時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

行きも怖いが、帰りも怖い: 見えないものに翻弄される世界(2)

2020年02月29日 | 特別記事

 

3月初旬にアメリカ、サンフランシスコから来日する予定だった友人から急遽、日本行きを取りやめるとの連絡があった。ご想像の通り、新型コロナウイルスの感染者が急増している日本へこの時期に赴くことへの心配、恐れが訪日をためらわせた理由だった。アメリカ政府も高齢者を始め、不要不急の用件がない限り、日本への旅行を差し控えるよう公示している。日本は新型コロナウイルス感染者が多く、旅行者にとっても危険な蔓延国として認知されているようだ。

他方、日本へ来て仕事をし、感染せずに帰国しても、現在のトランプ政権の下では、検疫後一定期間は特別施設などに強制的に収容される可能性があるとの恐れが訪日をためらわせるとのことであった。訪日中の会合、宿泊や会食の予定も全て取りやめることになった。予約をキャンセルされたレストランなども、この状況では仕方がないとあきらめているようだった。



感染者数が増えるばかりの日本では、全国の小中学校、高校、特別支援学校などに3月1日から春休みまで休校を要請するという異例の措置を発表した。教育界は降って湧いたような前例のない要請に、感染予防対策に右往左往の状態だ。さらに、北海道知事は2月28日、「緊急事態宣言」(2月28日~3月19日)を発し、それまでの空気は一変し緊張感が走った。ここでは「クラスター」(cluster;  集団、群発)連鎖を断つことが強調されている。

21世紀は「危機の世紀」
新型コロナウイルスの影響が世界レヴェルまで拡大したことで、21世紀が「危機の世紀」として後世に記憶されるであろうことがほとんど確定した。世紀の初めの9.11、そして3.11と衝撃的な歴史的事件が続いただけで、我々の生きている21世紀が歴史上でも特記すべきグローバルな「危機の世紀」となったことはほとんど自明となったが、この新型コロナウイルスの世界的な蔓延で決定的となった。

歴史的にも最初の「グローバル危機」といわれる17世紀、2度にわたる世界大戦(1914〜18年; 1939~1945年)と、その間に起きた大恐慌(the Great Crash;1929~)を経験した20世紀に続き、21世紀は冒頭から9.11さらに3.11して知られる衝撃的な事件で幕を開けた。

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1929年10月24日 暗黒の木曜日 Black Thursday

ニューヨーク株式市場の株価大暴落、大恐慌始まる。この年659の銀行が倒産。翌年には1352件に増加
1932年7月20日 フランクリン・D・ローズヴェルト、民主党大会における大統領候補指名受託演説で「ニュー・ディール」New Deal を宣言。



9.11 アメリカ同時多発テロ事件( September 11 attacks
2001年9月11日、アメリカ合衆国で同時多発的に実行された、イスラーム過激派テロ組織アルカイーダによる4つのテロ攻撃の総称


3.11 東日本大震災 
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖大地震およびこれに伴う福島第一発電所事故による災害。

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このブログでは、特に意図したわけではないが、17世紀以来のグローバルな「危機の世紀」を、美術を中心とする文化、経済など多様な視点から掘り下げてきた。17世紀の画家たち、20世紀の政治や絵画などの文化的側面、例えば画家L.S.ラウリーなどの作品と生涯の探索などを通して、その輪郭はブログ筆者の脳裏では具体化が進み、なんとか形になってきた。18-19世紀にもそれぞれ危機があったが、ここではブログ筆者の関心事である「グローバル危機」の観点から、整理をしている。

グローバル危機を実感させた新型コロナウイルスの脅威
昨年末、中国湖北省、武漢に端を発した新型コロナウイルス蔓延の衝撃は、瞬く間に世界に拡大し、経済、政治の領域へ多大な影響を今も与えつつある。2月28日、ダウ平均株価は1190ドル近い下落となり、過去最大の下落となった。2008年9月リーマンショック*以来最大の下げ幅となった。日経平均株価は673円下落。

 

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リーマン・ショック 
2008年9月15日
に、アメリカ合衆国の投資銀行リーマン・ブラザース・ホールディングス(Lehman Brothers Holdings Inc.)が経営破綻したことに端を発して、連鎖的に世界規模の金融危機が発生した事象を総括的によぶ通称。「王リーマン・ショック」(和製英語)は、外国では、「2007年から2008年の金融恐慌」「国際金融危機」 などと呼ぶのが一般的である。しばしば、the financial crisis (金融危機)だけでこの事件を意味する。
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ブラックスワン型事象の台頭
このたびの新型コロナウイルスの世界的拡散を予知した人はほとんどいなかった。それだけに対応も遅れ、瞬く間に5大陸に感染者が広がった。このような「予想していなかった、ありえない」と思われる事象が突如として起きることを説明するに「ブラック・スワン理論」black swan theoryという概念が使われるが、今回はまさにその名に値する。「金融危機」などよりも遥かに予測が難しい。

さらに、今回の一連の展開を見て、多くの人々が「グローバル危機」なるものが、いかなる特徴と展開を示すかを肌身に感じたのではないだろうか。これまでの「グローバル危機」は、その範囲はグローバルであったが、影響を受けるのは投資家、労働者、あるいは被災地など、限られた人々の間にとどまルことがほとんどだった。しかし、このたびの新型コロナウイルス危機は、一国の最高指導者層といえども、感染すれば逃れることはできないという意味で、決定的なものとなった。ヒトの移動がプラスの面ばかりではないことも、深刻な形で実感させている。

現在、新コロナウイルスは急速な拡大過程にあり、その帰趨がいかなるものとなるか、客観的評価はもう少し時間を待たねばならない。アンテナを高くし、起こりうる風評に惑わされることなく、自ら正しいと思う道を見出さねばならなくなる。新たな「危機の時代」に生きる心構えが求められている。

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見えないものに翻弄される世界(1)

2020年02月21日 | 特別記事

 

イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに帰属すると考えられる作品
Saint Sebastian Tended by Irene
Attrobuted to Georges de La Tour
early 1630s
oil on canvas; 104.8 x 139.4cm
Kimbell Art Museum, source: public domain

 

いつの頃からか、春の花粉シーズンになると白いマスク姿が風物詩のようになっていた日本だが、このたびの新型コロナウイルスの蔓延で、列島はマスクだらけとなった。

かなり見慣れたつもりでも、ここまで来るときわめて異様な感じを受ける。新型コロナウイルスという言葉は瞬く間に世界中に広がったが、WHO(世界保健機構)の定めた新型コロナウイルス感染症(COVID-19)という名称はあまり見かけない。TVなどのメディアには、にわか専門家としか思えない人々の煽動的な発言もあり、社会に必要以上な不安感が広がっている。

見えないものに怯える世界
現在進行中の新型コロナウイルスへの対応の客観的評価については、その渦中にある今は時期尚早だろう。しかし、ひとつはっきりしていることは、感染症が健康・衛生面にとどまらす、社会、経済、そしておそらく初めてと思われるが、政治の世界を大きく揺るがす力を持つに至っているということではないだろうか。Time誌(2020年2月17日)の表紙には、中国の習近平国家主席がマスクをしている姿が掲げられている。そして、これまでの災害では直接現場まで出かけていた同氏や首相などが視察に赴いたのは、武漢ではなく北京市内の地区や病院だった。国家主席までが感染の脅威にたじろぐような状況だ。2月21日には中国の最高幹部が建国以来の非常事態と発言するまでになった。ウクライナでは中国武漢からの帰還者の入国を阻止しようと暴動が起きるほどの信じがたいパニックさえ起きている。



Time誌、2020年2月17日表紙

街を歩く人々の夥しいマスク姿を見ていると、このブログで取り上げてきた17世紀の疫病、とりわけペストの蔓延時の人々の混迷、不安、恐怖の有様が目に浮かぶ。と言っても今日に残るさまざまなイメージや歴史的記述を通しの世界てのことである。人類は有史以来、多くの疫病に襲われ、悩んできた。とりわけよく知られているのが、 ペスト、黒死病 (plague, Black Death)などに代表される疫病のヨーロッパ、中国などでの流行だ。中世から近世にかけては、ほとんどいずれの世紀も疫病に悩まされてきたが、特に14世紀から17世紀にかけての大流行、パンデミックが知られている。

17世紀「危機の時代」のスナップショット
なかでもペストは何度か大流行しているが、15世紀にはイギリスを中心とするヨーロッパ、アジア、中近東などでは2500万人を越える死者があったとの記録もある。17世紀のフランスでは1628-31年にかけて100万人を越える死者が出たようだ。17世紀は、小氷期によりヨーロッパの気候が寒冷化し、ペストが大流行したことに加え、飢饉が起こり、30年戦争をはじめとする戦乱の多発によって人口が激減したため「危機の時代」と呼ばれた。

このブログの柱のひとつである画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯の間にも、何度か疫病に関わる出来事が知られている。例えば、画家が妻の生地であるリュネヴィルへ移り、画業もたけなわであった1636年の2月28日、甥で貴族の息子フランソワ・ナルドワイヤンを徒弟として3年7カ月の契約で住み込み徒弟として受け入れている。ところがこの年、4月リュネヴィルでペストが流行、5月26日ナルドワイヤンが全身紫斑の状態で死亡しているのが発見された。

この時、ラ・トゥールと家族がどこにいたかは不明である。リュネヴィルを離れ、どこかで疫病が下火になるのを待っていたのかもしれない。1640年までにこの画家の子供10人のうち半数は死亡していた。近世初期とはいえ、きわめて過酷な時代であった。

当時は疫病の正体も分からず、領主や貴族たちなどは病気が流行していないと思われる地域などへ逃避していたことが多かった。転地が不可能な農民や商人などは、ひたすら節制し、神に祈り、疫病の嵐が過ぎ去るのを待つばかりだった。魔術や妖術などが流行したのも、人々の不安や恐れが根底にあった。

こうした時代に、なんとか疫病に対応しようとしたのが、世界史の教科書などでもおなじみの「ペスト医者」(plague doctor あるいはイタリア語の medico della peste)として知られるペスト 患者を専門的に治療した 医師であった。 黒死病が蔓延した時代に多くのペスト患者を抱えた都市、例えばイタリアの都市によって特別に雇われた者だった。今日に残る画像を見ると、いかにも奇妙な服装をしているが、例えばマスクは疫病から免れると思われる香料や薬草などが詰め込まれていたらしい。町に溢れるマスク姿の人々を見ると、ついこの異様な医師のイメージが浮かんでしまう。



医師シュナーベル・フォン・ローム(Der Doktor Schnabel von Rom;疫病を避けるために ガスマスクをした ペスト医者)を描いたパウル・フュルストの版画(1656年)。(wikipedia 該当記事から)

心の支えは何処に
ラ・トゥールの作品で極めて人気を集めた《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》(上掲画像、関係記事は表題クリック)は、この時代、一種の護符代わりに多くの人たちが欲しがったものであった。献身的に介護にあたる聖女と召使の姿がきわめて美しく描かれている。この横型の構図の作品だけでも、模写など10を越えるヴァージョンが発見されている。

「神なき時代」に生きる現代人は、コロナウイルスという見えない脅威に何を支えに立ち向かうのだろうか。数百年の時空を超えても、見えない恐怖に恐れおののき、揺れ動く人間の心の仕組みはあまり変わっていないようだ。

必要なことは、人それぞれが心の安定を維持し、いかに身を処するべきかをよく考えることではないか。その間、流言飛語のようなニュースにいたずらに翻弄されたり、怯えることなく、自らが正しいと思うことを信じ、新感染症へのワクチン開発など根本的解決への努力が迅速に進むよう有形無形の支援を送ることだろう。

 

 

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 新型肺炎が流行るとピザ屋が儲かる

2020年02月12日 | 特別記事

豫園寸景


「風が吹くと桶屋が儲かる」のような話である。上海在住の知人のメールに記されていた。工場閉鎖、在宅勤務などで家にこもっているため、ピザ配達やケータリング・サービスに頼る人が多いらしい。 TVで見ると、上海切っての集客ポイント「豫園」(庭園、商城)は例年ならば春節の時期は大賑わいだが、人影なく閑散としているようだ。通常ならば、春節などで賑わうこの時期、70万人近い人出があるという。

ヒトの移動というものが、時にいかに深刻な影響をもたらすものか、今回の新型コロナウイルスの大流行は世界にその怖さを知らしめた。すでに2003年に起きたSARSの蔓延時の死者数を上回り1,000人を越え、感染者数も43,099となった(2月10日現在)。鎮静化が手間取り、東京五輪と重なれば、開催国日本にとっても一大パニックにつながることは必定だ。実態はすでにパンデミック(大流行)の状況にある。

中国の体制が抱える問題点
今回の新型コロナウイリスの流行が、なぜこれほどの危機的状況を生んでいるかについては多くの論評がある。なかでも人民に都合の悪いことはなるべく知らせないという現在の中国の指導体制が内在する秘密主義が、初期対応の遅れを招き、事態を予想外の規模に悪化させたことは想像できる。さらに、医療を含む社会保障体制の遅れで、医師も少なく病院での診断、入院、治療などの対応が遅れて後手に回ったことも指摘されている。とはいっても医療体制はSARSの時よりは顕著に改善されてきたようだ。当時は中国農村部などでは医療保険が未だ普及していなかったので、罹患しても病院へ行かないのではと憂慮した中央政府官僚もいた。今ではほぼ95%がカヴァーされているようだ。それにもかかわらず、実態を聞いてみると、庶民はなかなか病院へは行けないらしい。特にこのたびのように病院が混雑するときはよほど有力者か強力なコネでもないと診察室まで辿り着けないとのこと。

最大流行地の湖北省、武漢ではヒトの移動を制限しているが、この政策が今回のウイルス対策として公衆衛生の観点から、最適・有効なものであるかについても異論はあるようだ。湖北省の経済は中国全体のGNPで4.5%の比率を占めるが、その部分だけの機能麻痺に止まらない。感染者は中国のみならず、中国全土を中心に世界へと広がっている。習近平体制自体を揺るがしかねない状況に、軍の医療部隊まで投入しているが、どれだけ実効が見込めるのか定かではない。

経済へも感染する新型肺炎ウイルス
ウイルス感染者の増大と反比例するように中国人の国内外の移動数は大きく減少しており、経済活動も生産物の売上減少、工場閉鎖、移転など、顕著なマイナス効果をもたらしつつある。武漢は中国2,000都市の中では13位のサプライチェーンの中心であり、自動車産業の拠点でもある。GM、フランスのPSAグループ、ホンダなどが立地し、多数の部品メーカーが活動している。その他、ケーブル、プラスティックの造花なども一大生産拠点になっている。中国からの部品調達が滞り、日本での組み立てが出来なくなっている企業もあるようだ。多くの分野で、中国市場での販売もかなり打撃を受けている。

ブラックスワン現象に悩む習近平政権
この状況で頭を抱えているのは、なんといっても習近平政権だろう。昨年の香港、台湾問題では、中華人民共和国に「一国で統一(併合)する」と宣言していたにもかかわらず、最悪の事態となってしまった。そこへ起きた新型肺炎問題で、立て続けにほとんどありえないことが起きてしまう「ブラックスワン」(黒いスワン)現象に、春節を通常のようには祝うことができなかった。対米強硬路線も軟化せざるをえない。新年は年初から多事多難な年になることはほぼ間違いない。

子年(ねずみ年)は十二支の始まりであり、新しい運気が動き出すといわれているが、どうもねずみたちは勝手な方向へと走り出しているようだ。


References

“Locked down” The Economist , February 1st, 2020
“Under Observation” The Economist, February 8th-20th

 

 

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芥川龍之介『江南遊記』を読んで

2020年02月06日 | 書棚の片隅から

 新型肺炎の流行で世界が大きく揺れ動いている中で、かつて縁あって毎年のように訪れていた中国の世界がまた近くに思えてきた。たまたま、芥川竜之介の作品のいくつかを読み直していた。この鬼才と言われた大正の大作家は中国文学、漢籍への造詣が非常に深かった。併せて、中国への旅への憧憬が年を追って強まっていった。

今日、芥川の作品を読み返すと、中国への旅を前にした29歳前後でこれだけの知的蓄積を達成していることに、その非凡さに改めて感嘆する。もちろん、作家は中国への旅に憧れ、多大な努力を積み重ねてもいた。しかし、今日の大学教育を前提とした上で、この年齢でこれだけ博識で透徹した論理で文章を展開できる人は想定し難い。芥川は中国へ旅する前に『杜子春』『南京の基督』『アグニの神』など、中国を舞台とする作品を書いていた。35歳という短い人生で、どうしてこれほどの作品が書けたのだろうと思うほど、作品数もきわめて多い。

芥川の大学の専攻は英文学であり、中国に関する知識は、この作家の努力の成果であった。さらに、英語、ドイツ語についても努力をしており、暇を持て余した折などにはドイツ語動詞の活用などを思い起こしている(『江南遊記』「杭州の一夜」)。

天才と努力
芥川の小説はこれまで折に触れ、かなり読んできた。しかし、短篇、紀行文などの中には未読の作品もある。『上海遊記』を再読した折に、関連する『江南遊記』を読み直してみた。1921年、29歳の芥川龍之介は大阪毎日新聞の依頼で海外特派員の資格で上海を皮切りに4ヶ月間中国各地を旅行し、その紀行を新聞に連載した。

ブログ筆者は、芥川に限らず紀行文を好んで読んできた。紀行文は小説より完成度は低いが、それだけに作者の自由でアドホックな発想、思考が感じられて興味深い。自分の行ったことのない土地には憧憬を、行ったことのある土地には回想と比較して読むことができる。

流行作家の心の内
小説ほどの作品完成度は紀行文には求められていないとしても、作者としては、新聞掲載ということを前提とし、時間に追われながら執筆に専念していた。さらに、芥川はこの旅に出る前から健康を損ない、旅の途上で入院をしたりしていた。この点は、芥川自身が『江南遊記』の中で記している。作家の心境の一端を知る上で興味深いので、下記に引用しておこう。

(前略)――こんな事を書いていると、至極天下泰平だが、私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる。頭も勿論、ふらふらすれば、喉も痛んで仕方がない。が、私の枕もとには、二通の電報がひろげてある。文面はどちらも大差はない。要するに原稿の催促である。醫者は安靜に寢てゐろと云ふ。友だちは壯(さかん)だなぞと冷かしもする。しかし前後の行きがかり上、愈(いよいよ)高熱にでもならない限り、兎に角紀行を續けなければならぬ。以下何囘かの江南游記は、かう云ふ事情の下に書かれるのである。芥川龍之介と云ひさへすれば、閑人のやうに思つてゐる讀者は、速に謬見(べうけん)を改めるが好(よ)い。(後略)[『江南遊記』十 西湖(五)]

なんとも強烈なアイロニーで終わっているが、芥川は慣れぬ旅の途上で体調を崩していた。当時は大変死亡率の高かった肺炎に罹患することを最も恐れていたようだ。ブログ筆者は、この芥川の辿った経路とほぼ同じ道を旅したことがあるが、その旅路の各所で、読者を惹きつける論稿を準備することがいかに大変なことであるかを身にしみて体験した。上海の豫園、杭州の西湖、蘇州の庭園や寒山寺などは芥川が訪れた当時、すでに世界中の観光客が集まっていた。日本人の間にもこうした観光地の状況はかなり伝わっていた。そこで、すでに著名な作家として知られていた芥川が、海外特派員として作家の目で彼の地の実情を報道することに白羽の矢が立ったのだろう。

芥川が旅した1921年といえば、北洋軍閥政権の時代で、中国は軍閥割拠と帝国主義の侵略にあえぐ暗黒時代にあった。しかし、芥川が描く中国はそうしたことを感じさせない。作家が見た庶民、知識人などの日常生活は、危機を背景に雑然とながらも、しっかりと地に根付いていた。芥川はだいたいどの観光地もくだらないと書き、風景は良くても、必ず何かで興ざめすると記している。さらに、作家の言辞は、今日の環境でみれば、しばしばかなり差別的、侮蔑的である。当時であっても、新聞社の担当者はさぞかし困ったのではないか。しかし、作家の見方も旅路を重ねるにつれて、次第に落ち着き、この欧米、日本などの列強に支配されている大国の精神世界の深み、とりわけ長い歴史を誇る北京の文化環境への傾倒の念が深まっていくことが興味深い。

 

典拠:『芥川龍之介紀行文集』(山田俊治編)岩波文庫、2017年

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危機の世紀:歴史は過去を追体験するのか

2020年02月02日 | 特別記事

Geoffrey Parker, Global Crisis: War, Climate Change and Catastrophe in the Seventeenth Century,  2013, pp.871
本文だけでも708ページの大著


年を追うごとに深刻さが際立つ地球温暖化の進行、絶えざる戦争勃発の危機、そして・・・・。2001年9月11日の同時多発テロ事件に始まった21世紀は、それまでの世紀とはかなり異なったものになりそうな予感がしていた。異常気象、大規模な森林火災、戦争の危機など、さまざまなリスクに溢れた時代が到来している。そのことは、ブログにも記したことがある。

そして、このたびの中国湖北省武漢市に突発した新型コロナウイルスによる肺炎とその拡大は、世界に大きな不安感を生み出している。「新型肺炎、景気減速も・・・」という一見すると因果関係を想定し難いような依存関係が今日の世界には形成されている。

ヒトの移動を制限する
アメリカは1月31日、公衆衛生上の緊急事態を宣言した。過去14日以内に中国に滞在した外国人の入国を2月2日から拒否する措置に出た。そして豪州、日本など現段階で64の国が中国との間で何らかの入国制限を導入した。かつてないヒトの移動のグローバルな規模での制限が始まった。最大の動機は感染症の拡大を防ぐということにありながらも、自国内に制御し難い感染源が持ち込まれることを防ぐという自国中心的、利己的な動機が強く働いている。さらに中国国内でのさまざまな生産拠点の閉鎖、移転などが始まり、モノの移動にも制限が波及し、経済活動の領域にも深刻な影響を及ぼしつつある。その範囲は世界経済に及び、影響も大きくなりつつある。中国に近接し、オリンピック開催国としての日本はとりわけ大きな不安を抱え込むことになった。開催までに新型肺炎を抑え込むことができるだろうか。

グローバル・クライシスの到来
このブログで再三取り上げているラ・トゥールの世界、17世紀ヨーロッパの実態が頭をよぎる。歴史上初めて「危機の時代」と呼ばれた。 日本ではあまり知られていないが、イギリスの歴史家ジェフリー・パーカーの大著『グローバル・クライシス』*1についても記した。

*1  Geoffrey Parker, Global Crisis: War, Climate Change and Catastrophe in the Seventeenth Century,  Yale University Press, 2013


パーカーの議論の出発点は、17世紀の「全般的危機」general crisisisをめぐる論争から始まる。その先駆として、歴史家ヒュー・トレヴァー・ローパー( Hugh Trevor-Roper) は、17世紀中頃のヨーロッパ諸国が抱えていた国内の不安・危機的状態を最初に体系的に提示した*2

2   Hugh Trevor-Roper, The Crisis of the 17th Century, Religion, the Reformation, and Social Change

パーカーは「ヨーロッパの危機」から出発しながら、展望の範囲を「グローバル危機」の次元まで拡大し、先行研究に不足していた論理と実証面を著しく充実した。「グローバル危機」の中心は気候変動の強調だった。多くの資料を駆使し、パーカーは17世紀の地球は概して長い低温の時代であり、長い極寒の冬と冷夏の時期を経験したことを主張した。最新の気象学者の研究では、この時期、17世紀の危機の根源は当時の気候変動による寒冷化、いわゆる「小氷期」を原因として指摘する。 17世紀の世界において、経済活動を主として支えた産業は農業だった。当時の農業は気象条件に大きく左右されていた。

こうした気象条件は、グローバルな次元での農業の不作、飢饉を生み、それがもたらす極度の貧困は人口減少につながった。そして、17世紀は政治的にも激変の時代だった。気象など重大な変化に対応する政策をほとんど何も提示できなかった。

パーカーの所論を離れても、17世紀は危機的諸相が至るところに見られた。気象変化に始まり、飢饉、貧困、疫病の蔓延などが固定化し、対応、解決の見通し、手段を持たない人間の間には、過大な租税賦課、英蘭戦争、30年戦争に代表される不毛な対立、宗教界の混迷、魔女、妖術などの蔓延を招き、多くの犠牲も生まれた。

今日の新型肺炎問題の原型ともいうべき事態は、14世紀に続く17世紀におけるヨーロッパ、そして中国におけるペストなどの疫病 Plagueの流行だろう。とりわけペストは黒死病とも言われ、発症の根源が解明されていなかったため、人々の恐怖の的であった。ヨーロッパにとどまらず、明末清初期の中国華北では、合計1000万人がペストで死亡し、人口動態の面でも大変化があったことが判明している。パーカーによると、1628-31年の間のペストの流行で、フランスだけでもおよそ100万人の人命が失われたと推定されている(Parker, p.7)。

地球温暖化にしても、大国のエゴが障害となって有効な政策を発動できない状況を見ると、人類は17世紀の苦難を新たな形で再体験することになるのだろうか。17世紀、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生きた時代が、今とは断絶した遠い過去であるとは思えない変化を、我々は目のあたりにしている。

 

 

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