時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

シャルダン『羽根を持つ少女』:心を癒す今日の一枚

2012年10月22日 | 絵のある部屋

 

 

Jean-Simeon Chardin
Une petite fille jouant au volant, dit aussi
La fillette au voltant
(Girl with Shuttlecock)
Canvas, 81 x 65cm
1737,
Paris, collection paticuliere (Private collection)



 降って湧いたような国境をめぐる執拗な争い、絶えることのない悲惨な内戦など、世界に平穏な日々は訪れてくれない。国内外に不安の種は絶えない。多くの人が、この国、そして世界の行方に一抹の不安を抱いて日々を過ごしている。

 そうした折に眺めて、しばらく心が癒され、至福の時を過ごせる絵がある。こうした作品や音楽をいくつか知っていると、つらいことや、いやなことがあっても、乗り越えられるかもしれない。真作のほとんどは美術館や個人蔵ですが、一度でも真作を見ていると、コピーやイメージでもかなり満足できますよ。

 今日のおすすめの一枚は、18世紀のフランス画家ジャン-シメオン-シャルダンの『(バドミントンの)羽根を持つ少女』だ。前回記したように、たまたま、東京でこの画家の企画展が行われている。シャルダンの知名度は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールよりも高いかもしれないが、それでもこの画家のことを知る日本人は大変少ない。日本における西洋美術の紹介あるいは受容の仕方にきわめて大きなバイアスがあったと私は思っている。

 それはさておき、このブログの柱(?)の一本であるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品の多くが、しばしば主題との対話、深い思索を見る人に迫るのとは別の意味で、シャルダンの作品は、ただ眺めていて落ち着いてくる。果物などを描いた静物画を見ても、実際の桃や林檎よりも目に優しく思える。(筆者のやや苦手なのは、フランス人の好きな食用にする死んだうさぎが描かれている静物画が多いことだけだ)。

 シャルダンは人物を描いたかなり多数の風俗画を残しているが、これもきわめて興味があり、とりわけ働く人々の日常をさりげなく描いた作品については、なにかの折に一枚ごとに見直し、掘り下げてみたいと思ってきた。

 シャルダンの作品にいつから関心を抱くようになったのか、正確には思い出せない。ラ・トゥールのような強い衝撃を伴って接することはなかった。いつの間にか、抵抗なく私の生活の中に入ってきて、ひっそりとそこに座っていたという感じであった。それでも強いて思い出せば、ひとつのきっかけは、1999年のパリでのこの画家の没後200年の大回顧展(1999-2000年にわたり、ワシントン、ロンドン、デュッセルドルフなどでも開催)であったのではないかと思う。少なくとも、まとまってシャルダンの作品を見ることができた。まだ忙しく世界を動き回っていた時代だった。あまり一枚の絵に浸っている時もなかった。

 この『羽根を持つ少女』は、ひと目見てほのぼのとした思いが画面から伝わってくる作品だ。しかし、よく見るとなんとなく実在の人間の子供ではないような不思議な顔だちでもある。人形を模写したような可愛らしさがある。ラ・トゥールの『聖ヨセフの夢』に描かれた天使とどこか通じるような実在の人間ではない感じすらある。あるいはトロニーなのかもしれない。

 シャルダンはこの作品を1737年のパリのサロンに、これも今は大変有名な『カードの城』(ワシントン、国立美術館蔵)を含む8点の作品を
出品したが、ほとんど関心を惹かなかったといわれる。ちなみに、この作品にはふたつのヴァージョンがあり、今回の東京展に出展されているのは、パリの個人蔵とフィレンツェのウフィツィ美術館が所蔵する作品である。研究者の間では話題になってきたようだが、個人蔵のヴァージョンの方が、できが良いといわれてきた。私の印象でも、個人蔵の方が仕上がりがよいと思う。ウフィツィ所蔵の方は色合いも淡く、比べてみると迫力がいまひとつだ。それでも、共に愛すべき一枚であることに変わりはない。

 シャルダンが画壇のアカデミーの固定した風潮に密かな不満を抱いていたらしいことは、前回のブログにも一端を記したが、いくつかのことから、ある程度うかがい知れる。この画家の研究でも、第一人者であるピエール・ローザンベールが指摘するように、シャルダンの絵画は寓意がない。図像学に縛られず、面倒なアトリビュートはいっさい
場では認めていながらも、自らは低位に位置づけられる静物画、風俗画を淡々と制作していた。位階の理論は時の経過とともに、崩れ去る。シャルダンがその行方を自覚していたとは思えない。しかし、この画家は静かに自ら描きたい対象を描いていた。シャルダンのどの作品を見ても、壁にさえぎられることなく、その世界を共有できるのは、このためなのだろう。

そこには画家が描きたい対象だけが描かれている。静物画、風俗画、肖像画、歴史画と主題に位階をつけた、あの権威主義的な位階の理論の存在をシャルダンは自らの作品をもって、破壊したのだ。



Chardin, Exhibition Catalogue, cover
Royal Academy of Arts
The Metropolitan Museum of Arts
1999-2000

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17世紀のヨーロッパを見る目

2012年10月14日 | グローバル化の断面

 

 

Le singe antiquaire ('The Monkey Antiqarian')
oil on canvas, in a painted oval, unframed
32½ x 25¾ in. (82.5 x 65.4 cm.)
Paris, Musee du Louvre

クリックして拡大

 

 東京で『シャルダン展』(三菱1号館美術館)が開催されている。出展されている作品は、シャルダンの全作品数と比較すると、決して多いとはいえないが、この画家特有の落ち着いた穏やかな色彩の静物画や世俗画を好む人には、見逃せない展覧会だ。静物画にしても、セザンヌともスルバランとも異なる、見る目に優しい、穏やかな色彩だ。見ていて心が休まる。かなりのシャルダン・フリークでもある筆者にとって、記したいことはきりがないのだが、今回は世の中にあまり知られていない作品との関連に触れたい。シャルダンの作品の中では、注目されてこなかった一枚の作品である(上掲)。

 シャルダンJean Siméon Chardin (Paris 1699-1779) の『猿の骨董品屋』なる作品を見てみたい
。シャルダンには『猿の画家』なる作品もある。いずれも立派なガウンなどを着こんだ猿が、もっともらしく骨董品のメダルを拡大鏡で調べていたり、絵画の制作をしている光景が描かれている。美しい静物画や世俗画を好んで描いた画家が、なぜ突然、それから逸脱したようなこうしたテーマを描いたのか、気になっていた。

 残念ながら、今回の東京展の展示品にも選択されていない。シャルダンの主要な制作ジャンルからは外れていて、あまり紹介されることがない。手元にあった2000年にパリ、デュッセルドルフ、ニューヨーク、ロンドンで開催された
「シャルダン展」のカタログを開いてみたが、作品の記述はあるが、図版は含まれていなかった。うろおぼえだが、1997年の東京都美術館での『ルーブル展』では見たような気がする。しかし、その頃はとにかく忙しく走り回っていた時でもあり、詮索してみる時間もなかった。

 少し、話を進めると、シャルダンの生きた18世紀から、1世紀ほど前、「危機の時代」ともいわれた17世紀ヨーロッパが、グローバリゼーションの黎明期であったことは、これまでも断片的ながらも、何度か記したことがある。単なる日常の生活の一齣を描いただけに見えるフェルメールの作品も、別の目で眺めてみると、それまで見えなかった世界が見えてくる。

希有な天文・博物学者ペイレスク
 17世紀、電話もインターネットも未だなかった時代であったから、主たる情報の伝達は、手紙、人の移動による交流、書籍、絵画などの文物による情報の移送などが主たる手段であった。たとえば、カラヴァッジョの画風がいかなる経路と手段によって,ヨーロッパに伝播したかという問題は、それ自体きわめて興味深いテーマであり、すでにかなりの研究成果が蓄積されている。17世紀まで、長い間世界の文化の中心として光り輝いていたローマから新興の都市パリへ、さまざまな文化的情報や美術品が移転する過程(ヨーロッパの文化センターの移転)についても、最近研究者の関心が高まっていることについては、このブログでも一端を記したことがある。

 

Nicolas-Claude Fabri de Peiresc


 今回取り上げるのは、ペイレスクあるいはペイレシウス Nicolas-Claude Fabri de Peiresc (December 1580-24 June 1637)と呼ばれる希代の人物である。プロヴァンスの富裕な家に生まれ、エクサン・プロヴァンス、アヴィニオンなどで教育を受け、17世紀ヨーロッパきっての天文学者、考古学者、骨董品収集研究者、学識者として知られていた。博物学者といえるかもしれない。とりわけ、その骨董品収集の熱意と規模は想像を絶するものがあり、骨董品への趣味を博物学の次元にまで引き上げた偉大な功績を残した。

 特に,通信手段が未発達な時代に、自らの知的活動の手段として実に1万通を越える手紙を、ヨーロッパのほぼ全域そしてビザンチンにわたる各地の知識人と送受信していた。これらの手紙はそのほとんどが幸いにも記録として継承され、研究対象になっている。ペイレスの交信相手にはグロティウス、デュピュイ、リシユリュー、ガリレオ、ルーベンスなど、当時の政治家、学者、画家など多数の知識人が含まれている。タイプライターすらなかった時代、すべて手書きでの仕事であった。ひたすら感嘆するしかない。

 
 ペイレスクは当時は珍しかった天体望遠鏡観測をしており、1610年にはオリオン大星雲を発見している。月食も観測し、あのクロード・メランと月面の地図を制作していたが、作業半ばで世を去っている。この人物の60年に満たない生涯における活動を、今の時点で回顧、展望してみると、その視野の広さ、博識、そして時代の文化的主導者への刺激などに驚かざるをえない。短い人間の一生に、これほど広範囲なことができるのかと思わされる。



Peter N. Miller, Peiresc’s Europe, Learning and Virtue in the Seventeenth Century


ラ・トゥールとのかかわり
 
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについて、ある程度ご存じの方は、パン屋の息子であったジョルジュの秘められた才能を見出し、さまざまな支援の手を差しのべて、17世紀フランス絵画の巨匠といわれる今日の評価につなげた人物のひとり、ロレーヌの代官アルフォンス・ド・ランベルヴィレールの名をご存知かもしれない。代官は友人のニコラ・ド・ペイレスクと美術品などの交換もしていた。ある時、ペイレスクはジャック・カロの作品を入手した。それをみて代官は「ペイレスクは生まれつきの鑑識眼があるな」と誉めたという。そして、ラ・トゥールの作品も買ったらどうかと勧めた」ともいわれている(Thuillier, 1992)。

 
 シャルダン研究の第一人者ピエール・ローザンベールは、ここに取り上げた猿のモティーフは、いずれも伝統的な制作モデルに適合さえしていれば、高く評価されていたパリの美術界のエスタブリシュメントに対する批判であるという。当時のパリの画家たちが束縛されていた、古い慣行や風潮が風刺の対象になっているようだ。自由な芸術活動に制約となるアカデミーの実態を暗に批判しているのかもしれない。旧態の踏襲は、しばしば創造よりも重視されていた。骨董品屋についても、絵画の収集家や専門家たちへの風刺なのだろう。ロザンベールは、シャルダンは、モチーフを1世紀前、17世紀のフレミッシュの画家たちの作品から借りていると記している。すでにシャルダンの生きた18世紀には、17世紀のアイディアを借りることは、流行になっていたらしい(Rosenberg, 224)。

 絵画や骨董品の収集、古代趣味などが風刺の対象になっているようだ。古代の文物などを絶対視し、それに取り囲まれていることが目的となり、新しい時代を見通す創造的で真に哲学的なあり方を忘れている風潮だ。

 しかし、すべての収集家にこの風刺は当てはまらない。ペイレスクは単なる骨董収集家の次元を越えた17世紀では稀有な博物学者ともいえる存在であった。ヨーロッパ全域にわたる広範な知的視野と活動は、驚嘆に値する。後世には公的な博物館などが行った収集活動を個人の力でなしとげたといえる。シャルダンとペイレスクが直接関わるわけではない。この時代の文化・芸術活動の精神的次元にもう少し入り込んでみたい気がしているのだが。




Pierre Rosenberg, Chardin:1699-1779, Paris: Editions de la Reunions des musees nationaux, 1979, 224.

Peter N. Miller, Peiresc’s Europe, Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Haven and London: Yale University Press, 2000.

Chardin, exhibition catalogue organized by Royal Academy of Arts, and the Metropolitan Museum of Arts, 2000

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画架の裏側:画家の娘たち

2012年10月08日 | 絵のある部屋



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『女占い師』
パリ、ルーヴル美術館
サイン右上、右下に拡大部分
クリックすると拡大します



 これまで真作と思って見ていた絵画作品が、実は別人の手になるものであったとわかったら、皆さんはどんな気持ちになるでしょう。たとえば日本人に大変人気のあるフェルメールの『女主人と召使い』 Mistress and Maid (New York, Frick, Collection), 『若い女性の肖像』 Portrait of a Young Woman, (
New York Metropolitan Museum of Art, など長らく画家ヨハンネス・フェルメールの作品とされてきたものが、実はフェルメールの娘、マリアの作品ではないかとの研究*1があります。筆者もその可能性ありと思っていました。この点に限らず、近年新たな発見や仮説が提示されていて、さまざまに興味を呼び起こされ、脳細胞が活性化する気がします。蛇足ながら、日本で多数刊行されている「フェルメール本」?は、大方はブーム便乗目当てのため、通俗的で退屈です。

画家の名声と作品
 フェルメールに限ったことではありませんが、これまで真作といわれていた作品が、別の画家の作品と判明した時、あなたならどう思いますか。

 誰の作品であろうと、画家の名前など気にかけない。画家の名前よりは作品の内容・水準次第。失望して印象が薄くなる。がっかりして、以後まったく関心を失うなど・・・・・・・。反応は人さまざまでしょう。絵画市場での作品の市価は恐らく低落するかもしれませんが。

 実はこうした問題は、多数の画家の作品にありうる話です。今日はこのブログの主題のひとつ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関わる同様なお話をひとつ。

ラ・トゥール研究の成果
 
ラ・トゥール研究の専門家のひとり、Anne Reinbold によると、2005年東京で開催された『ラ・トゥール展』のカタログに掲載されている30点近い作品は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに制作者が帰属(attribution)するものと考えてよいと記されています。言い換えると、当該画家が制作過程のすべてに関わっており、他人の手が入っていないという意味で、真作の評価が定まった作品といえましょう。

 しかし、Reinboldによると、さらに100点近く、関連して検討すべき対象があるとのことです。それらの中には、レプリカ(真作の完全に近い複製)、コピー(模写・模作)、破損したキャンバスの一部分、画家の死後、多くのアーカイブ、あるいはさまざまな文書で論及されている作品(現在は所在が不明)などが、該当します。たとえば、レプリカといっても、当該画家本人がなんらかの目的で制作した作品、弟子などが大半を制作し、一部だけ本人が手を入れた作品、画家の工房の制作になるもので、当該画家はほとんど制作に関わっていない作品、当該画家あるいはその工房以外の人物が、多くは後年になって制作したものなど、さまざまな可能性が考えられます。

意外に難しい署名の鑑定
 この問題に関連して、大変興味深い研究課題は、当該画家あるいは誰かが作品キャンバスに記した署名に関するものです。キャンバス上に残された署名といえば、これはその署名をした画家の手になる作品(真作?)と思いがちです。しかし、署名といっても、古文書に残る手書きの筆跡もあれば、上掲の作品の署名のように、カリグラフィーのような文字もあります。

 後年になって、ラ・トゥールの名前と判定できる署名が残る作品あるいは手書き文書に残る署名には、いくつかの特徴があることが分かってきました。ちなみに、Reinboldを始めとする海外のラ・トゥール研究者は、17世紀の埃だらけの古文書記録に残る読みにくい署名の綴りを判読したり、キャンバスの片隅に隠れ、画面の老朽化や度々の修復などで隠れて判読しにくくなった署名を見つけ出し、他の署名と比較するなど、地道な試みを続け、その努力ぶりには感服します。その努力は着実に成果を生んでいるように思われます。

娘は画家になった? 
 ラ・トゥールの署名問題については、とてもブログには書き切れないほどの研究蓄積があり、書き切れません。そこで、ここでは、ラ・トゥールの家族に画業の後継者がいたかもしれないという新たな発見について、書いて見ます。

 美術史家の地道な考証努力の中で、ナンシーの公証人のコレクション・リストに、1851年時点で「夕暮れの海の風景」として記録されている、クロード・ドゥ・メニル・ラ・トゥール Claude du Mesnil-la-Tourという画家に帰属する作品があることが判明しました(Thuillier, 1997, Reinbold 2012)。実は、この名前あるいは De Menil-La Tour という名前は、ラ・トゥール研究の各所で記録に登場します。しかし、その正体は分からず、Georges de La Tourの誤記だという美術史家もいます。

エティエンヌ以外の家族が画業を?
 
ラ・トゥールについて多少なりと関心をお持ちの方は、画家であるジョルジュが1652年に59歳で死去した後は、息子のエティエンヌが後を継承し、その後しばらく画業を続けたが、自ら父親のような画家としての才能がないと思ったか、貴族、そして最終的にはロレーヌ公から領主に任じられて、画家の道を放棄したということをご存じでしょう。

 実はジョルジュも画家としての徒弟修業を、どこの親方の下で行ったかが明らかでないように、エティエンヌも修業の過程が分かりません。父親ジョルジュから教えられたという可能性は高いのですが、天才画家の親の水準を超えることは至難ですね。今日に残るエティエンヌが書いた文書の筆跡、内容などから、しっかりとした教養を備えていたと推定されていますが、真相は謎のままです。父親の下ではなくて、どこかの親方に徒弟入りをした可能性もありますが、これも記録がありません。

忘れられていた娘たち
 他方、ラ・トゥール夫妻にはエティエンヌ(次男)のほかにこれまで研究者もあまり関心を寄せなかったクロードとカトリーヌという娘がいました。ラ・トゥール夫妻には生涯10人の子供がいたと推定されていますが、1648年時点(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール55歳当時)で、生存していたのは、エティエンヌ、クロード、クリスティアーヌの3人だけでした。

 ジョルジュが死去した1649年当時にはクロードは30歳くらい、カトリーヌはそれより少し若かったと推定されています。貴族志向で、父親のような画才には恵まれず、画家にはなりたくなかったエティエンヌの陰で、娘クロード(あるいはカトリーヌも)が工房で頑固な?父親を支え、仕事を手伝いながら、画家の基礎を習得し、自らも作品を制作していたという可能性はかなり高いと思われます。レンブラント、フェルメール、ラ・トゥールなど、17世紀巨匠の工房で、画家を支えていたたち娘たちの存在を考え直すと、新しい次元が見えてきそうです。

 クロードの作品であると確認された作品はまだ発見されていません。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品として、風景画、肖像画、静物画などは、確認されていません。他方、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに帰属される作品は、今日でも時々発見されています。次に出てくるものはなにでしょうか。


 
*1  Benjamin Binstock, Vermeer's Family Secrets; Genius Discovery, and the Unknown Apprentice, New York and London; Routledge, 2009

*2 Anne Reinbold, "Firme e attribuzione: la questione della bottega"
GEORGES DE LA TOUR A MILANO, L'Adorazione dei pastori San Giuseppe falegname, Milano: SKIRA, 2012

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