時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

王室画家の世界(4)

2006年03月30日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Guido Reni  
The Penitent Magdalene*
1635
Oil on canvas, 91 x 74 cm
Courtesy of :
Walters Art Museum, Baltimore
http://www.thewalters.org/html/collec_object_detail.asp?ID=37&object_ID=37.2631



  ラ・トゥールはルーブル宮に仕事場を与えられていた記録もあり、大変厚遇されていた。画家としてパリに6週間ほど滞在した1639年当時は、ルイXIII世の治世の後半であった。ラ・トゥールも「王の画家」peintre ordinaire du roiの称号を与えられていたが、これは実質的なものではなかったようだ。しかし、滞在中やリュネヴィルとの往復旅費など、さすがに王室は手厚く配慮した。もしかすると、ラ・トゥールもパリに住みたかったのかもしれない。しかしながら、この画家は戦乱・悪疫などからの避難の時期を別にすると、生涯のほとんどをロレーヌ地方のリュネヴィルで過ごした。王室記録に残るこのパリ滞在期間に、画家がいかなる制作活動をしていたのかは、残念ながら不明である。

  ラ・トゥールの作品が最初ルイXIII世や枢機卿リシリューの目にふれたのはいつのことであったのかも、残念ながら記録がない。しかし、この希有な天才画家の噂は、かなり前からフランス王室にも届いていたことと思われる。すでに記した通り、リシリューは広範な情報ネットワークを持っていた。そして、実際に作品を献上された王および枢機卿リシリューに大変強い感銘を与えたことが確認されている。

  ラ・トゥールについての記録文書は、きわめて少ないのでなんともいえないが、この画家は結婚前、若い頃にもパリにいた可能性がある。ルイXIV世の治世になってからもパリを訪れたかもしれない。

枢機卿宮殿を飾ったラ・トゥールとレーニ
  ルイXIII世がラ・トゥールが献上した作品「聖セバスティアヌスを介護するイレーヌ」に非常に感銘を受けたことはよく知られている。同じ時期に作品を献上されたリシリューも同様に大変気に入り、1639年に完成した枢機卿宮殿Cardinal Palaceでは豪華な収蔵品が置かれた場所から離れた自分の部屋に他の作品を外して、ラ・トゥールとレーニの絵画だけを掲げたといわれる。ラ・トゥールの「聖ヒエロニムス」Saint Jerome と レーニの「聖マドレーヌ」Madeleineであった(Fumaroli, 35)。

  この「聖ヒエロニムス」は作品の内容、大きさ(152x109cm)などから、リシリューの死後、彼の財産目録に含まれている作品で、現在ストックホルムの国立美術館が所蔵する赤い枢機卿帽が描かれた「悔悟する聖ヒエロニムス」The Peintent Saint Jeromeと同一ではないかと考えられている。グルノーブル美術館所蔵の同様のテーマによるものは、枢機卿帽は描かれていない。これらの点から、ラ・トゥールがリシリューの要望を含んで、書き加えたより新しい作品とみられる(Goldfarb, 157)。

もうひとりの忘れかけられた画家レーニ
  リシリューがラ・トゥールとともに個人的に最も好んだレーニGuido Reni(1575-1642)という画家も、知名度はいまひとつのところがあった。しかし、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパに知れ渡った有名画家であった。19世紀にはその名声は埋もれかけたが、その後再評価の光が当てられた画家である。この点も、ラ・トゥールと似た点もある。

  レーニはボローニャで生まれ、9歳からフランドル画家の工房で絵画を学び始め、20歳の時に、ヴーエも親しかったカラッチ家が創設したアカデミーに入って古典画技法などを学んだ。1600年頃、ローマに旅し、ナポリ、マントヴァ、ボローニャなどで活躍した。法王ポール5世や、イタリアでも屈指の王族たちがパトロンになっていた。

  レーニの作品の優雅な古典スタイルは、ラファエロの影響ではないかといわれているが、カラヴァッジョの影響も明らかに受けていた。

  1609年にアカデミー当主のアニバーレ・カラッチが死去すると、レーニはエミリアの画家たちの流派のリーダーとなった。ボローニャに大きな工房を持っていた。その成果としての作品は、1610年頃のキリナーレ宮殿、ヴァティカン、その他の教会のフレスコ画として残っている。レーニの一派は古典への回帰を目指し、スタイル、色彩その他きわめて完成した作品として結実した。ボローニャの国立美術館が所蔵している大きな作品などにそれがうかがわれる。

  晩年になると、ルーニの作品の色彩は次第に褐色などの色が多くなり、若い時代の華やかさは抑えられたものとなる。なんとなく、ラ・トゥールと似通った色調の作品もある。レーニのことを詩人ゲーテは、「神のごとき天才」と呼んだ。

華麗・壮大を求めなかった画家
  ラ・トゥールの作品も、レーニと並び王や枢機卿の宮殿を飾った。しかし、少なくも現存する作品から推定するかぎり、ラ・トゥールという画家
は宮殿や教会などの祭壇、壁画、天井画などはほとんど手がけず、パトロンや小さな修道院などの依頼に応じての作品を制作した画家であったとみられる。

  ラ・トゥールの現存する作品からは、同時代に王室画家であったヴーエやプッサンなどと比較して、華麗さや壮大さは感じられない。この点では、リシリューが期待したようなフランス王や王室の威厳や壮麗さを表現し、誇示できるような画家ではないし、自らもそうした作品を試みなかった。しかし、この画家はそれとはまったく異なる次元において、王や枢機卿などの為政者を含めて、一般民衆にいたるまで多くの人々の心に深く訴えるものを持っていた。フランス王室の威光や壮麗さを表現する手段として、王やリシリューが選んだ作品と、彼らが個人として心の安らぎを感じ感銘を覚えた作品は別であった。美術はよく分からないのではないかと評された政治家リシリューも、深く感じるとことがあったのだろう。そして、このラ・トゥールの魅力は、今日においても現代人の心をとらえてはなさない。


*
レーニは同じテーマでいくつかの作品を描いたといわれ、これがCardinal Palaceに掲げられていたものと同一であるかは不明である。この作品もラ・トゥールの闇の中に描かれたマドレーヌとは異なるが、大変美しい。昼光ともいえない一筋の光が射し込んでいる点に注目したい。しかし、闇の中に沈んだラ・トゥールの内省的な「マグダラのマリア・シリーズ」と比較すると、かなり異なる印象である。

Reference
Hilliard t. Goldfarb. Richelieu and Contemporary Art: “Raison d’Etat” and Personal Taste. Richeliu, 2002.
Marc Fumaroli. Richelieu, Patron of the Arts、Richeliu, 2002.
 
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http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20050408  

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王室画家の世界(3)

2006年03月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Philippe de Champaigne, Ex-Voto, 1662, Oil on canvas, 165 x 229 cm. Musée du Louvre, Paris. Courtesy of Web Gallery of Arts:
http://www.wga.hu/html/c/champaig/ex_voto.html


国民的画家となったプッサン
  王室主席画家に任ぜられたプッサンは、同僚画家たちの怨嗟、誹謗、中傷などの的となり、冷たい環境にさらされた。しかし、王や枢機卿の依頼を精力的にこなし、王宮美術を通して多大な影響をフランス美術界にもたらした。フランスで活動した年月は決して長くはなかったが、フランス国民は今日この画家を国民的画家とみなし、多大な尊敬を払っている


  他方、プッサンが画策したことではなかったが、王室主任画家の称号をとられてしまったヴーエにとっては屈辱の日々であったろう。抗議の書簡を王に届けることなどもしたようだ。

フランス美術界に貢献したヴーエ
  ルイXIII世やリシリュー枢機卿の関心がプッサンに傾いたとはいえ、ヴーエは当代屈指の画家であった。彼自身も1613年から1627年にかけてイタリアに滞在し、カラヴァッジョやアカデミーを持っていたカラッチ一族、グエルチーノなどの画家たちの影響を受けていた。フランス人としてヴーエは、当時屈指のイタリア美術の体得者であった。法王ウルバンIII世もパトロンであり、1624年にはローマのサン・ルカ・アカデミーの代表に選ばれ、サン・ピエトロ大聖堂の壁画を描いている。それだけに、強い自信も誇りもあったと思われる。

  ヴーエは当初カラヴァッジョ風の作品を制作していたが、その後はイタリアのバロック美術の流れへと移っていった。宮廷を介在して、17世紀フランス美術界にバロックの潮流を導入するに大きな役割を果たした。フランスに戻ってのヴーエの画風は、明らかにイタリア・バロックを受け継いだものであった。この画家はカラヴァッジョの劇的な光と影、イタリアのマネリズム、パオロ・ヴェロネーセの色彩感覚など、多くのものを取り入れ、自らのものとして消化している。ヴーエは弟子も多く、次世代の画家たちを多数育てている。

宮廷画家の世界に失望したプッサン
  他方、ルイXIII世の招聘であったにもかかわらず、プッサンにとっても宮廷画家の陰湿な世界は耐え難かったようだ。結局、彼はパリの宮廷画家の生活に失望し、1642年にローマへ戻ってしまった。そして、二度とフランスへ戻ることはなかった。依頼されたGrande galerieの装飾の仕事も未完成のままだった。プッサンがパリにいたのはわずか2年足らずであった。この年の末、リシリューもこの世を去った。パトロンの健康状態もプッサンに帰国を決意させた要因のひとつだったと思われる。しかし、プッサンはこの世紀を通して、フランス絵画に古典派の潮流を導きいれるというきわめて大きな貢献をした。ヴーエとプッサンという二人の偉大な画家の確執は、長く続いたバロックとまもなくロココにつながる官能的、装飾的な画風という美術界の大きな潮流の対立とその結果でもあった。

シャンパーニュ:引き締まった作品
  この時代のフランス王室画家として、もうひとり欠かせないのは、リシリューの肖像画を多数残したフィリップ・ド・シャンパーニュPhilippe de Champaigne (1602-1674)である。シャンパーニュは、マリー・ド・メディスのリュクサンブール宮殿の装飾などに携わった。このときの仲間に、イタリアに行く前の若きプッサンがいる。プッサンは、シャンパーニュとは、さほど厳しい対立にはならなかったと思われる。   

  シャンパーニュは、師であるニコラ・デュシェーヌの娘と結婚し、生涯、フランスで暮らした。国王ルイ13世の宮廷画家として、活躍した前半期は、華やかな肖像画を描いた。1645年以降は、バロック的な華やかな絵画ではなく、質素で慎ましいが、表現力に富む絵画を描くようになる。

肖像画の第一人者
  自ら招聘にかかわったプッサンを別にすると、枢機卿リシリューが期待をかけ、評価した画家は少なかった。リシリューが高く評価して好んでいた画家の一人が、シャンパーニュであった。

  シャンパーニュの作品は、リシリューが期待したような壮大さや壮麗という点ではいまひとつの感があったが、リシリュー枢機卿は大きな信頼を置いていた。特にシャンパーニュは肖像画を描かせれば当代随一の画家であったといえる。リシリューを描いた作品も、画面に張り詰めたような緊張と人物の威厳が漂っている。様式化が進んでいることは認めるとして、枢機卿がごひいきの画家であったことは十分に見て取れる。

  さらに、シャンパーニュは後年、ポール・ロワイヤル修道院のジャンセニスト(カトリック宗教改革の中から生まれた一派、ジャンセン派、厳しい戒律で知られる)と関わるようになってから、この画家の作品はさらに変化した。ひとつの例を挙げておこう。同時代の画家として、ラ・トゥールの研究文献などによく掲載されているシャンパーニュの作品に、ここに掲げた二人の修道女を描いた作品がある。ちなみに、この記事に掲げたイメージの一人(右側)は、修道女となった画家の娘である。背景の光の射し方などにラ・トゥールとの関連を見る人もいる。画面からは端正な引き締まった美しさが伝わってくる。   

  さて、ラ・トゥール(1593-1562)も、1639年に6週間パリにいたことも確認されている。それによると、滞在の目的はフランス王のための仕事となっているが、具体的にいかなることであったかについては残された王室文書はなにも語っていない。この時にラ・トゥールも王室画家のタイトルを授けられているが、プッサンのように重みをもったものではないと考えられている。ラ・トゥールはヴーエやプッサンのような壮麗さ、華麗さとは別の世界で、多くの人々を魅了し続けている。ところで、大政治家リシリューにとって、ラ・トゥールはいかなる画家だったのだろうか。 
 

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王室画家の世界(2)

2006年03月25日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Nicolas Poussin. Self-Portrait. 1650. Oil on canvas. Louvre, Paris, France. *
http://www.abcgallery.com/P/poussin/poussin75.html

美術先進国はイタリア
  ルイXIII世の時代に入ると、前の王で非業の死をとげたアンリIV世の時代に造営された王宮、とりわけルーヴル宮などは、建造物としてはあらかた出来上がっていたようだ。しかし、建物ばかりで中身は乏しく、リシリューそして彼の最も忠実な支持者であり、軍事参謀・国事秘書であったスブレSublet de Noyers やそのいとこたちは、宮殿の内容充実に多大な努力を払っていた。

  とりわけ、スブレの二人のいとこは、当時の美術先進国イタリア、ローマの事情に通じていた。彼らは最初ベルベリーニ宮殿やピッティ宮殿の装飾などを手がけ、法王の画家でもあったピエトロ・ダ・コルトーネPietro da Cortoneを招聘する意向だったようだが、体よく断られてしまった。当時はローマと比較すると、パリは治安も悪く決して魅力のあるところではなかったのだ。それ以上に、当時のローマはその文化水準で、ヨーロッパ諸国を圧倒していた。フランスの画家たちもイタリア美術の動向には、絶大な関心を寄せていた。芸術活動に関わる者は、ローマに行きたいと思い、またすでにローマにいる者は離れたがらなかった。

プッサンの招聘  
  そこで、次に候補となったのがプッサンNicholas Poussin(1594-1665)であった。フランス、ノルマンディー、レザンドリー生まれのプッサンは画業修業を目指し、1612年に故郷を離れた。ルーアン、パリなどを経てイタリア、ヴェニスへ旅している。1622年にはパリのイエズス会からの絵画制作の依頼を受けている。その後、シャンパーニュとともにリュクサンブール宮殿の装飾を手がけ、ノートルダム大寺院などでも制作活動を行ってきた。1624年以降は、ローマに移り住み、画家としての名声を高めていた。

  初期にはティティアーノの詩的・神秘的な主題、輝かしい色彩や動的構図の影響が感じられたが、次第にラファエルや古典的な伝統に傾斜し、「サビーニの女たちの略奪」にみられるような壮大で厳粛な主題が選ぶようになった。プッサンは、構図の明瞭さ、姿態の精確さ、細部についての詳細な描き込みを通して、人間の行動の高貴さを伝えようとした。カラバッジョやラ・トゥールとは異なる華麗さも持っていた。

  プッサンには、すでにリシリュー宮のためにBacchanals(バッカス)の大作2枚の制作依頼がなされていた。その間にベルベリーニ枢機卿などからのプッサンの作品寄贈などもあり、プッサン起用のお膳立ては着々と出来あがっていた。スブレを通してリシリュー、そしてルイXIII世へとつながり、王の裁定による招聘の形が出来上がった。フランス生まれではあったが、1624年以来ローマに住んでいたプッサンは、パリ行きは気が乗らなかったらしい。だが、フランス国王の招聘となると、むげに断るわけにもいかなかった。この間、プッサンにはさまざまな圧力がかけられたらしい。

プッサン、パリへ
  パリへ行ったプッサンは手厚い待遇を受け、ヴーエに代わって直ちに王室首席画家premier peintore に任ぜられた。フランス王室にいわば新参の画家プッサンにとっては、破格の待遇であった。
  ヴーエの場合は、名目的な肩書きであったが、プッサンには実質的に壮大な仕事が次々と依頼された。リシリュー、そしてスブレたちのプッサンにかけた期待が、いかに大きなものであったかが推察できる。プッサンは、パリに「ローマとその壮麗さを持ち込んだばかりでなく、フランスのローマと壮麗さを持ってきた!」(Fumaroli 40)のだった。

  サンジェルマン教会祭壇、ルーヴル宮殿の大回廊の装飾を始めとして壮大な仕事がプッサンに委ねられた。王の仕事のみならず、リシリューやスブレも制作を依頼した。リシリューはシャンパーニュには特別目をかけていたが、プッサンにはシャンパーニュ以上に期待をかけた。その壮大で威厳のある画風に惹かれたのだ。プッサンに対しては、フランス王室の威厳と壮麗を美術として発揚するようにとの厳しい要請ではあったが、リシリューたちにはこの画家の秘める天賦の才と偉大さへの尊敬の念があった。

王室画家たちへの衝撃
  プッサンに対する王室の厚遇は、他の芸術家からの怨嗟、不満、追従、謀略などを生み出すことになった。なかでも、王とリシリューの下で表面的には王室の芸術全般をとりしきっているはずだったヴーエにとっては、プッサンという新参者へ強く反発したことは想像に難くない。大役を任されたものの、プッサンにとっては宮廷内に漂うさまざまな波風に、居心地の悪い思いであった。ヴーエとプッサンに象徴的に示される対立は、少し時間をおいてみるとヨーロッパ美術界の大きな潮流の対立でもあった(この点については、後に触れたい)。

  人生のほとんどはイタリアで過ごしたプッサンは、17世紀フランス美術を代表する偉大な国民的画家として、尊敬され、高い評価を得ている。しかし、この画家がパリで過ごした年月は、苦労が多かったようだ。


* プッサンにはもう1枚、1649年に描かれた自画像がある。この2枚の自画像についても、興味深い点があるが、さらに脇道にはいるので別の時に残しておこう。残念ながら、ラ・トゥールの自画像は「発見」されていない。ヴーエには自画像ではないかと思われるものがあるが、確認されていない。
http://abcgallery.com/P/poussin/poussin74.html

Reference
Marc Fumaroli. "Richelieu, Patron of the Arts". Richelieu, Art and Power, 2002.

ルイ・マラン(矢橋透訳)『崇高なるプッサン』みすず書房、2000年
(プッサンの制作活動の実際については、ほとんど何も記されていないが、この画家の精神性の高さを知るには不可欠の一冊。)

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王室画家の世界(1)

2006年03月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Simon Vouet. The Fortuneteller
1617, Oil on canvas, 95 x 135 cm
Galleria Nazionale d'Arte Antica, Rome
http://www.wga.hu/html/v/vouet/1/2fortun.html

  脇道に入り込んだついでに(?)、リシリューの時代における宮廷画家たちの世界について、少し記しておきたい。ラ・トゥールとはどんな関係があるのかと云われると、手短かに答えるには窮するが、この宮廷画家たちの世界をのぞき見ないかぎり、ラ・トゥールの世界も見えてこないように思われる。ラ・トゥールとフランス王室との関係は、どの程度だったのだろうかということを探索する上で、少し踏み込んでみたい。

陰謀・策略渦巻く宮廷
  前回に記したように、ヴーエ、プッサンやシャンパーニュなどの画家たちが活躍していた17世紀前半のフランス宮廷で、国王ルイXIII世(1610-43)と、国王に仕えその威光を広めることを最大使命とする枢機卿・宰相リシリュー(1585-1642)は、30年戦争への介入を始めとして、内外の敵と戦いながら日夜を分かたぬような多忙な日々を過ごしていた。このころのフランス宮廷は、陰謀、策略が渦巻く世界で、宗教上もカトリックとプロテスタントが相対し、宮殿内にも暗殺者が紛れ込んでいたといわれる状況だった。なにしろ、ルイXIII世の前のアンリIV世は1610年、パリの路上でドミニコ修道会派とみられる刺客によって暗殺されているほどである。リシリューが多くの護衛たちを従えていたのも理由があってのことだった(ちなみに、ルイXIII世自身も1642年に、パリ市内で刺殺され非業の死を遂げている)。

平穏ではなかった宮廷画家の世界  
  他方、宮廷の芸術家として芸術活動に専念できる環境は、外の世界から見れば大きな羨望の的であったろう。しかし、王のお膝元である宮廷画家たちの世界も平穏ではなかった。芸術家の世界も、妬みや追従、策謀などが入り乱れ、すさまじかったようだ。

  モーツアルトとサリエリの例を挙げるまでもなく、芸術家たちは自らの作品がパトロンにどれだけ受け入れられるかをめぐって、陰湿な駆け引き、葛藤の日々を送っていた。パトロンといっても、誰もが画家の才能や作品について十分な鑑識眼を持っていたわけではない。ルイXIII世あるいは枢機卿リシリューが芸術家やその作品の評価にどれだけ目をもっていたかというと、かなり疑わしい。

リシリューと芸術
  先の「リシリュー:芸術と権力」展の企画者であったゴールドファーブなどの研究者は、美術に関してはリシリューに厳しい。リシリューは音楽、美術はよく分からなかったのではないかという。詩的センスも欠いていたとされる。こうした批判にもかかわらず、さすがに歴史に残るフランスの大政治家、宰相・枢機卿リシリューは、国王に仕える最大の権力者としての役割を認識していた。そしてフランスという国家的栄光のために、芸術を自らの権力でいかに活用するかに力を注いだ。
 
  リシリューがたとえ芸術に鑑識眼がなかったとしても、ヨーロッパ世界の中心にいた人物であり、芸術の世界に関する情報は十分心得ており、時代の流れ、著名な作家たちについても良く知っていた。時にはヴァザーリの『芸術家列伝』などもひもどいていたようだ。プッサンやラ・トゥールなど、当時の芸術家などについても、広く情報網をはりめぐらしていた。リシリューの側近には、数人の美術の収蔵家もいた。情報は、ルイXIII世にもさまざまに伝えられていた。そして、リシリューは大政治家であるとともに、時代を代表する文人であった。リシリューは詩は分からなくとも、演説は得意であり、文章力にも長けていた。非凡な人物であったことは疑いない。

  ルイXIII世の治世に、王室の美術にかかわる仕事を任せられていた画家は何人かいた。アンリIV世の二番目の妃であったマリー・ド・メディシスのごひいきで、ルーベンスも王室画家としてパリにいたことがあった。1623年リシリューが権力を掌握し、ルイXIII世に王位が移ると、ルクセンブルグ宮でアンリIV世の美術回廊を受け持っていたルーベンスは仕事を取り上げられてしまい、1624年にはパリを去り、二度と戻ることはなかった。パトロンである権力者がいなくなると、画家たちも運命を共にするのは世の常であった。

ヴーエはパリへ
  シモン・ヴーエが、ローマからパリに呼び戻されたのは1627年のことであった。ヴーエは1590年生まれで、1593年生まれのラ・トゥールとほとんど変わらない同時代の画家である。パン屋の息子であったラ・トゥールと異なり、画家の家に生まれたヴーエは、当時多くの画家が目指したように1613年イタリアに移り住んだ。イタリアは芸術の面でも、ヨーロッパ随一の先進国であった。ジェノア、ヴェニス、ナポリなどを経て、ローマに住み、画家としての生活を送っていた。すでにこの時期からフランス王室から留学資金を与えられていたといわれるから、早くから才能が認められていたのだろう。

  生来の素質とイタリアでの研鑽の結果はまもなく実を結び、著名な画家として知られるようになった。ヴーエの名声はパリにも聞こえ、ルイXIII世の招きでパリへ移住することになる。そして、王の主席画家premier peintre du roiとしての称号を与えられ、形の上では全体をとりしきる役割を与えられていた。かなり名目的な称号であったようだが、王室が与えた最初のもので、後に一時プッサンに与えられた時を別にして、ヴーエがその役割を担っていた。

  ヴーエはイタリアのバロック美術の洗礼を受けていたが、フランスに戻ると、華やかさを維持しつつも、イタリア風とは対比できる分かりやすく世俗的な「パリ風」に工夫して持ち込んだ。彼の弟子たちも協力して、「パリ風アンティーク」とテュイリエが形容した一派を成すまでになった。ローマ時代のヴーエの作品を見ると、カラヴァッジョの影響がありありと分かる。この記事で取り上げた「占い師」も、カラヴァッジョではないかと思ってしまうほどだ。妻のヴィルジニーVirginie de Vezzoも画家であり、ルイXIII世にパステル画を教えていた。

枢機卿はお好みではなかった
  このように、王室の絶大な庇護を受けていたかにみえるヴーエだが、リシリューの好みに合わなかったようだ。その理由としては、リシリューのきらいなイタリア・バロックの影響が色濃かったこと、ルーベンスに似ていたなどが上げられているが、詰まるところ、リシリューが期待する壮麗さに欠けていたことにあったようだ。フランス王室の権威と偉大さを示す役割を負わされた美術として、ヴーエの作品は物足りなかったのだろう。

  こうした状況でプッサンがローマから招かれることになった。そこでなにが起こったのだろうか。

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http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/911ffc63ab5dad3aa70ebc8e4437743a

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キルヒナーを東京で見る

2006年03月19日 | 絵のある部屋

 キルヒナーという画家は見る側からすると、大変好き嫌いの振幅が大きいようだ。嫌いな人にとっては、陰鬱、不気味、退廃的な画家に映るらしい。しかし、この画家をポジティブに評価する人からすると、キルヒナーほど時代の持つ意味を深く体得し、鋭く表現した画家はいないということになる。生涯を通して、画風や対象には大きな振幅があった画家だが、特にベルリン時代の作品に優れたものが多い。戦車や軍靴の響きが聞こえてくる暗い時代を予告するような不気味さ、都市の深層に流れる底知れぬ暗い潮流を鋭利にえぐり出している。

「ポツダム広場」を東京で
 さて、今ならばキルヒナーの作品のいくつかを東京で見ることができる。以前にこのブログでもとりあげた、あの「ポツダム広場」や「日本の芝居小屋」が含まれている。キルヒナーだけではない。日独の多くの芸術家の作品が展示されており、東京とベルリンという東西の2都物語を楽しむことができる。この二つの都市は、予想外に複雑に交錯する時代的空間を共有していることが分かる。もっとも、展示作品にはどうしてこのテーマに関連するのかと思うものもあり、企画・選定にかなり無理が感じられた。「日本におけるドイツ年」の最後の催しである。

 ベルリンという都市は、東京とは違った意味で変化の激しい都市であると思う。訪れるたびにその変貌ぶりに驚かされる。最初に訪れたのは、まだ「壁のあった」時代、テンペルホフ空港で目にした空港守備隊の戦車と兵士には、心臓が止まりそうな思いをしたことを今でも鮮烈に思い出す。駐機場に置かれた戦車の砲身はしっかりと到着したばかりの航空機に向けられていた。「百聞は一見にしかず」と立ち寄ったカフェ・クランツラーで単なる旅行者にすぎない私に、こちらがひるむくらいの熱心さで、東ベルリンの惨状と分かれて暮らす叔母のことを語った隣席の若者も忘れられない。同世代と思ったからだろうか。

爽やかな緑
 そして、今は緑の美しい都市である。キルヒナーの緑とは異なる爽やかな色である。東京と比較すると、中心部でも人が少ない。大都市ではあるが、繁華街であるクーダム近辺を歩いても東京のような喧噪は、まったく感じられない。東京のような雑踏、ざわめきがない落ち着いた都市である。そして、なによりも、あの充実した美術館の集積には圧倒される。美術が好きな人にとって、ベルリンはパリやロンドンと並んでもはや絶対に欠かせない場所である。そして、現在さらに充実の過程にある。


Berlin-was nun?


*「東京ーベルリン/ベルリンー東京展」(森美術館、東京・六本木ヒルズ森タワー、5月7日まで)。
http://www.mori.art.museum/html/jp/index.html

本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/e1a81c052671165965ac489fe66b9967

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孤独な人たちを結ぶドイツの生きがいネット

2006年03月16日 | 労働の新次元

  団塊世代(1947-49年生まれ)といわれる人たちが、労働市場から少しずつ退出しようとしている。その受け取り方には個人差はあるが、周囲の人たちを見るかぎり、今後の人生にチャレンジし、積極的な生き方をしようとする人も多く、救われる感じがする。他方、医療や看護・介護などの現場を見ると、高齢者の圧倒的多さに改めて別の衝撃を受ける。「2007年問題」とまでいわれるようになった団塊世代の問題だが、日本の場合、すでに人口の20%近くが65歳以上である。

ドイツの退職者ネット
  高齢化問題は先進国の中では日本が際だって厳しい状況だが、他の国々でも「ベビーブーマー」世代の労働市場からの退出は、同様に見られる現象である。こうしたことを反映してか、このところメディアが海外の高齢化問題をとりあげることも多くなった。たまたま出会ったBS1の番組でドイツ人の退職後の人生における過ごし方について、ひとつの問題を紹介していた。ドイツでは、ある推定によると、2050年には3人にひとりが65歳以上になるといわれているが、すでに高齢化社会の前兆はここでもいたるところに現れている。

  番組で紹介されたのは、引退後予想しなかった孤独感に襲われた人々の悩みを、インターネットで結び解決しようというひとつの試みであった。登場した人物のひとり、ドロシア・ツルクさんは長らく医療機器を扱う仕事に従事した後、定年を迎えた。現在は、ドイツ北部の小さな町シュビーグに住んでいる。娘たちは遠く離れて生活しており、ひとり暮らしである。しかし、スポーツ好きで毎日ジョギングもするほど健康であり、経済的にも不安はない。
  
  しかし、毎日職場に通勤していた頃は実感がなかったが、実際に小さな町で暮らし始めてみると、仕事をしていたときには想像しなかった孤独感に襲われた。これは予想外のことであった。彼女は仕事の方は引退しても、人生まで引退するつもりはなかったのだ。といって、いまさら再就職するつもりもない。

さまざまな選択
  ドイツはこのたび年金受給年齢を引き上げて67歳とすることにしたが、これもかなり厳しい政策上の選択である。60歳代に入ると、精神的にも肉体的にも個人差が大きくなり、人生の過ごし方も大きく異なってくる。70歳を過ぎても仕事を続けたい人もいるが、もっと早くから別の人生を楽しみたい人もいる。仕事を続けられれば、そのまま人生を終わってもよいと思う人もいる反面、在職中は自分の時間を十分もてなかったので、退職後はそれまでできなかったことを、ぜひやってみたいと思う人も多い。

  実際、ドイツに限らず、多くの国の政府は従来60歳近辺を年金支給年齢に設定し、労働市場からの退出と合わせるようにしてきた。しかし、高齢化の進行と財政難で、年金支給年齢を引き上げざるをえなくなった。60歳から65歳、そしてドイツのように67歳まで引き上げようとする国も現れた。 

孤独な人々を結ぶネット: Alt und jung kommen sich im Internet näher

  こうした状況の下で、ドロシア・ツルクさんが偶然に出会ったのは、ひとつのインターネット・上のサイトであった。gebraucht-werden.de(「必要とされている」の意味)と名付けられている。開設したのは、ランスブルグに住む45歳で歯科技工士のラングさんである。自分は高齢者ではないが、離婚してひとり暮らしとなり、その孤独感から脱却しようと考え、試みにサイトを立ち上げた。ところが予想外に反響があり、今では週に4000近くのアクセスがあるという。

  このサイトのひとつの売り物は、サイトに自分の広告を出すことができることだ。先のツルクさんは、無料で子供たちの世話をするサービスを始め、2週間に1回9人の子供たちを自宅へ受け入れている。近隣の親たちから反響があり、大変満足感を得ているという。子供たちの家族との交流も生まれ、新たな生き甲斐を感じているようだ。この例からも明らかなように、引退した人たちの悩みのひとつは、職場などで働いていた時には感じられなかった孤独感であるようだ。

  実際にこのサイトにアクセスしてみると、シンプルな作りであり、分かりやすい*。ただ、あまりに地味すぎて、もう少し色彩や飾りがあった方が良いと思うくらいである。デザインもちょっとあか抜けない。それでも、中身を見てみると結構面白い。日本でもすでに類似のサイトが開設されているのかもしれない。

  グローバル化の展開に伴って、地縁、血縁などこれまで人々を結びつけていたきずなが急速に細くなっている。転職、退職など、なにかを契機に孤立感を感じる人も多いのだろう。インターネットの世界は経済や情報のグローバル化を推し進め、そうした状況を作り出してもいるが、他方で孤立化した個人を結びつける役割も果たしている。自分もその一端にかかわりながら、考えてみると不思議な世界である。

*
http://gebraucht-werden.de/
2006年3月13日 BS1

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イギリス移民法改正のねらいは?

2006年03月13日 | 移民政策を追って


*イギリスの受けつけた庇護申請者数(左側軸目盛り)とジャーナリズムなどの人種・移民・難民を最重要課題とする言及(右側軸目盛り)


 

透明度は高い新システム
  EU諸国の間では移民労働者に対して「開放的」というイメージが持たれているイギリスが、このたび移民法を改正した。3月7日、発表された改正内容によると、カナダ、オーストラリアなどが採用しているポイント制が導入される。

  新システムは従来の方式よりも「構造化」されて、政策としての透明度は高い。イギリスに入国し、定住して働きたいと思う外国人は、あらかじめ規定された5段階のひとつに区分される。その区分けは、熟練の程度、仕事のオファーがあるか否か、大学でのポジションがあるかどうかなどによる。入国が認められるためには、それぞれの段階で求められる基準をどれだけ満たしているか、ポイントがつけられる。

ポイント制の導入
  たとえば、仕事のオファーがあり、第2階層の者は50ポイントが与えられる。そして俸給のオファーが18,000ポンド($31,000)から19,500ポンドならば10ポイントが、PhDの学位があればさらに15ポイントが付加される。労働力不足の職種であれば、ポイントはさらに追加される。職種別需給の程度は、2年に1度、新設の評価機関が判定する。内務省が使用者を認定すれば、これもポイントが増える。

  率直に言って、内容は現システムと比較して大差はない。より分かりやすくはなっているが、新システムは旧システムの目指してきた方向と変わらず、ラベルを貼り替えた程度である。たとえば、新システムの階層(1)は、高熟練の移民労働者に対応して4年近く運用してきた現行制度の引き写しである。ポイント制といっても実質は現行方式とさほど変わったものではない。明らかに変わった点といわれるのは、ホテルと農業分野で働く労働者を段階的に廃止する措置ぐらいだろう。この分野では東欧・中欧からの労働者が働いていた。したがって今回の制度改正に対する不満の多くは2004年5月以来、イギリスで働く東欧からの入国者からである。

高い熟練の奪い合い
  熟練度や専門性の高い移民(労働者)は積極的に受け入れ、低熟練の移民には制限を課すという政策は先進国が採用している政策方向である。いわば、グローバルな次元での「タレントの争奪」が展開している。イギリスの今回の移民法改正もその方向に沿っている。

  ただ、新システムでの変更点がほんのわずかであっても、政府側が大きな改正だというのはどうしてなのか。これについては、次のようなことがいわれている。世論調査によると、イギリス人は移民について一貫して高い関心を示してきた。そして、最近は移民について政府はコントロールできていないとの見方が強まっていた。

  この見方が生まれたのは、2000年にイギリスへの難民申請者が急増したのがきっかけだった。英仏海峡トンネルを経由して入ってくるアフガニスタン人のイメージなどがTVを通じてイギリス人の見方や世論に影響した。

  その後3年近く、イギリスが受け入れた難民の数は減少した。国境管理の強化とアフガニスタンとイラクでの敵対的政権が崩壊したことが主たる背景である。イギリスへの難民申請者は減少し、最低の水準である。しかし、世論調査などでは、政府の移民対応に不満が多い。これについては、難民制度の破綻が移民制度全体への不満に拡大したとの見方もある。中欧からの流入者について政府見通しが著しく過小評価であったことも原因といえる。

新制度と内実
  今回の新制度は、一見すると厳格なシステムであるかのごとき対応で、世論を鎮めようというつもりらしい。そのためか、短期的には、マスコミなども好意的である。問題といえば、ポイント制は移民の流れを止めることを容易にする。流れを弱めて数字面で減らすことができる。そうなると、当然野党は移民受け入れの数自体を議論の俎上に乗せるだろう。それは政府は避けたい点である。

  こうした点からも明らかなように、アメリカ、ヨーロッパなどの移民政策は決して開放の方向へ一途に向かっているとはいえない。むしろ、高まる移民の圧力に抗して、国民国家の障壁をなんとか維持しようとしている姿が見えてくる。グローバル化は、大きく揺れ動きながら、進行している。その姿を見失わないようにしないと、突然予想外のことが起こりかねない。


Reference
*"Pick and mix," The Economist. March 11-17th, 2006.

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「カリナン」を読む

2006年03月11日 | 書棚の片隅から

  フィリピンに関するある文献を探索する過程で出会った一冊である。春江一也氏の作品は、「プラハの春」、「ウイーンの冬」そして最近の「ベルリンの秋」まですべて読んでいるつもりだったから、一瞬とまどった。これまでの作品の印象から、次の舞台も東欧か中欧という思いこみがあった。そのためもあって、今回手にした文庫版に先だって、この作品が2002年に刊行されていたことをうかつにも知らなかった。

  しかし、本書を取り寄せてみて、直ちに納得した。春江氏はフィリピン、ダバオの総領事館に勤務した経験もあったのだ。同氏の作品は、いずれも外交官時代の経験に基づいて、事実面での考証がしっかりしており、その上に組み立てられるストーリー展開は大変巧妙であり、いつも一気に読んでしまった。最近の妙な日本語では、「読まされてしまった」といえようか。読み出すと、他の仕事を放り出してしまうので、「プラハの春」に出会った時から、春江氏は私にとって「危ない」作家だった。エンターテイニングな作品でありながら、しっかりと調べられた時代的背景などにも惹かれてのめり込んでしまう。

  いまやほとんど知る人がいなくなった、20世紀初めフィリピンへの日本人出稼ぎ労働者のその後が本書で展開する。フィリピンへ出稼ぎに行くが、志を果たせず、マニラなどで貧困にあえぐ生活をしていた日本人出稼ぎ労働者が、ある実業家に連れられて、ダバオに移住した。

  彼らは文字通り艱難辛苦の時を経て、1930年代にマニラ麻の原料アバカの栽培に成功した。ダバオは日本人が発展の素地を築いた地であった。カリナンはダバオの郊外に現存する小さな町Calinanのことである。しかし、第二次大戦によって状況は一転、荒涼たる光景へと変わる。

  そして、戦後を舞台とした同じ場面において、この小説の主人公柏木雪雄が登場する。柏木は日本の一流銀行の経営幹部の一人であった。しかし、バブル期の放漫経営の結果、破綻する。特別背任の罪を背負った主人公は責任感も強く、服役する。そして、刑期満了後、自らが背負った個人としての遠くなった記憶の糸をたどり、ダバオを訪ねる旅に出る。

  彼の背景には読者があっと思うような過去が存在し、そのための自らの再生の旅もまた思いもかけない展開となる。フィリピンと日本の関係は、単に複雑だという表現はそぐわないほどである。大変長く深く屈折した過去につながっている。日本人で、その全体像が見通せる世代の人々はきわめて少なくなった。一時、大きな話題となった「山下財宝」が重要な道具立てとして登場してくる。といっても、ご存じない世代の方が圧倒的に多い時代になりました。

  フィリピンと日本の関係は、戦前、戦後を含めて、容易に説明しえないほど入り組んだ経緯をたどってきた。サスペンス・ドラマの形をとりながらも、巧みに歴史的事実をふまえた着実なストーリー展開に思わず引き込まれて読みふけってしまう。
 あとがきでは、重要な登場人物のひとりである女性医師も、アメリカに行っている。フィリピンの医師、看護婦が海外へ多数働きにいっている問題は、このブログでもとりあげたことがある。半ば楽しみながらも、フィリピンという国と日本との関わり合いを改めて考えさせられてしまう。

*
春江一也『カリナン』集英社文庫、2005年(2002年に同社から刊行された作品の文庫化)。

本ブログ内の関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/637b174a6bdab08bf5d9038d061e20b6

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ラ・トゥールを追いかけて(64)

2006年03月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

リシリュー枢機卿とラ・トゥール(3)

  今回は、ちょっと脇道に入ることになる (このテーマ、脇道が多く、うっかり入ると出られなくなります)。前回に続いて、宰相リシリューの権力と芸術に関する問題を考えている時に、偶然にもBS1でBBC制作「芸術のわな」How the art made the worldなる番組(2006年3月7日放映)と出会った。政治的指導者と芸術の関係を追った番組だった。

  あのブッシュ対ケリーのアメリカ大統領選で、グラウンド・ゼロの瓦礫の山に立ったブッシュ像が、「頼りになる指導者」のイメージ作りに役だったという、あまり頼りにならない話から出発した番組であった。政治に欠かせない、国民と強いつながりを持った指導者というイメージを創りだしたとの説明である。例えが適切でない気がした。ともかく、古代から今日まで世界を支配した政治家たちは、芸術を自らのイメージ作りにさまざまに利用したという。

ストーンヘンジからアウグストス
  そして、番組の話は一挙にイギリスのストーンヘンジへと飛ぶ。少し興味を惹かれたのは、ストーンヘンジの近傍で、2002年に偶然古代の墓が発見され、ほぼ4500年前の人骨と副葬品が出土したという点だった。発掘品の中にあった精妙な金細工から、この装飾品を身につけていた人物は、イギリスではなくヨーロッパ大陸全体に影響力を持っていた大陸出身者であり、ストーンヘンジはその大きな権力を誇示するひとつの道具立てではなかったかとの推測である。残念ながら番組はこの人物が誰であったかなど、知りたいことは伝えてくれなかった。

  さらに、1978年には、かの大王アレクサンドロスの父、マケドニア王フィリポス2世の王墓がギリシャ人考古学者によって発見された話となる。その際、若き時代に狩りをするアレクサンドロスとみられる肖像も併せて出土した。世界制覇のための指導者として、自らの権力を示すに、こうした肖像はコインなどに彫り込まれた。アレクサンドロスの時代のための準備がすでに出来ていたという。

芸術を権力のために
  芸術を自らの権力のために使うというこの考えは、アウグストゥスにも継承され、そのイメージ戦略はさまざまな媒体でローマ帝国全土へ拡大されたという。芸術は人をあざむくためにも利用される。ヒトラーとナチスの映像も出てくるが、よく知られた話であり、ユニークさの足りない番組であった。

  さて、宰相リシリューと芸術との関係にも当てはまることだが、このフランス王をもしのぐ権力者が、芸術を政治目的に使っていたことも明らかである。なにしろ、新宮殿などの現場を視察するなど、外出する時には安全上の配慮もあって、100人の騎馬兵、100人のマスケット銃士、20人の伝令を伴っていたという人物である。

 リシリューの肖像画
  時の権力者であったリシリューを描いた肖像画、ブロンズの類はさすがにきわめて多い。これらを改めて眺めてみると、色々面白いことが分かってくる。このブログでも記したように、宰相リシリューは王室画家であるヴーエ Simon Vouet(1590-1649)はお好みではなかったようだ。このことはヴーエの側も同様で、リシリューが自らイタリアから招いたプッサンや肖像画の巧みなシャンパーニュ Philippe de Champaigneを重用するのが面白くなかったらしい。

  肖像画としてみると、確かにシャンパーニュの描いたリシリュー枢機卿は、大変立派に描かれている*。衣装や装飾品も豪華であり、威厳や品格が画面に漂っている。手で持たれた枢機卿の帽子の赤も映え、巧みな構図である。

  ヴーエもリシリューを描いているのだが、一国の宰相像というにはなんとなく弱々しい。ヴーエは他の題材については、力強い、迫力のある作品も残しているのだが、リシリューには制作意欲を感じなかったのだろうか。

  リシリューが未だ若い頃の肖像であったこと、一種のパステル画ということを差し引いても、比較してみると迫力に欠ける。もっとも、肖像画としては当時流行の全身像ではなく、半身像であること、文人でもあったリシリューを示すアトリビュートとしての手紙を掌中にしていることなど、ブーエも新しいアイディアを駆使したつもりだったのかもしれない。しかし、どうも宰相のお気に召さなかったようだ。当時の肖像画は現代の写真のような役割を果たしていた。シャンパーニュとヴーエの手になる肖像画のいずれが、リシリューの実物像に近かったかは別の話である。ラ・トゥールが描いたら、どんな作品になっただろうか。


*
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/champaig/richeli.html

Image: Courtesy of J.Paul Getty Museum.

Simon Vouet, Portrait of Armand-Jean du Plessis,Cardinal de Richelieu, about 1632-1634, black, white, and red chalk, and pastel,27.4x21.2 cm. Los Angels, J. Paul Getty Museum, 97, GB.68
 

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漂流するEU共通移民政策の行方

2006年03月07日 | 移民政策を追って

  「開放」、「自由化」、「国際化」というと明るい前向きな響きを持つが、「閉鎖」、「制限」はなんとなく後ろ向きな響きを持っている。前者は「良い」が、後者は「悪い」ということに短絡しがちである。しかし、移民受け入れ政策の現実的設定という点からみると、バランスのとれた決定は多くの場合、この中間のいずれかにあり、しかも時間軸上も固定されたものではない。現実には「完全閉鎖」も「完全開放」もない。移民受け入れ政策は歴史的にも大きく揺れ動き変化してきた。移民政策の決定は、かなりの経験の蓄積が必要とされる。とりわけ、他国との相対的関係が重要なものとなる。一国だけが突出した政策はとりにくい。

「開放論」からの揺り戻し 
  たとえば、フランスでは「郊外暴動」を契機に、移民(外国人)労働者について国内には移民受け入れ反対、制限論が高まってきた。ひところの「開放論」からの揺り戻しである。以前にも記事にしたように、9.11以降のアメリカでも同様である。移民問題はいずれの国でも、頭痛の種となっている。

  2004年5月1日、10カ国が新たにEUに加盟した当時、旧加盟国の間には拡大EUの成立を祝うよりは、移民労働者の大量流入を危惧する論調が目立った。移民は自分たちの仕事を奪うか、高い水準を達成した
福祉給付を蚕食するという理由である。拡大EUが議論され始めた頃は、偉大な欧州の実現という歓迎ムードであったのだが、その後風向きはすっかり変わってしまった。

大多数は様子見の状況
  結果として拡大EU成立時には、旧加盟15カ国のうち12カ国だけが東欧など新加盟国からの労働者に対して国境を広げるのではなく、「移行措置」という模様眺めの措置を設定した。イギリスとアイルランドだけが開放の姿勢を見せただけであった。しかも、この両国といえども手放しの開放ではなく、福祉給付を求める者を制限する措置を設定し、イギリスは外国人登録の措置を導入した*。この2国は日本と同様に島国であり、国境管理がしやすい点で恵まれている。スエーデンは、議会が当初の制限措置導入案に反対し、結果として労働市場を開放した。

  さて、こうした「移行措置」は2年間経過した今年4月30日レビューされることになっている。この移行措置は最大限5年までは延長が許容される。 さて、2年間の終了を目前にした本年2月8日、ヨーロッパ委員会は人の移動と受け入れ政策に関して、これまでの経験を分析したレポートを公表した。その内容は、あたかも国境を開放した3カ国と制限した12カ国の管理された実験についての評価とも読めるものであった。タイミングを見計らって公表されたようである。しかし、舞台裏では表現などをめぐって、かなりの政治的駆け引きがあったらしい。それでも委員会レポートの結論は明白であった。すなわち、すべてのファインディングスは開放の方向を選択したイギリス、アイルランドなど3国を支持するようになっていた。

  言い換えると、これら3カ国ではマクロ経済としては経済成長率も高かったし、失業率も低かった。 これに対して、12カ国はさしたる成果もないか、マイナスの結果、すなわち不法労働者の増加が記録された。3カ国が国境を移民労働者に開放したことが、この良い結果の原因とはいえないかもしれないが、害を与えなかったことは確かなようだ。

  かくして委員会レポートは、移動の自由はEU市民の基本的権利で、制限はフェアでないとしたばかりか、機能していないと結論した。すなわち、厳しい入国制限をした国が、移民労働者の入国が少なかったとはかならずしもいいきれない。2004年以降、移民労働者が大きく増えたのは、最も制限を厳しくするという考えのオーストリアだった。しかし、これらの国では入国制限の結果、国境をひそかに越えて不法に働く労働者、労働者ではなく自営業と主張する者、母国から海外で働くように送り込まれたという労働者が多かった。

「開放」へのガイドラインとなるか
  ヨーロッパ委員会レポートは「移動のフローの大きさと現在の移行措置の間には直接的な関係はない」としている。東欧などからの移民流入は、旧EU加盟国の失業を悪化させるという恐れは空虚にみえる。 15カ国の多くの国では、新加盟国からの流入は労働力の1%以下だった。開放したアイルランドでは3.8%だった。そして、外国人労働者は雇用の機会を奪ったのではなく、国民が就労しない仕事に就いていた。

  特記すべきことは、EU15カ国のうち10カ国の場合、移民労働者が入ってきても雇用が増え、ローカルの労働者の雇用も減らなかった。さらに福祉給付が大きく蚕食されているとはいえないことだった。多くの人が考えていたことは、いずれは帰国することを視野に入れ、仕事を目的に出稼ぎにきて、福祉に依存して生きるということではなかったとされている。

  もっとも問題がないということではない。アイルランドの船員組合は、昨年使用者が賃金の安い非組合員のラトヴィア人労働者を雇用したことに抗議し、ストライキに入った。その経験に基づき、アイルランドの組合は外国人労働者に一定の入国制限を要請している。ドイツとオーストリアは旧共産圏の国と国境を接する国々であり、特にオーストリアの場合、彼らの賃金はスロバキアの5倍という。 こうした事実もあるが、全体として委員会報告は、新加盟の10カ国からの労働流入は15カ国の賃金や仕事の保障を脅かすものではないとしている。

労働組合も対応を変える?
   昨年12月にヨーロッパ労働組合連合(ETUC)European Trade Union Confederation は労働移動についての態度を変更した。ドイツとオーストリアは反対したが、他の国のメンバーは域内移動の制限を撤廃する考えに同意した。東欧から合法的に労働者を受け入れた方が団体交渉もしやすいし、税金も払ってもらえるという考えに切り替えた。

  フィンランド、ポルトガル、スペインそして多分ギリシャも移行措置を5月に改めると見られる。他の国は少し緩めるか考慮中である。ヨーロッパ委員会レポートは、労働力の流動化の拡大は利益が大きいと主張している
。確かに、入国してきた外国人労働者が一時的な出稼ぎが目的であり、福祉給付に依存するものでもなく、定住せずに全員帰国するのならば、受け入れ国側にとっても利益が大きいだろう。しかし、これまでの歴史が示すのは、現実はそれほど簡単ではなく、時間の経過とともに当初の意図とは異なり、定住し帰国しない者も多いということである。

  移民労働者問題は、経済理論だけでは対応できない難しさがある。ヨーロッパ委員会がいくら国境開放がプラスの効果を生むと説いたところで、現在のフランスやドイツあるいはオーストリアがその方向になびくだろうか。国境は簡単には消滅しない。


イギリスは2007年半ばくらいから、移民を5段階に分け、高技能な者から優先的に受け入れる制度を導入する予定。結果として、アジア系の移民は影響を受けて減少する可能性が高い。
「日本経済新聞」2006年3月8日夕刊

Reference
When east meets west, The Economist February 11th 2006

本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/8e78bc7de68772da6d6bad36f38e4a6d
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20050508

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ラ・トゥールを追いかけて(63)

2006年03月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

リシリュー枢機卿とラ・トゥール(2)

 リシリューの生きた17世紀は、フランスが国家としてのアイデンティティを築いた時代であった。彼は文字通りその中心にいた。目まぐるしいばかりの政治や社会の変化の渦中にあったリシリューにとって、美術とはいったいどんな存在だったのだろうか。

異色の特別展
 このなんとも難しい異色の問いかけに真正面から果敢に取り組んだ一つの特別展が2002年に開催された。主題は直裁に「リシリュー枢機卿:美術と権力」であった。企画したのは、北米カナダの都市モントリオールのモントリオール美術館*である。決して、世界的に良く知られた美術館というわけではない。しかし、構想と準備が素晴らしければ、十分注目を集める展示になりうることを示した。

  モントリオールという都市は、私にとっては特別の思いがある場所である。なにしろ、初めての外国であったアメリカの次に訪れた国の大都市であり、その後、縁あってこの都市と密接に関連する領域で仕事をしたこともあって訪れた回数も多い。
  
 友人とキャンピングカーを借りて、オンタリオ湖景勝の地 サウザンド・アイランド、キングストンからスタートし、トロントからオタワ、モントリオールを通り、ケベック、ガスぺ、ハリファックスまで、セントローレンス川探索の旅を試みたこともあった。モントリオール郊外のローレンシャンからアディロンダックにかけての紅葉は、世界一ではないかと思う。セントローレンスを下った旅には色々な思い出があり、いずれ書いてみたい気もする

 閑話休題。 宰相リシリューとモントリオールはいかなる関係があるのだろうか。実はリシリューが世を去った1642年は、モントリオールが建設された年であった。しかし、それに先だって、リシリューはしっかりと「新たなフランス」の構想を描き、着々と手を打ち、実現していた。1620年代に彼はフランスの統治者として最大の実力者であったが、北米の一角にも投資を行い、その発展を見守っていた。より正確には、アンリ4世のヴィジョンに基づき、北米の探検隊としてサミュエル・ド・シャンプランを派遣し、後にカナダにフランス植民地が築かれるきっかけを準備していた。

リシリューと美術  
 他方、リシリューは美術をいかに考えていたのだろうか。単純に表現すれば彼は、時代の人々の思いを結合し、フランスという国家のアイデンティティを形づくるために芸術の力に着目し、自らの力を行使したといえる。まさに芸術の力を国家イメージの形成に使ったのである。美術はその後、フランスという国家の文化政策の構築・展開のために重要な武器のひとつとなった。

 リシリューは文学と劇場には関心を抱いて、政治的目的のため最大限に活用したが、絵画などの美術については教養ある貴族のたしなみ程度で、関心が薄かったといわれる。しかし、事実は必ずしもそうではないらしい。 確かに、リシリューは文学や演劇についてはかなりのコメントを残しているが、美術に関連することはそれほど多くないことも、こうした推測を生んできたようだ。

 この多忙をきわめた政治家は、不眠症であったようだが、大変気配りの人でもあったようだ。1634年に彼の姪3人の結婚祝いに贈るパラソルの図柄を自分で選び、デザイン、絹地の種類からレースまで、秘書に詳細な手だてをさせ、ジェノアの大使経由で注文させていたという逸話も残っている。
  
 また、リシリューは一時期、自ら家計にも深くかかわり、収支のありようなどにも配慮していたようだ。予想外に色々なことに気を配っていた。57歳で亡くなるまで、実に多くのことを手がけていた人物であることを、思わぬことから知らされた。

リシリューとプッサン
 リシリューがラ・トゥールと同時代のプッサンNicolas Poussin(1594-1665)の絵を好んだことはよく知られている(最も好んでいたのは、シャンパーニュだったらしいが)。そして、リシリューがフランス、ノルマンディー生まれの画家プッサンをローマからパリへ呼び戻したこと、厚遇して雇ったこと、などはこの展示にも示されていた。
  
 他方、プッサンはローマの生活になじみ、パリには来たくなかったらしい。しかし、フランス王室は外交力で間接的に脅したり(?)すかしたりで、やっとこの画家をパリに招いている。1640年12月、パリに画家が到着後も、テュイリュー宮に滞在させたり、さまざまに面倒をみている。     

 プッサンは当時若くしてヨーロッパ美術界に知られた画家であったが、生年はラ・トゥールの1年後で、ラ・トゥールよりも13年近く長生きした。文化的で生活環境の整ったローマで良い生活を過ごしたことも影響しているのかもしれない。

王室になじまなかった画家  
  しかし、ルーブル宮には、プッサンの重用を好まぬ宮廷画家たちもいたようで、プッサンはさまざまな軋轢に悩まされたようだ。結局、パリの王室の生活は、肌に合わなかったようだ。まもなく、ローマに帰ってしまい、その後フランスへ戻ることはなかった(プッサンについては、別途少しくわしく書いてみたいこともある)。

  リシリューは建築設計への指示や要望などから推測すると、ギリシャのドーリア様式が好みのようであった。絵画については、多数の作品が彼の生涯を彩っているが、多くの美術家のパトロンでもあったリシリューは自分の審美観に合わない作品も積極的に集めようと考えていたようだ。後にフランスが世界に誇る財産となるが、コレクションには、プッサン、カラヴァッジョ、カスティリオーネ、ラファエル、ダヴィンチ、シャンパーニュなどおびただしい数の名作、大作が目白押しであった。さまざまな理由で寄贈された作品もあった。ラ・トゥールの作品もそのひとつと考えられる。

Reference
Cardinal Richelieu:Art and Power The Montreal Museum of Fine Arts,2002
http://www.mmfa.qc.ca/en/index.html
  
    余談だが、この展示のカタログは異色のテーマを意欲的に取り上げたこともあって、あまり目立たない美術館の主催にもかかわらず、非常に立派で読み応えがあるものになっている。このブログ記事で、歴史的事実にかかわる部分はこのカタログに依っている。 モントリオールの後、ドイツのケルンに移動し、同じテーマで展示された。
September 18, 2002 – January 5, 2003, Cologne, January 31 – April 20, 2003


この旅を実施するについては、小学生の頃に読んだ「セントローレンス川をさかのぼる」という書物(?)の記憶がどこかに残っていた。フランス植民地の成り立ちなどを含め、地名など今でもかなり細かい部分まで覚えているのだが、肝心の著者の記憶が不確かである。多分、長らく職場を共にした友人にきわめて近い方ではなかったかと思うのだが、いずれ確認してみたい。

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フランスに厳しいメディア? そして日本は

2006年03月02日 | 移民政策を追って

  
  
昨日、3月1日のメディアは偶然か、フランスに大変厳しかった。世界中を驚かせたあの「郊外暴動」がひとまず鎮圧された今、NHK(BS1「世界のドキュメンタリー」)がひとつのビデオを放映した。「移民社会フランスの課題」というテーマで、「貧困と差別の中で」というタイトルである。ベルギーのジャーナリスト、パトリック・ジャンが2003年に制作したものである。

  あたかも打ち合わせたかのように、同日の「朝日新聞」がフランスの裁判制度についてのかなり長文の紹介記事を掲載している。検察官と裁判官は「ナポレオンより強権」との見出しで、ウトロー
事件をとりあげ、予審判事に冤罪批判が強まっていることを紹介している。容疑者が長期拘留され、自殺を招くことが多いと伝えている。現行制度の欠陥が糾弾され、予審判事の権限縮小・廃止論も出ているようだ。

  そして、NHKBS1はさらに「きょうの世界」で「新移民政策とフランスの理念」と題して、「新移民法」案をめぐる背景を紹介した。その中で登場した予審判事ジャン=ルイ・ブリュギエール氏は「テロの脅威に対する上で、移民規制は避けて通れない。シェンゲン協定を守ることはほとんど不可能だ」と述べている。

  ドキュメンタリー「貧困と差別の中で」は、アミアンを舞台に、同市郊外の移民居住地区がほぼ強制的に破壊されてゆく状況を写していた。北部郊外にはイスラム系住民が多く住んでいたが、若者にも仕事がなく、荒廃した状況にあった。職探しは大変。「フランス人になるには、サッカー代表選手にならなければね」という自嘲めいた会話が交わされる。

  制作者とのつながりからか、フランスではなく、貧困層の吹きだまりと形容されたベルギーのトルネイ刑務所の光景が映し出される。受刑者は作業場で安い労働力として使われている。受刑者のひとりは、この社会では移民してきた時に、移民は下層へと定められているという。労働者になるよう教育機会も限られ、小学校を出たら職業訓練校へ行くしかないという。特に、トルコ、クルド、モロッコ、アルジェリアなどからの移民に風当たりは厳しい。

結論のない番組
  フランス第二の都市リヨンでも移民はよそ者とされ、貧困層の住む郊外は地図には掲載されていないという。映し出されたイスラム系の(フランス人の)若者と口論する中年女性は、「フランス人って誰のこと」と聞かれると、「カトリック教徒よ」「いやなら国へ帰ったら」という。若者は「国へ帰れなんて、私はフランス人」と応える。

  刑務所に収監された若者は犯罪者になるには、どこかに引き金があるからだと訴える。「社会は理解しようとしない。なにかがおかしい・・・」

  ビデオは突然、ここで終わってしまう。 最近、こうした番組や記事によく出会う。問題の深刻さはいやでも分かるが、踏み込みが不足している。後は視聴者が考えろというのだろうが、気をつけないと、フラストレーションが高まるばかりである。

  移民問題にしても見方を変えると、社会的に議論がほとんどない日本の方が、はるかに憂慮すべき状況だといえる。長期的視点や構想がまったくないままに、デファクトな外国人の実質的定住化、日本人が忌避して就労しなくなった仕事の代替などの事態が進行しているからだ。国民的議論もなく、ただ問題を先延ばしにしているだけである。ある日突然、大事件が起きて周章狼狽することになるのは目に見えている。

  別のニュースは、ある国際比較調査の結果に基づき、アメリカ、中国、韓国と比べて日本の高校生の成績向上意欲は著しく低いと紹介していた。日本はどこへ行くのだろうか。

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