ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《鏡の前のマグダラのマリア》(下掲)の頭蓋骨に乗せられた手の部分。ラ・トゥールは制作の最後の段階で人物の指の影になった部分をハイライトで強調している。
ラ・トゥールという画家の真骨頂は、宗教画である。今回はその中でも作品のヴァリエーションが多いマグダラのマリアを描いたシリーズを取り上げてみた。1996-97年のアメリカ、ワシントンDC, フォトワースでの企画展を契機に、科学的分析の進んだ作品3点の分析を振り返ってみる。
取り上げる3点は次の通り:
《書物のあるマグダラのマリア》 (La Madeleine au Livre)
78×101cm 、c.1630-1635(又は1645-1650) 油彩・カンヴァス、 個人所蔵
《鏡のマグダラのマリア》(悔悛するマグダラのマリア)
(Madeleine pénitente, dit aussi Madeleine Fabius)
113×93cm、油彩・カンヴァス、 ワシントン・ナショナル・ギャラリー
《揺れる焔のマグダラのマリア》(悔悛するマグダラのマリア) (Madeleine pénitente)118×90cm 、c.140-1644, 油彩・カンヴァス 、ロス・アンジェルス・ カウンティー美術館
取り上げる3点は次の通り:
《書物のあるマグダラのマリア》 (La Madeleine au Livre)
78×101cm 、c.1630-1635(又は1645-1650) 油彩・カンヴァス、 個人所蔵
《鏡のマグダラのマリア》(悔悛するマグダラのマリア)
(Madeleine pénitente, dit aussi Madeleine Fabius)
113×93cm、油彩・カンヴァス、 ワシントン・ナショナル・ギャラリー
《揺れる焔のマグダラのマリア》(悔悛するマグダラのマリア) (Madeleine pénitente)118×90cm 、c.140-1644, 油彩・カンヴァス 、ロス・アンジェルス・ カウンティー美術館
画家の深慮の跡を追う
ラ・トゥールには、この3点以外にも同じ主題での異なったヴァージョンがあるが、いずれにも画家の深い思考の跡が感じられる。
「マグダラのマリア」シリーズは、いずれもこの画家の「夜の作品」のカテゴリーに入る。科学的分析のひとつの結果として判明したことは、画家がこれらの作品を制作するに際して、同一の手法を使わなかったということである。画家は主題の選択のみならず、制作手法においても文字通り見えざる努力を重ねていたことが伝わってくる。
ラ・トゥールには、この3点以外にも同じ主題での異なったヴァージョンがあるが、いずれにも画家の深い思考の跡が感じられる。
「マグダラのマリア」シリーズは、いずれもこの画家の「夜の作品」のカテゴリーに入る。科学的分析のひとつの結果として判明したことは、画家がこれらの作品を制作するに際して、同一の手法を使わなかったということである。画家は主題の選択のみならず、制作手法においても文字通り見えざる努力を重ねていたことが伝わってくる。
夜の次元では光源を何に求めるかが大きな起点となる。松明、蝋燭、油燭(オイルランプ)、自然光、神の光など、画家が求めた光源はさまざまだ。
「マグダラのマリア」シリーズはジャンルは宗教画で、「夜の世界」という意味では共通しているが、それぞれの作品の間には微妙だが明らかに全体的な印象に差異がある。画家は同一の手続きでは描かなかった。ラ・トゥールは断片的な記録から、ともすれば粗暴な性格とされてきた画家であるが、それぞれの作品を表裏にわたって仔細に考察する限り、画家の精神性の深さ、熟慮は並大抵のものではなく、そうした後世のやや安易な評価には疑問が抱かれる。
まず、《鏡の前のマグダラのマリア》(略称:ワシントン版)を見ると、光源は隠されていて見えない。しかし、マグダラのマリアが手を置いている頭蓋骨の上に焔の先端は見える。焔は暖かだが、不透明な光を放っている。光が照らし出すのは画面の上半分くらいで、下半分はほとんど光が届いていない。よく見ると、光が指をかすかに照らしている。
これに対して《揺れる焔のマグダラのマリア》(ロス・アンジェルス版)では机上に置かれた油燭の状態は明瞭で、炎と煙は静かに立ち上り、画面のほぼ3分の2に明るい効果をもたらしている。
さらに《書物のあるマグダラのマリア》は、ロス・アンジェルス版に対して不透明なフィルムのような印象を与える 。画面全体が暗い。作品は個人蔵であるために、他の作品のような科学的分析はできないが、対比して観察すると多くの類似点を見出すことができる。
作品の裏側に入る
この「マグダラのマリア」シリーズを通して、画家は全体的な色調効果を統一して想定したようだ。3点共に、地塗りの段階ではグレーの層で整えられている。「ワシントン」版、「ロス・アンジェルス」版については、(少量のカルシウム系炭酸塩を含む)ケイ酸土質の画材が使われている。色調は黒色と土色の間に近い。私蔵版は科学分析はできないが、目視で観察するかぎりではロス・アンジェルス版に近い印象のようだ。
これらの作品はクールなグレーの地塗りの上に顔料の絵の具が重ねられているが、同じ地塗りという点から出発して制作されているようだ。画家は、ロス・アンジェルス版と私蔵版では、クールなグレーの表面に直接人物などを描いている。
しかし、ワシントン版については画家は強い黄色のオーカーで第2の地塗りを施している。マグダラのマリアの髪の毛が頬のあたりにかかっているような所には、半透明な絵の具をその上に使って暖かな効果を上げている。
画家が最初の構図をいかなる手法で設定し、描いたのかは判明しない。それを推定させる痕跡は何も残っていない。科学分析でも下書きの跡が見出されていない。画家はデッサンもなしに直接にイメージを思い浮かべ絵筆をふるったのだろう。
画家は最初の地塗りをしただけで、その後は素描もすることなく制作の過程で部分ごとに思い浮かべるマグダラのマリアのイメージを絵の具で対応したと推定されている。ひとつのアイディアをさまざまなヴァージョンで描くことに費やした画家だけに、描くべき対象、構図はしっかりと頭脳に刻み込まれていたのだろう。もしかすると、モデルは妻であったネールだったのかもしれない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
調査によると、画材の木組みやカンヴァスの素材、張り方などは、ほどほどに粗雑、荒削りなものだが、それ自体は作品としての結果に関係しない。絵画作品としての最後の効果だけを念頭に準備されていた。それは下地(ground) 作りとしての地塗りから出発していた。地塗りは二つのタイプが準備されていた。「夜の光景」用には土色ないし黒色に近い珪酸土質の顔料が使われている。他方、「昼の光景」用には白またはグレーの下地で主としてチョーク(白亜)が組成分であることが判明している。
ラ・トゥールの作品のひとつの特徴は、この上に顔料、絵の具jを次々と重ね塗りをすることをせず、下地の上に直接絵の具で描いている。そのため画面の表の層が単層で大変薄いことが分かっている。必要な場合は、部分的に透明、半透明な色で上塗りを施している。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『改悛するするマグダラのマリア』シリーズを通して、画面を支配する独特の暗褐色ともいえる絶妙な色調、その秘密を解く鍵のひとつは、画家が深慮の上に創り出した地塗りの色と、その統一された試みにあると考えられる。画面の表層の薄さが、下地の色を透過して全体の色調を定めている。ラ・トゥールの「夜の闇」の色の秘密である。
《鏡の前のマグダラのマリア》の袖の部分、断面の組成(magnification x 110)
a.グレーの地塗り部分、珪酸土(magnesiumalumino silicates, quartz and calcite)、黒色/褐色
b.黄褐色の層 yellow ocher with quartz, calcium-carbonate, and black;
c.ハイライト部分の最初の表層
d.ハイライト強調部分の表層 lead-white with lead-tinyellow, vermillion, black, and a substantial proportion of calcium carbonate.
Reference
科学的分析結果に関する部分は Melanie Gifford et al (1997)
続く