時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

不法滞在と運転免許:アメリカの動き

2007年10月31日 | 移民政策を追って

  アメリカの大統領選挙も次第に熱を帯びてきた。移民政策については、各候補はこれで失点しないようかなり配慮しているようで、今のところ積極的な発言は少ない。しかし、連邦レヴェルの政策が凍結状態にある中で、州、市町村などの地域レヴェルでは現実を前に、政治家が方向性を明らかにしなければならない状況が生まれている。

  この変化の実態については、このブログでも定点観測のひとつとして注目してきた。最近のニューヨーク州などで増加する不法滞在者をめぐり興味深い動きが展開しつつあるようだ。メディアが伝えるところを参考にその動きを見てみたい*

  ニューヨーク州知事のエリオット・スピッツア氏は、昨年来移民についての独自の考えをかなり明瞭に提示してきた。その背景には、今年12月までに、同州の不法滞在者が50万人から100万人近くまで増加すると推定されていることにある。彼らはこれまで自動車の運転免許を取得する道を閉ざされていた。自動車社会のアメリカではこれは生活上も多大な不便を生む。しかし、不法滞在者は、アメリカ入国に必要な書類を保持していないこともあって、合法的に身分を証明するものがない。結果として、免許証なしに運転する者が増加している。

  今日ではこうした状況で、多くの州民は不法滞在者になんらかの合法性を与えるような考えを嫌うようになっている。しかし、スピッツアー知事は、いわば隠れて住んでいる外国人の存在に光を与える時が来ていると考えているようだ。

  その理由として、知事は免許を持っていない運転者は正規の免許証を持つ運転者より5倍も致命的な事故を起こしやすいことを挙げている。ニューヨークの道路は自動車保険に加入し、交通ルールを知っている運転者が増えるほど安全になるはずだという。

  現在は運転免許の更新を受けるには、社会保障番号Social Security Numberが必要とされている。スピッアー知事の考えでは、不法滞在者でも正規の外国人パスポートを保持していれば運転免許交付に問題はないとする。しかし、実際の運転免許の発行過程は厳しい。貼付写真は州のデータベースと照合される。そして、パスポートは、免許証が発行されるに際して真正のものか確認を受ける。

  社会保障番号を持っていなくても運転免許が交付される州もある。ユタ州もそのひとつであったが、2005年には政策を変えて、社会保障番号がない場合は、「運転権カード」"Driving privilege cards"なるものが交付されるが、運転目的以外の証明書としては使用できないことになった。

  他の州では運転免許証は、航空機に搭乗したり、銀行口座を開設するに際して求められる。ニューヨークに住む不法滞在者が現状では航空機にも搭乗している実情は、同州の共和党の多数派の考えとは合わない。彼らはなんとかスピッツアー知事の施策を阻止しようとしてきた。たとえば、州議会の多数派リーダーであるジョセフ・ブルーノは州知事と今夏以降対立しており、知事のこの政策は違憲であり、とりわけ自動車運転免許取得には社会保障番号が必要とする連邦法に違反すると批判している。新政策の実施を差し止める訴訟も起こされている。

  ジュリアーニ前ニューヨーク市長は、このプランは誤りだとしている。9.11調査委員会の委員の一人であったジョン・レーマンは、知事のプランはニューヨークにさらにテロリストを引き寄せる磁石になると批判している。世論調査では、ニューヨーカーのおよそ70%が知事の案は良くないと回答している。

  とはいっても誰もが知事のプランに反対しているわけではない。ニューヨーク州のこの施策を他州も採用すべきだと、積極的に支持する有力者もいる。彼らは、政府が自動車を運転しているのは誰であるかを知っており、その写真と住所を保持することは至極当然であるとしている。

  こうして、移民、とりわけ不法滞在者をめぐる地域の対応が、州レベルまで拡大してきており、大統領候補者も次第に自らの考えを明らかにしなければならなくなるだろう。投票の行方を左右するダイナマイトにもなりかねない。ブッシュ大統領の「包括的移民法改革」が流れた後、一見問題が沈静化しているかに見える移民問題だが、しばらく目を離せない。

  

* 
CBS News 
"Let them drive." The Economist, October 27th 2007
.

** たまたま最初に運転免許を取得したのが、はるか昔60年代末のニューヨーク州であったこともあり、興味を持ってCBSニュースを見た。実技試験は試験官が横に座って、町をひとまわりし、縦列駐車と坂道発進くらいがポイントだった。後はカウンターに座った試験官が見せる20問くらいの簡単な質問に正否の選択をするだけだった。目の前でどちらに○をつけるかを見ている試験官の顔つきを見ながら、16問くらい正答すればOKだったことを記憶している。社会保障番号を聞かれた記憶はない。写真は当時のドライバーズ・マニュアル。

  

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「三文オペラ」の世界

2007年10月26日 | 雑記帳の欄外
  たまたまこのブログでブレヒトから波及して話題としたのだが、タイミングよく新訳に基づき上演された「三文オペラ」を観る。冒頭で「三文オペラ」とは、いわば現代に移せば「7500円オペラ」(A席料金)だという掲示が出て笑わせる。

  演出は白井晃氏で手馴れた感じ。酒寄進一氏の新訳による。すでに岩波の岩淵達治訳を読んでいたので、酒寄訳は読んでいなかったが、シアターでは販売されていた。ふれこみでは、ブレヒトそしてクルト・ヴァイルの意図した音楽劇を目指すということで、どんなものに仕上がっているか期待していたが、全体の印象はかなりミュージカルに近い。ブレヒトが意図した音楽劇なるものは、当時の環境ではもっとゆっくりとした進行ではなかったかと思うが、どんな形で上演されたものか、見たことがないので分からない。以前見た文芸座公演もはっきりは覚えていないが、テンポはこれほどではなかったかと思う。今回の演出では、とにかくめまぐるしいほど進行が早い。現代という時代環境に合せているのだろう。

  電光掲示板など映像技術が巧みに駆使され、ストーリーを知らない観客にも分かりやすい配慮がなされていた。舞台もシンプルながら4階まで使った重層的な組み立てで楽しめた。

  原作当時(初演1928年)のベルリン「黄金の20年代」の雰囲気とは当然遠い今日ではある。ブレヒトの原作自体がイギリスを念頭に置いているとはいえ、時代確定はできない設定になっているので、もともと時代を超える汎用性が仕組まれていた作品なのだろう。

  舞台設定を日本を含めたアジア的な都市をイメージするとの演出者の意図は必ずしも伝わってこなかったが、現代日本の問題を風刺するような台詞もあった。 原作での戴冠式の恩赦は、総督の就任パレードになっていて、もうひとつ迫力を欠いた。アジアのある都市という雰囲気も薄く、やや無国籍的な設定になってしまったのは惜しい感じだった。皇太子ご成婚くらいで現代日本にすっかり移し替えた方が一貫性があって良かったような気がする。

  とはいっても、エンターメント性はかなりあったといえよう。客席と俳優が近い感じで、「ブラボー」の声も聞かれた。途中の幕間も短く、進行のテンポが速いので、観客はストーリー展開に没頭できる。細かな点で色々と工夫がなされていたが、なんといっても大団円にいたる最後の場面の組み立てだろう。それまでやや盛り上がりの欠けた展開が引き締まった感じであった。回を重ねるごとに、役者の演技もこなれて熟成してゆくだろう。予想以上に軽い印象ではあったが、久しぶりに時間を忘れ楽しめた空間であった。
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天国の門は狭い:厳しくなるアメリカ移民政策

2007年10月22日 | 移民政策を追って

  ブッシュ大統領が大きな期待をかけていた「包括的」移民法改正が流れてしまった現在、次の大統領が選ばれ、新たな法案検討に向けて再起動するまでには長い空白状況が生まれてしまった。しかし、現実は待ってくれない。不法移民などの一層の増加が予想される。

  そのため連邦政府は8月には、不法移民と知っての上で雇った雇用主への罰金を、現行よりも25%引き上げることなどを柱とした26項目を含む移民規制強化策を発表した。現行法の許す範囲でなんとか国境警備を強化して、新しい大統領の下での移民法改革まで持ちこたえようとのねらいと思われる。他方、すでにさまざまな問題を抱えた地域は、独自の施策を含めてなんとか対処することを迫られている。

    国内労働者を確保できなくなっている食肉加工業などでは、不法滞在者である労働者を雇用している企業が多いが、ノースカロライナ州などでは大企業スミスフィールド社などを対象としての強制臨検が行われ、多数の不法就労者が強制送還の対象になっている。

    さらに、アメリカ・メキシコ国境での入国管理が厳しく行われるようになり、メキシコから帰国するアメリカ人についても写真添付の身分証明の提示などが行われている。そのため、一部には国境通過に3時間待ちなどの事態も生まれていると報じられている。この国境は昨年の統計では、2億3千4百万人という出入が記録されたといわれるすさまじい人の流れであり、国境管理の難しさもうかがわれる。

  こうした中で地域のひとつの動きとして、注目されているひとつは、イエール大学のあるコネティカット州ニューヘヴンの対応である。多くの地域が現行法制を厳しく適用し、不法移民を排除しようとしていることに比較して、一見するとかなり寛容に見える対応をとっている。  

  ニューヘヴンには、1万から1万2千人の不法滞在者がいるといわれる。その中にはアメリカ入国に必要な書類を提示できないいわゆる「不法移民」の学生なども含まれている。市当局は彼らが未納の連邦税への対応の仕方、警官が移民資格を尋ねないよう指示するなどの措置を導入してきた。さらに、新たな措置として同市独自のIDカードを発行することを決めた。その結果、12万5千人の市民は合法、不法、成人、子供の別を問わず、個人名義のIDカードを所持することになる。  

  このカードは連邦や州が提供するサービスには対応していないが、同市のビーチや図書館などの公共設備を使うことができる。さらに、町の多くのレストラン、商店、駐車場などの支払いにも使えるようになっている。  これまで不法滞在者にとってひとつの壁であった預金口座についても、ファースト・シティとソヴェリンという2つの銀行は、このカードを受け入れ、銀行口座開設を認める方向に踏み切った。これまで、同市の不法滞在者(入国に必要な書類を保持していない者)は、所持金をいつも見につけるか、家のどこかへ隠しておくしかなかった。そのため、窃盗などの対象になりがちだった。  

  カードの発行については成人10ドル、子供は5ドルを要する。カード導入に伴うプログラム費用など不足分は、ファースト・シティ銀行からの25万ドルの拠出でまかなわれる。これらの銀行にはヒスパニック系などの顧客を積極的に取り込もうという思惑もあるようだ。大統領選の候補者は政治的リスクがあるので、移民法改正のあり方などについて旗幟鮮明にできないところがあるが、銀行などビジネスは、商圏になると考えればなんでも取り込んでしまうようだ。  

  6月の同市の市議会 は25対1でこの新措置導入を決めた。しかし、その2日後には連邦の移民・税関局が不法滞在者の摘発を行い、32人を拘束した。この中で5人しか正当な理由・根拠が提示できなかった。市長は同市のカード発行に対する報復ではないかとの疑念を示したが、国土安全保障省は否定し、これ以上の摘発は中止された。あまりにタイミングが合いすぎた感じで、市長の疑うだけのことはありそうだ。  

  市側は、カード発行にかかわる個人情報は機密を保持するとしている。犯罪行為などに関わらないかぎり、連邦政府に開示されることはないだろう。カードの個人情報の内容は連邦収入庁や健康、厚生サービスのものとほとんど変わりないと推定されている。 ニューヨーク、マイアミ、サンフランシスコなどでもニューヘヴンと似た対応を検討中だが、他の地域はむしろ現行法制を厳しく執行する方向にある。たとえば、ペンシルヴァニアの小さな町ヘイゼルタウンは不法移民に家などを貸すことに罰金刑で対応し始めた。他にも同様な対応をしているところはかなりある。  

  どこにも反移民の住民はいて、ニューヘヴンでもカード発行は連邦法違反であると主張している。彼らはさもないとニューヘヴンが不法移民であふれると懸念する。しかし、実際にはカードを取得することも、それほど容易ではないようだ。住民はパスポート、運転免許証、領事館発行文書など、有効な写真添付の証明を提示しなければならない。さらに、市に居住していることを示す電気、ガスなど二つの公共料金領収書、俸給明細、租税支払い証明などを準備しなければならない。申請者の25-50%はこうした書類を提示できず、カード発給を拒否されたとのこと。「新たな安息の地」(New Haven)もその門は狭く厳しいようだ。

 

Sources:
CBS TV
”A Haven indeed” The Economist. August 4th 2007.

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バタヴィアへ行った画家の娘

2007年10月14日 | レンブラントの部屋




Lynn Cullen. I am Rembrand's Daughter. Bloomsbury USA 2007, 307pp.
Cover



旅の道連れとして、
何冊かの本を鞄に放り込んで行く。ほとんどは肩のこらないエッセイや小説のたぐいである。今回はしばらく積読のままで気になっていた『私はレンブラントの娘』という小説を入れておいた。表題から明らかなように、レンブラントが出てくる小説である。というより、レンブラントの娘の目から見た17世紀アムステルダムに生きる画家の晩年の日々といったほうがより正確かもしれない。

レンブラントを主題とした小説はいくつかあるが、このブログでも、画家の最晩年に近い1667年末、トスカーナ大公コジモ3世が、ローゼンフラフトのレンブラント宅を訪問したところから始まるサラ・エミリー・ミアーノの小説『ファン・リャン(レイン)』(2006)を紹介したことがあった。あのシント・アントニディクの豪邸を競売処分し、労働者街の小さな家へ移った後のことであった。このリン・カレンの小説も、この時期を描いたものである。 

レンブラントの生涯は文字通り波乱万丈であった。その生き様は下手な小説?より格段に興味深い。ラ・トゥールやレンブラントなどの17世紀の画家に強く惹かれるのはいくつか理由があるが、そのひとつは、作品の素晴らしさは別にして、それぞれの画家の生き方にある。レンブラントは人生後半になって舞台が大きく暗転し、多額な借財を抱えて厳しい零落の道を歩んだが、それがある感動を呼ぶのは、いかなる境遇にあっても最後まで画家としての自分の信念をしっかりと貫いたことだ。

もうひとつ挙げておくべきは、彼らが過ごした人生のかなりの部分が、今日では謎に包まれていることにあり、それ自体が後世の人々にとってさまざまな推測をさせてくれる楽しみがある。レンブラントの場合、1669年の死後、作品の多くは人手に渡り、世界各地に散逸しながらも継承されて今日にいたった。しかし、この天才画家が、いかなる生涯を過ごしたかについては十分知られることなく、350年近い時が流れた。

レンブラントについては、同時代の他の画家と比較すると今日では格段に解明が進でいるといってよい。しかし、それでも多くのことが謎に包まれており、小説家が興味を惹かれるのも理解できる。「事実は小説よりも奇なり」なのだ。レンブラントの作品を見るようになってからいつしか、この天才画家が過ごした人生についても、次第に関心を抱くようになった。

レンブラントの晩年は強い哀感が漂うものがある。子どもたちのほとんどは生後間もなく亡くなってしまい、レンブラントの最晩年近くまで生きていたのは息子のティトゥスと(画家とヘンドリッキエ・ストフッエルスとの間に生まれたと思われる)娘のコーネリアであった。最初の妻サスキアとの間にはティトゥスの他にも3人の子が生まれたが、いずれも乳児の間に死んでしまった。画家はとりわけティトゥスを可愛がり、たびたびモデルとして描いている。文字通り溺愛であったのかもしれない。幼少のころの肖像などは本当に可愛く描かれている。ティトゥスはサスキアの忘れ形見であり、激動した画家の人生を支える柱のような存在だった。

しかし、不思議なことに娘であるコーネリア(1654ー?)についてはまったくとりあげていない。少なくも彼女がモデルと思われる作品は確認されていない。この点は、以前からどうしてだろうと思っていた。一時、トロントの美術館が所蔵する『犬を膝に置いた若い女性』Portrait of Young Woman with a Lapdog, ca.1662 ではないかと勝手に想像したこともあったが、年格好などからもどうもそうでもないらしい。

レンブラントはティトゥス(1641-1668)を可愛がり、晩年は財産名義を息子に変え、債権者の追求を逃れるとともに、生活も支えてもらってもいた。ティトゥスの存在はレンブラントにとって想像以上に大きなものであったようだ。しかし、この息子も1668年2月にマグダレーナ・ファン・ローと結婚して、画家と住居を別とした。そればかりか、そのわずか数ヶ月後の同年9月に急な病で亡くなってしまった。これらの出来事は画家にとっては決定的な打撃となったようだ。翌年ティトゥスと若い妻マグダレーナの間にできた娘ティティアが生まれたが、レンブラントはどんな思いで見ていたのだろうか。人生は苛酷な試練を画家に与えた。レンブラントは生きる目標を失ったかのように、翌年1669年に世を去った。マグダレーナも若い人生をこの年に終えた。

小説ではまもなく14歳になるコーネリアCornelia van Rijn が過ごす多難な日々を描く。愛する母親を数年前に失い、ただ一人わずかに明るさをもたらしてくれていた異母兄弟の兄ティトウスも結婚してしまう。家に残るのは、気むずかしい、自分本位の父親レンブラントだけ。ティトウスと自分へのレンブラントの対応はどういうわけか明らかに違っている。そして、レンブラントはティトウスが結婚して家を出て行ってから、すっかり気落ちしてしまったようだ。

このリン・カレンの手になる小説は、微妙な心理描写が大変優れている。小説家としての推理の過程が大変興味深い。普通は小説家は作品を生み出すについての発想の源や、推理の過程などは職業機密?でもあり、あまり記さないものだが、本書では「あとがき」でわざわざ短いノートとして記している(フェルメールをとりあげたトレーシー・シュヴァリエなども、同様なノートをつけている)。それによると、発想の源となったのは、レンブラントの2枚の作品『ダビデ王の手紙を読むパテシバ』)(1654年)と『ニコラエス・ブライニンフの肖像』(1652年)であるという。『バテシバ』はよく知られており、ルーブルで何度も見たのですぐにイメージが浮かんだが、後者については、ちょっと思い出すのに時間がかかった。

画集を見て、なるほどこれだったかと確認した。今日残るレンブラントの肖像画の中では珍しいほどくったくのない笑顔の美青年として描かれている。レンブラント、娘コーネリア、母親、青年などこれらの人物がいかなる関係にあったか、巧みなプロットの展開だ。



 






Rembrandt. Portrait of Nicolas Bruyningh(1620/30-1680). 1652. 
Oil on canvas. 107.5x91.5
Staatliche Kunstsammlungen
カレンが記しているように小説ではあるが、レンブラントの晩年を史料研究が明らかにしたかぎりで、忠実にフォローしている。この小説のために8年をかけたとのこと。美術史家は通常作品、資料が明らかにした範囲を出ようとしない。それでもしばしば諸説が生まれるのだが。ラ・トゥールがイタリアに行ったとの記録が残っていないかぎり、行かなかったことになっている。しかし、実際には行っているのに記録がないだけなのかもしれない。ここに想像の持つ面白さがある。


レンブラントやラ・トゥールあるいはフェルメールを主題とした小説はそれぞれ数冊づつあるのだが、いずれもこうしたいわば「虚実皮膜の間」を描いたものといってもよい。

小説の展開は読者のために触れないでおくとして、主人公でもあるコーネリアは、画家レンブラントが世を去った翌年1670年、16歳に満たない若年で結婚し、画家である夫コーネリス・スイゾフとともに、世界史に著名な東インド会社の東洋の拠点、オランダ領時代のバタヴィア(現在のインドネシアの首都、ジャカルタ)へ赴く。夫はそこで監獄の看守をしながら画業についていたと思われる。しかし、1678年二人目の息子の出産後、彼女と家族の記録は消えてしまっている。コーネリアの願いは、レンブラントのように自分も絵を描くことにあったようだ。その思いは果たされたのだろうか。

 
Rembrandt. Bathsheba, 1654, oil on canvas, 142x142, Musee du Louvre, Paris.



 

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人の温かみを感じる里

2007年10月08日 | 雑記帳の欄外

「紙の里」工房室内    Photo Y.Kuwahara 

  このところ小さな旅が続く。中秋のある日、とある縁で越前市(武生)に出かける。折しも「こしの都1500年大祭」と銘打った大きなイヴェントが開催されていた。今から1500年ほど前、男大迹皇子(後の継体天皇)が、この地におられたとのこと。継体大王潜竜(しばらく帝位に上らず、避けている人の意)の地と称されている。

  さらに、この地は百済の頃から朝鮮半島との交流も大変盛んであったようだ。かの国から移され、受け継がれたさまざまな文化遺産が蓄積されている。残念ながら、その事実はこれまであまり地域の外では知られていない。というのも、こうした継承遺産の多くは、山里深く埋もれてきたからだ。

  そのひとつを訪れる。JR武生の駅から車で30分くらい、2005 年の市町村合併で越前市になった今立町に、越前和紙の製法を今に伝える「和紙の里」と名付けられた一角がある。ここには、1500年くらい前のころ、村人に紙漉きの技術を教えた女神、川上御前を紙祖神として祀る全国唯一の神社岡太神社、大瀧神社がある。神社自体が深く美しい山里の中に抱かれている。

  この大瀧神社で伝統文化交流祭と題して、漆黒の闇があたりを支配する中で、ひとつのイヴェントがあった。都会と違い、この地までくると、夜は闇なのだという実感がする。

 説明によると、大瀧神社は推古天皇の頃にはじまり、養老3年(719)越の大徳として知られた泰澄大師が大滝寺を建立し、国常立尊と伊弉諾尊の2座を祭神とし、十一面観音をその本地仏とする神仏習合の歴史を持っている。現在の社殿は天保14年に建てられたものだが、昭和59年(1984)重要文化財に指定されていいる。

  この社殿を舞台として、主として日韓の舞踊、聖楽、雅楽、越前万歳、韓国芸能などが演じられた。素晴らしかったのは、その背景である美しい木々と社殿をいわばスクリーンとして「デジタル掛け軸」なる絶妙な現代の映像技術(デジタル・アート)*が披露されたことであった。幸い晴天に恵まれ、観客はこの幻想的で、しかもきわめて未来的でもある演出に魅了され尽くした。この素晴らしさは、実際に体験していただく以外にはないだろう。

  さらに感動を付け加えてくれたのは、この里の人々の心の温かさであった。昼間の交流でも、地域に生きている人たちの連帯や人間らしさに触れた。イヴェントの観客や運営に当たる人々は、ほとんどが地域の人たちであった。それぞれの役割を通して、自分が日々暮らす場所を愛する熱い思いが伝わってくる。

  夜も更けて、街灯も少なく、足下が見えないほどの山道の参道には、地元の小学生などがひとつひとつ絵を描いて作り、蝋燭を灯した灯篭が置かれていた。それでも都会の光で弱くなった目にはほとんど闇の中を、おぼつかない足で行事のために迂回路に設置されたバス停まで戻ろうとしたところ、道を教えてくれた町の職員の人が、わざわざ数百メートルを先導して、尋ねた場所まで案内してくれ、最終バスの時間まで調べてくれた。そして、この人はまた急ぎ足で先ほどの神社へと闇の彼方へ戻っていった。

 

* D-K DEGITAL-KAKEJIKU (長谷川 章氏作品)

 

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また忘れられた画家

2007年10月05日 | 絵のある部屋

Nicolas Poussin. The Shepherds of Arcadia. 1638. Oil on canvas. Louvre, Paris, France. 



    ある日深夜のBSハイビジョン、『あなたの知らないルーブル美術館』
という番組を放映していた。たまたま目にしたにすぎないのだが、表題ほどのことはなく、どこか別の番組で見たようなルーブルの表通りのイメージ紹介が多い。『あなたの知っているルーブル』といいたいような映像の連続。この頃、NHKは制作番組のPRと、同じテーマの繰り返し放映がかなり目につく。

  それでも、このブログにも登場する画家との関連で、記憶の再生に役立つ映像もなかったわけではない。番組の中、17世紀の紹介で、ルーベンスの連作「マリー・ド・メデシスの生涯」、レンブラント「バテシバ」、フェルメール「レースを編む女」が紹介された。

  ところがその後、「17世紀絵画展示室」まできたところ、「ここは観客が少ないのでゆっくり見られます」との解説。多分、他の展示室の作品より時間をとって放映してくれるのかと思ったところ、期待は見事裏切られてしまった。

 そこで紹介されたのは、クロード・ロラン「クレオパトラのタルサス上陸」、プッサン「アルカディアの牧人」、そしてル・ナン兄弟「農民の家族」だけであった。それにしても、プッサンの作品は主題を理解するのに、見る側の蓄積が要求されますね。

 今年オランジェリーは、「オランジェリー1934年:現実の画家たち」の特別展まで開催したのに、ラ・トゥールは素通り。1934年の特別展で「発見された」画家の代表は、ラ・トゥールとル・ナンだったはずなのだが。日本ではやはり知名度が低いことを再認識。なんとなく彼我のバイアスを感じてしまった。


*BS『あなたの知らないルーブル美術館」』(2007年10月2日)

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春に備えて?

2007年10月02日 | 雑記帳の欄外

「フローラ」の偉大な力 

  レンブラントの「フローラ」(花と春の女神)で思い出したわけでもないが、このところ毎年の行事になっている小さな作業をする。猫の額ほどの庭に、チューリップの球根を植えるだけのことである。もとはといえば、かつてイギリスで家を借りて住んだ時に、隣家の退役軍人夫妻からガーデニング技術?のひとつとして教えてもらったことから始まった。ガーデニング好きな夫妻の植物についての知識は深く、季節の折々に色々と教えてもらった。ケンブリッジ郊外の小さな村落であったが、家ごとにそれぞれの季節にふさわしい花が咲くよう、工夫を凝らしていた。 

  
教えられて、郊外の巨大スーパー・マーケットTESCOが経営する園芸用のDIY店へ出向いた。日本の狭い敷地に詰め込んだスーパーを見慣れていたので、TESCOの体育館のような巨大さには驚かされた。園芸用品も耕運機、散水機から花壇用の煉瓦、置物、草花の苗、種、球根など、ガーデニングに必要なほとんどすべてのものを扱っていた。 チューリップは、栽培が楽だからお勧めとの隣人のアドヴァイスで、1箱に50個くらい球根が入ったものを2箱購入した。球根も驚くほどの種類があり、ラベルを見ながら好みの色や花の形状を選ぶ。さすがにオランダ産のものが圧倒的に多い。品種改良が進み、花の色や形状も数多く選択に困るほどだった。チューリップ・バブルのことを思い出す。この花は全般に赤とか黄色などの鮮やかな色が人気があるようだ。 

  イギリスの土地は地味があまり良くなく、土も固く掘るのに苦労した。20センチくらいの深さの溝に掘り下げ、適当な間隔で球根を埋め込んで行く。後は水をまいておくだけのことだった。それでも自然の摂理は素晴らしく4月になると一斉に芽を出し、急速に成長して美しく花開いた。 

  チューリップといえば、やはりオランダである。ある年、オランダに招いてくれた友人のJSさんが、休日にクーケンホフKeukenhof公園へドライブに誘ってくれた。ロッテルダムからの風車や運河を眺めながらの快適なドライブだった。この公園は世界一美しい公園とPRしているが、確かに3月末から5月にかけてのチューリップの開花期は素晴らしい。日本のお花見のオランダ版となる。  

  この自然の摂理は、遠く離れた日本でも変わることなく働いていることを知った。イギリスやオランダのような品種選択の余地は少なかったが、前年の秋に埋め込んだ球根は、春になると不思議に思えるほど同じ時期に芽を出し開花して、目を楽しませてくれた。チューリップは開花するとあまり寿命は長くはないが、鮮やかな色でシンボリックに春の到来を告げる。日本の桜はもちろん美しいが、それとは別にこうした草花が芽を出し、春を告げる自然の仕組みの絶妙さに魅せられて、毎年楽しみな仕事となった。小さな球根が、冬の厳しさにじっと耐えて待ちかねていたように開花する生命力の強さに驚かされる。フローラの力はやはり素晴らしい。

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