ラ・トゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」は、画家が使徒について抱く心象風景を極限まで単純化して描いたものに思われた(「ラ・トゥールを追いかけて~24~」、5月28日)。ラ・トゥールのこの作品は、聖ヨハネと子羊の頭部だけが、濃淡のある赤褐色で、一見すると陰鬱とも感じられる色調で描かれていた。時間や場所を類推させる背景などは、ほとんどなにも描かれていなかった。しかし、その絵は、見る者に深い心の安らぎと力を与えるものであった。
もうひとつの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」
現在、開催されている「世界遺産・博物館島 ベルリンの至宝展―よみがえる美の聖域―」展を見ていて、ラ・トゥールとは別の画家の手になる「荒野の洗礼者聖ヨハネ」があることを思い出した。残念ながら、今回の東京での展示には含まれていないが、ベルリン国立美術館が所蔵する15世紀のオランダの画家ヘールトゲン(GEERTGEN tot Sint Jans:c.1460-1495)の作品である。とはいっても、この画家の名前を知る人はきわめて少ない。
ラ・トゥールより150年ほど前の時代に生きたこの画家については、ラ・トゥール以上に、ほとんどなにも知られていない。私もたまたまラ・トゥールの絵を見ていて、一昨年、ベルリンを訪れた時に、このヘールトゲンの絵に出会ったことを思い出し*、その後、画家の経歴に多少関心を抱いたにすぎない。不思議なことに、ラ・トゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」を見ていて、なんとはなしに思い浮かべたのが、これから紹介する作品である。
「荒野の洗礼者聖ヨハネ」を主題とする作品は、かなり多い。ティティアン、ボッシュ、レイノルズ など、幾人かの画家の名前が浮かぶ。写真がなかった時代なので、伝承による使徒像の形成は、なかなか興味深い。その中で、このヘールトヘンの作品は、個人的にはなんとなく同時代のボッシュHieronymus Bosch (1450-1516)の絵に近いような印象である。
初期フランドル派の画家
ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス(c.1460-1495)は、オランダの画家であるが、今日でも知られているところが少ない。他方、ラ・トゥールについては、研究が進み、新たな作品や資料などの発見もあって、私が最初に出会った時と比較すると、かなり姿が見えてきたといえる。
ヘールトヘンは、1460年頃ライデンに生まれ、その後アムステルダムに近い町ハールレムHaarlem の聖ヨハネ騎士修道院で生活していた。同じベルリン国立美術館が所蔵する「ラザロスの昇天」The Raising of Lazarusを描いたウワテール OUWATER, Albert van という15世紀中頃に活躍していた画家の弟子であったが、30歳近くという若年でこの世を去ったということだけが確認されている。
ヘールトヘンと確認される作品は数少なく、幸い今日われわれが目にすることのできる、この「荒野の洗礼者聖ヨハネ」は貴重なものである。時代が異なると、同じテーマを扱いながら、いかに制作に際しての思想や手法が異なるかということを象徴的に示すような作品である。ヘールトヘンは、ファン・アイクなどとともに初期フランドル派の画家という位置づけがなされている。短い人生ではあったが、美術史上の貢献は評価されているといえよう。
風景画への橋渡し
この作品の画題には、荒野wildernessという語があるとはいえ、緑あふれる原野で瞑想にふける聖ヨハネの姿が描かれている。中世初期から中期にかけてのキリスト教布教の過程ではプラトニックな考えから言葉が重視され、聖人の姿は描かれても風景画は現実の世界の幻影的な再生とみなされ、実質的に存在しなかったといわれる。このヘールトヘンの絵は、風景画への架け橋ともいう時代的位置づけもなされている。プリミティブな感じはするが、明らかに遠近法を踏まえて描かれている。
全体にメランコリーな趣もあるが、どちらかといえば、牧歌的ともいえる、ほのぼのとした雰囲気が漂っている。光への対応もユニークである。そして、少なからず神秘主義の色も感じられる。
聖ヨハネが静かな面持ちで瞑想にふけっている場所は、緑があふれ鳥がさえずり、兎や鹿などの小動物も遊ぶ美しい風景である。聖ヨハネの足下には小川が流れ、傍らには子羊が待っている。遠くには山並みも見え、日が沈む夕刻に近いことを思わせる。
聖ヨハネには光輪も描かれていて、宗教画ではあることは直ちに分かるが、使徒の来歴などを伝える意図よりは、風景が先に来ている。この点は、まず「歴史ありき」という宗教画とはなんとなく一線を画している。風景がしっかりと描き込まれている。
ラ・トゥールが人生の大部分を過ごしたロレーヌと比較すると、ヘールトヘンの過ごした環境は平和であったのかもしれない。画家の生まれ育った時代環境の差異が作品にもたらした影響は、きわめて大きい。ラ・トゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」と見比べてみると、その違いに驚かされるばかりである。(2005年5月31日記)
* このコメントを書いてから、しばらくした今日(6月17日)、ベルリン国立美術館のショップで買ったブックマークの一枚にヘールトヘンのこの絵の中に描かれている一本の木(画面中央の枝が分かれた木。よく見ると根本にかわいい兎が書き込まれていた)だけを拡大したものがあったことを発見。