時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

日本に住む息苦しさ

2010年03月28日 | 移民政策を追って

 日本の不法滞在者が昨年10万人を切ったとの法務省の発表をメディアが伝えている。一時は30万人を越えていた。この減少は指紋登録など出入国管理の厳格化と不況の浸透がもたらした結果とされている。不法な滞在者が減少すること、それ自体は歓迎すべきことだ。しかし、手放しで喜ぶにはためらう事情もある。 

 長く厳しい不況が続き、日本人でも雇用の機会を見出すことが困難な状況では、外国人労働者にとって仕事を得ることは至難なことだ。世界中、いかに平等を標榜する国といえども、不況が到来すると最初に打撃を受けるのは外国人労働者であることは、これまでの移民労働者研究が等しく明らかにしてきた事実のひとつだ。深刻な不況の下では、合法滞在者でも仕事を確保することは難しくなり、不法滞在者ともなれば、さらに困難となる。その結果、犯罪などの行為に走りやすいことも知られている。不況が長引くほど仕事に就く機会は減少し、合法、不法の別を問わず、帰国を選択する状況に追い込まれている。 

 日本で合法的に就労することが認められている日系ブラジル人などでも、仕事についての状況は厳しい。不況が深刻化すると、国内労働者でも就業機会が失われ、仕事の取り合いとなる。条件の悪い外国人労働者から職を失う。外国人労働者を減らすに最も有効な対策は不況だというのは酷な表現だが、ある意味で真実だ。

 これに関連して少し次元は異なるが、気がかりなこともある。日本が外国からみて閉鎖的で、魅力のない国になりつつあることだ。かつてこの国に満ちていた外向きの活気や活力が失われている。図らずも空港で出立する人々に万歳が三唱されていた時代を思い出した。「外遊」という言葉が象徴したように外国は大きな魅力で輝いていた。海外旅行も誰でも行けるようになり、かつてのような強い魅力の対象ではなくなっている。「留学」の実態も形骸化が進み、希望者の数も減少している。 

 他方、一時は希望者殺到と報じられていたフィリピン、インドネシアなどからの看護師、介護士共に来日希望者が激減している。予定する受け入れ数に充たない。先頃行われた看護師資格の試験でも、外国人はわずかに3人しか合格できなかった。これまでに計り知れない労苦とエネルギーが浪費されている。こうした事態を生むにいたった問題点の多くは、制度導入以前から指摘されていたことだ。この制度に限ったことではないが、ここでも、日本の政策立案がいかにその場かぎり、狭窄した視野の下で行われているかを示している。 

 高度なマンパワーを必要とする日本の企業、大学、研究所なども吸引力を持っていない。世界の先進諸国の中では、日本は外国人にとってインセンティブを呼び起す存在ではなく、見えない壁もあって住みにくい、障壁が高い国であるとの評判は依然根強い。中国や韓国の友人たちの話を聞いても、息子や娘はできれば欧米の大学や大学院に留学させたい。日本には悪いけれど、その次の選択だという話はこれまで幾度となく聞かされた。

 期待する熟練度の高い技術者や専門家の定着はあまり進まない反面で、不法滞在者への厳しい対応だけが目立ち、閉鎖性の印象を強めるばかりだ。不法滞在者は少ないことが望ましいことはいうまでもない。しかし、それが法制上の強権など一定以上の強制力によって実現されるものであれば、別の問題が生まれる。たとえば、アメリカでは1200万人近い不法滞在者が存在する。それはアメリカにとって現下の大きな問題であることはいうまでもない。アメリカの人口は日本の倍近いとはいえ、日米の違いはあまりに大きい。出入国政策の立案・施行には時代の方向を見据えたバランス感覚が欠かせない。

 とりわけ、アジア諸国の視野で見ると、日本は外国人も受け入れて活力を取り戻し、共生社会を目指すというよりは、できるかぎり同質性を維持したいという内向性が目立つ。グローバルな不況で、世界的に閉鎖的傾向が進んでいることは事実だが、先進国間でも日本の閉鎖性は際立っている。この国に住むことの息苦しさを感じている。

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闇を王国にした画家

2010年03月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Il fit de la nuit son royaume (Pacal Quignard) 


 今さらこの世界の明日を見たいとは思わない。そればかりか、もうかなり見てしまったような感じすらしている。他方で、少し遠く過ぎ去った時代を見てみたいという思いだけはかなり以前から次第に強まっていた。見てみたいのは、さほど近い過去ではない。人間の声やざわめきがすぐには聞こえてこない、それでいてあまりひどく遠くない時代だ。曰く言い難いが、遠からず近からぬ距離を置いて、冷静に時代を考えることができるという意味である。

 そうした思いは、いつの間にか17世紀の空間に収まっていった。近世初期 early modern ともいわれる時代にあたる。ルネッサンスと啓蒙時代の間にあって、さまざまに揺れ動き、先の見えない時代でもあった。その時代に生きた人々、とりわけあるきっかけから引きつけられた画家たちの群像をあてどもなく求め、想像するという、趣味とも
楽しみともいえないことを続けてきた。この世を過ごすために続けてきた本業といわれる仕事とも関係のない、他人からみればほとんど理解不能なことだ。

 人工の光が夜もくまなく照らし、地球上どこへ行こうとも真の闇の世界などほとんど想像もしえない現代だが、精神世界の闇は深まるばかりだ。17世紀はいまだ闇が世界の多くを支配していた時代であった。画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはそこに生きた。「彼は闇を自らの王国とした。そこは内面の光だけが射し込む:乏しい光に映される人間だけがいる、慎ましく閉ざされた空間だ。夜、一筋の光、静寂、閉ざされた部屋、映される人間の身体が、神の存在を想わせる」(Pascal Quignard, 12)。


 深い闇が支配した時代、画家にとって画材も決して恵まれなかった時代。この画家の使った色彩は思いの外に鮮やかだ。「ラ・トゥールのオレンジと赤は時を超えて燃える。ル・ナン兄弟ならば単なるルポルタージュにとどまる光景がラ・トゥールでは、永遠のものとなる」(Pascal Quinard, 12)。

 そして闇が忘れ去られるとともに、画家の存在も忘れられていった。 同じ17世紀でも、光の世界に生きて、光の世界を描いていた画家もいた。

* Pascal Quignard. George de La Tour. Paris: Galilée, 2005. 

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明日が見える日

2010年03月16日 | 午後のティールーム

 早足で歩くと汗ばむくらいの陽気、大きな古木に梅の花も混じる静かな参道が続く。墓参の帰り道、ある幼稚園の前を通る。午後四時ころだろうか。壁の向こうから子供同士の楽しそうな声が聞こえてきた。迎えに来ている母親たちの声も混じる。

「どうしてこんなに早く帰らなきゃいけないの。まだ遊んでいたい・・・。
」  

  ~寸時の沈黙~

「でも帰らないと叱られちゃう・・・・・。」

「じゃあ、あしたまた遊ぼうね。」、「じゃあね!・・・・。」  

 これまではなにも気にならなかったやりとり。一瞬、なにかが頭をよぎった。「明日が見える日」は幸せだ。

 


 高校生の子供を持つ保護者にとって、進路選択のアドヴァイスを「難しい」と感じる親の比率は、2009年には73.1%になった。2005年は66.2%だった。「難しい」の理由のトップは「社会がどうなるか予測がつかない」(62.3%)。他方、高校生側の「やめてほしいこと」のトップは「高望みしない(子供に過度に期待する)」(33.3%)だった。全国高等学校PTA連合会・リクルート調査(『日本経済新聞』夕刊、2010年3月15日)

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画家を生んだパン屋の仕事場

2010年03月14日 | ロレーヌ探訪

18世紀フランスのパン屋、仕事場光景:Une boulangerie au XVIIIe siècle

  前回に続きパン屋の話題を。17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、ヴィック=シュル=セイユの町で、パン屋の息子として生まれた。彼が家業を継ぐことなく、なぜ画家への道を選んだかについては、謎のままに残されてきた。その後の史料調査で判明したかぎりでは、両親を含めて彼の家系には画家や彫刻家などの芸術家は見出されていない。その並外れた画才がいかなる環境で芽生え、育てられたかについては、ほとんど不明なままである。遺伝的関連?という点からみても、母親シビル・メリアンの家系に、貴族がいたかもしれないといった程度の情報しかない。しかし、貴族が画業の才を保証するものではないことは、貴族にはなったが画家としては、父親ジョルジュのようにはとてもなれなかった息子エティエンヌの例をみても明らかだ。

 ジョルジュが家業である父親ジャンのパン屋を選ばず、画業を選択する背景を探索する過程で、当時のパン屋の仕事の実態、社会的位置などについて関心を抱くようになった。その一端は、このブログにも記している。

 17世紀のパン屋の実態を推定することは、画家の制作実態を推定する以上に難しい。しかし、18世紀末頃からその様子は断片的ではあるが、かなり推測ができるようになってきた。たとえば、パリ市内のパン屋などについては、かなりの程度輪郭が描けるような史料が発掘されてきた。

 20世紀になっても、パリなどの大都市でもパン屋の仕事は17世紀と基本的にはあまり変わっていなかった。小ぎれいなパン屋の店頭の裏側には、過酷で厳しい仕事の世界が展開していた。あのジョルジュ・サンドも「暗い牢獄」と表現するしか適切な言葉がなかったようだ。18世紀末パリ市内のパン屋の光景をざっとイメージしてみよう

 徒弟制度が柱になっていたパン屋では、多くの仕事を親方の指示、監督の下で、徒弟や職人が担っていた。イメージと異なり、パン屋の仕事のほとんどは夜間の作業だ。それも暗い蝋燭の灯火の下の厳しい仕事だった。蝋燭はかなり高価でもあり、親方や親方の女房はしばしば蝋燭を最小限に節約していた。

 残る記録のいくつかによると、たとえば、18世紀半ば、パリ市内のあるパン屋に雇われていた職人は、夜も遅い11時30分に仕事を始めていた。別の親方のところでは真夜中、それも翌日になって仕事が始まっていた。またあるパン屋で働いていた遍歴職人の場合、夜の8時から翌朝7時まで休みなしに働いていた。疲れきった職人たちは、自室の寝床へ戻る元気もなく、しばしば仕事場で寝ていた。朝の7時に仕事を終えた職人は時に窯の上で眠った。

 パン職人の仕事は、窯に火をつけるため薪を組み上げ、くべることから始まる。それと合わせて、必要な水の桶などを運び入れ、150キロ近い粉の袋を運搬する。そして一度に100キロ以上の粉に水、塩などを加えながらこね桶の中でこねあげる。暗く、粉が飛び散り、湿っぽい空気の漂う部屋で、親方に叱られながら、粘着力のあるパン生地を扱う大変な力仕事だった。ふつうは手でこねたようだが、時には足で踏んでもいたらしい。そのつらさにパン屋の小僧がうめき声をあげながらこねることから、パン職人は時に、le geindre(うめく人) とまでいわれた。

 本来休息の時である夜が、パン職人にとっては、強制労働のような過酷な仕事の時間だった。18世紀初め、「休息の時である夜がわれわれには拷問の時」と嘆いた職人がいたが、遍歴職人にとっては「夜の奴隷制」とも言われるきつい労働だった。精神的、肉体的にも苛酷な仕事で、その圧迫と束縛感は19世紀までほとんど変わることなく続いた。

 仕事場の空気は粉塵と湿気でいつも重く淀んでいた。徒弟や職人たちは粗末な衣服、しなしば粉袋で作った衣服で働いていた。窯の火の熱さに加えて、きつい仕事で汗まみれになり、汗がパン生地に飛び散った。冬場の窯へ装填する前は凍える寒さだった。仕事はきつく、環境は劣悪そのものだった。昼間見る職人たちは、痩せて不健康な青白い顔で、粉まみれの案山子のような姿だった。過労で50歳で真夜中に仕事場で死亡したパン屋の親方もいたほどだ。部屋には小麦粉やさまざまな材料、水、塩などを入れた桶、作業台、パンづくりの道具などがいたるところに散乱していた。仕事場は窓のない小さな部屋で、天井は低く直立しては歩けないほどだった。パン生地をこねるのがやっとのほどの狭苦しい空間だった。これが1730年頃のパリ、サンマルタン通りのパン屋の仕事場の光景だった。

 ヴィックのような町では、仕事の厳しさはパリのパン屋ほどではなかったかもしれない。しかし、仕事を取り巻く環境に大きな違いはなかっただろう。パン作りは決して楽な仕事ではなかった。ジョルジュは家業のパン屋を手伝いながら、窯の前でなにを考えていたのだろうか。

 今日では機械化などによってパン屋の環境は顕著に改善はされているが、それでもかなりの仕事場は粉まみれのままだ。多くの仕事場は店の裏側か、地下室にあり、あまり人の目に触れない。もっとも、通りに面する店頭は、こぎれいに飾られている。透明さと劇場効果を持たせるため仕事場の一部が見えるようにしている店もある。

 大きな店では原材料をこねたり、パン種の発酵、成型、加工などの過程はかなり機械化はされてはいるが、商品の多様化や高級化に伴い、手仕事部分はかなり残っている。確かにパン生地の切り分け、パン種を加え、発酵させ、形を整える装置、冷房換気装置などは、古い時代とは大きく異なる。しかし、桶、パンを入れる枝編みのかご、カッター、ナイフ、刷毛などは依然として使われている。こね桶と窯なしではパン屋はやっていけない。これらは時代を通してパン屋の象徴的仕事道具として残っている。そして、ひとりの画家の人生を決めたパン窯の火も。

 


George Sand, Questions [politiques et sociales] Paris: Calmann-Levy, 1879 30-34、quoted in * S.Lawrence Kaplan, Good Bread is Back. London: Duke University Press, 2004.Translated from French version by Catherine Porter.

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パンの重み

2010年03月06日 | 午後のティールーム

painter unknown 

 この頃は大都市のデパートなどへ、フランスの有名パン屋Boulangerieが出店するようになった。カイザー、ドミニク・サブロン、ポール、シニフィアン・シニフィエなど、どこかで聞き覚えのある店名をかなりみかける。価格は高めだが、それなりに繁盛しているようだ。日本に住むフランス人が経営する店もあるようだ。日本人の経営だが、店名にフランス名をつけた店はいたるところにある。日本人の食生活へのパン食、とりわけフランス風?パンの普及・浸透ぶりをあらためて実感する。

 いうまでもなく、パンはフランスばかりでなく、世界中いたるところにあるのだが、「フランス・パン」という響きは特別らしい。他方、フランス・パンはあまり好きではないといわれる方もいる。日本ではなぜか「食パン」といわれる、あの山のような形の中身の柔らかい「イギリス風」のパン(ティン・ブレッド)を好む人も多い。トーストやサンドイッチとして食べることが多い。フランス・パンのひとつで、アン・パン・ドゥ・ミーun pan de mie(中身のパン)といわれる形状が「食パン」に似たパンもあるが、食感はかなり違う。

 「フランス・パン」と聞いて、日本人々が思いうかべるイメージがどんなものか。必ずしもよく分からない。周囲の人に尋ねてみたかぎりでは、バケット といわれる細長い棒状のパンがイメージされるようだ。できたてのバケットに代表されるあのパリパリとした食感を思い浮かべる人もいる。

 この頃はこうしたフランス風パン屋の店先には、バケットばかりでなくバタール、ブール、フィセル、パン・ドゥ・カンパーニュ、クロワッサンなどなど、枚挙にいとまがないほど多数の種類のパンが置かれている。高級店になるほど、表示はフランス語のままなので、思わぬところでフランス語の発音練習をさせられることになる(笑)。

 こんなことを考えながら、17世紀のロレーヌの歴史にかかわる文献を見ていたら、上掲のような巨大なパンを抱える女性と子供を描いた絵に出会って、少なからず驚いた。今日、フランスのパン屋で売られているバケットの標準重量は約240グラムであり、長い歴史の間に定着したものだ。ちなみに、バケットよりもひとまわり大きい、通称「パン」un pain といわれるものは約400グラムとのこと。今日では、ひとつひとつのパンの重さを気にする人は少ないが、中世以来パンの質と重量は重要な社会的関心事だった。主食であるパンの品質や重量が正しく守られているかは、大きな問題であり社会的規制の対象だった。今日でもパンが主食のヨーロッパ諸国などでは、どう考えられているのだろうか。パン屋の評価はなにによっているのか、多少気になっている。

 この頃は、健康や嗜好の点から必ずしも精製した小麦粉を主体とした白いパンが好まれるわけではないようだが、中世以来「白いパン」は品質の良い、高価なパンだった。他方、
精製されない小麦粉や混合粉で焼かれたパンは褐色で、「パン・ブルジョワ」(庶民のパン)と呼ばれたこともあった。

 この女性がやっと抱えているようなパンは大きさもさることながら、重量も数キロはありそうだ。農民、一般市民などが食べていたパンと思われるが、これほど大きなものはあまり見たことはない。精製されていない、ふすまの多い褐色のパンで、家庭で切り分けて何日か食べていたのだろう。

 パンはいつの世でも重要な主食であり、フランスに限らずヨーロッパ諸国では中世以来、パン屋は、パンの品質、重量などについて、厳しい社会的規制の下で商売をしていた。その実態はきわめて興味深いことが多いのだが、今は省略せざるをえない。 ちなみにこのブログに登場する画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1593年、パン屋の次男として生まれた。誕生の地ヴィック=シュル=セイユには、当該パン屋の何代目かを名乗る店もあるようだが、真偽の程は確認されていない。

 ここでの疑問は、なぜこの絵に描かれたほど大きなパンが焼かれていたのかということだ。フランスでは、ひとつのパンの重量が重くなるほど、低質なパンとされていた。中世以来、社会の大多数を占めた農民、庶民にとっては、パンの味もさることながら最も重要なことは、日々の生活で家族のお腹を満たすことが先決であり、そのためにはとにかく重さ?が大事だったようだ。子供が持っている一切れは、この子の分け前なのだろうか。このパンひとつでどれだけの家族の空腹が満たされたのだろうかと思う。日頃、あまり考えることのないパンの歴史にかかわる問題だが、考え出すと興味が尽きない。



 

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静かになったアメリカ・メキシコ関係

2010年03月03日 | 移民政策を追って

 ブッシュ政権の時は大きな政治課題であり、オバマ大統領も政権早期に対応することを約していた移民問題だが、このところあまり政治の表舞台に登場してこなくなった。その背景を少し考えてみる。

 「哀れなメキシコよ。神からは遠く離れ、アメリカにはあまりに近い」

 これは、メキシコの19世紀の大統領、ポルフィリオ・ディアス Porfirio Diazの言葉といわれる。21世紀の今でもアメリカの下風に立たざるを得ないこの国に、払拭しがたく残る風土であり、一抹の哀感を漂わせている。

 2000マイル、3200キロメートルの一本の長い国境が、世界有数な豊かな国と貧しい国の間を分け隔てている。こうした地政学的状況が見られるのは世界でここぐらいだ。2008年時点でアメリカは一人当たりGDP$47,000、メキシコは$9400と大きな格差がある。

 他方、一時は救世主のような人気だったオバマ大統領も就任以降、支持率は下降一方。内政、外政ともに決め手を欠いている。中東増派も人気回復の材料にはならない。結果として、急速に雇用問題など内政重視へ傾いてきた。その中で内政、外政と明瞭に分かちがたいほど結びついているのが、アメリカとメキシコとの関係だ。

病んだ国メキシコ
 アメリカはメキシコにいくつかの不安を感じてきた。不法移民、麻薬密貿易、麻薬がらみの犯罪、テロリストの潜入、豚インフルエンザなどで、アメリカがメキシコへ与える不安より大きいとされている。 確かに、メキシコ自体、疑いもなく、問題を抱えている。2006年頃からは選挙問題、経済不振、豚インフルエンザなどが深刻だ。麻薬については、ヘロイン、マリファナなどの巨額な不法持ち込みが行われている。さらに南アメリカからのコカインの中継国になってきた。

 3年前、フエリペ・カルデロン大統領は麻薬の密売者にいまだかつてない強い対策を打ち出した。麻薬密貿易にかかわる殺人による死者は2008年メキシコ人だけで5000人を越えた。国家財政を含めて、メキシコは破産国家になっていると指摘するメキシコ人の学者もいる。

メキシコに影を落とすアメリカ
 BRICsの後に続けなかったメキシコだが、アメリカの経済不振はメキシコにとっても深刻な結果を生んでいる。メキシコの輸出の80%近くはアメリカ向けだ。アメリカ経済の不振はメキシコにより強く当たる。アメリカでの建設、サービス、観光の沈滞は、彼らの仕事を奪い、母国の家族への送金に影響し、昨年は前年比3割近い減少だった。

 越境を志すメキシコ人からみると、アメリカは依然として「機会の国」ではある。他方、アメリカの不況と国境管理の強化は、少なくも移民の流入を減少させた。不法入国で逮捕された者の数は昨年と比較して23%以上減少した。2000年以来67%の減少だ。しかし、実際にどれだけの数が帰国しているかを知ることはできない。メキシコ人の多くはアメリカを未だ機会に恵まれる地とみているのだ。1200万人と推定される不法滞在者の数にあまり変化はないようだ。

 この点を示すかのように、最近の調査(Pew Institute)では、メキシコからアメリカへ来た10人のうちほぼ6人は、彼らの生活が改善されたと思っているようだ。また3人に1人はチャンスがあれば、アメリカへ移住したいとしている。

閉ざされる国境
 2001年9月、メキシコの前大統領ヴィンセント・フォックスが初めて訪米しようとしていた数日前に9.11が勃発し、メキシコにとってはさまざまな意味で安全バルブの役割を果たしていた国境の扉も、次第に国境管理強化の方向へ収斂し、出入国は厳しくなった。

 カルデロン大統領も国境問題について口数が少なくなっている。2007年、ブッシュの移民法改革の試みがうまくゆかなくなってから、アメリカのメキシコ政策に大きなシフトが発生し、国境閉鎖的方向へと傾斜が強まった。ボーダーパトロールは2万人以上に増員、600マイル以上にフェンスを設置。使用者への臨検も強化された。

すべては中間選挙
 他方、アメリカのナポリターノ国家安全保障庁長官は、アメリカに居住する不法移民を現在のように社会の表面に出られない存在から引き出すために、議会は不法移民合法化へ向けての法的基盤を強化すべきだという。しかし、その方向は正しいとしても、最近の不法移民増加を抑止しているのは彼女が指摘している諸方策ではなくて、アメリカの経済停滞だ。景気が戻れば、不法移民も再び増加し、実態も悪化する可能性が高い。先進諸国の中でアメリカは例外的に人口が大きく増加している国だ。長らく人口2億人台であったが、2006年には3億人を越え、2050年あるいはそれ以前に4億人になると推定されている。日本と異なり、人口の点でも大きなダイナミズムを残していることに着目しておきたい。

 オバマ大統領は選挙中にヒスパニック系にも依存してきた。選挙遊説中は移民問題は最大課題のひとつとして、早急に着手すると述べてきた。しかし、当選後は問題山積で、歯切れも悪くなり、最近は沈黙を続けている。その背後には11月の中間選挙までは手をつけない方がいいとの考えが働いているようだ。メキシコもそれを察知し、静かにしているようだ。しかし、現実は厳しさを増し、政策決定を先延ばしにするほど、対象となる問題の大きさは膨らむばかりだ。新政権の議会運営も最近では議席を失ったりで、与党主導では行えなくなっている。支持率低下が顕著なオバマ政権のたどる道はこの点でも険しくなるばかりだ。




Reference
“Gently does it” The Economist December 5th 2010
Joel Kotkin. The Next Hundred Million: America in 2050. Pengunin, 2010.

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