16世紀末のロレーヌに限ったことではないが、ヨーロッパで魔女に関わる問題は、大きな都市よりは小さな町や村で多く発生したようだ。都市の住民は、それだけ啓蒙されていたのだろう。魔女狩りの実態は、かなり多岐にわたり、内容も複雑だった。魔術を使ったとされた者の中には民間療法、今でいうヒーリングのような医療行為、自然崇拝、呪術や占いなどに関わる者もかなり多かったようだ。これらのどれが魔女狩りの対象となったかは、環境・風土によるところも多い。しばしば、迷信的行動は、悪魔に帰属するとされた。なかでも女性が魔女とされ、迫害などの対象となりやすかった。また、後に例を挙げるが、コミュニティの中での確執、反目などが高じて、魔女狩りという次元へ移行した事例もあった。
忍び込む時代の不安
民間療法には多かれ少なかれありうることだが、当時の民衆の目からみると、得体の知れない薬草などを煮詰めたり、立ち居振る舞いもいぶかしく、怪しげに見えたのだろう。さらに、宗教・宗派間の争いが関わる場合には、しばしば相手側を魔術を使っていると非難したようだ。
そして、16世紀からの戦争、疫病などの蔓延、農作物の不作などを背景に、終末論も人々の間に広がっていた。どこからかいつとはなしに、伝わってくる戦争、略奪、悪疫、天候異変などの噂話は、人々の心にさまざまな不安の種となって忍び込んでいた。
魔女裁判の当事者たちにも色々な問題があった。概して、ローカルな裁判官たちは社会の中層部を出自としていたが、裁判官として必ずしも公正かつバランスのとれた判断ができる者ばかりではなかったようだ。世間のうわさ話などに、しばしば同じ次元でふりまわされていた。そして、農民など民衆はほとんど批判することもなく、彼らの下す判断に素早く迎合、協力したようだ。
拷問は決まった手続き
ロレーヌでは魔女裁判に政治的介入もあった。シャルルIII世の時代には、ナンシーの上級判事に公国のすべての魔女判決をレビューする権利が与えられた。ロレーヌ公国では、魔術使いの容疑で逮捕され、お定まりの尋問・状況聴取、さらに有力な証人との対面取り調べなどを受けた容疑者については、調書がナンシーへ送られた。魔女審問の過程では、拷問が一般的な手続きとして組み込まれていた。魔術使いとされた容疑者は、概して自ら嫌疑の事実を認めようとはせず、自己主張が強く、頑迷、時にはかなりエクセントリックで、通常の尋問では容疑の確定が困難だったことも影響していたようだ。
取り調べの過程で自白がないかぎり、検事などによって、容疑者は拷問にかけられるよう命令される。ほとんどの場合、ローカルな裁判官たちはそれを支持した。ある場合には拷問器具を前にして、尋問が行われた。きわめて稀なことだが、証拠不十分などで釈放されることもなかったわけではない。
今に残る審問文書などから推定されていることだが、17世紀初めの頃の魔女裁判では、最終判決を下すに証拠が薄弱と思われる場合、容疑者が拷問で脅かされることは通例であったようだ。数は少ないが、容疑者の側に自白をする意図がうかがわれる場合には、拷問は実施されなかった。しかし、これは不満足な解決であり、あいまいな部分を残すことが多いとして、まもなく中止された。
大変おぞましい話だが、拷問の手段は大体決まっており、「親指を締め上げる」thumbscrews,「手かせ・足かせ」 strappado, 「足に重圧をかける責具 borodequins(leg-press)などの器具が使われた。 これまでやられると、被疑者は大体覚悟して、裁判官の望む内容の供述をしてしまったようだ。
こうした過程を経ることで、被疑者はあらかたローカル・レヴェルで屈服し、自白していたので、ナンシーへの調書送達は、形式を踏むだけだった。しかし、ほとんどの判例で、最終の審問・判決は、いちおう統一された審理手続きを踏むナンシーの法廷 Change de Nancy にゆだねられた。刑罰としては、火刑の他、さらし台、鞭打ち、殴打なども行われた。
しかし、なかには拷問にかけられても自白をしない気丈な被疑者もいたらしい。魔女の嫌疑をかけられたある女性は、宙づりにされながら、「神の前では誰も裁くことはできない」、あるいは「これほどの苦痛を与える罪を犯すことは許されない」と大声で叫んだ。 魔女裁判の容疑者すべてが不合理な嫌疑を認めたわけではない。興味深い例も伝えられている。
名誉回復の試みも
1622年、クレフシーのジョルジュ・デュランGeorges Durand of Clefcyは、ロレーヌ公に対して、それまでの慣行とはきわめて異なった訴えを行った。彼は魔術を使ったとの疑いで告発されていた。しかし、彼はこれは二人の男が自分を陥れるためにねつ造したえん罪だと反論したのだ。
そして自分を陥れた二人に50フランの罰金を訴訟費用に上乗せて払うように求めた。おそらくデュランにとってもっとも満足度が高かったのは、サン・ディ Saint-Dieの法廷で、デュランと彼が選んだ6人の前で、名誉回復を図る儀式を要求したことだった。この儀式で、デュランは自らを陥れた二人の男は丸坊主にされ、床にひざまずいて、共謀し、悪意をもって彼らが謀ごとを行い、被告とされたデュランに対しての虚偽の証言をするように多くの人たちを唆したことを告白、謝罪するよう求めた。
残念なことに、その結果がいかなることになったかを語り伝える文書記録が残っていない。そして、デュランにとっては、これが結末ではなかったようだ。別の記録によると、彼はまもなく獄中で死を迎えており、自分は魔術を使ったことを告白したことになっている(Briggs 71)。
この記録は、魔女狩りが時には地域共同体の構成メンバーの間の確執、対決の闘争道具に使われたことを思わせる。事実、ある記録が残っている。たとえば、1620年にある男を魔術師として告発した者のひとりが、その後罰金を科せられた事例が伝えられている。この場合、告発者が「(容疑者に対し)彼はGigou ギグーのように躍る」と言いふらしたことが罪となった。ギグーはこの地方でかつて魔術師として処刑された者の名前であった。
しかし、こうした事例がこの地方での合理性や正義の芽生えとみることは早急に過ぎるようだ。この時代、ロレーヌの社会はまだ多くの混迷や不合理で覆われていた。コミュニティでの家族や氏育ち(出自)は隠然たる重みを持っており、魔女狩りの犠牲者の多くは支援者のいない、地域の縁辺的存在に追いやられていた者が多かったからだ。ロレーヌに真の光が射すまでには、まだかなりの年月が必要だった。~続く~