時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

恐慌前夜に考える(4):FDRの一齣

2008年10月27日 | グローバル化の断面

FDRへの関心の高まり
 アメリカ大統領選も大詰め近く、行き着く先がかなり見えてきた。しかし、最後まで予断は禁物。なにが起こるかわからない時代だ。世界中で株価は暴落。日本でも東証日経平均株価は28日、26年ぶりの安値を記録した。

 ところで、アメリカの歴代大統領の中で最も人気がある上位3人とは、誰でしょう。答を先に言ってしまうと、世論調査などの結果をみるかぎり、ジョージ・ワシントン(George Washington 初代)、アブラハム・リンカーン (Abraham Lincoln、第16代) そして、フランクリン・デレノ・ローズヴェルト(Franklin Deleno Roosevelt (FDR)、第32代)ではないかといわれている。

 最初の二人はともかく、FDRも少なくとも上位5人の中には入るとされる(こうした世論調査?の妥当さや詳細については、ここでは取り上げない。FDRの表記についても、日本ではルーズヴェルトが多いが、アメリカ英語ではローズヴェルトに近い。ちなみに第26代大統領のセオドア・ローズヴェルトは従兄弟に当たる)。

 FDRのイニシャルは、昨今の金融危機との関係で、アメリカのメディアに頻繁に登場している。あの大恐慌の時代、「ニューディール」政策を展開した大統領であり、第二次大戦の終結に向けたヤルタ会談の3人、チャーチル、ローズヴェルト、そしてスターリンと、世界史を書き換えた立役者の一人だ。世界史の教科書には必ず出てくるおなじみの顔である。

伝記コーナーから
 ところで、欧米の書店にあって日本ではほとんど見かけないのは、伝記 biography のコーナーだ。あまり好みのジャンルではないので、立ち寄る機会はそれほど多くはないが、何人かご贔屓の人物がいないわけではない。そのひとりがFDRだった。特に際だって好みというわけではなかったが、強く印象に残った。かつてこの時代の労働・社会保障政策の立案過程について多少調べごとをした時に、興味を惹かれて関連文献を読んだ。その折りに当然とはいえ、最も耳目にした人物であった。加えて、指導教授の中にニューディール実施にかかわった人たちが何人かいたので、FDRにまつわる興味深い話をいくつか聞いた。

「私の知るローズヴェルト」
 FDRについての伝記のたぐいは、かなりの数が出版されているが、個人的にはFDR政権下、女性として初めて労働長官を務めたフランシス・パーキンス女史の回想録「私の知るローズヴェルト」 The Roosevelt I Knew* が残した印象が最も強い。

 ひとりの親しい友人として、そして後年閣僚の一人として、FDRを近くで見知っていた女性の回想録だ。伝記ではないこと、そしてFDRびいきであることも彼女自身認めている。

 パーキンス女史は、FDRがニューヨーク州知事の頃に見出され、FDRが大統領に当選後、労働長官として登用され、FDRの任期のほぼすべて12年間にわたり同ポストを務めた。ちなみに、当時の労働長官は、彼女が記しているように、閣僚の中では最も低いポストだった。ワシントンDCの労働省ビル本館は、彼女を記念した名前がつけられている。

評価が分かれた大統領
 FDRは歴代アメリカ大統領の中で、ただ一人四選された人物である。それだけ国民的人気があったといえよう。しかし、ニューディールという、政府が大きくかかわり、しばしば問題を含む政策を次々と実施したこと、ソ連への寛容な対応などもあって、支援者も多いが、批判者や政敵も多かった。アメリカ現代史におけるFDRの評価は複雑だが、比較的人気が高いのは、大恐慌の中からアメリカをなんとか救出した功績によるのだろうか。もっとも、それは第二次世界大戦勃発による軍需景気によるところが大きかったのだが。

 さて、FDRは、四選されてまだ日が浅い1945年4月12日、保養先のジョージア州ウオーム・スプリングスで脳出血を起こし、急死してしまった。大恐慌、第二次世界大戦という未曾有の危機に、アメリカの大統領として絶大な国民的信頼を得ていただけに、国民の衝撃は大きかった。しかし、幸い大戦は間もなく終結に向かう。

 パーキンスは、FDRが急死する二週間ほど前に会った時に、「ヨーロッパの戦争は5月末までに終わるよ」と内緒の話を告げられたと記している。その言葉通り、同年4月30日、ヒットラーはドイツの防空壕で自殺し、5月8日にはドイツ軍無条件降伏の報せが伝わった。そして8月には日本が降伏した。(ちなみに、FDRは戦争が終わり次第、エリノア夫人とともに、イギリスを訪れる予定をもっていたらしい)。

FDR晩年の健康
 FDRの生涯とその時代については、大変興味深い話が多いのだが、ここではパーキンス女史が見た晩年のFDRの健康状態について記してみたい。あまり、他の伝記には出ていない話である。ご存じの通り、FDRの容貌は、ヤルタ会談のチャーチルと並べてみると明らかなように、かなり印象に残るものだ。

 晩年のFDRのについて、パーキンスは次のように語っている:

「大統領の時代、ローズヴェルトは齢を重ねた。皆それは知っていた。われわれも皆年を取った。彼の髪は薄くなり、白くなった。顔の皺も増えた。1933年(大統領就任時)の写真と1940年の写真は驚くほどの違いだ。容貌もふっくらとして、デラノ家の家系に特有の顔つきになって、彼の叔父や母親に似てきた。33-34年の頃は大変似合っていた、あの細身の若者の面影はなくなった。これは座っている仕事が多くなったこと、加齢、働きすぎ、よく食べたためなどの要因が重なったからだ。」(Perkins 388)

 「ローズヴェルトは食欲旺盛だった。何を食べたか気づかないほど、なんでも食べた。好き嫌いなく食べ、食べ過ぎることをあまり心配しなかった。医師たちはいつも少しでも減量させるように努めていた。というのも、体重が多くなり、松葉杖を使うのが難しくなっていた。少しでも体重が減れば、良いと思われた。
 彼は風邪を引きやすかった。加えて、ワシントンは気候がよくない。しかし、閣僚の誰もが風邪を引いたし、時にはかなり寝ついてしまう人も多かった。大統領のちょっとした冗談のひとつは、私は”かよわい女性で”というものだったが、彼自身は風邪で寝つくようなことはなかった
。」(389)
 
 パーキンス女史が見たかぎり、FDRは昨今話題のメタボ状態がかなりひどかったようだ。さらに1944年の冬頃から少しずつ体力を失っていたらしい。実はFDRは大統領に選ばれる前、1921年、小児麻痺に罹病し下肢の自由を失い、松葉杖や車いすの補助なしでは歩行できなくなっていた。座った写真が多いのはそのためだが、FDRはメディアにできるかぎりその事実を隠していた。大きなハンディキャップを負いながらも、長年にわたる激務をこなしていたのは、彼が強靭な精神力の持ち主であったことを示している。それでもヤルタ会談から帰国後の写真を見ると、憔悴の色がありありと感じられる。

危機の時代の政治家
 FDRの大統領としての仕事ぶりについて印象に残るのは、決定と実施の迅速なことだ。とりわけ危機の時代には、政策実行の逡巡や遅滞は、不安や憶測を呼び、予期せぬ結果につながりかねない。

 流行語となった「最初の100日間」の成果が、FDRの政権前半の国民的人気を支えた。未曾有の経済危機の下、図らずも政権交代期を迎えた日米両国。いま、「最初の100日間」になにをなすべきかが問われている。



* 

Frances Perkins. The Rosevelt I Knew. New York: Harper & Row, 1946

FDRに関する数多い伝記や回想の中で、比較的バランスがとれていると思われるのは、ベストセラーともなった下掲の「FDR」かもしれない。最近もPB版が刊行されている。
Jean Edward Smith. FDR. New York: Harper & Row, 1952.

その他関連資料:
William E. Leuchtenburg. Franklin D Roosevelt And The New Deal, 1963.

Robert H. Jackson, William E. Leuchtenburg, and John Q. Barrett That Man: An Insider's Portrait of Franklin D. Roosevelt, 2004

Alan Winkler. Franklin D. Roosevelt and the Making of Modern America, 2006.

Richard D. Polenberg. The Era of Franklin D. Roosevelt, 1933-1945: A Brief History with Documents, 2000.

Joseph P. Lash, Jr Arthur M. Schlesinger, and Franklin D. Roosevelt Jr. Eleanor and Franklin: The Story of Their Relationship, based on Eleanor Roosevelt's Private Papers, 1971.


Frances Perkins を記念するウエッブサイト:
Frances Perkins Center

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恐慌前夜に考える(3)

2008年10月22日 | グローバル化の断面

1930年代大不況の光景から
ブレッドライン(給食)に並ぶ人々

 アメリカ発の金融危機は、瞬く間に中国にも達した。北京五輪の華やかさはどこへやらの光景がいたるところで展開している。
ブログで予想した通りでもある。世界の状況を俯瞰すると、事態はすでに「恐慌」といってもよいのかもしれない。1930年代の大恐慌と今回の「グローバル危機」の類似点、相違点はさまざまに指摘できるが、とりわけ印象的なことは、その浸透・拡大の速さだ。危機は驚くほどの速度で、ヨーロッパ、アジアなど地球全域へ伝わった。背後に、IT技術の発達による情報の伝播の早さがあることはいうまでもない。

 1930年代大恐慌当時、フランクリン・ローズヴェルトが大統領に選出されたのは、1932年11月であった。実際に大統領就任式に臨んだのは翌年の3月である。ローズヴェルトの前の大統領は、アメリカから貧困が消える日が近いことをスローガンに掲げたフーヴァーであったが、皮肉なことに就任1年後に未曾有の恐慌に見舞われることになった。フーヴァ政権の対恐慌政策は実効が上がらなかった。なんとなく、ブッシュ政権と似たところがある。今回の金融危機も、図らずも大統領選と重なっている。

 フーヴァーの後を次いだフランクリン・D・ロースヴェルトは、1932年の大統領候補指名受託の演説で、アメリカ国民の「ニューディール」(新たな再出発)という表現を使い、これが彼の恐慌に対する政策スローガンとなった。選挙戦中にも使われたが、それがいかなるものであるかについては、明瞭な説明はされていなかった。その後、周囲の政策顧問、経済学者などの考えを通して、次第に輪郭が浮かんできた。

 注目すべきことは、1932年11月の大統領選出から翌年3月の就任式までの間、ほとんど経済政策面ではなにもなされることなく推移できたことである。恐慌はこの間も進行していた。この点に関連して、今回の危機で、ポウルソン財務長官は「金融システムは2009年まで持たない」と緊迫した発言をしている。今回の危機の進行速度がいかに速いかを示している。(実際、1929年のウオール街株式暴落後、アメリカ政府が一連の施策を導入するまで、3年近くを要している。)


 1933年3月4日の大統領就任演説で、ローズヴェルトは恐慌が悪化し、銀行倒産が相次ぎ、取り付け騒ぎが起きている状況を前に、「私たちが恐れねばならないことはただひとつ、恐れること自体です」と述べ、国民の不安を取り除こうとした。さらに2日後には議会が特別会期を開催するまでの4日間、全国の銀行を閉店とすることを決めた。「バンク・ホリデー」という名で、彼は国民の不安を和らげたのだ。後にアメリカで過ごした時に、大恐慌を経験した世代の人が、「明日はバンク・ホリデーだから」という時には、特別の意味が込められていることを知った。ローズヴェルトは特別議会が開かれるや、「銀行特別救済法」案を提出、たちまち可決させてしまった。国民の大統領への信頼は急速に高まった。

 さて、今回、中国へも波及した金融危機は、アメリカ市場向けの製品を生産する企業などを中心に、急速に浸透している。労働集約型産業が多い広東省東莞市などに波及、多数の工場閉鎖を引き起こしている。最近の原材料高、人民元高、賃金上昇などが重なり、経営が成り立たなくなったのだ。友人の企業の工場もあるが、対応に大わらわであることは間違いない。近々工場を見せてもらうことになっていたのだが。株も不動産も下降し、消費者心理も急速に冷え込んでいる。中国経済は想定外の成長率の減速ともいわれるが、大不況の経験を考えれば、当然ありうる事態だった。日本経済へもその影響は及ぶ。

 金融危機といっても、金融界の範囲だけで終息するわけではない。信用収縮の過程を通して、実体経済へと不況は波及する。いくら政策的対応がなされても、それが危機拡大に抑止的に働くまでには、かなり長い時間を必要とする。重篤な病状が投薬などの措置によって改善の時を迎えるまでに、一定時間が必要なように。

 実体経済がひとたび不況過程に入り、最終需要の減退、在庫調整、生産調整などのプロセスを経ながら、派生需要である雇用調整の次元にまで及ぶと、元の正常な水準に復元するまでには、それなりの時間が必要だ。今回のようなグローバルな危機となると、もはやV字型回復は予想しがたい。
世界の株式市場が不安定な動きを続けているのは、治療の様子を見極めようとしているのだが、どうも即効性はないらしいと見ているようだ。 フランクリン・ローズヴェルト大統領が就任式、そして離任の時の言葉が思い出される。

「われわれが恐れるべき唯一のことは恐れそれ自体だ」 
"The only thing we have to fear is fear itself."

「強く、活発な信念を持って前へ進もう」
"Move forward with a strong and active faith."

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EU砦の再構築?

2008年10月20日 | 移民政策を追って

 燃え盛るグローバル金融危機を前に、EUは消火作業に懸命だ。金融市場は事態が切迫し、緊急な対応が要求されているが、労働市場もながらく問題が山積している。そのひとつが移民問題だ。高齢化と出生率の低下を前に、EU諸国の多くで労働力不足は避けがたい。しかし、これまでの歴史的経緯が示すように、移民は単なる労働力受け入れではすまない。いずれの国でも移民の国民的統合は難しく、国民の反移民感情も高まっている。失業率上昇は、そうした感情を増長する。金融危機は実体経済に深刻な影響をもたらしつつある。

 ドイツ、フランス、イギリス、オーストリア、アイルランド、スペインなど、EUの主要国では人口に占める外国人の比率は、すでに臨界点ともいわれる10%を越え、さまざまな摩擦・対立が顕在化している。

 他方、ヨーロッパの豊かさを求めて、不法越境者は途切れることなく、ボート
で地中海、大西洋を渡ってくる。こちらは命をかけての渡航だ。上陸しさえすれば後はなんとかなると、ブローカーに多額の金を支払い、荒波にすべてをゆだねる。これらの動きについても、これまでいくつかのトピックスを記してきた。

 移民・難民についてのEUの政策は、なかなか足並みがそろわなかったが、ようやく具体化の方向性が見えてきた。EU域内での人の移動の自由を前提とすると、国ごとに移民政策を実施することは、協定国間でパスポートを廃止したシェンゲン協定をみても、意味を成さなくなっている。

 EUとしての共通移民政策が方向づけられたのは、1999年の「タンペレ・プログラム」だが、5年後「ハーグ・プログラム」(2005-2010年)に引き継がれ、合法、非合法移民の双方について、共通政策の確定が進められてきた。2002年2月には、「不法移民と人身売買の阻止に関する包括的計画」を採択した。この計画では、査証、加盟国間協力、国境管理、警察協力、送還、罰則強化などの政策分野と実施措置が明記された。2004年6月には、加盟国間で査証データを共有できる「査証情報システム」(Visa Information system:VIS)の構築に関する理事会決定が採択された。さらに加盟国間の国境管理体制の統一を図るため「欧州対外国境管理協力庁」(FRONTEX)が創設(本部ワルシャワ)されたことは、措置の具体的の上で意義が大きい。

 この間、EU域内の移民の移動は自由化されたが、国ごとによって移民の流入数はかなり顕著な差があった。2003年時点でみると、受け入れの多かったのは、スペイン、イギリス、、ドイツ、イタリアなどで、この4カ国で受け入れ数約217千人の4分の3近くを占めた。移民の在住数では、2005年時点で、ドイツ、スペイン、フランス、イタリア、イギリスなどが上位を占める。

 現在共通移民政策策定の過程で、主導権を握っているのは、フランスのサルコジ大統領であり、移民・難民をEU政策の中心に据えようとしている。彼は内務大臣の頃、移民に厳しい対応を見せ、その強い姿勢が人気を得て、2007年大統領選挙に勝利した。

 EU加盟27カ国は今年9月25日に司法・内相理事会を開き、移民政策の共通ルールを定めた「移民協定」を承認したが、フランスの方針はかなり色濃く反映されている。合法的な移民の受け入れを進めながら、不法滞在の移民については摘発や強制送還を強化する内容である。


 
EUの新プラン(協定)は、加盟国が移民をもっと「選択的」に受け入れるという方向の強化を目指している。アメリカのグリーンカードをモデルとする「EUブルーカード」の導入である。高度な熟練を有する人材を積極的に誘引するが、反面で不法入国者には厳しく当たる。国境管理は厳しくなり、強制送還も増える。こうした方向はそれぞれ差異はあるとはいえ、EU諸国を含め、アメリカ、日本など最近の世界の主要国が採用する方向である。しかし、EUはアメリカ型の入国者についての大量の生体(バイオメトリックス)情報収集などについては、今のところ熱心ではない。

 新協定の内容は、これまでの議論とさほど変わりはないが、新たなポイントが含まれていないわけではない。なかでも、2005年にスペインが経験したような、すでに国内で働いている不法移民を合法化することは大量難民を生むことにつながるとして、厳しく対応し、排除する方針である。1997年のアムステルダム協定以来、移民と難民は、EUの管理がなんとか可能な範囲に入りつつある。それを受けた今回のEU協定案には、不法移民に厳しいフランスの不満のしるしが含まれていといえるかもしれない。 

 他方、グローバルな人材タレントを求める競争の場では、ほとんどのEU諸国は、言語面で不利な立場にある。そうした中で今回の「ブルーカード」は、必ずしも受け入れに寛容ではない。たとえば、アメリカのグリーンカードより短い滞在しか認めていない。

 さらに新協定は、移民が送り出し国と受入国の間で「循環」circulateすることを目指している。持続可能かつ効果的な帰還政策を目指すという。単なる従来のゲストワーカー・プランではなく、技術を身につけた労働者が帰国して母国のために働くことが想定されている。しかし、果たしてこの方向が根付くか、定かではない。使用者がいずれは帰国してしまう労働者を訓練するのは効率的ではないという見方もある。

 不法滞在者を雇用する使用者に対する罰則も議論が多い。経営者は、現在の外国人労働者を雇用するために要求されている手続きは、大変煩雑だとしている。さらに、自分たちは不法移民の探し手ではないとも言っている。

 EU加盟国が合意した新協定は、子供を含めて不法移民を最長1年半まで拘束できる共通ルールや再入国を5年間禁止できる措置などを盛り込んだ。EU域内の800万人に上る不法移民を効率的に本国などに送還するのが狙いだ。さらにスペインが実施したような、加盟国が大量の不法移民に一括で滞在許可を与える救済措置も原則的に禁止される。EUは国境を越えた自由な移動を認めているため、特定の国が滞在を認めると、ほかの加盟国に大量流入する恐れがあるからだ。

 しかし、外国人労働者を母国へ送り戻すのは時間もコストもかかる
受入国内に滞在する不法滞在者に帰国を促す措置は、時間もコストもかかり、実施が難しいことが、これまでの経験からかなり明らかになっている。

 今年になってからは地中海を渡ってくる不法越境者は、およそ2万人が入国を阻止された。しかし、これは単に越境地点を変化させるにすぎないとの見方もある。EUは拡大したが、南と東の国境地帯は抜け穴が多く、不法越境者を十分に阻止することには多大な努力を要する。2005年に入国を拒否した外国人の数は、スペイン約60万人、ポーランド41000人、フランス35000人、スロヴェニア28000人など、EU東西の国境で多い。

 合法化の道を拡大することは、不法移民を減らすことにはつながらない。EU周辺国の急速な人口増加、高い失業率、送り出し国と受け入れ国の間に存在する大きな所得ギャップの存在は、潜在的な越境者を増やすことになっている。

 細部については、差異があるが、EUとアメリカ合衆国の移民政策はかなり近づいているといえる。ヨーロッパの基軸国がかつてのように、移民送り出し国ではなくなり、反転して受入国になって久しい。EUは巨大な地域共同体として、内部では労働移動の自由を認めながらも、外壁は強固に守るという方向性が見えている。障壁の《補修》は、ここでも進んでいる。

 移民と経済発展を結ぶには、国境をもっと開放すべきだという考えは、一般的にはその通りだろう。しかし、現実の場に移すと、先住者の国民との摩擦・対立など、統合の問題が大きくのしかかっている。今は移民コントロールを厳しく実施することが、政治的にも得策と政治家たちは考えているようだ。グローバル化は国境の存在感を薄めているが、国民国家にとっては最後の砦なのだ。

Reference
'Letting some of them in' The Economist October 4th 2008.

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リュネヴィル刺繍ご存知ですか

2008年10月16日 | ロレーヌ探訪
 

 このブログを訪れてくださる皆さんは、どこかでリュネヴィルの名を目にされているのでは。そう、17世紀ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、この地の貴族の娘と結婚後、工房を置き、画家としての活動拠点としたと思われる場所です。たまたま見ていた10月16日、NHKTVフランス語講座に、突然リュネヴィル刺繍の場面*が出てきたので驚いてしまった。

 フランスでも必ずしもよく知られていない土地である。リュネヴィル Lunévilleには、「ミニ・ヴェルサイユ」といわれる宮殿(Château de Lunéville)もあり、王や貴族たちが絢爛たる宮廷文化を享受していた時代があった。大変残念なことに、リュネヴィルが位置するロレーヌ地方は、30年戦争などたびたびの戦禍で、貴重な歴史的遺産の多くを失ってきた。ラ・トゥールの作品があまり残っていないのも、そのためである。2003年の冬にも宮殿は大火で大きく損傷し、現在修復工事が行われている。  

 しかし、幸い今日まで継承されているものもある。リュネヴィル窯として知られる美しい陶磁器もそのひとつだ。窯自体は閉鎖されてしまったが、作品はコレクター・アイテムになっている。収集欲がないこともあって、残念ながらひとつも持っていないが、クラシックな美しさがある。

 それとともに、19世紀から続くリュネヴィル刺繍という技法がある。真珠とスパンコールを散りばめた刺繍で、まさに“糸の芸術”といわれる美しさだ。TV番組では、女性の華やかな扇に刺繍する作業が紹介されていた。  

 この技法では枠(メティエ)に布地を張ることによって、両手を自由に使って刺繍することが出来、布の目をまっすぐに保ち、刺繍によるゆがみを防ぐごとができる。枠にはめた綿のチュールにリュネヴィル型と呼ばれる鉤針(le Crochet de Lunéville)で刺繍する。従来の方法よりも正確かつスピーディーに制作ができ、針の通りにくいビーズなどを正確に刺すことが可能になった。  

 大変手間のかかる作業だが、その出来栄えぶりを見ると、驚嘆する美しさだ。かつて宮廷の女性たちの絢爛、華麗な衣装を飾り、圧倒的な人気の的であっただけに、そのまま衰退してしまうのは惜しい技術だ。幸い最近パリなどのオート・クチュールでも、再認識され、注目されだしたようだ。以前に訪れた時は宮殿火災の跡を修復中で、リュネヴィルは停滞の色が濃かった。

 こうしたことで、伝統技術、地場産業が再生することは喜ばしい。どこの国でも同じだが、停滞した地域が活性化するためには、外部から苦労して新技術を持ち込むよりは、その土地に蓄積された技術が内発的に花開くことが確実であり、最も望ましい道だ。  

 この伝統芸術を継承し、後世に伝える試みがなされている。フランスのリュネヴィル刺繍学院(Conservatoire des Broderies de Lunéville)であり、1998年、リュネヴィル宮殿の中に設立された。その後、宮殿が2003年冬の大火災で大きく損傷したため数年間閉鎖されていた。このたび再開され、一年を通して研修生を受け入れている。

 この伝統ある刺繍技術の一端をご覧になりたい方は下記のアドレスをご訪問ください。作業工程のヴィデオも見られます。

リュネヴィル刺繍学院
Conservatoire des Broderies de Luneville


* Anne Hoguet. L'eventailliste (扇職人)、フランスのテレビ番組Mains et Merveilles から部分放映。
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障壁の彼方に見えるものは

2008年10月14日 | 移民政策を追って

Source: The Economist, October 4-10th, 2008.

2008年アメリカ・メキシコ国境

 グローバル金融危機の拡大は、多くの重要問題への関心を薄れさせ、後方へ追いやっている。アメリカ大統領選挙も1ヶ月後に迫ったが、オバマ、マッケイン両候補の論戦は、お互いの欠点を見つけ出し、攻撃する、次元の低いものになっている。終盤戦にもかかわらず、重要な政策課題についての議論は前面に出てこない。

 他方、現実はそれと無関係に進行している。そのひとつが、このブログでテーマのひとつとしてきた移民問題である。定点観測の意味で、最近の動きを整理しておこう。
 
 アメリカ・メキシコ国境の物理的障壁は、ブログで再三記事としてきたように、ブッシュ政権の下で次第に強化されてきた。しかし、そうした障壁の高まりは、かえって不法越境者の存在をクローズアップすることになっている。壁が存在感を強めるほど、それを越えようとする越境者の姿がはっきり見えてくる。

 アメリカ政府は、今年末までに全長2000マイル(3200キロ)の国境に、670マイル(750キロ)の障壁フェンスを構築することになっている。その実態は、レポートされている内容によると、半分近くは野うさぎ以上の大きな動物などの出入を阻止できる程度のものであり、残りは人は通れるが車の通行は阻止できるものだという。障壁はフェンスばかりでなく、人員面でも強化されつつあり、ボーダーパトロールも1996年の約6000人から来年には18000人へと増員されることになっている。新技術を活用した熱センサー、カメラなどを装備した無人の監視塔も増えた。税関などの機能を持つ正規の出入国地点では、ゲートでのチェックも厳しくなっている。障壁の建設は予定より遅れ、予算もすでに超過している状況だが、これがボーダーだといえる程度にまで整備されてきた。障壁は明らかに高まっているのだ。
 
 きわめて最近まで、両国国境障壁の半分はほとんど存在しないような状況だった。言い換えると、みわたすかぎりの砂漠のような状況であり、不毛の土地が広がっているにすぎなかった。そこに時代の経過とともに、最初は石を積み重ねたような保塁のようなものから、コンクリートでの障壁構築、そしてワイヤーによるフェンスと変化してきた。しかし、いずれにしても、越境を志す者には越えられないものではなかった。
 
 1990年代初期までは、不法越境者はまず拠点として、メキシコ側の都市ティフアナ Tijuana か、フアレスJuarez を目指した。そして、夜になるのを待って、フェンスの穴を探し、アメリカ側のサンディエゴ San Diego かエルパソ
El Pasoへと走りこんだ。当時は、ボーダーパトロールも人手不足で対応が十分できなかった。

 1993年からカリフォルニア、テキサスなどで越境者が多い地点に、フェンスが構築されるようになった。こうしたフェンスが出来れば、不法越境者を減少させると考えられた。1994-2000年にかけては、この想定は正しいように見えた。カリフォルニア州南部サンディエゴ近辺の越境者拘束は3分の2近くに減少した。しかし、越境を志す者はあきらめることなく、警戒の薄い地域、具体的には日差しの強い、毒蛇の多い中央部の砂漠地帯に移動、集中した。
 
 1990年代後半には越境者の死亡者も増加した。1990年代には125人程度だったが、2000年以降、1000人を超えた。ちなみに、ベルリンの壁を越えようとした際に射殺などで命を失った者は、28年の歴史で300人以下だった。砂漠に水のボトルなどを配置するNPOなどが活動するようになったのは、こうした状況を反映したものだ。

 不法越境者がアリゾナ州で増加すると、アメリカ側の対応も硬化した。アリゾナ州民は不法移民へ公的給付を行わないという州の対応に同意した。カリフォルニアが16年前に経験したことである。アリゾナの民主党知事 ジャネット・ナポリターノは、連邦に軍隊を送るよう要請した。2007年には不法滞在者として知っていながら労働者を雇用した経営者に罰金を課する州法に署名した。マッケインは包括的移民法案の主導者だったが、最近は国境を閉じることが最初としている。世論はメキシコ側の主張を支持する形だが、問題は麻薬取引と暴力だ。

 フエリポ・カルデロン、 メキシコ大統領は麻薬取引取締りに軍隊を使う決定をした。その背景には、ティファナからマタモロスにかけて騒動が絶えず、組織犯罪が拡大している状況がある。その結果、不法越境者を案内するコヨーテに支払う費用は、かつての500ドルから2000ドル以上へと上昇している。

 こうしてみると、フェンスの構築強化は、明らかに不法移民の流れを変えている。国境での拘束人数は減少しているが、これは移民動向を測定するには不完全な尺度である。アメリカの住宅市場の崩壊で建設・造園労働者への需要が減少している。この分野は、ヒスパニック系労働者がきわめて多い。ヒスパニック系の失業は、最近では8%近くへ上昇している。他方、アメリカからメキシコへの送金は、2000年頃の10億ドル水準から一貫して増加し、最近では高原状態だが、年度ベースで60億ドル水準まで達している。

 カリフォルニア大学サンディエゴ、比較移民研究所長のW.コーネリアス*は、筆者とこの問題について共同研究をしたこともあるが、いまや移民志望者の半分以上が究極的に目的を果たしているとしている。メキシコ人は越境が危険なことが分かっていても、結果としてほとんど目的を果たすという。

 最近の不法越境者の数が減少している背景には、別の要因もある。いまや移民は 「循環」circulation ではなく、「一直線、一方通行」 linear に近くなっている。越境コストが上昇し、リスクも高まったので、家族ともども最初から帰国することを考えない移住を目ざす人が多くなった。この点は、このブログでも以前から指摘したことだが、近年ヨーロッパでいわれている「循環的」移民とは、かなり様相を異にしている。

 越境地点や手段にも変化が生まれている。2008年の前半6ヶ月についてみると、アメリカ・メキシコ貿易の約80%(価格表示)はテキサス州を経由している。特定地域へ集中している。2000年国勢調査では、アリゾナ、カリフォルニア、テキサス州のヒスパニックは4分の1から3分の1になっている。国境隣接州や郡でのヒスパニック比率は確実に高まっている。高まる国境障壁は越境者の流れを妨げているが、それにもかかわらず、南から北を目指す人の流れは絶えない。

 新大統領が決まった後、頓挫していた新移民政策の再検討がスタートすることになろう。多くの問題は相互に密接に結びついており、個別的対応では解決につながらない。検討は、NAFTA(北米自由貿易協定)の抜本的見直しまで行くことは、ほとんど確実だ。


Reference
Good neighbours make fences. The Economist October 4th 2008.

*The Center for Comparative Immigrant Studies, University of California, San Diego.

コメント (8)
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フェルメールを発掘した人

2008年10月10日 | フェルメールの本棚

  東京都美術館では「フェルメール展」が開催中だ。また、さまざまな話題が生まれるだろう。美術好きといっても、多くの人は作品の鑑賞が中心で、画家の生涯やその時代まで立ち入ってみたいと思う人は比較的少ない。しかし、作家の時代的背景などを知ることは、専門家でなくとも作品鑑賞に新たな興味を付け加えてくれることは確かだ。作品の見方が大きく異なってくる。

 時には、美術史の専門家ではないことが、固定した視角にとらわれない斬新な論点を付け加えてくれることもある。フェルメールの研究においてもそうした人物がいた。本来は
美術史家ではない研究者の努力が、大きな貢献を果たしたのだ。

  エール大学教授のジョン・マイケル・モンティアス John Michael Montias は、専門は経済学者でありながら、フェルメール研究の第一人者となった。彼が1989年に出版した『フェルメールとその環境 社会史のネットワーク』*は、この画家が活動した家庭的・社会的基盤や周辺、画家、妻などの家族環境、パトロンの存在などを、オランダやベルギーの17都市の公文書館などに保存されてきた古文書を渉猟し、分析した労作である。フェルメール研究者にとっては、必読の基礎的文献になっている。

 美術史の方法も多様化しているようだが、本書は社会経済史的アプローチとでもいうべきジャンルに入るのだろうか。いずれにせよ、今では本書を読むことなしには、多少なりと立ち入ってフェルメールを論じることはできないほどだ。

 モンティアスが1975年、デルフトで聖ルカ・ギルド(画家のギルド)について調査を始めた時は、フェルメールにはとりたてて関心がなかったという。フェルメールは当時のオランダで活躍していた250人ほどの画家リストの一人にすぎず、画家の生涯についてはすでにほとんど調べつくされたと思っていたらしい。モンティアスはフェルメールの技量には感嘆したが、当初は画家の家族や生活などには関心を抱かなかったという。ところが、ギルドとそのメンバーについての史料を読み解くうちに、フェルメールについての一次資料で、未だ調べきれていない文献、情報があることに気づく。
 
 確かにモンティアスの前に、フェルメールについて、かなりの一次資料調査が行われていた。なかでも、1880-1920年にかけて富豪の御曹子だったアブラハム・ブレディウス Abraham Brediusは、資金に制約されることなく文献調査を行っている。この頃は、史料に書き込みをしたり、自宅やホテルへ持ち出して読むなどのことが行われていたようだ。

 モンティアスはすでに発掘されつくしたと思われる資料を再調査する過程で、新史料に気づき、貴重な発見をすることになる。その特徴は、画家フェルメールと彼の親戚、姻戚
、知人など、関連する人脈についての地道な調査を通して、画家フェルメール、そして彼が生きた17世紀オランダの日常生活を再現するという見事な成果を生み出した。たとえば、気位も高いカトリックの妻カタリーナ、その母マ-リア・シンス(フェルメール結婚時は離婚していた)、義兄ウイレムなど、かなり個性的な人物のイメージが描き出されている。画家の盛期の作品の半分近くを購入したと思われるパトロンとの関係を発見したことも本書の大きな貢献だ。

 画家ヨハネス・フェルメールは、1653年、カタリーナ・ボルネスと結婚したが、ヨハネスはプロテスタント(カルヴィニスト)だった。一説では、カトリックに改宗することを同意の上で結婚したともいわれるが、確認されていない。これも、モンティアスが明らかにしたいと思っていた点であるようだ。ちなみに、フェルメールは長女に義母と同じマーリアというカトリック風の名前をつけていた。

 フェルメールの家族は当時としてもかなり大家族であった。フェルメール夫妻の間には、23年間で15人の子供が生まれている。これは大家族が多かった時代とはいえ、かなり珍しい部類であった。この子供の数が多かったことも、晩年の画家の経済破綻のひとつの要因とされるほどだ。妻の家族からの財政的な支援もあったのだろう。モンティアスの視点は、画家フェルメールの家族を基点に、画家の祖父まで遡り、ほぼ3代にわたる拡大家族の間のネットワークをカヴァーしている。フェルメールの父親がデルフトで宿屋を経営するとともに、画商を営んでいたこと、画家の晩年の経済的貧窮の状況など、興味深い事実が遠い過去の闇の彼方から引き出され、描き出されている。その意味で、画家フェルメールの伝記の範囲にとどまらず、彼の拡大家族、そしてオランダの町の社会史となっている。

 今日では、史料もフォトコピーがとれるような世の中だが、モンティアスは埃にまみれた手書きの古文書の山に分け入って、画家を取り巻く世界、多くは平凡な日常生活の記録から、画家が生きた時代を紡ぎだしたといえる。

 モンティアスの労作は、期せずして、1650年当時、オランダ、デルフトという人口25000人くらいの都市における普通の人々の物語となっている。フェルメールの家族をめぐる小さな世界の物語だが、彼らを取り巻くさまざまな網目が織り成す世界が描き出されている。本書は単にひとりの画家の出自や生い立ちという範囲にとどまらず、画家が制作活動を行った家庭や親戚、修業の過程、制作態度、パトロン、家計状況などについて、詳細なミクロ探査の目を向けた。なかでも画家の作品の半数近くを購入したパトロンの存在を明らかにしたことは大きな貢献だろう。

 従来の美術史家の視野や関心が、ともすれば作品に関わる比較的狭い範囲に限定されてきた束縛から解放し、美術史に新たな光を導きいれた一大労作だ。
  
 300年を超える時代を遡り、各所に散逸し埋もれた原史料を発掘するという作業は、常人にはとてもできるものではない。モンティアスはギルドにかかわる文書を渉猟する間に、17世紀オランダの手書き文書を読みこなすまでになり、その技能と知識をフェルメールに関わる文書の調査・探索に注ぎ込んだ。デルフトばかりでなく、ゴーダやハーグなどの文書館に残る古文書を探索している。

 フェルメールの場合、オランダ、デルフトという大きな戦乱などに巻き込まれなかった地で活動しただけに、一次史料は比較的恵まれた形で継承されてきた。この点は、ロレーヌなどのように、動乱の巷であった地域とは大きく異なっている。しかし、別の分野だが少しばかり似たような調査をした経験からみると、モンティアスのなしとげたことは気の遠くなるような仕事である。いうまでもなく、こうした地道な努力は他の研究者によっても行われているが、モンティアスの仕事は図抜けている。

 本書は57枚の図版を別にしても、407ページというかなり大きな著作だが、中途半端な小説よりもはるかに面白い。よくも一人でここまで調べ上げたという熱気が詰め込まれたような著作だ。フェルメールの研究者でなくとも、大変興味深い内容に魅了されるだろう。小説を読むより格段に面白い。結果が見えない地道な史料探索に生涯をかけた研究者の努力に頭が下がる。これは何度でも読みたい一冊だ。
 
Contents   
Chapter 1. By the Side of the Small-Cattle Market
Chapter 2. Grandfather Balthasar, Counterfeiter
Chapter 3. Grandmother Neeltge Goris
Chapter 4. Reynier Jansz, Vos, alias Vermeer
Chapter 5. Reynier Balthens, Military Contractor
Chapter 6. Apprenticeship and Marriage
Chapter 7. Family Life in Gouda
Chapter 8. Young Artist in Delft
Chapter 9. Willem Bolnes
Chapter 10. The Mature Artist
Chapter 11. Frenzy and Death
Chapter 12. Aftermath
Chapter 13. Vermer’s Clients and Patrons


John Michael Montias. Vermeer and His Milieu: A Web of Social History. Princeton: Princeton University Press, 1989.
407pp+illustrations


Montias は17世紀デルフトの画家と職人についての下掲の注目すべき書籍とかなり多くの論文も残している。
John Michael Montias. Artists and Artisans in Delft: A Socio-Economic Study of the Seventeenth Century. Princeton: Princeton University press, 1982.

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恐慌前夜に考える(2):深呼吸の時

2008年10月07日 | グローバル化の断面

1930年代大不況の光景から


  この問題に「特効薬はない」 There is no panacea. という表現は、
英語ではよく使われる。今回の金融危機についても、そのまま当てはまりそうだ。そして、高まる不安を前に、「次はなにか」 Whats next? も流行語になりつつある。
 
 アメリカ議会下院が金融安定化法をなんとか可決したことで、暗雲はかなり取り払われるかに見えた。しかし、ニューヨーク株式市場は、1万ドルを割る4年ぶりの低水準でこれに応えた。日本の日経平均株価も10月7日にはついに1万円を割り込んだ。先行きへの不安が急速に拡大している。

 新法は当面の対処にすぎず、危機の解決には不十分だという受け取り方が一般化している。どれだけの実効性があるか、関係者の間でも、かなりの見解の違いがある。市場を覆う大きな不安は払拭されていない。誰にも今回の危機の行き着く先は見えないからだ。

 IT時代、情報流通が迅速化したといっても、世界が見通しやすくなったわけではない。むしろ世界は見えにくくなっている。さまざまな情報が行き交い、多くのプレイヤーがそれぞれに行動する。錯綜した動きが生まれ、予想外の方向へも展開する。サブプライム問題について、1年前、このような展開になることを予想した人は、ほとんどいなかった。
 
 現状が恐慌といわれる状況に当てはまるか否かは、議論があろう。頻繁に起きる現象ではないこともある。しかし、1930年代の世界大恐慌がウオール街の株価大暴落から瞬く間に世界へ拡大したように、今回の金融危機の拡大速度も驚くほど早い。もっとも、危機の潜伏期間はかなりあったのだが、理由なき楽観と対応の遅れが今日を招いた。危機は当面二つの領域で深刻の度を深めている。

 金融不安は震源地のアメリカから大西洋を渡り、ヨーロッパに激震を与えている。ドイツ、フランス、オランダなどで次々と銀行が破綻している。ヨーロッパの金融システムは、多分に脆弱性を残している。預金保護をめぐるアイルランドの対応は、たちまちにしてドイツ、デンマーク、イギリスなどに波及している。しかし、EUとしての統一的対応はまだ生まれていない。

 もうひとつ、経済活動の後退は、金融経済の次元から実体経済へと浸透しつつある。9月のアメリカの自動車販売は前月比マイナス26%、農業以外の雇用もマイナス15万9千人と、大きな減少だった。経済不振は先進国から新興国へも拡大し、すでに香港、ロシア、インドなどへ浸透しつつある。危機感を深めた各国政府はそれぞれに対応しているが、個別の問題への対応はあっても、真の問題がどこにあるかは見えていない。症状は緩和できても、危機から逃避はできない。

 今回の金融危機がいかなる帰結をもたらすかは、現時点では誰もわからない。しかし、少なくも2-3年は予断を許さない危機的状況が継続すると考える論者が多い。
現在の段階では、金融危機の進行途上で、いわば病状は昂進の過程にある。いくつか注目すべき点がある。

 
グローバル化に伴い、国家の制御機能が低下し、アメリカなどが掲げていた金融立国戦略も行き詰まった。カジノ資本主義の発信地、ウオール街は決定的にその信頼を失った。
 

 アメリカの影響力低下は拭いがたいが、「ポスト・アメリカ」の担い手も見えていない。多極化時代の到来ともいわれているが、まだ具体像は描きがたい。北京五輪を踏み台に、「昇竜のごとく」発展するといわれた中国も、環境・食品問題など思わぬことでつまづいている。態勢立て直しに躍起となっているが、かなりの時間がかかることは間違いない。世界金融危機の影響はほどなく、この国へも及ぶだろう。「神船7号」のニュースが、メディアを飾っているが、まもなく画面は大きく変わるはずだ。

 あの失われた10年からなんとか立ち直った日本だが、グローバルな危機から逃れることはできない。株式市場はすでに激震を経験している。あの公的資金の投入でかろうじて救われた銀行は、無理な資金繰りをしなかったことでが幸いし、ダメージが少なかった。この間資金力を蓄えた銀行が、今回のグローバル危機の救済に寄与することは望ましいが、ここにたどり着いた経緯を忘れることはできない。

 見えにくくなかった世界、最も考えねばならないことは、疑心暗鬼が増幅し、不安の連鎖を生むことだ。これだけは避けねばならない。

 グローバルな金融危機の中、個々の人間は嵐に翻弄されるままだ。英誌 The Economist が興味深い比喩を提示している。金融システムは正常に機能している時は、あたかも健康な人が呼吸していることを意識していないように、そこに流れる信用の存在を人々は意識しない。しかし、ひとたび機能不全が起きると、呼吸の重要性に気づくことになる。今は、深呼吸をして、その重要性を十分認識する時だという*。いたずらに不安を増長させることなく、落ち着いて来るべきシステム、カジノ資本主義の後に生まれる世界へ思いを馳せるべき時なのだ。


*  'World on the edge.' The Economist. October 4th 2008.

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恐慌前夜に考える

2008年10月02日 | グローバル化の断面

Ben S. Bernanke Essays on the Great Depression Princeton: Princeton University Pres 2004 (バーナンキFRB議長の大恐慌に関する書籍)


  どうやら「1世紀に1回くらいの危機」とグリーンスパン前FRB議長が述べたといわれる大恐慌の時代に突入してしまったようだ。しかし、大恐慌の研究で経済学者としての地位を確立したバーナンキ議長の存在感が薄いのは、なにを意味するのだろうか。公的発言が少なく、無力感のようなものが伝わってくる。FRBばかりでなく、ワシントンの指導力が著しく後退しているようだ。    

    今年3月、ベア・スターンズがJPモルガン・チェースに合併されて以来、経営破綻する金融機関が続き、金融危機の進行が止まらない。ブッシュ大統領の一時の強気発言はすっかり影を潜め、「戦後最大」、「大恐慌」以来の危機の到来を、臆面なく口にするようになっていた。政権末期レームダック化の色濃いブッシュ政権は、金融機関からの不良資産買い取り制度を盛り込んだ緊急経済安定化(金融安定化)法案成立に最後の期待をかけていたようだ。しかし、9月29日、アメリカ議会下院は、法案を否決してしまった。TV記者会見に現れたブッシュ大統領の顔は一見して疲労、落胆の色が濃かった。もはや、なすすべがないという感じだった。与党の共和党員に造反者が多かったことで、愕然としたのだろう。  

  法案不成立に終わった今、アメリカ議会が冷静に事態を直視、再考し、再度の法案成立に最大限の努力を期待する以外にない。さすがに上院はすでにその方向へ動き、修正案を可決するようだ。そうこうする間に衝撃はアメリカ国内にとどまらず、グローバルな次元へと拡大して世界的に景気後退の色が濃くなっている。ヨーロッパの銀行などは、準備期間が少なかったこともあって、かなり揺れているようだ。

  偶然に過ぎないが、最近このブログで言及したカルヴァン・クーリッジは、1930年代大恐慌直前にアメリカの大統領となった人物であった。マサチュセッツ州知事の時代に、あのボストン市警ストを迅速に収拾し、一躍人気を得て、合衆国第30代大統領に就任した。前大統領時代からの閣僚のスキャンダルを解決し、繁栄の時代を率いる好運に恵まれた。この時代、産業界もそれまでの粗野で横暴な資本家、経営者のイメージから脱却しようと、「高賃金経営」、「社会的責任」、「産業民主主義」、「福祉資本主義」などの新語が頻繁に使われていた。   

  1920年代、アメリカは空前の繁栄を享受していた。ベーブルースのホームランに熱狂し、ヘビー級ボクサー、デンプシーの強打に沸いた。リンドバーグの単葉機「セントルイスの魂」のニューヨーク・パリ飛行に全国民が熱狂した。「ジャズの時代」、「もぐり酒場の時代」、「咆哮する20年代」、そして「グレート・ギャツビーの時代」でもあった。   

  大統領クーリッジは、自由放任主義を奉じ、ビジネスのための政府を標榜した。その目指すところは、政府はできるだけなにもしない小さな政府だった。実際、彼に与えられた賛辞は、「時間を浪費せず、無駄な言葉を使わず、公的資金を使わない」"never wasted any time, never wasted any words, and never wasted any public money."というものだった。幸い、活発な産業の発展などに支えられ、経済的には「クーリッジの繁栄」と呼ばれる時代を迎えた。国民の生活水準も上昇を続け、社会的にも活気に満ちた1920年代であった。   

  だが、クーリッジは決して存在感のある大統領ではなかったが、時代の風に恵まれたのだろう。自分の限界に気づいたのか、1928年になると、第3期への出馬について意欲を示さず、ハーバート・フーバーが共和党大統領候補としてバトンを受け継ぎ、大統領選で大勝を収めた。フーバーは。貧しい農民の子から鉱山技師、億万長者、大戦中の「偉大な人道主義者」、商務長官、政府高官、大統領と文字通りアメリカン・ドリームを体現した人物だった。大恐慌に際して、その回避になすこともなく過ごした大統領として名前が残っているが、その生涯はなかなか興味深い。                             

  フーバーは大統領の執務に没頭し、アメリカのために誠心誠意、寝食を忘れて働くという人物であったが、過酷な運命が彼を待っていた。就任後7ヶ月経過した1929年10月、ウオール街株式大暴落が起きる。その後の経緯はよく知られたとおりである。実体経済は大打撃を受け、経済活動は極度に停滞、失業者が累増した。ニューディールの時代を経て、世界は第二次大戦へと急速に突入していった。   

  「大恐慌」当時と比較すると、今日では金融政策についての経験、理論も十分に蓄積されている。最近の相次ぐ金融機関の破綻についても、1929年「大恐慌」当時のように、銀行淘汰の過程と拱手傍観することなく、衝撃をなんとか最小限に吸収しようと応急措置がとられてきた。しかし、9月25日住宅金融大手ワシントン・ミューチュアルまで破綻し、JPモルガン・チェースが買収するところで、もはや業界内部で問題を吸収しようとする対応は限界だということが素人目にも分かるようになった。金融安定化法案は残された唯一の有力な政策手段となった*。   

  ブッシュ政権もここまで来ると公的資金注入以外に、救済手段はないことも認識したのだろう。しかし、それが思わぬ形で頓挫した今、もはや残された力をふるって、予定した路線への
復元努力を期待するしかない。世界が大きな危機から脱却する道は、当面他にはないのだから。   

  恐慌期には政治的空白は禁物だ。無為に過ごす空白期間が長引くほど、不安がさらに新たな不安を増幅する。「大恐慌」の研究を経済学者としての出発点としたバーナンキFRB議長にとっては、まさか自分が当事者となるとは考えもしなかったろう。1930年代の大恐慌と今回の恐慌前夜との異同は、十分認識しているはずだ。    

  経済活動には、自然現象と異なり、当事者自身がプレーヤーとなって先を読み動くという特徴がある。財政・金融当事者もすべての可能性を読みきれない。サブプライム問題も、ここまで現実が複雑化し、泥沼状態になっているとは、金融・保険の当事者でさえ読みきれなかった。ましてや個人の家計は、自らに責任のない暴風雨にさらされようとしている。かつて公的資金の投入で生き返った日本の金融機関が、この好機?を逃すまいと活動しているのも、国民の側からみると複雑な思いだ。政府は、景気後退の衝撃を極力防ぐとともに、山積する課題へしっかりとした路線を示してほしい。政争に明け暮れ、日本のあるべき方向と政策を示しえず、朝令暮改の日々を国民に押し付けるのはお断りだ。   

  図らずも大恐慌の中に生きた人々のイメージが浮かんでくる。恐慌は過去の映像だけの記憶であってほしい。


* この記事の後、10月3日アメリカ議会下院は上院に続き、修正した金融救済法案を賛成263、反対171で可決した。

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