時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

悠久の彼方から

2012年08月26日 | 午後のティールーム

 

ナルメ-ルという名前の猿立像
石灰化した雪花石膏、高さ52cm
エジプト第一王朝 西暦紀元前3000年頃?

Photo;Jurgen Liepe

ナルメ-ルNarmer は古代エジプト第一王朝創始者ファラオの名
作品はNeues Museum に移転中?
現在開催中の「ベルリン国立美術館展」には出展されていません。



 歴史を通して繁栄を続ける国はない。盛者必衰の理は時代を厳しく貫いている。いかに栄えた国もいつかは滅びる。現代ヨーロッパ経済の命運を左右しかねないギリシャ。かつての栄光満ちあふれた古代ギリシャではない。

 極東の島国日本はいったいどこへ行くのか。明治維新以来の激動、とりわけ戦後の復活・繁栄ぶりは世界の注目を集めてきた。しかし、過去20年余り、世界におけるこの国の重みは際だって低下した。今後その影はますます薄くなってゆく。一時は世界に冠たる「経済大国」を誇った日本だが、その経済力がかつてのような強大な影響力を及ぼす可能性は、ほとんど確実になくなった。

  この点については、すでに多くの近未来予想がある。それらの内容にとりたてて関心はないのだが、わずかに気にかかるのは、この国が次々と日本を追い越してゆくアジア近隣諸国の中で、いかにして活力を保ち、独立した国家としての地位と品位を維持して行けるかということに尽きる。言い換えると、日本という国が
その影響力を減衰させるとしても、国家として確たるプライド・矜恃を維持した国として存立し、小さいながらも世界からのレスペクトを得て、存続していけるかという問題である。

 東日本大震災後、この国の国力、外交能力がみくびられたのか。このところ日本の周辺領域はにわかに騒がしくなった。半世紀前ならば、一触即発、あわや戦争勃発へとつながりかねない緊迫した事態が生まれている。日本が大陸と地続きでなく、その間にわずかに狭い海域を隔てていることが、暴力的行動の連鎖・拡大を防ぎ、危うい「島とりゲーム」の状況を作り出している。地勢学上の位置関係がもたらした結果だ。

 遠く太平洋を隔てて、過去半世紀を超えて日本が後ろ盾と頼んできたアメリカも、国民の間に大きな亀裂が生まれている。この国の国民もまもなく大きな決断を迫られる。異様な選挙戦ムードの中で、いかなる方向が選択されるのか。

 いずれにせよ、「多極化」時代は避けがたい。この言葉、聞こえはよいが、多極化時代に生き残りうるのは、強い国民的意志、理性と指導力を持った国だけだ。

 来たるべき秋がいかなるものとなるか、残暑の厳しさをいつになく感じている。 

 
 

 
 

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ミネルヴァとの再会;ベルリン国立美術館展から

2012年08月17日 | 絵のある部屋

 

Rembrandt van Rijn
Minerva, c.1631
Oil on canvas
60.5 x 50cm
Staatliche Museen zu Berlin

拡大はクリックしてください

 

 猛暑の1日、ベルリン国立美術館展(国立西洋美術館)へ出かけた。この頃、しばしば活用している暑さしのぎの方法である。美術館はこうした日を過ごすには格好な場所だ。館内は適度に温度調整がなされている上に、作品を鑑賞している間に、かなりの距離を歩くことになるので、運動不足の解消にもなる。暑さに疲れていた頭脳も、活性化するという効果も期待できる。

 さて、肝心の展示内容だが、感想はやや拍子抜けであった。展示の思想が明確な企画展と違って、こうした総合展示は総花的で、えてして焦点の定まらない迫力の欠けたものになりがちである。今回もその点を痛感した。ベルリンの美術館群は半世紀近くにわたり、かなりよく見ており、その圧倒的充実度も実感してきただけに、少し残念な気がした。とりわけ、2015年完成に向けて中核となる壮大な美術館島計画も、いまだ進行の途上だ。しかし、そうした美術館計画の全体像も、この展示方法ではほとんど見えてこない。近未来のベルリンの美術館がどんな姿になるか、少なくも、一般の観客には伝わらないだろう。

またもフェルメールですか 
 そうした中で、集客対策とはいえ、フェルメールの『真珠の首飾りの少女』が最大のアトラクションのひとつになっていて、いささか食傷気味だ。見ていると、観客も「ああ、たしかに真珠の首飾りだね!」と、その点を確認さえすればご満足のようで、他の展示は通り一遍で素通りされる方が多い。そして多くの方が次の目標の『真珠の耳飾りの少女』を見るために、近くの「マウリッツハイス国立美術館展」(東京都美術館)へお出かけというご様子だ。フェルメールはごひいきの画家ではあるが、最近のメディアが作り出した過剰なブームにはつきあえない。


ベルリンの国立美術館では、この作品は確か同じフェルメールの『紳士とワインを飲む女』と隣り合わせで展示されていた。

 それでも、来て良かったと思う作品に出会えれば、幸いである。子細に見れば、大変感銘を受ける作品も多い。ベルリンの美術館群は、ペルガモン美術館をはじめとして、壮大な建築物、彫像、フリーズなどが重要な見物なのだが、これらは現地に行くしかない。

美しい胸像、レリーフ
 今回の展示には彫像、レリーフなどの作品で興味深い作品がかなりあった。ちなみにかつて筆者のごひいきの場所はペルガモンとすでに2005年に閉館となったエジプト美術館であった。エジプト美術といえば、(とても海外へ貸し出せる作品ではないが)ネフェルティティ像をめぐって、ドイツとエジプトの間で、紛争もあるが、そうした問題をしばし忘れて、永遠の美女(BC1350年頃)にご対面できる。


 今回の展示品の中で、ひとつの胸像が目にとまった。グレゴリオ・ディ・ロレンツォ・ディ・ヤコポ・ディ・ミーノ『女性の肖像』である(下掲)。15世紀頃のイタリアの肖像は、あの特徴のある人物の横顔を描いた作品が多いが、この作品は立体の肖像である。

 比較的小型の上半身の肖像で、最初のデッサンさえできれば、後は工房で作業し、依頼主の所に送ることができたと思われる。同時代の絵画の世界における銅販画の出現に似ているところがある。輸送、再生、頒布などが容易に行える。

 この女性の肖像は、過去に見た記憶があるのだが、依頼主と思われる女性の、穏やかな、それでいて顔の輪郭がはっきりと再現された大変美しい作品だ。正面ばかりでなく、横顔も大変美しい。実際にも美人の誉れの高かった人であったのだろう。当時の上流階級の女性だったら、だれもが胸像制作を頼みたくなるのではないか。



拡大はクリック



Gregorio di Lorenzo Di Jacopo Di Mino(Florence?,c.1436-Folil? 1504)

Portrait of a Lady
c.1470, Stucco
50.5x47x25cm
Staatliche Museen zu Belin

 絵画では、やはりレンブラント・ファン・レインの「ミネルヴァ」Minerva(上掲)が管理人のお好みだ。ミネルヴァはローマ神話で学芸の庇護者とされているが、作品には一見して不思議な印象を与える若い女性が描かれている。彼女は豪華な毛皮や宝石などで縁取りされた、暗赤色の重厚なコートをまとい、椅子に腰掛けている。背後にはミネルヴァのアトリビュートとされるメドゥーサの頭部が彫り込まれた盾が掛けられているようだが、照明の関係もあって。はっきり確認できない。この作品、一時はレンブラントの僚友ヤン・リーフェンスの作品に帰属されていたようだ。この作品は署名、年記もないが、レンブラントには、この作品から発展させたと考えられている1635年の同主題作品『書斎の中のミネルヴァ』(下掲)がある。

 後者は、あのサスキアがモデルといわれるが、今回展示の作品のモデルは誰なのだろう。様々な点で興味を惹かれる作品だ。

 ちなみに、下掲の作品は、個人によるオークションの落札価格が4500万ドルといわれ、話題を呼んだが、今回出展のミネルヴァもそれに劣らない名品といえる。



Rembrandt van Rijn
Minerva in her study by Rembrandt
1635, canvas, 137 x 116cm.

 

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ローマからパリへ; 芸術センターの移動

2012年08月09日 | 書棚の片隅から

Rome - Paris 1640, Transferts culturels et renaissance d'un centre artistique
Sous la direction de Marc Bayard
Collection d'histoire de l'art
ACADEMIE DE FRANCE A ROME-VILLA MEDiCIS
2010, pp588 
(cover)

  現代の世界で、芸術・美術の中心地(センター)はどこかと聞かれたら、皆さんはどこを思い浮かべるでしょう。。恐らく一つではなく、いくつかが目に浮かぶのではないでしょうか。今日、グローバル・シティと呼ばれる大都市、パリ、ロンドン、ローマ、ニューヨーク、東京、ベルリン、ワシントン、北京などは、それぞれに立派な博物館・美術館群を擁し、都市としても独自の文化的環境を形成・維持しています。

 しかし、17世紀前半までの長い間、イタリアのローマは、ほとんど独占的なアートセンターの地位を享受していました。世界の名だたる文人、芸術家たちは、イタリアの青い空を思い浮かべ、ローマを訪れることを生涯の願いとしていました。ローマは彼らにとって、大きな憧れの地だったのです。

文化は最重要な国家政策
 それとともに、諸国家の形成に伴って、自らの国に新たな文化センターを構築しようとの動きも高まっていました。とりわけ、絶対王政国家として発展の途上にあったブルボン朝フランスは、その中心都市パリをローマを凌ぐ「新たなローマ」に築き上げ、拡大しようと、歴代為政者は多大な努力を続けていました。この時代、政治と文化は切り離せない国家形成の重要な戦略的基軸でした。とりわけ、ルイ13世の下で絶大な権力を振るった宰相リシュリューは、フランス文化政策の強力な推進者だった。17世紀から18世紀にかけて、さまざまな政治・経済的浮沈はあったが、フランスは文化の交流・発展を国家戦略の前面に置き、その推進を図っていました。

  最初の推進者はルイ13世の下でのリシリュー枢機卿でしたが、彼の死後は美術に造詣が深く、その支援者であった重臣フランソワ・ノイェール(1589-1645)などが力を尽くしたが、晩年は不遇でした。その後、この政策はコルベールなどによって継承され、ローマにアカデミー・フランセーズを作るなどの事業が実施されました

宰相リシュリューの権力
 ここで、宰相リシュリューと芸術との関係に記しておく必要があります。このフランス王をもしのぐ権力者は、芸術を露骨に政治目的に使っていました。彼は軍事力と並び芸術文化の隆盛こそが、国家の威信を支えると考え、フランス絶対王政の基盤強化と国家的威信の拡大のため、ローマに匹敵し、さらにそれをしのぐ文化的基盤の形成が欠かせないと考えていました。これまでにもブログで断片的に記してきたフランスの目指した文化政策の方向は、ローマの古典的美術の流れを導入し、フランス風にさらに豪華・華麗のものとすることにありました。そして、その成果として、ローマを凌ぐフランス文化を築き挙げることが目標とされました。それが結果としてフランスの国威を高揚し、ヨーロッパ世界における中心的存在としてのフランスの威信と力を築き上げると考えていたのです。


推進者としてのリシュリュー 
 その政策達成のためには、今日では想像もしえないさまざまな手段がとられた。リシュリューはどの程度芸術を理解していたかという点については、ゴールドファーブなどの研究者は厳しい評価をしている。音楽、美術はよく分からなかったのではないかという。詩的センスも欠いていたとされる。しかし、こうした批判があったとしても、リシュリューはフランスの国家的栄光のために芸術を自らの権力でいかに活用するかに力を注いだ。彼は、詩は分からなくても演説は得意であり、文章にもたけていた。非凡な人物であったことは疑いない。

 その目的達成のためにリシュリューが描いた理想は、究極的にイタリアにおけるルネサンスおよび初期バロックの流れを汲むものをフランス、なかでもパリに導入・実現することであった。その第一段階として、イタリアの水準に追いつくことは、彼の文化政策の大きな目標となっていた。当時からローマとパリの間には、さまざまなアンビヴァレント(愛憎入り交じった)な関係があった。すでに記したように、多数のフランスの芸術家がローマを訪れ、修業し、その成果を具象化し、フランスへ還元してきた。

収奪的美術品の移転
 他方、フランス専制国家形成の具体化を急ぐあまり、イタリアの美術品の収奪、そしてパリへの強制移送ともいうべき行為も行われていました。これまで、あまり知られなかった事実もあります。そのひとつは大量の美術品ならびに宮殿などの造営材料である大理石を、イタリアからパリへ移送することでした。その量たるや、すさまじいものであったことが想像できます。

 当時、リシュリューは、著名な美術品や骨董品の商いを行っていた美術商ニコラ・ペイレスク(1580―1637)に、ローマからパリへの美術品の移送を依頼していた。ペイレスクが驚いたことは、リシュリューが金に糸目をつけず、とてつもない資金を注ぎ込み、骨董品などの美術品を入手しようとしていたことでした。リシュリューはイタリア各地に教皇の認可を得た多数の部下を送りこみ、手当たり次第に美術品などの買い付けを行いました。

 たとえば、1623年の例をみると、112体近い胸像、花瓶、立像などがローマから送り出されているが、その内訳はほとんどなにも記載されていません。とにかく、作品の質よりも量(数)を確保せよとの方針だったようです。目指す目的の実現のために、リシュリューがとった膨大な支出とあからさまな権力の行使に、ペイレスクは言葉を失っていました。

ガレー船による美術品移送 
 この年の移送には、なんと二艘のガレー船が使われています、船底には大理石などが積載され、その上に美術品が置かれました。ガレー船を漕ぐのは互いにつながれた奴隷でした。ガレー船は当時はほとんど帆船に取って代わられ時代遅れとなり、ほとんど使われなくなっていましたが、リシュリューは嵐など波風への対応という点では、ガレー船の方が操船が安定していると考えていた。

 ルイ13世の下で実行された
リシュリューの政策は、近代化の先駆といわれてきたが、実際には古代ローマの威信や勝利のイメージに支えられ、戦利品を積んで凱旋するローマの皇帝のような帝国的イメージに近いものだった。この時代錯誤的な、収奪的ともいえる買い付けと輸送もリシュリューにとっては、ローマ帝国盛時のイメージを呼び起こすものであったのだろう。これらの美術品や大理石は、建設中のパリのルーブル宮殿の装飾や、ポアトウのシャトー・リシュリューの造営のために使われました。芸術の都として世界に君臨するパリではあるが、その背景には植民地収奪のような、すさまじい美術品の移転があったのです。

 世界のアートセンターが、ローマからパリへと移転する歴史的な変動は、関連する画家や彫刻家たちにとっても、大きな関心事でした。とりわけプッサンのようなフランス出身の美術家たちにとっては、フランスに新たなパトロンをいかに獲得するかが大きな戦略目標となっていました。パトロンたちの好みや欲望、期待にいかに対応するか。パリのめぼしいパトロンを獲得しようとの画家たちの野望など、虚々実々の動きが進行し始めます。パリ招聘に先立って、リシュリューから作品を依頼されていたプッサンも、当初この動きに敏感に反応し、リシュリューの野望、名誉欲などを見通し、追従するなど、作品にさまざまな工夫をこらしていました。その後のプッサンのパリ訪問と顛末なども、新たな視点で見直すと、きわめて興味深い世界が見えてくるでしょう。

 



ガレー船のイメージ


本書はローマからパリへの芸術センターの移転の諸相をめぐるシンポジウムの報告書である。17世紀中頃をひとつのピークとする美術界の大きな潮流変化が新たな視角から論じられており、大変興味深い。

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目に爽やかさを取り戻す;暑中お見舞い

2012年08月01日 | 午後のティールーム

 

  この地を訪れたことは、何度かある。しかし、これほどまでの
清爽さに出会ったことは少ない。多くの場合は、霧の合間からその一部を望んだことがほとんどだった。このところほぼ毎年訪れる所のひとつなのだが。登山家の友人が最新の光景を送ってくれた。俗塵に汚れた目に清爽感が戻ってくる。







イメージはクリックすると拡大します。






Photo copyright 2012 RyuE



前回の暑中見舞いは、ちょっと暑苦しかったですね(笑)。

 

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