。作品を眺めたり、文献を見ていると、時にミステリーを読んでいるような興味が生まれる。 衰える脳細胞の活性化にも、多少は効果があるようなのだが?



Paul Crenshaw. “Did Rembrandt Travel to England” in In His Milieu: Essays on Netherlandish Art in Memory of John Michael Montias, Edited by A. Golahny, M.M. Mochizuki, & L. Vergara Amsterdam: Amsterdam University Press, 2006.

 ちなみに、本書はモンティアス教授(1928~2005)の追悼記念論集として、刊行された論文集であり、フェルメールを中心に、17世紀オランダ画家に関する興味深い論文が含まれている。

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