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東日本大震災が勃発した時のこと。この国はいうまでもなく、世界中が大きな衝撃を受けた。一時は日本の存在自体が危ぶまれるほどであった。それでも日本はなんとか最悪の局面を乗り切ったかに見える(原発の廃炉化の行方、予想される次の地震などを考えると、だれも将来には確言はできない。)。
他方、東北の被災地に対する大きな同情と物心両面の支援の動きが世界規模で生まれ広がり、今日に続いている。うまく表現できないが、地球上に生を受けた人間という生き物の持つ計り知れない感性と行動の力をこれほど感じたことはない。
今日にいたる過程にはおよそ書き記せない出来事が多々あった。すべてが明るいことではない。たとえば、隣国中国などのネット上に、「熱烈慶祝日本大地震」などのあからさまな悪意がこめられたコメントも現れたことも報じられた。中国にかなり友人、知人がいる管理人にとっても、大変残念に思ったことだが、さすがにこうした言動・行為は衰退したようだ。両国の政治家の一部などが政治の次元で対立・反目しあっていたとしても、未曾有の大震災という天災への反応としては、発言者や国家の品位にもかかわる言動だ。
実際にはかなり追跡が可能なのだが、インターネットという匿名性が確保されているかにみえるメディア上での出来事である。IT時代における匿名性 anonymity にかかわる問題については、論じたい点はきわめて多いのだが、今は取り上げることをしない。
深い意味を持つ作品
今回は、これらの問題に深く関連はするが、まったく別の心理現象について考えたことを少し記したい。すでにお馴染みのラ・トゥールの作品、とりわけ「昼」の作品ともいわれるカテゴリーに属する『占い師』、『ダイヤ(クラブ)のエースを持つ詐欺師』について探索していた時からの論旨の延長である。
今日残る作品から判断するかぎり、ラ・トゥールという画家は作品のテーマ選定については、あまり冒険をしていない。その時代に流行していたテーマを選択していることが多い。しかし、そのテーマの扱い方や思考の深さで、他の画家の作品とは格段に違うものに仕上げている。制作にとりかかる前に、深く熟慮を重ねたことが伝わってくる画家である。上記の作品は、美術史の分類範疇では「風俗画」といわれる世俗画に含められている。しかし、イタリア、あるいはオランダの同時代の画家たちの描いた風俗画とは、受ける印象がかなり異なる。
ラ・トゥールの数少ない風俗画としてのこれらの作品に接すると、多くの人は、世の中のことに疎く、財産だけは恵まれた貴族の若者が、ジプシーの占い師の一団やカードゲームの仕事師たちに、だまされて金品をせしめられる光景と受け取るのではないか。それを単純な怖い話と思うか、身分の違いだけで華美・贅沢な生活を送っている若者がだまされていることへの快哉とみるか、あるいはこの時代における風俗画に多い、倫理道徳にかかわるひとつの教訓とみるか、作品を見る人の受け取り方はそれぞれ異なるだろう。この点に関して、管理人はこれまでの通説とは少し異なった見方もしてきた。その点について、少し記してみよう。
他人の不幸を喜ぶ行為
これらの作品に描かれている、誰かがなんらかの災厄などを受けたことについての反応について、ドイツ語には Schadenfreude (シャーデンフロイデ;意地の悪い喜び、他人の不幸を喜ぶこと)という特有の表現がある。その意味はかなり深いものがあり、すでにひとつの研究領域を形成するほどの広がりがある(Portman 2000)。
ちなみに知人のフランス人に、フランス語にこれに相当する語があるか聞いてみたところ、しばらく考えた後、ドイツ語ほど限定的な表現ではないが、思いつくのは、le cȏte diabolique かなという答えが返ってきた。diabolique という語からは、「非常に邪悪な、残忍な、悪魔的な」といったイメージが浮かぶ。しかし、Schadenfreude は、フランス語のune machination diabolique (悪辣な陰謀)などから思い出す残酷、陰惨なイメージとはどうも違いそうだ。
そこで、次にフランス語に堪能な友人のドイツ人に確かめてみても、ドイツ語の意味する内容とはかなり違うような感じがする。フランス語のこの表現は、上に記した中国のインターネットに記された一部の悪意、敵意の発露にむしろ近いのではないか。英語の resentment、フランス語の ressentiment がほぼこれに当たり、あらゆることへの(しばしばいわれのない)憤慨、憤りに相当しよう。
バナナの皮に滑る人も
ドイツ語のSchadenfreude には、軽いものとしては、路上のバナナの皮に滑って転ぶ男などを見て、笑いの種とするようなものも含まれるようだ。これは時々コミックなどにも登場しており、現実に大怪我?などをしないかぎり、見物人の失笑を買うくらいの軽いものだ。フランス語なら、se moquer de qualqu'un とでもいうところか。いずれにせよ、他人の不幸を笑いの材料としていることに変わりはない。
他方、現代の世界的小説家 批評家ゴア・ヴィダール Gore Vidal(1925- )は、「誰か友達が成功するたびに、私の中の小さななにかが壊れる」"Whenever a friend succeeds, a little something in me dies," と述べている。現代アメリカの激しい競争社会で浮沈をかけて競い合っている小説家にとって、馬鹿げているが、恐ろしくもあり、そして真実なのだ(Portman 2008)。小説家にかぎらず、他の分野でも十分ありえよう。
上掲のPortmann の研究は、この Schadenfreude なる人間の品性の質にかかわる特性(どちらかというと陰の部分)を対象とした、きわめて興味深いものだ。偶々、表紙にラ・トゥールの『占い師』が使われているように、この光景は Schadenfreude のひとつの典型と考えられているとみてよいだろう。この作品の中心に位置する不思議な顔をした女性は、その一回見たら忘れがたい容貌から、当時かなり著名な話の主人公ではなかったかとの推測も行われている。その詳細が分かる日も遠くないかもしれない。
他方、被害者にされた若い男は、自分の直近に起きることも予想できないほど、先が読めないおめでたさ。それで将来をジプシーの老婆に占ってもらっている。いったい、どんなお告げが語られるか、興味津々。画家も制作に際して、十分にエンターテイメントの要素を想定しているのではないか。現代のブラック・ユーモアに近いかもしれない。きわめて深い宗教的意義を内在させた作品を残しているラ・トゥールが、他方でこうしたことを考えていたとすると、ラ・トゥールの人物像もかなり変わってくる。
度々記してきた通り、ラ・トゥールが生涯の多くを過ごした時代、17世紀とロレーヌという地域は、文化的にはフランスに近かったが、領土という点では神聖ローマ帝国側にあった。この画家はフランスのバロックの時代に片足を置きながらも、根底ではゴシック、ゲルマンの風土、思考を強く保持していた。ラ・トゥールは美術史上、しばしば安易にバロックの画家と分類されることがあるが、その作品は底流において、ゴシックの流れを継承していると考えられる。
深さと広がり
この Schadenfreude の意味の深さ、広がり(どこまで含むか)などについては、興味が尽きない多くの議論がある。いづれまた紹介の機会を待つとして、カフカやマーク・トウェインなどの小説家やニーチェ、カントなど哲学者の議論にもなっている。他人の状況と自分の立場を比較して、一喜一憂?することは、ある程度、人間の性(さが)とはいえ、そこには人間として自ずと越えてはならない一線があるはずだ。人間性の本質を究める議論において、少なからず議論になる問題である。その意味で、Schadenfreude という言葉ひとつをとってみても、その奥行きはきわめて深い。
この問題を最初に本格的に提示した研究者のPortmann は、Schadenfreude を「(良い悪いの判断の情緒的な推論として)、他人の失敗、挫折について、道徳的に許容できる範囲の楽しみ」(Portmann 197) と考えており、根深い道徳的失敗、欠陥に相当する ressentment とは一線を画し、対比されるものとしている。
人間の本性は複雑であり、多くは外見から計り知れない。最初は表に現れない、小さな好き嫌い程度の感情が、ある閾値を越えてしまうと、民族や国家間で敵意や嫌悪という次元にまで暴走してしまう。そして、関係国の国民までが、互いに嫌悪、敵意といった感情をあからさまにする次元にまでいたる。中東諸国の内戦、イスラエル・パレスチナ問題、そして日・中・韓国の政治的現状は、この段階にある。
ここにいくつかの例を示したが、問題の奥行きは深く、哲学的課題にまで到達してしまう。多くのことを議論の俎上に載せることはできる。しかし、日常の生活行動としては、「自分がしてもらいたいように、他人にもしてあげなさい」という古来の知恵を愚直に行ってゆくことしか、今は考えられない。
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John Portmann, When Bad Things Happen to Other People, New York & London, Routledge, 2000.