時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロボットから山椒魚へ:ひとつの黙示録 

2024年08月08日 | 特別トピックス


 “To understand the perils of AI, look to a Czech novel—from 1936”, The Economist, July 25th, 2024. イラストの部分

8月5日の東京株式市場で日経平均株価が4450円を超える下げ幅となった時、「突然床が抜けたような衝撃」と答えたアマチュア投資家がいたように、億万長者を夢見ていたナイーヴな一般投資家を震えあがらせたようだ。1987年10月20日、世界史上に記録をとどめる「ブラックマンデー」翌日の記録を上回る過去最大の下げ幅であった。下落率でも当時につぐ過去2番目の下げ幅だ。翌日6日以降はかなり戻したが、下げ幅には及ばない。円相場も激しく上下動している。

利殖の手段としての株式投資にはほとんど関心がないブログ筆者だが、経済現象としての株式の動きには相応の関心を抱いていた。以前にも記したが、経済学を志してから師事した恩師の多くが、1929年の大恐慌の経験者であり、それからの脱却、再建を目指したニューディラーが多かったことも背景にある。

日銀副総裁が急きょ、「金融市場が不安定な状況で、利上げをすることはない」と明言したことで、当面の不安は和らいだようだが、投資家の行動に一抹の不安感が芽生えたことは事実だろう。

AIはどこまで見通せるのか
ここで思い浮かぶのは、コロナ禍の間に急速に進行したAI(人工技能)、とりわけAI-Chatと呼ばれる分野の進展の早さだ。筆者もほんの一部を試みてみたが、想像を超えた能力に驚かされた。AIは今回の株価・為替の激変を予測できなかったのか。結果からすれば、未だそこまで見通せるまでには行っていないようだ。

しかし、シンギュラリティー (singularity)*が人間の能力を超える、少なくも一部の領域において人間の知性を超えることによる危機については、多くの警告が発せられてきた。

シンギュラリティー(singularit 技術的特異点)とは、自律的な人工知能が自己フィードバックによる改良を繰り返すことによって、人間を上回る知性が誕生するという仮説。人工知能研究の世界的権威であるレイ・カーツワイル氏が2045年にシンギュラリティー に到達すると予測していることから、2045年問題とも呼ばれている。

ロボットから山椒魚戦争へ
最近の英誌 The Economistは、ユニークな論評において、AIの危険を理解するには1936年のチェコの小説に手がかりを求めることが有益と記している。このことから、カレル・チャペック Karel Capekの文明風刺の小説ともいえる『R.U.R』のロボットが人類の能力を超えるというストーリーを思い浮かべる方もおられるかもしれない。

 “To understand the perils of AI, look to a Czech novel—from 1936”, The Economist, July 25th, 2024.

しかし、今回は1936年、チェコスロヴァキアで刊行されたチャペックの『山椒魚戦争』という文明風刺的な小説である。しかし、内容は『R.U.R』のロボットを超えてさらに先に行く。


========
N.B.
『R.U.R.』は、人間の労働の助けとなるよう開発された人造人間によって、人類が滅ぼされるというテーマの寓話であった。主題の含意は、科学や技術の発展が本当に人類に幸せをもたらすのか、かえって不幸になるのではないかという疑問の呈示であった。民族主義や全体主義への警戒感が重なっていた。
『山椒魚戦争』War with the Newts は3部から成り、第一部は山椒魚の登場、第二部は発展、第三部は人類との戦争を描いている。終章に近く、チャペックは「いずれ山椒魚たちは内戦によって滅亡し、人類は急死に一生を得るだろう」と書かれている。山椒魚の未来も明るくない。彼らが滅びた後の先は、分からないと記されている。チャペックのアドルフ・ヒトラーへの敵視は明らかだが、その点は、本書に登場する山椒魚総統 Chief Salamander の暗喩から感じられる。
========



邦訳はいくつかあるが、その一つから。

最初に読んだ時はマイクロ・エレクトロニクス革命といわれた1980年代であった。当時は奇想天外な発想に驚かされたが、今は時代を見通す想像の力にひたすら敬服する。改めて読み進めると、その洞察に肌寒い思いすらする。

マイクロエレクトロニクス 革命は、一般的には「ME革命」とも言われていますが、半導体電子素子に制御ソフトウェアを組み合わせ、各種機器に応用されることにより小型、軽量化、知能化が大幅に進んだことを指す。

この文明風刺的でもある寓話で、チャペックはロボットによるディストピア的な未来を想像したことを更に進める。オランダ船の船長がインドネシアの未知な島で、ある種の海洋生物に出会う。2本足で立ち、人の話をおうむのように繰り返す背丈は、子供ほどの生物が、船員の行動に反応し、石を投げ返してくる。

「山椒魚戦争」War with the  Newts は、20世紀の人類の傲慢さと貪欲を描いた作品として称賛されている。いつかそうなるかもしれない21世紀の機械への理解で記憶に残る。

チャペックによると、山椒魚を登場させた理由は、ヒト以外の生物が文明を築く可能性を取り上げる意図があったからといわれる。

現時点の私たちが、カラヴァッジョ風にポーカーをする犬の画像を生成するAI能力に面白がっていたと同じように、私たちの架空の祖先は、これらの学習力の早い新しい形の知能がどのような貴重な成果を生むかをアイロニカルに提示して見せる。

時代への警鐘
ロボットがロボットを作り、自動運転など人類の地力を上回る可能性を見せている今日、新しい技術 AIの今後への危機感は急速に高まっている。アメリカが現在AIへの投資の多くを行っている一方で、その規制を主導しているのは欧州連合だ。八月に発効するかもしれないテクノロジーに対する最も厳しい規制を提示している。公共の場で顔を認識する中国式の「ソーシャル・スコアリング」システムは禁止される。

social scoring sysytem 社会信用システム(社会信用体系)とは、[中国政府]によって開発されている国家的な信用格付けおよびブラックリストである。社会信用イニシアチブは、企業、個人、政府機関の信頼性を追跡し評価できるように、記録システムを確立することを求めている。社会信用システムには複数の形態が実験的に導入されており、国家規制の方法はホワイトリスト(中国ではレッドリストと呼ばれる)とブラックリストに基づいている。

〜〜〜〜〜〜〜

新たな時代の黙示録
 The Economist誌の筆者は、将来の歴史家が人類に関する完璧な年代記・年報を書き記すとしたら、恐らく2巻の構成となるだろうという。

第1巻は人類がこの地球上に出現し、活動し、最高の知性を保ってきた数十万年の高度な人類の活動、例えば、進化した猿が石器に出会い、文字を描く、パンを切って食べる、核兵器、宇宙飛行、インターネット、そして、これらを誤って使用するさまざまな方法などがカバーされ記されるだろう。人間が自ら作った人造人間によって究極的には滅ぼされるという物語だ。科学や技術の発展は人類に幸せをもたらすのか。

第2巻には、人類が彼ら自身よりも高度な知能・知性の形態にいかに対応してきたかが記されるだろう。そして使いこなせず、出し抜かれ、どうなったか。そして今、そのスリリングな最初のページが記されようとしているのかもしれないという。山椒魚と人類の戦いはいかなる結末を迎えるか。

The Economist誌 の短い論稿の冒頭に掲げられたコミカルな挿絵(上掲図)もよく見ると、骸骨と化した人類の姿を眺める山椒魚総統(chief salamander)を暗示しているようだ。随所に人類社会への厳しく、時に冷酷なアイロニーを提示しながら、本書は多くの含意を提示して終わる。背筋が冷たくなるような部分もあって、暑さしのぎには好適な読み物である。



REFERENCE
CHARLEMAGNE Apocalypse Neut   The Economist July 25th, p.45





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅きに失した最低賃金制度改革

2024年03月03日 | 特別トピックス




地方議会で現在は都道府県別にばらつき、差異のある最低賃金制度を改正し「全国一律」化を求める動きが広がっていると新聞記事が報じている。2023年には、80議会が「全国一律を求める」意見書を採択したとのことだ。

「最低賃金、一律に」広がる〜地方議会で意見書 人口流出に危機感」朝日新聞 朝刊、2024年3月3日

都市との賃金格差が、地方からの労働力流出、人手不足を生むとの危機感が広がり、こうした動きを生んでいるようだ。地域の活性化、再生を推進すべき時代に、現行制度はそれを逆行させる制度になっている。

30年以上前から、今回指摘されているような現行制度の欠陥、是正を指摘してきた筆者からすれば、今さらという感が強いのだが、早急に制度改革を行うべきだと改めて思う。現行制度では、中央最低賃金審議会が目安を定め、それを地方に下ろし、都道府県レヴェルの地方最低賃金審議会がそれぞれの地域に即した?最低賃金を決定、公示するという方式を採用してきた。

この問題について、筆者は納得しうる説明を主管官庁の厚生労働省からも聞いたことがなかった。現行制度への疑問点は数々ある:

1)世界でもこうした地域別の決定をしている国は少なく、G 7ではカナダと日本だけとされている。カナダの如き広大な面積を擁し、労働力移動も容易ではない国ならばともかく、アメリカ・カリフォルニア州ほどの面積に全国土が収まるくらいの日本で、どうして都道府県別にまで細分化して最低賃金額を定める必要、合理性があるのだろうか。労働力引き止めのために、都市に遜色ない賃金を支払っているとの地方企業もある。

東京圏を例にとれば、東京都と神奈川県、埼玉県などの隣接圏の間に僅かな格差を設定する意味がどれだけあるのだろうか。世界的にも類を見ないほど、交通網が発達している日本で、多くの人々が隣接圏から東京へ通勤している。県境を労働市場の境界の代理指標とする意味はほとんどなくなっている。

2)かなり以前から、各種の実態調査に携わった経験から、地方の経営者に最低賃金額を聞いたところ、正しい額を答えた経営者がきわめて少なかったという実態も存在した。現実に支払われる賃金額は地域別の最低賃金額よりも高い場合が多々あった。都道府県別に1円単位で最低賃金額を定める合理的根拠は薄弱で、納得できる説明を聞いたことがない。実態は賃金額が示すイメージとは異なる場合もしばしばなのだ。

3)最低賃金の全国一律化は、中小企業への影響が大きく、倒産が増える恐れがあるとの意見もあるかもしれないが、倒産を招く要因は人口の首都圏など都市への流出に起因する人手不足、結果としての地域の消費減など経済活動の低迷、地域の持つ魅力の喪失、不活性化など、最低賃金額以外の要因の方が遥かに大きい。

4) 厚生労働省の審議会で、毎年提示される最低賃金引き上げ額の目安決定では、「働く人の生計費」、「一般的な賃金水準」、「企業の支払い能力」などが考慮されるが、生計費の都市・地方間格差が大差なくなっていることなども指摘されている。

改めるに憚ることなかれ
地域別の最低賃金審議を廃止すると、衝撃が大きいとの反応に、筆者は移行・緩和措置として道州制レベルの地域圏まで、審議会の数を減らして広域運営するなどの提案をしてみたこともあった。

「急激な変化はゆがみを生む」(厚労省幹部談、上掲朝日新聞記事)と制度の改正、導入に慎重な考えもあるようだが、事実は逆で制度の欠陥がゆがみを生み出している。同様な問題は、技能実習制度の改革などについても筆者は数多く経験している。自分の任期中は、制度改革の提案につながることは報告書などに書かないでほしいと言った当該部門の幹部に、唖然としたこともあった。

現行制度は1958年に制定されており、形骸化が目立つ代表例のひとつになっている。ひとたび出来上がってしまった制度は、時間が経過するほどに桎梏と化する危険に思いをいたすべきなのだ。


References 本ブログの関連記事





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頭が重い新年:未来に希望を託して

2024年01月17日 | 特別トピックス
©︎R.Lansbury 2024


どうしてここにペンギンが?
 
昨年、晩秋のある日、オーストラリア人の友人R.L夫妻が来日した。半世紀近く続く友人で、夫はシドニー大学教授を引退して、今は世界各地を講演やサイクリングをしたりで過ごしている。70歳代後半に入るが、とにかくその活動ぶりには驚かされてきた。

今回の来日の旅は、なんと能登半島を一周し、日本アルプスを巡り、白川郷にも宿泊するという旅程だった。日本のサイクリング・クラブの一行に入り、共に旅をするという。これまで、阿蘇や北海道一周などを、同じ形式で旅し、日本人の寛容さなどに魅力を感じたのが今も続いている理由だとのこと。当ブログ筆者とは若い頃、日光の山々などを共に歩き、鄙びた温泉などを巡ったことなどがあるが、今の筆者には残念ながらバイクでも旅をする体力はない。ただ、旅行ガイド?として、日程や見どころの相談に乗っただけであった。

彼らは無事、北陸の旅を終わり、シドニーに戻った。能登ではほとんど自転車 bike  cyclingで旅していたが、電動バイクは日本の九州での旅で初めて経験し、その便利さに魅せられ、能登でも電動バイクにしたとのことだった。他国ではなかなか電動バイクのサイクリングはできないらしい。

彼らにとって強烈な驚きだったのは、元日の能登大震災発生のニュースだった。筆者が新年の祝賀と併せ、能登の震災を知らせたところ、彼らもすでに知っていて、大きな衝撃だったようだ。無理もないことだ。


南船北馬の旅

さらに、代わって筆者が驚かされたのは、彼らは日本から帰国後、昨年末から南極へ旅をし、なんと、新年元日にシドニーへ戻ったところで、能登大震災を知った。能登に続き、南極へ行っていたのだ。北の日本では馬ならぬ電動バイク、南の南極へは船で旅をしていた。旅好きなことは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。

南船北馬
淮南子・斉俗訓
各地を忙しく駆け回ること。源:その人や所に応じて、それぞれに相応しい手段や方法があるということ。胡人便於馬、越人便於舟

それによると、かねて希望していた南極半島への10日間の旅(NB)で、崩れ落ちる大氷山に加え、ペンギン、鯨、鳥など多くのものを目の当たりにして、その壮大さは実に衝撃的であったと記してあった。さらに、ウクライナ、ガザなど地球各地が戦火に見舞われる今の時代、南極協定 the Antarctic Treatyで多数の国が科学的調査以外の行動を制限することをほぼ遵守しているということに深く感銘したと記されてあった。


©︎R.Lansbury 2024
南極探検船 Polar Pioneer

未来に希望を託して

平然と人間が相手を殺戮しあう今日。人間が戦争を根絶できないのは、何によるものだろうか。新年はまた重い課題を伴って始まった。

R.L夫妻は来年も日本でバイク・サイクリングの旅をすることを決め、来日すると知らせてきた。

N.B.
ここに記された南極探検は、友人RLによると、2023年12月21日から2024年1月1日まで10日間の計画で実施された。ローカルな新聞記事の発案に始まり、冒険心を維持するために小規模な船舶 Polar Pioneer に50人程度の’市民科学者’を志す人たちを収容し、航行するとのこと。乗組員には南極の歴史、その他の関連テーマのレクチュアが行われ、さらに氷上歩行、カヤック、スキーなどの指導、実施も実施された。航海はシドニーを出発し、アルゼンチンの都市ウシュアイア Ushuaiaを経由し、南極へ向かった。詳細な航行メモ、南極半島での調査記録などを送付してくれたが、今回記事の目的ではないのでこれだけにとどめる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謹賀新年 

2024年01月01日 | 特別トピックス


新年おめでとうございます。

2024年元旦




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
年頭雑感

見よう見まねでブログなるものを開設してから、まもなく20年近くになる。
世界史上、初めて「危機の世紀」として認識された17世紀ヨーロッパに生きた画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関する心覚えを記し始めてから、今日まで「危機の時代」と「美術」という一見するとほとんど関連のない概念を柱として頭の片隅に意識しつつ、心に浮かぶ多様なトピックスをメモとして、記してきた。

筆者と面識のない読者の方々には、何のことか分かり難い「変なブログ」と受け取られたことは疑いない。しかし、加齢と共に記憶力が低下してきた筆者には、脈絡もなく浮かんでくる記憶の断片を記しておくことは意外な効用があった。これまでお付き合いいただいた皆様には厚く御礼申し上げたい。

最近、気になる言葉は、「文化戦争」Culture Wars という概念だ。国家や民族間の紛争ではなく、個人や集団が自らとは異なる考え、思想を持つ相手と対決する状況を意味するようだ。この概念がいつ頃生まれ、確立されたかについては議論もあるようだが、最近ではアメリカの政治、社会の分裂、分断などを語る次元ばかりでなく、イスラエル、ハマス、パレスティナをめぐるガザ戦争*にまで援用されている。この問題にはいずれ触れることになるだろう。

“The culture war over the Gaza War” The Economist, 0ctober 30, 2023

戦争のない良い年が訪れることを願いつつ。


このたびの日本海沿岸の震災で被災された皆様に、心からお見舞い申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰が作品の「美」を定めるのか:(7)

2023年07月31日 | 特別トピックス

ネフェルティティ胸像
18王朝(アルマナ期 1340年頃)
ベルリン 新博物館 (旧エジプト美術館当時Photo)


普段は見ることもない番組なのだが、ニュース番組に続いて、スイッチを切らないでいた折、偶然にも美術に関わるテーマを扱っていることに気づいた。

2023年7月21日 NHK番組「チコちゃんに叱られる」

「美」の理想を求めて
なぜ西洋美術の絵画、彫刻は裸体が多いのかという議論が行われていた。これについて、コメントをした宮下 規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)は、イタリア・ルネサンス期から遡ってみて、理想とされたギリシャ・ローマ時代には、人間は衣服を着けない裸の状態が最も美しいとされたからだと答えていた。ちなみに裸はヌード (nude, 美術作品の裸体)と同じではない。ヌードとは古代ギリシアから始まりヨーロッパに発達した裸体の造形表現である。

17世紀までに美のヒエラルキーを形づくり、独占したイタリア美術が探し求めた「理想の美」の原点は、ギリシャ・ローマであったことは以前にも記した。ギリシャ人が追い求めた「理想の身体」は,イタリア・ルネサンスの芸術家が学ぶべき最大のテーマとなった。そして「理想の身体」は,古代とルネサンスを強く結びつけた。よく知られる《ダヴィデ=アポロ》から感じ取れるのは,古代の身体の理想像と,それを基礎としつつミケランジェロが自ら創造した彼独自の理想の身体であった。


ミケランジェロ・ブオナローティ
ダビデ像(上半身)1501-1504年
イタリア・フィレンツエ
アカデミア美術館


それでは、なぜギリシャ・ローマではなく、エジプト美術、あるいは東洋美術などの非ヨーロッパ美術などが、理想の美を求めての探求の過程で考慮の対象にならなかったのか。なったとしても排除されたのか、あるいは無視されてきたのか。しかし、それについて十分納得できる論証はない

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
イタリア・ルネサンス期においても、kunstkammer, wunderkammer あるいはart-cabinetなどの名称で、エジプト、アフリカ、中東などの珍しい石、宝石、骨董品、ガラス、石などの美術的加工品、鳥などの剥製、新大陸からの珍しい産物などが保管、展示されていた。しかし、これらの文物といえども、主として好奇の目から収集、展示された場合がほとんどだった(Wood, p p .130-31,)。本ブログでも取り上げたペイレスク*のコレクションなどは、その好例といえる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これまで取り上げてきたWood (2022)も、その点に論及してはいるが、西洋美術がエジプト美術と交流、競い合うことはなく、独自に発展したきたと述べるにとどまる。彼の著作の記述は年代では800年頃から始まっている。そして西洋美術史はほとんどの場合、16世紀頃までは概して退屈だ。

イタリア・ルネサンス・ヒエラルキーの形成
イタリア・ルネサンスの誕生と形成に伴って、ヨーロッパにはギリシャ・ローマ美術を理想とする一大美術ヒエラルキーが形成された。17世紀には美術家、彫刻家などを目指す若者たちが競ってローマ詣でを志した。「全ての道はローマに通じた」時代である。17世紀ロレーヌなどの画家志望者が挙ってイタリアを目指したことは、ブログでも再三論及した。イタリアでの美術修業は、当時のヨーロッパにおける大きな流れだった。

その後、ヨーロッパ美術の拠点は、オーストリア、フランドル、パリなどへと分散を始める。それと共に、イタリア・ルネサンス・ヒエラルキーの衰退、崩壊が進んだ。

価値の多様化
今日、世に出回っている美術史の本は、概して西洋美術史、東洋美術史あるいは日本美術史などに区分されている。西洋と東洋では美の基準が違うのだろうか。Woodはこの点を意識してか、西洋と東洋その他世界の間にあえて区分を設定してはいないが、議論の対象は圧倒的に西洋美術と言われる領域に限られている。今日では多くの事象がグローバルに展開する時代になっているが、名実共にその名にふさわしい「グローバル美術史」に筆者は未だ出会ったことがない。

今日では美術活動の拠点は、イタリアにとどまらず、世界各地に拡散した。Woodの「相対主義」がもたらしたひとつの帰結は、自分の文化が形作った尺度を、別の文化の芸術にそのまま適用できないことを意味している。さらに言えば、多様化した対象を正当に理解するために、そこに生まれた多くの異なる概念についての認識が求められる。美術史は関心が拡散して求心力を失ったかのようだ。

コンテンポラリーの確認
ある美術作品が正しく理解されるためには、その作品が生み出された時代と場所において文脈化されねばならない。図らずも、この点はブログ筆者が目指してきた立場に近い。鑑賞者が対面する作品の範囲(額縁に拘束された次元)から思考を切り離し、それが生み出された時代空間へと広がるコンテンポラリー(同時代)の視座が必要といえる。作品が制作された時代が第一義的に重要だが、鑑賞者が立つ時代、現代あるいは今日(これもコンテンポラリー)は、第二義的な位置づけとなる。その関係をいかに理解するか。

しかし、美術史家にとって、この作業は新たな理論構築を求めることになる。しかし、今日、それが実現しているとは思えない。美術史は袋小路に入り込んでしまったようだ。1970年代以降、美術史の世界は一種の文化的健忘症となり、過去への関心が薄れ、かつてのような熱意が喪失している。

先の見えない現代:「現代への執着」と「過去の放棄」
Woodは、『美術史の歴史』の論述を20世紀前半(1960年頃)で終えている。さらに先に進める意欲が感じられない。ある種の文化的悲観主義に陥っているかのようだ。なぜ、20世紀前半で終わるのか。

 Woodによれば、今日の芸術は形式よりも、効果的なスピーチとアクションの可能性の条件、発声とパフォーマンスの間の緊張、イメージの美徳に関わる作品などが主流を占めてきているという(Wood, p380)。美術品という形態、様式も大きく変化しつつある。例えば、アーティスト、バンクシー(Banksy)の作品などは、発見、確認されれば、抹消される前に写真などのイメージが保存される場合もあるが、存在すら不明なままに消え失せるものも多い。

さらに、異なった文化の美術史には必要な場合にのみ、つまり言語の制約などがあり、主要な議論に貢献する場合のみ言及されるようになっている。例えば、ジャポニズムはそれが受け入れ側からその意義、影響を認識された時に限って美術史上のトピックスとなる。

美術品と見做される対象は、その数と多様化が急激に進んだ。商業化もそれに拍車をかけ、現代ではどこまでが美術的考察の対象となるか、ほとんど判然としない。

美術史は終焉に向かうか
美術史は歴史的構築物であったことへの再検討もなされているようだ。これらの試みが、美術を対象とする歴史学の修正につながるだろうか。最近のイエール大学のように、美術の入門コースのカリキュラムを改定、よりグローバルで多文化包括的な方向へと転換しようとする動きもある。しかし、伝統的なヨーロッパ中心の美術史家側の反発も強いようだ。

美術史とは歴史的な構築物であり、その再検討は文化的相対主義ができることを超え、歴史学の修正につながる可能性が大きい。相対性を律する規範は見出されそうにはない。美術史といえども、その規範は固定されたものではなく、流動すべきと考えられるが、現状では美術史自体が、かつてのような目標を失い、終焉に向かっているかに思われる。果たして、美術史の世界は新たな活力を取り戻すのだろうか。


Peter N. Miller. PEIRESC'S EUROPE: Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Heaven: Yale University Press, 2000.

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

​ 誰が作品の「美」を定めるのか(6): 相対主義の行方

2023年07月18日 | 特別トピックス


★花の「美」の判定基準はどこに?  
栽培 Photo: YK



”教養本”の氾濫
しばらく前から少し大きな書店の棚を見ていると、美術関係のタイトルが明らかに増えていることに気づいた。しかし、そのかなりの部分はいわば”教養本”とでもいうべきもので、これ一冊読めば美術史が分かるようになるとか、美術を通して歴史が分かるなど、大きなキャッチフレーズを掲げている。いつの頃からか、漫画、アニメなどの媒体も増えた。これらの本の多くは、歴史軸に沿って、有名と思われる画家、作品を並べただけで、これで美術史だろうかと思うものもある。何冊読んでも雑知識は増えても、美術史が分かったことにはなりそうにない。さらに言えば、美術史の側も理論自体が不在ないしは混迷しているので、こうした事態が生まれてくるという事情もある。

美術史に限ったことではないが、長年、筆者は大学などのカリキュラムの編成やその内容を検討することに多くの時間を費やしてきたが、事態の改善は簡単ではないことを、いやというほど気づかされてきた。専門化の悪い面が各所に出て、自分が専門と決めた対象以外、関心がない、分からないなどの人為的な視野狭窄の弊害が目立つようになった。筆者が多くの時間を費やしてきたのは経済学の領域だが、美術を含む文化史などの領域などもかなりの関心を持って注目をしてきた。

第2回に続き、今回も取り上げたクリストファー・ウッドの『美術史の歴史』も美術史はどうあるべきかという点を少し掘り下げて考えてみたいと思い取り上げた一冊である。何人かの知人の美術史家に話をしてみたが、残念ながら読んでいる人は少なかった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

Christopher S. Wood, A HISTORY OF ART HISTORY, Princeton University Press, 2020, pp.461

本書は、美術史の様々な側面を改革しようとの意欲に満ちている。その背景にある歴史学、特にイタリア、ドイツについての著者Woodの博識には圧倒される。アメリカ、イギリスなどの主要大学院で基本文献に指定しているところも多いことも分かった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

かなり苦労して取り組んだ結果、本書は近年の美術理論書の中では出色の作品であると感じるようになった。大変重厚かつこれまでの美術史関連文献には見られない広い視野を背景とする力作であり、しかも既存の美術史観にとってかなり挑戦的な内容である。表題とは異なり、純然たる美術史の本ではないことに気づいた。対象はほとんど西洋美術に限られているが、問題の所在は良く分かる。そこで、今回はこの著作を手がかりに、考えたことを少し記してみたい。本書の論点はきわめて多岐に渡るが、ここでは骨格と思われる部分だけに限定する。


美術史の起源については、古くは800年(プリニウス)からヴァザーリ(16世紀イタリア)、ヴィンケルマン(18世紀ドイツ)など諸説あるようだが、一般的には19世紀にようやくアカデミックな分野として浮上したとみられる。長らく、芸術家、批評家、コレクターなどの間で議論され、分類法、評価、芸術の解釈などの諸側面が適切に位置づけられ、文脈化され、蓄積されることで、美術史として成立の過程を辿ったのだろう。

「南」の独占が揺らぐ時
これまで記したように、17世紀末までは、イタリア以外の地域での美術論の書き手はヴァザーリのローカル版に過ぎなかった。「南」(主にイタリア)は、断然、他の地域を圧して独占的ともいえる地位を占めてきた。しかし、その優位も揺らぐ時が来る。


ストラスブール大聖堂 Photo yk

1772年、ゲーテ(Johnn Wolfgang von Goethe)は23歳の時、法律を学ぶため滞在していたストラスブールで、同地の大聖堂を訪れた。壮大なゴシック建築を前に大変感動したゲーテは、大聖堂の主な建築家と思われるエルヴィン・フォン・シュタインバッハに宛てた賛辞として、エッセイを残した。


Goethe: pastel by Gerhard von Kugelgen, 1810
Goethe-Museum Dusseldorf

美術はユニヴァーサルではないか
Woodによれば、このゲーテが残した言葉は「中世が残した成果に全幅の賞賛を与える最初の表現」ともいうべきものだった。ゴシックの長年にわたる累積にゲーテは「強く粗野なドイツの魂」を感じた。後年、彼は美術は決して万人に通じるユニヴァーサルなものではないと結論する。大聖堂のように数百年をかけて建造されてきた作品については、建築家や職工たちの努力の成果が雑然と集積し、どこまでががオリジナルでどこが派生か、誰の作品か、区分できない(Wood pp.167-175)。建築物としては長い年月をかけているだけに大部分はロマネスク建築だが、通常ゴシック建築の代表作とされている。ゲーテは、その累積された結果に感動したのだろう。

もしそうだとすれば、美術についても古典的な形式を通して、「北」(アルプス以北)は、「南」(アルプス以南、イタリア・ローマ)を絶対視してそれに等しくあるいは追いつこうとするべきではない。

出来上がった階層構造とその崩壊
「南」を優位とする美術史のヒエラルキーが次第に崩れた反面では、美術作品とその対象の多様化が進行した。さらには、美術活動の展開に伴い、各分野で明瞭な専門範囲の形成が見られるようになった。

美術史の対象は、芸術分野として一般に認められる作品だけに関心が集中してきた。さらに宗教活動において、コミュニケーション手段としての芸術の使用が顕著に目立つようになる。

「相対主義」観の台頭
Woodが自著の主要テーマと呼ぶものは「相対主義」というべきものであり、現代美術史の基礎とすべき考えだという。相対主義とは時間と空間の双方の意味で作品が理解されねばならない。そして、各時代の各文化にはその時代の芸術を評価するための独自の慣例がある。

歴史の経過とともに、知識の視野が広がったことで、それぞれの社会が適切な基準について独自の考えを持っていることが明らかとなった。言い換えると、自分の文化の尺度を別の文化の芸術に適用することはできない。ひとつの作品の背景には、その時代の社会が培った文化が分かち難く存在している。この過程では「南」のキリスト教、なかでもカトリシズムの靭帯も緩み、切り離される変化も進行した。

相対主義は、別の表現をすれば芸術についての概念のひとつだけでなく、多くの異なる概念を認識することが、現代の美術史の基礎になるといえるのだろう。

さらに、一度は出来上がったかに見えた「南」、象徴的にはローマの美術的優位の階層的体系が揺らぎ、崩れる方向を辿った原因は、美術家にとって重要で意味あるものだが、さらに美的対象として目に映る作品のタイプや対象も劇的に増加した。その結果として、「美」とは何かという根源的問題について、統一的判定基準はなくなった。「相対主義」は現代の美術史論の重要な基盤となった。それを反映するかのように、全体の展望は成り行き任せで、自ら特化した領域だけに視野を限定した見方が増えてきたかにみえる。

しかし、「相対主義」を律するものは何であるのか、疑問は依然として残っている。


続く


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰が作品の「美」を定めるのか(5):ホガース展雑感

2023年07月02日 | 特別トピックス

ウイリアム・ホガース展を観て

旧聞になるが、「ウイリアム・ホガースの展覧会」が開催されていることを知って、炎天下の6月17日、急遽出かけてきた。運よく展覧会の記念講演が行われる日であった。展示と講演の双方に参加でき、失われかけていた記憶をかなり取り戻し、大変有意義な1日となった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
特別展「近代ロンドンの繁栄と混沌(カオス)」
東京大学経済学図書館蔵ウィリアム・ホガース版画(大河内コレクション)のすべて(全71点)
2023年5月13日(土)~6月25日(日)
 東京大学駒場博物館




この特別展について知ったのは、[東京でカラヴァッジョ 日記]を主催されているk-carravaggioさんの記事を通してであった。情報過多の時代とはいえ、この記事なしには見過ごしてしまうこと必至だった。改めて感謝申し上げたい。

なお、ホガース Hogath の日本語表記については、ホーガースが原音に近いとの説もあるが、ここでは日本で一般に流布しているホガースを採用している。ちなみに、夏目漱石はホーガースと記載したようだ(近藤 2014, p.348)。

近藤和彦『民のモラル:ホーガースと18世紀イギリス』ちくま学芸文庫、(1993)、2014年
ホガースの研究は今日では質量共にかなり膨大な域に達し、本書末尾には詳細な史料・文献解題が収録されている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ほとんど半世紀近くを遡るが、今回の寄贈コレクションの持ち主であった大河内一男先生を囲んで社会政策・労働問題に関する小さな研究会が開催されていた(旧日本労働協会主催、於国際文化会館、事務局筆者)。ある日の研究会で、大河内一男先生から長年にわたるホガースのコレクションとその意義についてお話を伺う機会があった。およそ十点くらいの作品を見せていただいた記憶が残っている。(コレクション寄贈者のひとりであるご長男の大河内暁男先生とも、ロンドンで不思議な出会いがあったのだが、ここでは省略する)。

ウイリアム・ホガース(William Hogarth; 1697-1764)については、それまでに筆者は油彩画を含めていくつかの作品を観たことはあったが、あまり体系的に探索したことはなかった。大河内先生は、18世紀当時のイギリスにおける労働事情、とりわけ貧困発生の実態を中心にお話しされたと思うが、その詳細は記憶にない。ただ、夏目漱石がこの稀有な画家を大変高く評価、賞賛していたこと、また19世紀フランスの風刺画家オノレ・ドーミエ(Honoré Victorin Daumier)についても言及されたことが記憶の片隅に残っていた。



Honoré Daumier, Battle of schools
1855  ·  lithograph  ·  Picture ID: 112826
Private collection
 
ドーミエ《理想主義と現実主義》
絵筆とパレットを剣と盾に見立て、互いに争う画家の有様を揶揄している。
フランス的な遊び心が感じられますね。ふたりの思想の違いはどこに?


このたびの展示で久しぶりに見たホガースの銅版画については、それまで見慣れていたイタリア、フランスなどの油彩画の影響もあってか、以前から美術作品というよりは「時代を映し出す鏡」のような役割を持った作品という印象が強く残っていた。

最近、筆者は「美」とは何か、誰がそれを定めるのかというテーマをしばらく考えていたので、改めてホガースの作品を観ながら、この稀有な画家は美術史上いかなる位置づけがなされるのか、しばらく考えてしまった。

ホガースの作品《べガーズ・オペラ》The Beggar’s Operaには、「鏡の中のように」を意味するラテン語 Veluti in Speculum が記されたリボンが書き込まれているという(未確認)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

カリカチュリストの流れに
今日では、ホガースは広く「風俗画家」のカテゴリーに入り、その中でも「カリカチュリスト」caricaturistといわれる画家たちの流れに位置づけられているようだ。イギリスでは他国とは異なる
風刺の伝統を感じることもあった。

閑話休題。大河内先生のご関心は、第一義的に、18世紀のイギリス、商業資本主義の時代、ほとんどさしたる規制や規律もなく、急速に拡大していた資本主義的活動が生んだ社会的貧富の格差などが大都市ロンドンを舞台に、いかに展開していたかを銅版画という手段で、時に嘲笑を含めて、生き生きと描いてみせた画家の力量にあったようだ。その位置付けについては、社会的な風俗的主題の中に痛烈な風刺精神を組み込み、独自の道徳的な風俗画様式を駆使して、イギリス美術界の基盤を確立した画家と理解されていたようだ。

ホガースの作品は、しばしば辛辣な風刺、嘲笑的で直裁な表現を含み、今日でも直視していると、色々なことが思い浮かび、時に耐え難くなるようなこともある。さらに、イギリス史、とりわけ当時の社会事情にかなり通じていないと、個々の作品の意味を理解するのにもかなり困難を感じる画題も多い。

加えて、本ブログでも考察の対象としてきたロレーヌの銅版画家ジャック・カロ Jacques Callot (1592-1635)のように、30年戦争における傭兵の略奪、殺傷などを描いた銅版画、あるいはイタリア修業の影響がみられる
ファンタジックな作品などと比較すると、ホガースの表現はかなり辛辣で厳しい印象を受ける作品も多い。問題への迫り方は、イギリス的とも言える独特のシニカルな直裁さが感じられる。

========
波乱万丈の画家の生涯
ホガースの作品に込められた鋭い社会批判は、時に嘲笑的でもあり、辛辣でもある。そして、画題に負けず劣らず、画家の生涯も多事多難、劇的でもあった。

展示で配布された年譜によると、ホガースは、1697年、教師の息子としてロンドンに生まれたが、両親の破産・監獄生活を経て、1713年、17歳の時に銀細工師エリス・ギャンブルの徒弟となる。この時代の銅版画家は、技能習得のための場所として、ほとんどこうした選択をしたようだ。17世紀のロレーヌの銅版画家ジャック・カロの場合も、親の反対に抗しながら、ナンシー、イタリアでの修業先を金細工師の所に求めている。徒弟の実態を含め、技能習得過程に格別の関心を抱く筆者にとっては興味深いトピックスである。


ホガースの人柄と時代環境
画家の活動の舞台は、18世紀初期イギリスの資本主義が奔放な活動を見せていた時代のロンドンであった。活発な商業活動の中で、ホガースの性格は個人主義的で、政治的にはリベラル、かなり不遜で外国人嫌い、強力な教会や裁判所の影響をあまり受けない、そしてやや粗野なところがあったといわれる。生まれ育った家庭も多額の負債に苦しみ、破産状態で、幼い頃に父親のコーヒーハウスが倒産、負債者のための監獄に収監されてもいる。そうした環境に生まれ育ったホガースは、版画家を志し、銀板細工師のところで徒弟修業を終え、1720年までには自立できるまでになっていた。この年、南海バブル事件が起き、株価の急騰、暴落、そして大混乱が発生した。今日のバブル経済の原型のような出来事だった。ホガースはこれらを嘲笑・風刺する版画集を制作、評判となり、一躍脚光を浴びることになった。さらに当時流行のイタリア好みの建築、音楽などを揶揄し、評判となったようだ。

1728年にはジョン・ゲイの人気オペラから画題をとった最初の油彩画《乞食のオペラ》Begger’s Operaを制作(版を重ね1731年版が最善と言われる)。その後も新奇なアイディアに才覚を発揮し、自分や仲間のために金稼ぎをすることも巧みだった。さらに世の中の虚栄、腐敗、裏切りなどの世俗の事件を数枚の「社会道徳」シリーズとも言える作品に制作し評判を獲得した。これらはホガースの名を高めた作品群となった。《遊女一代記》、《放蕩息子一代記》、《一日のうちの四つの時》、《当世風結婚》、《勤勉と怠惰》、《ビール街》、《ジン横丁》などが代表的な作品である。これらのシリーズのいくつかについて、ホガースは教訓的な内容を盛り込み、制作過程や用紙を簡素化した廉価版を制作している。歪んだ社会情勢を前に、若い世代などへの教育効果を期待したのかもしれない。




ウイリアム・ホガース『勤勉と怠惰』シリーズから《織機で働く二人の徒弟》
William Hogarth, The Fellow 'Prentices at their Looms
織機で同じ仕事をしている二人の徒弟。仕事ぶりの違いは歴然としている。左側に棒を持って立つのは親方。二人の働き方の違いは、果たしていかなることに・・・・・・。
Ref. Paulson, R., Hogarth 3 vols, 1991-1993.

社会政策、美術家の地位向上への試み
広く社会政策的なトピックスでは、ホガースは当時のロンドン所在の病院の役割を重視し、1736-37年には、自分の出生地の近くの聖バーソロミュー病院の階段に、無料で「バロック風」に聖書の場面を描いたりもした。さらに、仲間の画家も誘い、Foundling Hospital (遺棄された子供を養育する病院)の院内に同様な絵画を寄贈し、病院が観覧料で潤うと共に、当代のイギリス絵画の展示場となることを期待した。

これらの点から推察するに、ホガースは単に当時のロンドンの混迷し惨めな状況の記録者としての地位に留まることなく、画業を肖像画などでパトロンに全面的に依存する職業から、美的活動にふさわしい自立した職業に転化させたいと考え、泥沼状態の社会環境で苦闘していた人間でもあった。

その一端として、1735年には彼にとって第二のアカデミーである画塾をサン・マルタン街に開設し、ほぼ20年間、美術論や技法の向上に努めた。ホガースの美術に関わる理論は、『美の分析』The Analysis of Beauty (1735)に収められている。残念なことは、ロンドンに王立美術院 The Royal Academy of Arts(初代院長ジョシュア・レノルズ) が設立されたのは、画家の死後の1768年だった。


他の画家が描こうと思わないものを描く
古いことを思い起こすと話題は尽きないが、本ブログ筆者が長らく関心を寄せてきた現代イギリスの油彩画家
L・S・ラウリー( Lawrence Stephen Lowry; 1887-1976) も、ホガースほど辛辣、嘲笑的に描いているわけではないが、多くの画家が美的対象ではないとして見向きもしない工業化の諸断面を鋭利に描いている。基本的立場は、地域の生活に密着し、画家が見た現実をそのままに描くという姿勢である。興味深い点のひとつに、この画家も地域の病院の実態とその改善に多大な関心を寄せていた。描かれた舞台は時代も異なるが、ホガースのロンドンに対して、産業革命の発祥の地ともいえるマンチェスター周辺の地域である。イギリスの社会思想と美術を繋ぐ細い糸が見えてくるようだ。

今回のような突然の「脱線」は失われた記憶が戻ったり、それなりに楽しいが、「美」とは何かという問いには、ますます答えが出せなくなった。

続く
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰が作品の「美」を定めるのか(4)

2023年06月19日 | 特別トピックス


《ニオべの像》大理石、ウフィツィ美術館、フィレンツェ

美の理想はどこに
有史以前から今日まで、到底数えることのできない幾多の美術作品が世界で生み出されてきた。しかし、これらを対象に、多様な作品の持つ「美」の本質、さらには優劣を評価、判定できる一貫した理論を期待することは不可能に近いことが明らかになってきた。それでも、これまでに多数の美術史論構築のための試みがなされてきた。その多くは西洋、東洋など地域別の区分、古代、近代、現代などの歴史の展開過程の区分など、いずれも対象領域は限定的であり、その限りで規範を求めてきた。

複雑多岐にわたる美術の世界を旅するには、これまで多くのガイドの役割を果たしうる試みがなされてきた。中でも重要なのは、美術史論だろう。前回に紹介したウッドの著作もその一つであり、視野はほぼ西洋美術に限定されるが、お勧めできる秀作と考えられる。少なくも、日本に多い安易な「教養」を標榜するお手軽本とは深く一線を画する。

ウッドの『美術史の歴史』は、時間軸を現代に向かって下るが、その過程を21の章に分け、各章がそれぞれの時代区分に対応している。例えば、最初の章は800-1400年、最後の章は1950-1960年となっている。各章は、それぞれの時代に生きた美術家の多くを網羅的に取り上げるというよりは、その時代を主導したとウッドが考える1人、あるいは数人の美術家について書かれている。

本ブログでもラ・トゥールの作品探索などで取り上げてきたように、17世紀までの美術の世界はアルプスの南、イタリアのほぼ独断場であった。

「南」の世界への憧憬

1650-1700年:
イタリアでヴァザーリの『列伝』が刊行されてからほぼ1世紀が経過すると、ヨーロッパ画壇にはあるイメージの定着が見られるようになっていた。16世紀初頭の大画家、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエルの名を筆頭にアンドレア・デル・サルト、コレッジオ、ポントルモ、ブロンツィーノ、パルミジャニーノ、ティティアンなどの名が夜空の星のように燦然と輝き、後世に伝えられた。

ヴァザーリの美術作品への論究は、文字通り列伝の域にとどまり、彼自身の独創に基づく分析はない。しかし、当時の評論家などが同時代の画家たちをどう評価していたか、その雰囲気が伝わってきて、きわめて興味深い。列伝という体裁で、同時代の美術家を礼賛、評価することに最大の力点を置いた作品だが、その歴史的位置を理解して読むならば、極めて興味深い。さらに、邦訳には訳者の適切な解説が付されており、かつて英語版で読んだ時よりもはるかに読みやい。なぜ、イタリアが長らく美術の世界において、独占的地位を保持し続けたのか、美術史研究者ならずとも、必読の著作だろう。



以前に記したように、17世紀末までは、イタリア以外の地域での美術論の書き手はヴァザーリのローカル版に過ぎなかった。「南」は断然、優位な地位を占めていた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ヴァザーリの列伝に相当する業績は、実はイタリア以外にもあった。例:Karel van Mandler’s Schilder-Boeck (1604)やJoachim von Sandrart’s Teutsehe Academie (1675-1679)などを挙げることができる。フランスでは 画家、彫刻家、外交官でもあったRoger de Piles (1635 – 1709)は、地元の画家たちがイタリアの画家たちと張り合うことになることを期待し、そのための美的嗜好を開発することに努めた。具体的には、ルーベンスやレンブラントのような画家の画風を教え込んだ。しかし、それでもイタリアの優位は長らく衰えることがなかった。その後500年近くが経過したが、アルプスの分断は深く両側の美術風土に影響を残してきた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

近代美術史学の誕生まで
ヴァザーリから200年後、ドイツ人美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(1717-68)は、古典的理想に心酔し、著書History of the Art of Antiquity, 1764において、近代美術史学を初めて確立したと言われる。


ヴァザーリの列伝から数えて、ほぼ2世紀余り、初めて美術のスタイルと文化に関する体系的な著作が生み出されたといえる。ヴァザーリがそうであるように、ヴィンケルマンも美術の習得には正しい道と誤った道があり、前者は、起源の時と場所を明らかにできる古代、言い換えるとギリシャ、ローマの時代に遡り、理想化され美しい肉体の完全なモデル、彫刻を選択、再現すべきと考えていた。とりわけギリシャ美術は、完全に独創的であり、エジプトその他の美術からは全く影響を受けていないとの確信が表明されている。

ヴィンケルマンはさらに「帰属」と「国民性」という2つの重要なコンセプトを導入した。「様式」styleは帰属を定めるものであり、「美術」art は描かれた人々など対象が反映する「国民性」の表象ともいうべきものである。 そして、あえて単純化して言えば、ヴァザーリに代表された列伝という「美術家の歴史」から様式(スタイル)に重点を移した「美術作品の歴史」へと転換が図られた。現在から見ても、ヴィンケルマンの貢献は大変大きいと考えられるが、ギリシャ、ローマ以外の美術へも目を向けるべきだとの考えも当然ながら浮上してきた。その一つのきっかけは、間もなく浮上したオーストリア美術への関心の移行だった。「美」は「南」にあるとのイタリア独占観は、美術史論においても崩れを見せ始めた。


Note:
雑事にとりまぎれ、しばらく更新が滞っていたが、前回6月2日付のブログで、画家テニールスの手になるレオポルド・ヴィルヘルム大公の画廊を描いた一枚を掲載したが、本日(2023年6月19日朝刊)の『日本経済新聞』の囲み記事『名画の中の絵画十選』にも、テニールスの同じ主題による別の油彩画と紹介記事 (視覚デザイン研究所編集長早坂優子氏)が掲載されている。

続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰が作品の「美」を定めるのか(3)

2023年06月02日 | 特別トピックス


David Teniers II(1610-1699), Picture Gallery of Archduke Leopold Wilhelm (1651). Oil on canvas, 96 x 129cm. Brussels, Musees royaux de Belgique.  Wood(2019,PB版ではモノクロ)
左側上から3段目に付けられたカーテンは特に重要なラファエル《聖マルガリータと龍》を保護するためとされる。ラファエロが別格の評価を受けていることに注目。ヴィエナ ヴィエナ美術史博物館蔵
 
大きな壁面を埋め尽くした額縁付きの油彩画の数々。説明を受けるまでは、なんとも不可思議な絵画作品である。この作品はバロック期のフランドルの画家ダフィット・テニールスの手になるものである。1647年から1656年にかけて、スペイン領ネーデルラントの総督であったハプスブルク家大公レオポルド・ヴィルヘルムのために、その膨大なコレクションの一部を誇示するために、作品として制作した10点の内のひとつである。真ん中に立つ帽子を被った人物が大公と思われる。テニールスは、右側テーブルの後ろで作品を示している人物とされる。

大公は自らが取得した膨大なイタリア絵画のコレクションをベースに、宮殿内にテニールスがピナコテーク pinakokokhek と呼ぶ画廊を設置した。テニールスは10点の上掲のごとき油彩画とは別に、大公のコレクションの中から243点のイタリア絵画を選び、Theatrum Pictorumと題したアルバムを編纂した。この時点で、大公は517点のイタリア絵画と880点の北方絵画を所蔵していた(Wood p.133-134)。

この時代、作品の優劣の選定に際しては、このような環境の下で行われていたことが分かるという意味では、興味深い作品ではある。しかし、こうした作品は本来的に大公が自らの膨大なコレクションを誇示するための手段のひとつであったことはいうまでもない。

1650-1700年
前回に続き、クリストファー・ウッドの著書について少しコメントをしておこう。とはいっても、読者が本書を実際に手にとられ、目を通されることが前提なので、あくまでブログ筆者の覚書にすぎない。対象とする時代は17世紀後半である(Wood pp.127-140)。

ウッドの著書表紙には、A History of Art History『美術史の歴史』と記されているにもかかわらず、内容は美術史の歴史を標榜するのはあまり適切とはいえない。一般に想定される美術史よりもスコープはかなり狭い。通常の美術史の書物にお定まりのようにみられる多数の絵画作品の挿絵、説明などはほとんどない。ウッドは、「芸術」と「時間」や「歴史」との関係、つながりをより広く考えることで、西暦800年から20世紀後半に至る時間軸に沿って、豊かで長い物語を形成することができると述べている。しかし、ヴァザーリが登場する16世紀までの叙述はやや退屈な感もある。

ウッドは、しばしばアナクロニズムや古風なもの、あるいは過去のタイプや規範を前提とした芸術に関心を寄せている。また、民芸品、奉納品、遺物あるいは、フォークアートなど、美術史の主流から外れた作品にも関心を寄せている。時間性を揺り動かす芸術作品は、本書を通しての重要な糸となっている:「美術史は、現代生活の中で、時間についての異質な考え方が守られる数少ない場所である」。ウッドがこのようなアプローチを選択したことは、驚くにはあたらない。アートは私たちに別の種類の時間を与えてくれる。

しかし、このように芸術が内在する時間性にやや型破りな焦点を当てたにもかかわらず、ウッドの著書の内容は多くの部分が馴染み深いものである。17世紀までの時の流れの中では、ひとつは、ヴァザーリ(1511-1574)の存在が大きいことである。ヴァザーリの仕事は、多くの意味で美術史の始まりを告げるものとされる: 「ヴァザーリは芸術を世俗の歴史から解き放ち、芸術は独自の歴史を持つようになった」。

ヴァザーリは前回紹介した現代に残る著作『最も優れた画家、彫刻家、建築家の生涯』(略称:芸術家列伝)によって、芸術家と作品制作の間のフィードバックのループを確立し、以来、その関係は続いている。芸術家たちは、ヴァザーリによって書かれた歴史に自分も参加していると考え、『生涯』の年譜の中に自分のキャリアの軌跡を見出したのである。

ヴァザーリの著作の初版が刊行されてからほぼ1世紀が経過した17世紀初めの時点で、あたかも夜空の星座のごとく燦然と絵画史に残っていたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、そしてラファエルであった。さらに、アンドレア・デル・サルト、コレッジオ、ポントルモ、ブロンジーノ、パルミジャーノ、ティティアンの名も残っていた(Wood p.127)。しかし、カラヴァッジョもプッサンなども、ほとんどさしたる場所を見出していない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
哲学者の登場と役割

ウッドが、ヴァザーリの後に登場させる人物については、予想がつかなかった。ウッドは画家ではなく、哲学者フランシス・ベーコン(1561-1626)が、現代の芸術観のカギを握っていると考えているのだ。ベーコンは、自然から知識を引き出す唯一の方法は経験(観察と実験)であり、その最終目標は事実と虚偽を区別することであるとしている。

ウッドはさらに哲学者フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)を登場させる。ベーコンに対抗して、芸術は「少なくとも真理の片鱗」を明示できると主張し、現実そのものにはない「片鱗」を提供することができると述べている。さらに最近では、哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマー(1900-2002)が、芸術と時間との関係を考えることで、ヘーゲルとベーコンの両極端の中間的な立場を提供している: 「芸術が客観的な分析から逃れられるのは、それが決して完全な歴史的存在ではないからである。」(pp.164-65)。

多くの点で、この引用は、芸術の時間性と歴史との関係についてのウッドの広範なテーゼの端的な要約と考えうる。しかし、ヘーゲルもガダマーもベーコンほどには人気がなく、経験主義的な知識から芸術を切り離すことは、少なくとも西洋の世界では受け入れられてきた。私たちの多くにとって、芸術は「あるものを見るのではなく、せいぜい、ないものを見るだけ」なのである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ウッドのヴァザーリ、ベーコン、その他の初期の思想家についての議論は、ある意味で、18世紀末に近代美術史が学問として「誕生」する瞬間への序章である。

ウッドは、"19世紀初頭の美術史家はほとんど影を潜め、実のところ、読んでもあまり面白くない "と断言しながらも、美術史にとって19世紀がいかに重要かを伝えている。例えば、1844年には、「芸術家ではなく美術史家」についての最初のモノグラフが出版されており、この学問が「始まってすぐに」自らを二転三転させていることを物語っている。世紀後半になると、この学問は学問体系に組み込まれ、「近代的な輪郭」を帯びてくる。美術史の分野で働く大学講師の数など、一見ありふれた細部に注意を払うことで、ウッドは思想史家にありがちな落とし穴、つまり思想を生み出す人々や制度から思想を切り離すことを回避している。また、1920年代の歴史学の台頭が、「収集、管理、美術館、そして一般的な美術史の感覚的な美術との関わりからの転換を示唆した」というような、より大きな変化にも敏感である。これ以降、美術史家が自ら画家やコレクターである可能性は低くなる。

『美術史の歴史』の構成は、時間軸を現代に向かって下るが、21の章に分けられ、章ごとに不平等な時代区分がなされ、最初の章は800-1400年、最後の章は1950-1960年となっている。しかし、各章は時代そのものというよりも、一人、あるいは数人の人物について書かれている。あたかも小さな出来事、小品集 vignette の連続のようだ。かなり読み応えがある。その意味はやはり本書を実際に手にとっていただくしかないが、今回はこの辺で止めておこう。


続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰が作品の「美」を定めるのか(2)

2023年05月26日 | 特別トピックス

Christopher S. Wood, A HISTORY OF ART HISTORY, Princeton University Press, 2020, cover

ウクライナへのロシア侵攻が生んだ世界の危機は、かつてない緊迫度で迫ってきた。しかし、気候変動、地震、水害、悪疫、戦争など、途切れることなく訪れる危機的状況に慣れてしまった人類には、ともすれば戦争報道の受け取り方もゲーム感覚になっているのが恐ろしい。映像の向こう側で何が起きているのか、深く考えることなく画面を見ている。

17世紀の美術と危機の関係の探索に踏み込んで以来、今日まで世界が経験した危機の実相を筆者なりに考えてきた。美術もしばしば危機の荒波に翻弄されてきた。極端な場合は為政者などが自分の考えや政策思想に合わないとして、貴重な作品を破壊してしまうような出来事も起きた。例を挙げると、ナチス・ドイツの時代、「
退廃芸術」とされ、消滅に追い込まれた美術作品もあったことはよく知られている。その他にも、さまざまな背景や動機で、損傷、滅失、行方不明となった作品もある。

思いつくままにいくつかの例を挙げると:
レンブラント《夜警》の画面切りつけ、損傷(1975年)

「異教徒のための神」として巨大石仏をタリバンが爆破し、全壊(2001年)

アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件と収蔵品の破壊(2021年)

世界的に有名だが正体不明な覆面アーティスト、バンクシー(Banksy)の作品も毀誉褒貶の対象となっている。

これらは極端な例だが、美術はしばしば時代が生み出した特有の歴史観から影響を受けてきた。

「美」の判定を客観化できるか

美術作品は西洋美術、東洋美術、その他の地域の美術など、広範にわたり、さらに時代性もあって、誰もが納得する「美しさ」の基準を設定すること自体きわめて難しい。同じ作品を見ても、人によって判定の尺度が微妙に異なり、結果として印象に違いが生まれる。美術(史)家たちも多くの人々が納得しうる「美」についての普遍的な価値基準を模索してきたが、確定できずに今日に至っている。

今回はコロナ禍の間に目を通した資料などを紹介しつつ、美術史における「美」の基準について少し考えてみたい。

人類の「美」への関心は、遠くはギリシャ・ローマ時代、あるいはエジプト文明などへ遡って論じられてきたが、諸学のひとつとしての「美術史」の成立は、17世紀ごろに求められるようだ。後掲の著者ウッドによると、16世紀までは、美術史の名に値するような出版物は見当たらないという。

その後の美術史の展開を振り返ると、いくつかの分類、類型化も行われ、学問としての輪郭が形成されてきた。しかし、世界に存在する数限りない美術作品を観るに際して「美」(美しさ)を判定する普遍的な基準、概念は容易には確定できない。

時代や地域の別を超えて、基準としての「美」の流れを一貫して追い求め、提示することはきわめて難しい。ある時代、地域に広く受け入れられた特徴やファッションであっても、他の時代、地域でも同様に認められるわけではない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
5月21日、広島で開催されていたG7サミット(7カ国首脳会議)においても、G7の提示する論理は、そのまま他の地域に通じるわけではない。注目度が高まっているグローバルサウスの諸国は、自分たちには異なる論理があると主張している。さらに、G7に対立するロシアや中国には、それとも異なる主張がある。彼らは自分たちの考えが正しいと主張するばかりだ。よく言われるように、ある考えが提示されても、「しかし、それは南には当てはまらないのでは?」 (”But isn’t it different in the South?”)という茶化した反論がすぐに出てくる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

美術史の歴史としての接近

Christopher S. Wood, A HISTORY OF ART HISTORY, Princeton University Press, 2020
著者はニューヨーク大学教諭(美術史)

コロナ禍の直前に出版された上掲のクリストファー・ウッド『美術史の歴史』は、検討対象の範囲は主に西洋美術史の範囲にほぼ限られるが、表題が示す通り、美術史が今日までいかに形成されてきたかを主題としている。時代はほぼ中世末期、AD800年から1960年までが対象とされ、美術観の潮流に合わせ区分され、議論が展開されている。中世末期から現代の美術史論までの美術観の歴史的展開を一貫した視点から分析しようと試みた成果だ。西洋美術が対象であり、東洋、イスラム、アフリカなどの美術がほぼ視野の外に置かれていること、通常の美術史の範囲にはあまり取り上げられないフォーク・アートなどまで含んでいることへの批判もあるが、十分評価しうる力作である。美術史の理解にとってランドマークとなる貢献と評価されている。論評は多面的であり、美術家、詩人、鑑定家、哲学者、そして時には自らを”美術史家”と自称する人たちまで含み、大変興味深い。

着実な資料論拠の上に書かれており、美術史好きならば手元に置きたいお薦めの一冊である。惜しむらくは、美術史の書籍にも関わらず、収録された絵画などの図版は17枚に過ぎず、しかも全てモノクロのため、初学者向きではないことも注意しておきたい。

ウッドは西洋美術史の歴史軸をいくつかの時期に区分しているが、その出発点は、筆者も想像した通り、ルネサンス・イタリアの美術である。具体的には
ヴァザーリ(1511~74)の『芸術家列伝』である。これを西洋美術史の出発点と考えるのは、適切ではないと考える人は多いのではないか。確かに豊富な資料と作品観察に支えられており、ヴァザーリが意図した同時代の画家列伝自体としてきわめて興味深い。

ラファエロ、レオナルド、ミケランジェロを柱とすることについては、彼らが何が良き芸術かという意味でのセンスを示した画家ということで、異論は少ないかもしれない。リアルな生活描写に近い自然主義 naturalism、ウッドがいうように、彼らの駆使したdisegno (イタリア語:ディゼーニョ, 英 drawing, design 素描)は、「真実とリアルの間の正確な割合」Disegno: the correct ratio between the real and the true (Wood p.187)を達成しているというのは的を得ていると思われる。しかし、この点はさらに議論が必要だろう。

ルネサンス・イタリアというと、「南」の基準ではという先のアイロニーを思い浮かべるかもしれないが、ヴァザーリはヤン・ファン・アイク、アルブレヒト・デユーラーなど、アルプスの「北」側の美術についても、言及はしている。しかし17世紀末までは、イタリア以外の画家の評価は、ヴァザーリのローカル版にとどまっていた。

重厚な本書と格闘していた先週、見計らったように、Royal Academy of Artsから、来年開催のミケランジェロ、レオナルド、ラファエルの企画展の案内メールが届いた。来年のことだが、事情が許せば久しぶりに行ってみたい展覧会である。

Michelangelo, Leonardo, Raphael: Florence, c.1504
9 November 2024 - 16 February 2025


REFERENCES
高階秀爾・三浦篤編『西洋美術史ハンドブック』新書館、(1997) 2002年
ジョルジュ・ヴァザーリ(平川祐弘・小谷年司;田中英道・森雅彦訳)『芸術家列伝』 1~3(白水社 2011年)
Christopher S. Wood, A HISTORY OF ART HISTORY, Princeton University Press, 2020, pp.461

Note
ヴァザーリの美術史上の評価については、下掲の『芸術家列伝1』の巻末に、翻訳者を代表して平山祐弘氏の「ヴァザーリの位置と意味」と題した適切な紹介が掲載されている。


続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

​誰が作品の「美」を定めるのか(1)

2023年05月12日 | 特別トピックス


新型コロナウイルス感染症が、連休が終わった5月8日から、感染症法上の「5類」に引き下げられた。振り返ると、2020年1月に国内で初めて患者が確認され、4月には緊急事態宣言が日本全国に発出された。その後3年余りの年月が過ぎた。コロナウイルスが日本のみならず世界全域に与えた衝撃と変化についての論評はすでにさまざまな形で出回っているが、総合的な評価にはもう少しの時が必要だろう。

さて、このブログにも閉幕の時が近づいている。開設以来、20年近くになるが、その間、暗黙の内にも考えてきたいくつかの課題があった。そのひとつは、ラ・トゥールやジャック・カロ、レンブラント、フェルメールなどの17世紀ヨーロッパの画家、さらに現代の異色の画家L.S.ラウリーなどの作品を通して、人々が感じる「美しさ beautifulness とは、誰がいかに定めるのか」という問題に納得できる答を見出すことであった。

「額縁の中から」飛び出して
特に、画家が活動した時代と「同時代の人々」 contemporaries、そしてそれとは異なる時代である「現代に生きる人々」の間に存在する作品の認識、美意識の違いに多大な関心を抱いてきた。関連して、ブログ筆者は絵画作品の評価を、人々が目の前にする作品の次元(「額縁の中の世界」)にとらわれることなく、それが生み出された
社会的・文化的環境への広がりの中で行うことに大きな関心を抱いてきた。美術に限らず、永らく専門としてきた経済の分野でも、できうる限り自分の目で確認することを人生観の一部としてきた筆者は、しばしば美術史家などが視野の外に排除してきた、作品が生まれた社会的背景などの諸要因を極力、鑑賞、評価の次元に取り込むことに意義を感じてきた。

ブログも開設以来20年近くを経過し、ようやく最低限の検討素材を蓄積、提示できるようになってきたかなと思えるようになった。幸いブログ読者の間から、本ブログが手がかりになって、やっと当該画家の全体像、そして画家が生きた社会のありようが見えてきたような気がすると感想を述べられる方々が増えてきた。諸般の事情でメモ程度しかブログには記すことができない状況を考えると、筆者にとっては大きな喜びである。そこで、ゴールデンウィークの間に多少考えたことを思考整理の意味で、記してみたい。

ラ・トゥール忘却の謎
ブログ開設当初から記してきたが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについては、多くの謎がつきまとってきた。そのひとつは、1652年の画家の死後、20世紀初頭、1915年におけるドイツ人美術史家
ヘルマン・フォスによる再発見まで、画家の存在は長らく忘れ去られてきたことである。ロレーヌのパン屋の息子から身を起こし、フランス王の王室画家にまで上りつめ、当時は熱心な愛好者、収集家がいた画家であったにもかかわらず、なぜかくも長い間忘却されてきたのか。これについては、次のようないくつかの説が提示されているが、いずれも推測の域を出ない。

1)ラ・トゥールが画家としての活動の拠点としたロレーヌには美術家、美術品などを継承、後世に伝える風土が希薄だった。度重なる戦争、悪疫、飢饉などによって、美術品などの作品が地域に保存、蓄積されることが困難を極めた。

2)ラ・トゥールが得意としたテネブリズムは1630−1640年のパリでは、衰退していた。代わって、バロックの華麗な古典主義が人気を得ていた。

3)ジョルジュの死後、画家であった息子エティエンヌは、自らの才能を見切り、貴族としての道を選択するようになった。その間、著名な画家であった父親との関係、出自などを表面に出さないように努めたのかもしれない。

これらの諸説についてブログ筆者は、美術作品と時代の関連について、別の仮説を考えていた。ラ・トゥールが忘却されていたかに見えたのは、ひとつには画家の作品に込められた「美」の内容が、その後の時代の求めた美の内容、しばしば流行、好みなどの風潮に合致しなかったことではないか。「
時代の眼」を重視してきたのはそのためである。この点を突き詰めると、美の本質とは何かという問題に行きつく。

美の本質について
ひとつの極にあるのは、哲学者カントに代表されるように、美しさは作品を観る人に関係なく作品自体に存在するとする考えである。確かに美術作品の中には、誰が見ても 客観的に美しいと感じるものもある。その美しさは観る人の立場や思考、趣味などに依存しない。しかし、どの程度に美しいと感じるかという問題は避け難く残る。

他方、同じ哲学者でもデビッド・ヒュームのように、何が美しいか、または私たちが美しいと考えるものは主観的なものであると考えている人たちもいる 。これによれば美しさは見る人によって異なることになる。言い換えると、美しさには順位や程度が存在することでもある。

17世紀ヨーロッパの絵画の世界を見ても、今日まで作品、経歴などが十分確認されている画家はむしろ少ない。しばしば参照される画家、美術評論家のフロマンタンによる1875年のオランダ・ベルギーの絵画を訪ねての紀行文でも、言及されている画家の軽重には近年の評価とは異なる点も多々あり、時代による画家の位置づけにも作品の発見、学術研究の進展などを反映し、往時とは差異も生まれている。ラ・トゥールが画家として多くの時を過ごしたロレーヌのような地域では、作品の長期にわたる安定した継承、鑑賞に耐える風土はほとんど存在せず、作品の市場も画家とその作品を個人的に知るフランスやロレーヌの王侯貴族、収集家など限られた人脈の範囲にとどまっていた。ラ・トゥールの場合は幸い20世紀初頭に再発見されたが、同時代であっても全く忘れ去られてしまった画家も多いことを指摘しておきたい。


フロマンタン(高橋裕子訳)『オランダ・ベルギー絵画紀行:昔日の巨匠たち』上・下(岩波文庫、1992年)



続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

​断片で見る危機の時代: 思い出すままに

2022年07月20日 | 特別トピックス


「戦争の混迷」ジャック・カロ《ロシェル島の包囲》部分

第26回参議院選挙の2日前、突如として安倍晋三元首相が凶弾に倒れた事件は、思想、信条の別を問わず、世界の誰もが驚くほど衝撃的な出来事であった。政治信条のいかんを問わず到底許すべきことではない。前首相に関わる政治的疑惑の数々は、全て消却されてしまった。他方、事件の背景を知るほどに、この惨劇を生むにいたった日本社会の深部に潜む病理の闇の深さに驚きを禁じ得ない。宗教の持つ異様で残酷な側面に、改めて戦慄を覚える。

これに先立ち、2019年末中国で発見されたコロナ・ウイルスが生み出した世界的なパンデミックの行方が不明な中で、突如として勃発したロシアのウクライナ侵攻は、グローバルな次元での混乱と動揺をもたらしている。

17世紀以来の危機の時代を自分なりに整理し、さらに20世紀以降の数多の危機を見聞、体験してきたブログ筆者にとっては、またも起きてしまったかという思い、そしてこうしたことを繰り返す人類に未来はあるのだろうかと、思わざるをえない。

ロシアのウクライナ侵攻に象徴される不条理な出来事の数々を見ていると、文明の近未来への危惧は強まるばかりだ。時代の複雑さと混迷の中に生まれ、社会に浸透・拡大していた狂気が、さまざまな形で異様な事件や社会環境として表面化する事態を見ていると、16-17世紀の魔女狩りや異端審問の拡大を思い浮かべる。

忘れがたい衝撃の数々
自分の人生に限っても、かなりの数の衝撃的な光景が深く脳裏に刻み込まれている。時々ふとしたことで瞼に浮かび上がってくる。今回の事件を機に、思いつくままにいくつかを記してみた:

  1942(昭和17年)年4月18日、当時東京市王子、飛鳥山で友達と遊んでいた子供の頭上を、見たことのない大きな軍用機が超低空で飛び去っていった。後日、それが「ドゥーリトル空襲」と呼ばれるアメリカ空軍の B-25双発爆撃機であったことを知った。なんのことかよく分からなかった子供心にも、あたりに鳴り響く空襲警報と遠くに見える火災の光景と共に、異様に恐ろしい記憶として残像が残った。太平洋のアメリカ艦船から離陸した爆撃機の多くは、その後中国本土などへ不時着したらしい。アメリカのF・D・ローズベルト大統領は記者会見の席上で記者団から爆撃機の発進地をたずねられた際に、「
シャングリラ」と答えて煙に巻いた。

  1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲の焼夷弾が東京の夜空を赤々と照らし出した光景。この日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えたといわれる。サーチライトと照明弾が赤々と夜空を照らす中、B29だろうか、アメリカの爆撃機と焼夷弾が光って見えた。

  終戦 1945年8月15日正午、突如聞こえてきた天皇の「大東亜戦争終結ノ詔書」、意味はよく分からなかったが、子供心に日本が戦争に負けたのだということは感じとっていた。周囲の大人たちは、皆泣いていた。しかし、なんとなく大きな重荷がとれたような気がした。

  朝鮮戦争(1950-53年)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の間で生じた、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争だったが、今日に続く米中対決の原型であったともいえる。戦況の展開が早く、朝鮮半島の全域に渡ったこともあって、その緊迫感は今でも時々思い出すことがある。その後、アメリカの大学院で友人となった
アメリカ人帰還兵は、この戦争での体験がトラウマとなって苦しんでいた。

  1963年11月22日にJ.F.ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。筆者が渡米するほぼ1年前であったが、インターネットは未発達であり、電話で話をしたアメリカの友人がひどく落胆していたことを思い出す。ケネディ大統領の颯爽としたイメージが印象的であっただけに、この衝撃も大きかった。

  1973年第一次オイルショック、銀座のネオンが一斉に消えた光景が脳裏に残っている。その後、(かつての)日本興業銀行・通産省のエネルギー・原料資源調査団の一員として訪れた
ウイーンのOPEC(設立当時)が雑居ビルの2階にあったことにも驚いた。ここに集まった数少ない産油国の決定次第で、世界のあり方が大きく揺らぐことに衝撃を受けた。

  1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒 阪神・淡路大震災
高速道路の倒壊したイメージは忘れられない。この前の年、ケンブリッジに滞在していた頃、友人となったイギリス人が神戸へ研究生として来日、滞在していたはずなのだが、音信が普通になり、今日まで消息不明のままだ。

   1995年( 平成7年 ) 3月20日
地下鉄サリン事件は、想像を絶した無差別テロ事件だった。同じ路線の地下鉄でその日も少し前の電車で大学へ通っていただけに、記憶から消えることはない。

ー  2001年9月11日、同時多発テロ
移民研究のためしばしば訪れたエリス島やシュタッテン・アイランドから見た
ワールド・トレード・センターが、2001年9月11日には大惨劇の標的となってしまった。あの映像は網膜に深く焼きついてしまった。日本で職場を共にした同期の知人Sさんの息子さんが犠牲者に含まれていた。彼の半生は、このことで大きく変わってしまった。

 2002年3月19日、友人であったモデナ大学の労働法担当教授の
マルコ・ビアッジ (Marco Biagi)が、ボローニャの自宅前で極左分子(赤い旅団)によって射殺された。長年、同じ研究領域で活動してきただけに、あまりに衝撃的だった。

 2011年3月11日 東日本大震災
子供の頃からしばしば訪れていた
吾妻山、一切経山など、美しい福島の山々のイメージは、予想もしなかった震災、なかでも未だ解決の行方が見えない原発事故で大きく損なわれた。一時は、東日本全域が居住不可能になるといわれたほどだった。その後上空を航空機で飛ぶたびに、思わず黙祷している。
          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



実は、次々と浮かんでくる出来事はここにに記したことに止まらない。時間をおいて書き記していたら、さらになにが浮かんでくるか。

ブログでも再三、取り上げてきたが、20世紀、そして21世紀も「危機の世紀」であることはもはや疑いない。戦争は歴史を通して大きな危機を生む最大の原因だ。しかし、グローバルな危機を生みかねない要因は戦争に限らず、あまりに多い。

すでに3年近くになるコロナ禍の時代、僅かな間に多くの友人、知人が世を去った。「見るべきものは見つ」の感が強まっている。ブログ閉幕の時も遠くはない。



「侵攻と占拠」ジャック・カロ《レ島の包囲》部分




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
追悼 花見忠先生を偲んで 桑原靖夫『季刊労働法』277号、2022/夏




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未来に生きる政策構想

2021年09月25日 | 特別トピックス



間もなく2年近くなるコロナ禍のさなか、突如自民党総裁の交代騒ぎ。政治家にとっては重大事だろうが、自民党内の票の取り合いに過ぎず、多くの国民にとっては別次元の話だ。国民不在の政治劇に過ぎない。

中国の急速な拡大、アメリカの地盤沈下の間で、国力低下が顕著な日本にとって考えるべきことは、次々と現れる新型ウイルス、台湾、北朝鮮などが関わる有事、多発・激化する気象災害、人口減少に伴う競争力低下、高まる財政破綻の重圧など、明らかに危機的状況にあるこの国をいかに再構築するかという全体構想が提示されないことだ。日本は何をもって激動する世界の中で、生き残り、独自の存在意義を発揮、保持しようとするのか。

与野党を含め、各候補が挙げる政策は、散発的とも言えるほど個別化しており、政策を貫く構想が全く感じられない。10年後、20年後に生きる次の世代が、明るい希望を抱けるだろうか。

アメリカの動き
9.11勃発後20年になる今年、中国の急速なプレゼンス拡大などで地盤沈下が著しいアメリカでは、現状を「危機 」crisisと考える受け取り方が急速に増加している。「資本主義 」capitalism ではもはや貧富の格差、社会の分断などを解決することはできないという認識も台頭している。資本主義をどう変えるかという議論は、かつてなく盛んだ。

そのひとつの動きとして、1930年代の「ニューディール」そしてその提示者となったフランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)の果たした役割の再評価に関心が集まっている。世界大恐慌、ニューディールについては、この小さなブログでも意図してしばしば取り上げてきた。最近話題となっている一冊を素材に少し考えてみた。アメリカ現代史を理解する上で、必読とも言える著作である。

Eric Rauchway, Why the new deal matters, New Heaven] Yale University Press, 2021 
( 仮題:エリック・ローチウエイ『ニューディールが重要な理由』現時点で翻訳なし)

1932年のシカゴの民主党全国大会で、ローズヴェルトは、自分に、そしてあなた方アメリカの人々にとっての新しい政策 dealの導入を誓約すると述べた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
ニューディールが提示された当時のアメリカ経済は、1929年に始まった恐慌で文字通り危機的状況にあった。およそアメリカ国民の4分の1が職を失い、経済は2桁のマイナス成長を続けていた。
この中で、1933年以降FDRが実施した一連の経済・社会政策。失業者救済の大規模な公共投資や産業界への統制により経済復興を図り、のちには社会保障制度や労働者保護の制度改革を強めるなど、連邦政府権力を強め政府資金による資本主義経済の安定を目指した。代表的な立法や機関として全国産業復興法・TVA・ワグナー法・社会保障法などがある。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

民主主義の再生を目指して
ニューディールは、著者によれば経済にとっての回復プログラム以上の意味を持っていた。一口に言えば、アメリカの民主主義の再生プログラムであったと考えられる。

ローズヴェルトは大統領受託演説でも恒例の枠内に止まらず、自らの所信を述べた。FDRはひとつのプログラムを提示する。それは、「一国の厚生と健全さは、第一に多数の人たちが願望し、必要とするものであること、第二にそれを取得しているか否かを問わないという単純なモラル原則に基づいている」。

ローズヴェルトは演説の最後を次のように締め括っている;「これ(ニューディール)は、単なる政治的キャンペーン以上のものです;国民のみなさんに立ち上がってもらいたいというお願いです。単に選挙票を得たいということにとどまらず、この企てをもって、アメリカを皆さんのために再復活させる十字軍にしたいということです。そのために力を貸して欲しい。」

筆者がかつて師事した教師には、ニューディーラーが多かったことは以前に記したことがあるが、彼らは情熱をもってその経験を語っていた。今日まで、とりわけ民主党左派の人たちには、ニューディールの精神を受け継いている人々が多い。

ニューディールの核心は
ニューディールはしばしば大規模な経済刺激策と考えられてきた。確かにある程度はその通りである。1933年の全国産業復興法の下で、公共事業機関 Public Work Administration は$3.3 billion (今日の額でやく650億ドルを公共の事業やインフラストラクチャアに投下した。2年後に設立された雇用促進局(Work Progress Administration: 1935-43年)は、さらに、8年間におよそ2倍の資金を投じ、全国の労働力の15%以上を雇用しようとした。

しかし、ローズヴェルトは大統領就任受託演説で、「ニューディールは単なる復興プログラムではない・・・・・・。ニューディールの根本にある信念は、アメリカの民主主義はさまざまに制限され、歪められ今日に至っているが、強化、拡大されて放棄されることなく維持されるべきだ」と述べている。

ニューディールがその根本において目指したのは、FDRの発言に感じられるように、アメリカの生活における社会的正義の概念を広げるという理想にあった。経済の回復 restore と組み直し remodel を同時に目指したともいえるものだった。

在任中、ローズヴェルトは多くの、しばしば反動的な試練を経験する。例えば、 ボーナス・アーミー(Bonus Expeditionary Force)は、そのひとつだった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1932年6月に、アメリカ合衆国で、第一次世界大戦の復員軍人やその家族など、約31,000人が支給の繰り上げ支払いを求めて、ワシントンD.C.へ行進した事件。
この事件の鎮圧を担うことになったのは、戦後の日本に大きな影響を与えたダグラス・マッカーサーであった。しかし連邦軍の弾圧で女性や子どもを含む死傷者多数が出たこの事件は米国史の汚点といわれるまでになり、時の大統領フーバーは次の選挙で大敗した。
この出来事は、一部が暴徒化した人種差別への抗議の鎮圧に連邦軍を出動させる構えを見せたトランプ米大統領の発言と行動にもつながっている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

貫く進歩思想
ニューディールの時期、アメリカの民主主義がどれだけ達成されたかは定かではない。しかし、ローズヴェルトの言葉を借りるならば、「文明は後戻りできない。文明は停止してはいけない。そのために我々は新たな方法を企画してきた。必要な限り、それを完全なものに近づけるために、必要とあらば改善を図らなければならない。そしてあらゆる場合において、前に進まねばならない。」(1934年1月の議会演説)

ニューディールが今日までさまざまに記憶されてきたのは、こうした理想を掲げ、少しでも前進しようとの熱意ではないだろうか。

ちなみに、ニューディールに投じられた予算規模は、他の時期と比較して格段に大きいというわけではなかった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
連邦予算規模:
1932年 フーヴァー大統領在任時の予算  約$4.66 billion
最大のニューディール予算
1936年 $8.42 billion
1939年 $8.84 billion
戦時予算
1943年 $79.4 billion
1945年 $98.3 billion
Source:Rauchway、 pp.175-176
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

受け継がれる政策思想
バイデン大統領は、直面する複合的危機に対して、「左からの変革を目指す十字軍」と自らの立場を位置づけ、説明している。さらに自らは「FDR-サイズの大統領」を目指すとまで述べている。ニューディールへの思いは強いものが感じられる。

ローズヴェルトは当時の世界を”人間が創った世界” “man-made world” と形容した。その考えは2009年のグローバル・グリーン・ニューディール the Global Green New Deal などの構想に脈々と受け継がれてきた。ローズヴェルトのニューディールの構想は不完全にしか実現できなかったが、その後も根気よく追求されてきた。21世紀になっても、絶えず創造的な発想の源になってきた。

ほとんど一世紀近くになる時空を超えて、今日に受け継がれてきたニューディールの思想は、アメリカに活力をもたらす根源となってきた。政権交代に当たって、言葉だけが踊るような日本の政策環境とは大きく異なるものがそこにあることに着目したい。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パンデミックは芸術にいかなる衝撃を与えたか

2021年08月06日 | 特別トピックス




新型コロナウイルスが世界を大きく変えてしまったことは、もはや誰も否定しないだろう。しかし、感染が収束していない今の段階では、その全貌はまだはっきり分からないところが多い。

混乱・混迷の中で、人々はさまざまに救いや慰めを求めている。美術、音楽、演劇などさまざまな文化活動もその大きな対象だ。2020年の春、今年は行こうと思っていた美術展、コンサートなど楽しみにしていた予定がほとんどキャンセルになってしまった。その中には生きている間には再び観る機会はないだろうと思うものも含まれていた。オリンピック競技は無観客としても、TVで観ることもできるので、さほどの打撃ではない。

前回取り上げた『ナショジオ』ほど長くはないが、好んで読んできた雑誌HARPER'S(June 2021)が、この問題を取り上げていた。新型コロナウイルスの世界的感染拡大によるパンデミックが芸術に関わる経済面に壊滅的な打撃を与えているという問題の指摘だ。例に挙げられているのはアメリカだが、日本でも仕組みは変わりない。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
HARPER’S Magazine は、1850年創刊のアメリカでも最も歴史のある総合月刊誌である。その時々の重要なテーマを最高レベルの筆者が論じている。これまで、経営的にも多くの波乱があったが、それらを乗り越えて今日まで継続してきた。2000年には An American Album: One Hundred and Fifty Year of Harper’s Magazine と題したアンソロジーを刊行している。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

半世紀近く前、友人からアメリカの知性、ジャーナリズムを知る上で、必読のマガジンのひとつと言われて以来、毎月ではないが出来うる限り読むようにしてきた。今でも全部は到底読み切れないが、興味ある記事は目を通すようにしている。

最近号「アートへの渇望」Starving for Artで興味を惹かれたのは、ウィリアム・デレシーウィックによる「COVID, フリーなコンテント、アーティストの死」(“COVID, free content, and the death of the artist” By William Deresiewicz)と題した記事である。その要旨は次のような内容だ。

日本でも取り上げられている飲食業やホテルや観光関連業界のように、目立って取り上げられていないが、アートに関わる活動は想像以上に打撃が大きいとの記事である。詳細は雑誌掲載記事を参照いただきたいが、あらまし次のような諸点が指摘されている。

大打撃を受けたライブイベント
 数ある芸術活動の中で、ライブイベントは最初に打撃を受け、中止や延期を迫られてきた。影響を受ける人たちは、ミュージシャン、俳優、ダンサーに加えて、劇作家や振付家、監督や指揮者、照明デザイナーやメイクアップアーティスト、裏方、案内係、チケット係、劇場支配人など、舞台に立つことができるすべての人々が彼らの仕事で生計を立てている。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
2020年夏にアメリカで発表された調査によると、独立した音楽会場の90%が完全に閉鎖される危険にさらされていたが、美術館の3分の1も閉鎖されていた。 Music Workers Allianceの調査では、ミュージシャンとDJの71%が少なくとも75%の収入の損失を報告し、別の調査では、回答者の60%が収入の損失を報告し、平均で43%減少した。 2020年の第3四半期中、失業率はミュージシャンで平均27%、俳優で52%、ダンサーで55%だった。パンデミックの最初の2か月で、映画および録音業界の失業率は31%に達した。一方、9月現在、近現代美術のギャラリー売上高は36%減少しました。芸術全体で起こっていることは不況を通り越した大惨事とされている 。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

パンデミックの前から芸術界に訪れていたもう一つの破壊的傾向も指摘されている。つまり、音楽などのコンテンツを人々が無料で使っているという事実が進行・拡大していたため、被害は加速された。音楽の価格はゼロまたはほぼゼロに追いやられ、続いてテキスト、画像、ビデオなど、ほぼすべての他の媒体での作品の価格も同様な傾向を辿ってきた。

そして 、ビジュアルアートの世界では、2018年の時点で、生きているアーティストによる世界の売り上げの64%を占めるのはわずか20人とのことだ。

もちろん、 _アーティストはアートだけで生計を立てることが困難で、多くのアーティストがウェイター、バリスタ、バーテンダーなどのサービス業界などで日雇いの仕事で働いている。しかし、サービス産業の賃金は最低賃金と結びついており、 連邦の最低賃金は、最後に引き上げられた2009年以来、その価値の18パーセント以上を失っていると推定されている。_ さらに、止めどなく増殖するギグ・エコノミーでは最低賃金に近い水準で働く人が多くなっている。

パンデミックは、おそらく何千もの芸術的キャリアを消滅させると見られている。

パンデミック後のアートは
パンデミックが終わったら芸術経済はどのようになるでしょう。これまでの実態は甚だしく偏在した姿を示しています。_2020年の初めに、Alphabet(Googleの親会社)、Apple、Amazon、Facebook、およびMicrosoft(ビッグファイブ)の市場価値は合計で5兆ドル弱でした。その年の終わりまでにその数字は7.5兆ドル以上に増大したと推定されている。

アートは愛されていますが、アーティストは必ずしもそうではありません。筆者の ウィリアム・デレシーウィックは、パンデミック後の未来について、アーティストは自らができる最高の作品を自由に作成するべきですが、略奪的な独占によって提供される無料のコンテンツではなく、人々が正当に支持する対価があるべきだと記している。

日本について比較しうる客観的資料は筆者は持ち合わせない。しかし、同じ論理が日本でも働いていることは確かだろう。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある晴れた日に: 東京湾沖合へ出る

2021年06月09日 | 特別トピックス

梅雨入り前、快晴のある日、東京湾上へ出る。かねて遺言書に記載されていた友人夫妻の希望により、海上での散骨の式を執り行うためである。妻はすでに数年前に世を去っていて遺骨として保管されてきた。夫はコロナ禍の初期に別の病いで死亡したが、コロナウイルスの感染予防のため遺言が実行できずにいた。今春になり、新型コロナウイルス対策としてのワクチン接種も実効性が期待できるまでになり、ようやく実行可能になった。



参加者総数30人くらい、晴海の埠頭から沖合へ向かう。空も海も青く、気温は28度近く真夏を思わせるほどだが、甲板に吹く風は爽やかで心地よい。

船はひたすら白波を立てて東京湾沖合へと向かう。散骨が許可されている地点までは一時間近くかかる。あたりの沿岸は工場や高層マンションが立錐の余地がないくらい立ち並んでいる。ガントリー・クレーンが立ち並ぶ地域もある。近くの羽田空港から発着する航空機が、はっきりと確認できるような低空で行き交う光景を見ることができる。洋上はるか遠くには、かなりの大型船が航行しているのもはっきり分かる。



一時間近く海上を航行した後、しばらく停船し、散骨の儀式が執り行われた。夫妻共に弁護士として、社会的弱者と言われる人たちの地位改善のためにその一生を捧げた生涯だった。二人共に死後の遺骨の取り扱いにはほとんど固執していなかった。海上での散骨は夫の遺言に記されていた。生前、本人も時々口にしていたことだった。

高齢化、新型コロナウイルスの感染拡大が続くこの頃では、こうした葬祭の形も増えているようだ。





晴天に恵まれ、波も静かで、船は散骨の地点を旋回して帰路に着いた。広々とした海上の空気にも助けられて、参加者の雰囲気も爽やかに感じられた。

東京オリンピックの招聘・歓迎マークに出会ったが、心なしか華やかさを欠いていた。散骨の形での葬祭は、海上ばかりでなく、陸上でも構想、実施されているが、終活のひとつの形が現実味を帯びて迫ってきた。大海原に戻るのも良いかもしれないという思いが強まってきた。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする