時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

鎮魂の思いを込めて

2011年12月28日 | 特別トピックス




  フクシマのイメージは、歳末といわれる今日まで、ほとんど常に頭のどこかにあって、消えることがない。手仕事や思考が一段落した折には、かならず浮上してくる。これまでは、「忘却」という便利なステップが大脳の片隅へ追いやってくれたのだが、今回はまったく機能してくれない。例年のように、ブログを訪れてくださる皆様への年末のご挨拶も書けそうにない。

日本という国と日本人のあり方について、これほど考えさせられた年はついぞなかった。ジャーナリズムでは「平成が終わる日」(『文藝春秋』2012年新年特別号)が語られつつあるが、3.11は「平静が終わる日」でもあった。敗戦後、朝鮮戦争、石油危機など、この列島を揺るがす出来事がなかったわけではない。しかし、この小さな国は総じて恵まれていた。戦火を回避し、一定の振動域内に収まった、いわば日だまりのような平静を保ってくることができた。外国が自国の発展を目指すモデルと見た時期もあった。しかし、歴史の逆転の歯車は、20年ほど前から作動していた。3.11はそれを決定づけた。

平静な時代が長くなるほど、社会に制度的桎梏のようなものが蓄積され、さらなる発展を阻害する。第二次大戦後、日本、ドイツ、イタリアという敗戦国が大きな発展をとげたのは、日本の財閥に象徴される戦前の旧制度、軍需産業に代表される旧設備の多くが崩壊し、世界の先進性を体現したものへ生まれ変わったからだという議論が、経済理論の世界で注目を呼んだことがあった。日本は敗戦によって図らずも、国家体制のシステムがほぼ根本から革新された。しかし、半世紀を超える年月が経過すれば、知らず知らずの間に、多くの「旧制度」が生き返り、自らの手では変えがたいほどに積み重なり、深く社会に根を下ろしていた。

「大阪都」、「中京都」がジャーナリズムの話題に上りながら、なぜ「東北都」を創り出そうという発想が政治家たちの間に生まれないのだろうか。東北とその他の地域が断絶し、国民に大きな不安の源を残しながら、この国の再生などありえないことはさらに言を要しない。大地震の可能性がある地域が西へ拡大されたことを考え併せても、東北に発展の重点を移すことは大きなリスク回避にもなる。終戦直後の首都をイメージさせるほどの被災地の光景。これをこの国の復興・創成の場面に変える機会は今しかない。

 今年はことのほか多くの先達、知人、友人たちを失った年でもあった。その中にはこれ以上、この国の崩壊を見たくないと言われてきた方も含まれる。

 
 年末、身辺でひとつの出来事があった。首都の名実ともに中心部で、40年余の歳月、開所当時のままに維持されてきた小さなクリニックが閉じられた。創設者の医師が急逝されたことによる。開設以来、一貫して同じ空間、同じ設備で変わることなく診療を続けると宣言され、信じがたいほどの強い信念の下で、医療の前線で活動されてきた。自ら重大な病を抱えながら、亡くなる数日前まで診療に当たられていた。このブログ管理人も、相談に乗っていただいた。

さまざまな鎮魂の思いを込めて、新しい年を迎えたい。

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輝きを取り戻すために

2011年12月18日 | 特別トピックス

 

ごまめの歯ぎしりであることは承知の上である。しかし、あえて記してきた。雇用創出の仕組み、そのひとつが東北被災地復興の道筋である。あの世界を震撼させた3.11から早くも9ヶ月を越える年月が経過した。9.11のように、敵、味方といった区分を生み出すこともなく、世界に共鳴する大災害だった。
 

被災地復興の実態を子細に見ているわけではない。しかし、断片的であれ見聞した情報から判断する限り、今進んでいる復興への路線は、これまで数々の災害を乗り越えてきた経験をひたすら踏襲・増幅したものだ。数多くの災害からの復興経験の路線から逸脱していない。それは一見着実な路線であるかに思われる。しかし、今回の大震災は天災・人災を併せて、かつての経験域をはるかに超えている。それにもかかわらず、災害慣れ?した国民の多くは、仕方がない、ひたすら堪え忍び、がんばるしかないと思い込んでしまったようだ。「1000年に1回の災害」ならば、復興もこれまでの手法の踏襲ではとても対応できないのではないのか。

ユーロ危機どころではない大災害・危機

 ヨーロッパの友人から届いたばかりのクリスマス・レターには、「多少アイロニカルだが、日本の大震災に比較すればユーロ危機などピーナッツのようなものだ」と記されている。現に、今年の世界ビッグ・ニュースで、第一位の「オサマ・ビン・ラディンの暗殺」に次ぐのが、「(福島第一原発事故を含む)東北大震災」である。日本人の多くは、これまで数々の災害を克服してきた手法で、今回の大震災も克服しうると考えているように見える。気の遠くなるような年月を前提にすれば、それも可能かもしれない。しかし、そこに到達する前にこの国が廃炉化してしまうかもしれない。(こんなことまで、このブログの管理人は、見ることもないし、およそ考える必要もないことなのだが。)

 

被災地が活性化するためには、産業そして固有の地域文化の集積が不可欠である。その結果としてやっと、「派生需要」としての雇用が生まれる。その筋道はひとつではなく、多数の分かれ道がある。そして、国内のみならず国外からも多くの人々が、競って流入してくるような魅力ある地域復興の姿を目指さねば、被災地が負った深い傷は修復・再生できないだろう。さもなければ、貧困、高齢化を伴う、人口流入のない活気を失った過疎地域へ急速に変化して行くことはほとんど見えている。
 

何世代か後になるかもしれないが、被災地を中核として、東北が世界に輝く地域になるようなヴィジョンと政策は持てないのだろうか。地域の産業が再生、復活し、多くの雇用機会が生まれないかぎり、活性化の基盤は確保されない。ただ以前の雇用機会を取り戻すことを目標にするのではなく、時代の流れに沿う新たな雇用機会を創出しなければ、被災地の活性化は果たせない。少なくなって行く雇用機会を、正規と非正規労働者で分け合うという構図では、とても存続できないだろう。

 

被災後、地域外へ流出した人々を引き戻すばかりではない。世界から高度な技術、能力を備えた人材が流入してくるような魅力ある産業、研究などの拠点を積極的に構築しなければならない。今回の経験を生かし、世界に貢献する最高水準の防災研究センターなど、アイディアは沢山あるはずだ。被災後、政府は復興構想委員会などで比較的短期間に構想作りを行ったが、今の復興路線にそうした提案が取り入れられているという印象は薄い。ヴィジョンなき復興という印象が強まってくる。


インターネットが作り出した壁 

指摘したい点はいくつも思い浮かぶのだが、非力なブログではとても対応できない。ただひとつここに記すのは、被災地とそれ以外の地域、とりわけ中央政府との距離を短縮しなければならないと思う。復興庁の設置場所をとっても長い時間がかかり、結局「遠隔コントロール」になってしまった。

 

インターネットの発達は距離の壁を取り払った。しかし、壁が無くなったと思い込む「新たな壁」もつくり出したことは気づかれていない。ケータイの生み出した利便性はきわめて大きいが、失ったものも大きい。電車に乗り込んだとたんにケータイを取り出し、あたりかまわず食い入るように見入る人々の光景には、ある違和感をずっと感じてきた。なにかが確実に失われた。

 

復興には被災地の人々の考えが重視され、反映することがなによりも大切なことは改めていうまでもない。しかし、被災地は疲労の色濃く、本来期待すべき「内生的」再生の発芽力が著しく弱まっている。東北が先端地域に生まれ変わるためには、日本人の英知、そして世界のアイディアや支援も積極的に取り入れることが必要だろう。新年の到来を機に、事態が少しでも良い方向に変わることを祈りたい。









東北被災地に真の光が射す日を祈って


Warm wishes this season and throughout the coming year





 

 

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