時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家とパトロン(3):時代の目

2006年07月31日 | 絵のある部屋

Botticelli, The Annunciation (about 1490), Florence, Uffizi, Panel.   


  優れた画家とはいかなる資質を持った人なのだろうか。作品の優劣評価は、何によってなされるのか。これはきわめて本質的な難しい問題である。美術についての好み(taste)は、時代とともに変遷をとげてきた。時代を超越して好まれる作品があることはいうまでもないが、それぞれの時代を支配した主流があり、固有な「時代の目」ともいうべき評価の基準が存在すると考えられる。極端なことをいえば、ピカソやマティスの絵画が17世紀の西欧美術界に提示されたとしても、恐らく一顧だにされないだろう。

  前回7月2日の記事でとりあげたが、15世紀イタリア絵画界における最も重要な変化は、画材の品質から画家の熟練・技量の質・水準重視への移行であった。

  それでは、当時「時代の目」は、なにを基準としていたかということになるが、これはきわめて難しい問いで、とても容易に答は得られない。

「受胎告知」のテーマの具象化
  ただ、以前から不思議に思っていたことがいくつかある。そのひとつは、15世紀イタリア絵画などに多数見られる「受胎告知」Annunciation(「ルカ福音書」1:26-38)というテーマの扱い方である。「受胎告知」は、神と人間の仲介を行う役割を担った大天使ガブリエルによる聖母マリアへのお告げというキリスト教においてはきわめて重要な主題である。大天使は、マリアに「あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」と告げる。キリスト教美術では、何度となく扱われてきた著名なテーマである。一人の画家が何点も描いていることも多い。世界に「受胎告知」を取り上げた作品がいったいどれだけあるのか、想像がつかない。

  キリスト教史では、キリストの「托身」(神がキリストの姿をとること)は、この時に行われたと考えられている。従って、受胎告知の祝祭は、キリスト降誕からちょうど9ヶ月遡った3月25日に行われる。

作品を解く鍵の存在
  大変興味があるのは、受胎告知を扱った作品はこのように数限りなくあり、ヴァリエーションも多いが、作品を見るものをして、あのテーマだと直感させる一定の約束事が含まれていることである。慣れてくると、作品に接した瞬間にすぐに分かる。

  「受胎告知」における重要な3要素は、天使、聖母、そしてしばしば彼女に向かって降りてくる聖霊の鳩である。この主題は、ゴシック聖堂美術の中に最初に登場したと考えられている。興味を惹くことは、「受胎告知」の場面を描くにあたっての約束事がどのようにして生まれ、具象化され、美術界へ伝播していったのかという点にある。

  「受胎告知」の時を描くに際しては、上記の3要素に加えて、象徴的な小道具、アトリビュートが付け加えられてきた。そのいくつかは、外典福音書および「黄金伝説」から採られたものである。たとえば、百合の花については、聖ベルナルドゥスは、この出来事が春に起こったことを強調しており、ここから花瓶に挿した花のモティーフが生まれ、後に百合となり、聖母の無垢の象徴へと展開してゆく。さらに、糸巻き棒、書物なども書き込まれている。大天使ガブリエルは翼をつけ、伝統的に白い衣をつけている。描かれている場所としては、ルネッサンス期には屋外の回廊あるいは中廊が設定されていることが多い。

  主たる登場者である大天使ガブリエルと聖マリアの関係についても、興味ある点が見られる。多くの場合は、大天使は跪きお告げを奏上する姿勢をとり、聖マリアは直立して、真摯な表情で耳を傾けている構図がとられている。大天使や聖マリアの指先の仕草にも約束事がある。

画家の創意は
  他方、フラ・アンジェリコのサン・マルコ美術館(フローレンス)のように、大天使は直立し、聖マリアが身をかがめるようにしてお告げを聞いている構図やボッティチェリの作品(フローレンス、ウフィツイ)のように、聖マリアが身をよじるように複雑な姿勢をとっている作品もある。これらは、一定の約束事の範囲で、画家が創意を発揮した部分である。

  大天使と聖マリアが位置する空間にしても、大変古典的な印象を与えるドメニコ・ベネチアーノDomenico Venezianoの作品(about 1445, Cambridge, Fitzwillian Museum) のように 中間に遠くまで見通せる回廊を挟んで、両者の間に長く距離をとったものもある。他方、ウフィツイが所蔵するボッティチェリの作品のように、両者が近接し、指が触れ合いそうな構図もある。

  しかし、いずれにせよ、「受胎告知」という主題について知識を持つ者にとっては、ほぼ瞬時に含意を読み取りうる工夫がこらされている。この一定の知識とは、言い換えれば優れた作品の鑑識力discriminationであるといえる。こうした知識は時と共に伝承され、社会に沈殿していった。画家とパトロンの関係からすると、この時代にこれらの鑑識力を持っていたのは、画家そしてパトロンとその周囲にある特定の人たちであった。社会的にも上流階級である。

  一般民衆の水準まで、こうした知識が浸透するには多くの時間が必要であったと思われる。とりわけ宗教画が多かったことを考えると、この「時代の目」は、洗練された鑑識の力を蓄えたパトロンと画家などの芸術家の関係を軸に形成されていったのだろう。教会、修道院などが大きな役割を果たしたことはいうまでもない。その過程についても、さまざまな問いが浮かび上がり、興味は尽きない。

 

Reference
Michael Baxandall. Painting and Experience in Fifteenth-Century Italy. second edition, Oxford University Press, 1972, 1988.

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住みにくい都市東京へなぜ

2006年07月29日 | グローバル化の断面
  東京を離れてしばらく旅をし、他の地に少し長く滞在してみると、改めて東京の生活費の高さを実感する。必要があってロンドンやオックスフォード近辺の住宅を探してみた経験では、ロンドンなど大都市では物価が高くて驚くが、東京はそれをはるかに上回ることで、改めて東京の住みにくさに気づかされる。ロンドンは、住宅費そしてホテル代が飛びぬけて高いような感じがする。

  経済誌The Economistのグループの姉妹調査機関 Economist Inteliigence Unitによると、海外からのビジネスマンにとって生活費が最も高い都市は、オスロで東京はそれに次ぐ。以下、レイキャヴィク、パリ、ロンドン、ソウル、チューリッヒ、香港、シンガポール、シドニーと続く。

  前回の調査までは、東京が長らく第一位であった。あまり名誉なことではない。東京に長く住んでいると、色々と低コストで暮らす手段も身に付いてくるが、初めて来日し生活する外国人には住みにくい都市なのだろう。しかし、ミクロの目で観察すると、東京の外国人居住者は着実に増加もしている。ここは日本なのかと思うような場所も現れている。

  他方、生活費の安い方の都市としては、マニラ、ムンバイ、ブエノスアイレス、カラカス、カイロ、バンコク、クアラルンプール、サンパウロ、ジャカルタなどがリストされている。開発途上国、そして南米諸国の都市はかなり安い。最も高い国のグループと安いグループでは4倍近い差がある。

  東京にいると、その住みにくさや生活費の高さをともすれば忘れがちだが、距離をおいて見ると、その異常さに気づかされる。同じ日本でも東京を離れると、生活費はかなり低くてすむ。それなのに、どうしてこれほど東京に集中するのだろうか。最近は首都移転論はほとんど聞かれなくなった。


Reference
"The cost of living." The Economist, July 22nd 2006.
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医学部ブームの裏側

2006年07月27日 | グローバル化の断面

    
    高齢化の影響で、
全国の大病院の混雑ぶりはすさまじい。外来受診の日は、朝から1日かかりという患者もいる。当然、対応する医師や看護師などスタッフの負担も大きい。このごろの勤務医離れ、開業医志向には、こうした労働実態も反映していると思われる。医師、とりわけ勤務医、看護師の労働条件は、想像以上に厳しい。

人気上昇の医学部
  医療の地域間格差が拡大する中で、医学部志望者が急増している。少子化で大学入学人口が減少、私大の4割は定員割れと言われる中で、本年度の医学部志望者数は10万人(延べ人数)を上回ったと推定されている。

    全国の国公立大学と私立大学の80の医学部(医学科、防衛医大を含む)の定員は約7700人だが、志願者数は04年度入試では10万人を突破し、05年度入試は10万6千人近くになった。2000年度入試では約8万9千人だったから、大幅な増加となる。医学部の入学式に何度か出席した印象では、合格した本人はいうまでもないが、親や親族などの喜びようも並大抵ではなかった。

人気の裏側
  他方で同じ期間に大学・短大の志願者数は約9万2千人減少した。こうした医学部人気の背景には何があるのだろうか。

  その裏側はかなり複雑である。考えられる大きな理由のひとつに将来に対する不安感があるとみられる。「失われた10年」の後、日本経済は漸く回復の兆しが見られるようになったが、格差拡大、将来への漠然たる不安は若い世代にも広く浸透している。 医師になれれば、生活も安定し、一生安心という見方が、受験生世代や親たちのかなり有力な見方らしい。

  同じことが法科大学院の場合にも見られた。もっとも、こちらの方はかなり幻想に近いことが分かってきたようだ。法科大学院へ入学しても、新司法試験の合格率は、設立当初の予想よりもかなり低くなることが明らかになった。法科大学院は間もなく厳しい淘汰の過程に入ることは間違いない。

多額な投資
  他方、医学部は学費に大学によって大きな差異があることに加えて、修業年限も長く、一人前といわれる医師になるためには他の職業とは比較にならないほど投資も必要である。負担額が少ない国公立大でも入学金30万円くらい、年間授業料は50万程度。私立大では入学金100-200万、年間授業料は200-300万、さらに施設費などが200-700万と、負担は大きい。医師として自立できるまでの修業年限も長い。私大医学部の場合、6年間の学費だけでも、2005年で2千万から4千万円台という巨額である。教科書や実習費用なども他学部よりもはるかにかかる(一部にはこうした負担もさほど気にならない、裕福な家庭の子弟も相当いる)。

  したがって、自治医科大学などの場合を別にして、両親や家族などの負担も大きい。いきおい期待も大きくなるのだろう。裕福な開業医などの子弟も多い。私大の医学部キャンパスの学生用駐車場には、高級車が多数並んでいたりする光景も珍しくない。
  
  医学部ブームの背後では、かなりの経済計算がなされている。大きな負担を上回るベネフィットがあると思われている。適性などに関係なく、医学部合格がひとつの目標になっている側面もある。有名大学への合格者数を誇る高校の尺度が、医学部合格者数へ移っている面もある。

医師に要求されるもの
  医療は仁術といわれてきたように、医師という職業には、専門能力に加えて、高い倫理性やコミュニケーション能力などが要請される。ペーパーテスト中心の入学試験などでは、計りきれない人間としてのさまざまな能力が必要である。受験の成績と医師としての適性・人格とはほとんど関係がない。現実に、医師になるまでの過程での脱落者も多い。研究はできても、診療ができない医師もいる。街中のクリニックを見ても、順番待ちで大変混雑しているところと、閑古鳥が鳴いているところがある。患者側の選別の目も厳しい。

  医療の世界の進歩も急速である。医師も絶えず自分の技量を磨き、時代に遅れないようにしなければ職業生活がまっとうできない。一度、医師免許を取得したら、その後は自動更新できるという制度は検討を迫られている。

  高校生の年齢で医師の職業生活の実態と求められる要件について、十分見通すことはきわめて難しい。親たちの判断も必ずしも当てにならなくなっている。

  医学部をメディカル・スクールとして再編し、広い視野と検討に基づいて専門課程への進学方向を選択する専門
大学院型の教育システムへの転換が、より明確に実施されるべきではないだろうか。受験競争の渦中では視野が狭小になりがちで、しばしば誤った選択を招きかねない。いかなる職業にもいえることだが、優れた医師への道は決して平坦ではない。医学部ブームが法科大学院のような失敗につながらないよう望みたい。
  
  
Reference
「時時刻刻 医学部シフト過熱」『朝日新聞』2006年7月25日

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ラ・トゥールの書棚(3)

2006年07月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

田中英道『ラ・トゥール 夜の画家の作品世界』造形社、1972年

  前回のこのコラムで紹介した田中英道氏の『冬の闇』と同年に出版されたのが、本書である。内容からして、相互に補完し合う関係にある。本書も現在では絶版であり、図書館あるいは古書に求めるしかないが、その労は十分報われるだろう。

  本書は、田中英道氏がストラスブール大学に提出した論文の邦訳である。前書がラ・トゥールとその時代に焦点を当てた一般読者向けの文明評論の性格を持つのに対して、本書は作品分析に重点を置いた専門書と位置づけられる。

  本書が刊行された後のラ・トゥール研究の進展、新たな作品の発見などもあって、作品の確認などをめぐる多少の出入りはあるが、当時としては最新の研究成果に基づいて、ラ・トゥールの作品すべてが掲載されている。印刷技術やコストの点もあって、収録作品はモノクロではあるが、部分的な拡大図やラ・トゥール以外の画家の関連作品なども収録されている。今日の印刷・製本技術からすれば、もちろんより精細なものとなりえようが、当時の出版事情からすれば、十分満足しうるものであった。
  
  さらに、内容に踏み込むと、今日のラ・トゥール研究者の抱く主要な問題意識の多くに論及がなされている。このブログでも記したし、本書「あとがき」での著者の興味深い指摘にあるように、ラ・トゥールは世俗の事柄については多少の記録があるとはいえ、画業についてはなにも自ら書いたものが残っていない。その人生の有り様も含めて、周辺記録・資料からの推測しかなしえない。しかし、そのことがかえって間に書物や記録解釈などの他人の言葉を介在することなく、作品から直接に画家の世界に接しうるという機会を創り出した。

  ボルドー大学教授フランソワ・ジョルジュ・パリゼ氏が評しているように、「田中英道氏の仮借することのない作品追及」が本書の特徴であり、西欧人とは違った「斬新で独自な」美意識で、ラ・トゥールという類まれな大画家の世界に入るためのさまざまな材料を提示してくれている。

本書の構成は次の通りである:
序論 I 日本人とラ・トゥールの芸術
   II ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの発見
第1章 生涯とその作品
第2章 画風の形成
第3章 ラ・トゥールと同時代の画家たち
第4章 ラ・トゥールの作品 1 再発見された7点の作品について
   I 女占い師
   II 辻音楽師の喧嘩
   III 聖マチウ像
   IV  蚤取り女
   V  炎の前のマドレーヌ
   VI 聖ピエールの悔悟
   VII 聖アレクシス
第5章 ラ・トゥールの作品 2 「聖ジェローム」と「聖セバスチアン」
   I 悔恨する聖ジェローム
   II 2点の「聖ジェローム」図の比較
   III 聖イレーヌに介抱される聖セバスチアン
第6章 ラ・トゥールの作品 3 画風変遷の分析
   I 3点の版画と原画の関係
   II ラ・トゥールの作風変遷について
結論

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高学歴難民の行方

2006年07月21日 | グローバル化の断面

  景気の好転で、大卒者の就職難のピークは過ぎ、人手不足の様相が前面に出てきた。しかし、大卒、大学院卒などの高学歴者の労働市場には、以前から別の問題が露呈している。  

「高学歴難民」の行方
  高学歴者が社会のニーズに質的面で対応ができず、就職できない問題である。「高学歴難民」とも言われている。学士より修士、修士より博士が就職に不利という逆転現象が起きている。これは、先進国にかなり共通の問題であり、グローバル化のひとつの断面でもある。例外はアメリカで、専門職の労働市場が形成されていて、こうした問題はほとんど指摘されていない。

  中国でも大卒者が供給過剰となり、就職難が深刻化している。中国では1999年、高等教育をエリート養成から大衆化路線に切り替えた結果、大学新入生定員枠が1998年から2005年までに一挙に4倍以上に拡大した。その結果、大卒者が過剰となり、2005年の新規大卒者の就職率は、せいぜい73%にすぎない。学生が就職活動に奔走するようになっている。過熱気味の中国経済といえども、吸収できない状況が生まれている。

  この背景には乱立した大学が、社会の要請に応えうる学生を送り出していないこともある。学卒者の知的水準が大きく低下している。インドの理工系大学が、IT革命に対応しうる学生を多数養成しているのと大きく異なる点である。

高級?配管工へ
  ヨーロッパの先進国の間でも、ドイツでは年間新卒者数に匹敵する23万人が失業状態と推定されている。ブレア政権が大学進学率の向上を推進したイギリスでは、単純労働の仕事しか見つけられない高学歴者が社会問題化している。

  イギリスでは熟練配管工が年4万ポンド以上稼いでいると知って、ホワイトカラーが「高級?配管工」として転職を目指すとまでいわれる。ロンドンではベビーシッターが平均21000ポンド以上の年収も得ており、住み込みで家賃は不要、報酬だけをみると新米教師よりも上だという。

  学歴化さえ高ければ自分の商品価値も上がるという安直な考えで進学した学生、そして親の過剰な教育熱の結果でもある。
  
  国の無責任な政策の犠牲は、たとえば日本の法科大学院政策にも反映している。本来の目的であった専門性の高い法曹人材の養成という側面は、政策の見込み違い、不適切な対応などもあって後退し、代わって資格取得のための受験技術重視への傾斜が顕著になっている。これでは、なんのための制度改革かも分からない。

  大学に入学したものの勉強する意欲もない学生に、手取り足取りして、「勉強していただく」プログラムも盛んである。これでは「大学」ではなく「小学」と思うほど、大学側の志も低くなっている。大学は「大学」の名にふさわしい学生を世の中に送り出す社会的責務がある。質の伴わない高学歴は、「百害あって一利なし」であることを関係者は十分認識する必要がある。


Reference
「学歴難民クライシス」Newsweek 2006年6月7日
「中国、低廉労働力が減少」『日本経済新聞』2006年6月9日

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医師不足は解消できるか

2006年07月20日 | グローバル化の断面
    日本の医療危機のひとつの断面としての医師不足は、急速にクリティカルな局面を迎えつつある。このブログでも、とりあげてきた課題である。

  厚生労働省の「医師の需給に関する検討会」は、7月19日、医師不足が深刻化している県にある大学医学部の定員増を条件付きで検討することを盛り込んだ報告書をまとめた。しかし、基調は相変わらずきわめて楽観的であり、グローバル化への視点も欠けている。

  報告書案は週48時間労働で現在の医療レベルを満たすために必要な医師数を27万7000人と試算した。2004年度の国内の医師数は26万8000人で、将来は供給の伸びが需要を上回るとの見通しを示した。

  推計の根拠として、05年度の勤務状況調査によると、医師が1週間あたり医療機関に滞在する時間は、病院で63時間、診療所で54時間だった。同省はこのうち、診療や教育、会議などの合計を労働時間とみなし、これを「週48時間」に短縮するには27万7000人が必要と推計。実際の医師数と比べ、9000人が不足しているとした。 そのため、不足が著しい都道府県における医学部定員の増加などを考えている。

   しかし、単に数の上で供給が需要を上回っても、問題は解決しない。このままでは、医療の地域間格差が顕著に縮小したり、解消する見込みは薄い。医師不足が深刻な県を対象とする部分的な医学部の定員増などでは、ほとんど解決にはならないだろう。医療プロフェッショナルズの労働移動の実態や医師会などの供給制限的な行動様式などが十分検討されていないからである。おそらく不均衡はさらに拡大・深刻化するだろう。

  地域間格差はきわめて大きい。全体的傾向として関東以北はおしなべて不足している。地理上の過疎状態もひとつの要因である。とりわけ、若い医師の定着が良くない。

  医学部や医科大学の卒業生が地元に定着せず、出身地などへ戻ってしまうことがかなり影響している。たとえば、弘前大学医学部卒業生の多数は青森県出身者ではなく、東京都を始めとする他府県出身者である。卒業生の7割近くが出身地へ戻ってしまう。そのため、地元出身者のための優先枠を設ける医学部も出始めた。たとえば、弘前大学は今年定員80人の内15人を地元枠とし、来年から20人に増やすようだ。

  一方、医師不足が指摘されている診療科については「休日夜間診療を、開業医にも分担させる」(小児科)、「病院外来で助産師が妊婦健診や分娩(ぶんべん)の介助をする」(産婦人科)など医師の負担を軽くする対応を求める方向のようである。

  医療にかぎらず、教育、法曹など、「先生」というタイトルがまかり通っている分野は、縦割りの障壁が高い。そしてそれを支える役所の壁はさらに高い。専門化は縦割り、視野狭窄を強める。自分の陣地に入っていれば、お山の大将、攻撃される恐れがないからだ。専門、学閥、系列の障壁が幾重にも取り囲んでいる。日本の大学や大病院にこうした状況が根付いているのは、ほとんど周知の事実である。それだけに、陣地の壁は厚い。事態が複雑化して自分の足下が見えなくなっている。

  今回の提案を見ていると、「木を見て森を見ず」との感が強い。医師会など専門職業団体の強い圧力も感じる。地域医療のあり方について、単なる数合わせの次元を越えて、グローバルな視野での医療システムのあり方について抜本的な見直しがなされないかぎり、医療危機はさらに深刻化することは眼に見えている。 

Reference
「医学部の定員増を検討」『日本経済新聞』2006年7月20日

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ラ・トゥールの書棚(2):「冬の闇」

2006年07月17日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

  これまでの人生で深い感銘を受けた書籍がいくつかある。そのひとつが、この田中英道氏の著作『冬の闇ー夜の画家ラ・トゥールとの対話ー』である。パリ、オランジュリーでのラ・トゥール回顧展が開催された1972年の年末に刊行された。すぐに取り寄せて読み、その透徹した洞察に深く感動した。田中氏は本書とは別に、より専門的な著作として『ラ・トゥール 夜の画家の作品世界』を同年に刊行されているが、今回は一般向けの前書を紹介しよう。後者については、改めて紹介したい。

  当時はフランスにおいても、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの知名度は決して高いものではなかった。それにもかかわらず、オランジュリーの回顧展は多くの人々に大きな感銘を与えた。一人の画家の作品展にもかかわらず、当時は珍しいほど長い行列ができていたことを思い出す。

  田中氏は本書「あとがき」でこれだけの作品が一堂に会し、並列されるとひとつひとつの作品を見る眼が深められぬような気がしてやや落胆した」と記されている。ラ・トゥールの作品は世界各地に分散しており、なかなかまとまった形で作品を展望する機会は少ないから、ぜいたくな悩みではあるが、こうした感想が生まれるのだろう。このブログでも同じような印象を記したことがある。
 
  この画家の作品は、それにふさわしい固有な空間で、一対一で対面することが前提になっているように思われる。まさに画家と見る者との対話を要求しているのだ。

  さらに、ラ・トゥールの作品のひとつひとつが、時代を超えて現代に生きる者にも強く訴えるものを持っている。この画家の作品には、画家の育った背景や風土を知らなくとも、強く訴える力がある。しかし、その背後に展開する時代と空間に分け入ることで、理解は格段に深まることはいうまでもない。

  ブログでも一端を描いているように、当時のロレーヌはフランス、神聖ローマ帝国などの強国の狭間にありながらも、ロレーヌ公国としてかろうじて自立性と固有の風土を維持していた。豊かな鉱物資源など、産物と風土に恵まれ、豊潤で平和な時を享受していた時代もあったロレーヌだが、画家が生きた時代は戦乱、悪疫、飢饉などで荒廃し、平穏とはほど遠い時期が長く続いた。精神的風土という面でも、魔女裁判、呪術、宗教戦争など、人々の不安をかきたてる材料に事欠かなかった。

  ロレーヌは機会に恵まれ、何度か訪れることがあったが、ヴィックもリュネヴィルもなだらかな起伏の続く土地に、川と灌木に囲まれ、人の気配も少ないようなひっそりとした町であった。

  深い精神性に支えられた作品を残したラ・トゥールという画家の世界に分け入ることは、ヨーロッパの精神世界の深層に迫ることでもある。田中氏の資質を早く見出した文芸評論家江藤淳氏が評しているように「「冬の闇」とは、十七世紀ロレーヌの画家の世界であると同時に、氏の心に映じたヨーロッパ世界そのものの象徴である」(本書背表紙から)。

  時代背景を知らずに、ラ・トゥールの作品に接した者も、この画家が過ごした時代あるいはその生涯について、多くの興味をかき立てられよう。これまでの研究が明らかにしてきたように、画家はたぐいまれなる天賦の才に恵まれたが、偏屈あるいは強欲とも思われる性格の持ち主でもあった。

  巧みに乱世を生き抜き、画家として栄達をとげた。しかし、世俗の世界を離れた次元では、この画家はきわめて孤独であった。その精神世界を残された作品からかいま見ることは、きわめて興味深い。現代に生きる人間の状況と底流においてつながるものもある。

  ラ・トゥールの研究は、その後新たな作品や記録の発見などもあり、着実に進んできた。細部においては、著者の解釈と異なる点も出てきてはいる。しかし、その思索の深さ、多彩な切り込みなどの点で、本書をしのぐものは少ない。ラ・トゥールに関心を抱く人にとっては必読すべき文献の最たるものである。今日の段階では残念ながら、図書館、古書などに頼るしかないが、そうした労をはるかに超えて、読者は多くのことを学ぶことができる。

*田中英道『冬の闇-夜の画家ラ・トゥールとの対話-』新潮選書(新潮社、1972年)
 田中英道『ラ・トゥール 夜の画家の作品世界』(造形社、1972年)

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時空をさまよう: 『考える人』を手に

2006年07月14日 | 書棚の片隅から

  近着の季刊誌『考える人』(2006年夏号)を手にする。このブログが「変なブログ」であることは、自他共に認めるところだが、この雑誌もかなり「変な雑誌」である。   

  ふとしたことで創刊号を手にして以来、なんとなく今日まで読んできた。率直に言って、あまり強い存在感がある雑誌ではない。体裁も地味である。今回は創刊4周年記念特集というタイトルを見て、もう4年も経ったのかという思いがした。   

読み手が気になる
  創刊号の時から、編集者はいったいどのあたりを守備範囲にするつもりだろうと思い続けてきた。かなり茫漠としたところがあり、頼りない感じがするが、目の前にあるとなんとなく手にしている。哲学、文学から写真、イラスト、料理の領域までカヴァーされており、どんな人が読み手なのだろうかと思ったりする。書き手より読み手の方が気になるのも変である。   

  過去に類似の雑誌がなかったわけではない。しかし、いつの間にか消えてしまったので、この雑誌もいつまで続くかなと思わないでもない。他方で、なんとかがんばって存続してほしいという思いもかなり強い。   

  仕事に疲れた時や就寝前などに、何の気なしに手に取っている。アフタヌーン・ティのような存在かもしれない。作品ひとつひとつは短いものであり、密度もさほど濃くない。毛色の変わったエッセイ集と考えられなくもない。このどこからでも入り込めて、さまざまな空間をさまよえるところが良いのかもしれない。
  
ヴェルヌの世界を追う
  このところ、比較的楽しみに読んでいるのは、椎名誠「黄金の15人と謎の島」という連載である。ジュール・ヴェルヌ『15少年漂流記』のモデルとされるマゼラン海峡の無人島を目指す旅のドキュメントである。   

  原作は1880年に書かれた純然たるフィクションなのだが、多くの謎や仕掛けが含まれているらしい。どういうわけか、子供の頃から漂流記が好きであった。デフォー『ロビンソン・クルーソー』はいうまでもないがウイース『スイスのロビンソン』、ヘイエルダール『コン・ティキ号漂流記』など、次々と愛読してきた。   「ロビンソン・クルーソー」は、経済学その他のモデルにも使われ、一時はかなりのめりこんで読んだこともあった。その他の漂流記もそれぞれに楽しみがあり、同じ本を何度も読んだ。   

  ジュール・ヴェルヌの『15少年漂流記』 (原題はDeux ans de Vacances、二年間の休暇、1880年)は、大人も子供もあきさせない面白さを持っている。多数の訳書があるが新潮文庫版は、心理学者波多野完治氏の翻訳であることに気づいて、不思議な縁に思い及んだ。いずれ書くことがあるかもしれない。  

  しばらく忘れていたが、この連載を目にして再び興味が湧き上がってきた。ヴェルヌを近く引っ張り出してまた読んでみよう。こんなことでつながっているこの雑誌、私にとってやはり変な存在である。

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医療格差の改善に向けて

2006年07月13日 | グローバル化の断面

    医療の地域間格差が拡大していることが急速に問題化している。このブログ記事でも取り上げたが、その後新聞、総合誌などが相次いで同様な角度から問題を指摘している*

  日本の医師の絶対数は着実に増えているのに、都市への集中が進み、地方の病院を中心に医師が確保できなくなり、診療科を縮小したり、閉鎖する病院が相次いでいる。小児科、産婦人科、整形外科などの医師の不足が、重なって事態をさらに悪化させている。

揺らぐ福祉の基盤 
  医療の地域間格差の拡大は深刻である。同じ国にいながらも、地域や所得の違いのために適切な治療を受けられないという状況は、福祉国家としての基盤にも影響しかねない重要問題である。
  
  国民が自らの健康について不安を抱き、しかもその不安を軽減する道がないということは、さまざまな点で悪影響を与える。医療は国家の福祉の根幹である。医療福祉に関わる政策を再度見直し、長期の変化に対応しうる内容に変えなければならない。

自治医科大学の例
  最近指摘されたひとつの例として、自治医大の卒業生の定着率が約7割であることが明らかになった。府県別にみると、東京などでは5割くらいの水準である。

  この大学の卒業生は出身都道府県に戻り、公立病院を中心に9年間地域医療に従事することが定められている(4年半の僻地診療所・病院を含む)。そのために、医学部在学中の6年間の学費(約2200万円程度)は、在学中は貸与され、卒業後9年間指定公立病院等に勤務した場合その返還は免除されることになっている。入学時と卒業時で状況がかなり変わったとしても、もはや実態が設立の趣旨と大きく離反している。顕著なモラル・ダウンが起きている。

    自治医科大学は、その設立目的に明示されているように、医療に恵まれないへき地等における医療の確保向上及び地域住民の福祉の増進を図るため、全国の都道府県によって1972年に設立された。そして、地域医療に責任を持つ全国の都道府県が共同して設立した学校法人によって運営されている。この目的のために、医学生の教育など、大学部門の運営に要する毎年度の経費は、全都道府県からの負担金が中心となって賄われている。

抜本的見直しが必要  
  過疎地や地方の病院への赴任や勤務については、自治医科大学に限定せず、他の医学部卒業生や医師にも新たなインセンティブを提供するなど、抜本的な制度見直しが必要だろう。医師の報酬を含めた労働条件も勤務医と開業医で大きな格差が生まれており、市場原理に委ねておいて問題が解決するわけではない。

  医療という分野は、「信頼」という風土がきわめて重要な役割を占める。ひとたび信頼が失われ始めると、復元は著しく困難である。日本の医療はこれまで高い信頼を維持してきたと思っている。次の世代のためにも、これ以上の劣化を防がねばならない。

  以前にとりあげたイギリスのGP (General Practitioner)制度が良いとは必ずしも思わないが、新たな構想での地域総合医療センターなど、検討すべき課題は山積している。

広い視野と構想の必要
  厚生労働省は、医師は将来供給過剰になるとの見通しのようだが、視野が狭小である。医療・看護の人材育成は単なる数の上の問題ではない。需給の数が合ったから問題が解決するわけではまったくない。このままでは、事態はさらに悪化、危機的状況を迎えるだろう。

  少し長い目でみれば、このブログでも再三、記事にしているように、アジアにまで視野を広げて医療立国の姿を考えることが必要になっている。日本が活力を取り戻すために、医療政策が果たすべき役割は大きい。


References
「特集「健康格差」が日本を蝕む」『中央公論』(2006年8月)
「医師不足の深層」『日本経済新聞』2006年6月25日

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ラ・トゥールの書棚(1)

2006年07月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

  ラ・トゥールという画家と作品に出会って以来、いつの間にかこの希有な画家についての知識も増えた。同様に関心を持った若い友人から、この画家についての文献を聞かれることがあった。実はラ・トゥールについての文献は、謎の画家といわれるわりにはかなり多いほうである。

    今日の段階で比較的容易に入手できる日本語文献としては、このブログでも取り上げたジャン=ピエール・キュザン&ディミトリ・サルモン(高橋明也監修)『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』がある。画家と作品の発見史というユニークな観点から書かれている。この画家が20世紀になって、いわば闇の中から掘り起こされるような過程に関心を持つならば、観賞の手引きを兼ねて楽しんで読むことができるだろう。もちろん、最初から作品鑑賞の機会に恵まれることが望ましいことはいうまでもない。   

  ひとりのラ・トゥール愛好者という観点からすると、始めてこの画家の作品に出会ったのは、さしたる文献も刊行されていない時代であり、作品に対面したのもかなり偶然であった。その後、機会あるごとに特別展などにも足を運び、作品をみてきた。気づいてみると、かなり多数の文献も読んでいた。相当のめり込んだことが分かる。   
 
  回顧を兼ねて、その間に目にした主要な文献などにも触れてみよう。中にはすでに絶版になったり、大学を含めて日本の図書館でも所蔵していないものも多い。ラ・トゥールに関心を抱かれた人には多少のガイドとなるかもしれない。   

オランジュリーでの回顧展
  なんといっても、この神秘的な背景を持った画家の主要な作品に出会ったのは、1972年のパリ・オランジュリーの特別回顧展であった。当時、ラ・トゥールの作品と特定されたものは、ほとんどすべてが一堂に会したのである。偶然にも仕事でパリに滞在していて、この幸運に出会ったのだが、たちまち引き込まれてしまった。会期中に何度か通った。その時の衝撃と感動は大きかった。   

  この回顧展は当時はパリでも大きな注目を集めた。手元に当時のフランス美術界での反響などを伝えるLe Monde(10 Mai 1972)の切り抜きも残っていたが、文芸欄などに2面以上にわたり、この画家と記念すべき催しについて詳細に記している。特に、斬新な構図、華やかな画面などで世界を驚かせた「いかさま師(ダイヤのエース)」については、2段抜きくらいの大きな紙面で2個所にわたって作品全体と部分を掲載して紹介している。 ルーブルがこの展示にかけた力の入れようが伝わってくる。  

画期的な展示
  この回顧展のカタログは手元にあるが、その時点で確認されたラ・トゥールの作品を、ほとんどすべて掲載した当時としては画期的なものであった。回顧展の企画委員会Comité Scientifique の委員は次のように、ラ・トゥール研究のそうそうたる人たちが名を連ねている:

Vitale Bloch
Michel Laclotte
Pierre Landry
Benedict Nicolson
François-Georges Pariset
Pierre Rosenberg
Charles Sterling
Jacques Thuillier
Cristopher Wright
  

  回顧展のカタログでは、ラ・トゥール研究者のジャック・テュイリエが主要な部分を担当している。テュイリエは後にラ・トゥールについての決定版ともいうべき大著を刊行しているが、いずれ別の機会に触れよう。

素晴らしい内容
  このカタログでは作品説明は共著者のピエール・ロザンベールとテュイリエが書いている。次のような構成である:

Georges de La Tour et notre temps par Pierre Landry
La Tour, enigmes ethypothèses par Jacques Thuillier
Biographie et fortune critique par Jacques Thuillier
Catalogue par Pierre Rosenberg et Jacques Thuillier
Bibliographie par Jacques Thuillier   


  カタログの表紙は「いかさま師(ダイヤのエース)」である。掲載されている作品図版の多くはモノクロだが、数枚は多色刷であり、当時としては大変ぜいたくなカタログであった。

  この時一緒に購入した「キリストと大工聖ヨゼフ」のポスターは、長い間仕事場の壁を飾っていた。心が安まる思いがしていた。今はレンヌの「聖誕」に代わっている。



References
Georges de La Tour. Orangerie des Tuileries. 10 mai – 25 septembre 1972. Minisére des Affaires Culturelles, Réunion des museés Nationaux. 283pp

Cuzin, Jean-Pierre et Salmon, Dimitri (1997) Georges de La Tour Histoire D’Une Redécouverte, Paris: Découvertes Gallimard, Réunion des MuséésNationaux Arts. (印刷、装丁は日本語版よりかなり上質)


ジャン=ピエール・キュザン & ディミトリ・サルモン (高橋明也監修・遠藤ゆかり訳) (2005) 『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』 東京、創元社。

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ドイツの法人税減税:日本はどうするのか

2006年07月06日 | グローバル化の断面

  
  法人税を増減させることは、企業そして労働者にとっていかなる影響があるのだろうか。この問題を考えるひとつの材料が提示された。

  ドイツの大連立与党は、7月3日、企業の競争力回復を目指して、法人課税軽減と医療保険改革の実施で合意した。その内容は、企業の実質税負担率を2008年から10%近く引き下げ、29%台とする。これまでドイツの法人税率(国税)は25%、これに地方税を加えた実効税率は38.65%でEU内で先進国の中でも最高水準だった。ちなみにこれまでは日本が最高、アメリカ、ドイツの順であった。

  今回の改革案では法人税率を現在の半分の12.5%に下げ、全体の実効税率も29%台とする。それでも中・東欧などの近隣諸国と差は残るが、税負担軽減でドイツ企業の競争力を回復し、生産拠点の海外流出を防ごうとのねらいである。企業の雇用コストを重くする医療保険料の引き上げは2007年の1回かぎりとする。

引き上げられる付加価値税
  ドイツ議会は去る6月16日、2007年からの付加価値税の引き上げを決定している。企業の投資環境を改善するとともに、消費者などに財源負担を求める方向である。

    こうした政策については当然反対も根強い。懐の豊かな企業を救って、懐の乏しい庶民の財布に手を伸ばすという理由である。政治家は選挙権がない企業に税金をかける方が、選挙民に税負担を求めるよりは対応しやすいと考える。

判然としない労働者への影響
  法人税の効果については、さまざまな理論や研究があるが、これまでは労働者への影響はあまり注目を集めてこなかった。表面的には労働者には関係ないようにみえる法人課税も、実は労働者にも影響があるとの見方がある。すなわち、高い法人税は他の資本課税と同様に、企業の貯蓄や投資へのインセンティブを減らす。投資の減少は資本蓄積の低下につながり、資本装備率を引き下げ、賃金を下げるという論理である。

  法人税率と投資の間にマイナスの関係があるとの研究もある。グローバル化が進んだ世界では、投資は高税率の国から低税率の国へと流動する。高税率の国では投資が減少し、実質賃金も低下する。低税率の国では労働者にとってプラスになる。外資の流入は経済を開放した小国では、開放度の低い大国の場合より、迅速に生産性を引き上げることができるという想定である。

  法人税率は世界的に低下の方向にある。20年前は40%以上の国も多かった。しかし、その後、法人課税率の低いアイルランド、ポーランド、スロバキアなどでは、外資流入が増加して潤い、発展している。法人税が下がるほど、労働者への利益配分も多くなるとの推定もある。

  この関係はまだ十分には解明されてはいない。今回のドイツの法人税引き下げが、労働者の立場の若干の改善につながる可能性はある。法人税の負担が軽減されることで、投資や雇用の機会が中・東欧などへ流出することがある程度抑止されるだろう。もしそうなれば、労働者にとっても恩恵となるだろう。

  ところで、ドイツが法人税率を引き下げると、主要先進国で取り残されるのはアメリカと日本だが、どうするつもりだろうか。

Reference
'A toll on the common man' The Economist June 29th 2006.

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国境を越える医師:日本の医療を考えるために

2006年07月05日 | グローバル化の断面

  地域の医療システムの小さな調査に関わって、日本の医療の危機的状況に改めて驚かされた。10年ほど前から実情を体験し、大変憂慮はしていたが、実態が格段に劣化しているように思えた。

深刻化する医療危機  
  医療費抑制、安全要求(医療訴訟)などの圧力で、労働環境が急速に悪化し、医療体制そのものが維持できなくなっている地域が続出している。医師の都市集中などで、小児科、産科などの医師が絶対的に不足していることは、かなりよく知られているが、その他の分野でも診療体制を維持できなくなり、閉鎖する病院や十分な医師がいない地域が生まれている。医療サービスの地域的不均衡の拡大が顕著に進行している。日本では、医師の数は毎年約8千人近くが新たに医師免許を取得し、総体として数は増加しているのに、地域格差の拡大はすさまじい。都市集中と過疎地での医師不在傾向がはなはだしい。医師ばかりでなく、看護師についても同様な状況がみられる。

  医師と患者双方の高齢化、患者の激増などが進み、少子高齢化はボディブローのように、日本社会を次第に追いつめている。最近しばしば報じられる、高齢者の単独死が放置されていたなど、およそ文明社会であるべきでないことが起きている。東京などの大都市でも地域によっては、夕刻出会う人のほとんどが歩行に困難を伴いつつも買い物などに出なければならない高齢者や犬を散歩に連れ出している人々(これも高齢者が多い)という光景は珍しくない。こうした状況は今後さらに進行する。

   
医療のイギリス型崩壊?
  最近、医療の第一線で活躍する医師による現状報告を読んで、大きな衝撃を受けた。そこには恐れていた事態がやはり進行していた。詳しい点は下記の書籍をご覧いただくとして、著者小松秀樹氏によると日本の医療はイギリス型の崩壊の過程にあるとされる。それでは、イギリス型の医療崩壊とはどんなことだろうか。

  手元にあるイギリスの医療実態についてのレポートを見ていると、実態はきわめて深刻である。国内の医師や看護師が医療体制を支えるにはほとんど不可能と思われるほど極度に不足している。そのため、開発途上国からの看護師に加えて、EUの他国から国境を越えてくる医師が増えているという。

  国境を越える医師といっても、あの著名な「国境なき医師団」のことではない。医師が不足している所へ他国から出向いている出稼ぎ医師のことである。とりわけ、ドイツからイギリスへ航空機で診察に行っている医師が増えている。

  イギリスでの医師不足はかなり深刻らしいことは、かなり以前の個人的経験でも感じていた。10年ほど前、滞在していたケンブリッジ近傍のGP(General Practitioner)の診察予約をとりつけるのにかなり苦労し、結局あきらめたことがあった。地域の人口も少ない村落のような所だったが、電話で病状を聞かれ、風邪のようだから、数日休んでいて良くならなければ改めて連絡してくれといわれたことがあった。「とにかく混んでいる」の一言だった。こうした実態に出会うと、どれだけ待ってもその日のうちに診察してもらえる日本の方がまだしもと思いがちだが、日本の実態も厳しい。子供の頃はよく見かけた、医師の往診の光景を見なくなってからかなりの年月が経った。
 
医師を動かす市場原理
  イギリスで増えているのはドイツ、ギリシャ、チェコ、フランスなどから通ってくる医師だそうだ。文字通り国境を越えて移動する医師Mobile MDsである。彼らを根底で動かしているものは、やはり報酬の高さであるらしい。時間あたり90-500ドルといわれている。夜間や週末のサービス維持のために高いイギリス人医師を雇うより、割安運賃の航空機でヨーロッパの端から外国人医師を雇う方が経済的ともいわれている。

  ポーランドでは医師の年俸は約15,000ドル程度だが、イギリスへ出稼ぎすれば90,000ドル近い。これでもイギリス国内の医師の報酬よりはかなり安いらしい。医師が国外で働くにはEUの要求する煩瑣な書類作成などの過程をクリアしなければならないが、それでも出稼ぎ医師は急増しているという。このままだと、医師が他国へ出てしまうので枯渇してしまうという国も生まれている。旧東ドイツなどでも医師の不足を訴える地域が多い。

  イギリスなどでは、医師がかつてのように魅力的な職業ではなくなったことがある。長い修業期間の途中でドロップアウトしたり、製薬会社などへ職業替えする者も多くなった。

  日本の場合、先述のように医師の絶対数は増えている。医師不足という減少は、とりわけ地域格差拡大という形で現れている。勤務医から開業医へと転じる医師が増えているといわれる。町中のビルの一角などで開業している医師は、夜間や土日はお休みであり、自分のペースで仕事ができるので好まれるのだろう。

  さらに、より重大な問題は、医療現場の労働条件が厳しくなり、医療訴訟の続発が、医師にリスクを冒すことをためらわせたり、リスクが伴う診療領域からの静かな立ち去りを起こしているとの指摘がなされていることである。医療と倫理に関わる根本的な問題である。小松氏が主張されるよう、国民レヴェルでの問題の整理・検討と指針の提示が早急に必要ではないだろうか。


References
*小松秀樹『医療崩壊』朝日新聞社、2006年
本書は日本の医療問題に関心を抱く方々にぜひ一読を勧めたい。短いブログでは語りきれない多くの問題が提起されている。

'Long-Haul House Calls.' Buseness Week, July 18, 2005.

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画家とパトロン(2)

2006年07月02日 | 絵のある部屋

    美術品をめぐる売り手と買い手の関係は、なかなか興味深い。取引の仕組みの源流を尋ねているうちに、いつの間にか15世紀イタリアについての資料までさかのぼることになってしまった。この時代の画家とパトロンの関係は、現代の社会で市場や取引として思い浮かべるような内容とはきわめて異なっていた。その仕組みは、なかなか面白い。

強大な力を持ったパトロン
  当時のパトロン(あるいは顧客クライアント)は、多くの場合画家の制作過程のすべてにかかわる存在だった。主題の設定から具体化、いかなる対象を描くか、画材の品質、報酬の支払い方法まで、制作活動のほとんどすべてに介入していた。その後、両者の関係は時代を経るにしたがって変化してきた。その移り変わりは、イタリア美術界ばかりでなく、フランスなどにおいても、基本的に同方向をたどったと思われる。

  当時の資料によると、あの大画家フラ・フィリッポ・リッピFilippo Lippiまでもが、丁重な手紙と下絵をパトロンに送り、それでよいかと、あらかじめ承諾を求めるようなことを行っている。ほとんどの場合、画家とパトロンあるいは顧客クライアントという当事者間では契約が交わされていた。契約書の様式まで定まったものは発見されていないが、文書に含まれた事項はかなり一致していた。前回ブログに取り上げたダ・ヴィンチの作品集にも収録されている。

契約の要件
  それらの契約にふくまれていた基本的な要件は、1)画家が描くべき主題、対象はなにか、それをどう描くか、2)画家は作品をいつ引き渡し、報酬はいつ、いかなる方法で支払われるか、3)画材、とりわけ金とウルトラマリンの品質が維持されること、という点は、ほとんど常に含まれていた。

    この契約要件でとりわけ興味深いことは、依頼者がさまざまな要求を出していることである。この時期の絵画を見ていて、しばしば画面に隙間なくさまざまなものが、ごたごたと描きこまれていることを不思議に思っていた。時代も下るが、最小限のものしか描かれていないラ・トゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」などとはまったく異なる点である。時代と地域が異なると、どうしてこれほどまでに違うのだろうと思っていた。しかし、次第に謎が解けてきた。

画家の技量を試す?
  たとえば、当時の著名画家ギランダイオにフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェラ教会の聖歌隊席のフレスコを依頼するに際して、パトロンである依頼者のジョヴァンニ・トルナブオニは「人物、建物、城砦、町、山岳、丘、平原、岩石、衣裳、動物、鳥、できるだけ多くの獣」を含めることを求めている。この問題は、当時の依頼者の絵画についての嗜好の水準を示しているといえる。画家にとっては、芸術が分からない奴だなと思っても、パトロンの依頼とあれば仕方ない。ご要望に応じて書き込んだのだろう。パトロンは、画家の腕を試したかったのかもしれない。

  大変興味あることは、金、銀に次いで、ウルトラマリン(特にラピスラズリ)の品質が重要な条件になっていたことである。当時、ウルトラマリーンは高価なラピスラズリの鉱石粉末から抽出していた。厳しいクライアントの場合は、その過程で「一番絞り」(?)とまで条件をつけていた。実際に、最も美しいウルトラマリンは最初の抽出で得られる。聖マリアを描くウルトラマリンは1オンスあたり2フローリン、その他の個所は1オンスあたり1フローリンでよいという条件をつけたものまであった。ヨーロッパ絵画史の資料をアマチュアの目でみていると、こうした予想もしない面白い事実に出会う。

画材の質から画家の熟練へ
  そして、時代が進むにつれて、金やウルトラマリンの問題は次第に前面から後退してゆく。金は絵画の材料よりは額縁に使われるようになる。金の世界の産出が需要に追いつかなくなったことも背景にあった。絢爛豪華でひと目を惹く作品から地味で審美的な aesthetic 作品への世の中の流行の変遷などもある。

  最も重要な変化は、画材の品質から熟練・技量の質重視への移行であった。優れた画家とはいかなる資質を持った者をいうのか。作品の評価は何によってなされるのかという本質的な難しい問題である。美術についての好み(taste)は、時代とともに変遷をとげてきた。それぞれの時代に固有の「時代の目」ともいうべき評価の基準があったようだ。それでは、「時代の目」は、なにを基準としていたかということになるが、これはかなり難問である。しばらく考えてみたい。な難しい問題である。美術についての好み(taste)は、時代とともに変遷をとげてきた。それぞれの時代に固有の「時代の目」ともいうべき評価の基準があったようだ。それでは、「時代の目」は、なにを基準としていたかということになるが、これはかなり難問である。しばらく考えてみたい。

Reference
Michael Baxandall. Painting and Experience in Fifteenth-Century Italy. second edition, Oxford University Press, 1972, 1988.

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隅に置けない本

2006年07月01日 | 書棚の片隅から


1冊の本をめぐり買うべきか、買わざるべきか迷っている。ご存じのダ・ヴィンチ物である。しかし、あのダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』ではない。これはすでに読んでしまった。

悩みの種は、2003年にドイツの著名な美術出版社「タッシェン」TASCHENが刊行した


Leonardo da Vinci - The Complete Paintings and Drawings
Zöllner, Prof. Dr. Frank / Nathan, Dr. Johannes
Hardcover, 29 x 44 cm (11.4 x 17.3 in.), 696 pages


という大変な作品集である。ブームに便乗した安易な作品紹介や解説本ではまったくない。とにかく、これがよく書籍の体裁に収まったものだと思わせるすごい出来栄えである。現代に再現されたダ・ヴィンチの完璧な作品集である。最初、予約見本をロンドンの書店の店頭で見た時に驚嘆した。その後日本語版も出版された。とにかく、その圧倒的な迫力に押される。(今回にかぎらず、「タッシェン」の出版物は、大作が多い。)

内容はいうまでもないが、まず書籍としての大きさがすごい。特大LLX版のハードカバーでサイズは、29 x 44 cm、696 pages という驚くべきものだ。これが書籍かと思わせる圧倒的なヴォリュームである。この迫力は実物を目前にしないと伝わってこない。手持ちの書籍で匹敵するものはないかと見回したが、一冊本では、The Random House Encyclopedia, 1993 が目についたくらいである。しかし、これとても、このダ・ヴィンチ作品集には到底及ばない。厚さはかなりあるが、体積では半分以下といってもよい。The Random House がこの一冊本の百科事典をやめてしまった理由の一つに、書籍としてこれ以上大きくできないという判断があったといわれているから、とにかくすごい。

陋屋のやわな書架では到底大きさ、重量ともに耐えられず、この天才の作品集に適した置き所がない(重さは10kgあるからうっかり足の上にでも落としたら、骨折は疑いない重さである)。机の上に置いたらそれだけで大きな空間を占めてしまい、仕事にならない。体裁はこの通りだが、内容はいうまでもなく、圧倒的にすごい。十分ベネフィットがコストを上回るお買い得であることは明らかである。ダ・ヴィンチの愛好者にとっては、一生あきることのない得難い伴侶となることは間違いない。

3部構成で編集されており、第1部は10章から成り、手紙、日記、契約書、書類を通したダ・ヴィンチの生涯と仕事の詳述、第2部は画家の全絵画作品を掲載している。それも現存する作品ばかりでなく、消滅した作品まですべて網羅している。それぞれの作品の保存状態まで記されており、天才の世界をゆっくりと見ることができる。第3部は素描、ドローイング、スケッチなどを掲載している。ドローイングの半数近くは、ウインザー城が所蔵する作品で、初めて印刷・公刊を認めたきわめて貴重なものである。アマチュアにとっても、見ているだけで大変楽しいし、あきることはない。

結局、魅力にひかれて近く入手することになりそうだが、さてどこに置こうか。



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