地球温暖化の影響か、このごろの気象は異常続きである。日本海側では豪雨があったり、並行して6月なのに東京で35度を越えるというのは、尋常ではない。こうした時はなかなか予定の仕事もはかどらない。身体を動かすこともかねて、山積みになった書籍などの整理を始める。といっても、なつかしい表題の本などが出てくると、思わず見入ってしまうので、目指した成果は上がったことがない。表題を目にすると、さまざまな思いにとらわれるので、目を瞑って古書店に部屋中の書籍を引き取ってもらったことも一度や二度ではない。しかし、前回のフランソワーズ・デポルト『中世のパン』のように、忘れていたなつかしいものに出会うこともあるので、かなり決断がいる。
ジョン・バエスのLP
あまり聴くことがなくなり処分を考えたレコード、CDの中に、ジョン・バエスのLP盤レコードがあった。といっても、今の若い人たちで彼女の名を知る人や弾き語りに接した人はきわめて少ないのではないだろうか。かつて、フォークの女王と言われ、一世を風靡した歌手である。(今でも多くのCDが出てはいるが。)ジョン・バエスというと、すぐに、「ドンナ・ドンナ」、「雨を汚したのは誰」、「勝利を我らに」など懐かしい歌の数々が思い浮かぶ。
私がジョン・バエスの歌を聴くようになったのは、1960年代後半であり、ヴェトナム戦争最中の頃であった。当時高まりつつあった反戦運動の中で、彼女のギターと歌は、強い哀愁の感とともに圧倒的な迫力があった。ニューポート・フォーク・フェスティバルでデビュー したのは、多分20歳代初めの頃であったろうか。メキシコ系で長い髪の毛をトレードマークとした彼女が颯爽と現れると、どこも熱狂的な歓迎の嵐であった。60年代のヴァンガード時代は、プロテスト・ソングは少なく、フォークの中でも比較的新しい曲を歌っていた。野性的で力強さがある魅力的な歌手であった。
ヴェトナム戦争の影
アメリカにとってヴェトナム戦争がもはや正義の戦争でないことが分かり始めた60年代後半、キャンパスでも徴兵カードを燃やしたり、カナダへ脱出する学生が話題になっていた。成績が悪いと退学、徴兵が待っているので、学生たちも必死に勉強した。その合間に学生が歌い、聞いていたのは圧倒的にフォークであった。労働歌もよく歌われていた。日本では、ほとんど知られていないが、「ジョー・ヒル」は1930年代の労働運動のヒーローを歌ったもので、映画化もされた。
この当時は、黒人運動もピークを迎えていた。「熱い夏」と呼ばれた1967年だったろうか、ニュージャージー州ニューワークでは大きな黒人暴動があり、戦車が出動して鎮圧した。後日、現地を訪れた時、町の大きな一角がまったくなくなってしまっていた。州兵の戦車が砲撃で破壊してしまったのである。黒人運動の集会では必ず「勝利を我らに」We shall overcomeが力強く歌われていた。内容からすれば、「おれたちはきっと勝つ」とでも訳した方がよいだろう。
遠い夏の日
こうした環境で、バエズは反戦運動の活動家デイヴィッド・ハリスと結婚したり、離婚したり、空爆下の北ヴェトナムを訪れたり、反戦歌手としてさまざまな活動をしていた。ジョン・バエズのレコード、CDともに持っているが、聞いてみて迫力のあるのは、ヴァンガード時代のレコードである。70年代にA&Mに移籍しているが、その後のCDは同じ歌でもなんとなく訴えるものが少なくなっている。声質も変わったようだ。60年代は彼女にとってもピークの時だったのだろう。
この時代を境に、アメリカ社会は大きく変わった。ヴェトナム戦争が与えた影響は実に大きかった。さまざまな光景が思い浮かぶ。志願兵となった友人、ヴェテラン(復員軍人)として大学院に戻ったが、戦場の幻影にいつも悩まされていたルームメート、学業を続ける気力を失い退学をしていった学生・・・・。アメリカ社会は大きく揺れ動いていた。暑い夏の午後、耳を澄ますと、どこからかあのWe shall over come, we shall overcome, we shall overcome someday………の力強い歌声が聞こえるような気がする。
Joan Baezにさらに関心ある人は、次のサイトをご覧ください。
http://baez.woz.org/jbchron.html
http://baez.woz.org/index.html
旧HPから加筆の上、転載(2005年6月29日記)
WE SHALL OVERCOME SOME DAY
(Horton, Hamilton, Carawan, Seeger)
We shall overcome, we shall overcome,
we shall overcome, some day
Oh, deep in my heart I do believe
That we shall overcome someday.
We'll walk hand in hand, we'll walk hand in hand,
We'll walk hand in hand, some day.
Oh, deep in my heart I do believe
That we shall over come some day.
(Additional verses)
We shall overcome, etc.
We shall live in peace......
The truth will make us free...
We shall brothers be...
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール~画家の誕生まで~
画家に限ったことではないが、芸術家がその内に秘められた天賦の才を発現するには、いかなる要因が働いているのだろうか。天才的才能はいかにして見出されるのだろうか。
美術史上も謎の画家といわれてきたジョルジュ・ド・ラ・トゥールだが、新たな作品や資料の発見、研究の蓄積によって、画家の作品世界はかなり見えてきた。しかし、作品が残っていても、画家としていかなる人生を過ごしたかが、ほとんど不明な例も数多い。以前に触れたことのあるヘールトヘン・トット・シント・ヤンス(c.1460-1495)などは、時代も遡るが、画家としての年譜はほとんど分からない。それらと比較すると、ラ・トゥールについては作品および人生経歴について、着実な研究の蓄積が感じられるようになった。
ラ・トゥールはなぜ画家になったか
画家ラ・トゥールの生涯は、さまざまな断片的な記録から次第に輪郭が描かれてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1953年3月14日、ロレーヌ地方のヴィック・シュル・セイユに、パン屋ジャン・ド・ラ・トゥールと妻シビル・ド・クロップソー Sybille de Cropsauxの間に生まれた。夫妻にとっては、二人目の子供であった。3月19日に洗礼を受けているが、代父は小間物屋のジャン・デ・ヴフJean des Voeufs(町の参事会員)、代母はニコラ・ムニエの妻パントゥコゥスト Pentecoste le Meusnier であった。ニコラは町の水車小屋の持ち主であった。小麦粉などを挽いてもらっていた間柄なのだろう。
セイユ川はモーゼル河の支流だが、実際に訪れてみると、とりたてて大きな川ではない。しかし、16世紀の頃は水流を利用して多数の水車があり、脱穀やなめし皮などの仕事が行われていた。今日に残るヴィック・シュル・セイユの絵を見ると、高い尖塔や立派な建物も存在し、城郭で囲まれた美しい町であったようだ。小さな町(今日の人口約1500人)で、パン屋のラ・トゥール家は、町ではよく知られた人物であったのだろう。
さて、こうした環境で生まれたジョルジュが次に歴史的な記録に現れるのは、かなり年月が経っての1616年10月20日、生地ヴィックで今度は自分が洗礼の代父を務めたという時である。翌年には結婚しており、23歳、画家としての修業は終わっていると思われる。それまでの年月をいかに過ごしたかは、今のところ推測の域を出ない。しかし、研究の蓄積で周辺的な部分からさまざまなことが浮かび上がってきた。
ラ・トゥールの家系をたどる
まず、ジョルジュが家業のパン屋を継がずに、なぜ画家の道を選んだかという問いが提示されてきた。父親は石工の息子、母親はパン屋の娘であり、父親ジャンは結婚後、石工ではなく妻の家系の家業であったパン屋を選択した。そして、息子のジョルジュはパン屋にはならず、画家の道を選んだ。家族や姻戚などに画家はいたのだろうか。この点については、研究者によって、次のようなことが推測されている。しかし、あくまで一定の資料に基づいての想像の産物である(Tribout de Morembert 1974, Tuilleir 1992)。
ジョルジュの父親であったパン屋ジャンの結婚契約書から分かったことは、妻の旧姓が、シビル・ド・クロップソー Sibille de Cropsauxであったことである。一時はシビルという名前が、貴族階層につながっているのではないかという推測がなされたこともあった。しかし、当時のロレーヌでは普通の名前であった。
その後、クロップソーという名前に関心が移った。 シビルの母親は、Marguerite Trompetteと呼ばれた。彼女の最初の夫はFrançois Mélian(or Milian) という名前で、職は公文書送達人、特使であった。第二の夫はパン屋で名前はDemange Henryであった。そこにはCropsauxとの関連はなにも見出せない。彼女の娘は最初Nicolas Bizetと呼ばれたが、1583年1月9日の結婚契約に立ち会った弁護士はSibille と記し、亡くなったMilianの娘と記している。最初の結婚契約の際には、近い親戚とされるJacquemin de Cropsal (or Cropsaulx or Cropsaux)が立会い、署名が確認されていた。しかし、彼の名は、Sibilleの次の結婚契約書には出てこない。
シビルがいかなる経緯があって、再婚したかも分からないが、この再婚で、夫は後の大画家ジョルジュの父となるJean de La Tour(dated 31 December 1590)であった。しかし、妻の名前はSibille de Cropsauxになっていた。新婦が寡婦の場合、当時の慣行では、彼女の父親の名前には言及しないのが慣例であったようだ。このことから、Georges de La Tourの母親は、実際はJacquemin de Cropsauxの非嫡出児であったのではないか。これが研究者であるTribout de Morembertが想定する内容のようだ。
この推論が正しいとすれば、ラ・トゥールは次に記す背景から、貴族の家系の血筋を非嫡出ながら継承していた可能性もある。非嫡出であることには当時はあまり重きをおかれなかった。この家系を継承してラ・トゥールは彼の父親の職業(パン屋)を継がずに、芸術家として、上層階級であった先祖の地位を継承しようと思ったのではないかと、研究者モレンベールは推測する。
貴族の血筋?
Jacquemin de Cropsaux はもしかすると、記録に残る伯爵(Count )Jean de Heemstattの城の守り役を務め、Château-Vouéの管理者agentであった人物であったかもしれないとも推定される。もう一つの可能性として研究者が記録から推定しているのは、Jean de Cropsaux の名前で毛皮商人として1570年ころヴィック・シュル・セイユに該当する人物がいたとされる。しかし、これもあくまで推測にとどまる。(こんなことまで、推測されるのはさぞかし、ラ・トゥールにとっては迷惑なことであろう。有名人が避けがたい税金ということだろうか。)
他方、妻の側の非嫡出問題ではなく、父親の方にラ・トゥール家の正当な血筋があったのかもしれないという推測もある(どうでもよいような詮索であるが、情報が集積してくると今まで見えなかったことが見えてくることもある。)
パン屋の社会的地位
さて、16世紀末にヴィックでパン屋が生業であるということで、貴族ではなくても土地の名士になりえたことは、ほぼ確かである。当時の人々の主食であったパンは、小麦あるいは精製前の穀物から確実に調達されなければならず、粉挽き、パン屋といった職業は庶民の生活にとってきわめて重要であった。このサイトでとりあげたフランソワ・デポルトの『中世のパン』にも詳しく記されているが、素材である小麦粉などの質やパンの秤量については厳しいきまりがあり、当時の職業の中でも特別の役割を負っていた。中世以来、厳しい社会的な規制が存在した裏には、計量の不正などがあったからだろう。いずれにせよ、パン屋という職業の特殊性から、町の参事役などの重要な役につく場合もあったとみられる。
ジョルジュの父親であるJean de La Tour は、明らかに裕福であったようだ。1592、96年に1回で750フランを超えるかなり大きな取引をした記録がある。かなり自由になる金を持っていたと思われる。このことは、息子を徒弟に出せるほどの資産を持っていたといえよう。
画家を生み出した社会環境
それでは、16世紀末において、息子ジョルジュが選んだ画家という職業はいかに見られていたのだろうか。これについて、客観的な評価を下す資料はないが、芸術性、精神性などの次元で活動する画家という職業には、特別な評価が与えられていたことは考えられる。
いくつかの資料によると、画家などの芸術家を生み出した家庭は、ほぼ同様な社会階層であったと思われる。ヴィックにおけるいくつかの例が明らかにされている(詳細はTuillier 1992、97参照)。
ラ・トゥールと同世代で、画家になったピエール・ジョルジュ Pierre Georgeという若者がいた。彼は、なめし皮職人であったニコラス・ジョルジュの息子であった。1592-1597年ころに生まれた。その後、画家になりローマへ修業に出かけた。そして、1616-17年にヴィックへ戻ったが、不幸にもすぐ死んでしまった。
また、1612年には、ナンシーで画家としてきわめて高く評価されていたジャン・サン・ポウルJean Saint Paulがックロード・ド・ヘイClaude de Heyなる名前の若者を徒弟として採用するために、ヴィックへ来ている。しかし、彼のその後は不明である。
さらに、ラ・トゥールの誕生の2年前、1591年に彫刻家であるフランソア・デランFrançois Derandが、ヴィック で生まれている。彼は、ジェスイットの偉大な彫刻家、Martellangeのライヴァルであった。1641年にパリのサン・ポウル・サン・ルイSaint-Paul-Saint-Louis 教会の現在のデザインをした芸術家であった。
こうしてみると、ラ・トゥールが画家としての道を選び、成功を収めた頃は、ヴィックにはそうした芸術家を生み出す風土が存在したと思ってよいだろう。その後の度重なるかなり戦火で失われたが、ヴィックには著名な建物、教会の彫刻、絵が残っている。ラ・トゥールの生涯の前半は、平穏で豊かなロレーヌであった。中世以来、さまざまな技能を継承した石工、大工、画工、鍛冶やなどの職人層も形成されていたと思われる。こうした環境で、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な天才画家も生まれ、育っていったのだろう。
*Israël Silvestre, A View of Vic-sur-Seille, Cabinet des Dessins, Musée du Louvre, Paris
6月14日 NHKの「クローズアップ現代」は、日本に不法滞在している外国人の子供の問題をとりあげていた。そして6月25日の「人口減少社会」でも外国人労働者といかにかかわるかという問題は、日本の将来を考えるひとつの重要なトピックスであった。
6月14日に報道されたのは、先ず15年前にフィリピンから父親が観光査証で来日、期限が切れた後もずっと日本で働き、そのまま今日まで帰国することなく働いている例である。この父親ウイルフレッドさんは、主として建設現場で15年働いてきた。バブルが崩壊した後でも、日本人が働かなくなった分野である。父親の来日後、母親ネルダさんも3歳の子供ウォン・ジャイさんを連れて来日している。ウォンさんは、成長して公立学校に入学し、今は高校3年生になり、父親と一緒に暮らしている。しかし、不法滞在であるだけに、正式の在留資格がない。
ウォンさんは、日本語以外はできず、来年高校卒業後はスポーツ・インストラクターになることを目指している。不法滞在者なので、国民健康保険へは未加入であり、虫歯も治せないという。父親とウォンさんは将来のことを考え、去年3月入国管理局に出頭し、法務大臣の在留特別許可を懇願した。7月に結果が知らされるはずであった。ところが、母親ネルダさんが、3月不法滞在容疑で警察に逮捕され、拘留された。東京都が治安対策を強化した結果であるといわれる。
このケースが示すように、不法滞在者のほとんどは、オーバーステイ(不法滞在)といわれる許可のないままに在留期限を過ぎて滞在している者である。
明暗を分けるものは
他方、同様な在留特別許可の懇願をしたが認められず、裁判所に訴えているケースが紹介された。アミネ・マリヤムさんは、14年前に来日し、両親と妹と一緒に日本に住んでいるイラン人である。滞在が長期化し、イランへ帰国しても生活できないとの見通しで、在留特別許可を求めて、1999年にグループで東京入国管理局に出頭した。このとき、17家族が出頭したが、10家族は滞在が認められた。しかし、マリヤムさん一家は認められず、強制退去命令が出された。不許可の理由については説明がない。入国管理局は、在留特別許可は懇願の内容がそれぞれ異なるから説明できないと回答している。言い換えると、在留特別許可は法務大臣が与える恩恵的措置であり、説明する理由はないとして判断の基準は示していない。
在留が認められる場合は
在留特別許可の要件(基準)とは、入管法第50条3項が規定する「法務大臣が特別に在留を許可すべき事情があると認めるとき」である。要するに、法務大臣の手中に判断が任されている場合である。この判断は、現実には先例と判例の集積の上に判断が下されることになる。そして、多くの日本人が知らない間に、現実は進行し、現在では年間1万人近い外国人に在留特別許可が認められている。
これだけの数の外国人が在留を認められているということは、日本はなし崩し的にアムネスティ(不法滞在者の救済措置)を実施していることになる。外国でアムネスティを実施した国はあるが、いずれも基準を公表して一定時期に実施している。アムネスティを実施すること自体にも、さまざまな問題が含まれている。アムネスティを実施すると、かえってそれを期待する不法滞在者を増やすことになるという考えも強い。最近では、このサイトでも紹介したスペインでも、その懸念が表明されている。
透明度の高い政策へ
日本の入国管理政策は、80年代以降、実態の変化に応じて追加・修正されてきたが、大きな欠陥は長期的・全体的視点が欠如しており、重要課題を先延ばしにしてきたことである。縦割り行政の弊害も大きい。15年以上も日本に不法滞在している外国人労働者や子供たちが生まれてしまったのも、そのためである。外国人・移民問題は膨大な事実・経験が蓄積されており、時の経過とともにいかなる事態が展開するか、ほぼ明らかになっている。日本はもっと早くその教訓を学び取り、対応すべきであった。
外国人労働者を受け入れることは、「人間」・「家族」を受け入れることであり、将来の国民を受け入れることにもつながっている。6月25日のTVでも報じられていたが、日本に定住することを選択し、ローンを組んで住宅を購入する日系人家族も増加している。外国人労働者と日本のつながりは、今後強まるばかりである。定住化への対応を含め、将来が見える政策の設定が必要である。なし崩し的な政策の継続は好ましくない。
国レヴェルでの政策対応が遅れ、受け入れ地域がさまざまな形で負担を強いられている。今や日本で生まれた外国人労働者の子供たちが、働く機会を求める時が来ている。長期的視点に立って基本的問題を整理し、可能な選択肢を明示し、国民的議論を尽くすべき時である(2005年6月26日)。
最近注目を集めたひとつの事件からも、国境の存在あるいはその管理がいかに複雑怪奇なものであるかを知ることができる。この国境地帯では、以前からなんとかアメリカという先進国へ潜り込もうとする不法入国者と彼らを餌食にするコヨーテと呼ばれる悪質なブローカーが跋扈していることが知られてきた。密入国を企てる者から身ぐるみ奪い取るなど、時に暴虐のかぎりが尽くされる地域でもあった。
さらに、南米を始めとして世界各地から持ち込まれる麻薬などの犯罪的な国境貿易がかねてから蔓延していた。かつて「麻薬戦争」というTVドラマがアメリカで上映され、国民に大きな衝撃を与えたが、長年にわたり不法貿易などに関わる国境警察や軍隊の腐敗などもあり、時にその一端が露呈され、マスコミの注目を集めることも珍しくなかった。
ヌエヴォ・ラレドの事件
最近この国境地帯で、また大きな事件が生まれ、注目を集めた。アメリカのテキサス州と国境を接するヌエヴォ・ラレドNuevo Laredo市(地図上☆印)で、6月13日、メキシコ国家警察の特別捜査官が軍隊とともに出動し、同市の全警察官700人以上を拘留するという事件が起きた。
この例のない事件が起きたのは、それに先立つ6月8日、ヌエヴォ・ラレドの新警察署長が暗殺されたことに発している。就任して半日もたたない間に、誰とも分からないガンマンによって射殺されてしまったのだ。さらにその3日後、メキシコシティから私服の連邦捜査官(アメリカのFBIに相当)が事件捜査のため現地に派遣されたが、彼も今度は地元の警察官によって射殺されたしまった。ローマ時代の風刺作家ユヴェナールは「保安官をだれが守るのだ」という皮肉な言で知られているが、まさに誰を信用していいか分からない事態が生まれてしまっている。
真相解明はなされるか
あまりの無法事態に、メキシコ政府は急遽「安全なメキシコ」と名づけた新しいプログラムを導入し、事件の背後にあるとみられるメキシコ国境全域にはびこっている麻薬密輸に関連すると思われる暴力と腐敗行為の取り締まりに乗り出した。中央から軍隊や警察を送り込んで、国境地帯の犯罪防止・根絶を掲げている。しかし、こうしたことは、これまでにもたびたび実施され、今回もどれだけ実効があがるかすでに疑問視されている。
メキシコの国境地域では麻薬密輸などの犯罪組織と警察の癒着は長年にわたる問題であり、多数の事件を生み出してきた。犯罪組織間の確執などもあり、メキシコの中央政府も十分に監視できていない。メキシコのヴィンセント・フォックス大統領は、かねてから国境にかかわる犯罪の根絶を旗印に掲げてきたが、国境犯罪は尽きることがない。ブッシュ大統領とフォックス大統領の間では、国境の開放に向けた合意が生まれかけたこともあったが、アメリカ側にはそうした動きへの警戒感が強まっている。
アメリカ・メキシコ国境の両側の関係者は、今回の事件に困惑し、ラレドの市長ベティ・フローレスは、連邦ならびに州政府に対して、彼女の表現では国境における「あふれ出した」暴力spillover violenceをなんとかしてほしいと頼み込んだ。しかし、政府側の対応もあまり効果がない。
拘留中のヌエヴォ・ラレドの警察官はすべて尋問と麻薬服用のテストを受けている。服用の事実が判明した者や犯罪行為と関連すると思われる者は、直ちに逮捕され、無実の者だけが勤務に服しつつある。すでに41人の警官が新署長の暗殺に関与していたとみなされ、メキシコシティへと移送された。
ヌエヴォ・ラレドは人口およそ50万人を擁する市だが、今年1月以来、60人以上が暗殺されたという。とんでもない犯罪地域に思える。ところが、これでも犯罪率の点では、2004年のアメリカ側首府ワシントンD.C.よりも低いそうだ。
マイナス面を抱えての拡大
ヌエヴォ・ラレドは、11年前のNAFTA成立以降、アメリカ・メキシコ間の最大の「陸上貿易港」land portとして発展してきた。市の財政は貿易と観光、外国からの企業投資で成り立っている。
いまやこの地域はメキシコからの最大の物や人の流入口であり、昨年は両国の全貿易量の40%近くが同市を経由していた。ヌエヴォ・ラレドの貿易拠点としての地位は次第に確固たるものとなりつつある。
しばしば抽象的な次元で語られることが多い移民政策、国境の姿だが、イメージと現実の間の距離は、時にとてつもなく離れている。グローバル化は、こうしてさまざまな負の側面や傷跡を露呈しながらも、とどまることなく進行している(2005年6月22日)。
Source:ヌエヴォ・ラレド事件については、下記参照。
Quis custodiet ipsos custodies? The Economist June 18th 2005.
国境をめぐる移民労働者、ブローカー、警察、国境パトロールなどの実態は、次の文献に生き生きと描かれている。
S.Rotella, Twilight on the Line: Under-worlds and Politics at the U.S.-Mexican Border, New York,:Norton, 1998.
本業の仕事が忙しくなってくると、それから逃避して別のことをしたいという思いが募ってくる。原稿の締め切りなどに追われると、放り出して逃げ出したくなる。忙しさが増すほど、逃げたくなるからかなり重症である。前から聴きたい、読みたいと思っていたCDや本がとりあえず逃避の対象となる。旅行の途上などでは、日頃の関心事とはかなり離れたテーマの音楽や本が欲しくなる。
この本もこれまで「積読」の山に埋もれていた。新書になる前は、同じ出版社から確か1999年に刊行されていた。いくつかの動機から、ぜひ読みたいと思っていた。読んでみると、やはり大変面白い。詳細な内容に興味ある方は、現物に接していただくしかないが、構成だけは末尾に示しておこう。
中世のパンづくり
さまざまな点で、注目すべき点があったが、とりわけ、パンづくり、パン屋の共同体と同職組合(ギルド)、パンの価格の形成についての章に興味を惹かれた。もともと、「労働」の研究者であるため、熟練の形成の仕組みや労働の態様には長らく関心を持ってきた。もうひとつの直接的動機は、このサイトで取り上げているラ・トゥールに関連している。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1593年ロレーヌ公国の町ヴィック・シュル・セイユにパン屋の息子として生まれた。父親ジャンjeanの家は石工、母親Sybilleシビルの家および彼女の兄弟はすべてパン屋であった。生活必需品であるパン屋の方が暮らしが立てやすかったのだろう。ジャンは妻の家の家業を継いだ。この頃のロレーヌは、きわめて平和で豊かな地域であった。ラ・トゥールは、時に戦乱の巷に生きた画家であるといわれることがあるが、少なくも青年時代までは素晴らしい平穏に恵まれた環境であった。状況が厳しくなってきたのは、1618年、30年戦争が始まった頃からであり、画家の後半生である。
さて、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生家であるパン屋は、生活には苦労のない職業階層であったとみられている。西欧社会ではパンは主食であり、パンづくりは重要な役割を果たしていた。両親にはすでに一人の子供がおり、ジョルジュは2番目の子供として生まれたことになる。そして、1600年までにさらに5人が生まれている。しかし、疫病その他で若くして死亡する率はきわめて高かった。乳児死亡を含めて、成人年齢まで達した者の方が珍しいくらいだった。ジョルジュの父親は、ヴィック・シュル・セイユの町では、かなり羽振りも良く名士でもあったようだ。
このような状況で、ジョルジュはなぜ家業の職業を継がずに、画家の道を選んだのであろう。このあたりはまったく謎に包まれている。
パン職人の徒弟修業
当時、パン屋職人になるには同職組合のメンバーであるパン屋の親方の下で、徒弟修業を経なければならなかった。パン屋の同職組合がいつ、いかなる背景で生まれたかについては確たる資料はないが、13世紀末以降多くの同職組合が形成されている。パン屋の同職組合の規約では徒弟期間を2から4年と定めていた。しかし、実際には8歳で9年の契約を親方と結んだ場合も知られている。この場合はパン職人として働くまでの長い期間を家内使用人として過ごしていたと思われる。すなわち、親方はこの少年に9年間の住居と食事を提供し,扶養することを約束している。徒弟期間については、両親の資力に対応している場合が多かった。徒弟期間が長い場合は、両親は養育費を節約できたといえる。職業によって差異はあるが、徒弟の仕組みは同職組合を背景にして、類似した制度が形成されていた。
職人としての力量
パリやその旧市街区での徒弟に入った若者の平均年齢は17・5歳、最も若い場合で14歳、最も高い場合で22歳であった。 同職組合の規約や慣習法では、親方が引き受ける徒弟の数は、一度に一人であったが、実際には複数の徒弟を引き受けていた例もかなりあった。徒弟の間は給料は支払われず、せいぜい修業の終わりに、なにがしかの心付けをもらう程度であった。徒弟期間が終わると、必要な技術の習得および期間中の品行方正を証明する一種の証明が与えられたが、多くの場合口頭であったという。つまり、親方がその徒弟の技量に「満足している」ことを公言すれば、ほとんどの場合は良かったようだ。近隣の町などで職に就くにはそれで十分だったのだろう。実際には、仕事をさせてみれば、職人としての力量が直ちに判別できたからと思われる。職人として認知されれば、賃率などもその時代に対応して慣習的に定まっていたようだ。
話題が横道に逸れるが、パン職人の世界は、他の職業と比較すると女性にもかなり開放されていたようだ。1382年のロレーヌ地方メッスの規約では女性も男性のパン職人とまったく対等に扱われていたとの記録がある。パンはもともと家庭内でつくられていたから、女性が活躍する場も多かったのだろう。
職人としての独立
徒弟を終了した若者は、大部分が職人になった。職人はセルジャン(使用人)、ガルソン、ウヴリエ(労働者)などの呼称であった。15世紀末以降になるとコンパニオンという呼称も登場している。この頃になると、親方として独立開業する環境はかなり厳しくなっていたようである。親方のところでそのまま職人として仕事をするか、他のパン屋で働くことが普通になっていた。同業者の数が多くなってきたのである。それでも、親方の息子が職人となるのはかなり有利であったようだ。中世末期から、同職組合は既存の手工業者の子供および富裕な志願者の入会だけを認めるかだけの、閉鎖的な組織へと変質していった。
職人としての賃率は、徒弟時代とは異なり、当時としては一定の社会的・生活水準を享受しうるだけの高さに設定されていた。しかし、ラ・トゥールの活躍した16-17世紀になると、中世と異なり、競争環境も次第に厳しくなっていたようだ。
他方、ラ・トゥールが選択した画家の同職組合も同様であり、新規の参入はかなり厳しくなっていた。とりわけ、画家の場合は本人の才能・技量がその成否を大きく決定していた。技量や社会的評価が伴わなければ、どうにもならない職業である。ジョルジュと息子のエティエンヌの関係を見ても、類推できるところがある。エティエンヌは、父親のジョルジュほどの天賦の才に恵まれていなかったようだ。画家の職業形成については、別に記す機会を待つことにしたい。
おそらくジョルジュはこうした環境変化の中で、家業のパン屋を継ぐよりは自分の才能を考え、画家として身を立てる道を選んだのだろう。親とは違う道を選ばせることを可能にするほど、家業も裕福であったに違いない。おそらく、どこかの工房で修業をしないかぎり、技能の習得はほとんど不可能であり、社会的認知も得られなかった時代である。もちろん、若い頃から画家としての天賦の才、片鱗が認められていたに違いない。だが、ラ・トゥールが画家としていかなる修業の途をたどったかは依然として謎に包まれたままである。
『中世のパン』目次:
序
第一章 麦畑から粉挽き場へ
第二章 パンづくり
第三章 パン屋の共同体と同職組合
第四章 フランス、パン巡り
第五章 パンの販売場所
第六章 なくてはならない市外からのパン
第七章 自家製パン
第八章 パンの価格 原則と実際
第九章 年のなかのパン屋
第十章 パン消費の数量的評価の困難
結論
* まったく別の資料だが、18世紀中頃になってもイギリスの熟練機械工の平均寿命は38歳くらいであったとの記録を読んだことがある。彼らも徒弟時代が必須だった。S.Pollard, A History of Labour in Sheffield, Liverpool University Press, 1959.
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと工房作?
《聖ペテロの否認》
Geoerges de La Tour et atelier?
Le Reniement de saint Pierre
Musée des Baux-Arts, Nantes
二本の蝋燭の光で、画面は二分されている。といっても、右側のテーブル上に置かれていると思われる蝋燭自体は人物の陰に隠れて見えていない。左側には聖ペテロと推定される髭をたくわえた男と蝋燭を手にする召使いと思われる女性が立ち、真剣な面持ちでなにやら話し合っている。右側には5人の兵士たちが、もう一本の蝋燭を光源に、ダイス遊びに興じている。机の上の蝋燭は、兵士の腕に隠されてまったくみえない。光だけがゲームの情景を照らし出している。だが、蝋燭の光を隠す腕の曲げ方なども、どことなくぎこちない。これがラ・トゥールの作品といわれても、これまで見てきた真作と判定されている作品と比較して、直感的にどこか迫力に欠けるところがある。
迫力不足の原因?
なぜ、そうした印象が生まれるのか。まず、画面が左側の人物二人と、右側の5人のグループとの間で二分され、焦点が分散していることが、最大の原因と思われる。ラ・トゥールの他の作品「女占い師」や「ダイヤ(クラブ)のエースを持ついかさま師」のように、人物群像が描かれた例を見ると、周到な配慮の上に見る人の視線をひとつの焦点にしっかりと引きつける工夫がなされてきた。画家はこの点にきわめて大きなエネルギーを注入してきた。光源が二本の蝋燭と兵士の足下に置かれた赤い火種が燃えるストーブと分散しているのも、散漫さを加えているのかもしれない。
新たな試みか
それとともに、ラ・トゥールはしばしば執拗なまでにリアリズムを追求していた。他方では、極限にまで単純化し、「荒野の洗礼者聖ヨハネ」のように最小限の描写によって心象世界を描き出したような作品もある。しかし、この作品にはそのいずれもが感じられない。画風が移行する時期の作品なのだろうか。あるいはそのための試作なのかもしれない。
ラ・トゥールはこうしたストーリーのある作品については、しばしば主役を思いがけない人物に割り当てることで、斬新さを生み出してきた。この作品においても、画家が主役の役割を負わせたのは左側の聖ペテロではないだろう。主役であれば、画家の技量をもってすれば、もっと克明に描きこんだのではないか。おそらく、右側の疑わしそうな顔つきで聖ペテロと女性の方を見ている兵士に、主役の役割を負わせたのだろう。「疑惑の念」は、聖ペテロの否認についての伝承を思わせるところもある。また、蝋燭を覆い隠すように前方に立っている兵士の表情は、ほとんど読み取れないが、良く見てみると視線は自分の掌上のダイスからは離れ、なにか別のことを考えているようにもみえる。
ラ・トゥールの作品が、しばしば真贋論争に翻弄されてきたことについては、このシリーズでも何度か触れたことがある。これについては、さまざまな理由が考えられる。
ひとつは、現存するラ・トゥールの作品自体が少ないということもあるが、次第に明らかになってきた画家の生涯を考えると、ラ・トゥールはロレーヌ地方ばかりでなく、パリの宮廷世界まで含めて、かなりの人気作家であったということによる。
位置づけの難しさ
作品自体の図抜けた素晴らしさに起因するが、(画家の指導下に作成された工房の作品でもよいから)ラ・トゥールの作品を所有したいという人々が多かったことが考えられる。そのため、多数の作品が工房から生み出されたと思われる。結果として、ラ・トゥールがテーマから最後の一筆にいたるまで自ら手がけた真作から、工房において画家がさまざまな関わり方をした作品、徒弟や息子のエティエンヌの作品、同時代あるいは後世の模作など、かなり濃淡がある作品群が、今日まで継承されていると考えるべきだろう。
細部の描写を見ると、美術史家が指摘した点のひとつは、主役が聖ペテロであるとするならば、ラ・トゥールの他の作品と比較して、迫力に欠けるということにある。確かに、他の作品のリアリズムに満ちた描写と比較すると、力が感じられない。しかし、女性の表情や手指、兵士の表情などについては、ラ・トゥールらしい非凡さが感じられる部分も多い。
この作品は、画家の署名と1650年の年記を持つだけに、研究史の過程でもさまざまな議論を生んできた。年記との関係もあって、1651年に年始の贈り物として、リュネヴィル市がロレーヌ総監督ラ・フェルテに献上した「聖ペテロの否認」に一致するのではないかと考えられてきた。1992年ジャック・テュイリエはこの見解に疑問を呈し、「パリ向けに制作された、総督の絵の原作あるいは再制作品」とする見解を提示した(Thuillier, 1992)
署名も決め手とならず
署名や年記の存在にもかかわらず、こうした議論が生まれるのは、この作品にこれまでラ・トゥールの真作と評価されてきた諸作品と比較して、ある迫力に欠けるところがあるからである。パリゼは、すでに1949年に真作とは質の差があると指摘している。美術史家や鑑定家を悩ましたのは、署名と年記の存在であったと思われる。ラ・トゥールの作品にしては、なにかが欠けている。1650年という年記は、記録に残る制作年としては最後のものである。画家は推定57歳、死去する2年前であった。
ラ・トゥールといえども、作品のすべてが傑作ばかりというわけではない。しかし、素晴らしい作品が多いだけに、この画家としては凡庸な作品が目立ってしまうのかもしれない*。この作品が駄作というわけではなく、他の作品が図抜けているのである。人生ばかりでなく、作品についても実に謎が多く、それだけに惹きつけられる画家である(2005年6月17日記)。
*今回の国立西洋美術館「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展では、「ラ・トゥールとその工房?」という位置づけがなされている。ラ・トゥールの同様な評価の作品に、ダイス遊びに興じる兵士だけを描いた次の絵がある。構図としては、主題が限定されているこちらの作品の方がはるかにまとまっている。
The Dice Player, c.1650, Preston-Hall Museum,Stockton-on-Tees.
一人の少女がなにかにおびえたような顔で、じっとこちらを見ている。彼女の着ている衣服も粗末なものだ。そして、背景には機械の列のようなものが写っている。とりわけ、少女の思い詰めたようなまなざしは、時代を超えてわれわれになにかを強く訴えているように思われる。そこには見る者の姿勢を正させるような厳しさが張りつめている。
彼女は紡績工場で働いていた。その一瞬をとらえた写真である。少女は、なにを語りかけようとしたのか。思い詰めたような顔は、時空を超えて現代のわれわれに迫ってくる。
苛酷な労働と子供たち
アメリカの写真家ルイス・ハイン(Lewis Hine)が、20世紀初めの繊維産業で働く子供たちを記録した写真の一枚である(詳細は2005年2月12日本サイト)。子供たちは、当時ほとんどあらゆる産業で劣悪な労働環境の下で働いていたが、ここに紹介する写真は、ニューイングランドやカリフォルニアの綿紡績産業で働く子供の実態を伝えている。子供たちは、週6日、一日11-12時間という長時間を、どならないと話もできないようなものすごい騒音と綿くずが舞い上がる高い湿度の中で、立ちずくめで働いていたのだ。綿紡績工場で働く子供のうちで、生きて12歳をむかえる数は、通常の半分にも満たなかったといわれている。肺結核、気管支炎、そして工場での事故などが幼い命を奪っていた。
写真家ルイス・ハインが撮影したこの写真はアメリカを変えた。1938年にフランクリン.D.ルーズベルト大統領が署名した労働基準法(Fair Labor Standard Act)には、すべての州に適用される最低賃金と労働時間の上限が定められているとともに、工場や炭坑が16歳未満の子供を雇うことを禁じた児童労働の制限も盛り込まれた。
グローバル化と児童労働
しかし、世界から厳しい環境の下で働かされている子供たちの姿は、消えてはいない。現代のアメリカですら、児童労働は根絶したわけではない。それどころか、グローバル化に伴う企業間競争の激化は、開発途上国を中心に、少しでも低賃金の労働者を求めて、児童労働の増加に拍車をかける要因となりかねない。21世紀半ばに向けて、先進国の人口が増加しない反面、開発途上国を中心に地球上の人口は増加するばかりである。ILO(国際労働機関)によると、世界中で5歳から17歳までの人口の6分の1にあたる約2億4600万人が働かされている。
今日、6月12日は、「児童労働反対世界デー」である。
Source: Lewis Hine Collection
ラ・トゥールの真作か?
6月3日、マドリッドで署名はないが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作と思われる作品が発見されたとのニュースが世界をかけめぐった。ニュースの出所はひとつでAssociated Pressの寄稿者シアラン・ガイレス(Ciaran Giles)である。これまでにも、数え切れない真贋論争の波に洗われてきたラ・トゥールだけに、専門家の「お墨付き?」が出るまで待つか、遠からず実物を見る機会ができるかもしれないと思って掲載をためらっていたが、ご親切にニュースをお知らせくださった方々(pfaelzerwein, M.M.& others) も多く、ラ・トゥール・ウオッチャー(?)の一人として、簡単にご報告することにした。
もうひとりの聖ヒエロニムス
発見された作品は「手紙を読む聖ヒエロニムス」(Saint Jerome Reading a Letter)という良く知られたテーマに属する(2005年4月4日)。赤い衣を着けた使徒とおぼしき人が、眼鏡で手紙のような書類を読んでいるおなじみの構図である。画像から感じられるかぎり、ラ・トゥール作といってもおかしくない。というよりも、見た瞬間にラ・トゥール自身でなくとも、工房関係者などの手になるものではないかと思わせる。どうしていままで、調べることなく未発見のままに放置されてきたのかと、そちらの方を詮索したくなってしまう。
経緯は、スペインのセルヴァンテス研究所の部長セザール・モリーナ(Cesar Antonio Molina)氏が、研究所のオフィスにあてられているマドリッド下町にある19世紀末のマンションで発見したとのこと。「由来などを確認しうる文書などはなにもないが、何十年もそこにあったことは知っていた」という悠長な話である。筆者も画像を見ただけで、あれ?と思うのだが。「一室の壁にかけられているのを見て、なにか特別なものと思い、プラド美術館に連絡し、専門家に来てもらった」という話である。
専門家の鑑定は
作品は今年3月にプラドへ鑑定のために移された。真作と鑑定したのは、美術史を専門とし、プラドの理事でもあるホセ・ミリクーア名誉教授である。プラドはラ・トゥール研究の専門家の一人ピエール・ローゼンベール(Pierre Rosenberg)にも相談し、同氏もラ・トゥールの作品と確認した由。ラ・トゥールの作品のほとんどに当てはまるように、これも画家の署名はない。
画像でみるかぎり、保存状態はイギリス王室所蔵の同テーマの作品より、はるかに良いようだ。使徒の身につけた衣装の「ラ・トゥール・カラー」ともいうべき朱色が鮮やかに見える。手に持つ手紙の迫真性も伝わってくる。背景に斜めに光が射しているのも読み取れる。
プラドの美術部門部長ミグエル・ツガーツァ氏Miguel Zugazaは、この発見はお祝いできるものだと述べ、ルーブルの専門家たちも祝意を表したとのことである。しかし、ラ・トゥールの作品は、これまでも真作と判定されたものが、その後の研究で模写・コピーなどに判定が変わったものも稀ではなく、評価が定まるには時間が必要だろう。
スペイン、そしてプラドが所蔵するラ・トゥールの作品は1991年に取得した「リボンをつけたハーディ・ガーディ楽師」(断片)だけであった。実は、これも一時は日本の石塚コレクションに含まれており、1991年にプラドへ売却されたものであった。ラ・トゥールの激動の人生とあわせて、数奇な運命をたどった作品のそれぞれに興味は尽きない。
Source: http://www.boston.com/ae/theater_arts/articles/2005/06/03/unsigned_la_tour_painting_found_in_madrid/
移民問題は、時に政治を大きく動かす底流となることがある。拡大EUの大きな流れを頓挫させたフランスやオランダでの国民投票には、速すぎるグローバル化への不安が反映していた。増大するイスラーム諸国や中欧・東欧からの労働者は、自分たちの仕事を奪うのではないか。彼らと一緒にやっていけるのだろうか。
国境は単なる地図上の境界ではない。すぐれて政治的存在である。その設定いかんで、国境の風景は著しく変容する。現在、アメリカ議会で審議の過程にある移民法改正提案をめぐる議論は、日本ではほとんど関心を呼んでいないが、その内容はきわめて注目すべきものである。(ちなみに、日本の移民問題の議論は、グローバルな配慮をしているといっても、本質はきわめてローカルなものにとどまっている。日本の将来についてのヴィジョンも内容が著しく乏しい。)
アメリカ・メキシコ国境をめぐる移民と国家のせめぎ合いは、多くの議論を重ねながらも、さしたる改善の方向を見いだせず、今日まで推移してきた。いかに高い人工的障壁を国境に設定しようとも、国境を越えようとする人の流れを阻止することはできない。他方、国境を越えようとする人々にとって、見える障壁・見えない障壁がさまざまにその移動を妨げてきた。他方、アメリカ側から見れば、国民の支払う税金が不法移民のために使われるという不満もある。
新法は抜け穴を埋められるか
「安全なアメリカと秩序ある移民法」(仮称)(Secure America and Orderly Immigration Act)は、マッケイン上院議員(McCain、共和党、アリゾナ)、ケネディ上院議員(Ted Kennedy、民主党、マサチュッセッツ)および下院での支持者であるコルビー議員(Jim Kolbe、共和党、アリゾナ)によって構想され、法案化された超党派の法案である。このマッケイン・ケネディ法案は、2004年1月、ブッシュ大統領が「移民法改革提案」の中で提示した主要点と合致する部分が多い。当時のブッシュ大統領の表現では「テンポラリーな労働者としての法的ステイタスを、アメリカで不法に雇用されている数百万の入国審査書類を持たない人々、ならびに現在は外国におり、アメリカで雇用の機会を提示された人々に与える」というものであった。
アメリカの入国管理システムは欠陥があり、抜け穴が多いことは知られてきた。その結果、おそらく1000万人近い不法移民が国内で働いている。そして、これとは別に毎年100万人くらいが国境を越えて不法に入国している。この現実が有形・無形のコストと人的犠牲を生んできた。
定着した低賃金・不法移民の現実
現在の移民法は、経済的現実の前に浮き上がっている。アメリカ経済は国内労働者が就労したがらない低層の仕事を生んでいる。この分野で、高校を落第したアメリカ生まれ労働者の比率は、1960年代には50%近くであったが、今日では10%になっている。その理由は、アメリカ生まれの労働者に代わって、農業、食品加工、建設業などでメキシコ系などの安価な移民労働者が増えたためである。しかし、アメリカが合法的に認めるこれらの仕事への移民労働者受け入れの数は、産業のニーズを満たすには到底いたっていない。
蔓延する地下経済の悪影響
結果として地下経済は、社会のルールをさまざまに破壊している。たとえば、アメリカでホテルにチェックインすると、複雑な違法の連鎖に出会う。ホテル所有者は不法な移民を雇用しているかもしれない。車の預かりサービスの係は、国境を越えるに際して、犯罪ギャング・コヨーテ(越境志望者を商売の種にするブローカー)に2000ドルを払っているかもしれない。彼の友人の中には、国境越えで日射病や飢餓で死んだものもいるかもしれない。昨年は3歳の子供を含み、200人がアリゾナの砂漠で死んでいる。犯罪ギャングは国境パトロールと銃撃戦をやったかもしれない。越境者がコヨーテに支払った2000ドルは、麻薬密輸に使われたかもしれない。
地下経済はアメリカが維持・形成してきたものを脅かす。ひとつは移民形成に寄与してきた異文化も同化する伝統である。不法移民は、表に出ない地下経済の世界で生活している。もうひとつは、国家安全保障である。テロリストにとってアメリカに入国する最も容易な途は、アリゾナ砂漠を経由することである。何の質問もされることなく、不法なネットワークの案内で、国境まで連れて行くコヨーテを見つけさえできれば、アメリカに潜入できる。ギャングは不法入国者に偽造証明書などを渡し、巨大な不法のサブ・カルチュアに隠してくれる*。
抜本的な改革を目指す
ケネディ・マッケイン法案は、アメリカ社会を蝕んできたこうした現実に向かい、抜本的に整理し直そうという内容である。予測できない問題は多く含まれているが、これまでの法案よりは、格段に周到な配慮がなされている。
ブッシュ大統領および側近は、自分たちの考えが「アムネスティ」(不法滞在者に一定の条件と引き替えに合法的ステイタスを与える)と呼ばれることに強く反対しているが、彼らが考えている内容はまさにそれに近い。先述のブッシュ発言は、アムネスティ目当ての不法入国者を増加させてきた。メキシコなどから仕事のない人々がアメリカへ不法流入する動きが目立っている。アリゾナ州など国境警備が甘いと見られた国境で、ボーダーパトロールは、きわめて忙しくなった。このサイトでレポートした最近のスペインでのアムネスティ効果と同様である。「アムネスティはアムネスティを生む」と呼ばれる「アムネスティ・ラッシュ」の現象である。
実はケネディ・マッケイン法案にもその点は当てはまる。新法案は不法労働者および法を破る使用者の双方に、現在彼らが住んでいる闇の世界から抜け出て、「市民権」を取得するまでの段階的ステップを準備している。すなわち、法律が議会で可決され、施行された暁には、アムネスティの恩恵を受けたい者(現在、アメリカに不法滞在している移民)は要求される無犯罪歴や労働歴、英語能力などの条件を充たした上で、約2000ドルを支払い、6年間のテンポラリーな労働許可を取得する。その上で、永住権を申請できる。その後、5年を経過した後に、十全なアメリカ市民権を認められる。同じ権利は不法移民の配偶者や子供にも適用される**。さらに、ケネディ・マッケイン法案は、家族のつながりを持つ移民についてのグリーンカード受け入れ枠を、年間48万人まで拡大する。
グローバルな労働プールを活用する
ケネディ・マッケイン法案は、さらに従来なかった新しいカテゴリーを設定・導入することを予定している。H5―Aと仮称されている区分であり、熟練度がほとんどないか、不熟練な分野でも需要があれば、40万人くらいの外国人労働者を受け入れるという構想である。興味ある点は、年間の受け入れ数は需要に応じて調整されるということにある。この考えの背後には、アメリカは必要な労働力をグローバルな次元で調達するという究極の構想があると思われる。
もちろん、その方向は容易には実現しない。紆余曲折したものとなることも明らかである。当面、使用者は、アメリカ人がだれもその仕事をやろうとしないことを示すことができれば、移民労働者を雇用することを認められるだろう。しかし、同時に新法案は、不法移民に優しく対することはしていない。新法成立後は、アメリカに不法入国した移民は、高い罰金を支払うことになるだろう。彼らを雇う使用者も同様に厳しいペナルティを課せられる。そこで得られた資金は、国境防備の強化に注入される。そして、生体鑑別の情報を含む、新しい偽造できない証明書システムが導入される。
厳しい規則遵守は実現可能か
テロリストの問題などを考えると、とても出入り自由な入国システムというわけにはとても行かない。そこで、法案は外国人労働者を雇用する使用者には、その動向を報告する厳しい規則遵守を求める。
それでも新法が成立してから、いつの時点になるかはまったく不透明だが、ブッシュ大統領とメキシコのフォックス大統領の間には、将来は両国間の国境を消滅させるという暗黙の合意があるといわれている。そうなれば、不法な移民はすべて合法な移民となるわけだが、事態はそれほど容易に展開しないことは、9/11テロや今回の拡大EUのプロセスをみても明らかである。なにが起こるか分からない。事実、最近フォックス大統領は、「アメリカにいるメキシコ労働者は、黒人でも働きたくない仕事を引き受けている」と発言、アメリカ政府および黒人社会の大きな反発を買った。
国境の南
たとえば、アメリカ・メキシコ間の国境を開放することになれば、メキシコの南の国境がフロンティアとなる。そこからアメリカを目指す不法移民が入国しないよう、「国境の南」south of the borderの管理が必要になってくる。そうして初めて、カナダ=アメリカ=メキシコというNAFTA(北米自由貿易圏)の姿が見えてくる。拡大EUの構想と同じだが、果たして実現するだろうか。
新法は大手術
下院の新法案支持者であるコルビー議員は、ケネディ・マッケイン法案(事実上、ブッシュ・ケネディ・マッケイン提案というべき内容だが)は、「大量出血している移民問題をバンドエイドで押さえようというのではない。これは、大手術だ」と述べている。確かに、これまでの問題を根源に近い所で解決するという意欲が感じられる。
しかし、それだけに抵抗も大きい。多くの既存勢力がこの法案を阻止しようとしている。左翼の労働組合などに支持の動きもあるが、移民は自分たちの仕事を奪うと考えている、主流のAFL-CIOのグループは支持することを拒否している。しかし、新法案の提案者ケネディ、マッケインは二人とも大物議員であり、相当な政治力も持っている。これからの議会での検討過程は目を離せない(2005年6月7日記)。
*Lexington: On the border, The Economist May 21st 2005.
**最近の最高裁判決の内容にみるかぎり、アメリカで生まれた不法移民の子供は「想定アメリカ国民」presumed American citizensという位置づけがなされている。ケネディ・マッケイン法案では、こうした子供たちの両親は「家族の結合」の名の下で、自動的にグリーンカードが与えられる。
17世紀のある時、若いイタリアの学生がナポリからヴェニスへの航海途上で海賊にとらわれの身となり、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の奴隷市場に出される。幸い西欧の科学や知的状況に興味を抱くホージャ(主人)という名で知られる下級の宮廷人に引き取られる。
ホージャは若いスルタンに使えている下級の従者である。ホージャと奴隷の若者の間には、次第に不思議な関係が生まれる。最初は主人と奴隷の関係であった二人だが、ホージャは西洋の科学や技術を知りたがり、奴隷は医学や天文学を教えてゆく。ホージャも幼いスルタンの覚えめでたく信頼を得る。お互いに自分の秘密を打ち明け、話が進むにつれてどちらがどちらか分からなくなってゆく。アイデンティティまで交じり合ってしまうようだ。
二人は東と西の文明を象徴しているかのごとくでもある。ホージャはヨーロッパの最新技術を習得し、オットーマン帝国の栄光を取り戻したいという思いにとりつかれている。そして、その行く末は、思いもかけない結末へとつながってゆく。
この作品で著者パムクはなにを語ろうとしているのか。歴史小説とも、文明論とも考えられないこともない。話の舞台はイスタンブールだが、実はこの好奇心をそそる歴史的な都市をしのばせるような情景はほとんどなにも出てこない。パムクはそれを別の著作のために残したのだろうか。ペーパーバックでわすか145ページの作品、背景、詳細を一切捨象したような感じもある。それだけに行間に潜ませた作者の思いも深いのだろう。著者を知るに、もう一冊読んでみたいと思わせる作品である。
* Orhan Pamuk. The White Castle. Manchester: Faber and Faber, 1991. Translated by Victoria Holbrook.
Paper Back 版には、サイコロジックなものから、ここに掲示したものまでいくつかの表紙があるようだ。この表紙が内容に最もふさわしいような気がする。
The Dream of Saint Joseph
Musée des Beaux-Arts, Nantes
なんとも形容しがたい、不思議な光景である。椅子に坐り、半ば夢の世界にいるかと思われる老人の前に、一人の子供が蝋燭の光をさえぎるかのように、手をかざしている。しかし、じっと眺めても少年なのか、少女なのかも分からない、不思議な存在である。どこか人間を超えたような雰囲気が漂っている。もしかすると、天使なのかもしれない。それにしては、背中に翼を背負い、空に浮かぶ、見慣れた天使のイメージとはあまりに違いすぎる。
「大工聖ヨセフとイエス」への連想
ラ・トゥールの作品を知る者にとっては、この絵を見るとただちに「大工聖ヨセフとイエス」が思い浮かぶ。この絵と大変雰囲気が似ているところがある。「大工聖ヨセフ」も、老人(聖ヨセフ)と子供(イエス)という対比で創られている。そして、老人はリアリズムに徹して描かれているが、子供はどこか「人間離れ」がしていて、聖性ともいえる不思議な印象を与える存在である。この絵も子供の方は、「大工聖ヨセフ」のイエス以上に、不思議なイメージを漂わせて描かれている。全体として「大工聖ヨセフ」よりも詩的であり、「均整のとれた」「彫刻的」plastic (Thuillier, 190)ともいえる雰囲気である。どちらにも高い精神性が込められている。
この絵は、美術史上は20世紀におけるラ・トゥール再発見の過程で見出され、再確認された。最初につけられた題名は、「若い娘に起こされる老人」という情景をそのまま記述しただけのものであった。そして、多くの議論の末に今日専門家の多くが合意する「聖ヨセフの前に現われた天使」という主題に落ち着いた。ラ・トゥールのサインはあるが、例のごとく他の画家の名が多数挙げられてきた。
リアリズムは翼をあたえない
現存する作品から推定するかぎり、ラ・トゥールは宗教画のジャンルの作品であっても天使に翼をつけたり、使徒でも光輪をつけたりすることはなかったと思われる。世俗の世界に住む普通の人を描きながらも、使徒や聖性を持った存在としての人を描くことができた希有な画家であった。
「大工聖ヨセフ」と対比してみると、大変興味深い点がいくつかある。「聖ヨセフの夢」では、老人として描かれた聖ヨセフは、天使が現われる前までは、蝋燭の光の下で書物を読んでいた。考えつかれて、まどろんだところに天使が現われたという想定であろう。老人が聖ヨセフであるということについても、研究史上は多くの異論(Elijah, St. Matthew, St.Peterなど)もあったが、ようやく聖ヨセフに回帰してきたといえる。
聖ヨセフの胸高にしめられた帯の色や陰影の微妙さは、ラ・トゥールの作品を見慣れた人には、どこかなじみのあるものである。聖ヨセフはリアリズムに徹して描かれている。顔の髭の柔らかさまで伝わってくるようだ。蝋燭の光の描き方、燭台につけられた蝋燭の芯を切るはさみであろうか。棚上に映る丸い二つの影まで描かれている。
他方、天使は真珠と貴石で飾られた衣装をまとい、飾り帯には美しい刺繍が施されている。しかし、その容貌は「大工聖ヨセフ」のイエスに似た、不思議なほどの透明さをもって描かれている。
そして、「大工聖ヨセフ」のイエスの視線と同様に、この「聖ヨセフの夢」の場合も、天使の視線の行方は不思議である。聖ヨセフを見ているというわけではない。どこを見つめているのか、きわめて微妙なまなざしといえる。「聖」「俗」の世界を隔てるためであろうか。
天使が告げるものは
そして、天使はなにを語りつつあるのだろうか。夢からさめようとする聖ヨセフの見ていた夢とはいかなるものであったのだろう。想像はとめどなく続くことになる。
17世紀当時、キリスト教精神世界に流布していた伝承からすれば、大工であった聖ヨセフをとらえてやまなかった思いは、マリアとその子イエスとの関係であった。その謎は悩みとなり、聖ヨセフにつきまとった。彼はその答えを書物の中に見出そうとしたのだろうか。答えが見出せないままに疲れて、まどろみ、夢か現実か分からない時に天使が現れたのであろう。さらに、続いての想像としては、天使はマリアと幼いイエスを連れてエジプトへ逃げるように勧めている。聖ヨセフはここに「救世者の救世者」としての役割を担うことになる。
「想像の世界」のクリエーター
これは、パリゼ以来のラ・トゥールの研究者たちが思いめぐらした想像の所産にすぎない。ラ・トゥールは、そうした物語性(ストーリー)の設定に役立つようなものを意識的に消している。これは、彼の多くの作品に見られる特徴でもある。見る者に多くのことを考えさせる謎の部分を組み入れている。思うに、作品の主題を最も正確に知り得たのは注文主や寄贈をうけた貴族であり、彼らは画家が描き出してくれた秘密の世界を専有して楽しみ、作品を見る人々の反応を試していたのではないか。ラ・トゥールの天才性は、ひとえにこの「想像の世界」の傑出したクリエーターであったという点にあるのではないか。(2005年6月5日記)
Image: Courtesy of Web Gallery of Art
フランスに続いて、オランダも6月2日、EU憲法条約に“nee”(否)の結論を出した。事前に行われていた主要な世論調査(Maurice de Hond)の結果でも、「反対」が55%と賛成45%を上回っていたから、「否決」はかなりの程度予想されていたことではあった。しかし、実際には「反対」が62%近くに達し、衝撃的な結果になった。
小さくないオランダの影響力
オランダはフランスと並んで、1950年代にEEC(European Economic Community)を創設した6カ国のひとつであった。それだけに選挙結果の影響は大きい。ユーロの導入を決定する協定は、最初はオランダのマーストリヒト、そしてその後アムステルダムで調印されている。初代のヨーロッパ中央銀行総裁もオランダ出身であった。オランダの人口1600万人とはいえ、その存在は大きい。今月16日に開催されるEU首脳会議は、予想しなかった大きな課題を抱えてしまった。
EU憲法条約に対する対応は否定的という意味では同じ結果になったが、フランスとオランダの国民的反応は、かなり異なるところがあった。フランスの場合、EU本部の「超リベラルな」官僚によってEUがハイジャックされているという不満があったが、オランダの場合は自国がEUという超国家の一地方に低落してしまうという不安や警戒心が高まっていた。この点は、イギリスの反応に似ているところがある。
イスラームへの不安
さらにオランダの場合、国民感情はこのサイトでもすでに報じたように(3月18日)、イスラーム社会のあり方に厳しい批判をしてきた二人の著名なオランダ人の暗殺にかかわっている。2002年5月6日の反移民の政治家ピム・フォルテインの暗殺、2004年11月20日の映画監督テオ・ヴァン・ゴッホの暗殺という衝撃が一般国民の間に強く刻みこまれている。前者の場合は、犯人はモロッコ系青年であった。後者の犯人はオランダ人青年であったが、背景が明らかになるにつれて、反移民への国民感情をあおってしまった。過激な行動に走るイスラーム原理主義者は数の上では少ないとはいえ、オランダのイスラーム教徒は100万人近く、90年以降に流入した不法移民は10-20万人に達しているとされる。
エリート層への反発
オランダは一人当たりのEUの分担金負担が加盟国の中では最も重い。オランダはもはやEUで最も富裕な国ではない。オランダ通貨ギルダーのユーロ通貨転換も、インフレを引き起こしたと考える国民が多い。こうした事態を招いたのは、EU官僚のいいなりになっている政府エリート層だという反発も強い。国民レベルでの十分な議論なしにユーロ移行、大量移民受け入れというような決定をしてきた指導者への反発である。
「並立社会」?
オランダに限ったことではないが、とりわけ、この国の移民政策の舵取りはきわめて難しくなった。西欧民主主義の価値に自分たちの価値を並べることを拒否する移民の増加によって、オランダ社会は爆発を待つ時限爆弾であるとの考えまで生まれてきた。異なった宗教・文化を持つ人々が、同じ国境の中に、互いに交わることなくただ並立しているだけという「並立社会」parallel societyという概念さえ提示されている。社会の中に隔離された別の「社会」が出来てしまうともいえる。
9.11以降、政治家は宗教的原理主義やテロイズムを恐れる国民の考えに配慮しなければならなくなった。非西洋系の「外来者」が大都市の貧困化した古い地区に集中する傾向があることを認めないわけにはいかない。国民はこうした現実に次第に不安を感じるようになる。当初は、外来者の集住地域から離れるという行動が生まれる。そして、不安は他の過激な事件と結びつけられて増大する。
不安を抱える社会
オランダ市民はゴッホの殺人者といわれるモハッメド・ボウイェリは国際テロ組織の一員であったとの捜査結果に驚愕する。そして、加害者はモロッコ出身、学校でもよくでき、地域活動も熱心だったこと、ちょっとしたきっかけで原理主義者の運動に入っていることなどの事実に改めて驚き、態度を硬化する。そして、投票などの政治的行動でも、しばしば右傾化する。
ある調査では、オランダに住むモスレムの第二世代は、モスクへ行く回数も少なく、それほど信仰に篤くないといわれる。オランダの公安機関AIVDは95%のオランダモスレムは穏健とみているようだ。しかし、残りのわずかな原理主義者の間に危険分子が隠れているかもしれないとなると、大変難しい状況が生まれる。国民は、絶えず不安感を抱えて生活することになりかねない。
「多文化主義」は幻影
これまで、いくつかの移民受け入れ国が掲げてきた多文化主義社会の考え自体が、形式的あるいは保守的にすぎるといえるかもしれない。なぜならば、移民は受け入れ国の人々や文化を変えてしまうからだ。
オランダ国民の間には、働くより福祉に依存して生きることを容易にしてきた政策によって、この国の社会的問題は悪化してきたとの理解が蔓延し始めている。10年ほど前、オランダのティンバーゲン研究所(最初のノーベル経済学賞受賞者を記念して設立)にフェローとして招かれ、しばらく滞在した頃の落ち着いた、円熟した国という印象とは、すっかり変わってしまった。
昨年半ばまではオランダはEU議長国の立場もあって、EUが協同で取り組む課題として、移民を管理することと「統合」を促進することを強調してきた。ゴッホの殺害後すぐに、オランダ政府は最初のEU規模の「統合」担当者の会議を開催した。移民援助が加盟国共通の課題とされた。
オランダは「社会的結合のための広範な取り組み」を率先、着手した。しかし、これは次の事件が起きるまでのつかの間の平穏であったのかもしれない。今やオランダはいかりを失い漂流状態に入った。 コモンセンスはまだ働くか
オランダはアムステルダム、ロッテルダムのように元来国際商業センターであり、宗教的にも新教国でありながら、プロテスタント、カソリック、ユダヤ教も共存してきた。あのトレイシー・シュヴァリエの『真珠の耳飾りの少女』やデボラ・モガーの『チューリップ熱』にも、夫と妻が日曜日、それぞれプロテスタントとカソリックの教会に通う話が出てくる。(5月15日「工房の世界を覗き見る」)それでも、社会的秩序は保たれていた。オランダは常識・コモンセンスの国であったといえる。
イギリスの経済誌The Economist(June2,2005)は、フランスの国民投票の実施に先立って、「ノン」が正解かもしれないという社説を掲載していた。イギリスは、これまでのEU拡大の過程においても、よく言えば慎重であり、自国の国益優先で、ぎりぎりの所で列車に飛び乗るような決定を繰り返してきた。今振り返ってみると、「拡大EUへの列車」はスピードが速すぎたのではないか。速度制限オーヴァーは、決して良い結果を生まない。(2005年6月2日記)