時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

他の人に良くないことが起きたとき

2013年09月24日 | 書棚の片隅から

 





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  東日本大震災が勃発した時のこと。この国はいうまでもなく、世界中が大きな衝撃を受けた。一時は日本の存在自体が危ぶまれるほどであった。それでも日本はなんとか最悪の局面を乗り切ったかに見える(原発の廃炉化の行方、予想される次の地震などを考えると、だれも将来には確言はできない。)。

 他方、東北の被災地に対する大きな同情と物心両面の支援の動きが世界規模で生まれ広がり、今日に続いている。うまく表現できないが、地球上に生を受けた人間という生き物の持つ計り知れない感性と行動の力をこれほど感じたことはない。

 今日にいたる過程にはおよそ書き記せない出来事が多々あった。すべてが明るいことではない。たとえば、隣国中国などのネット上に、「熱烈慶祝日本大地震」などのあからさまな悪意がこめられたコメントも現れたことも報じられた。中国にかなり友人、知人がいる管理人にとっても、大変残念に思ったことだが、さすがにこうした言動・行為は衰退したようだ。両国の政治家の一部などが政治の次元で対立・反目しあっていたとしても、未曾有の大震災という天災への反応としては、発言者や国家の品位にもかかわる言動だ。

 実際にはかなり追跡が可能なのだが、インターネットという匿名性が確保されているかにみえるメディア上での出来事である。IT時代における匿名性 anonymity にかかわる問題については、論じたい点はきわめて多いのだが、今は取り上げることをしない。

深い意味を持つ作品
 今回は、これらの問題に深く関連はするが、まったく別の心理現象について考えたことを少し記したい。すでにお馴染みのラ・トゥールの作品、とりわけ「昼」の作品ともいわれるカテゴリーに属する『占い師』、『ダイヤ(クラブ)のエースを持つ詐欺師』について探索していた時からの論旨の延長である。

 今日残る作品から判断するかぎり、ラ・トゥールという画家は作品のテーマ選定については、あまり冒険をしていない。その時代に流行していたテーマを選択していることが多い。しかし、そのテーマの扱い方や思考の深さで、他の画家の作品とは格段に違うものに仕上げている。制作にとりかかる前に、深く熟慮を重ねたことが伝わってくる画家である。上記の作品は、美術史の分類範疇では「風俗画」といわれる世俗画に含められている。しかし、イタリア、あるいはオランダの同時代の画家たちの描いた風俗画とは、受ける印象がかなり異なる。

 ラ・トゥールの数少ない風俗画としてのこれらの作品に接すると、多くの人は、世の中のことに疎く、財産だけは恵まれた貴族の若者が、ジプシーの占い師の一団やカードゲームの仕事師たちに、だまされて金品をせしめられる光景と受け取るのではないか。それを単純な怖い話と思うか、身分の違いだけで華美・贅沢な生活を送っている若者がだまされていることへの快哉とみるか、あるいはこの時代における風俗画に多い、倫理道徳にかかわる
ひとつの教訓とみるか、作品を見る人の受け取り方はそれぞれ異なるだろう。この点に関して、管理人はこれまでの通説とは少し異なった見方もしてきた。その点について、少し記してみよう。

他人の不幸を喜ぶ行為
 
これらの作品に描かれている、誰かがなんらかの災厄などを受けたことについての反応について、ドイツ語には Schadenfreude (シャーデンフロイデ;意地の悪い喜び、他人の不幸を喜ぶこと)という特有の表現がある。その意味はかなり深いものがあり、すでにひとつの研究領域を形成するほどの広がりがある(Portman 2000)。

 ちなみに知人のフランス人に、フランス語にこれに相当する語があるか聞いてみたところ、しばらく考えた後、ドイツ語ほど限定的な表現ではないが、思いつくのは、le cȏte diabolique かなという答えが返ってきた。diabolique という語からは、「非常に邪悪な、残忍な、悪魔的な」といったイメージが浮かぶ。しかし、Schadenfreude は、フランス語のune machination diabolique (悪辣な陰謀)などから思い出す残酷、陰惨なイメージとはどうも違いそうだ。

  そこで、次にフランス語に堪能な友人のドイツ人に確かめてみても、ドイツ語の意味する内容とはかなり違うような感じがする。フランス語のこの表現は、上に記した中国のインターネットに記された一部の悪意、敵意の発露にむしろ近いのではないか。英語の resentment、フランス語の ressentiment がほぼこれに当たり、あらゆることへの(しばしばいわれのない)憤慨、憤りに相当しよう。
 

バナナの皮に滑る人も
 ドイツ語のSchadenfreude には、軽いものとしては、路上のバナナの皮に滑って転ぶ男などを見て、笑いの種とするようなものも含まれるようだ。これは時々コミックなどにも登場しており、現実に大怪我?などをしないかぎり、見物人の失笑を買うくらいの軽いものだ。フランス語なら、se moquer de qualqu'un とでもいうところか。いずれにせよ、他人の不幸を笑いの材料としていることに変わりはない。

 他方、現代の世界的小説家 批評家ゴア・ヴィダール Gore Vidal(1925-  )は、「誰か友達が成功するたびに、私の中の小さななにかが壊れる」"Whenever a friend succeeds, a little something in me dies," と述べている。現代アメリカの激しい競争社会で浮沈をかけて競い合っている小説家にとって、馬鹿げているが、恐ろしくもあり、そして真実なのだ(Portman 2008)。小説家にかぎらず、他の分野でも十分ありえよう。

 上掲のPortmann の研究は、この Schadenfreude なる人間の品性の質にかかわる特性(どちらかというと陰の部分)を対象とした、きわめて興味深いものだ。偶々、表紙にラ・トゥールの『占い師』が使われているように、この光景は Schadenfreude のひとつの典型と考えられているとみてよいだろう。この作品の中心に位置する不思議な顔をした女性は、その一回見たら忘れがたい容貌から、当時かなり著名な話の主人公ではなかったかとの推測も行われている。その詳細が分かる日も遠くないかもしれない。

 他方、被害者にされた若い男は、自分の直近に起きることも予想できないほど、先が読めないおめでたさ。それで将来をジプシーの老婆に占ってもらっている。いったい、どんなお告げが語られるか、興味津々。画家も制作に際して、十分にエンターテイメントの要素を想定しているのではないか。現代のブラック・ユーモアに近いかもしれない。きわめて深い宗教的意義を内在させた作品を残しているラ・トゥールが、他方でこうしたことを考えていたとすると、ラ・トゥールの人物像もかなり変わってくる。

 度々記してきた通り、ラ・トゥールが生涯の多くを過ごした時代、17世紀とロレーヌという地域は、文化的にはフランスに近かったが、領土という点では神聖ローマ帝国側にあった。この画家はフランスのバロックの時代に片足を置きながらも、根底ではゴシック、ゲルマンの風土、思考を強く保持していた。ラ・トゥールは美術史上、しばしば安易にバロックの画家と分類されることがあるが、その作品は底流において、ゴシックの流れを継承していると考えられる。

深さと広がり
 この Schadenfreude の意味の深さ、広がり(どこまで含むか)などについては、興味が尽きない多くの議論がある。いづれまた紹介の機会を待つとして、カフカやマーク・トウェインなどの小説家やニーチェ、カントなど哲学者の議論にもなっている。他人の状況と自分の立場を比較して、一喜一憂?することは、ある程度、人間の性(さが)とはいえ、そこには人間として自ずと越えてはならない一線があるはずだ。人間性の本質を究める議論において、少なからず議論になる問題である。その意味で、Schadenfreude という言葉ひとつをとってみても、その奥行きはきわめて深い。

 この問題を最初に本格的に提示した研究者のPortmann は、Schadenfreude を「(良い悪いの判断の情緒的な推論として)、他人の失敗、挫折について、道徳的に許容できる範囲の楽しみ」(Portmann 197) と考えており、根深い道徳的失敗、欠陥に相当する ressentment とは一線を画し、対比されるものとしている。

 人間の本性は複雑であり、多くは外見から計り知れない。最初は表に現れない、小さな好き嫌い程度の感情が、ある閾値を越えてしまうと、民族や国家間で敵意や嫌悪という次元にまで暴走してしまう。そして、関係国の国民までが、互いに嫌悪、敵意といった感情をあからさまにする次元にまでいたる。中東諸国の内戦、イスラエル・パレスチナ問題、そして日・中・韓国の政治的現状は、この段階にある。

 ここにいくつかの例を示したが、問題の奥行きは深く、哲学的課題にまで到達してしまう。多くのことを議論の俎上に載せることはできる。しかし、日常の生活行動としては、「自分がしてもらいたいように、他人にもしてあげなさい」という古来の知恵を愚直に行ってゆくことしか、今は考えられない。


John Portmann, When Bad Things Happen to Other People, New York & London, Routledge, 2000. 

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戦争が生み出す移民・難民: なにが分かってくるか

2013年09月13日 | 移民の情景

17世紀30年戦争当時の甲冑。
なんとなく化学兵器戦争や福島原発作業を連想してしまう。 
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ようやく気づいた国民
 
シリア問題について、オバマ大統領の思惑が外れたことで、アメリカの威信は大きく揺らいだ。盟友イギリスまでもが、国民の過半は新たな戦争に関わることはごめんだと早々と引いてしまった。イギリス国民としても、今回はきわめて冷静な判断をしたといえよう。

 酷暑しのぎに、目が疲れる分厚い書籍を読まずに、トニー・ブレヤー(第73代イギリス首相、第18代労働党党首)
の回顧録 A Jouney を聞いていた。著者自身の朗読だが、なんと13枚のディスクで計16時間かかった。ブレヤーは演説のうまいことでも知られた人物である。それだけに現代史の難しい時期に関わり、内容は濃く、興味深いのだが、聞くのも楽ではない。日本ではほとんど報道されなかった話も多い。それはともかく、イギリス国民も指導者の誤った判断で、犠牲を強いられる他国への派兵、犠牲の大きさにようやく気づいたのだ。さらに、外国での戦争はテロリズムの輸入という形をとって、結局自国まで拡大してしまうことになった。ブレヤーが首相在任中、北アイルランド和平への協議(1998年ベルファスト合意締結)、アメリカのブッシュ政権が主導した対テロ戦争(アフガニスタン紛争、イラク戦争)への参加などの経験が、いかにその後の国民の意思に反映したかが伝わってきて、聞き始めると、案外時間は早く経過してしまう。    

 このブレアの回顧録は、ひとりの政治家の目から見たイギリス現代史の一齣だが、総じて大変興味深い内容である。現在進行中のシリア内戦がいかなる帰結を生むか、まだ分からないが、現在の段階で、米ロなど大国間の覇権争いの方向はほぼ見えている。これまでの数々の難局で、関係する国々の政治家たち、そして国民がなにを考え、いかなる意志決定にいたったかという問題を考える上で、イギリスの経験は多くのことを教えている。今回、孤立してしまったオバマ大統領としては、イギリスに準じた手法をとるしかなくなった。



Tony Blair, A Journey: My Political Life
Read by the Author, New York: Random House
13 compact discs, 2010

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効力を失った「米国例外論」
 オバマ大統領にノーベル平和賞を授与したことは、明らかに早すぎたのだ。ロシアのプーチン大統領がオバマ大統領の「米国例外論」を逆手にとって批判し、窮地に追い詰めたところで、シリアの化学兵器の国際的管理なるカードを持ち出し、疲労困憊の色濃いオバマ大統領はかろうじて一本の枝にすがりつけることになった。

 もっとも、このカードがジョーカーとして解決の切り札になるかは予断を許さない。シリアに平和が戻るのは、大変長引きそうな予感がする。しかし、今の段階ではロシアは大国復活の一歩を誇示し、シリア、アサド政権に恩を売り、アメリカはかろうじて面子を維持している形だ。アメリカが現代世界における「正義の味方」という超法規的国家であるというイメージはとうに消えている。

 カーニー米大統領補佐官は、9月12日の記者会見で、米国は世界中の民主的価値観や人権のために立ち上がる「例外的な国」でロシアとは異なると述べ、プーチン大統領に反論したが、もはや迫力はなくなっている。他方、ロシアは安保理の対シリア決議案に拒否権を行使してきており、米ロ双方が大きな責任を国際的には負っていることを自覚すべきことはいうまでもない。問題はそのことを当事者が自覚しないことにある。化学兵器の使用をめぐって、内戦下の議論は泥沼化する可能性が大だ。他方、これも大国となった中国はロシア側に寄りながらも静観のかまえだ。というよりも、国内に深刻な問題山積、それどころではなく、今は国際紛争に介入できる時ではないと思っているのだろう。しかし、隣国日本には執拗な示威を繰り返している。

 ようやく猛暑が収まりつつある今、こうした世界の動きを見ていると、このブログに度々記してきた17世紀と、どれだけ違うのだろうかと度々思う。危機の時代」といわれた17世紀からは多くの点で学ぶことが多い。

犠牲はいつも難民 
 
気の毒なのは大国の駆け引きと武力介入で、右往左往させられる当事国の無力な国民だ。シリアでもすでに200万人を越える多数の難民が生まれた。内戦によって住む場所を失った難民が、少しでも安心できる地へ逃げのびたいと思うのは当然だ。しかし、その状況は映像上でも見るに痛ましい。シリアはヨーロッパに近く、イタリアなどへはアドリア海を船で越える難民が増加している。

 難民あるいは移民を受け入れ側は、以前にもまして冷たい対応だ。世界全般で移民や難民への対応が冷淡になっている。EUの受け入れ国、イギリス、フランス、オランダなど、いずれも国境管理を強化し、閉鎖的対応を強めている。他方、EUの中で唯一抜きんでた存在のドイツは、かなり積極的に難民受け入れに動いた。

 シリア問題にふりまわされているアメリカでは、懸案の移民法改革もどこかへ棚上げされてしまったようだ。移民法改革で超党派グループの共和党の有力マケイン議員も、軍事力行使の立場をとったが、住民集会などで、まったく支持されず、答えに詰まり腕を組んで立ち往生だった。「米国例外論」の終わりを象徴するようだった。シリア問題でブログに記した通り、「鯖の鮮度」は落ちてしまった。

 イギリスの例を見る。非常に評判が悪いのは内務省のとっている政策だ。たとえば、ロンドン市内に「帰国しなさい、さもないと逮捕されるかもしれません」"Go Home or Face Arrest" という看板をつけた広報車をはしらせているからだ。その対象は不法(滞在)移民だ。しかし、イギリス生まれの人種的には少数の市民、そして連立政権の閣僚の何人かを反発させている。

 他方、新任のイギリスの中央銀行総裁マーク・カーニー氏は、カナダ人の英語アクセントと独特の表現で、今のところイギリス特有のうるさい議論を抑えこんでいる。これまでの管理人の人生で、イギリス人とのつきあいもかなり長くなったが、自国に適任者が見当たらないとなれば、時に政治的判断を含めて、有名大学の学長や中央銀行総裁まで、外国人を登用するというカードを使うイギリスという国はやはり興味深い。日本で日銀総裁や東大総長に、中国人、アメリカ人など外国人が就任する日は考えられるだろうか。

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画家の見た17世紀階層社会(18):ジャック・カロの世界

2013年09月04日 | ジャック・カロの世界

 

Baltolomeo Schedoni(1578-16159, La Carita, 1611, oil, canvas, Museo di Capodimonte
バルトロメオ・スケドーニ『慈善(施し)』、1611年、油彩・カンヴァス、ナポリ、カポディモンテ美術館

 

 17世紀の貧困を画題とした画家、作品は少ない中で、このイタリア・エミリア派の巨匠といわれたバルトロメオ・スケドーニの作品は、『慈愛(施し)』の情景を描いている。恐らく、修道院などの戸口で施しを求める子供たちに修道女がわずかな食べものを与えている光景である。この作品で注目されるのは左側に描かれた子供(おそらく視力を失っている)の虚ろな表情、女性からパンのようなものを受けとる子供の幼いが感謝に充ちた表情、今後に待ち受ける世の苦難をいまだ知らない幼い裸足の子供たちのあどけなさを残した表情にある。こうした施しという形をとった慈愛の活動は当時、カトリックの世界では、推奨された行為ではあった。しかし、きわめて美しくカラヴァッジョのような劇的効果をもって描かれた現実の世界では、絵画の想像を超えた厳しさが支配していた。教会、修道院などの宗教的支援は、すさまじい現実の前に、ほとんどなすすべがなかった。飢饉の折、教会の裏側に多くの子供が遺棄されていたなどの記録は実に多い。

 

 

 17世紀、多くの宮廷画家たちは、自分の周辺のパトロンや貴族などを画題の対象とていた。当時すでに膨大な数で存在していた、貧民や貧困の実態には目をつぶり、作品の対象にとりあげることをしなかった。このことについては、ブログに多少記したことがある。宮廷人たちがひとたび華やかな宮廷を出て町中に出れば、そこにはみわたすかぎり、おびただしい数の貧窮に苦しむ人々で溢れていた。しかし、その悲惨な光景は多くの画家にとっては創作意欲をそそられる対象ではなかった。

 そうした風潮の中でジャック・カロは、かなり多くの貧民の実態を描いている。そのおかげで、写真などなかった時代、この時代の貧困の実態がいかなるものであったかを、かなり良く知ることができる。

教会の繁栄の陰に:おびただしい貧しい人々の姿
 
カロが日常目にしていた貧民の状況はきわめて多様にわたっていた。多作ではあったが、手当たり次第描いていたのでは収集がつかなくなる。カロは貴族階層のさまざまを描いたように、貧民についても、その類型化をイメージして制作していたと考えられる。当時の人口の7割以上を占めた農民まで含めると、社会階層の大半はその日暮らしに近い貧しい生活を強いられていた。彼らの日々の生活は、貧困と劣悪の限りであり、その生活様式は地域や職業ごとに多様をきわめ、すべてを描くことはもとより不可能であった。その中でカロは日常顕著に目にする人々の姿を、鋭く観察、厳選して描いたと考えられる。

お守りとなった聖人像
 
カロがイタリアからロレーヌへ戻った17世紀初め1621年頃、ロレーヌはカトリック布教の前線の砦としての戦略的位置を与えられ、カトリック布教の強力な活動が展開していた。その結果、強い宗教的精神に充ちた地域となっていた。
 
 度々記したように、この地は戦乱、動乱、悪疫、天候異変などに絶えず襲われていた。たとえばカロがナンシーへ戻ってしばらくすると、1630年代にはペストなどの悪疫が流行した。1631年にカロは『悪疫から身を守ってくれる聖人たち』Book of Saints for Plague を制作し、実に488人の聖人の姿を描いた。悪疫についての知識や医学水準が低位にあった時代、人々はひたすらそれぞれが守護聖人と仰ぐ聖人に、自分や家族の安全、不幸にして罹患した場合の早期の治癒などを祈るしかなかった。こうした折には、魔術や呪術などのいかがわしい活動も盛んになった。




ジャック・カロ 『キリストと聖母マリア』

Jacques Callot, Christ and Virgin Mary

Les Grands Apôtres(The Large Aolssstles)
Princes & Paupers, 2013,p.123.
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 この聖人肖像集は恐らく大きな評判となったのだろう。翌年、カロは『大使徒』シリーズ、large Apostles を制作し、キリスト、聖マリアと13人の使徒の画像を描いた16枚(1枚は表紙)の肖像集を刊行した。今回は大量の印刷頒布に耐えうるよう、銅版の彫り込みも深く、図版も拡大された。恐らく、多数の需要があり、ロレーヌの多くの家々の壁にカロの聖人画が掲げられていたのだろう。

  当時のヨーロッパ各地にはおびただしい数の貧民がいた。現代の社会保障制度のようなものはなく、困窮者の最後の頼りは教会、修道院などの慈善の観点からの施しにすがることだった。しかし、ロレーヌのようにカトリックの布教が強力に勧められた地域であっても、教会の社会的な救済の力は実態を改善するにはほとんど無力に近く、多くの人たちが頼るすべもなく死んでいった。「慈善」は単なる布教上のスローガン化していた。

 最近の研究で分かったきたことだが教会内部の腐敗や堕落の陰で、想像を絶する数の貧民、窮迫民が救いや施しを求めることすら出来ず、戦火や悪疫、飢饉の中で死に絶えていた。(難民200万人を越えたといわれるシリア内戦の惨状を思うとき、管理人の心情はその解決を考えると、残暑の中でさまざまに乱れる。)

 17世紀、近世初期の時代の美しい絵画作品だけを見ていると、ともすれば、その背後に存在した膨大で計り知れない貧困の実態を知ることなしに過ごしてしまうが、それを知ることなしに、この時代を理解することはできないのだ。

続く

  

 

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