時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

行方定まらぬ資本主義: 動揺する企業統治

2019年08月27日 | 特別トピックス

L.S. ラウリー 《工場街の風景》 1935  油彩・カンヴァス


会社とはいったい何なのか

最近、「会社とはいったい何なのか」「会社は誰のためにあるか」というテーマがアメリカ、イギリスなどで静かなブームを呼んでいる。会社(企業)が世の中に及ぼす影響は、想像以上に大きい。第一次産業革命以降、世界における会社(企業)の様相、社会的意義も大きな変遷を遂げた。そして、第四次産業革命とも言われる今、その実態は大きな変化の渦中にある。最近、議論の発端のひとつとなったのが、下に掲げるアメリカ「ビジネス・ラウンドテーブル」(アメリカを代表する主要企業350社のCEOの団体)の宣言である。

Business Roundtable, “ The Purpose of a Corporation,” August 19, 2019

「ビジネス・ラウンドテーブル」Business Roundtableは、8月19日、これまで金科玉条のように掲げてきた「株主第一」を見直し、従業員や地域社会などの利益を尊重する事業運営に取り組むと宣言した。トランプ政権下の税制改革で、企業の利益水準は押し上げられたが、賃金の伸びは鈍い。この議論は新しいものではなく、これまでも幾度となく繰り返されてきた。しかし、以前とは異なる点もある。

BRの会長はJ.P.モルガン最高経営責任者(CEO)のJ.ダイモン氏であり、その他アマゾン・ドット・コムやGMなど、181人の大企業責任者が就任している。同様な機構はアメリカ以外にもあるが、定期的に、コーポレート・ガヴァナンス(企業統治)原則を時代に合わせて公表してきた。

1877年、ラウンドテーブルは加盟企業の基本方針を変更した。かなり唐突だったが、経営と役員会の最大の義務は、企業の株主および彼らの活動に直結する事項におくと主張した。その後、アメリカのトップ主要企業の公式的考えは、株主の利益は、従業員、消費者、地域社会、そして社会全般に優先するものとされてきた。97年からは「企業は主に株主のために存在する」と明記してきた。それを改めるというのが今回2019年の宣言である。

21世紀に入っても、20年余り、アメリカの主要企業は「株価上昇」や「配当増加」など投資家の利益を、従業員、消費者、地域社会など他の全ての利害関係者(ステークホルダー)にまして最優先してきた。それだけに今回の基本方針の変更は、企業利潤の拡大の下で、現状の経営者たちが自社株買いなどで不当報酬を得ていることへの批判や不満を回避しようとする意図が働いていることもほぼ確かだ。大統領選挙がらみ、企業批判回避などへの配慮もあるとはいえ、注目すべき宣言である。

会社が生み出した光と影

アメリカについて改めて振り返って概観すると、ほぼ半世紀以上、貧富の格差など経済的な不平等が続いてきた。1960年代末までは、その間大不況、第二次大戦、朝鮮戦争などもあったが、所得は四世代近くまずまずの増加を示してきた。アイゼンハウアー大統領政権下の比較的平穏な時代、ヴェトナム戦争、その間のさまざまな社会的紛争なども含めても、比較的穏当な所得の成長を予想する人たちが多かった。社会の平等化は、ほぼ順調に進行するかに見えた。しかし、1968年頃から状況は一変した。

社会の経済的格差は激変し、新たな局面に入った。その状況を見るために、主要企業CEOの得る報酬と労働者層の報酬比率を見てみよう(下掲)。1990年代、リーマン・ショック(2008年9月)後に注意してほしい。それまでは30から60倍だった格差が、200-350倍と信じられないほどの比率になっている。

アメリカにおけるトップCEO経営者と典型的労働者の報酬格差推移

Source:Lawrence & Alyssa Davis, "Top CEOs Make 300 Times More Than Typical Workers。”Economic Policy、June 21, 2015, http://@erma.cc/MP6M-KXSF, figure A


リーマン危機後の過去10年間、アメリカの企業社会は回復を見せたが、中間層の縮減、上層・下層への2極化などの社会的問題に対決を迫られるようになった。背景のひとつには、次の大統領選を控えて、富裕者増税や大企業解体要求などを求める民主党系の声も高まっており、経営者層の危機感も強い。次の大統領が共和、民主のいづれになろうとも、主たる論争の場が企業に課せられた課題、そして来るべき社会のあり方になることはほとんど確実だ。

実態を見るほどに、現在のアメリカ、そしてヨーロッパなどの資本主義は、国民の所得・資産などの格差の拡大、貧困層の蔓延に十分な改善の手を差し伸べることができないでいる。

今回の「ビジネス・ラウンドテーブル」によるステークホルダー資本主義へ転換の旗印は、以前にも掲げられた。少なくも会社法学者や先進性を誇示したい企業経営者にとっては、格好のスローガンだった。しかし、実際には”株主資本主義”へとさらに傾斜するばかりだった。

アメリカの労働者の大多数の賃金は、ほぼ40年間にわたり押さえ込まれてきた。健康保険や退職に際しての制度上の配慮も劣化していた。他方、企業利潤は記録的に上昇し、多くはCEOを含む株主の報酬増加へと向けられてきた。大企業のCEOたちが一般労働者の賃金の300倍もの報酬を得ていても、当然のごとく受け取られてきた。トランプ大統領が当選したのは、こうした状況においてであった。

トランプ大統領による「アメリカ・ファースト」のスローガンは、自由貿易の流れに逆行し、高い関税率の壁で国内市場を守るかに見えて、実際は価格上昇をもたらし、アメリカをさらなる孤立化へ追い込んでいる。世界一の経済大国アメリカの資本主義は、このままでは有効な手立てがなくなり、内部破綻へと追い込まれることは必至だ。

足元揺らぐ資本主義

関連して、日本の状況について簡単に触れておくと、社会の上層と下層への2極化、中間層の分解など、議論はないわけではないが、アメリカほど国民的議論にはなっていない。これについては、いくつかの論点があるが、かつてブログ筆者は企業の組み立てが、”従業員管理型”ともいうべき、企業の最高経営者の多くが、従業員出身のいわば内部昇進者であることが、重要な意味を持つことを指摘したことがある。経営者と労働者の社会的出自が異なることが多い欧米企業の多くとは異なり、経営者と従業員が基本的にほとんど同じ社会的出自であり、ほぼ同質である。言い換えると、とりわけ、戦後の大企業では経営者は従業員からの昇進者が多く、両者の間に欧米のような隔絶がない。

こうした背景の下で、戦後の日本企業の統治改革corporate governance はアメリカ、ヨーロッパ諸国などからの圧力もあって、会社法改革でもステークホルダー重視などの表現を使いながらも、実質は従業員重視から株主重視へと向かって動いてきた。その結果、会社の実体はよく分からない名前だけの社外取締役配置など、実効性の薄い制度が作られる。

近年、会社法改革は頻繁に実施されてきた。なかでも2014年の改革(2015年施行)はよく知られているが、次の改革は早ければ2020年施行が予定されている。日本の場合、恒久的な労働人口の不足に直面し、突如多数の外国人労働者を受け入れ始めた。労働需要は逼迫しても、労働者の賃金は低迷して上がらない。アメリカほどの経営者・労働者間の報酬格差の拡大はないが、資本主義としてのダイナミズムは著しく低下している。最近では、「定年後2000万円必要」などの無責任な論議もあって、70歳までの定年延長など、一生を働き尽くして終わるような社会的イメージ形成の動きもある。人はただ働くために生まれてきたのではないはずだ。企業統治のあり方は、資本主義のあり方を定める。そして、そこに生きる人々の姿を変える。
(続く)


References
米経済界「株主第一」見直し『日本経済新聞』2019年8月20日夕刊
米企業「株主第一」に転機『日本経済新聞』2019年8月21日

桑原靖夫「日本的経営論再考『日本労働協会雑誌』1988年1月号

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎮魂の夏:友を偲んで

2019年08月10日 | 午後のティールーム

ケンブリッジの夏のある日

 

文字通り酷熱、酷暑の8月。お盆休みで帰省の大きな流れが動き出した。今年はいつになく、多くの友人・知人と永遠の別れがあった。それぞれに興味尽きない人生の出会いがあったことを思い起こさせる。

7月、イギリスから一通の訃報が入った。長年の友人W.Bとの別れだった。ケンブリッジの自宅での突然死だった。W.B.はケンブリッジ大学ダーウイン・コレッジのマスター(学寮長)やケンブリッジ大学全体の副学長(教育・研究担当)、多くの大学の評議員、学会、政府のアドヴァイザーなど多数の要職を務め、引退の途上だったが、まだ多くの仕事をしていた。

ダーウイン・コレッジ小景 

W.B. 愛称ウイリーとの出会いは、偶然だった。若い頃、ある国際会議の席で隣り合わせた。彼はすでに立派な業績を残していた研究者だった。会議は概して退屈だった。しかし、彼はなにか一心にノートに書き込んでいた。イギリスの優れた研究者はこういうものかと感心して、つまらない講演を見つめていた。しばらくして、彼が見せてくれたのは、なんと退屈な発表者のカリカチュア(戯画)だった。なかなかうまく描けていた。会議の後で、”大人の暇つぶし” an adult’s pastime! といたずらっぽく笑っていた。

その後、あちこちの会議などで出会うようになり、ウマが合うというか、急速に親しくなった。後年、彼が名誉フェローであったウルフソン・コレッジに客員として招聘もしてくれた。ここで筆者が学んだことの一つは、アングロサクソンといっても、アメリカとイギリスでは研究者へとしての教育の考えも、現実の仕組みも大きく異なるという点であった。アメリカでは学問の土台構築の方法などを厳しく仕込まれたが、イギリスでは個人の想像力発揮を促進するよう緩やかな枠組みが準備されていた。幸いにも両者を体験しえた筆者は、教育のあり方について実に多くのことを学んだ。

度々訪れたボートハウス小景

ウイリーからは日本人の友人以上に学んだこともあった。筆者も一端を担い、東京で開催した国際会議などに際しても、その力量と人脈を生かして最大限の支援をしてくれた。引退後も多くの仕事を続けていたが、その中には 地方行政区(Parish Council)の区長まで含まれていた。世界の実態から地域への貢献まで、彼の視野と活動は想像を超えていた。

最近は、BREXITを含む世界の荒廃を嘆いていたが、今は天国で誰かのカリカチュアを描いて楽しんでいることだろう。

今年、旅立たれた友人・知人(W.B.を知る人も多い)を含めて、心からご冥福を祈りたい。

 

 

☆ 筆者が初めて到着の挨拶に行った時、W.B. の研究室には、下掲のターナーのポスターが架けられていた。同時期、筆者の部屋にも同じものをかけていた。不思議な因縁を感じる。

《平和 ー 海の埋葬》

 Peace - Burial at Sea 1842年頃
87×86.5cm, 油彩・画布,  テート・ギャラリー(ロンドン) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これもアニメの世界?:指で観るラ・トゥール

2019年08月02日 | 書棚の片隅から

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《イレーヌに介抱される聖セバスチアヌス》ルーブル美術館


この絵を見た現代の子供たち、いや大人でも、興味を惹かれて立ち止まるでしょうか。その可能性は多分、かなり少ないでしょう。17世紀の絵画、とりわけ宗教画は、現代人が関心を寄せるには魅力に乏しく、その含意を正しく理解するには詳しい説明がほとんど不可欠です。

この絵の前を通り過ぎる大人の中に、多少何かを感じて立ち止まる人がいたとしても、現代ではかなり例外的でしょう。描かれた情景が意味する内容を知る人は、このブログに来てくださった方ぐらいかもしれません(笑)。 

まして、幼い子供たちがこの絵に興味を持つという可能性はほとんどないでしょう。一瞬、そこで立ちどまるかもしれません。 せいぜい彼らが口にするのは、暗い絵だなあ、なにの絵なんだろう。どうしてこの若者は矢で射られてしまったのだろう・・・・。

17世紀以降、フランス王ルイ13世までが魅せられてきたこの作品について、現代の人がその意味を分からずにいるというのは、悲しいことです。

そこでこの小さなアートブック・シリーズの編者は考えました。「The Senses of Art」(「アートのセンス」)は、Cnedとの提携による、Circonflexe Editionの新しいコレクションです。その目的は、子供と大人が芸術作品の発見を共有できるようにすることです。さすが、フランス、なかなか凝った作りです(下掲表紙)。

 La Tour du bout des doigts, Un livre anime pour decouvrir une oeuvre avec tous ses sens, Circonflexe,Paris, 2013

残念ながら、この本はフランス語版であり、日本語版もありません。しかし、よくある「飛び出す絵本」の体裁を取りながら、視覚障害のある読者のために、熱収縮印刷用に加工された特別な紙まで使っています。

きわめて単純な構成でありながら、知性に溢れ、アルバムは子供の目と好奇心を導いて彼を絵の中に引き込みます。描いた線に起伏をもたせたり、 ポップアップ、切り絵の手法などを駆使して、巧みに画中に引き込みます。

一人の男が全身に矢を射られ、前景に横たわっています。ページを切り取ることで彼の地位が明らかにされ、胸に刺さっている矢は、「指先で」安心して触れて見ることができます。

次に、聖セバスティアヌスの物語について、順に説明します。 背景に描かれた二人の女性の敬虔な姿、濃青のヴェール、中心で介抱に当たる女性の高貴な姿と役割も浮かび上がります。

テキストは、CDが付属し、オーディオガイドが美術館訪問でするようにキャラクターの役割や意味について子供たちに説明します。 こうして、遊びながら、子供は絵を読むことを学ぶことができます。 非常にバランスのとれたこのアルバムは、子供の好奇心を維持し、揺るがない真のアートブックの真剣さを持っています。実際に手にとったブログ筆者自身、感心しました。

最後に、視覚障害のある子供たちのために、出版社のウェブサイトは、「指先で」17世紀の大画家 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの世界を新技術 thermogonflageによる印刷のための絵のロードを可能にします。大変行き届いた未来型の絵本です。


 絵画の構成線を強調表示するポップアップの導入、隠れたウィンドウを使用した質問と回
答、音声による説明などを駆使して一枚の絵を遊びながら理解させるその目的は、子供と大人が芸術作品の発見を共有できるようにする素晴らしい試みです。

本のいたるところで説明を例証するゲーム、質問とアニメーションは芸術の世界を誰でも(老いも若きも)アクセス可能にします。主として指先のツアーで、素晴らしい大家の作品の細部を探索できます。

そして、リフティング・ウィンドウ(隠された質問)を使用した質疑応答ゲーム、音声による説明まであります。出版不況といいながら、頭脳と技術を駆使すれば、大人でも楽しめる子供の本が実現することを示してくれます。

こうした体験をしていれば、歳をとった時に下掲のような書籍に出会っても興味を新たにするかもしれません。

上掲書籍のカヴァーには、ブログ筆者の必要上、原表紙にはない加工をしております(上右端赤丸)。

以前にブログ筆者が記したこの作品についての感想(2005年4月28日)に、的確なコメントを下さった炯眼の読者が、本テーマにはベルリン美術館、ルーブル美術館所蔵の2点が現存しているが、前者を現代の研究者が(真作とみなし)、後者の方が(工房作とみなされる)前者より優れていると考える根拠は少なく、両者とも等しく名画なのではと指摘されていました。さらに、この作品から若干のデジタル・グラフィック(アニメーション)的印象を受けるとの感想も付されており、大変敬服いたしました。当時から、ラ・トゥールは、工房に自らの作品について型紙を制作して、配色、構図などに関してさまざまな工夫を凝らしていたようです。両者の差異は、作品を並立し自らの目で確かめねば分からないほど僅かです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする