時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

心に残る絵それぞれ(2)

2005年05月31日 | 絵のある部屋
GEERTGEN tot Sint Jans, St John the Baptist in the Wilderness c.1490-95, Panel, 42 x 28 cm, Staatliche Museen, Berlin

  ラ・トゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」は、画家が使徒について抱く心象風景を極限まで単純化して描いたものに思われた(「ラ・トゥールを追いかけて~24~」、5月28日)。ラ・トゥールのこの作品は、聖ヨハネと子羊の頭部だけが、濃淡のある赤褐色で、一見すると陰鬱とも感じられる色調で描かれていた。時間や場所を類推させる背景などは、ほとんどなにも描かれていなかった。しかし、その絵は、見る者に深い心の安らぎと力を与えるものであった。

もうひとつの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」
  現在、開催されている「世界遺産・博物館島 ベルリンの至宝展―よみがえる美の聖域―」展を見ていて、ラ・トゥールとは別の画家の手になる「荒野の洗礼者聖ヨハネ」があることを思い出した。残念ながら、今回の東京での展示には含まれていないが、ベルリン国立美術館が所蔵する15世紀のオランダの画家ヘールトゲン(GEERTGEN tot Sint Jans:c.1460-1495)の作品である。とはいっても、この画家の名前を知る人はきわめて少ない。

  ラ・トゥールより150年ほど前の時代に生きたこの画家については、ラ・トゥール以上に、ほとんどなにも知られていない。私もたまたまラ・トゥールの絵を見ていて、一昨年、ベルリンを訪れた時に、このヘールトゲンの絵に出会ったことを思い出し*、その後、画家の経歴に多少関心を抱いたにすぎない。不思議なことに、ラ・トゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」を見ていて、なんとはなしに思い浮かべたのが、これから紹介する作品である。
   
  「荒野の洗礼者聖ヨハネ」を主題とする作品は、かなり多い。ティティアン、ボッシュ、レイノルズ など、幾人かの画家の名前が浮かぶ。写真がなかった時代なので、伝承による使徒像の形成は、なかなか興味深い。その中で、このヘールトヘンの作品は、個人的にはなんとなく同時代のボッシュHieronymus Bosch (1450-1516)の絵に近いような印象である。

初期フランドル派の画家
  ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス(c.1460-1495)は、オランダの画家であるが、今日でも知られているところが少ない。他方、ラ・トゥールについては、研究が進み、新たな作品や資料などの発見もあって、私が最初に出会った時と比較すると、かなり姿が見えてきたといえる。
  
  ヘールトヘンは、1460年頃ライデンに生まれ、その後アムステルダムに近い町ハールレムHaarlem の聖ヨハネ騎士修道院で生活していた。同じベルリン国立美術館が所蔵する「ラザロスの昇天」The Raising of Lazarusを描いたウワテール OUWATER, Albert van という15世紀中頃に活躍していた画家の弟子であったが、30歳近くという若年でこの世を去ったということだけが確認されている。

  ヘールトヘンと確認される作品は数少なく、幸い今日われわれが目にすることのできる、この「荒野の洗礼者聖ヨハネ」は貴重なものである。時代が異なると、同じテーマを扱いながら、いかに制作に際しての思想や手法が異なるかということを象徴的に示すような作品である。ヘールトヘンは、ファン・アイクなどとともに初期フランドル派の画家という位置づけがなされている。短い人生ではあったが、美術史上の貢献は評価されているといえよう。

風景画への橋渡し
  この作品の画題には、荒野wildernessという語があるとはいえ、緑あふれる原野で瞑想にふける聖ヨハネの姿が描かれている。中世初期から中期にかけてのキリスト教布教の過程ではプラトニックな考えから言葉が重視され、聖人の姿は描かれても風景画は現実の世界の幻影的な再生とみなされ、実質的に存在しなかったといわれる。このヘールトヘンの絵は、風景画への架け橋ともいう時代的位置づけもなされている。プリミティブな感じはするが、明らかに遠近法を踏まえて描かれている。

  全体にメランコリーな趣もあるが、どちらかといえば、牧歌的ともいえる、ほのぼのとした雰囲気が漂っている。光への対応もユニークである。そして、少なからず神秘主義の色も感じられる。
  
聖ヨハネが静かな面持ちで瞑想にふけっている場所は、緑があふれ鳥がさえずり、兎や鹿などの小動物も遊ぶ美しい風景である。聖ヨハネの足下には小川が流れ、傍らには子羊が待っている。遠くには山並みも見え、日が沈む夕刻に近いことを思わせる。

  聖ヨハネには光輪も描かれていて、宗教画ではあることは直ちに分かるが、使徒の来歴などを伝える意図よりは、風景が先に来ている。この点は、まず「歴史ありき」という宗教画とはなんとなく一線を画している。風景がしっかりと描き込まれている。

  ラ・トゥールが人生の大部分を過ごしたロレーヌと比較すると、ヘールトヘンの過ごした環境は平和であったのかもしれない。画家の生まれ育った時代環境の差異が作品にもたらした影響は、きわめて大きい。ラ・トゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」と見比べてみると、その違いに驚かされるばかりである。(2005年5月31日記)


* このコメントを書いてから、しばらくした今日(6月17日)、ベルリン国立美術館のショップで買ったブックマークの一枚にヘールトヘンのこの絵の中に描かれている一本の木(画面中央の枝が分かれた木。よく見ると根本にかわいい兎が書き込まれていた)だけを拡大したものがあったことを発見。
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ラ・トゥールを追いかけて(24)

2005年05月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

荒野の洗礼者聖ヨハネ
Georges de La Tour, Saint Jean-Baptiste dans le désert,
c.1345-1350, Vic sur Seille, Museé départmental Georges de La Tour

Courtesy of Olga's Gallery



  一人の若者が憔悴しきった表情で、目を閉じたまま、子羊にえさを与えている。時間や場所は昼とも夜ともつかない不思議な状況である。しかも、場所を想定できるような背景も、ほとんど描かれていない。背景にかすかに廃墟の階段のようなものがみられるだけである。画面は濃淡ある褐色と赤茶色でおおわれている。左上部のどこからか、光が若者の肩に落ちている。若者がすがっている唯一のものは、十字架の形をした素朴な杖一本である。他に荷物のようなものもなにもない。

  若者の目が閉じられているだけに、活力らしきものが、感じられるのは、若者が草を与えている子羊の目だけである。それも頭部だけしか見えていない。光は若者の表情を映し出すには十分ではない。若者は苛酷な旅に疲れ果て、ただ目前の子羊に力無く草を与えているかに見える。光と色彩は大変柔らかであるが、陰鬱といってもよい色調である。

神秘な光
  しかし、しばらく見ていると、全体から不思議な静謐感と神秘感が漂ってくる。蝋燭とか太陽や月の光のような自然光でもないのだが、若者の身体の中からであろうか、淡い不思議な光が画面を照らしている。一見すると苛酷な旅に疲れ果てた若者が、連れ添ってきた子羊に草を食べさせているかに見える情景だが、次第に見る人を癒し、なんとなく力づけるような印象に変わってくる。

一人の若者ヨハネ
  荒野を旅する洗礼者ヨハネを描いたものとみられるが、聖人というイメージはない。キリストの受難の十字架と犠牲と贖罪の象徴である子羊(アトリビュート)が描かれていることで、画家が目指したテーマは、自然に伝わってくる。新約聖書の洗礼者ヨハネの物語は、謎が多い。キリストとは、母親同士が従姉妹の関係にあったともいわれる。日常はらくだの毛皮を着て野の草を食べて生きていたといわれる。その人がある日荒野から現われ、すべての人に悔い改めることを説いた。洗礼者ヨハネはイエスを来たるべき救い主として選び、イエスもヨハネをヘブライ人の預言者の中で最も偉大な者と認めていた。

 しかし、ヨハネの生涯は苛酷な試練に満ちていた。あのサロメの死の踊りにつながる。

 作品はヨハネが生活と預言者として生活の場としていた荒野を想定したものだろう。


劇的な発見の経緯
  ラ・トゥール、最晩年の作品と推定されるが、その発見の過程からして劇的であった。今回の「国立西洋美術館ラ・トゥール展」のカタログによると、1993年10月、パリのドルオー競売所で、競売に先立つ説明資料もないままに陳列されていたものを、当時のルーブル美術館絵画部長ピエール・ローザンベールによって発見された。フランス政府は、ラ・トゥールの評価が高まって以来、作品の海外流出には国威をかけて対応してきた。94年9月には「輸出許可証明書」がフランス文化相によって拒否され、3年間にわたり国外持ち出しが禁じられた。そして、紆余曲折を経て、翌年12月にモナコのサザビーズでの競売において、フランス政府がモーゼル県に先買権を与えた。同県は一般からの寄付と、ロレーヌ地方と政府による資金提供で、この絵を取得した。そして、2003年6月に開館が予定されていたヴィック=シュル=セイユ(ラ・トゥールの生地)の「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館」に収まることになった。同美術館も願ってもない素晴らしい作品を得たことになる。

静かな感動を与える名作
  美術史家の研究成果で、カラバッジョの「洗礼者ヨハネ」(ローマ国立美術館[コルシーニ宮])ときわめて似た特徴がある。カラバッジョの作品も、聖ヨハネと背景に蔦のからんだ樹木が描かれた簡素なものであるが、リアリズムの特徴は強く残っている。他方、ラ・トゥールのこの作品は、彼のひとつの特徴でもあったリアリズムとは遠く離れて、最小限に簡素な描写に徹している。よけいなものはなにもない、本質的な部分の描写に徹している。ラ・トゥールという画家は、自らの考えを伝達するに必要なものは細密に描くが、それ以外のものはいっさい描かなかった。そして、今日に残る作品をみると、この画家が驚くべき幅のある画風を一身に体得していたということ自体が、きわめて驚きである。

  この作品の作者の確定については、当初は異論もあったようだが、今日ではラ・トゥールということで一致を見ているようだ。真贋論争を引き起こさない、圧倒的な素晴らしさが画面から伝わってくる。ラ・トゥールのこれまでの作品を見てきたかぎりでは、驚嘆すべき画風の変容ぶりである。人生晩年の作品ということもあって、極度に単純化された様式をとりながらも、高い精神性を内包し、見る人に強く訴える素晴らしい作品である。

  国立西洋美術館の「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」もいよいよ終幕である。しかし、ラ・トゥールを追っての旅は、これからも続く(2005年5月28日記)。

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「労働者の村」~クレスピ・ダッダの思い出~

2005年05月26日 | 仕事の情景
  かなり旧聞になるが、夜遅く帰宅し、偶然に見たテレビ番組であった。『世界遺産「クレスピ・ダッダ」』(TBS 11:30)は、私の脳裏からほとんど消え去ろうとしていた記憶を鮮明に呼び戻してくれた。といっても、ほとんどの人にはなんのことか分からないだろう。Crespi d'Addaは、イタリア語で「アッダ川のクレスピ」を意味する。北イタリアに現存する歴史的な企業町のことである。
  このサイトの始まりを語る一枚の画像*が、アメリカの繊維工場で働く少女をとらえた一瞬であるのと関連して、このクレスピ・ダッダもイタリア北部の木綿紡績の工場を中心とした企業町 (company town)である。1970年代中頃に、ミラノへの旅の途上で訪れたことがあった。実は、友人のイタリア人に「クレスピ・ダッダ」ヘ行きたいと話すと、そんなところへなぜ行くのか、なにがあるのかと逆に質問されて当惑した記憶が残っている。

労働者の村」の実現
  18世紀後半、イギリスから始まった産業革命は、世界各地へ波及し、資本家と労働者の激しい対立を生み出した。「持てる者」と「持たざる者」の格差は拡大し、深刻な社会・経済問題を生んでいた。とりわけ、労働者階級の状態は貧窮の方向へ進むばかりであった。そうした状況を深く憂慮し、自分の事業の範囲だけでも労資の対立のない平和な工業の町を創れないかと思った企業家がいた。クリストフォロ・クレスピというイタリアの豊かな資産家であった。一時は聖職を志したともいわれるが、クレスピは、1875年、ミラノに近いアッダ川に沿った土地に理想的な紡績工業の町を建設することを構想した。
  当時の一般の繊維工業は、過酷な労働条件で知られていた。時代の先端を行く技術を使い、清潔な職場環境で、労働者の生活環境を充実したものにすれば、企業の生産性も高まり、良質な製品が作り出せると考えたのである。そして、工場の近代化、安全衛生の改善に努めるだけでなく、住宅、教会、学校、病院など、労働者の人間的な生活にふさわしい理想郷ともいえる都市を創り上げた。そこでは、工業化に伴って世界的に激増した労働争議も50年間にわたって発生しなかった。

古き良き時代のカンパニー・タウン
  ミラノからイタリア人の友人に案内されて訪れたこのカンパニー・タウンは、すでにクレスピ家から人手にわたり、一部の設備を使って細々と生産を続けていたが、時代の荒波から取り残されたような静謐な、そしてどこかわびしげな町であった。しかし、壮大な水力発電設備、整然とした並木の残る町並みなど、あの時代に良くこれまでのことを実現したという印象が残っている。事業の最盛期であった20世紀初期には、おそらく労働者が生き生きとして働き、生活を楽しんだ理想郷であったのだろう。いわゆるアパートメントではない一戸建ての家々が立ち並び、それぞれに草花で飾られていた。会社から離れた後も、この地に住んでいる人々の思い出話は、かつての良き時代への追憶で溢れていた。そこには、資本家と労働者の間に一種の友愛と尊敬の念が生きていた。

消えてしまったユートピア
  しかし、資本主義社会のユートピアともいえるクレスピ・ダッダも、世界大恐慌の大波に巻き込まれてしまう。企業が生き残るには労働者の解雇しか手段がなかったが、同社は従業員を解雇せずに操業を続け、ついに倒産してしまった。その後、創業者の手を離れ、経営が続けられたが、繊維工場としての命脈は尽きた。ヨーロッパ、アメリカ、そして日本でも「開明的」な産業資本家たちが、時には「ユートピア」実現の理想に燃えて生き生きと活動した時代があった。

  私が訪れたこうした企業町の中には、アメリカの繊維工業の中心であったニューイングランドのローウエル、ドイツ、ザールブリュッケン近傍の陶磁器の町メトラッハなど、今でも強く印象に残るものが多い。メトラッハでは、独特の可愛いデザインで知られる陶磁器やタイル・メーカーのVilleroy and Boch社 (1748 年設立)が今日でも経営を続けており、工場で働く人々のために保育園まであった。日独の大家の先生方とご一緒する機会があり、Villeroy and Boch社が所有する素晴らしい迎賓館で過ごした思い出も懐かしい([ラ・トゥールを追いかけて~2~])。

  これらのカンパニー・タウンを、たまたまその時代の開明的企業家のパターナリスティック(家父長主義的)な政策によるものにすぎないと片づけることは容易である。しかし、グローバル化が進み、環境破壊が世界的な課題となっている中で、労働条件そして労使関係も厳しさを増している状況で、人間らしい働き方、生活の環境、労使のあり方として、いかなる方向が選択されるべきか。これらの実験的な試みに学ぶところは少なくない。

  クレスピ・ダッダの町並みは、資本主義の牧歌的時代の面影を色濃く残し、創業者たちの意図した経営者と労働者の一体感を継承してきた。 1995年、Unesco世界遺産の審査委員会は、19世紀および20世紀にわたり、人間らしさを維持していたこの夢の「労働者の村」 (Workers' Village)をそのリストに加えた。


画像:現存する繊維工場の一部(窓はクレスピ家の紋章)
Courtesy of villaggiocrespi

* 2005年2月12日「窓外の世界:少女はなにを見ていたのか」(仕事の情景)

クレスピ・ダッダについて、さらに詳細を知りたい方は、次のHPを訪れてください。
http://www.villaggiocrespi.it/xUK_A1_HOME.htm

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不法就労解決の道となるか:スペインのアムネスティその後

2005年05月24日 | 移民政策を追って
  5月11日、このサイトでとりあげたスペインのアムネスティ(不法滞在・就労の労働者を合法化する措置)は、EU諸国の大きな関心の的となった。EUの目指す方向とは異なる対応であったため、この措置での申請が締め切られた後、さまざまな反応が現れた。

  当事者であるスペインのカルデラ労働大臣Jesus Calderaは、5月6日、「アムネスティ計画は大きな成功だ」と述べ、社会主義政権として実施した3ヶ月のアムネスティ措置の終了を告げた。この施策によって、要件を満たした約70万人の不法滞在者がスペインにおいて労働と居住の許可を得ることになった。

反対を押して
  北ヨーロッパの国々は、移民受け入れに厳しく対しているのに反して、スペインは勇敢なステップを選んだといえよう。しかし、かねてからこの措置には大きなリスクがあることが指摘されてきた。アムネスティは、それを期待する不法滞在者の増加を招き、さらに不法滞在者を増やすのではないかと考えられてきた。そして、スペインへ密入国し、アムネスティで救われ、合法な資格を得た外国人労働者は、国境を越えて、より労働条件の良い他のEU諸国へ移動するのではないかと危惧されている。

  今回実施された合法化政策の内容は単純である。2004年8月以降スペインに居住し、6ヶ月の労働契約がある外国人労働者について、申請を条件に毎年更改される滞在と就労の許可が与えられた。彼らはこれまでは不法滞在者として扱われていた。申請者の中身についてみると、エクアドル人が全体の21%、続いてルーマニア人、モロッコ人、コロンビア人の順だった。その他、40万人近い居住許可が、近親、親戚など家族の結合のために発行された。

  カルデラ労働大臣は、このアムネスティの実施で、それまで見えなかったスペインの地下経済の90%が、合法化されたという。確かに、スペイン、ポルトガルなどの国々では、テンポラリーな仕事の占める比率が高いことは、OECDなどの調査でも明らかになっている。合法登録した外国人労働者が増加したことで、社会保障の支払いも増加するとみられる。政府は、社会の表面から隠れていた外国人労働者が合法化されることで、健康や教育に関する計画は改善されると期待している。
  他方、カルデラ労働大臣は、アムネスティはこれからは実施されることはないと言明した。そして、今後は不法移民を強力に排除するので、不法就労もなくなるだろうとも述べた。もっとも、これはアムネスティを実行した場合に当事者が口にする常套語ではある。

  スペインが実施したアムネスティ政策は、他のEU諸国では人気がない。スペインが突然こうした政策を採用したことについては、不満の意を隠していない。ドイツとオランダの政府関係者は、EU加盟国が移民についての政策実施を事前に通知する早期予告制度を提案している。フランスのヴィルパン内務大臣は、アムネスティの考えを否定した。

スペインへ流入する不法滞在者
  スペインのメディアは、アムネスティ目当てにフランスから流入してくる移民労働者について報道した。たとえば、数百人のパキスタン人がフランス国内に不法に滞在していたが、この措置を知り、スペインへ入国してきた。「スペインはガードの甘い国と考えられている」と野党の人民党(People’s Party:PP)のスポークスマンは述べる。また、「エル・ムンド」El Mundo紙は「犯罪と統合を阻害する諸問題を持ち込む移民の雪崩減少が起きた」と形容した。

  スペインの国家統計研究所は4月に統計を発表し、移民の目的先としてスペインはフランスより人気があるとした。確かにスペイン国内の移民労働者は、1年間で4倍の370万人となった。アムネスティが、移民の大きな流れを阻止する可能性はないようだ。モロッコとスペインの間に横たわるジブラルタル海峡は、世界において最も大きな所得格差の象徴といえる。昨年スペイン警察は、カナリア諸島、ジブラルタル海峡で不法移民15,675人を乗せた740隻の船舶を拘留した。

アフリカの発展支援が最重要
  スペインは、これまでの15年間に、6回のアムネスティを実施した(1985-86, 1991, 1996, 2000, 2001)。そのほとんどは、現野党の人民党政権の時に実施されている。アムネスティを一度、実施すると、それを期待する不法移民が増えることは、いくつかの国の例をみても、ほぼ明らかなようだ。
 
  アムネスティについては、このようにさまざまな見方があるが、今回のスペインのアムネスティは、EUが移民についての統一的政策を検討している時に発動された。それについて、スペイン国立統計研究所のサンデル氏は、統一的政策それ自体を否定し、「スペインはスペインのニーズに適合した外国人労働者を設定するメカニズムを導入しなければならない」と述べている。高齢化が進むスペイン経済は、若い労働力を必要としている。アフリカ諸国からの労働者の不法入国は、これからも絶えることなく続くだろう。

  EUが北アフリカ諸国の経済を支援することにもっと力を入れていれば、移民の減少に役立ったかもしれない。今から10年前にアフリカ支援を目指す「バルセロナ・プロセス」が導入されたが、この計画はほとんど機能していない。ともすれば受け入れ側の利害ばかりが優先する移民(入国管理政策)だが、いまや根源に立ち戻り考えねばならない段階にいたったことは間違いない(2005年5月23日記)。

資料:The Economist, May 14th, 2005, SOPEMI. Trends in International Migration (2003),その他
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ラ・トゥールを追いかけて(23)

2005年05月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour, Saint Pierre Repentant, 1645, The Cleveland Museum of Art, Gift of Hanna Fund


  純朴そうなひとりの男が涙で顔を濡らし、両手を組み合わせ、身をよじるようにして、椅子に座っている。ホームスパンの濃紺の外衣を身にまとい、サンダルを履いている。足下にはランプが置かれ、目の前の小さなテーブルには若い雄鶏がじっと坐っている。

  ランプの光が、この男の足下や外衣の一部を照らし出している。しかし、顔や組まれた手、そして雄鶏を照らしているのは、ランプの光ではない。よく見ると、画面左上の方からも淡い光がさしている。ラ・トゥールの作品で二つの光源が想定されることは、ほとんどない。暁を知らせる光なのか、「超自然的な光」(キュザン)なのか。

朝を告げる鶏
  作品の主題が、福音書の「ペテロの否認」のひとつのエピソードであることは明らかである(「聖ペテロの悔悟」「聖ペテロの涙」などの画題がつけられている)。キリストが捕らえられる前、最後の晩餐で、弟子のペテロは、イエスから「あなたは今夜、鶏が朝を告げる前に、三度私を知らないと言うだろう」と予言された。ペテロは、これを否定するが、いざイエスが捕らえられると、その通りの行動をとってしまう(マタイ 26:31, 33~35)。イエスの予言通りになったことに気づいたペテロは、外に出て号泣した。ペテロは大きな後悔と悲嘆にくれることになる。そして深く悔悛し、その後の人生をキリストへの絶大な献身のために過ごし、最も重要な使徒として、初代教皇に選ばれるまでの尊敬を集めることになった。
  よほど注意してみないと分からないが、テーブルに坐った雄鶏の上の方に、葡萄のつた(蔦)がはい上がっている。「私は幹、あなたは枝」(I am the vine, you are the branches. ヨハネ15:5-6)という有名な言葉が思い出される。幹があってのつたである。つたは「不滅の愛」のシンボルとされていることから、キリストが悔い悲しむペテロを赦し、愛をもって包もうとしている思いが感じられる。ペテロは、キリストに最も近く、多くの出来事をともにしてきた。

分かりやすい画題
  当時、カトリック教会は「悔悛」をテーマとした作品を称揚していたから、ラ・トゥールもマグダラのマリアの悔悛とともに、この聖ペテロをテーマとして礼拝用にいくつも描いている。しかし、この構図に近いものは、残念なことに本作品以外には残っていない。聖ペテロは、人間の強さと弱さを最も体現している使徒と考えられてきた。明らかな宗教画ではあるが、描かれたペテロはラ・トゥールの他の作品によく見られるように、どこにでもいそうな普通の人として描かれている。むしろいかにも気の弱そうな善人らしい容貌である。やや剽軽な感じさえ与える。使徒たりとも出自は、普通の人であるとのラ・トゥールの考えが現れている。現実にキリストの使徒たちの生い立ちをたどれば、皆そうであった。聖ペテロも猟師であった。当時の人々にとっては、他の作品以上に画題が理解しやすかったのかもしれない。(世俗の世界では、人が羨む地位を得た画家の精神構造は、推し量ると大変興味深いが、別の時にしたい。)

新たな段階への転換点か
  この作品には、署名と年記1645があり、分からない部分が多いラ・トゥールの研究にとっては貴重な情報である。これまではあまり注目されてこなかった作品である(1972年のオランジュリー展には、アメリカ・クリーブランド美術館から海を渡り、出展されていた)。改めて見ると、さまざまなことを考えさせる。雄鶏、足下の縄、蔦など、聖ペテロのアトリビュートも多数描き込まれている。平凡なように見えて、全体的に情感豊かに描かれており、構図にも細かい部分に工夫の跡がみられる。画家は、この作品を制作しつつ、次の転換への発想をさまざまにめぐらしていたものと思われる(2005年5月22日記)。

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ドイツで働くポーランド労働者

2005年05月21日 | 移民の情景

  緑色の美しいアスパラガスが店頭に並ぶようになった。初夏の味覚として世界的にも需要が増えてきたようだが、日本でもまつたけ、ブロッコリーに次ぐ、輸入量だといわれる。国内(長野や北海道が主産地)だけでは充足できないらしい。
  ヨーロッパは一足早く旬の時期になったようだ。特に、ドイツ、オーストリア、オランダ、フランスなどでの需要が多い。日本と違ってホワイトアスパラガスが好まれるので、日光に触れて緑色にならないよう盛り土して栽培し、折らないように掘り起こし、土をきれいに洗い落とし、長さ・太さにあわせて選別・出荷するという全てが手作業の世界である。

  フランス国境に近いドイツ・バーデンバーデンの近傍や、旧東独ポツダムの南の通称「アスパラガス街道」では、収穫の際にはまるで葡萄収穫時のワイナリーのように、外国から季節労働者がやって来て採取を行っている。
  今年は価格がキロあたりユーロ7-8($9-10)で、すでに例年を上回る高値だが、さらに上昇しそうである。その原因は食材の高級化と農業労働力の不足らしい。

ドイツの補助金
  EU加盟とともに、ドイツは28万人近いポーランド人労働者を受け入れる義務が発生した。その多くは、ドイツのアスパラガス採取の季節労働者である。かれらが出稼ぎに行っている間、社会保障給付の受け取り(全収入の4分の1くらい)はポーランドで行われ、出稼ぎは「ドイツでの有給休暇」といわれている。そして、ドイツの農家は(理論上)全賃金額の5分の1相当を、ポーランド人季節労働者の社会保障給付支払いのために負担することになっている。
  しかし、本年4月までは、ドイツの農家とポーランド人の労働者は、そうした条件を無視してきた。ポーランドの政府も補助金問題にわずらわされたくなかった。運悪く、ドイツで就労していたポーランド人労働者が労災にあって、対応が難しい問題を提起した。2週間前、ドイツの農家の繁忙期だが、ドイツ厚生社会保障省の役人がワルシャワへ飛んだ。彼はポーランド政府に2004年および今年前半(アスパラガスの季節)の債務は無視してくれるよう頼み込み、ポーランドも譲歩した。
  しかし、ポーランドの譲歩は、ベルリンで問題となった。ドイツ経済省はこれがEU法の違反にならないかと恐れた。労働組合指導者は、中・東欧の新加盟国からの労働者流入で苦労していが、このポーランドへの補助金は賃金ダンピングを許し、ドイツ政府がドイツ人労働者から職を奪っている一例だと文句をつけた。

よく働くポーランド労働者
  とはいっても、ドイツで働いているポーランド人労働者を、いまや5百万人になるドイツ人失業者の一部で入れ替えることができるだろうか。農場主はそうした提案がなされることを恐れている。アスパラガスを採取する労働は、大変骨の折れる仕事である。ドイツ人の長期失業者は、ほとんど40歳以上である。他方、ポーランド人労働者は3ヶ月の収穫期にだけやってくる。そして農場に住み、熱心で良い労働者とされている。
  外国人労働者がここまで定着していると、ドイツ人で入れ替えるには大変な移転コストがかかる。今年発効した新労働改革の下で、仕事を選り好みしたりして「働く意欲の少ない労働者」へのペナルティが厳しくなったとしても、ドイツ人は時間賃率5ユーロの仕事にはつきたがらない。それでも、多くの農家がドイツ人労働者を雇おうと努力した。しかし、結果は無断で休んだり、頼りにならなかった。ドイツ人は、昔の勤勉なイメージを失ってしまったようだ。

ノウハウの大切さ
  アスパラガスは新鮮さが命である。したがって収穫の時が大変重要である。白さを保つために日光の当たらない土の中で育てるため、いつ、どこから生えてくるのかわからない。そのため、「土の中の気まぐれなお姫様」ともいわれている。「お姫様」が現れるわずかな手がかりは、畑の土の表面に出来るひび割れである。一日に何度も畑を回り、見つけては一本一本丁寧に掘り起こす腰の痛くなる作業である。
  ポーランド人ばかりでなく、ルーマニアとかウクライナからの労働者を雇ってはどうかとの提案もある。確かに、彼らを雇えば、労賃はさらに安く、社会給付の助成負担もない。しかし、残念なことに、ポーランド人の持っているノウハウがない。彼らの多くは何年にもわたって、季節労働者として、この仕事をしてきたので信頼できるのだ。

外国人労働者依存はさらに進む
  農家にとっての慰めは、高級食材としてのアスパラガスへの需要が大変高くなっているので、価格が上昇し、キロ10ユーロに達するだろうとみられる。ポーランド人労働者を雇っても十分引き合う。しかし、胡瓜やイチゴなど普通の作物についてはそうはゆかない。値段もそこそこだろう。しかし、ドイツ人が働かないとなれば、これも、ポーランド人労働者に頼って今年の後半に収穫するこtになるだろう。農業、食肉加工、建設など、ドイツ人労働者が働きたくない分野で、外国人労働者による代替が確実に進んでいる。

  日本でも、多くの人が気づかない間に、日本人が就労しなくなった分野が増えた。代わって、外国人労働者が働いている。若者を始めとして失業者が多い状況でも、外国人労働者への依存度は着実に高まっている(2005年5月21日記)。

Source: DER SPIEGEL, The Economist May 7th 2005などを参照。

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ラ・トゥールを追いかけて(22)

2005年05月19日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

聖アレクシスの遺骸の発見

Georges de La Tour, The discovery of the corps of the St. Alexis, Dublin National Gallery of Ireland   
ラ・トゥールの原作に基づく模作と考えられる

  たいまつを掲げ、真剣な顔をした少年が、椅子に座った聖人とおぼしき人の様子を見つめている。髭をたくわえ美しい髪の老人は、すでに息が絶えているのか、もはや目を瞑り、地味だが整った服装で横たわっている。手には手紙のようなものを持っている。

  少年は美しいサテンの服に、縁取りのある薄紫の胴着を身につけている。金色の刺繍のある白い襟、金細工の鎖飾りのある黒い縁なしの帽子、そして羽根飾りが、少年のかかげるたいまつの焔が生む風で舞い上がる様子が美しく描かれている。ラ・トゥールの独断場ともいえる描写である。

  光に映し出され、神妙な面持ちの少年と長い人生を終えた老人の無言の対話は、感動的な空間を創り出している。

パスカル・キニャールの試論に  
  ラ・トゥールの他の画題と同様に、この作品でも16-17世紀の人々には、よく知られた伝承(アレクシス伝説)が画題となっているが、現代のわれわれにとっては、説明が必要となる。私自身、テュイリエ(Thuillier 1992)の解説を手にするまでは、詳しい背景を知らなかった。   

  たまたま、キュザン=サルモン(2005)(*1)に、フランスの作家パスカル・キニャールPascal Quignardの作品の一部が掲載されていた。これは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関する試論で、「夜と沈黙」La Nuit et le Silenceという題名である。1991年に出版され、1995年に再版された。

  この著作は、後述するように、ラ・トゥールの『聖アレクシスの遺骸の発見』をテーマに書かれたものである。すなわち、「主題があいまいな「絵」の奇妙な連続」のなかで「意味がはっきりしている唯一の絵画であるラ・フェルテ氏のために(pour M. de La Ferté)、1648年に描かれた『聖アレクシスの絵』」をテーマとしている。   

  やや長い引用だが、聖アレクシス伝説の内容を知るには、このキニャールの作品の方がテュイリエの解説よりも分かりやすいので、ここに紹介しておこう(キュザン=サルモン邦訳、169-171)。 [(  )内および名称は、Thuillier, 1992, p.218―221およびCuzin et Salmon 2004に基づき、私がメモ代わりによけいな加筆をした部分。] パスカル・キニャールから(引用)  

「エウフェミアヌスEuphémienはローマ一裕福な市民で、知事であった。彼はアグライアAglaéと結婚して、ひとりの息子がいた。彼らはその子をアレクシスAlexiとなづけた。(アレクシスは彼を愛する美女と結婚する。)結婚式の晩、若妻は服のホックをはずしていたが、アレクシスは妻の胸をおおい、恥じらいを保ち続けるようにいった。そして、自分が身につけていた金の指輪と帯を妻に渡し、それらをしまっておくように頼んだ(そして、行く先を知らせずに旅に出た。) 彼は船に乗ってラオディケアLaodicée(トルコ)へ向かった。そこから、シリアの町エデッサEdesseへ行った。その町では、住民たちが、布に刻まれた主イエス・キリストの肖像を大切に保管していた。アレクシスは服や下着をすべて人々にあたえ、裸で、エデッサの聖マリア教会のポーチで物乞いを始めた。   

  17年後、彼はエデッサを離れ、オスティアOstie(イタリア)に到着し、ローマにある父の宮殿にたどりついた。(そして、最下層の召使いとして仕えていた。)誰も、彼のことがわからなかった。彼の父は、彼に施し物をあたえた。17年間、彼は誰にも正体を知られないまま、父母の家にとどまった。   

  彼は、パンくずを食事として食べていた。彼は階段の下に住んでいた。死が近いのを感じた彼は、文字を刻むための錐を手に入れ、自分の人生の物語を書きとめた。 皇帝アルカディウスArcadeusとホノリウスHonorius、ローマ教皇インノケンティウスInnocentは、神の人がエウフェミアヌスの家にいると夢で知らされた。彼らは使いを送り、宮殿の召使いたちを調べた。対象外の人物を除外して行くことで、調査はすぐに終わった。階段の下に横たわり、物乞いをしている男以外ではありえなかった。たいまつを持ったひとりの小姓が、ローマ教皇インノケンティウス(宛)の手紙を手にしたまま、すでに死んで硬直した聖人のほうへ身を乗り出した。」(パスカル・キニャール『夜と沈黙』フロイックFlohic、1995年)

作品の背景  
  ロレーヌのヴィック地方では、このアレクシス伝説にきわめて似た別の伝承(バーデのベルナール信仰)があったようだ(Thuiller 92, 218)。いずれも宗教的禁欲主義asceticismを説くに格好な伝承であった。   

  さて、このダブリンのアイルランド国立美術館が所蔵する作品(ナンシーの修道院が所蔵するもうひとつの作品に由来するとも推定されている)は、1958年の購入時にはパリゼ Parisetによって真作とみなされた。しかし、今日では優れた模作とする意見で一致しており、息子エティエンヌの手によると考える研究者もいる(Wright、1969)。   

  1649年1月、リュネヴィル市は新年の贈り物として、ロレーヌ総督ラ・フェルテに、ラ・トゥールが1648年末に描いた「聖アレクシスの画像」を贈った(キニャールの主題)。今日では、これが失われた原作であり、現存する二点の作品、つまりダブリンのアイルランド国立美術館所蔵の作品とナンシーのロレーヌ博物館の所蔵作品は、この原作に基づく古い時代の優れた模作であると推定されている(*2)。

ラ・トゥールの非凡さ  
  この伝承を画題とした作品は、現存するものが比較的少ないと云われている。パリにいた画家クロード・メランClaude Mellan の銅版画が、テュイリエの研究書(218)に掲載されている。それを見ると、朝日が丸窓から差し込む宮殿のホールの場が設定されている。そして、石造りの階段の下に十字架を下げて横たわるアレクシスと、発見した3人の人々、遠くで見守る人々が描かれている。アレクシスは、ラ・トゥールの作品のような美しい巡礼服ではなく、粗衣を身につけているだけである。   

  ラ・トゥールは例のごとく、伝承を作品にするについて、多大な工夫をこらしている。まず、作品の効果を考え、聖アレクシスの遺骸発見の舞台を朝ではなく、夜に変えた。たいまつの光の下に、若い従者によって発見されるという話に変えたのである。そして、彼が身近かにいたことを知らなかった両親や妻の悲しみやインノケンティウス皇帝の夢見の話はとりあげていない。発見者を輝くような若い従者にすることによって、世の中の誘惑を退け、禁欲主義を貫いた聖アレクシス自らが、人生の過ごし方を次の世代へ伝えるという、当時の時代にアッピールする「革新」を行っている。ラ・トゥールの非凡さは、同じ主題を扱いながら、きわめて多くの思索を作品創作に費やしていることである。かくして、この絵は大変美しく、静かな感銘を見る人に与えるものとなった(2005年5月18日記)。

*1)Jean-Pierre Cuzin et Dimitri Salmon, Georges de La Tour,:Histoire d’une redécouverte, Paris: Gallimard, 2004 (邦訳『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』高橋明也監修、遠藤ゆかり訳、 創元社、2005年)

*2)ナンシーの作品も、これを真作とする見解もあるが、画面の下部が切断され上部が大きく継ぎ足されている。一方、ダブリンの作品はラ・トゥールが意図したままの構図を伝えていると思われる。 

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揺らぐドイツの労働市場:拡大EUの衝撃

2005年05月18日 | 移民政策を追って
  2004年8月に加盟国拡大を行ったEUは、一時は明るい将来への一筋の光を見たような思いだった。しかし、その後の事態の展開につれて、加盟国の間にさまざまな問題が浮上してきた。とりわけ、フランス、ドイツなど、最初からの加盟国で深刻な事態が展開している。国民の間に、拡大EUがもたらす影響について、恐れや怒り、そしてフラストレーションが高まっている。特にドイツとフランスでそれが激しい。EU拡大に賛成しない国民の感情は、指導者の予想を裏切り、政権基盤を揺るがしかねないほどに強まってきた。

EU拡大のマイナス面への対応の遅れ
  これらの国々では、政権を握る指導者と国民の間の認識格差が拡大してきた。ひとつの発火点は労働市場である。フランス、ドイツなどへ東欧諸国から低賃金な労働力が流入し始め、国内労働者との間にさまざまな軋轢を生むようになった。それがきっかけになって、EU拡大そしてその中枢である本部への反対も強まっている。メンバー国にとってさしたる実害のない機関と考えられてきたブリュッセルのEU本部が脅威になってきたのである。いまや加盟国は次々と出されるEUの指令に、ほとんど異論を唱える間もなく、従うことを余儀なくされている。この状況を有名な玩具メーカー「レゴ」が、かつてCMに使った「一日ひとつの玩具を」というフレーズになぞらえる論評すらある。

  EUの主要国は、加盟国拡大は歴史的な義務と自らを讃えていたが、拡大に伴う国民への負担や困難にどう対応するかを忘れていた。2年後の2007年には、ブルガリアとルーマニアの加盟が予定されているが、ドイツ、フランスはもはやそれを望んでいない。少年犯罪者や売春婦を送り出す国と公言する政治指導者までいるくらいだ。

国民の決断やいかに
  こうした状況で、EU憲法(正式には憲法協定)の批准が迫っている。先ず、ドイツは批准の決議を5月19日下院、そして27日には上院で行う予定になっている。ドイツは、幸いフランスのように国民投票をせずに批准ができる。 もし、通過すれば国民投票を行うフランスへのメッセージとなる。ブラッセルEU委員会によるサービス産業の規制緩和は、ドイツよりもフランスで強い反発が生まれている。
このサイトでも取り上げたことのある、ヨーロッパのサービス産業ガイドラインにしても、ドイツの連立政権は楽観していた。「ヨーロッパの障壁を大規模に除去し、多数の仕事を創出する」とクレメント貿易・通商大臣が語っていた。

  しかし、新加盟国からのタイル貼り職人や屋根葺き職人がドイツを目指していることが分かるや、一夜にして指導者は態度を変えざるをえなくなった。首相自らサービス自由化については、全体構想の見直しが必要だと言い出した。

新しい東欧と古い西欧
  統合によって地域的にも拡大したEUでは、古くからの構成国であるドイツ、フランスなどで、企業がハンガリー、チェッコなどの東欧諸国へ流出・移転する動きが見えてきた。それとともに、労働コストが相対的に低いポーランドなどから労働者が流入してきた。その結果、ドイツやフランスなどでは、産業ならびに労働の基盤が揺らぎ始めた。

  いまや西欧の労働者は、東欧との競争によって追い出される感じを抱いている。ドイツにおいては食肉加工業にポーランド人労働者が多数雇用され、数千人のドイツ人の雇用機会が奪われたといわれている。また、フランスではポーランドから鉛管工などが流入し、国内労働者の雇用が代替される事態が生まれている。

どうして競争できるのか
  1958年のローマ憲章には、ECの目標として人,もの、サービスの自由な移動が標榜されている。最初からの構成国である6カ国は、イタリア南部を除くと経済的にも同質である。しかし、拡大EUの25カ国、そして将来の27あるいは30カ国は、きわめて異なった経済水準である。賃金、社会給付などの低水準を武器とするダンピングが生まれることは避けがたい。このところ、ドイツの新聞・雑誌は、東欧からの低賃金労働者の流入とドイツ人労働者の代替の問題をしばしば一面に取り上げ論じている。東欧とドイツの賃金コスト差が1:10というのに、どうして競争ができるかという国民の疑問に答えるのは難しい。

  この大きな賃金コスト差を利用して、再生をはかる産業まで出てきた。かつてはドイツ重化学工業を支えてきたドイツの石炭産業は、エネルギー革命の影響で、すでに60年代から衰退産業となってきた。日本では炭鉱業はもはや存在しなくなったが、ドイツでは多額の政府補助金もあって、今日まで存続してきた。その過程で、業界はリストラを進めるために残る労働者に早期退職を勧めるなどの措置をとってきた。炭鉱労働者は49歳で退職でき、最後にもらう給与の85%相当の年金を受給できる。ところが、ポーランドやチェコから労働者を招き、低賃金で働かせるという人材派遣会社が増えてきた。ポーランド人労働者にとって、炭鉱は月に900ユーロ(約12万円)を母国に仕送りできる出稼ぎ先である。これらの新しい外国人労働者は好条件で働くドイツ人労働者にとっては大きな脅威となっている。労働コストの4割を削減できるという期待から、中東欧からの労働者が次々と流入してきた。

落日の「福祉国家」
  かくして、ドイツ国内にはこれまで労働組合などが獲得してきた高い賃金水準や労働条件に支えられた国内労働者層と、相対的に労働コストが大幅に安い外国人労働者などの低賃金労働者層が目立ち始め、前者の基盤が顕著に侵蝕されている。予想されたことではあるが、対応を考えていなかった先進国は深刻な事態を迎えている。グローバル化は先進国の労働条件にとって大きな脅威である。「福祉国家」welfare stateという言葉は、すでにかつての輝きを失っているが、残る砦も危うくなっている(2005年5月17日記)。


Source: DER SPIEGEL digital editionなどを参考にした。

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工房の世界を覗き見る: トレイシー・シュヴァリエ『貴婦人と一角獣』

2005年05月15日 | 書棚の片隅から
  このブログでも取り上げているラ・トゥールの人生は、多くの謎に包まれているが、そのひとつは画家として初期の修業をどこで、いかに過ごしたかということにある。16世紀末から17世紀という時代に画家という職業で生きてゆくには、天賦の才能に恵まれるだけでは、とうてい不可能であった。

画家の修業時代?
  他方、画家という職業を求める人も多く、ラ・トゥールの生まれたロレーヌのヴィック・ド・セイユという小さな町でも、多くの画家が活動していた。1593年にヴィックに生まれたラ・トゥールが、1617年に24歳で結婚するまで、画家としていかなる修業をしたかという点については、なにも推定する材料が発見されていない。しかし、リュネヴィルの貴族の娘ディアーヌ・ル・ネルフと結婚するについては、その時までにラ・トゥールが画家として、かなりの実績を上げていたに違いないと推定されている。パン屋の息子が社会階級としては上層のグループに入り込むことは、並大抵のことではなかった。この時までに、ラ・トゥールは若い画家として、将来を期待されるだけの仕事をしていたものと考えられる。ラ・トゥールが結婚を機に、妻の実家のあるリュネヴィルに住居を移すのも、画家の間の市場競争も考えての上であったと推定されている。

徒弟の世界
  中世以来、多くの職業において、必要な熟練を習得するには、徒弟制度apprenticeship という経路をたどることが必要条件であった。時代や職業においても差異はあるが、徒弟制度は社会的に確立された熟練養成の仕組みであった。当時の徒弟は、職種などで異なるが、ほぼ14歳でスタートし、4~6年間、親方や兄弟子職人の下で修業する慣わしであった。ラ・トゥールも、画家としてロレーヌで認知されるについては、どこかの工房に徒弟として住み込み、親方の指導の下で、画法や顔料など必要な知識や技能を習得する時代を過ごしたに違いない。
  推定では、ロレーヌで画家およびエッチング(銅版画)作家として名声の高かったジャック・ベランジェJacques Bellange (c.1575-1616)あるいはヴィックですでに画家として認められていたドゴスClaude Dogoz(1570-1633)の工房で修業したのではないかともいわれているが、確認する資料はなにも発見されていない(この推測のひとつの理由は、後年ラ・トゥールの息子エティエンヌがドゴスの姪アンヌ・カトリーヌ・フリオと結婚していることが挙げられている)。ラ・トゥールは、結婚する前にパリにいたとの資料上の推測もあるが、当時の状況を考えると、少なくもどこかの工房で修業をしなければならなかったと思われる。

『貴婦人と一角獣』にみる親方と徒弟
  ラ・トゥールの修業時代については、新たな資料の発見を待つ以外にない。それに関連した問題は別にとりあげるとして、ここでは、最近手にしたひとつの時代小説を紹介しよう。トレイシー・シュヴァリエ Tracey Chevalierの最新作『貴婦人と一角獣』(The Lady and the Unicorn, Harper and Collins, 2003, 木下哲夫訳、白水社、2005年)である。前作のフェルメールの名作に因んだ『真珠の耳飾りの少女』は、映画化もされたのでご存じの方も多いだろう。美術の好きな方は、表題をみて直ちにパリの国立中世美術館(旧クリュニー美術館)が所蔵する「一角獣を連れた貴婦人」と題する有名なタピスリー(英語ではタピストリ)を思い浮かべることと思う
  このタピスリーは、フランス中世美術の至宝といわれる作品である。小説家トレイシー・シュヴァリエは、この作品を題材に想像の世界を繰り広げた。タピスリーの注文主である貴族の一家、画商、絵師、タピスリーの工房の親方、徒弟などを登場させ、タピスリー(つづれ織り)のような愛と官能の世界を描き出した。
  1490年から92年にかけてのパリとブリュッセルを舞台に、タピスリーの発注から完成にいたる過程で、登場人物が織りなす場面はそれぞれ興趣があり、読者をひきつける。

クリュニーのタピスリー
  パリ・カルチェラタンの国立中世美術館(旧クリュニー美術館)の6枚のタピスリーは、私も見たことがある。ローマの要塞都市時代、14世紀に建てられたクリュニー派修道院の院長邸宅が美術館になっている。当時の公共浴場の跡や、サン・シャペルから移したステンド・グラスや、ピエタなど貴重な展示物がある。建物としては、はからずもドイツの小さな町トリアーに残るローマ時代の遺跡ポルタネグラ(黒い門)を思い出してしまった砂岩の壁が特徴である(現在の名称になってから、内部も改装されて明るくなったようだ)。しかし、この美術館の目玉はなんといっても、『貴婦人と一角獣』La Dame a la Licorneの6枚の連作タピスリーである。
  最初に見た時は室内照明も暗くとまどったが、目が慣れてくると赤の鮮やかさが栄え、貴婦人たちの優美さが描かれている。処女しか手なずけることはできないという一角獣が乙女の膝に前足をのせている(*1)。小説にも登場する緻密なミル・フルール(千花模様)、一角獣とともに描かれている獅子やほかの動物たちなどが美しい。

  このタピスリーは、元来リヨンの貴族ル・ヴィスト家の依頼で15世紀後半にフランドルの織元工房で制作された。しかし、短い期間ル・ヴィスト家に留まっただけで他人の手に渡り、19世紀に史跡検査官に再発見され、ジョルジュ・サンドはその擁護者になった。のちにフランス政府が購入、修復し、クリュニーに保管されたという経緯がある。

ラ・トゥールを思い浮かべて
  小説に描かれたブリュッセルの工房の情景は、大変興味をひく。詳細は実物をお読みいただくとして、大変面白いのは、この小説家トレイシー・シュヴァリエがこの小説を書くについて、明らかにジョルジュ・ド・ラ・トゥールを念頭においていることが分かる部分が時々登場する。
  ブリュッセルのタピスリー工房の親方の名前は、ジョルジュ・ド・シャペル、孫はエティエンヌ(ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの息子と同名で画家になる)、徒弟の一人はフィリップ・ド・ラ・トゥールである。タピスリーの下絵描きとタピスリー工房の関係なども描かれており、大変面白い。
  なお、トレイシー・シュヴァリエは、Home Page (*2)も開いているので、ご関心のある方は訪れることをお勧めしたい(2005年5月14日記)。

*1)ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチは一角獣について、次のように記している:「不節制―一角獣は不節制で克己力がないため、小娘が好きで、自分の凶暴性も野生も忘れてしまう。一切の疑念などそっちのけで、坐っている小娘のところへ行き、その膝で眠ってしまう。猟師はこういう風にして一角獣をとらえる。」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記、上』杉浦明平訳、岩波文庫、2002年、126頁)

*2)http://www.tchevalier.com/index.html

Image:Courtesy of the Tracy Chevalier's HP

*このタペストリー(クリュニー国立中世美術館蔵)に関する記事が掲載されている「美の美:一角獣がやってきた」『朝日新聞』2005年11月20日
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ラ・トゥールを追いかけて(21)

2005年05月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour, The Magdalene at the Mirror(The Repentant Magdalen), c.1640、The National Gallery of Art, Washington, D.C., Alias Mellon Bruce Fund   

    ひとりの女性が、わずかに蝋燭の光が映し出す明かりの中で、一枚の鏡を前になにか物思いにふけっている。長い髪の毛はすべて後ろに流れ、メランコリックな雰囲気の漂う横顔を現している。彼女のあごは掌と机についた右肘で支えられている。閉じられた分厚い書物の上には、頭蓋骨が置かれている。光源となっている油蝋燭は頭蓋骨と書物の背後に隠れているが、焔は彼女の呼吸で揺らいでいるかにみえる。  

    前面に置かれた鏡の鏡面には、頭蓋骨と書物の一部が映し出されている。鏡の向こう側には、物入れのかごの一部が見える。おそらく香油などのびんが入っているのだろう。  鏡に映された頭蓋骨は人生の虚しさを象徴しているかのごとくであり、女性の来し方を物語っているかのようにも感じられる。それは、われわれの人生の幻影なのかもしれない。わずかに闇を照らし出している蝋燭の光が救いのようにみえる。   

  この女性がマグダラのマリア(*1)であることは、もはや明らかである。発見された当時から、この作品はラ・トゥールの手になる真作であることに異論はなかった。「大工聖ヨゼフ」などと同様に、真作が持つ強い迫真力があるからだろう。「鏡を前にしたマグダラのマリア」と呼ばれることが多いこの作品は、19世紀半ばまでコーラインクール公爵夫人が所蔵していたが、1936年収集家ファビウスA.Fabiusの所有となり、その後1974年にはアメリカ・ワシントンの国立美術館の所有に移った。そのため、「ファビウスのマドレーヌ」の名でも知られてきた。  

  ラ・トゥールの描いたマグダラのマリアにも、いくつかの異なった構図による版があることが知られている(*2)。それぞれに特徴があり、興趣が尽きないが、個人的には、この全身像(実質的には上半身像)の構図および半身像の「書物のあるマグダラのマリア」(ヒューストン、個人蔵)が好みである。両者ともに大変簡素な構図だが、後者は顔のほとんどが髪で隠され、表情は読めない。今回、とりあげる全身像のマグダラのマリアは容貌を含めて、全体に落ち着きが感じられる。とりわけ、顔の部分が隠されていないため、表情が読み取れる。画面の下半分がほとんど闇に包まれているため、一見すると物足りないように思えるが、静謐でクラシックな感じがする。

  描かれた当時は、もう少し鮮明な部分があったのかもしれない。(他の版では女性のスカートの赤い色、結ばれた縄など、アトリビュートが目立つ。)ラ・トゥールの作品でもっとも「叙情的」lyricとする批評家(J.Thuillier)もいる。  

  この「鏡を前にしたマグダラのマリア」についても、ラ・トゥールの手によるものと考えられる作品がいくつかある。この絵は、その中で最も優れているように思われる。

  マグダラのマリアについての解釈、位置づけは時代とともにかなり揺れ動いてきた。ラ・トゥールの時代には、カトリック宗教改革の潮流の中で新たな神学上の評価がなされ、信仰熱が高まってきたものと思われる。多くの作品の制作が、そのことを裏付けている。ラ・トゥールが最も多く取り上げた画題であろう。悔悛の後に、キリストへの最も純粋かつ永遠の愛を示したマグダラのマリアは、おそらく当時の人々に最も好まれた画題であったにちがいない。  

  この絵も宗教的含意を持ちながらも、そうした印象を与えない。もしかすると、自分の近くにいるかもしれない普通の人を描いている。そこに、この画家の制作に当たっての深い思索の姿を感じる。不安と混迷で先が見えない現代人の心にも訴えるものをもった、時空を超える名画である。



*1 マグダラのマリアについては、次の書籍が見事な展望を行っているので、ここでは子細については触れない。岡田温司『マグダラのマリア:エロスとアガペーの聖女』中公新書、2005年

*2 「鏡の前のマグダラのマリア」については、半身像の銅版画(フランス国立図書館蔵)および模作が存在する。

Image: Courtesy of the National Gallery of Art, Washington, D.C.

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スペイン、不法移民にアムネスティ

2005年05月11日 | 移民政策を追って

  2005年3月9日のこのサイトで記したように、スペイン政府は本年2月、「2004年8月から半年以上、同国に滞在した不法移民に就労ビザを与え、合法化する」といういわゆるアムネスティ政策を実施することを発表した。これは移民を制限する方向にある最近のEU諸国の中では、異例の政策であった。スペインでは、長年にわたり不法に国内に住みついた移民を合法化した例は、過去にもあったが、今回の措置は条件もきわめて緩やかであった。すなわち、2004年8月以前から6ヶ月以上スペインに居住していること、雇用契約があること、そして犯罪歴のないことが条件であった。

労働力不足への対応
  スペインのこの政策は、1990年代後半以降に増加した不法雇用や密入国あっせんなどの闇経済と、少子高齢化に伴う労働力不足への対応といえる。移民の労働力に頼らざるを得ない現状を追認したものである。いっそのこと合法化して使用者に社会保険料を納めさせることにすれば、不法滞在の状態にある移民労働者は劣悪な労働環境から解放され、移民増加に伴う財政負担も減らせると考えたものとみられる。スペインには、推定100万人近い不法滞在者がいると推定されてきた。
  5月7日、この措置の下で就労ビザを発給する手続きの受付を締め切った。全体の集計は未だ発表されていないが、2月以来の申請人数は65万~70万人に達したとみられる。受け付け最終日の5月7日には、およそ4万人が全国193カ所の窓口に押し寄せた。合法化を求める移民で最も多かったのはエクアドル人で、続いてルーマニア人、モロッコ人などであった。

近隣国の反対
  EU域内は、ほとんど国境での審査がないため、スペインで合法化された移民が大挙して周辺諸国へと流入する懸念も広がっている。ひとたび合法移民になれば、周辺国への移動が容易になるため、ドイツ、オランダなど多数の失業者を抱えるEU加盟国からは今回の措置への批判が相次いだ。また、次のアムネスティの機会を待つために、一層の不法移民流入を招くとの批判もある。
  確かにフランスやイタリアに不法滞在するモロッコ人などが合法化を求めてスペインに殺到し、フランス国境から入国を試みる大勢の移民がフランス当局に摘発された。彼らはスペインで合法移民の権利を得た上で、他のEU諸国へ移動するもとのみられる。申請には昨年2004年8月時点での住民登録申請書が必要とされる。しかし、不法移民の大半は当局の摘発を恐れて住民登録をしておらず、政府は昨年8月以前の日付さえあればバスの定期券でも「証拠」として受理した。住民登録書、雇用契約書も闇で買えるとの話もあったようだ。

困難な流入阻止
  スペインはモロッコ、アルジェリアなどアフリカからの不法移民の流入口として、EUからは入国管理を厳しくするよう要請され、そのためにかなり膨大な助成金も受けている。スペイン政府は、今後は不法滞在の外国人には送還などの厳しい措置をとるとしている。夜間カメラと赤外線の探索装置を不法上陸の多い海岸線に設置し、モロッコ警察と協力してのパトロールなどの対応策を強化した。
  スペインに最も近い移民送り出し国モロッコは、イタリア、スペイン、フランスなどにいる同国人から年40億ドル近い送金を受けており、その額はGDPの9パーセント近くに達している。1990年代半ばでは、この比率は5パーセントだった。今では、外貨収支のマイナスを埋める最大の寄与要因となっている。
  アフリカの厳しい貧困から逃れようと、毎年数千人の人々が20キロ近いジブラルタル海峡の激流を渡ろうとし、多数の犠牲者を生んでいる。一人あたり1000ユーロ近い金と引き替えに、密入国をそそのかすブローカーも多い。
  現代の移民政策で、送り出し国側の問題に目が向けられることは少ない。アフリカの貧困問題解消に光が見えないかぎり、移民とEU諸国とのせめぎ合いは果てしなく続くであろう(2005年5月11日記)。
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国境の中の国境:拡大EUの今後

2005年05月08日 | 移民政策を追って


シェンゲン協定(Shengen Agreement)の加盟国は1985年6月14日に成立した当時のベルギー、フランス、ルクセンブルグ、オランダ、西ドイツ(当時)のヨーロッパの5カ国から2023年1月現在、27カ国となった。(時系列上の記事は、時の経過とともに内容に変化が生じるので、ご注意ください)。

こうした動きは、極東の島国である日本からみると、大変素晴らしい展開のように映る。たとえば、域内では人の移動も自由化され、パスポートなしでどこへも行ける。なぜ、日本は制限をしているのかという短絡した議論が生まれる。


しかし、加盟国が次々と増加するEUの実態は、必ずしも正確に理解されていない。人の移動にしても、EU拡大によって国境がなくなったわけではない。むしろ障壁が強化された面もある。実態を客観的に見る必要がある。

加盟国が増加するにつれて、EU共通の移民・難民政策の整備が早急に必要とされるが、現実には各国がそれぞれの政策に固執しており、統一化は難航している。僅かに、1985年に成立したシェンゲン協定で協定加盟域内の人の移動は自由化され、イギリス、デンマーク、アイルランドを除き、EU域内のパスポート管理は廃止された。その結果、従来、各国が担っていた国境管理の焦点は、東および南へと拡大し、EUの前線へと移行した。こうしたフロンティアでは、EUに入り込もうとする人々と国境パトロールとの激しいせめぎ合いが見られる。

シェンゲン協定の成立

EUの国境管理を理解するについては、シェンゲン協定の重要性を理解しておく必要があるフランス、ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ)の間で締結された国境管理の廃止にかかわる条約である。シェンゲンはフランスとドイツ国境に近いルクセンブルグに属する小さな町である。この町に近いモーゼル河の船上で、協定の署名が行われたため、この名がつけられた。当初、EUとは独立の形で進められたが、後にEUの権限内に統合された。

協定の目指すところは2点あり、シェンゲン協定を結んだ国家の域内(シェンゲン地域)で、国境管理を廃止するとともに、域外に対する国境管理に関して加盟国間で調和をはかることにある。とりわけ後者は、域内へ入ろうとする者が最も管理が緩やかな国境から入り、シェンゲン域内のより管理が厳しい国へ移動することを防ぐ意味で重要である。

 協定の目的
シェンゲン協定は、シェンゲン情報システムを通して、人の移動に関する情報を共有することを含んでいる。情報を共有することを通して、潜在的に好ましくない人間がある加盟国から別の加盟国へ移動して‘消えてしまう’ことがないようにできる。以前は、ある国で警察に追われている刑事犯でも別の国へ逃げ込むことで追求を免れた。しかし、シェンゲン協定によってある国の警察は他の国まで犯人を追うことができるようになった。

シェンゲン協定は国家的保障のために必要ならば、国境管理を協定以前の状況に戻すことが許される。ひとつの例はポルトガルで開催された、2004年のヨーロッパ・サッカー選手権の場合である。

 シェンゲン協定とEU
協定に署名した国はノルウエー、アイスランド、スイスを除くと、EUのメンバーである。また、EUの中で、イギリスとアイルランドは、協定に署名しない道を選んだ。イギリスは自らの国境を維持したいと考えている。周囲を海で囲まれているという条件を考えると、イギリスがこうした選択をすることは、理解できる。アイルランドはイギリスとの間にシェンゲン協定に類似した取り決めを行っている。2000年には両国はシェンゲン情報システムに参加し始めた。

シェンゲン協定は、EU加盟国の間に合意が成立しなかったこともあって、EUとは独立に生まれた。その後、1997年に成立したアムステルダム協定はシェンゲン協定によって生まれた展開をEU法の枠組みに取り込んだことになった。たとえば、新しいEU加盟国は域外非加盟国への国境管理について、EUの統一的な対応を充足することが求められる。とはいっても、シェンゲン協定の法的説明責任などについて、疑問も提示されてはいる。

困難な一元化
EUの最前線の国境管理、域内各国における移民・難民政策には、各国の歴史や文化事情なども反映し、かなりの差異があり、現実には簡単に一元化ができない。当面の政策としては、次の二点が検討されている。1)EUの国境警察で、国ごとの国境コントロールを代替する、2)難民申請が却下された難民を母国が引き取るために政府援助を使う。前者については、特に反対はないが、実現に時間がかかっている。前者については、イギリスなどが中央集権的な組織は必要ないとして反対し、フランスを中心とするグループと対立している。後者のプランはイギリスのアイディアだが、イタリアも同様なアイディアを提示している。しかし、援助を不法移民のために使うことには、意欲的でない国が多い。

難しい移民・難民政策の一体化
移民・難民政策の一体化には、国ごとの制度の差異や強弱に加えて、難民や労働者の側にも家族、文化的結びつき、労働の機会、言語などの点で短期的に一元化することを困難にさせる点が多い。多くの国で政治家は、自国の政策が、EUの統一政策に包含されることを望まない。不法移民にEUが協調した対応をとるべきだと指導者は述べてきたが、実際にその方向での対策は緩慢である。そのためもあって、国ごとに特別の施策を導入してきた。


たとえば、デンマークは難民申請者への給付をカットする法律を導入し、配偶者や高齢の血縁者をつれてくることを難しくした。イタリアは、国内に居住することを希望する非EU国民には、指紋押捺を条件とすることにした。イギリスは、難民申請者の子供は、同国民の正規の教育システム外で教育を行うことを提案している。また、オーストリアは、2003年に「外国人同化政策関連法」を施行し、外国出身者にドイツ語の学習を義務づけ、移民流入に歯止めをかけようとしている。家族の結合についても違いが見られ、ドイツは一二歳以上の子供が親と一緒になることを望んでいないが、他国は厳しすぎるとしている。難民申請後、決定までの時間についても差異がある。不法滞在者は難民認可のためのショッピングをしているともいわれる。これらの対応からうかがえるように、加盟各国が同意するEU統一移民・難民政策の導入までは、かなりの地ならしが必要だろう。

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ラ・トゥールを追いかけて(20)

2005年05月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
Georges de La Tour, Job and His Wife, c.1630s, Musée Départmental des Vosges, Épinal.

  一見して、不思議な印象を与える作品である。今日まで400年近い年月が経過しているとは、およそ思えないほどモダーンである。現代の作品としてもおかしくないし、宗教画の感じもまったくない。

  右側の椅子に座った裸体の男性と比較して、左側の赤い衣服を着た女性は、大変背が高く描かれており、ウエストの位置もきわめて高い。スマートではあるが、男の顔をのぞき込む姿勢は画面の上部が詰められていることもあって、やや窮屈な感じを与える。蝋燭を持った女性の手も「鹿の角」と形容されたように、リアルではない。画家がキュービスティックな配慮を加えたとしか思えない。女性の服装は簡素だが、朱色が蝋燭の光に生えて美しい。白い帽子と前掛けの色もそれを引き立てている。しかし、すそが長いデザインは、日常着ではないようにも思える。当時の人たちにはすぐに分かったことでも、今になると推測するしかない。衣装についての歴史的研究が進むと、意外なことが分かるかもしれない。

洗練された美しさ
  この作品は、1825年にエピナル美術館が、ナンシーの画家クランツの作品とともに取得した絵画の中に含まれていた。発見当時は、画家は特定できないが「イタリア派」の作品とされていた。確かにそう思わせる様式化と洗練された美しさが見られる。

  その後、1900年にゴンス Gonseがレンヌの「生誕」と比較し、両者の関連性に言及している。また、1922年にはドモン Desmonts がラ・トゥールの作品と推定した。そして、1972年、特別展に備えての修復作業の際にDe La Tourのサインが発見された。その後、この絵は、ラ・トゥールの作品の中でも一段と重要度を高めた。とりわけ目立つ様式化 stylization と画題の解釈についての強力な独創性などが評価されたのであろう。「ヴィエル音楽師」や「12使徒」シリーズにみられたような徹底したリアリズムは、いつの間にか消え去っている。画家の後期の作品ではないかと考えられている。

揺れ動いた画題
  しかし、画家がラ・トゥールではないかとされた後も、その画題についてはさまざまな推測が行われてきた。「囚人を見舞う女性」、「天使に救われる聖ペテロ」、「聖アレクシス」、「妻に嘲笑されるヨブ」など多くの解釈が提示された。確定の有力な手がかりとなったのは、粗末な椅子に座る男の足下にある小さな土器のような物品の確認である。修復作業の過程で、壊れた素焼きの土器であることが確認された。それまでは、牢獄で囚人をつなぐ足輪と考えられたこともあった。

  その結果有力な解釈として浮上してきたのが、すでに1920年代から提示されていた『ヨブ記』にみられる記述との関連である。『ヨブ記』は17世紀によく読まれていた。それに基づき、ジャン・ラフォン=ロノー(1935)が提出し、ワイズバッハ(1936)によって繰り返されたものだが、信仰に篤いヨブが妻から嘲笑される場面であるとの仮説である。

「妻に嘲笑されるヨブ」?
 『ヨブ記』は、神がヨブという信心深い男を悪魔の手にゆだね、さまざまな試練を与える物語である。裕福だったヨブは、多数の牛、馬、らくだ、羊などの家畜を略奪され、嵐のため家が倒れて七人の息子、三人の娘まで失ってしまう。さらに、悪魔は神をそそのかし、ヨブ自身をひどい皮膚病に罹らせる。ヨブは素焼きのかけらで身体をかきむしり、試練に耐えて灰の中に坐っていた。それでも神への信仰を棄てない彼を見て、ヨブの妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死んだほうがましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「おまえまで愚かなことをいうのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」。このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。(『ヨブ記』第2章第7:8)

  このヨブ記との関連へ導いたものは、年老いた男の足下に置かれた、先述の壊れた土器のようなものである。「素焼きのかけらで身体をかきむしり」という記述との関連づけがなされたのである。

  ただ、この解釈は、今日のラ・トゥール研究者の間で有力なものとなっているが、ヨブの妻とヨブの表情の部分を拡大してみても、そこには妻による嘲りといった雰囲気がほとんど感じられない。私などは、むしろいたわりの表情を感じてしまう。妻が病に苦しむヨブを見舞いに来た情景ではないか*。ラ・トゥールは依然として謎の画家である(2005年5月5日)。
 
* ラ・トゥールより時代が遡るが、アルブレヒト・デュ―ラー Albrecht Dürerの作品にも同じテーマと思われる、ヨブに水をかけてやる妻の情景が描かれたものがある。
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回想の胡同

2005年05月04日 | 書棚の片隅から
加藤千洋『胡同の記憶』平凡社、2003年

激変する中国
  この連休を利用して、実は中国旅行を計画していた。やっと多少は自分の自由になる時間が持てるようになったので、久しぶりに旧知の友人を訪ねて北京・上海などを気楽にまわりたいと考えていた。ところが、予想しなかった規模の反日運動の勃発で、少し気分が萎えてしまった。せっかく懐かしい場所を訪ね、友人と旧交を温めるなら、静かな雰囲気の時にしたいという思いが強くなり、先送りにしてしまった。少なからず残念でもあり、複雑な気分となった。
  そこで、精神安定剤代わり?に書棚から引っ張り出したのが、著者にはなんとも申し訳ないが、以前に読んだ加藤千洋氏の書籍である。過去に訪れたことのある場所の写真が多く、懐かしくやすらぎを感じる。もともと題名に惹かれて読んだのが最初だった。これまで、加藤氏の著書のテーマとなっている北京へは10回近く旅したことはあったが、ほとんどが調査旅行などの仕事がらみで、日程も制約されていた。
  北京在住の友人T君の話によると、上海に劣らず、北京も急速に変貌しているらしい。北京生まれで今も王府井に住むT君も、留学生として日本にしばらくいる間に、生まれ故郷がすっかり変貌してしまったのに驚いたようだ。あまりの変容ぶりに、帰国後一時は日本へ帰ろうかと思ったそうだから、その激変ぶりが想像できる。高度成長期やバブル期の東京の変貌ぶりもすさまじかったが、近年の上海、北京もそれに劣らない。都市計画などの実行の速度、土地収用の迅速さなど、未だ強権力が働く中国ならではのことである。南京の大学で教鞭をとる友人F氏の話では、土地バブルがすさまじく、臨界点に近いのではないかという。

失われる伝統世界
  ほぼ3年ほど前に北京を訪れた時は、北京出身M君の勧めで、王府井に近い胡同の四合院を小さなホテルに改造した「好園賓館」という所に滞在した。近代的なホテルのように設備が整っているわけではないが、宿泊に必要な設備は十分整っており、快適な滞在が楽しめた。ここは、かつて華国鋒党主席が失脚後しばらく住んでいた所でもあったとのこと。私が滞在した時も、「ル・モンド」の北京支局長などが一角に住んでおり、外国人にとっても居心地のよい所であった。

  その当時から、市内もまた大きく変わっていた。市内いたるところで都市再開発が急ピッチで進行していた。加藤氏の著書の中心テーマである北京市民の生活の中心となっていた胡同、そしてその中核である伝統的な四合院といわれる低層の建物がいつの間にか目立ってなくなっていた。四合院は中庭を一棟三室、東西南北計四棟の建物が四方から取り囲む低層住宅で、伝統的な北京の住宅として長らく市民に愛されてきた。あたかもスペインのパティオのように、小さな門を入るとそこは別世界、数本の樹木が植わっており、鳥かごがつり下げられ、椅子が置かれて、団らんの場ともなっている。厚い塗壁と棟によって外界から遮断された四合院は、小さな別天地を形成している。
  しかし、市場経済化の波はこうした伝統的な地域を容赦なく取り壊し、ホテルやマンションなどの近代的な建物に建て替えていた。北京に生まれ育ったM君には耐え難い動きのようだった。こうした歴史的建造物を古いからとか、非能率的だからといって破壊する動きについては、北京市民の中にも反対するグループは存在するが、現在の市民の大多数は北京以外の地から移り住んだ「新市民」が大半であり、北京の歴史や伝統には愛着がないとのこと。伝統擁護派の影響力は目に見えて低下しているようだった。戦後の日本も同じであったから、北京のことを批判する資格はないが、日本人の私の目でみても残念な気がした。「好園賓館」のあたりも再開発の対象らしいので、どうなったことやら*。

進む近代化
  反面で、建物や街路の近代化は目覚ましく進んだ。たまたま、前回はクリスマスを北京で過ごしたが、西欧化の影響を受けた若い人々を中心に、市内の有名レストランは予約で満員、北堂、南堂などの天主堂(教会)も入りきれないほどの混雑であった。市街は天安門広場、王府井、北京駅など、美しくイルミネーションで飾られて、都市の夜景という点からすると圧倒的な迫力であった。とりわけ、新しく開設された道路の幅の広さ、直線的に果てしなく続く街路の立派さは印象に残る。王府井などの目抜き通りも段差がない広い舗道が完成し、そこだけを見ると、商品も豊富で日本とまったく変わらない状況である。加藤氏の著書にも登場する東安市場などの大店舗も出現しており、市場経済化の迫力には圧倒された。中国の経済専門家に云わせると、今の中国はほとんどすべてが供給過剰であり、価格が低下し、デフレ気味でもあるとのこと。確かに、競争を反映して物価は安く、一般労働力も過剰である。

教育への強い関心
  こうした供給過剰経済の下で、唯一需要過多なのは教育である。大学を始めとして教育への需要は高まる一方のようだ。とはいっても、大学数も急増して、かつてのエリートの座はもはや保証されないといわれている。
  滞在した「好園賓館」に近接する「史家胡堂小學」は北京市きっての名門小學校とのことだが、四合院が両側に立ち並び、車のすれ違いすら困難を覚えるような狭い道に朝夕、一杯に並んだ高級車の列に驚かされた。これは、児童の出迎えをする「お受験ママ」の車とのこと。高級官僚を始め、富裕層の子女が多いとのこと。
  中国の変化がいかなる行方をたどるか、おそらく指導者たちにもはっきり見えてはいない。中国社会の格差拡大は、実態を聞くかぎりわれわれの想像を絶するものがある。将来への期待と不満が同時に渦巻いているような社会となっている。それだけに、今回の反日デモのような突発的出来事には、両国の指導者は冷静に対応してもらいたいと思う。今日はたまたま「五・四運動」の記念日だが、政治が反日を作り出すことだけはあってはならない(2005年5月4日)。

*5月11日、NHK・BSの「地球の片隅」で、取り壊されてゆく四合院の実態を報じていた。王府井のあたりは再開発の中心であり、ほとんどがなくなってしまったようだ。
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ラ・トゥールを追いかけて(19)

2005年05月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
Georges de La Tour, Saint Joseph Carpenter, Christ with St.Joseph in the Carptenter’s Shop, Musée du Louvre, Paris.   

 一本の蝋燭が映し出す光と闇の空間を、あたかも切り取ったような情景が眼前に展開している。そこに描かれているのは、木工の仕事をしている老人と幼い子供の二人。しかし、次の瞬間、見る人たちはそれが大工のヨセフであり、幼いイエスであることに気づく。   

 イエスの養父としてのヨセフは、額に汗して働く一人の年老いた大工として、リアリズムに徹して描かれている。蝋燭をかかげてその仕事ぶりを見る幼いイエスは、ハロー(光輪)も付されていない。澄み切った瞳に純粋な心を抱いた幼い子供として描かれている。純粋さを絵に描いたら、こうなるといってよいだろうか。そして、静謐さの中に、暖かさとともに不思議な厳しさも満ちている空間である。

来るべき時への予感  
 ヨセフが十字型の錐で作業をしているものを、よく見ればどうも十字架のための梁材である。自分の仕事の結果が、いかなることにつながっているか、先を知りうることもなくひたすら仕事をしているヨセフと、近い将来に苛酷な運命が待ち受けることを知るよしもない、幼い子供の純粋さをそのまま具象化したようなイエスが対面している。   

 ヨセフが大工であることを語るものは、簡単な工具と木材、削りくず以外にはなにもない。作業場であることを思わせるような背景は、何も描かれていない。一本の蝋燭が映しだしたもの以外は、すべて闇の中である。人物がリアリスティックに徹した描写であるにもかかわらず、この場がいかなる空間であるかを推察させるようなものはいっさいない。   

 自らの想像を超えた次元で、イエスの養父となる運命を担ったヨセフにとってみれば、マリアとイエスへのつながりは、理解を超えたものであり、衝撃でもあった。しかし、その神秘を彼は最後に受け入れる。

不思議なリアリズム  
 ラ・トゥールの天才性は、ヨセフという年老いた大工の世俗的特徴を徹底して描いたことに現れている。もしかすると実際にラ・トゥールの周囲にモデルがいたかもしれないと思うような、黙々と目前の作業をしている一人の実直そうな年老いた男である。これまでの歳月が刻み込んだ額の皺、強靱そうな肢体がそれを語っている。

 他方、幼いイエスの髪の毛などには、この画家の技法がいかんなく発揮されているが、この幼き子イエスは世俗的かけらも感じられない、不思議なほどの清麗と純粋さで描かれている。蝋燭の光が映し出す子供の顔、手指の美しさは比類がない。   

 不思議なことに、二人の視線はなにをみているのか、交差していない。ヨセフはなにか考えごとをしているように、その目はイエスには向いていない。ヨセフの仕事を無心に見ているイエスの視線もなにをとらえているのか、実に不思議なまなざしである。なにか分からないが、お互いに、これから起こるべき出来事を予感している一瞬が描かれている。背景には深い闇が広がっている。

静かな衝撃  
 この作品は1640年代頃に制作されたと推定されている(Pariset and Sterling)。この頃には聖ヨセフへの崇拝はかなり一般化していたようだ。伝承によると、ヨセフはイエスが30歳になる前に亡くなったと言われている。マリアとイエスに付き添われ、平安な臨終を迎えたヨセフは、臨終の苦しみを和らげてくれる保護者として崇められていた。   

 この絵を見てラ・トゥールに関心を抱くようになった人は多いと思われる。私もかつてオランジュリー展でラ・トゥールの一連の作品を見た時、たちまち魅了された。   

 洋画家の青木敏郎氏が今回のラ・トゥール展にちなんだ雑誌『美術の窓』(「夜の光が生んだ驚きの写実力」2005年3月号)への寄稿で、20歳の頃、「フランスを中心とする17世紀ヨーロッパ名画展」で、この作品に出会った時の衝撃を次のように記されている。「日本の巨匠たちの作品ですら、ラ・トゥールの作品と比較して大人と子供以上の差があることを一瞬にして悟ってしまった」。   

 この一枚の絵画が芸術の世界にとどまらず、多くの領域に影響を及ぼしたこともさまざまに察知される。書棚の片隅にある哲学者ジョージ・スタイナー Georges Steinerの名著Real Presence,1989の表紙には、まさにこのラ・トゥールの作品が使われている。   

  この作品は、1938年頃にイングランドで発見された。1948年、持ち主であったパーシイ・ムーア・ターナー Percy Moore Turnerから、ラ・トゥールの研究者でもあり、ルーヴルの学芸員などもつとめたポール・ジャモ Paul Jamot を偲んで、ルーヴルへ寄贈された*。ラ・トゥールのサインはないが、直ちに画家の第一級の真作と認定された(2005年5月2日記)。


* 今回の国立西洋美術館「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展出品の作品は、このルーヴル美術館所蔵作品の模作であり、ブザンソン市立美術館・考古学博物館蔵。真作はおそらく海外出品は期待できないでしょうから、ルーヴルへ行かれた折、ぜひご覧ください。(幸い、その後2009年5-6月の「ルーブル特別展」に出展された。)
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