時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌ魔女物語(11)

2009年06月30日 | ロレーヌ魔女物語

 16世紀末のロレーヌに限ったことではないが、ヨーロッパで魔女に関わる問題は、大きな都市よりは小さな町や村で多く発生したようだ。都市の住民は、それだけ啓蒙されていたのだろう。魔女狩りの実態は、かなり多岐にわたり、内容も複雑だった。魔術を使ったとされた者の中には民間療法、今でいうヒーリングのような医療行為、自然崇拝、呪術や占いなどに関わる者もかなり多かったようだ。これらのどれが魔女狩りの対象となったかは、環境・風土によるところも多い。しばしば、迷信的行動は、悪魔に帰属するとされた。なかでも女性が魔女とされ、迫害などの対象となりやすかった。また、後に例を挙げるが、コミュニティの中での確執、反目などが高じて、魔女狩りという次元へ移行した事例もあった。  

忍び込む時代の不安
 民間療法には多かれ少なかれありうることだが、当時の民衆の目からみると、得体の知れない薬草などを煮詰めたり、立ち居振る舞いもいぶかしく、怪しげに見えたのだろう。さらに、宗教・宗派間の争いが関わる場合には、しばしば相手側を魔術を使っていると非難したようだ。

 そして、16世紀からの戦争、疫病などの蔓延、農作物の不作などを背景に、終末論も人々の間に広がっていた。どこからかいつとはなしに、伝わってくる戦争、略奪、悪疫、天候異変などの噂話は、人々の心にさまざまな不安の種となって忍び込んでいた。

 魔女裁判の当事者たちにも色々な問題があった。概して、ローカルな裁判官たちは社会の中層部を出自としていたが、裁判官として必ずしも公正かつバランスのとれた判断ができる者ばかりではなかったようだ。世間のうわさ話などに、しばしば同じ次元でふりまわされていた。そして、農民など民衆はほとんど批判することもなく、彼らの下す判断に素早く迎合、協力したようだ。

拷問は決まった手続き
 ロレーヌでは魔女裁判に政治的介入もあった。シャルルIII世の時代には、ナンシーの上級判事に公国のすべての魔女判決をレビューする権利が与えられた。ロレーヌ公国では、魔術使いの容疑で逮捕され、お定まりの尋問・状況聴取、さらに有力な証人との対面取り調べなどを受けた容疑者については、調書がナンシーへ送られた。魔女審問の過程では、拷問が一般的な手続きとして組み込まれていた。魔術使いとされた容疑者は、概して自ら嫌疑の事実を認めようとはせず、自己主張が強く、頑迷、時にはかなりエクセントリックで、通常の尋問では容疑の確定が困難だったことも影響していたようだ。


 取り調べの過程で自白がないかぎり、検事などによって、容疑者は拷問にかけられるよう命令される。ほとんどの場合、ローカルな裁判官たちはそれを支持した。ある場合には拷問器具を前にして、尋問が行われた。きわめて稀なことだが、証拠不十分などで釈放されることもなかったわけではない。 

 今に残る審問文書などから推定されていることだが、17世紀初めの頃の魔女裁判では、最終判決を下すに証拠が薄弱と思われる場合、容疑者が拷問で脅かされることは通例であったようだ。数は少ないが、容疑者の側に自白をする意図がうかがわれる場合には、拷問は実施されなかった。しかし、これは不満足な解決であり、あいまいな部分を残すことが多いとして、まもなく中止された。

 大変おぞましい話だが、拷問の手段は大体決まっており、「親指を締め上げる」thumbscrews,「手かせ・足かせ」 strappado, 「足に重圧をかける責具 borodequins(leg-press)などの器具が使われた。 これまでやられると、被疑者は大体覚悟して、裁判官の望む内容の供述をしてしまったようだ。

 こうした過程を経ることで、被疑者はあらかたローカル・レヴェルで屈服し、自白していたので、ナンシーへの調書送達は、形式を踏むだけだった。しかし、ほとんどの判例で、最終の審問・判決は、いちおう統一された審理手続きを踏むナンシーの法廷 Change de Nancy にゆだねられた。刑罰としては、火刑の他、さらし台、鞭打ち、殴打なども行われた。

   しかし、なかには拷問にかけられても自白をしない気丈な被疑者もいたらしい。魔女の嫌疑をかけられたある女性は、宙づりにされながら、「神の前では誰も裁くことはできない」、あるいは「これほどの苦痛を与える罪を犯すことは許されない」と大声で叫んだ。
魔女裁判の容疑者すべてが不合理な嫌疑を認めたわけではない。興味深い例も伝えられている。

名誉回復の試みも
 1622年、クレフシーのジョルジュ・デュランGeorges Durand of Clefcyは、ロレーヌ公に対して、それまでの慣行とはきわめて異なった訴えを行った。彼は魔術を使ったとの疑いで告発されていた。しかし、彼はこれは二人の男が自分を陥れるためにねつ造したえん罪だと反論したのだ。

 そして自分を陥れた二人に50フランの罰金を訴訟費用に上乗せて払うように求めた。おそらくデュランにとってもっとも満足度が高かったのは、サン・ディ Saint-Dieの法廷で、デュランと彼が選んだ6人の前で、
名誉回復を図る儀式を要求したことだった。この儀式で、デュランは自らを陥れた二人の男は丸坊主にされ、床にひざまずいて、共謀し、悪意をもって彼らが謀ごとを行い、被告とされたデュランに対しての虚偽の証言をするように多くの人たちを唆したことを告白、謝罪するよう求めた。

 残念なことに、その結果がいかなることになったかを語り伝える文書記録が残っていない。そして、デュランにとっては、これが結末ではなかったようだ。別の記録によると、彼はまもなく獄中で死を迎えており、自分は魔術を使ったことを告白したことになっている(Briggs 71)。

 この記録は、魔女狩りが時には地域共同体の構成メンバーの間の確執、対決の闘争道具に使われたことを思わせる。事実、ある記録が残っている。たとえば、1620年にある男を魔術師として告発した者のひとりが、その後罰金を科せられた事例が伝えられている。この場合、告発者が「(容疑者に対し)彼はGigou ギグーのように躍る」と言いふらしたことが罪となった。ギグーはこの地方でかつて魔術師として処刑された者の名前であった。

 しかし、こうした事例がこの地方での合理性や正義の芽生えとみることは早急に過ぎるようだ。この時代、ロレーヌの社会はまだ多くの混迷や不合理で覆われていた。コミュニティでの家族や氏育ち(出自)は隠然たる重みを持っており、魔女狩りの犠牲者の多くは支援者のいない、地域の縁辺的存在に追いやられていた者が多かったからだ。ロレーヌに真の光が射すまでには、まだかなりの年月が必要だった。~続く~

 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼ダーレンドルフ

2009年06月29日 | 午後のティールーム

  マイケル・ジャクソンの突然の訃報に対する世界的な悲しみ、追悼の思いと比較すると、はるかに小さな波であることはいうまでもない。なにしろ、日本でもその名を知る人すら多くないのだから。ラルフ・ダーレンドルフ Ralf Dahrendorf、 6月17日死去、享年80歳。日本ではメディアがあまり伝えていないが、海外ではかなりの追悼の論説がある。(ちなみに、私はマイケル・ジャクソンにはとりわけ悲しみの念を引き起こされない。ビートルズにはかなり惹かれるのだが。世代の隔たりが大きな原因であることはいうまでもない)。 

 ダーレンドルフについては一時期、集中して著作を読んだ時があった。戦前、戦後を通して、ドイツ、イギリス、アメリカなどで思想家、教育者、政治家として活躍した、この人物の生き方を具体的に知るようになったのは、彼が1974年LSE ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの学長に就任したころからだった。イギリスの名門大学が学長に初めてドイツ人を選んだという事実にも感銘した。親しい友人がいたLSEを訪れ、彼の周囲にいた人々からの話も聞いた。2度ほど講演を聴いたこともあった。BBCのレクチャー・シリーズもかなり聴いていた。

 大戦前後の激動の時代に、自由を定義し、守ろうとしたその人生には、強い共感を覚える。とりわけ、自己を確立し、体制に取り込まれない生き方だ。晩年にイギリス国籍を取得し、ドイツから一定の距離を置いたその心情にもなんとなく共有できる思いがしてい
た。

 学生時代、反ヒトラー学生組織へ加入、16歳の誕生日を獄中で迎えた。独房のマットレスに使われていた紙切れに覚えているラテン語をすべて書き記していたそうだ。晩年、世俗のことに執着しなくなったらしい。なにが、こうした人物を育てたのか。しばらく名前を聞くことがなかったが、改めてその人生に感じるものがあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地中海波高し:イタリアの苦悩

2009年06月27日 | 移民の情景

 イタリアの移民・難民問題については、何度か記している。かつては、移民の輸出国であったイタリアだが、1980年代から受け入れ国へと転換した。一時期はアルバニアなどからの不法移民に手こずったが、近年はアフリカからの不法移民に苦しんでいる。スペインと並びアフリカからの移民の最短距離の目的地となっている。すでに90年代からイタリア一国だけの力では、押し寄せる移民・難民に対応できないと音を上げ、EU、OECDなどの場で統一された政策の実施を要望してきているが、あまり実効が見られない。最大の課題は政治・経済の不安定もあって、アフリカへの投資が停滞し、雇用機会の創出ができていないことにある。根源的対応がないかぎり、労働力の流出は止まらない。

 毀誉褒貶に翻弄されている現ベルルスコーニ政権は、国境を密かに越境してくる「隠れた移民」clandestine immigrants の阻止を掲げて、政権与党の座についた。しかし、「隠れた」という表現はいまや適当ではなくなっている。現実は次のように歴然としているからだ。

 近年の大きな問題はアフリカ、とりわけリビアから命を懸けて海を渡ってくる人たちだ。彼らはイタリアの地に到着すると、難民としての庇護申請をする。しかし、いかなる庇護も与えられないおよそ3分の2は、本国送還されることになっている。しかし、彼らのほとんどはイタリア到着時から意図して、国籍などを証明する書類を一切所持していない。そのため入国管理当局は彼らがどこからきたか皆目分からない。一時的な収容施設も満杯になり、結果として彼らは許可なくイタリアに滞在する不法移民の中に入ってしまう。かなりの者は、イタリアを経由してフランス、ドイツなどEUの中心での仕事の機会を求めて移動する。

 彼らは正式の滞在、労働許可を得られないために、犯罪を犯す者も多い。この問題も現政権が減少を公約した点だ。今月、イタリアの国境パトロールはリビアの沿岸警備隊と協同して、リビア沿岸をパトロールした。ヨーロッパへのもっとも危険なルートを閉ざすためのキャンーペンの一環だ。これは考えられる現実的対応として認められていた方策だった。

 しかし、今回は国連を含む国際機関などが割ってはいった。事の経緯は次のような状況であった。1週間前、イタリア海軍が越境潜入者と思われる者で満載の船舶3隻を拿捕した。しかし、彼らをイタリアにつれてゆかずにリビアへ送り戻したのだ。この措置は、イタリア政府としては、リビアのカダフィ政権との1年近くにわたる裏面での外交成果だった。しかし、ローマの喜びは長くは続かなかった。

 イタリア政府は、彼らに難民として庇護申請を求める機会を与えなかったとして避難された。国連UNHCRの高等弁務官は、国連事務総長に支持されていた。さらにConucil of EuropeやNGO、そして驚いたことに、ベルルスコーニの有力な支持者である国民同盟Nationa Allianceの創立者で、現内閣の連立相手でもあるフィニからも問題視された。 

 他方、今回500人以上を強制送還したことについて、中道左派をはじめとするグループからは政府支持を表明する動きが生まれた。イタリアの領海外で移民を送還することは法的に認められているとの政府の見解を支持する動きだ。中道左派政府は1990年代には、アルバニアの港湾を一時封鎖した前例もあると主張した。

 しかし、問題はさらにこじれ、NPOの人権監視機関 Human Rights Watchの代表は、「イタリアは国際難民法を書き換えようとしている」と批判、「1951年のジュネーヴ協定は、どこならば移民を送還できるか、あるいはできないか記していない」。「彼らの生命や自由が脅かされる地域へ送り戻さない」という協定にイタリアも署名しているはずだと攻撃した。さらには、アフリカへ送り戻された者が期限のない拘束や迫害にあっている例を知っていると述べた。

 他国には公海上で難民が送還されない権利を得ているかについて類似した問題を経験してきた国もある。特にアメリカは1990年代から、しばしばキューバ、ハイチなどからの越境者をカリブ諸国に送還してきた。

  公海上で拿捕された越境者のボートなどへの対応は、国際海事法、国際難民法、国際人権法、国際刑法などの交錯する領域であり、法律や条約の次元と現実の間にさらに詰められるべき問題が残っている。通常、庇護申請、難民認定などの手続きは、越境者が目的の国に上陸した上で開始されるが、公海上での問題については、1951年のジュネーヴ条約の他、1948年の人権擁護の一般宣言などを含む一連の規範が存在する。同時にさまざまな束縛的でないが広範な領域をカヴァーする慣習法などもかかわっている。主要なものは自国を離れる権利、他の国の領域に接近する権利、庇護は政治的行動とされないこと、難民が強制的に自国へ送還されないこと(non refoulment)、十分な経済・社会的権利が難民にも適用されること、さらに難民について永続的な権利を受け入れ国は供与することなどがある。他方、難民の側にも庇護を保証する国の法律に従うなどの義務がある。こうした問題に主として当たるのはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)だが、近年は難民以外の関連する問題にも関与するようになっている。 

 ベルルスコーニ首相は、反移民という印象を与えまいと苦慮しているようだ。今週、下院は入国・滞在に必要な書類を保持しない外国人に厳しい罰金を課し、居住許可には高い費用を求める法案を通過させた。しかし、野党の政治家や聖職者たちの一部は、人種的な純粋さをイタリアが求めるのはもはや手遅れだとしている。たとえば、カトリックのカリタス派はイタリアの人口のおよそ7%は移民だと主張している。

 ベルルスコーニのこのたびの決定は、先日のヨーロッパ議会の選挙前になされた。危惧されることは、人種差別主義者が自分たちは首相からの支持を得ていると思うことだ。1970年代以降、ヨーロッパの移民受け入れの過程は、受け入れと制限の波動を繰り返してきた。今回の世界大不況で受け入れ国は一斉に制限的方向へ舵を切っているかに見えるが、これがそのままずっと閉鎖的国境の体制につながるわけではない。少子高齢化の進行で、人手不足は避けがたく、不況脱却とともに新たな受け入れへの動きが戻ることは必至である。それまでに、いかなるヴィジョンを再構築するか。もはやこれまでのような行きつ戻りつのストップ・アンド・ゴー政策は許されない。先進国に残された時間は少ない。

 

 


 * 庇護申請者 asylum seekers とは国際的保護を訴え出た者をいう。その多くは庇護を求める国へ到着した段階で申請を行う。しかし、当該国に到着以前に大使館あるいは領事館へ庇護を求めることもできる。申請は国際連合UN convention 1951条の難民の地位規定に基づき判断される。認定されれば難民としてのステイタスを付与され、難民となる。認定されなかった者は通常、再申請を行う。それでも認定されなければ、当該国を退去することになる。しかし、ヨーロッパやアメリカでは別の地位 Exceptional Leave to Remain(ELR) として、難民ではないが自国へ戻れない者という包括的なグループに入れられる。


Reference
Immigrationin Italy "A mess in the Mediterranean" The Economist May 16th 2009 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デトロイトザウルスの破滅

2009年06月24日 | グローバル化の断面
 イギリスで出版されている文庫や雑誌には、表紙が秀逸なものが多い。ペンギン・シリーズについては、過去に出版された作品の表紙だけを集めて一冊の書籍としたものもあるほどだ。これを見ていると、20世紀社会史のおさらいをしているようで楽しい。同様に、これも著名な英誌The Economist誌の表紙もおもしろい。タイトルからは経済誌のような印象を受けがちだが、経済、政治、科学、文化と幅広くカヴァーしている。

 最近の同誌の表紙、「デトロイトザウルス壊れる」‘Detroitosaurus wrecks' は、GMに代表されるかつてのビッグスリーの大破綻をシニカルに描いたものだ。General Motors (なんと壮大な社名だろう!)は、去る6月1日付けでチャプター11の申請を行い、事実上破産した。同社創立後101年目の出来事だ。  

 GMは2008年にトヨタにその座を取って代わられるまで、世界最大の自動車企業として君臨し、年間9百万台の乗用車、トラックを34カ国で生産してきた。463の子会社、23万4500人の従業員を雇用し、そのうち9万1000人はアメリカ国内での雇用だった。さらに、GMは49万3千人の同社退職者に医療給付と年金給付を支払ってきた。そして、アメリカだけで5008億ドルの部品やサーヴィスを購入してきた。  

 GMは幾度となく危機を克服してきた。不況時には従業員のレイオフも頻繁に実施された。しかし、ひとたび景気が回復すれば、彼らは次々と再雇用された。長い先任権を確保した基幹従業員になれば、早期に退職して人生を楽しむことができたし、親、子供、孫と3代にわたり勤務する従業員もいた。GM独特の企業風土が形成されていた。ひとたび就職できれば「鉄鍋飯」といわれ、退職しても住宅から医療まで企業が丸抱えで面倒をみてくれた改革・開放前の中国国営企業を思い起こさせる。それを可能にしたのは、ビッグスリーの名が示す強力な市場独占力とビッグレーバーとして知られたUAWの交渉力だった。    

 破滅は地滑り的に進行した。GMは今回の再建過程で、難航していたUAWとの交渉で、重荷となっていた健康給付の負担を組合が運営する基金へ移転し、新規に雇用する労働者の賃金・給付コストをトヨタやホンダのようなライヴァルの海外工場と同等水準まで引き下げることを意図している。同じデトロイト・スリーのフォード、クライスラーは、一足先に再建過程に入っている。  

 GMを構築したのはアルフレッド・スローンだ。ヘンリー・フォードほどの起業家的あるいは技術的才には恵まれなかったが、組織を構築する非凡な才を発揮した。あらゆる収入と目的にかなう車を作ることを目指した。  

 彼の企業組織は、北米のような市場の独占を企図するには格好なものであったが、ひとたび環境が変化すると救いがたいほど非弾力的であることを露呈した。1970年代にビッグスリーが直面した危機は、良質で小型な日本車の登場ばかりが原因ではなかった。GMが、そうした変化に対応できなかったことが問題だ。 デトロイトが政府の保護を求めてワシントンでロビイングに没頭することを少なくし、日本車などに対抗できるより良い車の開発、生産に当てたならば、事態はこれほどまでにはならなかっただろう。

 80年代に訪れたデトロイトのビッグスリーの某社企画担当者から、なぜ日本車が売れるのかと聞かれたことがあった。市場のニーズに的確に対応しているからではないかと答え、日本市場で販売を伸ばすには、ハンドルくらいは右側にしなければと口を滑らせたら、アメリカ企業はそんなことはできないとにべもない答で唖然としたこともあった。
 
 さらにGMは退職者に完全な年金と医療給付を保証したのだ。これは政府にも一端の責任がある。もし、アメリカが高価で不適切な医療給付のあり方に適切に対処していたならば、組合要求のコストは今回のような破滅的な負担にはならなかったろう。2007年の組合交渉でデトロイトの車は外国車と比較して、1台ごとにおよそ1400ドルの年金と医療給付のコストを積み上げられた。  

 IMFの予想では2050年に世界はおよそ30億台の車を所有することになると予測されている。今日の7億台と比較すると4倍以上の驚異的な水準になる。これからの5ー6年に中国は年間生産台数でアメリカを上回る。中国は世界が現在保有すると同じくらいの車を所有することになる。そして中国は40年後には、現在世界に存在する車とほとんど同じ台数を持つまでになる。    

 需要がこれだけあれば、自動車産業は宝の山を前にしたようなものではないかと思われるかもしれない。しかし、現在、世界には年間9千万台の生産能力があるが、需要は好況時でも6千万台に留まっている。    GMは今回の政府との取引で14工場、29000人の労働者と2400のディーラーを失う。進化をしなかったGMはまさに恐竜のようだ。滅亡に値するといえよう。トヨタやホンダは恐竜ではない。しかし、油断はできない。自動車産業はその産業史上最大の環境変動が起きている。  

 それは自動車産業創生以来、フォーディズムの名で知られた大量生産様式の大転換でもある。電気自動車、水素自動車など代替エネルギーへの転換も急速に進みそうだ。すでに三菱自動車、日産、VMWなどが電気自動車の生産・販売を公表している。ガソリン・エンジンを基礎とする自動車文明は長く続いたが、クリーンエネルギーが求められる時代を迎え、参入障壁が急速に低くなり、世界的な寡占体制も大きく崩れる。業務用小型車、スポーツタイプの車など、特定分野に絞り込んだ企業など、こまわりのきく小さな企業が参入してくる余地も多い。電池産業などで優位を確立した企業が参入してくるかもしれない。  

 動植物がそうであるように、時代の変化に生き残るためには、産業・企業も進化が必要だ。進化は変化と同義ではない。世代を超える未来を見据え、大胆に自己変革できる企業のみが生き残る。



Reference
‘A Giant falls’ 'The Economist June 6th 2009
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生は頭の中に

2009年06月20日 | 雑記帳の欄外

 


 この「変なブログ」もいつの間にか熱心に読んでくださる方が増え、それ自体はひたすら感謝するばかりなのだが、多少当惑することもないわけではない。端的にいえば、読んでくださる方の興味の対象と、書いている本人の関心
は、多分かなりずれているということだ。

 これは、記事別のアクセス数の分布から推測がつく。書いている本人の最大関心事とは異なるトピックスにアクセスが多い。ふと記憶の底からよみがえった過去の断片を、単に心覚えのために記したにすぎないような場合、なぜ、このトピックスにご関心を持たれるのかと思うことがままある。また、想像もしなかったはるか遠方の地やメディアの方々からアクセスや照会があって、驚くことも稀ではない。なにごとも地球規模で考えねばならない時代だ。しかし、取り上げたトピックスの多くは、およそ現代離れした時代への後戻り、それも小さな世界のわずかな切れ端にすぎないのだから。やはり「変なブログ」であることは確かなようだ。

 こんなことを考えている間に、ごひいきのマーク・トゥエインの次の言葉が浮かんできた:

「ひとりの人間の動きや言葉なんて、その人の人生のなんと些少な部分にすぎないことか。人の真の人生は頭脳の中にあって、その人だけにしかわからないのだ」


What a wee little part of a person's life are his acts and his words!
His real life is led in his head, and is known to none but himself.

ーMark Twain ー

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロレーヌ魔女物語(10)

2009年06月17日 | ロレーヌ魔女物語
ロレーヌの旅から 

 16-17世紀のロレーヌの魔女狩り、裁判に関心を呼び起こされ、多少なりと踏み込んでみると、さまざまなことを考えさせられる。人間の理性の有りよう、知識水準、環境条件のいずれにおいても、今の時代とは大きく異なっている。しかし、発現する形態は異なったとしても、魔女狩りは今日の世界でも十分起こりうる、あるいはどこかで起こっていることだ。

 この時代に裁判に携わった裁判官や検事たちは、社会階層の上部に位置するエリート層であった。他方、魔女狩りの犠牲者となった者の多くは、どちらかといえば、社会の縁辺部にいた人たちであった。魔女狩りという出来事は、その対象からして理解するに多くの困難を伴う。その困難さは、当時において最も甚だしいが、時代を隔てて考えてみても、理解しがたい部分が多い。今日に残る魔女審問の文書は、その闇と狂気の世界を垣間見せてくれるのだが、その多くが混迷している。その実態は、魔女狩りが行われた時代の混迷と表裏をなしていた。
 
破綻をかろうじて防いだ仕組み
 魔女狩りを生んだ時代、1570年以降、17世紀前半のロレーヌは、経済的にかなり困窮し、窮乏の淵まで追い詰められていたが、修復不可能というほどではなかった。困窮の程度は農村部で最もひどかったが、さまざまな慈善的行為などが貧しい農民の暴動などの絶望的行動をかろうじて防いでいた。とりわけ、カトリック信仰に根ざした慈善的行為は、ロレーヌの社会に深く根付いていた。長期にわたる困窮状態を存続させていたひとつの要因であった。

 16世紀末までに蓄積されてきた多く問題が山積して、社会のあらゆるシステムが大きなストレスの下にきしんでいた。社会の最下層にある農民層を中心には、さまざまな破綻が発生していたが、憤りの強い感情が爆発することはかろうじて抑止されていた。

 社会経済的状況の悪化と魔女裁判の増加は、時系列的に合致していたが、その関係はさほど複雑なことではなかった。悪天候による農作物の不作、家畜などに広がった悪疫などへの恐れ、怨嗟などは、しばしば個人の域にも及び、魔術、呪術などへ結びつけられた。誰がこうした災厄などを引き起こしているかは特定できないとしても、地域に隠れた敵として幻想する象徴的対象を見出した。時にコミュナルな期待を破壊した者と損傷された者のうらみは、想像を絶して深いものがあったようだ。そしてしばしば、長年の間にイメージの世界につくり出されてきた魔女という得体の知れない存在が、禍の根源と想定された。  
 
 魔女裁判が比較的多かったロレーヌが、ヨーロッパの他の地域とさほど大きく異なっていたわけではなかった。ヨーロッパ近世初期といわれる時代の特徴は、濃淡はあってもヨーロッパに広範にみられた。ロレーヌについて、適度な注意をもって見る必要もあるようだ。17世紀初め1620年代くらいまでロレーヌでは、16世紀と比較してしばらく経済状況の改善がみられたが、それが魔女狩りの急速な減少にはつながらなかった。

ロレーヌ魔女裁判の実際  
 魔女裁判にかけられた多くの被疑者はあまり頑強ではなかったようだが、例外的に執拗に否定する被疑者もいたようだ。ヴォージュの検事総長になったデュメニルのように、魔女審問に関わった主導的な裁判官は、被疑者の主張をなんとか言いくるめる道を考えていたようだ。問題の核心にふれることなく、巧みに別の問題を議論してはぐらかす方向が意図されていた。そして、ボーダンの言辞を引用して言っている:「魔女のようなオカルトの例では、他のよりはっきりして確かな犯罪と比較して、状況を観察する必要はない。なぜならば、この特別な犯罪の立証は非常に難しく、証拠は一般に流布している評判と疑いを立証しさえすればよい。」 (Briggs 59)。

 言い換えると、「例外的犯罪」 crimen exceptumという概念では、集められたうわさのひとかたまりが、拷問、さらには処刑を行う正当化のための証明となった。そうした法律運用のごまかしは、現代の視点からは、きわめて不公正なものに思われる。当初から被疑者のすべてが悪いとする仮定に、通常依存しているからだ。デュメニルが言うような審理の上で技術的な難しさがあるからといって、魔女裁判におけるきわめて高い有罪率を認めることはできない。  

 ロレーヌの法制度は、魔女裁判のような明らかにある想像が生み出した犯罪行為について、論理を詰めて審理し、時に截然と死罪を宣告するほど完成していていたわけでは到底ない。言い換えると、誤審についての疑念を払拭しうるほど整然としたものではなかった。

大勢に迎合的裁判
 ロレーヌの裁判官や関係者は魔女狩りを積極的に支持したわけではないが、総じて見ると大衆の動きに対応していた。以前にも記したニコラ・レミは判事で悪魔学者であり、最終的には公国の検事総長となったが、概してこのモデルに従っていた。もし、ロレーヌが他の地域よりも多数の魔女審問と処刑を実施していたとすれば、地方的な特徴を反映したものであった。審問はローカルな地域で、一種の安全弁のようなものだった。というのも犠牲となった者は、この地方で魔術を使って人をたぶらかしていたなど、ある長い期間にわたり、相当な評判を持っていた者だからだ。

 ロレーヌの裁判をザールランドやラインランドあるいはトリアーなど、近隣地域の迫害の実態と比較して、一概に否定的にみなすことは正当ではない。ヨーロッパの他の地域でもそうであったように、実際に観察できることは、裁判制度を単に自分たちの利益のために操った懐疑的な者たちの仕業というよりは、彼らの個人的な利益のために行われたとしても、むしろ神のようなあるいは人間的な正義を実行していると思い込んでいる、混乱した人たちの存在が魔女審問という状況を生み出していたことだ。

フランス的制度の浸透 
 魔女裁判が行われたころ、ロレーヌ公国は神聖ローマ帝国の版図の一部だった。1542年ニュールンベルグの協定によって、公国に奇妙な半ば切り離された独立したようなステイタスを付与していた。このことは、表向きは神聖ローマ帝国、そしてドイツ的に見せていた。しかし、ロレーヌの人々は多くがフランス語を話し、文化、宗教、そして政治的にもフランスの方を向いていた。法制度がフランスとドイツの混合であったことは驚くべきことではない。しかし、実際にはフランス式が日常の裁判制度を支配していた。裁判所における諸手続は、まったくフランス風であった。手続き、裁判官など関係者の構成、尋問の方式、証言者と被告の対決、その他について、すべてフランスの方式が採用されていた。16世紀にフランスから必要に応じて取り入れられてきたものだった。その結果、ロレーヌの裁判制度には、一貫性に欠けるところがあり、裁判の実態にも影響を与えていた(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドイツの移民制限は利己的か

2009年06月16日 | 移民政策を追って

  「ドイツは利己的」'Those Selfish Germans' と題した移民受け入れに関する小さな記事に出会った。これを材料に少し考えてみた。

 2004年にEUは、ポーランド、ハンガリーなど10カ国を
新加盟国として受け入れることを決めた。今年5月1日は、その5周年記念日だった。新加盟国10カ国は、当初はいくつかの制限が付いていたが、5年経過した今年はフルメンバーになれると期待をしていた。

 ところが、先頃、ドイツ政府は2004年加盟の東欧8カ国からの労働者受け入れを制限する政策を継続すると発表した。ただし、同じ時に加盟したサイプラスとマルタについては小国であるため例外とするという措置である。こうした制限措置は、2009年に撤廃されるはずだった。しかし、ドイツは「労働市場に重大な混乱」あるいは「その脅威」がある場合にかぎり、2年間延長継続できるという条項を発動したのだ。ドイツと同様に、制限措置を継続するのはオーストリアだけである。

 しかし、ポーランドやスロヴァキアからの労働者の移動が、ドイツに重大な混乱を引き起こすという認識についてはEU諸国間で異論が提示されている。世界
大不況にもかかわらず、ドイツは熟練分野の一部に人手不足が生まれている。他方、不熟練分野でも農業、建設など人手が足りない分野があるが、外国人労働者にとってもそれほど魅力的なものではない。ドイツの労働市場規制は、かなり政治的判断によるものと考えられる。

 6月のヨーロッパ議会の選挙結果を見ると、ひところの拡大EUへの熱意は消えてしまった。政治家も国民も自国の利害が第一なのだ。ヨーロッパにとどまらず、世界的にナショナリズムが盛り返している。EU諸国民のヨーロッパ議会への関心はきわめて冷めている。自国の選挙には強い関心を抱いているが、ヨーロッパ議会はなんの影響力も持たないサロンのように考えられているようだ。自分たちは知らない議員たちが高給をとって高い年金、支出を享受し、ブラッセルからストラスブルグまで無駄な会議出席を繰り返しているというイメージだ。


 他方、ドイツは他の加盟国にまして、EU拡大に尽力してきた国である。そのためにEU拡大を目指す人たちから見ると、銀行救済のための共通ヨーロッパ基金に反対し、EUが共同して経済刺激策を準備することに同意しない言動などに見られるアンジェラ・メルケル首相の対応が後ろ向きに見えるようだ。

 これまで、フランスの保護主義を抑える役割を果たしてきただけに、「ドイツよお前もか」という受け取り方がされるのだろう。ドイツ政府はウクライナの不安定化などを、こうした制限措置継続の理由のひとつとして挙げているようだ。とりたてて、ヨーロッパに背を向けようとしているのではないと思われる。世界的にグローバリズムへの警戒感が高まり、国民国家の障壁強化へ流れが変わっているのだ。国民国家の壁はそう簡単には崩れない。

 確かに、英誌が指摘するように、出入国管理を通しての労働市場の制限強化は、それほど論理的でも現実的でもない「恐れ」におびえての対応ではある。しかし、ヨーロッパ議会と各国国民との距離感がもっと短縮されないかぎり、国民はより信頼できる自国政府に傾斜し、EUへの政策重心移動をめぐる域内諸国間のせめぎ合いは果てることなく続くだろう。それまでは、ブラッセルもストラスブルグも近くて遠い場所なのだ。

 

Reference 
* ”Those Selfish Germans” The Economist May 2nd 2009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧歌は聞こえない:イギリス農業労働

2009年06月13日 | 移民の情景

John Constable.
The Wheatfield, 1816
oil on canvas, 53.7 x 77.2 cm
Private owned



  イギリスの田園と聞くと、コンスタブルやゲインズバラなどの作品から思い浮かべるような、緑溢れて牧歌が聞かれ、田園詩が流れるような光景が目に浮かぶ。しかし、そこに働く人たちの実態は、イメージとは大きく異なる。イギリス、ウスターシャーの農村イヴシャム Eveshamの状況についての小さな記事が目にとまった。かつて、イギリス滞在中に見聞したことを含めて、少し記してみよう。

劣悪な住環境
 ここにはポーランド、アフリカ、中国など多数の国から来た外国人労働者が働いている。イヴシャム郡では2003年以降、英語が母国語でない労働者が56%増えた。その多くはキャラヴァンやトレーラーハウスなど、粗悪な飯場のような所で暮らし、農業労働に従事している。貨物用コンテナーに住んでいる労働者も多い。水道、トイレなどの設備もない。

 彼らは、アスパラガス、豆、キャベツにいたる、ありとあらゆる野菜の栽培、採取に従事している。こうした農業労働者の状態を調査したイギリスのシンクタンク Institute for Public Policy Research(IPPR)の報告書は、ヨーロッパの他国のように労働者のためにホステルのような設備を建設することを勧めている。現在でも、農場など仕事の場所に近い所に、安いホテルなどを準備している雇い主もいないわけではない。しかし、1室に数人を入れるなど、居住の状況は劣悪だ。

 外国人労働者、とりわけ就労許可を持っていない外国人労働者は、出稼ぎ先の国で自分のしたい仕事がどこにあるか、なかなか分からない。外国で仕事をするには多くの困難がつきまとう。そのため、しばしばギャングマスターと呼ばれるブローカー(労働者確保・請負人)に頼って、働き場所を探すことになる。こうした業者は労働者をどこかへ派遣するというよりは、自ら集めた労働者を特定分野で働かせ、直接労働者に賃金を支払う形をとることが多い。

 農業ばかりでなく、林業、漁業、食肉加工などの分野の労働はおおかた低賃金であり、労働条件も劣悪なことが多い。労働者のかなりの部分は、これら業者の手引きで集められ、各地を放浪するようにして働いている。いわば、労働供給業者によって手配される労働者だ。上記の調査では、こうした分野で働く労働者のおよそ23%は、雇い主や派遣業者によって、仕事ばかりか宿舎などの生活面でもさまざまに束縛されている。

モーカムの惨事
 労働分野では、しばしば大きな労災などの発生によって、事態を改善する立法などの動きが生まれる。2005年の2月、イギリス北西部モーカムで女性を含む21人の中国人が、海流に呑み込まれ溺死した。彼らの多くは不法就労者であり、はるばる福建省から苦難の旅をしたあげく、イギリスでギャングに雇われて働いていた。仕事は、波の荒い海岸でザルガイ(トリ貝の類)を採取することだった。潮の流れも強く、危険な作業だった。彼らは、ザルガイ採取の登録料として一人当たり150ポンド、住居代20-30ポンドをギャングマスターに支払っていた。採取した貝一袋当たり9ポンド、週約300-400ポンドが彼らの手にしたものだった(現在1ポンド=約155円)。

 彼ら労働者の生活条件も厳しく、海岸近くの劣悪な簡易ホテルに1室10人近くが押し込められ、毎日、危険な海岸で働いていた。その結果がこうした惨事につながった。日本ではあまり注目を集めなかったが、事件は当時、中国、英国間で大きな問題となり、温家宝首相が渡英するまでになった。

規制の強化 
 この事件の後、こうした劣悪な労働分野の環境を多少なりと改善する動きが生まれた。問題の業種を対象にした特別の許可制を導入する法律、Gangmasters Licensing Act 2002が制定された。注目すべきは、許可を受けていない事業者との間で労働者派遣の契約をする者、即ち(派遣先に対して)無許可の事業者と契約をした派遣先に罰則を適用する形で、規制が強化されることになった。

 さらに、監視機関として、Gangmasters Licensing Authority (GLA)という政府機関も設置された。GLAは、農林業、食品加工、貝類採取、食品加工、包装などの分野で働く労働者を搾取から防ぐことを目的としている。労働者供給業者は、GLAに彼らの労働者を適切に保護する旨の同意書を提出し、認可を得なければならなくなった。

  もっとも、こうした規制に頼る形式主義が、事態をかえって悪化させた側面もあった。たとえば、最低賃金で働いている労働者からは、部屋代として週当たり31ポンド(47ドル)以上を徴収してはいけないことになっている。しかし、このことが住居環境を劣悪なものに引き下げることにつながってもいる。こうした問題は残るが、GLAのような監視機関が設立されたことは、総じて評価されている。

自立と共生への道
 他方、こうした間に東欧からの移民労働者が増加するにつれて、農場側もギャングマスターのような供給業者への依存することが低下してきた。外国人労働者は、仕事や生活上の利便性もあって、同国人が同じ地域に集まって住む傾向が強い。最近の問題は、同じ国からの労働者がイヴシャムのポーランド人のように、特定の地域へ「集住」する現象が強まっていることだ。結果として、以前ほど仲介業者などに頼らず、自助、自立の道が模索されるようになった。

 こうした「集住」地域では、仕事より住宅をめぐる競争が激しくなっていることが新たな問題になっている。さまざまな理由から、彼らに適した住宅供給がきわめて不足しているのだ。

 賃金がどうであれ、イヴシャムの冷凍食品包装工場で早朝6時からの交代制勤務に応募する地元イギリス人は、きわめて少なくなってしまった。イギリス人と外国人労働者が仕事を取り合う競争は影を潜め、代わって競争の場は、地域での住宅をめぐる競争へと移っている。イヴシャムのような地域では、外国人労働者が求める住宅が払底する状況になっている。外国人向けの住宅が供給されないのだ。なかでも最初に家を買う人のための住宅がなく、ソーシャル・ケア用の住宅にまで外国人労働者が入居するまでになった。

 集住が進む傍ら、最近の不況深刻化に伴って、移民労働者への需要が減少し、仕事を失った労働者が帰国する動きがみられる。しかし、母国との賃金格差、子供の教育などの理由から帰国しない労働者も多い。世界大不況にもかかわらず、イギリスでは農業、林業、介護などの分野で労働力不足が厳しい。景気が上昇へ転じれば、不足は一段と深刻化するだろうと見られている

 集住によって、移民労働者の政治参加意欲も高まり、状況改善への自主的な動きが強まることは、共生社会を目指す政策の視点からは望ましいことだろう。移住者が地域の中で孤立した存在ではなく、地域共同体のメンバーとして自立し、政治にも参加してゆくことは共生社会のイメージだ。しかし、実際には地域住民との間に新たな軋轢も増加し、共生社会の実現は容易ではない。住宅問題、さらに政治参加の代表システムへの批判など新たな難題が次々に生まれている。移民労働者の問題は、労働市場の範囲を越えて、住宅、地域、政治の次元へと拡大している。共生社会が乗り越えねばならない課題だ。イギリスに限ったことではない。牧歌の聞こえる時代は遠く過ぎ去った。



* 日本でも「農業ブーム」といわれる農業再生・活性化の萌芽が一部に見られるが、人気があるのは大規模経営が可能な地域である。中山間農地といわれる山村などの小規模農地は荒廃の一途をたどっている。そこで働く農業従事者の数は約400万人にのぼる。国内労働者だけでどれだけ維持・再生が可能か、きわめて疑問だ。


Reference
'No rural idyll' The Economist May 16th 2009


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デカルトの肖像

2009年06月09日 | 絵のある部屋

『ルネ・デカルトの肖像』(フランス・ハルスの原作に基づく)
Portrait de René Descartes(d'après Frans Hals)
vers 1650
Huile sur toile
78x69cm
inv.1317


  国立西洋美術館の『ルーヴル展』も閉幕(6月14日まで)が近づいた。全部で71点の展示作品の中で2点だけ、制作の時代は推定されても画家の特定ができないものが、出展されている。そのひとつは、17世紀フランスで最も著名な思想家のひとりルネ・デカルト(1596-1629)の肖像画である。「近代哲学の父」ともいわれるデカルトは、多くの画家が描きたがった「時代の人」であった。

 デカルトは、母国であるフランスを離れ、ヨーロッパを遍歴し、自由な活動ができる地を求めていた。1629年オランダに亡命し、最終的にアムステルダムに落ち着いたようだ
。最後は旅先のスエーデンで亡くなったが、寛容な空気が充ちたオランダの空気が肌に合ったのだろう。

 今回の『ルーヴル美術展-17世紀ヨーロッパ絵画』は、構成が3つの大きなテーマ、「「黄金の世紀」とその陰の領域」、「旅行と「科学革命」」、「「聖人の世紀」、古代の継承者?」から成り、デカルトの肖像画は「旅行と「科学革命」」の部門に展示されている。
 
 この肖像画(上掲)は、フランツ・ハルス(1581/85頃ー1666)の作品を基に描かれたものと推定されている。ハルスは17世紀オランダの最大のポートレート画家であった。ほとんどポートレートだけを多数描いた。ハルスはハールレムで生涯のほとんどを過ごしたようだが、その画風は枠にとらわれず、自由闊達であった。 

 このデカルトの肖像画の基は、コペンハーゲンの国立美術館が所蔵する小さな作品(下掲)とみられている。もし、これがデカルトを描いた数々の模作の原型であるとみなしうるならば、現存はしないが、より大きなサイズの肖像画が描かれていたと推測しても不思議ではない。画家名は不明だが、これがこの作品が今回も選定された理由のようだ。

 出品されたこの肖像画も原作を基に制作され、希代な思想家の面影を伝える原作に劣らない素晴らしい作品だ。

 ハルスが描いたデカルトは、才気に溢れた容貌である。そのはっきりと見開かれた両眼は、深い思索の持ち主であることを示している。デカルトは書斎に籠もって思索を重ねる哲学者ではなかったようだ。ヨーロッパ諸国を遍歴し、多くの論争を引き起こし、その過程で名声を築き上げていった。ある女性をめぐって、決闘に及んだこともあるらしい。剣士のような武断の人としての一面すら感じられる。一枚の肖像画を通して、人類の歴史に新たな光をもたらした人物の実像に思いをめぐらすことは、『農民の家族』(ル・ナン)とは違った意味で、興味が尽きない。


Frans Hals
René Descartes c. 1649
Oil on panel,
19 x 14 cm
Statens Museum for Kunst, Copenhagen

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんにちは、ル・ナンさん

2009年06月04日 | 絵のある部屋

 
Antoine Le Nain, ou Louis Le Nain
(Antoine;1588-1648/Louis; 1593-1648)
Famille de paysans dans un interieur
Huile sur toile
113 x 159cm
R.F. 2081
Musée du Louvre

 

 国立西洋美術館で開催中の『ルーヴル展』で、ここまで来てくれたからには、もう一度良く見たいという作品もある。ル・ナン兄弟『農民の家族』だ。実際は、一度どころか何度見たか分からない作品のひとつになっている。かねてから、ラ・トゥールに抱いた関心とは少し違った意味で、この三人兄弟の画家に興味を惹かれていた。そのわけは長くなるので、いずれ記すことにしたいが、この画家の作品には、クールベにならって、「こんにちは、ル・ナンさん」と挨拶したい。

 3世代にわたるとみられる農民の家族を描いた上掲の作品(今回来日、展示)は、同じルーヴルにある『農民の食卓』(下掲)、『鍛冶屋』などと並んで、画家の代表作品とみなされている。2007年にオランジェリーで開催された特別展では、「ル・ナンの輝き」La Galaxie Le Nain と題されていた。といっても、3兄弟の誰が描いたのか、共同作品なのかもよく分かっていない。裏面に姓しか記入のない作品署名では、専門家でも判別できないようだ。1630年代には、3人が共同でパリに工房を持っていたようだから、兄弟意識も強く、お互いに絵筆を入れていたのかもしれない。最近ではLe Nain とされて、あえて誰であるかを特定していないことも多い。




 それはともかく、ル・ナンの作品は最初に出会った頃から、大分受け取る印象が変わってきた。ラ・トゥールと同様に、あの「現実の画家たち」Les "Peintres de la Réalité"の一人だ。ルーヴルには1848年から展示されるようになったらしい。

 17世紀の農民の生活情景を描いているという点で、さまざまなことを一枚の作品を通して知ることができる。貧しい農民を画題とすること自体が注目を集めた。パリ・サンジェルマンに工房があったこともあって、とりわけ、サン・シュルピス教会の聖職者の間で、議論を呼んだらしい。とにかく、それまでフランス絵画の伝統の流れには存在しなかった自然主義であり、少なくも当時のファッションではなかった。作品が発表された頃は話題を呼んだのかもしれないが、その後18世紀後半までほとんど忘れられていた。

 ル・ナンの作品を眺めているうちに、いつの頃からか、17世紀の同時期にオランダ画壇で流行していた集団肖像画ジャンルのフランス農民版といってもよい気がするようになった。時代を貫く精神が、作品の根底に流れているのだ。

 土間といってよい粗末な室内に家族が集い、中央にはこの家族の中心らしい男がパンを手に座っている。ワインのジョッキとグラスを持った男の妻と思われる女、笛を吹く子供、長女らしい娘、土間に座り込んだ男の子、後方でなにを見るともなく立っているのは孫たちだろうか。暖炉の前で背を向けて、顔さえ判別できない人物も描かれている。これは、ル・ナンの作品の中では異例だ。制作時に雇い人など、家族でない人がいたのかもしれない。前面には犬と猫も描き込まれている。家族の中のウエイトを暗示しているようだ。

 そして、ルナン兄弟の作品にかなり共通しているが、描かれた人物の立ち居、振る舞いが独特だ。自然主義の流れを示すように、大変リアリスティックに描かれている。しかし、ひとりひとりの表情が、一部の作品を除いて、なんとなく堅い。描かれることを意識して、それぞれがポーズをとっている。これが、画家の求めたものであったのか、モデルが緊張していたのか。写真のない時代、描かれる方は相当緊張していたのだろう。さらに、後年になって農民を描いたにしては衣服などが立派すぎ?、ブルジョアの田園生活の一情景ではないかとの解釈も生まれたようだ。

 ルナン兄弟の作品を通して感じることは、画風はナイーヴで静態的だが、いずれの作品も対象が歪められることなく、しっかりと描かれていて、見る人の胸を打つことだ。なによりも、描かれた人たちの真摯なまなざしが時代を超えて伝わってくる。

 

Antoine Le Nain (c.1599-1648), Louis Le Nain (c.1593-1648), and Mathieu Le Nain (c. 1607-1677),

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする